# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 常世で自分の心臓に会った話 | 三浦 | 221 |
2 | カワイコちゃんはトイレに行かない | Shou | 1000 |
3 | 何分? | 葵 | 513 |
4 | うさぎ | イツカ | 720 |
5 | 最期の景色 | 戸田一樹 | 993 |
6 | うまく笑うことができなかった | 逢澤透明 | 1000 |
7 | ベランダ | 長月夕子 | 980 |
8 | ドール・ハンター | 黒木りえ | 1000 |
9 | マニュアルどおりではない、ちょっといい接客 | 桑袋弾次 | 861 |
10 | 虫けらの弔い | 向坂隆也 | 983 |
11 | コードレス | 野郎海松 | 992 |
12 | 部屋の夢 | 西直 | 1000 |
13 | 小説の書き方を目指して | 朝野十字 | 1000 |
14 | 人妻コンサルタント | 江口庸 | 779 |
15 | If A,than B. | 清水ひかり | 980 |
16 | 清貧 | 戦場ガ原蛇足ノ助 | 976 |
17 | 薄暗いバーにスカイブルー | 神差計一郎 | 1000 |
18 | 海から | 川野直己 | 963 |
19 | ゾンビハウス | 宇加谷 研一郎 | 986 |
20 | 肉の果実 | 森栖流鐘 | 979 |
21 | カンナの咲く道 | 真央りりこ | 1000 |
22 | お金の話 | 海坂他人 | 999 |
23 | 神崎さんと僕とマナミ | 朽木花織 | 1000 |
24 | (削除されました) | - | 1000 |
25 | 月の階段 | 川島ケイ | 1000 |
26 | 商店街にて | Nishino Tatami | 933 |
27 | ひまわり | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
28 | 落日の機械 | 曠野反次郎 | 955 |
手を振ったらお星様が答えて、安心したやらとうとう着いてしまったという想いやらで涙ばかりしていた。境には自分の心臓が見送りに来ていて、どうやら一緒には行かないらしい。初めて面と向かって話すのに、愚痴ばかり聞かされた。何もかももうお別れなのに見送りはそれだけで、絶対に会いたい誰かがいたような気がするけれど、妙に急かされて先を急いでしまった。
幾人かの顔が並んでいた。手術は成功ですと聞こえて、私は胸の辺りを擦りながら、兄の心臓の鼓動を聞いた。
カワイコちゃんはトイレに行かないとか。彼女はろくに食べもしない。
セロリとビールで生きていて皮膚から水分を蒸発させるだけ。
カードが回ってくる。2、4、6、8、10。イーブンナンバーズ。ポーカーでのスコアはゼロ。
疲労のジャブ。ラウンドスリー。フェザー級チャンピオンシップ。
当たる。痛い。命中。ヒット。疲労にぶたれている。相手のグラブは鉄板仕込み。俺のグラブはテデイベア。
通称、熊さん。柔らかさと“かわいらしさ”が売り。
カードを流す。2、4、6。流れていく。
新しいカード。見る気がしない。大して状況は良くならないから。
むかしむかし、ある所に負け犬がいたそうだ。今もいるそうだ。
カワイコちゃんが喋っている。
「あたしのこと好き?」
俺は言う。
「これは詩なんかじゃない。」
「え?」
「俺は詩なんかじゃない。」
「は?」
次に言わなければならない。ベイビー、訳の分からないカタカナ言葉で聞いてくれよ。
夕日に向かって駆けるのが負け犬の運命さ。
実際に言ってみる。すると笑い声。
「かっこ悪いとは一口に言いきれないわね。」
カワイコちゃんは声をたてて笑う。
新しいカードが回ってくる。彼女に見せる。
「いいじゃない。」
「え?」
「は?」
笑い声。
カードを見てみる。ツーペア。悪くない。
ラウンドフォー。そんなものはない。グラブを外して殴りかかる。叫び声。強姦で15年。いやいや、それはまずい。
負け犬は野獣ではない。美女と負け犬。野獣の方が良かったか。男は狼、いやだから俺は犬だったか。
テンとジャックのペア。テンが天使でジャックがジャック。どっちに向くかはあっち向いてホイ。
ホホイのホイホで彼女が笑う。何の冗談を言ったのだろう。
カワイコちゃんのポーカーフェイス。笑いを堪えている顔。子供を見つめるように笑みが洩れる。
「勝負だ、カワイコちゃん!」
「来い。イケ助くん。」
人生最大の茶番、いや賭け。カードをテーブルに広げる。
カワイコちゃんはじっとこちらのカードを見つめている。
「あたしの勝ちよ。」
と言いながら手札を見せてくれない。
「見せて。」
「いや。」
「見せなきゃ俺の勝ちだぞ。」
「あたしの勝ちよ。」
「じゃ、見せろ。」
「いや。」
沈黙が流れる。と、いきなり彼女は自分のカードとテーブルのデッキをこっちに投げつけた。
もう、めちゃめちゃだ。飛ぶカード、数々の可能性が散っていく。
「フルハウスだったの」
カワイコちゃんはセロリをかじりながら、ビールを飲み乾す。
異常なまでに、あたしは怯えていた。
学校までの道のりに。
あたしの通っている学校から家まで約15分程度ある。
その道には目印が何個かある。
簡単に言うと、小学校が在り、コンビニが在った。
大きな『モノ』は其れ位だろう。
しかし、その道のりはとても長く感じられた。
ずっとずっと一本道で、一生続くのではないかと、
錯覚するくらいに。その道はあの道に似すぎていた。
実際、あのみちを歩いているわけなのだが、
人には2つのみちが与えられる。
一つは実質あたし達ひとが歩いている道。
この場合で言うならば学校への道だ。
そして2つはあたし達が知らずに歩いている道。
ひとはこれを『人生』と呼ぶ。
ねぇ、神様なんて信じたことはないけれど、神様
聞いてください。あたしが恐怖に感じる事はね
この二つの道が繋がってしまう気がしてならないのです。
決して交わってはならない二つの道が。
あの奇妙な共通点だらけの道を通るときだけは。
共通点とはあの2つの『モノ』も当然の如く含まれる。
もう少しであたしは小学校に着いてしまう。
次にコンビニに着き、最後にはあたしの学校に着くのです。
学校に着いたとき、あたしは恐らくここには居ない。
この中で今は何分経ったのだろう。
今何時ですか?何分経った?
彼女の死因は「淋しさ」だった―
あたしは彼女の亡骸を前にしてそっと彼女の顔を思い出してみた。
どうしてだか、うまく思い出せないことをあたしは、しごく当たり前のように受けとっていて。
そのくせ、何だか妙にあの細い声だけはリアルに思い出せた。
忘れたことなんてないのだから思い出したわけじゃないけれど。
あなたはよくいっていたね。
自分は、うさぎ なんだと。
あなたはよく、あのあかいハイビスカスティをのみながら自分の眼にそっくりだと笑っていたね。
からからん って、氷の音があなたの細い声にきれいに響いていたね。
グラスを伝った滴がテーブルに水溜りをつくっていて、あなたはそれを指でなぞってはあたしに
さみしいよ って云って いたね。
ひどくひどく短かい手紙だけがあたしに遺された唯一の彼女。
淡い色の便箋に、細い赤いペンで書かれた言葉はとてもわかりやすかった。そして彼女らしかった。
あたしは彼女を理解することは決してなかったけれど、愛しさにさえ似た感情を知ってる。
…たぶん、淋しかったのはあたしの方だ。
あたしが、彼女の傍にいたかったんだ。
うまく思い出せないけれど、彼女の顔は、年よりもほんのすこうしだけ
幼く見えて
笑顔が切ないほどいたいほど
はかなくって淡くって
頬に小さな小さな、ほくろがあって。
やらかいくちびるは桜色
そこから紡ぎだされる言葉はいつも 淋しさだったっけ?
