# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 渋谷で結実 | 安藤 大 | 712 |
2 | ぽん!ぽん!ぽん! | 三浦 | 992 |
3 | 2本のハブラシ | メグ | 938 |
4 | 素敵な母 | 王源 | 996 |
5 | 北風と太陽 | 永瀬 真史 | 806 |
6 | なくした | 長月夕子 | 867 |
7 | 階段 | 新間優呼 | 587 |
8 | 槇さん | 黒木りえ | 1000 |
9 | 谷間にて | 赤井都 | 823 |
10 | ケアレス | 優下月 | 980 |
11 | そらのした | 江口庸 | 781 |
12 | 空振る妄想 | Shou | 998 |
13 | 火星少年チャーラン・プー | 朝野十字 | 1000 |
14 | 草むしり | 弥一 | 995 |
15 | 本当のおまもり | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
16 | ゆるく笑う | 西直 | 1000 |
17 | 棘 | 野郎海松 | 908 |
18 | シューティング・スター | 川島ケイ | 1000 |
19 | ツキ | 三池朝子 | 313 |
20 | 穴 | 戦場ガ原蛇足ノ助 | 988 |
21 | 物体ヤボ | 紺詠志 | 1000 |
22 | うっかりミス | 逢澤透明 | 143 |
23 | 恩返し | 神差計一郎 | 1000 |
24 | 春風、それも歌か | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
25 | 葬儀のあとで | 五月決算 | 1000 |
26 | ハレとケ | くわず | 1000 |
27 | げじげじまゆげ | 朽木花織 | 995 |
28 | あの空の向こう | マーシャ・ウェイン | 991 |
29 | アメリカひよ鳥 | 海坂他人 | 1000 |
30 | 愛しいものの名で | 真央りりこ | 984 |
31 | 自転車レース | 曠野反次郎 | 688 |
渋谷のど真ん中に柿の木がある。その上で私は吊るされている。
これはセッカンだ。悪いことをしたからには罰を受けなくてはならない。だが、ここ渋谷では、柿の木に吊るされた男なんて誰も相手にしない。誰も私を見ようとしない。五感からフルに刺激を取り入れているところでは、人が吊るされているという事実も、柿の木のぱっとしない色彩も、もはや刺激としては扱われない。
こうなってくると、これはもう罰にはなっていないのではないだろうか。
確かに、後ろで縛られた手にはもう感覚が無い。これは切断するしかないかもしれない。
確かに、濡れた下着は不快だ。だが誰も見ていないところで羞恥心など存在しようも無い。
しかし、いまさら下ろされても、もう私には3才になる娘を抱く資格は無いだろう。この鮮やかな紫になった両手で。あと、尿も付くし。
柿の木はもろい。折れてしまわないかが心配だ。私は今やここに吊るし続けられる事意外、何も望んでいない。このまま柿の実になれたらどんなに幸せだろう。そうすればカラスやスズメや専門学校生風の若者が私を喜んで食べてくれるだろう。専門学校生はそんなに喜ばないかもしれない。でもいい。私は渋谷のど真ん中で喜びそのものとして発光していたい。罪を養分としてオレンジに鈍く輝く柿の実になりたい。
そして私は柿の実になった。
空気は冷たくなって透明感が増している。柿の実になった私の幹の周りを、ありとあらゆる色彩が渦になって流れている。その流れにくぼみを造っている灰色の背広姿。あれは少し前の私だ。仕事上のミスでバイトに説教された私の背中は完璧な曲線を描いている。そして私は私にむかって手を伸ばし、私を、もいだ。
「だれか!柿泥棒を木に吊るせ!」
国家間の最終的解決にジャンケンが採用されたことに関しての資料は何も残されていない。今ではそれが当然になっているし、何よりわたしがその「ジャンケン役」を務めるとあっては、穿った考えを頭に入れるわけにもいかなかった。
わたしたちの国は今、大洋を隔てた先にある大国と「ジャンケンする」状態にまで関係が悪化していた。資源を出し渋り、間違った駆け引きを仕掛けたわたしたちの国は、大国主義の気紛れに引っかかってしまったのだ。どちらも愚かだけど、それでもわたしは、追い込まれたこの国を救う側に立たなければならない。
