# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | ペットの効用 | 戸田一樹 | 990 |
2 | 落下 | くえ | 962 |
3 | 夢 | 長月夕子 | 1000 |
4 | アイ・シィ・ユー | めだか | 1000 |
5 | キャンドル | 広田渡瀬 | 980 |
6 | (削除されました) | - | 38 |
7 | 猫の記憶 | Shou | 1000 |
8 | 花火の子 | 黒木りえ | 1000 |
9 | ジンセイ | 稍 | 469 |
10 | 人生は必要なのか | Mori Wahei | 832 |
11 | 内祝 | 桑袋弾次 | 1000 |
12 | エンジェリング | 神藤ナオ | 999 |
13 | ハチミツ23号 | 安南みつ豆 | 807 |
14 | 一冊の日記 | 三浦 | 948 |
15 | 不明 | 西直 | 1000 |
16 | のこったのこった | 江口庸 | 783 |
17 | とにりさられる午後 | 朝野十字 | 1000 |
18 | 千夜一夜 | 野郎海松 | 985 |
19 | イタリアのものが好き | Nishino Tatami | 998 |
20 | ■□■□■□1/2 | 逢澤透明 | 1000 |
21 | 赤土に死す | 川野直己 | 810 |
22 | エンドレス | 神差計一郎 | 1000 |
23 | 波 | ゆう | 945 |
24 | 茅の輪くぐり | 朽木花織 | 977 |
25 | 恋人 | 海坂他人 | 940 |
26 | 少年 | 真央りりこ | 846 |
27 | 遠雷 | 市川 | 989 |
28 | 愛を。自由を。 | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
29 | あの日のバスはもうこない | 曠野反次郎 | 994 |
愛玩しているという意味でならそれをペットと呼んでいいだろう、私はゴキブリを飼っている。小学生の頃、弟が蛍を飼っていたときに使っていた黄緑色の檻の中に三匹のゴキブリがさわさわと羽根を動かし、朝となく夜となく蠢いている。スイカの皮に愛おしそうにしがみついているものもいれば、狭い空間を好奇心旺盛に飛び回るものもいれば、また隅の方でぐるぐると回転しているものもいる。三者三様。ゴキブリにも人並みに個性がある。
私は思わず八重歯を出して微笑み、プラスチックの窓をこつこつと叩いた。
普段は台所のテーブルに虫篭を置いているものの、人が来るときはさすがに見えないところに場所を移す。どこにというと、クローゼットの片隅に隠しておくのだ。本当ならベッドの下に置いておきたいところだけれど、そうしたらセックスの最中に見つけられ、酷い目に会ったことがあるからだ。
「何なんだよ、それ?」
「見ればわかるでしょ」
平然と虫篭を拾い上げ、それを膝の上に乗せた私を見て、男は反対側の壁際に身を寄せた。
「どうしてそんなもの飼ってるんだ? 気でも狂ってるのか?」
私はプラスチックの窓を開け、おとなしめの一匹を指に乗せて投げた。男は悲鳴を上げて身を翻したが、哀れ萎えたペニスに見事命中してしまった。
そのゴキブリは残念ながら命を失った。無理解な男にスリッパで何十回となく叩き潰されたのだ。
それきりその男は部屋には現れなかった。電話さえ掛かってこなかった。どうしたものかと思っていたら数週間後に知人から連絡があった。トンネルで起きた玉突き事故に巻き込まれ、無惨な死に方をしたのだそうだ。
クローゼットの中ならゴキブリたちが活動する音も聞こえないので安心だ。どこにいても心は繋がっているので何の心配もない。いつもの場所に虫篭を置き、そっと扉を閉めたところでドアベルが鳴った。
「会いたかったわ」
私は男の背中に手を回し、唇を重ねて甘い声を出す。心に三匹のゴキブリたちのことを思い浮かべながら。
ゴキブリを飼い始めてもう二年になる。何故だか分からない、それ以来私はひどくたくさんの男達に言い寄られるようになった。そしてセックスでこれまでにないオルガスムを感じるようになった。
以前の私を知っている女友達には変わったねと言われる。「ゴキブリたちのおかげよ」と涼しげに答えると、彼女らは決まって無邪気に苦笑いした。
落ちる 落ちる 落ちる
どれだけ落ちたのか、分からない。
上空を見上げたままだった体の体重を、うまく横にずらして体をくるんと反転させた。
ひろげた両腕と両脚が背中の方にのけぞった。髪の毛が逆立った。真っ赤なブカブカのTシャツと紺の半ズボンの裏側と体の間に入った風の塊が、バタバタと暴れている。正面を向く。「まっぶしい!」真っ白なソフトクリームのような巨大雲が視界を埋める。ソフトクリームはギラギラ太陽の光を浴びているけど、溶けることはないんだろう。その色に影は無い混じりけのない、純白だ。はじめて私は白という色を好きになった。そしてそのまま白にのまれた。沈んでいく。
しばらくして白を抜けた。世界が広がった。薄っすらと地上も見えた。おもいっきり、温かい風を感じた。遠い彼方、地平線の先まで海が見える。深い青い色が太陽の光を乱反射してキラキラ光っている。その輝く青からバァッと小柄なイルカが水しぶきを一杯に飛ばして飛び跳ねて太陽の光を浴びた。逆光でイルカは影となり見えない。刹那、海の中へ消えた。サァっと虹が海に架かった。私の心は躍った。もっとあの海を近くで見たい。体が自然に動いた。グルンと、横に一回転する、もう止められない。グルングルンと、私は空の上、落下しながら、ひとり踊った。
夕暮れが来たらしい、海の向こうに太陽が沈む瞬間は幻想的なんだね。今まで穏やかに沈んでいた夕日が、海と接する瞬間オレンジの光が弾けた。オレンジは次第に消えるとともに、暗くなってきた。薄い紫に飲み込まれ上を見上げればダイヤモンドのごとく、無数の星が輝いた。空は宇宙の様に無限の彼方を見せてくれた。空気が少し冷たくなってきた。もうすぐ、この景色ともお別れなのだな、と思った瞬間、急に寂しくなり、私は叫んでいた、心の底から。心の中の暗い気持ちがすべて解き放たれたような気分になった。気持ちいぃ…。
地面が見えてきた。終点か、そう思った瞬間に、ぼやけた地面はアスファルトへと変わった。更に落下するスピードは速くなった。え、と思った。と、同時になぜ私が落下していたかを思い出すことが出来た。「やだよ、怖い。こんなこと、しなきゃ良かったよ」後悔だけがポツンと浮かび上がった。
私は死ぬ瞬間を先送りして、天国を見ていたのかもしれない。
さようなら、ゴメンね…
俺は夢を見ている。俺は夢だと解っているが、夢の中の俺はそれを知らない。とにかく何かから必死に逃げている。だだっぴろい空間をずっと走っている。俺は嫌な予感がする。こんな何にもない空間は何かあるに決まっている。案の定俺はいきなり足を踏み外し、地面に向かって落っこちていく。もうだめだと思う。だが夢の中の俺は難無く着地するとまた走り出す。俺はすげえと思うけど、夢の中の俺は当然の事だと思っている。いつのまにか俺はどこか外国の街を走っている。交差点に差し掛かると、突然左からエージェントスミスが飛びだしてくる。俺は奴を軽くかわすと、反対方面に走り出す。後ろからエージェントスミスが追いかけてくる足音が聞こえる。俺らの距離は段々近づいてくる。耳元にはエージェントスミスの呼吸が聞こえる。奴の右手が俺の肩を掴もうとする気配を感じる。俺はその時空を飛べる事を思い出す。両手を上げて空に向かってジャンプする。すると俺の体はビューンと空高く舞い上がる。俺は空中で体勢を整え、孫悟空みたいに大空を飛ぶ。ふわりと降り立つと代官山駅前にいる。俺はまだ走り続ける。中目黒の方に行こうとすると、前方から黒服サングラスで日本刀を振り回している集団がこっちに向かってくる。キルビルかよと俺は突っ込むが、夢の中の俺は特に動揺せずに横断歩道を渡って渋谷方面に向かう。俺は誰もいない渋谷の住宅街をひたすら走り続ける。だんだん足が重くなってくる。呼吸も苦しくなってくる。夢の中の俺は疲れてきている。もちろん俺も疲れてきている。交番を曲がって、ローソンが見えてくる。ああもうすぐで渋谷駅だと俺は思う。20メートル先くらいにいかりや長介が、銃をこっちに向けて構えている。「止まらんと撃つぞ!」とか言っている。俺は心底疲れた。口の中に血の味がするほどだ。俺は両手を広げて、いかりやに向かっていく。パンという乾いた音がすると、俺の腹の辺りで熱いものが広がるような気がする。「マジかよ、ちょうさん、、。」と俺は思う。俺はそのまま前につんのめる。倒れたまま右手で腹を触ってみるが何ともない。ああ良かったと思って立ち上がると、俺は線路の上にいる。電車が向こうから全速力で走ってくる。俺は俺に叫ぶ。「あぶねえ!にげろ!」だけど夢の中の俺は電車に気がつかない。電車はどんどん俺に近づく。「おい!俺!電車がきてんだよ!にげろ!やべえ!おい!もう間に合わな