あたしはただその細い声に癒されてただけ。
あなたはどこに癒しを求めたんだろう。
たとえばあんな無機質な医者が事務的に、どんな診断を下したって、まぎれもなくあなたの死因は 淋しさ だったんだ
だって手紙には
「淋しい」
って。
それだけしかない。
かのじょはうさぎだった
かのじょのしいんはさみしさだった
川沿いのT字路で交通事故があったらしい。軽トラックが少年を出会い頭に跳ね飛ばしたそうであるが詳細は分からない。救急車のサイレンやスピーカーから聞こえるけたたましいがなり声からするとただ事ではないのは誰の目にも明らかだった。
野次馬根性を向き出しにして現地まで自転車を飛ばしてきたはいいものの、僕のちっぽけな背丈では周囲の状況が見えないどころか、争うように前に乗り出す大人達の圧力で押しつぶされてしまいそうだったので、僕は泣く泣く人垣を抜け、家に引き返すことにした。
でも転んでもただでは起きないのが僕のいいところ。自転車のキーを差そうとしゃがんだとき、足元にサイコロがぽつんと落ちているのを見つけた。6の目をこちらに向け、物欲しげな様子で砂利の中に蹲っている。確かにこのご時世、サイコロ一つで運気が上昇したり劇的な出会いが訪れるなんてことはないけれど、妙にうれしくなった僕は落ちていたサイコロを上着の右ポケットに入れ、事故のことなどすっかり忘れ、エーデルワイスを口笛で吹きながら家路に着いた。
家は留守だった。いつものことだ。父も母ももう死んでどこにもいない。
階段を上がり、自室に戻った僕は試しに床にサイコロを投げつけてみた。6の目が出た。今度は机の上に投げてみた。6の目が出た。階段の踊り場から階下に向かって投げ落としてみた。降りてみるとやはり6の目が出ていた。
台所で頭を抱えていると兄が帰ってきたので、サイコロを渡して試しに振ってみてくれと頼んだ。テーブルの上で4の目をこちらに向けた。もう一度お願いして振ってもらうと、次は床の上で2の目が出た。さらにもう一度お願いすると、あきれた様子で兄は階段を上っていってしまった。
一人になった僕は、台所のテーブルと床でサイコロを転がしてみた。いずれも6の目が出た。試しに風呂場とトイレでも行ったが結果は同じだった。僕はだんだん頭がおかしくなってきたような気がして、サイコロを手にしたまま家を飛び出した。
無我夢中で走った。何かに取り付かれているような恐怖を感じ、それを振り払おうと全速力で走ったが、恐怖はますます募った。
ふと思いついた僕は汗ばんだ手で握り締めていたサイコロを力いっぱい投げた。サイコロは燃えるように赤い日に反射して、眩い光の礫をきらきらと夕空に撒き散らした。
美しかった。
それが僕がこの世界で見た最期の景色だった。
壊れた携帯電話が鳴る。オレンジ色が点滅している。俺はそれを受ける。
「はい?」
「ねえ、忘れてるでしょ」
「は? 何を」
「何をって……あんた、ばかじゃないの? 早くしなよ、いま(ザザザー)」
雑音が混じり携帯電話はそこで切れる。かけ直そうとするが、電話は何をしてもまったく反応しない。そりゃそうだ。壊れてるんだから。液晶も割れていて、何も映らない。
俺は街の繁華街を歩いている。いつか通ったことがあるような気もするが、ここがどこだか思い出せない。
足がふらつく。うまく力が入らない。バランスもちゃんととれない。頭もぼんやりする。少し休もう。
「なにやってんの」
しゃがんでいる俺に、小さなガキが声をかけた。
「は? おまえにカンケーねーだろ」
「ばかじゃないの。電話して、しかも切れたから、ここまで来てあげたのに。早くしないと、彼女行っちゃうよ。いいの?」
「彼女? 誰だよ」
「ほら、あそこにいるでしょ。噴水ンとこ」
あ、あれは祥子だ。
「早くいきなよ。そのために来たんでしょ」
そうだ。そうだった。
俺は立ち上がり、最後の力で歩いて、噴水のそばにたっている女の子に声をかけた。
「祥子、ごめん」
「どうしたの! 血が出てるよ。ねえ、大丈夫なの」
そう。そうだった。
「ああ、さっき、そこで車とぶつかっちまって」
「そのまま来たの? 大丈夫なの?」
ああ、そうだ。思い出してきた。
「ごめんよ。映画、行けなくなっちまった。楽しみにしてたのにな」
「そんなのいいから、顔が真っ青。早く病院にいかなきゃ」
そうだ。
「ごめんよ。こんなんでお別れなんて。すまん。じゃあな。ほんとすまない。じゃあな、さよなら……」
忘れてた。
俺は死んでいた。
俺は倒れてゆく死体から離れ、徐々に上昇しはじめた。
遠ざかる地面では、祥子が倒れた亡骸を揺すっている。
ふと見ると隣に、さっきのガキがいた。俺と一緒に空中を昇っていた。
「俺、どこいくんだ? 天国? 地獄?」
「上に行くから天国じゃないの。よく知らない」
「なんで知らないんだ」
「下っ端だから」
「なんの下っ端なんだよ、おまえ、天使か? それとも悪魔?」
「さあ、そんなこと考えたこともないわ」
「まあいいや。死んでも一人じゃなかっただけましか」
「……ねえ、泣いてもいいのよ」
ガキは言った。母親の口調で。
「ははは、ばかにするな」
俺は笑い返そうとしたが、初めての空中で、うまく笑うことができなかった。
昼休みの教室の騒々しさを逃れ、私はベランダにいた。3月の風は思ったよりも冷たいが、それでも陽射しに春の気配を感じた。ベランダには、少し離れた所に木村康則がいて、ベランダの柵に寄りかかり、窓の閉ざされた教室の方を見ていた。そんなことは私にとってどうでもよいことで、それよりも手にした推理小説の展開に、目下心を奪われていた。
「何でこんな狭いところにこんな人数がいるんだろうな。」
木村康則がこちらに聞こえるような声でそう呟いたが、別に気にも留めず、私は本から目を離さなかった。今回は愛すべきヘイスティングスが登場しないため、物語は真剣味3割り増しなのだ。
突然木村康則がさっとベランダの柵を乗り越えた。私はびっくりして、思わず顔を上げた。木村康則は両手で柵をつかみ、数センチのベランダの淵につま先だけを引っ掛け、ちょうど柵を挟んで私と向き合うように立った。
「、、ちょっと、何してんのよ」
すっと木村は視線を私に移した。
午後の柔らかい光が木村をなぞり、先生が注意しても改めない、茶色い髪の毛先がきらきら光る。ベランダの外の景色を背景にしている様は、合成写真のようだった。
「馬鹿なことやめなさいよ、4階だよ、ここ」
「馬鹿なこと?そんな狭いところに閉じ込められてんのと、こっちの自由とどっちが馬鹿なこと?」
何を言ってるのかと、言い返す言葉を捜しているうちに、木村は足をベランダからはずした。がくんと体重が両手にかかる。柵をつかむその指の色が、だんだん白っぽくなっていき、ずずっずずっと柵を滑っていく。
「ちょっと!!危ないよ!!」
私は木村に駆け寄る。本が手から落ち、ばさりと音を立てた。その体はもう半分以上ベランダの下にぶら下がっている。
ベランダにしゃがみこみ手を差し伸べ、指に触れた瞬間、木村はぱっと手を離した。見つめていた色素の薄い瞳が目の前からふっと消えた。
私は飛び上がるように立ち上がって、ベランダから身を乗り出し、消えていった先を見た。
木村康則は3階のベランダから、眩しそうににこちらを見上げていた。私を確認すると、にやりと笑って、そのまま2年生の教室に入っていった。
私はすっかり腰が抜けたように、ベランダの柵に身を預けながら座り込んだ。教室の喧騒よりもうるさく、いつまでも激しく打ち続ける心臓を、ブラウスの上から強く掴む。
こちらの言値を即金で払った女がいきなり人形にキスしたのを見て、骨董屋の主人は眉をひそめた。それが性人形であることは仕入れのときに確認してあったからだ。たしかにかわいらしい顔で、目を閉じて首をいくぶんそらせた立ち姿はキスを待っているように見えなくもないが、滅菌空気幕で覆ってあるとはいえ、店ざらしになっていた人形に口でふれる神経もわからない。