第一回のジャンケン日がやってきた。ジャンケンは五回勝負、一年かけて行う。勝ち越せば有利な内容を相手に突きつけることができるし、その上限は勝利数で上下する。
相手国のジャンケン役はいかにもやり手という印象の男だった。見た目以上に大きく見せる品格、精悍な顔立ち。
各国の報道陣、両国の首脳陣を脇に置いて、わたしとその男は壇上へ進んだ。国を左右するにはあまりに簡素な卓を挟んで対面する。
「よろしく」
男は差し出した手の上で、これからスポーツの試合でも始めるかのような笑みを浮かべていた。
「ええ、よろしく」
わたしも慌てて返すが、取り繕ったみたいに不自然なものだった。先手を打たれてしまった。
開始のブザーがざわついた開場を静める。見た目にはわからない異様な緊張感が一気に広がる。
「じゃん、けん」
「ぽん!」
グー。
パー。
勝った。
でろんと空気が緩む。報道陣は自社に報告するため一斉に開場をあとにし、わたしの国の首脳陣は飛び上がって喜びたいのを必死に堪えているようだった。わたしも取り敢えず胸をなでおろす。その時、壇上を去る男の背中が、つまみ食いをめぐる勝負に負けたくらいにしか感じていないような印象をわたしに残した。
そのわけは、二勝二敗まで縺れた最終戦で明らかになる。
初戦を含めた最終戦までの彼の手は以下の通り。
グー ×
グー ○
グー ○
グー ×
……そう。彼は「グー」しか出していないのだ。
「よろしく」
恒例となった握手を交すわたしたち。
「ええ、よろしく」
開始のブザー。
わたしは彼の表情を読んだ。
彼は、これから悪戯を仕掛ける子供のように笑っていた。
…………。
「じゃん、けん」
「ぽん!」
グー。
……グー。
あいこ。
彼が笑った。
わたしも、笑った。
「ねぇアツシ、ピンク嫌いじゃなかった?」
「え、何で?」
正直、ヤバイと思った。
アイのものは全部片付けたはずだった。押入れの中に。
「だって“ハブラシ”・・・。」
そう言って彼女、ユイは風呂場の横の洗面台を指差したのだった。
アイはいつの間にハブラシなんか・・・。
透明なグラスに入る青とピンクのハブラシ(しかもお揃い)は、俺の焦りをあざ笑うかのように日光に綺麗に反射していた。
あぁ・・・俺としたことが。
この『二股』は完璧だったはずなのに。
「あ・・・あぁ。前のが古くなっちゃって、買いに行ったらピンクしかなくてさ。」
「その割に・・・どっちも新しいみたいだけど。」
彼女は洗面台の所まで行き、その2本のハブラシを手に取った。
そして、ゆっくり下の方に目をやった。
彼女が見たのはごみ箱で、そのごみの中の一番上には、ほんの数日前まで俺が使っていた青色のハブラシが無造作に捨てられていた。
アイの奴、俺が浮気できないようにこんなことしたのか?
ハブラシが2本って言ったら・・・『同棲』してるって思われるじゃねぇか。
畜生。細かい細工するなっての。
「誰かと住んでるんじゃないの?」
「ま・・・まさか。」
俺は思わず一歩、後ずさりをする。
「だって2本のハブラシでさぁ・・・しかもアツシが嫌いなピンクだよ?ピンクが好きな彼女なんじゃないのぉ?」
ユイは口を膨らまして言った。
「違うよ!間違ってもないよ。俺は・・・2人の人と付き合うなんて、器用なことできないからさ。」
そう言って、俺は自分の頭を掻いた。
もちろん、これは演技であって、俺の放った言葉も全てが嘘だった。
アイにもユイにも悪いとは思っているんだけど。
「ホント?」
「・・・うん、ホント。」
そして俺は得意なはにかんだ笑顔を見せる。
「もぉ、しょうがないなぁ。信じる、信じるよ。」
ユイは呆れたように言って、そして俺の唇にキスをした。
「ありがと。」
俺は彼女をそのまま抱きしめた。
胸をズキズキ言わせながら。
ユイが帰って、1人でぼーっと考えていた。
いつまでこんなこと続けるんだろうか。
嘘ついて、2人と付き合ってるなんて。
実際、今はアイもユイも好きだ。
卑怯すぎる俺と、2人は一緒にいてくれてる。
俺は2本のハブラシを見つめ、つぶやいた。
「そろそろ・・・ケジメつけねぇとな・・・。」
六年前、二十一歳の何も分らない私は留学生として大きな夢を持って、日本の地を踏み立った。二週間後、アパートの礼金、敷金や二ヶ月の家賃や学費などを払って一文も残らなかった私は急にアルバイトをしないと生きていけないという残酷な現実に陥っていた。やむをえず、毎日、学校から住んでいるアパートまで各駅の近い店にアルバイトを探すようになった。