所在なげに病院のソファーに腰を下ろして、ゆっくりと時計を見上げる。あと面会時間まで10分。菊池寛をポケットから取りだして読みはじめる。ページをめくる音より、秒針の方が早い。思い出したように、今読んだところが二回目だと気づいて、また時計を見上げる。まだ面会時間まで5分。
父、佑さんは集中治療室にいる。病室の照明は抑え気味で、ひとつひとつのベットには、まるで魚のように看護師が張り付いている。ガラス越しにパソコンやら機械が整然と並んだ制御コーナーでは、医師がイソギンチャクのような目でモニターをみつめていた。ダイオード・ランプに導かれて、病室を進む。どのベットにも、心拍計や投薬機、強制呼吸器に囲まれて、識別プレートが架かっている。プレートには、患者の名前と血圧やら心拍数やらの数値が書いてある。呼び捨てにしてあるのが、やっぱり気に入らない。
父の症状は、ここへ運ばれてからしばらく安定していたが、なにかの弾みで呼吸器の管がずれて呼吸が止まってしまった。緊急処置を施されたがもう遅く、今では本人に意識がない。機器の管を抜かないように、その両手はベットに縛りつけてある。
帽子に三本線のはいった看護師が、「林さん、今日はお一人なの」と話しかけてくる。"お一人"のところが皮肉っぽい。ここ数日、親戚やら孫やらが立ち代わりに思い思い入ってくるのを、快く思っていないのだろう。私が「ベットの両手をみるのが、母には忍びないようですね。」と答えると、一瞥して去っていった。治療なんだから、当たり前じゃないのとでも思っているのだろう。
祐さんの顔を、また見詰める。まるで、もう眠ったかのような顔をしている。
「最期は、私が看取ってあげよう。」
「そうかい、家族みんなに見守られながら、やすらかに逝きたいねぇ。」
ずいぶん以前に、酒の勢いが会話をそう滑らせたことがあった。
父が家に帰ることは、もうないだろう。
そう思うと、佑さんの顔が潤みだし、怒ったような笑顔に歪んでみえる。まわりの機器のランプが、十字の光彩にかわる。いつのまにか、病室は水槽の水で一杯に満たされて、佑さんの顔はそのゆらめきで、みえなくなりそうだ。この中を自分は、ただ漂うように浮かんでいる。
面会時間は、もう終わりだ。父の葬式は、叔父に声をかけなければいけないだろう。もうすっかり乾いてしまった病室の床を、出口に向かてまっすぐに歩いていった。
私は一体いつまで、あの「生みの苦しみ」から目を反らしてゆくつもりなのだろう。
私は一体いつまで、この「普遍的な生活」に隠れて生きてゆくつもりなのだろう。
私は怖いんだ。多くを生み出すことが義務となり、それに自分の才能が追いつかなくなってゆくのを痛感してしまうことを。
私は恐れているんだ。普遍的な生活を捨ててしまって、もはやその普遍世界に戻れなくなってしまうことを。自分の居場所を失ってしまうことを。
作家になりたい、と。私は誰にも打ち明けられない。
キャンドルは揺らめきながら燃える。
私はなぜこんな、誰なのかもわからない人たちの前でこんなみっともない告白をしているんだろう。もっともらしい嘘の告白をする事くらい雑作もないのに、みじめな真実を口に出して。
神妙に椅子に腰掛けたまま、黙ってキャンドルを見つめている人たちに目を向ける。その瞳の中を覗こうと試みる。
彼らは耳で話を聞いているようには思えなかった。もしかしたら心で聞いているのかもしれない。身じろぎもせずキャンドルを見つめ、表情も体現も一切の変化を見せないのに、わかるのだ。彼らが私の苦しみを理解しつつあることが。
一人、また一人と数が減ってゆく。誰一人立ち上がりもしないのに、気が付けばまた一人減っているような気がする。けれど全く気にならない。聞いているつもりも見ているつもりもないのに、キャンドルの灯りは目に染み込むようだし、誰かが話している言葉は耳より先に脳に響いているような気がする。ありありと映し出されているのはその人の心の内側なのか・・・。
私たちは何だろう。何のためにここにいて何を目指しているのだろう。
わかってることは二つだけしかない。私が心から誰かに、今まで誰にも話したことのない恐怖を聞いてもらいたいと思っていたこと。そして、ここにいる誰もがそう思い続けてきたいということだけ・・・。
キャンドルを見つめる人たちの心に私の苦悩が染み渡り、理解され、許され、時とともに浄化されてゆく。
ああ、消えていった人たちがどこに行ったのかようやくわかった。戻ったのだ。戻るべき場所へと。この、静かすぎる深い闇の中を抜け出して。だとしたら私も、今なら誰にも気づかれることなくこの椅子から姿を消すことができるだろう。このキャンドルが消えずに揺らめいている限り、何度ここへ迷い込んだとしても。
現実に存在するような男が現実に存在するような路地で頭を抱えているのだ。それは現実に存在しそうな光景で、繰り返すようで悪いのだが、これから起こる事は現実に起こりそうな事に間違いはないだろうと思われた。男は現実に存在しそうな年齢で、現実に存在しそうなスーツを着、ありふれてはいないのだが現実に存在しそうなネクタイをはめていて、いかにも現実に存在しそうなサラリーマンといった風だった。そしてまたしても現実に存在しそうな事には、「現実に存在しそうだと」いう表現が現実に存在するように、繰り返し、繰り返し、繰り返されていて、男は悪夢のように繰り返されるこの現実に存在しそうな表現に頭を痛め、その無情に繰り返される表現によって苦しんでいた。痛みは休む事を知らず、それどころか次第に痛みは増していくのだった。男はとうとう呻き声を漏らす程の痛みを覚えはじめ、現実に存在しそうな非情さが男の周りの空気を包んだ。男は現実のように固いコンクリートの路地の地べたを転げ周りながら、現実に存在しそうな神に助けを求めた。たまたま通りかかったそのカルトのリーダーは、上目使いに男を見やり、現実に存在しそうな歩き方で歩み去さった。男はとうとう現実に存在しなさそうな真の神に助けを求めたが、現実に存在しそうな現実に存在しなさそうな神は、勿論何のサインも示さず、痛みは嘲るように増し、男は頭を抱え、その頭を持ち上げるように仰け反らせながら、絶叫をほとぼらせた。
そこは遠い魔法の世界で、暗き魔法使いカルプートの野望を打ち砕くため、数々の勇敢な若者が続々と集結しつつあった。一人の若者が灰色の旗を掲げた。
卑屈な少年が暗い部屋で猫にモデルガンの弾を打ち込みながら、卑屈に笑っていた。猫は血を流しながら逃げ、少年は画面に目を戻した。
勇敢な若者達がカルプートをとうとう倒した。しかし彼らが空を仰ぐと暗い影が見えた。一人の卑屈な少年が笑うのが見えた。数々のゲームオーバーを乗り越えた戦士他達は、初めて希望を失い、絶望を知った。すぐに闇が彼らを包んだ。
男の頭痛がやっと治まると、男は現実に存在しないような爽快感を感じた。頭の中がすっきりするという現実に存在しそうな薬のコマーシャルの様だったが、男は久しぶりに微かな笑みを漏らした。路地の奥で光る二つの目が慈悲を覚え、自分を許したかのようだったが、その様な現実に存在しなさそうな事はあるはずもなかった。
「花火を打ち上げたいの」