十四、五の少女の姿をした人形は、女のくちづけにぴくりとまつげをふるわせて、そうしてゆっくりと目を開けた。淡い茶色の、人形を抱いている女とよく似た色の目をじっとのぞきこみながら、女が人形の腰をなでまわす。小柄な女は、それでも人形よりは頭半分ほど背が高く、人形がわずかに背をそらせると、そのちいさなからだは女のからだにぴたりと沿った。
女の舌が人形の口の中にもぐりこみ、足が人形の足を割り、腰をすりつける。人形が鼻にかかった声をあげるに至って、さすがに店主は、もしかしたらこの女は店頭でセックスショーをおっぱじめる気かとあわてて声をかけた。
「お客さん」
ちゅ、と馬鹿にしたような音をたてて口をはなすと、女は人形の耳の下をするりとなめてから店主をみた。
「これはここで造ったのか」
「え」
「型はここにあるのかと聞いている」
人形の髪をあやしながら言われたことばに店主は一瞬ひるんだ。型をほしがるほどのマニアが来るとは思っていなかったからだ。
「いいえ、うちは完成品を仕入れただけで、型まではありません」
そうか、と女はつぶやくと、人形の背に添えていた腕をはずした。
そしてなにごとか囁きかけて人形を座らせると、左手を肩に、右手を顎にかけてぐいと捻った。ぎぎぎ、ときしみをあげるのにかまわず女は力をこめ、やがて人形の首がぐきりと音をたててからだから外れた。
「型を捜しているんだ。心当たりがあったら連絡をくれ」
あっけにとられている店主に、投げるように名刺をよこすと、女は人形の首を片手に下げて店を出ようとした。
「お客さん」
「首だけでいいんだ、データ集積部だけで。ボディはそっちで処分してくれ」
「いや、あの――」
「私の恋人なんだよ、この子の型は。肖像権ってものがあるんでね。とっとと見つけて処分したいんだ。これ以上人形が造られるまえにね」
人気があるらしくて、型のコピー品も出回っているあたり、たちが悪いのさ、と女は肩をすくめ、そうして店を出ていった。
「大きいのしかないんだけど」
男は缶チューハイと一万円札をレジに置いた。
「へいきですよ」
レジの女は微笑んで、九千円と小銭を男に渡した。
男は与えられたテーマにしたがって、コンビニエンスストアの調査を進めていた。
次の夜も、同じ店を訪れた。同じ女がレジにいた。
「わるいね、また大きいのしかなくて」
「へいきですよ」
女は笑顔で一万円札を受け取り、つり銭を男に返した。
男は家に帰り、チューハイを飲んだ。布団に入ると雨が降りだした。
「へいきですよ」は、マニュアルどおりなのだろうか。男は女の笑顔を思い浮かべた。布団の中で女の笑顔を思い浮かべるなんて、ずいぶん久しぶりだった。雨粒が、ときおり激しく窓を叩いた。
次の夜、男はレジの女を横目で見ながらコピー機の前に立った。真新しいカラーコピー機だった。男はレインコートの前をひろげ、コピーをとった。
「こんなに大きいのしかないんだけど」
男は女にコピーを渡した。女は制服のポケットから巻尺を取り出し、サイズをはかった。
「もっと大きいのでもへいきですよ」
女はいつもどおりの笑顔でこたえた。
男は家に帰り、調査表を仕上げた。布団に入り、女の笑顔を思い浮かべると、胸が痛んだ。夜明け前に、ようやく雨が上がった。
次の夜も、自然と足はその店に向いた。女はレジにいなかった。
缶チューハイをレジに置き、男は声をかけた。奥の倉庫に、人の気配がした。
「失礼しました」
女が出てきてレジを操作した。男は147円を手渡し、思いきって告白した。
「じつは昨日のあれ、拡大コピーだったんだ」
「少々お待ちください」
女は軽く頭を下げると奥の倉庫に向かって言った。
「おとうさん、昨日のあれ、拡大コピーだったんだって」
すると奥から老人が出てきて男にたずねた。
「倍率は何パーセントだったんですか」
「150パーセント」
男がこたえると、老人は奥へ向かって声を張り上げた。
「ばあさん、昨日のあれ、倍率150パーセントの拡大コピーだったんだってさ」
すると奥から老婆が出てきて、なあんだ、とつまらなさそうに言った。
まるで舞を舞っているような感覚だった。
どれも一瞬のはずなのに、驚くほど鈍い動き。相手の振り上げた拳も、蹴り上げてくる踵も、俺には全て見えた。卑怯な喧嘩は好きじゃない。だけど、それは、相手にもよる。礼も儀も知らない。そんな奴らに尽くす道義などない。性根の腐った虫けらが、三人がかりで向かって来ようと、俺にとっては赤子の手を捻るも同然だった。
俺は容赦なく、相手を叩きのめした。手加減もせず、いっそ死んでもかまわないと思った。
初めて、あいつと会ったのは、校庭の芝生の上だった。人目を忍び、木陰で隠れるように昼寝をしていた俺を見て、あいつは微笑みながら言った。
「気持ち良さそうだね」
そう、あの時は、空がどこまでも高く蒼く、そして、とても心地の良い風が吹いていたんだ。俺は、その声で瞼を開けて、あいつを見た。
「僕も、隣に座っていい?」
俺は身体を起こして、何も言わずに、傍らへ目線を移し、座れと合図した。
それから毎日、あいつは、俺のいる場所へ通ってきた。
「友達、いねぇのかよ」
そんな俺の質問も、あいつは聞こえないフリをしていた。二人して、芝生に寝転がって、蒼い空を見上げていた。飽きもせず、俺たちはそこにいた。来る日も来る日も。たいした会話などなかった。ただ、同じ時間を共有する仲間がそこにいた。それだけで良かった。
あいつの「死」を知ったのは、それからまもなくだった。あいつがずっと誰かに怯えて、つかの間の休息を得るために、俺の元へ来ていたのだと、そのとき初めて知った。計画倒れになった建設途中のビルの足場から飛び降りたあいつの死骸は、三日間放置された挙げ句、カラスについばまれて、見るも無惨な姿だったという。
(なんで言わなかったんだよ、ばかやろー)
あいつの残した遺書めいた走り書きには、延々と俺への礼と謝罪の言葉が綴られていた。俺は、震える拳を握りしめ、唇を固く結んだ。
目の前で、ピクリとも動かなくなった虫けらたちを見て、俺は道端に唾を吐いた。
あの陽溜まりの中、温かくて、くすぐったくて、目を合わせたら、思わず笑ってしまいたくなるような、ささやかな時間は、もうどこにもない。
今の俺にできるのは、俺のやり方で、あいつを弔うこと。そして、自分も含めた世の中の虫けらたちに教えてやることだ。
自分の無力さを知ることが、いかに屈辱的なことか、と―――――。
タクミはコードレスと呼ばれていた。高校時代の同級生と名乗る男によれば、タクミは手のつけられない不良生徒で、誰にも従わなかったからコードレスになったらしい。また幼ななじみと名乗る男によれば、頭がプッツンしていて、誰にも理解できない行動を取るからコードレスになったらしい。さらに同じバイト仲間たちによれば、携帯電話も固定電話も持たず、連絡のつけようがないのでコードレスになったらしい。
真相は誰も知らない。タクミは無口だったし、誰も本人に確かめようとはしなかったからだ。
コードレス・タクミは、今日も私の店のデリバリー・バイクでピザを運んでいる。
あるときたまたま休憩時間が重なって、私は彼に尋ねてみた。
「なあ、訊いていいか?」
パイプ椅子に腰をずらして座っていたタクミは、額にかかった長髪の奥から、鋭い目つきで私を見上げた。とても二二歳とは思えない迫力で、床に投げ出した脚も無闇に長い。私は外堀から埋めていくことにした。
「……休みの日とか、何してんの?」
タクミは答えなかった。ただ何かを考えるように、控え室の天井の隅をしばらくじっと睨み続けていた。沈黙に耐え切れず、私は調理場に戻ろうとした。そのときだ。タクミは、ふっと思い出したように言った。ぶっきらぼうな声で。
「子供たちと遊んでます」
「子供たちと遊んでる?」
私は訊き返した。タクミが、休みの日に子供たちと遊んでる、だって?