わたしとあなたの子を母星に送りたいの、と禾耶は言う。
母星の正確な位置はどの移民星にも記録が残っていない。
「だから捜したいの。おおきな花火を打ち上げて、わたし達はここにいる、あなた達を捜している、と声を上げたいの」
我々の暮すこの星には「母星」がある。それはかつては母星神話と呼ばれるおとぎ話で、いまでは学者達が真面目にデータを取り研究する事実になっている。
星間通信技術の発達に伴って近隣の星々でも情報交換が活発に行われるようになり、遺跡の共通点などから自分達の祖先が同じであることを知った人々は自分達の星を移民星と呼ぶようになっていた。移民星の多くは、間に戦争を挟んだりしながらもそれなりに足並みをそろえ、さまざまな方法で母星探索を試みていた。もっとも新しいのが、禾耶が立案した「花火」だ。
母星があると推測される方向に移民星からできるだけ多くのカプセルを打ち上げる。これまでの母星探索船と異なる点は、人工頭脳とカプセルの識別番号を組み込んだ通信機器、そして精子と卵子を積みこんで、ある程度以上母星に近づいたと計測された時点で受精を開始するというシステムだ。
禾耶は言う。わたしが探索船に乗ったところで、データから見て、きっと母星にたどり着くまえに命がつきてしまう。だからわたし達の子を、種の状態で飛ばすの。
「生まれた子にはふつうの子とおなじような教育をほどこすの。わたし達の星のことや母星のこと、ほかにもいろんなことを教えるわ。カプセルがどういうものなのか、なんのためにカプセルが打ち上げられたのかも教える。そうするうちに、きっと彼らはたくさんの疑問を持つわ。ここはどこ? 自分はなぜここにいる? 母星とはなに? おなじように飛んでいるカプセルがあることを知った彼らは、きっと互いに尋ねあって、答えを求めながら旅をする。花火の通信は最優先信号を同時に発信する設定になっているから、その疑問だらけの通信は星々を流れて、いつかどこかに届く。とおい昔にわたし達が母星からの通信を受けとったように、いつかどこかで、だれかが彼らの声を聞くの」
それが花火なの。
人の思いを、もっと知りたいという願いを発信しながら飛ぶ花火。
カプセル本体が母星に届く確率は高くないだろうけれど、たとえカプセルが母星に届かなくても、わたし達の子が放つ願いの光は、いつか、だれかが受けとめるわ。
「ここに奴が来るはずだ」
俺が独り事のように呟いた。
来ない可能性もある・・・。
でもかなりの確率でここに来るだろう。
俺には自信があった。
俺はこれまで奴の行動を分析していた。
年齢は20代前半、頭はいいが少し短気な所がある。
プライドも高い・・・。
あいつの性格ならきっとココに来るはず。
来なかったとしたらたぶん電話を掛けてくる。
数分が経った・・。
もうそろそろ約束の時間になろうとしていた。
『ブー ブー ブー』
その時俺の携帯のバイブが鳴った。
「もしもし」
取った。
・・・"あいつ"からだ。
一言返事をしてから電話を切った。
それからまたここで見張っていた。
なんとなく来ると思った・・・。
一時間後・・・
向こうからあいつが歩いてきた。
やっぱりだ・・・ワザと俺に電話してきたんだ。
ちょうど俺の目の前にあいつが来た。
俺はあいつの正面に立って銃を向けた。
あいつが両手を上げる・・・
・・・と、その瞬間後ろで鈍い音がした。
そして背中に何かが走った。
俺はナイフで刺されていた。
「お前の方が一枚上手だったか」
小刻みに震えた声で俺はそう言うと、そのまま世界が暗くなった・・・。
目障りだった。日々を、そいつらが苦痛に変えていた。理由は、それだけだ。
路上に立ち、辺りを見回せば、いくらでも目障りな奴らが目に入る。私はそいつらをとりあえず殺した。誰かが〈無差別殺人〉などと言ったようだが、それは明らかな間違いであって、これは、言ってみれば正義だ。良い殺人だ。私は、ただ、気楽に生活したかっただけ……、なのに、あの人はどうして……私の考えを認めてくれない?
「お前は、仏さんの人生を無理やり終わらせたんだぞ。分かってんのか?」
――終わった方が良かった。
「馬鹿か! お前が仏さんの事をどう思ったのかは知らんが、憎んでいて、それで殺したならそれは間違いだ。人はな、いくらだって変われるチャンスを持ってるんだ。変われば良いと思ってるなら、それを伝えてやれば良かったんだ――」
この人は良い目をしていると思ったのに――私は泣き出しそうなのを、殺してやった奴らのことを思い出してこらえた。あれっ、何かおかしい……どうしてそんなことを考えて涙が止まる? 答えはすぐに分かった。私は、他人と久しぶりに触れ合い、あの人の罵声を浴びて後悔をし始めているのだ。
――本当はどっちが正しい?
「どっちが正しいかなんて、本当のところはわからねえ。でもな、俺はこう信じてる。人は、生きるとは何か、という問いに答えを出してから、人生が苦か、楽かを決めるべきだ。そして、人の命を他人が絶ちきっても良いのか、決めるんだ。答えは人それぞれだからな。お前も、ムショの中でよく考えろ。俺も、考えるからよ」
――……。
気に入らないのやつすぐに馬鹿にし、いじめるやつら。平気で人に迷惑をかけるやつら。子供には駄目だと言いつつ、自分も同じようなことをしている大人達。あの人に会う前はいくら考えても、あいつらは要らない人間だった。でも、やっぱり変われる……のだろうか。いや、結局それは無理だったのだ。遺族が金を要求してきて、私の人生についての答えは、出た。要らない人間は、居なくなるべきだ。
「ゆでたまごをください」
「ゆでた孫ですか、それともゆで卵ですか」
「わたし純文系なので駄洒落は大嫌い。はやくゆでたまごをください」
「では、こちらへどうぞ」
男は女を倉庫へ連れていった。何でも揃っている倉庫だったが、ゆでたまごだけはなかった。
「ゆでたまごなんて、ないじゃないですか」
「だまれ、中途半端におっぱいのでかいメスブタめ」
男は女を蒲団に押し倒した。ストッキングをびりびり破き、パンティの脇から挿入した。いちどそうしてみたかった。最後はバックから中出しでキメた。
「鮫島さんはどこへ行った」
仕事場に戻ると、本部長が男にたずねた。
「お腹が痛いそうで、さっき早退しました」
「ゆでたまごを頼んどいたんだが、きみ、知らんか」
知りませんねぇ、とかぶりを振って、男は女のタイムカードを押した。
翌朝、女はいつもどおり出勤した。突き出た腹に、本部長は目をとめた。
「ははん、お腹が痛いって、鮫島さん、そういうことだったのか」
「すみません本部長さん、ゆでたまごのことなんですけど」
「無理しちゃいかんよ、きみひとりのからだじゃないんだから」
仕事をしている間に腹はどんどん膨らみ、女は昼休みに倉庫で子供を産んだ。まるまる太った男の子だった。
「ハルクと名付けてもいい?」
女は男にたずねた。
「どうしておれにきくんだい?」
女は乳房をべろんと出して、ハルクの口にふくませた。倉庫は、三人で暮らすにはちょうどいい広さだった。
男がその日の仕事を終えて倉庫へ帰ると、ハルクは立派な若者に育っていた。
「この子、お乳をたくさん飲むのよ」
「そりゃ、たのもしいな」
ハルクは二メートルのからだを横たえ、女の乳房を吸っていた。
「いやっ」
女がふいに声を上げた。
「ハルク、歯を立てちゃいや。もっとやさしく、そう、舌先でころがすように。あんっ」
ハルクはオムツを脱ぎ、女のからだに覆いかぶさった。
「ああ、いいわ、ハルク。強く強く、弱く弱く、そう、そのリズム、ああんっ、ちんぽの大きさに頼っちゃだめよ、こまめに体位を変えて、深く深く、浅く浅く、むんっ、そこっ、あたるぅ、速く速く、遅く遅く、そうよハルク、ああんっ、すごくいいわ、ハルク」
翌朝女はたまごを産んだ。たくさん産んだので、男はそのうちのひとつにのし紙をつけ、本部長に渡した。
「うれしいですねえ」
本部長はたっぷりのお湯をわかし、まだ午前の勤務時間中なのに、たまごをゆではじめた。
天使とは本当にいるものなのでしょうか と僕が彼女に聞きますと、彼女は寝転ぶ僕の髪の毛 その細い白い指でもってなでつつ、微笑みました。
「神の使いという意味なのでありましたら、私は天使はいないと思います」
「何故ですか」
「神などいないじゃあ ありませんか」
なるほど そうですかと僕はうなずき、彼女の指をとって、その長い爪 くちびるで押します。
「それでは何故 天使は清らかだといわれているのでしょう」
「色欲を汚らわしいと思うひとたちが、善と悪とでありますところの 天使と悪魔を分けるときに 善なるは色欲を知らぬものとしたからでしょう」
彼女は僕のくちびるに爪をたてます。
「色欲を知れば ひとは悪魔になってしまうのでしょう」
僕は舌先で 彼女の爪をなめ 聞きます。
「ならば今の僕は天使なのでありましょうか」
「その通りです。けれど あなたもいずれ、色欲を知り ほかの大勢とおなじように 手近な女体であります私を求めるのでしょう」
「おぞましいのですか」
「恐ろしいのです」
「僕はいかがするべきなのでありましょう」
彼女は僕の頭をゆっくりと持ち上げ、その 長いまつげでもって 僕の目を射ります。
「天使のままでいたいのですか」
「あなたに嫌われたくないのです」
指の一本一本が僕の首筋にかかり、彼女の吐息と 目線が 僕の素肌をちりちりとかじります。彼女は赤いくちびるを動かし、舌先をほろり のぞかせ
「天使は 両性具有者と聞きます。男女両性を携える存在なれば、色欲はないと考えられたのでしょう。しかしそれはまったく愚かしいこと 両性があるからこそ色欲が生まれるのです」
「それでは、どうすれば」
「天使とは性のない存在であることがのぞましいのです。あなたは 女性でなく 男性でなく 両性具有者でもありえない存在となるのです。あなたの年齢でありましたら、きっとうまくゆくことでしょう」
彼女はしゅるりとナイフを取り出し、寝転んでいる僕にかぶさって、光る刀身を 僕のしたで 振り上げました。
けれど 天使となったその一瞬で 僕の目からは彼女の姿が消えてしまって
ぽろぽろと血液が足をつたい 流れ すべり落ちてゆくのがわかるのですけれど、どんなに意識が覚醒しても、彼女の姿はどこにも ない
僕は あまりにも 大切なことを忘れていた ずっと以前から天使でなくなっていた彼女は、天使となった僕と 共存することはできないのです。
ハルキの母親はハチミツ工場で働いている。だいたいハチミツには5000とも10000ともあるいは1億ともいえるくらいの種類があり、工場ではそれらを混ぜ合わせたり、溶かしたり、煮詰めたり、型に流しいれたり、固めたりして、自動車や冷蔵庫やトラックや飛行機をつくっている。
2歳のハルキは母親が工場で働いていることを知らない。ハルキが1歳半になった時、家にいるのに疲れた母親は外に仕事をもとめたのだった。
毎朝、母親の運転するハチミツ色の自転車に乗って、ハチミツ町でただひとつの保育園に行く。
母親の仕事は、ハチミツ管理倉庫で、膨大な数のハチミツのデータを入力することだ。それでも時々倉庫に行って、在庫を確認したりもする。ただしそれはハチミツではなくてデータを入力する白い紙だ。
母親は炉の中を流れるハチミツを見たことがない。
ハルキは小学生になったらきっとハチミツ工場を見学に行くだろう。
風の強い日は、町全体が甘い香りにつつまれる。暑い日にはねっとりとして、体にからみついてくる。
汗と空気中を流れるハチミツの粒子をかきわけながら自転車に乗って、今日も母親はハルキを迎えに行く。
「かーかん」
後部にとりつけられた座席から息子が叫ぶ。
「なに」
「でんちゃーーきたーーー」
ハチミツ色の電車が線路を通り過ぎていく。
母親はまだ母親でなかったとき、かつてこの電車に乗って遠くの街へ行き、大きな会社に勤めた。たしか自動車をつくっていた会社で、そのまえは、電気をあつかっている会社だった。
「ばいばーーーい」
ハルキは電車に向かって手を振る、それから言うのだ。
「ちゃった」
過ぎていったハチミツ色の電車を振り返ることなく自転車はただ走り続ける。
改札口で見送られたあの日、踏切の向こうで手を振るあのひと、黄色い電車を次々と遣り過ごしながら話したホーム、おなじ電車に乗るために待っていた時間、みんな溶けてハチミツ色の空に流れていく。
9月12日
今日橋田が休んだ。家族といっしょにいなくなったからだ。一年や二年みたいにガキじゃないから、いなくなるのはどこかの誰かが食事をしたからだって知ってる。常識だ。昨日は井上がいなくなったし、一昨日は野川がいなくなった。三日前にいなくなった戸田は今日もどってきた。自慢(字が歪んでいる)たらたらで、もともとイヤなヤツだったけどもっとイヤなヤツになってた。おれんちがいなくなったのはおれが赤ちゃんの時だったみたいだ。父ちゃんに聞いてだいたいのことは知ってるけど、実感として湧(これはよく書けている)かない。早くおれもまたいなくなりたい。(所々で字の濃さが違う。だいぶ時間をかけたらしい)
9月14日
今日から食事しないことに決めた。おれが食事したらまた誰かがいなくなるからだ。食事しなかったらずっと早くいなくなれるような気がする。いなくなれるまではガマンだ。(全体的に走り書きな印象。私が呼んだ時に書いていたのだろうか)
9月17日
食べないのは思ってたよりきつかった。我慢(字が他のに比べて大きい)できなくて、ちょっと食べてしまった。こんなんじゃいなくなれない。おれはいなくなる気があるのか。おれも戸田みたいに弱いのか。(字がいつもよりずっと濃い……)
九月二十四日
私達家族は、実に七年振りに標的にされた。今朝帰って来た。頭はまだぼうっとしている。今、息子の日記を読み終えたところだ。息子がどうして食事をしなくなったのか、その理由を複雑な気持ちで読んだ。日記にも書いていないが、私は母親がいなくなった事が原因だと思っている。息子にとっての食事は、私が普段行っている事とはまるで違う意味を持っていたのだろう。私も、妻が蘇らなかった事には深く傷ついている。だが、それでも私には息子がいた。しかし、息子には母親が(ここで終わっている)
三月八日
物置を整理していたらこの日記を見つけた。十年前の自分を懐かしく読み進めて行くうちに、上にある親父の文章を発見した。俺を死んだものと信じていた親父の思いを見て、また日記を始める事にした。食事については、日記を読んでいて色々と考えさせられた。この街の人間にとって「食事」は、単に共食いという以外の意味があるはずだと思う。(共食い? この廃墟で何が……)
痺れる感覚に、じわりと意識が浮き上がる。
薄く目を開ける。部屋は薄暗い。窓から差し込んでくる街灯の光のおかげで、この部屋は暗闇にはならない。天井の板の木目が人の顔に見えなくもない。微かな空気音と機械音が聴こえる。エアコンのタイマーはまだ切れていないらしい。身をよじろうとするが、その瞬間身体の痺れが強くなる。自分の身体なのに指一本動かせない。
また金縛りだ。疲れていたり、考えごとをしながら眠るとたまにこうなる。身体は眠っているのに頭は起きている。あるいはその逆か。多少慣れてきてはいるが、だからと言って金縛りを解くコツを得ているわけではなく、勘弁してほしいものだと思う。
耳鳴りがする。誰かが耳元で騒いでいるような。もちろん専門家にでも聞けばその原因も簡単にわかるのだろうが、あまり気持ちの良いものではない。うるさい、と心の中で呟きながら腕に力を込める。
身体のどこかを動かせれば金縛りは解ける。経験上それはわかっているのだが、毎回苦労する。懸命に力を込めているが、身体はまるで動かない。妙に疲れる。一旦力を抜いて息をつく。耳鳴りがする。罵倒のように聞こえる。意味のない幻聴の連なりに悪意を感じる。息を止め、また力を込める。しばらくして緩める。何度となくそれ繰り返し、やがて跳ねるように腕が動いた。
痺れが取れる。はぁ、と大きく息をついてから身体を起こした。強く心臓が鳴っている。何度も浅く息をした。そのとき、
「……惜しい」
耳元で確かな声がした。ひんやりとした何かが首筋に触れる。一瞬、呼吸が止まった。首筋の感触。人の手のように思える。だが、この部屋に自分以外の人間はいないはず。いや、手にしては、人のものにしては、明らかに冷た過ぎる。