「自分、親いないんで……。施設上がりなんで」
「そうなのか」
私は絶句した。同情したからではない。こいつはどうやら筋金入りのワルだぞ、という先入観に捉われたからである。親もいない、友達もいない、周りの誰とも親しまない。もちろん店長である私にも、愛想ひとつ振りまいたことなどない。やはりね、と私は大いに納得する思いだった。
「いい子たちです。ただ親がいねえってだけです。でも、分かりますか?」
何が。
「生まれながらに誰ともつながっていないってことが、どんなだか?」
私は心配性の母親の顔と、無骨な父の顔とを思い出した。もう何年も会っていないが、彼らの顔は鮮明に思い出せた。私はまた絶句した。コードレスの本当の意味を悟って。タクミは再び長髪を垂らして顔を隠し、かすかに頭を振った。
私はそんなタクミを、ただ見下ろすことしかできなかった。
コードレス・タクミは、今日も私の店のデリバリー・バイクでピザを運んでいる。
灰色の壁。青みを帯びた蛍光灯。白い冷蔵庫。薄汚れたパイプベッド。冷たいリノリウムの床に型の古いラジカセが置いてあり、ラジオは壊れているけれどCDなら聴くことができる。クラシックとビートルズが数枚、その周りに散らばっている。
高い位置の壁にシンプルで面白みのない時計が張り付いていて、コチコチと地味で耳障りな音を響かせている。僕は安っぽいベッドの上でだらりとしながら、クラシックかビートルズかを迷っていた。
鍵の掛かったドアの横で、女が壁を背にして座っている。数時間前、灰色の作業着を着た男がこの部屋に彼女を捨てていった。男はいつものその場所に彼女を置くと、すぐに出ていき、鍵を閉めた。僕と彼が言葉を交わすことはない。
時計の音を聴き続けることに飽きてきた頃、僕はベッドから降りて彼女に近寄っていった。彼女は壁にもたれたままで身動きをしない。虚ろなその目は瞬きをしない。小さく開いた口が呼吸をすることもない。青白い顔の下、細い首に赤い痕がついていた。
ふいに冷蔵庫が、ヴンッと思い出したかのように自己主張をする。冷蔵庫の上ではナイフと包丁が重なり合っていて、どちらも柄の部分が本来のものとは違う色に染まっている。
彼女の髪を撫でる。頬に触れる。顔を近づけ匂いを嗅ぐ。髪は滑らかで、頬は柔らかく、コロンだろうか、柑橘系のいい匂いがした。まだ腐敗臭はしていない。果物は腐りかけがうまいのだと、昔読んだ何かの雑誌にそう書いてあったのを思い出した。
冷蔵庫の中がもう空なのはわかっていたけれど、何とはなしにやる気を殺がれ、僕はまたベッドの上に戻った。仰向けに横たわり、天井を眺める。青白い蛍光灯の色に、そっと目を細めた。夢を見る。
壁を背に座っていた彼女がゆっくりと立ち上がり、静かに冷蔵庫のほうへと歩いていく。そこにあった二本の刃物を手にし、僕がいるベッドに近付いてくる。穏やかな表情の彼女。ベッドの前で立ち止まる。僕を見下ろし、柔らかな笑みを浮かべる。僕はしばらく彼女を見つめ返していたけれど、じきに飽きて、また天井を眺める。蛍光灯の光が網膜に焼き付く。目を瞑る。瞼の裏を、色が踊る。
彼女が僕の身体にナイフを突き立てる。手馴れた様子でナイフを操る。血がこぼれ、肌を濡らす。腕を、足を、首を、胸を、はらわたを。切り刻んでばらばらにして、それから彼女は僕の肉片を冷蔵庫の中に詰め込んでいく。そんな夢を見る。
総武線の窓には夜のビルが流れていく。私は帰宅途中、込み合った列車内に独り立っている。すぐに騒音が気にならなくなり、知る人のいない世界で、幻灯機に映る眩い光のように、いつの日か私は面白い小説を書く。心はさきほどまでの仕事を離れ、今夜の予定も気にかけず、現在の自分自身とも関係なく、どうやって、どうにかして、と私は熱心に夢想する。
私の小説のどこがいけないのだろう。創作直後は満足ばかりなのにしばらく時間をおくと不備ばかり目に付くようになるのはなぜだろう。
小説のアイデアが全然思い付かなくて小説を書くことを忘れて日常に戻ってある日不意にまたひとつ歳を取ったことに気付いて愕然として激しい焦燥に襲われてどうしても小説が書きたくてそれでも何を書いていいかわからなくて七転八倒して他人の小説を読んで、こんな糞な奴がプロか、何とか新人賞かと絶叫して自分を励ましてウェブ上のシロウト作品を斜め読みして案の定つまらなくて、一安心してあなたの小説を拝読しました、非常につまらなかったです、とメールを出して、それでも自分が書けるようになるわけでなく、友人に電話して一緒に飲んで罵り合って、何度目かの絶交をして、縁遠い親戚に両親の悪口を手紙に書いて出して、両親にはあなたがたは親戚一同から嫌われてますねと電話して、それでも書けない、書けない、書けない!
そんな苦しかった時期がまるでいじめられっ子だった少年時代の思い出のように遠ざかり、最高級のワインにも為し得ない高揚した気持ちの中で、書ける時は書ける、書ける。それは滅多にないけれどもそうであるだけにまるで多額の借金をして望み薄のダイアモンド鉱に1年くらい潜り込んで、暗闇の中で突然大型の原石を見付けた時のような歓喜が全身を貫く。
今までおれを馬鹿にし続けてきた全人類への復讐が今度こそ実現するのだ!
書き上げたところを読み返し、的確な描写、真実の会話、波打つ美女の黒髪のような文体に酔いしれる。天才! おれは天才だ!
しかし翌日読み返すとなんだかちょっと変だ。いくつかの語句を直してみる。会話や描写を推敲する。でも良くなった感じはしない。どこが悪いのか分からない。さらに二週間後読み返す。言いたいことは分かる気もするがなんとなくつまらない感じもする。また少し直してみる。一ヶ月後。はっきりつまらない。どこを直すとかのレベルじゃない。全体が屑である。
なんでかなあ。
人事マンの宮崎は、会社の合理化政策を推し進めるため同僚や先輩をリストラし続けた。社内では鉄面皮の宮崎と揶揄される。家庭でもそれは変わらなかった。宮崎は五年前、妻の淑子が逐電してやもめ暮らし。リストラが一旦終了すると今度は宮崎がリストラされた。何もする気が起きず部屋に引きこもる。貯金も底をつきかけたとき目に入った「人事コンサルタント募集」のちらしに飛びつく。疲れていたからなのか、そこは「人妻コンサルタント研究所」とある。所長の瀧沢は履歴書を読み、過去の結婚生活を宮崎から聞くとすぐに採用した。浮気調査、欲求不満解消、浮気アリバイ工作など人妻に関するあらゆることが仕事だった。数ヶ月して慣れてくると、会社設立の理由を瀧沢に聞いた。すると瀧沢はこの仕事しながら逃げられた奥さんを捜していると笑った。今回の依頼は山田という四十過ぎの男からの、帰宅の遅い妻が心配だから調査してほしい、というもの。尾行をするうちにその人妻の浮気の可能性が高いことが分かった。決定的証拠を掴もうと、十一月の酉の市詣でに向かうふたりを尾行することになった。境内の露店の陰にかくれている宮崎はあっと息を飲んだ。出て行った淑子が男と歩いていたのだ。しかも小さな男の子がふたりの間で手を繋いで歩いている。出て行ってから五年。子供は切れ長の目許が淑子にそっくりだった。笑顔の淑子を宮崎はファインダー越しに覗いていた。涙が知らぬ間に溢れていた。ふと気付くと人妻は男とはぐれ、きょろきょろと回りを見まわしていた。宮崎は背後から人妻に声をかけた。宮崎はもう終わりにした方がいいとカメラを示した。突然の出来事におろおろする人妻を尻目に宮崎はタクシーに女を乗せ山田の住所を告げて発車させた。結局、浮気の事実はないという報告書を上げて翌日会社を辞めた。そして、今幸せにしている淑子のことも諦めることにした。
彼らは人間としての個を主張していない。あまりに大衆でありすぎるのだ。もともと大衆と言う存在はありえない。けれども、彼らはその中に大きく埋もれてしまっている。そんな人間に生きる価値はあるのだろうか?
イライラするなあ。なんだってんだ、まったく! パイプ椅子が激しく揺れて音をたてる。右足がガクガクと震えていた。いわゆる貧乏ゆすり。どうにもならず、止まらない。苛立ちは加速されていく。
個でない生命体に生きる価値は決してない。なぜなら、現状、無個性物質に代替物はおおいに存在し、余り溢れかえっているほどなのだから。量的な広がりを持ち、世界を占拠しているのだから。無価値なものが空間を占める――これほどに意義なきことも他にない。
痒い。頭が熱く、自分のものじゃないみたいに疼く。両手で、上下左右四方八方にかきむしった。痛くても手は止まらない。更に熱を帯び、かゆみは増しゆく。
死んでしまえ! てめえらは潜在的に記号的で、存在意義すらありはしないんだ。滅びろ、消すぞ、このゴミクズどもがッ!! 同じ顔して同じものを買って、同じ風に喜んで同じ風に泣いて、全く個がなく価値がない。てめえらが何人いなくなったって社会は機能するんだよ。そのぐらい理解して死ね。
口の中、いっぱいに鉄の味が広まる。左親指の爪を噛んでいた歯は、爪を食いちぎり皮膚さえも切り裂いていた。血は細く流れ、左手全体を大きく染める勢いだ。やりたくないのに止められない。自己の深層が無意識に働くのだ。
髪の毛を茶色に染めて、それで個性かよ。てめえらはただ社会的レッテルを自らはっただけだろう。自分から、自分を無個性に貶めたんだよ。頭を使え、頭を。何も考えてないからそうなるんだよ! こんだけ言ってるんだ。いい加減考えろよ。使えねえ頭でも少しは役に立つかもしれないだろうがよ。考えればわかるだろうがぁッ!
「あいつ……、頭掻き毟って、貧乏ゆすりして、爪噛み千切って……、何やってるの?」
「無個性についてブチぎれているようだ」
図ったような一瞬の間を空けて。
白衣の男は二人して同時に、乾いた笑い声をあげた。おおきなガラスのむこうでは、太った男が一人、壁に向かってしきりにわめき散らしている。白衣の一人が戯れに、隔てるガラスを叩いた。太った男はぴくんと跳ね上がり大きく屁を放つ。
その動作はきわめて自動的だった。
機械は高くて手が出ないので、代わりに人間を買うことにした。人間は人型にできているので、家の中で使うのに適しているのだ。
あいにくの雨のせいか、人屋には客一人いなかった。売り物の人間達は皆一様に暇そうで、私が入ってきたのもまるで気にかけていない様子だった。
「何かお探しで」
売り物かと思っていた男に声をかけられ一瞬面食らった。発言からして、おそらく店主なのだろう。そこは人屋、店主も買えるものなのかもしれないが、私には必要の無い代物だったので、そのまま現職であるところの人屋の主人に徹してもらうことにした。
「家事を任せたいんだが、機械は高嶺の花でね」
「確かに高値でございますね。家事でしたら、あちらなんかいかがです」
彼の指し示した先では、若い娘が編み物をしていた。私たちの視線に気付くと急に背筋を伸ばして手を速めたが、すぐに訳が分からなくなってしまったらしく、編み棒を見詰めて小首を傾げた。
「大丈夫かね」
驚きを隠さず主人に尋ねると、彼は首を捻って溜め息をついた。
「あれは私の娘ですが、買い手の無いままもうすぐ二十歳です。どうでしょう旦那、お安くしときますから」
そう言って主人の示した金額は本当に安かったので、私はその話に乗ってみることにした。人間を買うのは初めてのことでもあったし、なに、使い勝手が悪かったら捨ててしまえば済むことだと、それほど深く考えもせず、緊張した面持ちの娘を持って帰ることにした。
「歩いて三十分ほどかかるが、いいかい」
「あっ、はい」
「君、名前は」
「今までは美津でしたが、何に致しましょう」
「そうだな、少し考えるか。いいのがあったら、それにしよう。無かったら、美津のままだ」
「はい」
家に戻ると、娘は早速掃除を始めた。思いの外よく働いた。この分だと、いずれ借りた時より綺麗な家になりそうだと思った。
後ろ姿を眺めながら、私は娘の名前を考えた。知り合いの顔が浮かんでは消えるばかりで、何も思いつきそうになかった。諦めると、腹が減った。
「掃除はもういいよ、そろそろ晩飯にしよう。あるものでいいから、適当にやってくれ」
「はい。私、料理は得意ですので」
鈍臭い安物のはずが、これはこれで中々役に立ちそうだった。しかし人間でさえこれなのだから、機械はどれほど素晴らしいのだろう。娘の見せた微笑みに、私は自らの貧しさを呪う溜め息を返した。
初老の男はカウンターに坐り、黒いネクタイを緩め、スコッチの入ったグラスに右手を添えた。そして左手には、若々しく栄えるスカイブルーのマフラーを握り締めている。
バーでは薄暗い照明が照らす琥珀色の液体が、壁一面に整然と並ぶボトルの中で微かに揺らめきながら眠り続けていた。
数年前、子育てという大きな責任から解放された男とその妻は、自分達へのささやかなご褒美にと共にパリへ旅行にでかけた。
いつでも妻は買い物をしたがり、男はそれを待つ役目であった。男はブティックの入り口で妻の長い品定めが終わるのを待っていた。待ちくたびれた彼は通りの向こうに葉巻店を見つけ、教育の行き届いたブティックの店員に一言告げてから、そこへ足を運んだ。
その葉巻店には見たこともない類の多様な葉巻がガラスの棚に収められていた。カフェで一休みする時に楽しもうと思い、お気に入りになるであろう葉巻の一本を選び始めた。
つい葉巻選びに夢中になり、ほんの十数分、男は妻の事をすっかり忘れていた。そして不意に、品定めを終えた妻がブティックで待っているであろう事を思い出し、ハッとした男は手元にあった葉巻を買って妻のもとに急いだ。
ブティックの入り口で案の定まっていた妻に軽く謝って、二人は寄り添いながら歩き出し、近くのカフェで一休みをした。
小さな丸いテーブルと、背の低い椅子に腰をかけて、男が先程買った葉巻を胸のポケットから取り出して火を点けると、さわやかな甘い煙がパリの晴れた大空にゆっくりと舞い上がっていった。
それを見届けてから、妻は四角く薄い箱をテーブルの上に出して、濃い緑色のリボンを解いて蓋を開けた。そこには、あの空のように深く青いマフラーがふんわりと佇んでいた。
「もう、お互い歳を取ってしまったけれど。これ、あなたに似合うかしらね。」
美しく老いた女は、嬉しげに男にそう言った。
男はその青いマフラーを凝視した儘、目が離せなかった。
妻は夫をブティックの入り口で待たせていた時、夫の事を考えていた。しかし男は妻を同じ場所に待たせていた時、彼自身の事しか想ってはいなかったのである。
男はその時初めて知った。男が妻を愛するよりも更に、妻が男を愛していた事を。
薄暗いバー。独りきりになった初老の男が握り締めるマフラーを冷たい涙が濡らす。
それでも尚、スカイブルーのマフラーはその涙にすらも、今はまだ残酷な温もりを与えていた。
窓から手を伸ばして枝を折り取った。セミが鳴き止み、陽射しは容赦なく葉を焦がす。帽子を被らなければ、すぐにも顔が赤く灼けそうな日だった。階段を飛び降り、戸を開く。
先行するクロスバイクの細いタイヤは融けることもなく黙々と回り、僕はチェーンが軋みをたてる中古で買ったばかりの実用自転車を走らせた。路面から受ける輻射熱に視界が眩み、時々強く目を瞑り直した。時間が流れることをぼんやりと捉えつつ、通り過ぎた道、部屋で聴いた歌、そんなものが思考を巡り続ける。
街路樹の根元から猫が飛び出し、アスファルトの熱にとびはねた。翔が初めてこちらを振り返り、口元を綻ばせ、前に向き直った。まもなく猫は反対側の畑へ飛び込み、その一部始終は、蜃気楼の水たまりから逃げ出すようでもあった。
緩やかな坂を登りきった時、唐突として海が現れた。腕時計をみれば1時間も走っていない。乾ききった砂浜に乗り入れていくと膝まで砂に沈み、翔が荷台からゴムボートを降ろし、僕はふたつの自転車に砂をかけ、フレームに括っておいた枝を目印として突き刺す。鍵は持ってきていない。
気が遠くなるくらい、遠くまで続く波打ち際を歩く。その海岸を横切るふたつの川を目指した。相も変わらずに翔は一言も喋ろうとしない。どうにかして喋らせようと石を投げてみたくなり、けれど足元には水がしみて固い地面があるだけだった。漂着した昆布や、貝殻のたぐいさえ見つからない。
紺碧の海とは対照的に、無色の透きとおった水が流れていた。あるいは、と思って川の水を掬い、すこし口に入れる。汽水域であるためか味は薄い。水面はむやみやたらに光を反射させるばかりで魚影も見当たらない。そもそも釣竿なんて無いけれど、退屈を紛らわす何かを必要に思った。
川原を見渡してみても消波ブロックの他には何もなく、持っていけそうな物は帽子だけだった。