ふいにエアコンの音が消えた。タイマーが切れたのだろうか。さほど意識していなかった空気の流れが止まる。首筋にはひんやりとした何かが触れたまま。静まり返った部屋の中で、自分の心臓の音だけが耳元で響いていた。
「……また明日の夜にでも」
再び声が聞こえた。そしてすぐ、首筋の感触が消える。
しばらくしてから深く息をつく。何をする気もおきず、ただ深呼吸だけを繰り返した。心臓はどくどくと鳴り続けている。気のせい、気のせいだ、と呟く。夜が作り上げた幻聴、幻覚に過ぎない、と。呟きながら、何気なく首を後ろに傾けた。
天井。見慣れたはずの木目。歪んだ笑み。
頬が引き攣る。
杜夫は五十歳、会社内でも窓際になりかけている。毎日晩酌で憂さを晴らす日々。杜夫には義範という高校二年生の息子がいる。演劇部で、最近彼女ができたらしい。ある日、晩酌をしていた。そこに義範が帰ってくる。ヘアコロンで臭いと、杜夫は義範の頭を小突いた。すると義範は杜夫に歯向かって、頬を殴った。鼻から血を噴く杜夫。杜夫の家庭での権威は地に落ちた。学生時代は小柄ながらも相撲部で鳴らしたものだった。息子からこんな仕打ちまでされることに人間としての尊厳を傷つけられた気がした。このプライドをどこかで回復することが、杜夫の命題となった。杜夫は相撲の稽古を再開した。四股、てっぽう、すり足などの基本動作を身体から呼び覚ますように近所の境内で密かに行った。あるとき、義範の担任須永から電話があった。話を聞くと義範が不純異性交友で指導を受けているというのだ。なんでも、相手役の女子高生と居残り稽古と称しては、体育館のステージの袖で毎晩セックスをしていたことが警備員に見つかり学校の知るところとなってしまったのだ。呼ばれた杜夫は教務室に入った。そこに担任の須永と義範がいた。杜夫はここぞとばかりに突進し、義範を殴った。義範は鼻血を出して倒れた。情けないという思いよりも、過日の借りを返せたという充実感の方が大きかった。須永はひと息ついて間に入り、一枚の文書を見せた。それは義範が書いた作文であった。数ヶ月前、父親を殴ってしまった自戒の念と弱くなった父が寂しいという内容だった。杜夫は居たたまれなくなった。義範は須永のとりなしもあり、二週間の停学処分とあいなった。義範を連れて、家に帰る杜夫。杜夫は残りの人生は長い、旺盛に生きなければと心に誓った。帰り道、稽古をした境内を通った。杜夫は義範に言った。一番取るか。義範はこの痣が取れたら胸を借りると笑い、すぐに殴られた痛みで顔を引きつらせた。
正確な正確の正確さがまず正確であること。とびきりのとびいりのとんとんびょうしであること。ことのこのことことにこっつこっつここするここと。つっていしのかしらましいすらしかちれにが、とにりさられる午後。
そんな午後の私は、穏やかな気持ち。ああ、どうしてどうなんだろうと思う。同種のどうんんうどどうどう。大きな大声が襲う。このところこの心に青い空を思う。青い空を負ぶう。青い空を負ぶって飛ぶことを思う。負ぶって思うことを飛ぶ。広がる青の広がりが高く高らかに広がっていく。
だから私は伝えたい。私の気付いたこと、それは、伝えでもなく気付いでもなく、ここっとこっと、とにりさられる午後。そんな静かな気持ち。
今ここにある新しい午後、確かにある、確かにある以上の、ただしかの、伝えようとすればするほど伝えられないことがもどかしい。わかってもらうために私は言う。わかってもらおうとして言う。わかっていることを言う。私は知っている。私は知っていることを言う。それは、とにりさられる午後。
私は喜びを込めてとにりさられる午後を告げるよ。私でもあなたでも告げるでもない、それらとは全然違う遥かにとんでもなくそれらであるもの。一言で言えば、とにりさられる午後。新しい午後。私たちの午後。
私はとても説明したい。私の気付いた気付きは赤い鮮やかな説明。それはとてもでも説明でもしたいでもない全然別のもの。赤いあまやかな季節。紫のふさふさの奇跡。黄緑のつやつやの食べもの。それらとはまるで別のそれらをまとめて超えたもの。それはこ、れしにするとが、はかしたまるとして、きてるするちは、かたむるとる。とるおほうとる。大好きなあなたよ。ちっかいよ。ちっちいかいよ。とりするかちのくるしゅうるよ。大好きだよ。
私たちの午後、私は気付いたよ。新しいあなたを見たよ。私はあなたの友だち以上のものになった。愛している以上のものになった。大切なもの以上のものになった。だから、とてもあなたに伝えたいよ。それは、それでなく、私でなく、私が伝えるのでもなく、あなたでも友だちでも愛しているのでもなく、大切なものでもなく、それらをまとめて超えたもの。
あなたは、あなた以上のもの。それはあなたではなく、あらたはてるなん、とにりさられる午後。あなた以上のあなた、友だち以上の彼方、愛している以上のその先の、大切なもの以上のとにりさられる午後が来たよ。
天女と雖も、斯くは麗々しうあるまい。
ひとびとは誰れ彼れとなく、千夜を讃えた。美しい女であった。一夜はこの姉を深く愛して居た。血の繋がりも歳の隔たりも越え、ただ愛して居た。千夜は在京の海軍武官に降嫁した。洋拵えの軍刀を佩いた男の隣で、姉は恥じらいを面にして俯いた。一夜はそれを正視せられなかった。
「一夜さん、御機嫌よう」
家を出る日、姉は、そう言って一夜の頭を撫でて呉れた。涼やかなる声音が、何時までも何時までも一夜の耳をくすぐりつづけた。やがて義兄は「捷一号作戦」へと出征し、南洋に没した。ふたりの間にはまだ子も無かった。姉は気丈に万歳に和した。一夜も和した。父や母や叔父や叔母や往来の者も、みな和した。最期の閨で、姉はどのように身悶え、どのような声で達したのか。一夜は密かに夢想したものだった。
神州は、米軍の焼夷弾に、繰り返し繰り返し嬲られて居た。
戦争が終わると、姉は色街に消えた。一夜はその影を追うようにして、侠徒になった。女を売り、薬を売り、米を売り、土地を売り、名を売った。一夜はやがて辣腕の事業家に成り上がった。神州も復興を見た。
昭和という時代が、終わった。
「一夜さん、御機嫌よう」
夢枕に立ったのは、紛うかたなき、あの姉であった。当時のままの匂いたつような麗姿。
「御息災でいらっしゃいましたか」
姉はふっと笑みを浮かべて、俯いた。昔ながらの仕草に、一夜の胸は高鳴り、震えた。
「貴女のことを想わぬ日は、ありませんでした」
始めから夢だと判って居た。ゆえに一夜は、心の奥底に飼っていた情念を、抑えることが出来なかった。艶やかなるその唇を吸い、白き柔肌を指で辿り、共衿から零れんばかりの双丘を掌に転がした。千夜は乱れた夜着を脱ぎ棄て、その裸身を圧しつけるようにして、一夜を包んだ。馥郁たる女の香が、鼻腔に溢れた。
夢でも良かった。愛した姉に己を埋め、愉悦に身を委ねるは、何をも越えた至楽であった。交歓は、永遠とも思えるほどの間、続いた。
目が醒めると、うら若い愛人が隣で眠りを貪って居た。一夜は己の老いさらばえたからだを見下ろし、乾いた肌を手で撫でた。陰茎は、せり出した腹の下に隠れて居た。
露台に出ると、漆黒の空が在った。そこに、月が在った。冴え冴えとした、月。
朝露のごとき千夜一夜の夢芥が、色褪せた銀貨のように、夜に浮かんで居る。
たった、独りで。
「どう?この店の雰囲気」愛はメニューをテーブルの脇にしまい、向かいの善にナプキンを手渡した。
「聞いてないなぁ」善はナプキンで鼻をかみ、丸めて灰皿へと落とし込んだ。「僕はイタリアンがいいって言ったんだけど」
「だから『イタリア』っぽいのにしたんだけど」
「いや、僕が行きたかったのはこういうのじゃなくて」
「これでも色々調べたのよ」頬杖をついた愛は、落ち着き無く辺りを見回す善を見て、目を細めた。「気取った店は嫌だっていうから、ガイドを見たりしてね」
「確かに僕は、気取った店は嫌だって言ったけどさぁ」
「それじゃ訊くけど、善はイタリア料理いくつ言える?」
「よーし任せろ」
得意げに腕を組んだ善は軽く目を閉じ、天井を見上げた。