ボートに空気を送り込み、それが一人乗りであることに気付く。翔が何を考えて持ってきたのか解らない。戻ろうか、そう声を掛けると、黙りこんだまま翔はボートに乗り、岸を蹴った。歩くより緩やかに流れる。どうしてよいのかわからない僕は目を瞑り、部屋で繰り返し聴いた歌を思い出していた。翔が、ようやく返事をした。
「戻ってくるよ」
川は海へ流れ込み、海からどこか、低いところに川は流れていく。
風の音で目覚めたとき、ローソクが部屋を灯していることに気がついた。側に女が立っている。右手にナイフ。夢かと思った。しかし夢にしては色がはっきりしている。女はバットマンのイラストが描かれたワンピースを着ていた。細くつりあがった目をしている。私は声を出そうとしたが無理だった。金縛りだ。女は私の顔をじっと見ていた。目ではなく唇を見ている――私は自分のぶ厚い唇を気にしていた。女はローソクを左手に持って私に近づき、しまいには私の腹の上にまたがった。そして唇にナイフをあてた。ローソクを持った左手が目に近づく。炎に溶けたロウが私の瞳に落ちてきた。まず右目。つぎに左目。まばたきもできない。ロウの温度は高くない。しかし眼球におちたロウは水晶体を破壊する力は十分に持っている。
目の中が燃えているあいだ、これは夢だ、夢に違いない、と思い続けた。味わったことのない痛みと、ぶれはじめた視界でこのまま夢がさめてくれればいいと思った。やがて目の前が闇に変わった。女は初めて声をだした。笑い声だった。最初にハハハ、次にヒヒヒ。ハ行の笑い声が終わるとナイフの刃で私の身体をたたき始めた。ペタペタ音がする。冷ややかな感じが伝わってきた。しかし私の身体は全く反応しない。私は割と冷静になっていた。もし身体が動くのであれば抵抗する。あるいは恐怖で気を失うかもしれない。何も出来ない場合だと、恐怖はあっても実感がない。別の誰かの痛みを受けているようだ。私は本当に私を生きているのだろうか? そんなことを考えている間も女はナイフで遊んでいる。不意に扉が開く音がした。視力はなくなっていたが、隣室の強烈な光は盲目の私にもわかる。
「おいバットマン! 悪いことするとスパイダーマンがやっつけるぞ」男の声だった。二人は大きな声で笑った。
「あたしこの人の目玉にロウ垂らしちゃった、あんたのパパにばれないかしら」
「気にするなよ、こいつは脳死なんだから。だいたい薬物心中失敗のバカなんだぜ」
私の右腕に血液が流れていくのがわかった。記憶と温もりが戻ってくる。幸運なことに左目もかすかに使えるみたいだ。腹の上には女が置きっぱなしのナイフがある。私には3つの選択肢があった。私は選ばなければいけない。
二人が抱擁している間、私はそっと右手でナイフを掴み、音をたてないように注意していじくりまわしながら、待っていた。
その病は、瞬く間に街を襲い、僕らはその餌食となった。僕らのお肉は、艶々と光を帯びて、おいしそうな匂いを放ち出した。果肉のように。「ああ食べたいわ、お肉が、貴方のお肉が」彼女がこういった時、僕は内心ぎくりとした。そういう僕も彼女のお肉をとても食べたがっていた。「ねぇ、いいでしょ」「うん・・・・しゃぶるだけなら」僕は膨らんでおいしそうな、右腕を彼女に差し出した。その右腕も、すでにたくさんの人によって噛み切られている所がある。実を言うと、自分も少し食べてみたことがある。彼女は舌を出して最初は控えめにそれからだんだんと大胆に。肉をしゃぶり出した。そして、痛いと思ったら僕の肘先の肉はガブリと噛み切られていた。白い肘骨が顔を出していた。
そんなこんなで、僕らの肉はほとんどなくなってしまった。つまり骸骨同然だ。そのころには既に僕たちの体は肉の果実しか受け付けなくなっていた。そこで仕方がないので、町衆たちがより集まって、地下に逃げのびた貴族たちの肉を食べようということになった。貴族たちは簡単に見つかった。貴族たちの顔をみんなおびえで引きつっていた。貴族たちに果物を食べさせようとしたとき。「ちょっと待ってよ」骨同然になった彼女だった。颯爽とした裸体(といえるかどうか)を日光にあてて彼女は言った「もっと肥え太らせた方がいいわ」「それもそうだね」貴族への飼育がはじまった。貴族たちは、すでに肥え太った体をこれ以上肥え太らせるのを酷く嫌がり、逃げ惑うが、みんなは容赦しない。フォアグラを作らされるガチョウみたいに彼らは首根っこを捕まれその喉にグビクビと餌を流し込まれていくのだった。特に痩せ型の少女などは見てられなかった。そんなある日である。僕らはあることに気がついた。どうもおかしい、貴族は果物になる病にはかからないらしいのだ。これは困ったことになった。しかしだからと言って、物を食わずには生きられない。僕らは彼らを生のお肉のまま食べることに決めた。そして、骨を残して食べてしまった。僕らはゲップをして休息した。食べたものは骨なので体をすり抜けて落ちていくのだが、それでもお腹いっぱいだ。その時である。「ああっ」と叫んだかと見る間に彼女とみんなの骨が何者かによって、齧られていった。僕も骨の髄が熱くなってきた。なるほど、貴族はろくな寄生虫を持っていやしないや。
最近物忘れがひどい。昨日は仕事帰りに本屋へ寄って、車を忘れてきてしまった。
「普通わかるでしょ、自分がどうやって本屋に来たか。鍵に気づかなかったの」
「鞄に入れてたんだけど、入れたこと忘れてた」
小学生の娘にあきれられた。本屋から家まで歩いて30分はかかるのだ。
「明日会社に行って、人の車に乗って帰んないでよ」
「大丈夫よ、それほどぼけちゃいないわ。それに車にはたいてい鍵がかかってるでしょ」
娘のきついジョークを笑い飛ばしてみたが、娘はやれやれという風に肩を落として、台所に戻った。温まった鍋から味噌の香りがしていた。
物忘れがひどいだけでなくて、私は時間の進み具合も計りかねていた。仕事帰りに本屋で2時間なんてあっという間だ。
「中学受験もあるのに、紀代子さん、どこふらついてるの」
隣町に住む義母が、毎日のように家に来ていた。夫の転勤で初めて実家に近いところに暮らす事になり、義母も嬉しいのだ。
「今時は小学生だって生きるのは大変なんですよ。しっかり見てあげないと」
「おばあちゃん、毎日心配しなくても、私パパの子供だもん」
これ以上私に干渉しないでねという軽い前置きでもあっただろうが、私にとっても頼りになる一言だった。義母の嬉しそうな顔に、たまには断るということもできずにいたからだ。
本屋の帰り、カンナの生い茂る道を歩いていた。梅雨入り前に根元から切られていたものだった。茎は赤ちゃんの手首ほどもあり、幾重にも連なった葉の先に深紅の花が咲いている。背丈は私をはるかに上回っていた。立ち止まって赤くいびつに膨らんだつぼみを見ながら、今日は歩いて家を出たのだと確認する。雨が降りそうだったから今朝傘を持って出たのだった。が、手に傘がないことに気づいて本屋に引き返す。自動ドアが左右に開いて、昨日車を置いて来た事も思い出した。目当ての傘を持ち、駐車場に車を探した。雨が降り始めた。車はとうとう見つからなかった。
「盗難よ、きっと。警察に届けた方がいいわ」
家に着くなり、玄関から大声で告げる。娘が笑いながら、台所から顔を覗かせた。
「ママ、車はもう届いてるから」
親切な方もいるんだなと靴を脱ぎ
「今日、お義母さんは?」
と尋ねる。