「ええと、スパゲッティ、パスタ、ピザと、ええ…」善の口はそこで止まり、天井を見上げたまま唸り続けるだけとなった。愛が善の肩を叩いたのは、その直後だった。
「ほら善、『ピザ』来たわよ」
「お待たせしました、イタリアンもんじゃです」善の側に現れた店員の手には、ベーコンとトマトを山盛りにしたボールが握られていた。
「何がピザだよ」テーブルに置かれた『ピザ』のボールに、善は憮然とした表情を向けた。そのボールを愛は取り上げ、具材をキャベツと共に鉄板へ落とし込んだ。
「焼くのは私に任せてよ」愛はてこで具材やキャベツを炒めながら、ボールのだしにソースを流し込んだ。「『パスタ』の方は、善でも出来るでしょ?」
「『パスタ』って…」ぼやく善の前に、再び店員が現れた。
「お待たせしました、キムチ焼そばです」
「はい、『パスタ』来たわよ」キャベツで土手を作りながら、愛はてこで焼そばの皿を指した。
「『スパゲッティ』だろ?」
「いいから『パスタ』焼いてよ」土手を固め終えた愛は、一気にだしを鉄板に流し込んだ。
「というかそういう言い換えってどうだろ?」
「善のいうイタリアンなんて結局こんなものよ、スパゲッティがパスタの一部だってことも知らないで」
「いや、まあ、そうだったか…?」額を押さえて考え込みはじめた善に、愛ははがしを投げ渡した。
「そろそろ焼けるわよ」だしの沸騰を確かめた愛は、『ピザ』を一気に混ぜ込みはじめた。「食べるときはそのはがしを使うのよ、『パスタ』は適当な隙間で焼いて頂戴」
「…」薄く引き延ばされる『ピザ』を憮然と眺めながら、善は烏龍茶を一口飲み込んだ。
革張りの重たいドアをあけて暗闇のなかへ入る。カタカタと映写機の回転する音がきこえるほどの、小さな空間におしあいながら人々は白黒のグレタ・ガルボに魅入っている。
デジタル化が進んで絶滅の危機にあるフィルム。そのフィルムで映画を観るためのレトロな上映会だった。
「映画館の半分はね、まっ暗なのよ」
子供のころ休みになるたびに映画に連れていってくれた伯母は、上映開始を待つ行列でいつも同じ話をした。映画は1秒間に24枚の写真がつぎつぎとスクリーンに映しだされていくもので、1本の映画は2時間ぐらいだから1万7千枚も写真を見たことになる。しかも映写機にはシャッターがついていて、1枚の写真を映すと、すぐに消し、同じ写真をもう1度映し直している。
映写機から飛び出した光がスクリーンに反射して、僕の目に飛び込み、そこに娼婦の衣装をつけたグレタ・ガルボが現れる頃、映写機は光を閉ざし、映画館は暗闇に包まれている。
「映画を観る人はみんな、暗闇を観て、泣いたり笑ったりしてるの」
伯母はいつもしゃれたドレスを着て、細くて長い煙草を吸っていた。
≪ならばこの剣でその赤ん坊を半分にしてやろう。半分ずつつれて帰るがよい≫
スクリーンのなかでソロモン王がいった。
ひとりの子供を自分の子供だと譲らなかったふたりの娼婦は息をのんだ。
≪どうか、どうか生きている子をあの女に与えてください≫
娼婦のひとりが嘆願する。
≪殺すことだけは……≫
裁きは半ば終わったようなものだが、ソロモン王はもうひとりの娼婦グレタ・ガルボに目を向ける。カメラも彼女をアップにする。
≪半分にしなさい≫
白黒のグレタ・ガルボはまっすぐ私を見ていた。
≪半分にしなさい≫
あまりの美しさに映画館全体がため息をついていた。
十八のとき事件をおこして私は町を出なくてはならなくなった。最後の夜、伯母はいつなく酔っていた。
「利江が育てればこんなことにはならなかったかしら」
「そんなこと関係ない」
「……あなたは双子だったのよ。利江はあなたを産んで一年ほど病院にいたのよ。一年後に利江が死んで、お腹をあけてみたら、お腹から出てきたそうよ」
映画館からの帰り、公園を見つけて私はブランコに飛び乗った。
「ねえ、もっと自分を大切にして。あなたはあなただけじゃないんだから」
ブランコを漕ぐと、夜空も星も街も地面も隣の誰も乗っていない停止しているブランコもぐらぐらと揺れ動いた。
民宿の小さな露天風呂に浸かって空を眺めていたとき、柵を飛びこえて青いねこが現れた。
あとでよくよく見れば紺を帯びた黒ねこだったが、西北西からの強い月光にさらされて青く輝いて見えたらしい。
輝くといってもそんなに綺麗なねこではなかった。
それから私がどこへ行こうとも後を尾けてきた。汽車で一日に百キロを移動したときさえ翌日には土産物屋の軒先にいて店主とじゃれついている。あるときは拾った車の座席にちょこんと乗っている。海辺で魚をくわえていたり、昆布に絡まっている。山頂では高山病にかかっている。私が東北を旅行しているあいだ毎日一度は必ず姿を見せたのだった。近付いていくと警戒する素振りをみせず隠れようともしない。どうやって移動しているか訊ねると、ねこは、一時間に四キロ歩いていれば一日に百キロだと言った。
青森りんごを手土産に東京へ戻ると、部屋にねこがいた。
互いに睨みあい、りんごを投げつけようか、齧ろうか迷った。
「長いことお前を見張っていたが、やはり殺さなければならない」 ねこは言った。
どうしてそんな目に遭わなければならないのか理解に苦しんだものの、そういえばりんごは果樹園から盗ってきた物だったし、宿賃もちゃんと払ってはいないなと思い当たる節はいくつかあった。でも、ねこだって宿賃を払っていない。殺されるほどのことをしたんだろうか。考えをぐるぐる廻らせながらりんごを齧り、話を聴きながら一つを食べ終えた。
あるいはねこはりんごを食べるだろうか。食べれば、彼は落ちつくのか。
「わたしは未来からやってきた、からくりねこだ」 へええ。
「与えられた任務を遂行するのだ」 そんな。
「この殺鼠剤をつかえば……」 私は人間だ。
「武器をとってくるから待ってろ」
そう言い残してねこは、机に飛び込み、未来に帰った。
殺されたいとは思わない私は、引き出しに鍵をかけ、その鍵をアパート裏の畑に埋めた。
青空に東京の赤土がよく映えた。
有名な宇宙船エンドレスは、航行中の事故で爆発した。
男は、奇跡的に難を逃れることができた。近くにあった水の惑星には小さな島がポツンとあり、不時着する。
地球に似た風景にほっとした男は、小さな光線銃を持ち、右に広い海を、左に林を観ながら砂浜を歩き出した。
しばらく歩くと、島の中央に続く道をみつけた。銃を握り締めて道を進む。
男は林の中に小屋を発見し、狂喜した。この小屋の建て方は間違いなく地球人のものだ。
音もなく近づき、中の様子を伺った。そこには老人と、若い女が火を囲んで食事をしていた。男は戸を敲いた。
「宇宙旅行で遭難して、ここにいるのだ、助けてくれ」
老人は入れという。男は、小屋に入るなり食物を貪り、眠り込んだ。
翌朝、目覚めた男は呟く。
「どうせ助けなど来やしない、俺の人生は終わったも同然だ。ならば、かわいそうだが老人を亡き者にして女を奪ったらどうだ。その方が残りの人生を有意義に過ごせるってもんだ」
男は、魚を捕りに出かけた老人を追いかけ、銃を彼に向けた。
「悪く思うなよ」
しかし老人は驚きもせず男の悪意を知っていた風な様子で、静かに言う。
「この時が来たか、長い間、君が来るのを待っていたのだ。私は死ぬ運命だから死ぬが、最愛の妻だけは、殺さないでやってはもらえないか」
「女は、俺が面倒をみてやる。安心して成仏してくれ」
男は銃を老人に突きつけて、引き金を引いた。
老人は満足気に微笑し、絶命した。
男は小屋に引き返し、女を押し倒した。男はその感触に飛び上がった。
「女、ロボットだったのか」
落胆が憎々しげに口から漏れた。
男は感情のやり場をなくし、とっさに光線中を女に向けた。その美しいロボットは言う。
「奥様を、大事にしてあげてくださいね」
無人島で、いったいどのように女を娶れというのだ。男はまたも、じっとりと濡れた引き金を引いた。
高い木に登って大きな実を採って食べ、どうにか火を熾して浜の魚を焼いて食い、島の暮らしには慣れたが、男は堪え難い孤独に苛まれていた。あれからもう、何年経ったのだろう。
ある日、浜辺に女の姿があった。男はやっと気狂いしそうなほどの孤独から解放された気がして、女に駆け寄る。
女は言う。
「宇宙船が事故に会って、私だけ助かったようなのです」
以前破壊した女型ロボットと、まったく同タイプであった。
男は、震える声で宇宙船の名を訊く。
「エンドレス、でした」
沈みかけた太陽に向かって、ママチャリをこいでいると、橙色の中に溶けかかった白い塊が、二つ跳ねていた。近付いていくと、白い塊は、柔道着を着た五歳くらいの男の子たちだった。跳ねながら、きゃっきゃっと笑っている。松子さんが、ママチャリから威勢よく飛び降りると、彼らは「おおっ」と声を上げ、その後また、きゃっきゃっと笑ったので、真似してみるが同じ笑い声は出なかった。無理もない、もう三十二なのだ。
よく似た顔に身体つき、服装まで同じなら、動作まで同じような双子みたいな彼らを、松子さんは珍しそうに観察した。照らされたほっぺたが、柿のようで美味しそうだと思った。
「柔道、楽しい?」
松子さんが訊ねると、ほぼ同時に「楽しいよ」「楽しいよ」という二つの声が重なりながら返ってくる。
「おばちゃんは楽しい?」一人の子が聞いたので、もう一人の子も「楽しい?」と聞いてきた。瞳が真っ直ぐだったので、松子さんは少しだけたじろいだ。
つまらなそうな顔したまま黙っている松子さんを、つまらなそうに彼らは見ていたが、すぐに厭きてしまい、二人して話し始めた。
「早く来ないかな」「早く来ないかな」
誰かを待っているのだろうかと思ったが、松子さんは自分が楽しいと即答できなかったことについて考えていたので黙っていた。
「もうすぐ太陽が潜るよ」
「潜るね」
「潜る?」思わず松子さんは口出した。
「潜るんだよ、海の中に太陽が。朝になるまで息を止めているから、真っ赤になってブハッて出てくるんだよ」
「ブハッて出てくるんだよ」
松子さんは、夜の海中でひっそりと息を止めている太陽が、朝になって、もがきながらブハッと顔を出すところを想像して可笑しくなった。
「あ、来た」
「来た」
「来たって何が? 何が来たの?」
「波だよ」「波だよ」
「波?」
「ほら、もうすぐだよ。飛ばないと、飛ぶんだよ」
「飛ぶんだよ」
彼らにつられて松子さんも、ぴょんと飛んだ。
「また来たよ、ほら」
指差す方向をみると、たしかに橙色に照らされて輝いている波が見えた。ゆうるりとこちらへ向かってくる。
「飛ぶんだよ」「飛ぶんだよ」
「うん」
三人で、ぴょん、ぴょん、ぴょんと波の上を飛んだ。彼らは、飛んだ後、きゃっきゃっと笑ったので、松子さんも、きゃっきゃっと笑った。同じ笑い声だった。
茅の輪くるり、君がくぐり。神社の境内にある蛍光灯は、バランスのいい数、ニ、のあたしと君を照らして止まない。ねえねえこの光ってば菅公の雷光の一千分の一かしら、そう言うと君が笑って、一万分の一にも満たないよ、と言った。
あたしは高校生になったお姉ちゃんが、唇と爪を真っ赤に塗りたくっているのを見て、無性に悲しくなって、つい金魚に向かって吠えてしまったのだった。どうしてあの子のことを急いで忘れたがるのか分からないから、勢いのままに二つの紅をお姉ちゃんの観葉植物に塗りつけると、昔より耳障りな怒声。微笑でバカにしてみます、君の眼差しの取り分を羨んだ分だけ。
茅の輪くるり、君がくぐり。ほんの少し出たところの大通りには、夜の10時をすぎても車がたくさん通り過ぎるけれど、神社に流れる時間は静かだった。うぶすなって何、そう言うと君が笑って、その人を産んだ故郷の土さ、と言った。
今日だって君の手紙がポストにあって、夜に会おうって書いていたのに、お姉ちゃんは見向きもしなかった。あたしが何度も腕を引っ張ったのに無視するから、ずっとあの子待っているのにひどいよって呟いたら、目を大きく開いて、だって気色悪いじゃないって怒鳴られた。何でそんなこというの、とあたしが叫ぶと、逃げるように早口で、だって年を取らないからって。
茅の輪くるり、君がくぐり。ヒトガタを体の悪いところに当てただろう、と尋ねてくる。あたしが頷くと君は、ここのご神体はただの絵にしかすぎないんだよ、と言う。気がつくと茅の輪の真ん中の向こうは夜よりもさらに暗かった。
「君は昔ヒトガタからこぼれ落ちた悪いもので、神さまに見つからないように、お姉ちゃんを連れていこうとして、でもそれができないからあたしを」
もうバランスの悪い数、三、にはならないことを知っている君は苦笑いをした。あたしはお姉ちゃんの代わりで、君は人の代わり、神さまさえも代わりであるなら。イヤだと答える代わりにこう言うしかない、……連れてって。
茅の輪くぐり、あたしがくるり。暗闇があたしを撫でる。それが気持ちよくてくすぐったくて鳥肌さえ立ってしまったけれど、夏の夜の蒸し暑さはいつまでも変わらなくて不快だった。
気がつくと人の腕の中。朝日が照らす心配そうなお姉ちゃんからは昨日の紅がなくて、君がどこにもいなくて、あたしは泣きそうになる。
その少年がオデュッセウスという名であるのを、純は初めて知った。
街の大通りの欅並木に囲まれて、彼は一人で立っている。右手に細い小枝の鞭を提げ、頭に月桂冠を戴き、正面を向いて立っている。
街のあちこちに置かれた彫刻の中で、純はこのすなおな立像がいちばん好きだった。他の像はどれもからだを不自然に捻ったり絡ませたりして、変なポーズを取っているのがまず気に入らなかったのだが、最大の理由は、それらがみな豊満な女性の肉体を持っていたからだ。
市民図書館への往きかえり、通りの両側の舗道から、無心な様子でどこか遠くを眺めている彼の姿を木の間がくれに認めるたび、純は甘やかな快感を覚えるのであった。撫で肩にすらりと伸びた四肢、薄くしなやかな肉づき、未だ発達しきっていないセクス……それらは少年の肌の温もりと、爽やかな若葉の息吹を、いつも苦しいまでに感じさせた。
それほど気に入っているのに、また通りの真ん中はちょっとした遊歩道になっていて、簡単に入れるにもかかわらず、正面から会いに来たのは、今日が初めてである。
純は台座の前に佇みながら、とうとう来た、と呟いた。すぐ足許から見上げると、青銅の肌は案外粗い。前髪の下の眼差しは虚ろで、どこか憂わしげにも見える。
とつぜん、吐き気と悪寒が襲ってきて、純はかたわらのベンチに座り込んだ。薬の副作用だ。
男性にはきわめて珍しい乳癌と診断されたのは、二ヶ月ほど前である。若いだけに悪性の癌は、しみ込むようにリンパ節にまで転移し、手術で取りきるのは不可能だった。今この瞬間も、抗癌剤は純の身体の中で、健康な細胞と凶悪に変異した細胞に、見さかいなく攻撃を加えているにちがいない。
──もし「奴ら」の方が強かったら……。
純は目の前に自分の右の掌を広げて、じっと眺めた。異性に興味を持ち得ない彼は、三十歳をすぎた今まで一度も、生身の人間と愛し合ったことはなかった。銅像のように硬く純潔なまま、この肉体は滅びくずれていく……。
気分が治まったので、そろそろと立ち上がった。写真を撮って、病院へ帰るつもりだったが、気が変わった。
──また、きっとここへ、会いに来るさ。
少年の姿を網膜に焼きつけてから、純は帰路についた。頭の上の梢で、小鳥がするどく鳴き交わした。
線路沿いの道は雑草だらけで、半ズボンの脛にカヤの細い先があたる。強烈なかゆみに襲われ手を伸ばして思い切り掻くと、肌に斑点が浮かび上がった。まるで夕日の飛沫のようだ。掻くたび数を増す赤い点を覗き込む。頭がくらりと傾いて、気がついたらしゃがみ込んでいた。足元で虫が繰り返し跳ねた。腰を上げ、一歩一歩草に踏み込んでいく。列車の走ってくる音が聞こえた。列車の通過したあと鉄橋をくぐり、一面の田んぼを見渡す。田んぼは山裾まで続いていた。そこに藪があった。
ハミがいるから気ぃつけないかんよと言った母親の声を思い出していた。風が吹き、足に枯れた藁が巻き付いた。ひぐらしが鳴いている。頭が割れそうに痛んだ。藪に近づくと風は一層強く吹いた。ハミがいるのかもしれないと警戒する。
「いるのは大抵子供のハミさ。必ずそばに親がいる」