「お義母さんはしばらくお留守だそうよ」
旅行にでも行ったのかしら。そう言おうとした私の横を女の子がふたり通り過ぎた。
「おばあちゃんどこ行ってたの」
「もうご飯よ」
甘い味噌の香りが鼻をくすぐる。
二つ折りの札入れには、外側から、万札・五千円札・千円札の順にまとめて入れておく。一回り大きくて、落ち着いた茶色の万札には、風格がある。
何があっても大丈夫、という漠然とした安心感は、この諭吉氏の頭数によって支えられている。実際は何が大丈夫だか判ったものではないが、しかし人は平生そんな根源的な不安まで、思い詰めてはおらぬものである。
さて札入れを開いてみると、奥の方に鷹揚な茶色が見えて、ああ、居たかと思う。さらに重なった札をかき分けてみれば、今日はどうしたことか、千円札の間からまだ思いがけず、一枚また一枚と顔を出す。青緑色の苔の間から、つぎつぎと茸や木の実が見つかるような具合である。
嬉しくなってなおも探しているうちに、気がつくと、布団の外は朝になっていた。
どうしてこんな夢を見たかと考え、すぐに思い当たった。前の日、街へ行ってお金をつかいすぎたからだ。
春から新しい学校にかわって、しかし穴うめ教員の悲しさには、持ち時間とともに実入りもすくなくなった。辞令には、
──月手当90,560円を給する
とあって、およそこの稼業をはじめて以来のとぼしさである。
しかしよくしたもので、新しいつとめ先は辺鄙な山奥にあって、お金をつかう宛てがない。去年までの学校は街の中で、毎日帰りに書物を購ったり、カフェで一ぱいやったりしていたのが、今年はいっさい出来なくなったので、お金はかえって出て行かなくなった。
それはいいが、日々しずかな山の中でばかり暮らしていると、しだいに寂しくなって来る。それで街に出て行くと、まとめてお金をつかう羽目になる。
この日はまず、街あるき用の自転車を置いてある駅前駐輪場へ寄って、預かり賃を払った。三ヶ月ぶん2900円。
それから藤崎百貨店へ行って、沖縄展でちんすこう二袋買う。1050円。
金港堂を覗いたら、ちょうど岩波講座「文学」の「別巻・文学理論」が一冊残っていた。3570円。
一番町四丁目のセブイレに取り寄せていた、教員試験用の問題集。1890円。
併せて諭吉一人分くらいが一日で出ていったような訳で、無意識の底にもぐり込んでいた喪失感が、夢に出て来たらしい。
痴呆老人が、お金を盗まれたなどと妄想を垂れ流すのも、ひと事でない。今はまだ夢だからいいが、いつか蛇口が弛んで現実に漏れだしたらと不安になる。しかしそれもその時になっては、どうしようもない事であろうか。
お別れの挨拶に、僕は自作のバームクーヘンを配ることにした。ホットケーキミックスを混ぜて、川原で何重にも重ねて焼いて、甘い匂いの年輪を作り出す。味見すると少しパサパサしていたけれど、隣の家のおばさんも、そのまた隣の家の女の子も喜んでくれたから、僕は天狗になりながらご近所を回っていた。
神崎さんの家は最後だった。チャイムを押そうとしたところで、庭からおじさんがのそりと現れる。そしていつものように、口から涎を垂らさん勢いで、ぶつぶつと独り言を呟くのだった。その様子を、いつものように僕は無視する。
チャイムのやけに甲高い音が響いてから、同じ言葉が繰り返されていることに気が付いた。
「マナミ」
僕は自分の住んでいる町が本当はあまり好きではなくて、「古都の町」の宣伝に熱心な自治体には辟易していて、だから車で三時間も離れた会社の寮に入ることができるというのは朗報だった。それでも軽自動車に荷物を載せて何回か往復するうちに、次第に故郷の二文字を実感してしまって、手伝いの友だちには悪かったけれど、途中の高台に車を止めては何度も町の方を見つめる。そして、あの盆地の中の小さなまとまりが、これまでの僕の生活圏内だったのだと深く思った。
ようやく寮へ荷物を運び終え、しばしうたた寝してから、雑誌を読んでいた友だちに断って外へ煙草を買いに行く。途中、太陽の落ちていく様が映画の名場面のように美しく、どこか懐かしくて涙腺を揺さぶった。慌てて下を向いたところで、目の端に何かが映る、白と黒の斑。
「マナミ」
名前を呼ぶと、彼女は尻尾を振り、にゃあと鳴いた。
「マナミ」
僕がおばあさんに会釈して、最後の年輪を手放して帰ろうとする時にも、神崎さんは同じ言葉を口にしていた。何も聞かなかったように通り過ぎて門の外に出ると、夕焼けがあたり一面を覆っている。
昨日のように美しく。
――もういないよ、あの猫は。
差し出した手をぺろりと舐めて、ジーンズに体をなすりつけてきたマナミ。昔に比べると格段に毛並みが悪くなった彼女は、しばらくしてから橙色の向こうへと歩みを進めていった。そしてもう二度と、こちらを振り返らなかった。
――昔いた人に似ておとなしかったあの子が、僕よりも先に、僕よりも遠くへ、出て行ってしまったんだ。
神崎さんの家、狭いこの町から消えていったマナミ。僕は脳裏に浮かぶその後姿を追いかけるように、勢いよく走り出した。
芳蔵は達吉と三つ違いでそう親しくも無かったが、どうした経緯かその夕は二人で石遊びをしていた。尤も、生来おっとりの芳蔵が年嵩で闊達な達吉に敵う筈も無くずっと負け通しだった。
七度目の負けの後、石を拾い終えた芳蔵は眩しさの減じたお日様を茫と眺めていた。達吉は「負けばっかで飽いたんだ。あっちの方に遊びに行きたいんだ」と合点した。
−ヨシちゃん。橋向こう行く?
吽と寸とも答えぬ芳蔵だが嫌がる風もない。
−行こ
手を引かれて歩く内、芳蔵の頭の中に「橋を渡ってはなんね」という言いつけが甦る。芳蔵は空いた方の手をぎゅっと握った。しかし渡ってみれば呆気無かった。足元ばかり見ている内にあっという間に橋は過ぎた。
達吉がコーちゃんを見つけた。
−コーちゃん竹とんぼ作ってんのか
地べたにしゃがんで熱心に竹を削る少年の傍らに二人はしゃがんだ。少しづつとんぼに成りつつある竹片を見ながら芳蔵は「川原で飛ばせば楽しかろう」と思う。見ていると、シャッシャッと器用にナイフを捌く手が父の手の様に思えて来る。芳蔵のこぶしが漸く緩んだ。
フゥと屑を払ってコーちゃんが芳蔵を見た。「初めて来たガキだ」と思った。
−オメェ向こうから来たのか。偉れぇな。飴玉やろ
芳蔵はすぐ口に入れた。
−まだ出来んよ。明日に出来るよ。
暫くしてコーちゃんがそう言った時、達吉が「あっ」と声を上げた。
−帰んなきゃ。お遣い。ヨシちゃん大丈夫? 一人で帰れる?
返答する間もあらばこそ「コーちゃん頼んだよ」と言い残して走り出した達吉はもう橋の上。後姿を見送りながら芳蔵は「やっぱりわけないや」と思った。
また暫くして家の中から「コーちゃん」と呼ぶのが聞こえた。すると芳蔵は弾かれた様に立ち上がって駆け出した。だが勢いのいいのも始めだけで次第に足取りが重くなる。橋まで来るとピタリと止った。陽は沈み風が冷たい。芳蔵はじっと耐えた。だが芳蔵が幾らじっと身を硬めてみたとて時はずんずん過ぎていく。飴玉が溶けて無くなりそうだ。
突然、芳蔵の両肩に暖かい手が載った。
−ヨシ、今日は何処まで行って来た
父の清蔵だった。
−飴貰った
−それは良かったな。誰にだ?
芳蔵は窮した。
−おう? こっちの友達か?
−うん
−そりゃあ良かった。オメエ、道の真中にボーッと立ってちゃだめだぞ
−うん
−一人で来たって母ちゃんには内緒だな
−うん
橋を塞いでいた塊が暗い空を竹とんぼの様に昇って行った。
「月まで届く階段を作れ」
と王が命じたのが、百年前のことだ。らせん階段は高く伸びていき、転落して死亡する者があらわれると周囲に覆いができて塔のようになり、そして更に階段は高さを増していったが、もちろん月まで届くわけはなく、王が死んだときにその計画も頓挫した。しかしこの国でいちばん高い建物だし、歴史的価値も出るだろうということで取り壊されはせず、成長を止めた階段は、ただじっと立っている。
何百段もある階段をようやく上りきり、倒れるように僕は腰を下ろした。階段は誰でも自由に上れるようになっているけれど、ひたすら単調に続くだけのその階段を上ろうとする人は、あまりいない。周囲は覆われているから景色を眺めることもできない。天井がないので空を見ることはできるものの、地上で見たって、ここで見たって、月の大きさが変わるわけでもない。
ようやく呼吸が落ち着いてくると、僕はカバンから小さな箱を取り出した。中には指輪が入っている。月の色をした婚約指輪だ。
「月の階段のいちばん上で、月の明かりに照らされながら、ね」
どんなプロポーズに憧れるかという話になったとき、ユマはそう言った。僕たちが付き合う前のことだ。彼女は言われるべきセリフまで考えていた。
「この階段が月に届くまで一緒にいよう、って」
「けどさ、それじゃあ、階段が月まで届いちゃったら、だめじゃないか」
そう僕が言うと、ユマは首を振った。
「いいのよ、届くわけないんだから」
三年も前の彼女の言葉を、言った本人が覚えているかすら分からない言葉を、僕は実行しようとしているわけだ。我ながらばからしい、と思う。けど僕は、三年前からずっと、そう言おうと決めていたのだ。
とはいえ、やはりここまで上ってくるのは大変だ。階段を上りきった時点で、彼女がヘトヘトになってしまわないだろうか。途中で、やめよう、なんて言い出さないだろうか。でも、彼女が言い出したことなのだ。引っ張ってでも、てっぺんまで連れて来よう。
僕は指輪をカバンにしまった。しっかりと予行練習をしておかねばならない。今日はそのために来たのだ。
月を見上げ、ゆっくりと息を吸い込んで、口を開いた。
「この階段が月に届くまで……」
そう言った途端、急に階段が伸びて月まで届いてしまうような気がした。もしかすると何十年後かに、なんてかすかに思ったけれど、そんなことを本気で心配するには、月はあまりにも遠かった。
駅前の商店街を仁と歩いていた雪は、急に小さな悲鳴を上げ、仁の腕に抱きついた。
「何だ?ゴキブリでも見付けたか?」
「そんないいもんじゃないわよ」雪の指は仁の丁度足元を指し示していた。
「見えないぞ?」
「いるわよ、すぐ足元に」
「足元?」眼鏡を直した仁は、漸く雪の悲鳴の原因を見付け出した。「そうか、ヤモリの死骸を見つけ…とまだ生きていたか」
仁の足元では、アスファルトと同じ鈍色の小さな爬虫類が、短い手足をねばねばと動かしていた。
「珍しいな、こんなところでヤモリを見るとは」少しだけ身を屈めた仁は、ポケットからカメラを取り出しはじめた。「それにしても雪はよく気付いたね」
「はじめは石ころだと思ったんだけど」雪も仁と並んで屈みこみ、ヤモリの観察を始めた。「よく見たら手足が動いていてさ」
「頭や尻尾を踏まれて、弱っているみたいだな」カメラのフラッシュを焚きながら、仁は応えた。「自転車に乗っている人なら、気付かずに踏んづけてしまうだろうな」
「ねえこれ、いきなりびゅっ、とかいって走り出したりしない?」
「それはないだろうな、大分弱っているみたいだし」仁は息も絶え絶えの様に見えるヤモリに向けて、もう一度フラッシュを焚いた。
「そうよね…と」腰を戻した雪は、後ろからエンジンの音が迫るのに気付いた。「後ろからバスが来るわ、脇によけないと」
「そうだな、写真も撮ったからそろそろ行くか」
仁はカメラをポケットに戻し、雪を守るように通りの脇へと寄った。そのまま駅に向かって進もうとした丁度その時、一発の爆発音が仁達を背後から突き飛ばした。
「何?パンク?」慌てて振り向いた雪が見たものは、何事もなく徐行を続ける小型バスの姿だった。直後、雪の視線を遮るように、仁が身を乗り出した。
「み、見ない方がいいぞ」仁は一瞬後ろを振り向いた後、雪の手を引き、駅へ向けて歩き始めた。「恐らく最悪の事態だ」
「最悪って…まさか」
「言うなよ、それ以上」雪が固唾を飲みこむのに気付いた仁は、大げさに胸を張りながら、駅の側のビルを指差した。「それより何か食べにいかないか?」
「そ、そうね、取り敢えず、なま物以外を頼むわね」雪はバスの通った跡から目を逸らしながら、笑顔を作ってみせた。
ひまわりだ
海にはゴッホの
ひまわりだ
物凄い数で
皆が嬉しげ
俺はなかなかの名作短歌を書き上げたなと男は思い、女にそれを読んで聞かせた。女は下着姿のまま男を見上げ、
「本当に良いわ。とても凄いわ」
と言った。
「そうか」
「だからあなたの短歌を、私達はきっとすぐに忘れていってしまうね」
「ああ、そうだね。きっとそうだ」
点け放しになっているテレビからは歓声が響いている。野球中継。真っ赤なソファに寝そべり、女はケーキを食べながら言う。
「今年のジャイ=アーンツは面白いねえ」
「本当だな。今年のジャイ=アーンツは凄く面白いな。馬鹿みたいに打つから本当に面白いな」
「ピッチャーまでもがホームランをガンガン打つから本当に面白いわ。ほら、また打った」
ノイズ交じりの中継画面、その灰色の夜空へどんどんと吸い込まれていく白球の軌跡。今年のジャイ=アーンツは本当にホームランを良く打つ。ぱきいん。またホームラン。ぐあらごがきいん。またまたホームラン。がぎぎぎ、とノイズが一層酷くなる中、歓声と白球の軌跡だけは変わらずに鮮明だった。
「一気に四本も。凄いわねえ。もう六千本もホームランを打っているのね今年のジャイ=アーンツは。凄いわねえ本当に」
「勝つかな今日は」
「いや、負けるでしょうね。どれだけ打っても、結局負けるでしょう。ホームランを幾ら打っても、野球はホームランの数を競うゲームじゃないから」
「そうか」
「ピアノを弾いてよ。あなたはピアニストなんだから、折角タキシードなんて着てるんだからピアノを弾いてよ」
女はそう言ってがたんと起き上がる。
「ピアノか。良いね。弾こう」
二人は薄手のコートを羽織り、小屋を出て行った。
小屋の外は砂漠である。静かな、とても静かな、見渡す限りの砂漠。
「見つかるかな」
「見つかるよきっと」
二人は砂漠の中へと歩き始める。五時間ほど歩き回り、枯れたひまわりの群生地を踏み越えたその先、小さな砂丘の上に、二人はようやくピアノを見つける。
「やあ、これは良いピアノだ。これなら何でも弾けるぞ」
「嬉しい」
「何を弾く?」
「お熱いの!」
「ジャズだね」
「そうよ!」
風がはためき、女のコートの裾を舞い上げる。惜しげも無く晒される女の美しい脚。男はゆっくりと鍵盤に手を添え、何を弾こうかを考える。
二人の周りには徐々に観客が集まり始めている。皆がゴッホのひまわりを持っている。絵は水に濡れて、きらきらと光っている。
まるで迷路の中を進むみたいに曲がり角のたびに道をおれて薄暗い裏道から裏道へと気まぐれに歩いていた。時刻もちょうど夕暮れ時で遠くから風に乗って豆腐屋のラッパの音が聞こえてくるのもどこか風情があるように思えた。不意にそれまで狭苦しく軒を連ねていた家が途切れると変に広い空地にみょうちくりんな大きな機械がデンと居坐っていた。剥き出しの歯車やらなにやらいろいろ複雑に組み合わさってはいたが大きな滑車に太いロープを巻きつけ一人乗りの観覧車のゴンドラような箱を持ち上げて下ろすただそれだけを繰り返すだけの単純な機械だった。
「今にね、これをもっとうんと大きくするんですよ」
いつの間に傍にぬっと立っていた背の高い男が私にそういった。
「どれくらい大きくなりますか」
私は殆ど儀礼的にそう訊ねた。
「大きくといえばそれはもう途方もなくですよ」
「そすると、まわりにある民家はどうなりますか」
「実はもうこの辺り一帯は買収が済んでましてね」
「はぁ、そこまで進んでますか」
「ええ、ぬかりはありません」
男がやけに自信たっぷりに答えるのでここからそう遠くないところにある友人の家のことが心配になり男に別れを告げると彼の家に向かった。友人は不意の訪問に驚くでもなく私を部屋に招き入れると自慢げに机の上にある小さな機械を見せた。それは小さなゴンドラについた紐を滑車が巻き取り持ち上げるだけの単純な機械で、細部は違っていたが先ほどの機械とまるで同じ構造のものだった。
「今に金を集めてこれをもっと大きくするのだ」
「大きくってどれくらいだい?」
「大きくといえばそれはもう途方もなくだよ」
曖昧に頷いてから、もうすでに彼の機械よりも大きな機械を作っている男がいることを彼に教えてやるべきか少し迷ったのだけど、彼を失望させたくはなかったし、どのみちあちらの機械のことを彼が知るのはそう遠くはないだろうから黙っておくことにした。それにしても妙なことが流行っているものだと私は思いながらやがて途方もなく大きくなったこの機械のゴンドラの中に街がまるまる一つ這入ってしまっているところを想像した。半日かけて街は持ち上がり、落日と共にまた半日がかりで元に戻るのだ。何故だかそれが本来あるべき姿のように思え「確かに途方もなく大きくしなきゃいけないな」と私は言った。