あの時、咄嗟に脱いだ父親の下駄で少年はハミを叩き続けた。下駄は緑色に染まった。ハミはところどころ赤身をむき出しにして動かなくなった。少年は自分の身体がハミになって、草むらに横たわっているように思った。教わらなくても虫が跳ねるように、誰に聞いたわけでもないのに少年はハミに自分の姿を映した。自分が死んでしまったという恐怖に走り出し、もう片方の下駄も途中で放り出してしまった。玄関で盆提灯がからからと回っていた。
鉄橋の向こうでは、波が静かに打ち寄せている。夏の長い夕暮れが終わり、遠く家々の門灯がまぶしい。灯りを目にしたあとではよけいに、藪の暗闇は濃い。家の方角に高い合歓木があったはずだ。薄紅色に散った小さな刷毛を目印に少年は走ったのだった。だが、どこまで行っても藪から抜けられない。脛を冷気が走る。少年の身体は潮風に湿り、ちぎれた草がまとわりつく。カヤの先で切れた場所から細く血が流れ、立ち止まると一気に汗が噴き出した。いろんなものが身体の表面をぬめらせていた。やはりハミに呑まれたのだと少年は思った。そしてまだあの道を走っている。走っても走っても、合歓木はどこにも見あたらない。
ガラガラ、カラカラカラ、と、窓の外、鳴る音があるのだった。
時刻は午前二時半を回っている。
都立公園のホームレスの引き摺る、空き缶の音だ、と思った。それが静かに続き、細くなるのを、私は膝を抱えて聞いた。
眠らないのだろうか。
昼間ずっと空き缶を蹴潰している人がいる。公園大橋の高架下、網袋に放り込まれた空き缶を一つずつ、取り出してはケン、ケン、と潰す。
この音が、彼のものであるとは言えないのだけれども、きっとそうなのだろうなと思えた。
甘やかに転がるその音に惹きつけられていると、けたたましい、車の走り去る音がそれを遮った。耳に障るふくれた音の息苦しさに、私は顔を上げた。冷房に弱く冷やされた部屋の、薄い空気を吸い込んで、膝の間に顔を埋める。早まった心拍が落ち着くと、急に疲れた気分になる。
私はあの音の気配を呼び戻そうとした。
尾を引くような、しかし一つ一つの音は潔く、鐘の音に似た響きの。ガラガラ、カラカラカラ。目を閉じる。
私はそれに、夕方聞いた遠雷を思った。皮膚が震えざわめき立つような風はない。人の早さで静かに鳴る、ただ、永続を望んでも過ぎ去ってしまう。
あるいは、彼も同じだろうか。どういった理由、どんな気持ちでホームレスを続けているのか私にはわからないけれど、私などよりもとても多くのものが過ぎ去っていったはずだ。
空き缶の音は深く、引き摺る音も蹴潰す音も、なにか余韻を含んでいた。吸い寄せられるように、私はそれを聞いたのだ。
彼は身近にその音を置き、常にそれを聞きながら、どこかの淵に立ち続け、自らを削ぎ落して音を生んでゆく。
もしも生み続けて、いつか彼の悲しみや怒りや、諦め、楽しみなどもすべて削り落されたとしたら、次に削られてゆくのは生ではなくて、死であるような気がする。
私は、受け取った音に、彼が彼の日常を厭い、その何分の一かの気持ちでそれを愛しているのではないか、という、やや驕った見方だけれどそのような気持ちを、ぼんやりと思った。
少し眠りたい。瞬間に。それか、頭の中にしっかりと留めておきたい。でなければ今に車の音がして、今度こそすべてを流しさってしまうだろう。
予感は的中しようとしていて、ごう、という走行音の気配に、私は観念しつつも、何かの役に立つものかと思いながら、両耳をふさいだ。
血の流れる音がする。そういえばこれも、遠雷に似ていた。
どうすれば人を愛せるのか。
美しい女は愛された女であるなんて言われるが、彼女達は人を愛したのだろうか。愛したから愛されたのか。愛されたから愛したのか。マリリン・モンロー。マレーネ・ディードリヒ。ミニスカートのティギー。彼女達は人を愛したのだろうか。愛さずに美しかったのか。マリリン・モンローが何処かの野球選手と結婚したのは知っている。ショックを受けはしたが、すぐに離婚したことも、あたしは知っている。彼女は、もう五十年も前に死んでいる。そして今は、今は、今は、今は。今はいつだったか。
「書けばいいじゃない」
あたしの隣りの席で、女がメイクをしながら言う。
「書けば良いじゃない。そして今がいつか決めればいいじゃない」
「そうね」
あたしは彼女のメイク道具を手に取る。黄色のアイシャドウ。あたしは半裸のままで鏡に向かう彼女の胸に、数字を書く。
「2009」
「うん、2009」
「ふうん、2009ね。これで良いの? もっと自由に書いて良いのに」
「あたしこれで良い」
「四桁で良いの?」
「四桁で良いや」
「遠慮しなくて良いのよ」
「うん。大丈夫」
「そう。じゃあ、あたしは作るわ。あなたに、あたしに、服を作るわ」
彼女はメイクを終えると、忙しそうにトランクケースを開け、中からごっそりと服を取り出すと、それを切ったり縫ったり、また切ったりを始めた。
「あたしは服を作る。今日のファッションショーのために服を作るわ」
控え室を出る。カーテンを潜り、ステージの中央へ。ファッションショーはまだ始まっていない。人々はがやがやと、とりとめも無くがやがやと喋ったり飲んだり食べたり、音楽に合わせて踊ったりしている。
フロアの隅には美しいワンピースを着た、黒人のモデルが、その長い足をゆったりと組んで座っている。ひどく痩せていて、ひどく美しい彼女は、片目であった。左の瞼は大きく縦に切り裂かれ、右目は、窓の外を見ていた。彼女はきっと誰かに左目を捧げたのだろうなとあたしは思う。それくらいに人を愛せた彼女を、羨ましく思う。どうすれば人を愛せるのか。あたしは羨ましく思う。
音楽はけたたましく鳴り、ライトは眩しく光り、あたしは目を瞑る。目を瞑ると、音楽よりも、七色に煌めくライトの眩しさよりも、外に降る雨の音の方が気になってしまう。あたしは目をもう一度開け、そして半分だけ、閉じる。ファッションショーはまだ始まらない。夜はまだ、明けない。
誰もいない。私が用足しに行ったほんのわずかな時間のうちに、先程までそこに停まっていたはずの観光バスの姿はなくなっていて、ひどくがらんとした駅前には、犬一匹いなかった。これではまるきり置いてきぼりの除け者ではないかと思うも、格別怒りはなく、厭々参加した慰安旅行の結末など、こんなものだと妙に納得していたりする。それにしても列車で延々と移動したあげく、薄暮も迫るといったこんな時間にバスに乗り込むなどというのも妙な予定で、一体全体どこに向かう予定だったのか、手渡された旅のしおりなどろくに見はしなかったからよく解らない。解らないといえば、ここが何処かもまるで解らないでいて、駅前に案内板の一つも掲げておらず、妙に広い操車場の向こうには、この程度の街ならば、どこにでもあるような少し寂れた商店街があるばかりで、特色というものがまるでない。何にせよこんなところまで来て、すごすご引き返すのも癪だったから、朱に染まりつつある商店街の方へと足を踏み入れることにした。
人気がまるでないことを除けば、どこにでもあるといった風の商店街は、しかし、何故だか妙に懐かしい気がして、何か見覚えがあるものがありはしないかときょろきょろとするのだけれど、どうにも曖昧で、脳味噌を薄皮で包まれたみたいで、気持ちが悪い。街はどんどんと暮れて往きぽつりぽつりと街灯が燈り始める。
八百屋の前を通ると店の親爺が「瑞々しい白桃が美味しい季節だよ、どうだい一つ」などと声をかけて来て、ほう、もうそんな時季かと思うも、もとより白桃の美味しい季節など知りはしない。金物屋を通り過ぎた時、不意に名前を、しかも母親に名前を呼ばれた気がして、振り返ってみるも、死んでいるのか寝ているのか解らないような老婆がちょこんと煙草屋の店頭に座っているだけで、私の母親はまだあれほど年老いてはいない。昔見た古い映画にこんなシーンがあった気がして、いやあるいはもしかしたら自分こそが今そのスクリーンの中にいて、それを眺めている大勢の見知らぬ誰かがいるのではないかと、そんなことを思うのは一体全体何の錯誤だろうか。
いつの間にか商店街は途切れ、小さなバス停の前に、煌々と明かりを灯した町バスが、私が乗り込むのを待つように扉を開けていたのだが、何故だが躊躇われて、何かにすがるように振り返ってみるのだけど、そこにはぬばたまの闇があるばかりで、何もない。