店に入って一言「アルバイトを募集していますか」と聞いたら、どんな返事が来ても、聞き取れない私にとってはさっぱり分らなかった。探しまくった後夜中11時頃最終電車を乗って、家まで辿り着くと、くたびれるより空きすぎたお腹の痛さは耐えられなかった。家から持ってきたほんの少ししか残ってないおこげを早速水に入れ、口の中に飲み込もうとすると、急に無数の針が胸を刺しているような哀しみが湧いてきた。どうして日本にくるのか、何でこんな精神的な苦労をしなくてはならないのか何遍も自分のこころに言い聞かせた。
このようにいヶ月が経った、げっそり痩せているもうそろそろ死にそうな私が先生に学校から10分ぐらい離れている牛清という焼肉屋さんに連れて行かれた。そこを経営しているのは母だった。先生が母に私のことを全部話した後に母が優しい目つきで私を見、「うちに来てください、私は面倒を見る」と先生に言った。
いつも母の店を入ったら、豊富な夕食を目の前に出してくれ、果物と甘いものは絶対に欠けない。母に言わせると「果物は体にいいから、あなたに栄養を付けなくちゃいけない、甘いものは大好物でしょう、好きなものを食べると元気が出るよ」。
仕事中、私がどんなに分からなくても、どんなにできなくても、母はいつもジェスチャーしながら、ゆっくり優しく教えてくれた。時には、情け深く穏やかに「最初は言葉は分からないから、難しいけど、慣れれば、簡単に出きる。人間って、できないことはない。頑張れば出きるんだ。」と母がこのように毎日励ましくしてくれたおかげで、私は仕事にも、勉強にも、自信を持つようになり、心の中に失った夢や意志がだんだん戻ってきた。
牛清は木曜日が定休日になっている。毎週木曜日学校がなければ、母は必ず私をどこかに連れ、日本の美しい風景やいろな日本の伝統的なお祭りを見せてくれ、私に早く日本の生活に慣れるように心がかけている。母の愛は私の淋しい心を癒してくれた。私に二度の人生をくれた。
外はあいにくの雨模様で燦々と輝く太陽を今日はお目にかかることが出来なかったのですが、太陽様はきっと冬仕様の生活を送っていたのであると思われます。夏に早起きで朝の4時ともなると外は遠くまで見渡せるくらい明るくなっていて、夜の6時くらいまでは子供が外で遊んで大丈夫といったように朝から晩まで長い時間お仕事をなさっていました。しかし、冬ともなると太陽様は寝ぼすけになられて我々人間の起きる時刻と同じくらいに目を覚まされ、夕方の5時ともなると就寝なされるようになるのです。
それは北風様のせいなのです。北風様は太陽様とは仲がよろしくないようで、太陽様のよくお働きになる夏などには姿をなかなか見せません。太陽様は我々人間達が外で活動なさるのをお空から見るのがとてもお好きなのです。それに対して、北風様は秋から冬にかけて積極的にお姿を見せます。北風様がお姿をお見せになる頃にはあいにく低気圧様が勢力を伸ばされますので、北風様に乗って一緒にやってくるのです。太陽様や我々人間は寒いのが苦手なので、北風様の事があまり好きではありません。ですから、太陽様は早くお仕事を切り上げてしまうのです。
我々人間からすれば、北風様がお姿をお見せになられる事はあまり好ましい事ではありませんので部屋に篭りがちになってしまいます。でも、北風様は太陽様と同じくらい我々人間の事が大好きなのです。太陽様の事が大好きなのです。我が子のように思っているのです。それが悲しい事に、寒いと言う理由で太陽様は仕事を早めに切り上げてしまうし、人間はあまり外で活動しないのです。北風様は残念に思います。風という職業は地球という会社の中では役割がとても重要なので、なかなか日本に顔を出す事が出来ないのです。お仕事の都合でやっと顔を見せることが出来たのに、太陽様や人間達の姿を長い間見ることが出来ないのです。そうやって毎年秋から冬にかけて北風様は吹き続けるのです。
インターフォンが鳴ったので、玄関のドアを開けた。
そこには彼が立っていた。
「なくしちゃったみたいなんだ。」
と彼が言った。
「何を?」
と聞くと
「それが思い出せないんだけど、とにかく君の部屋でなくしたみたいなんだ。」
玄関で話していても仕方がないので、私は彼を部屋に入れた。
なくしたものの大きさとか色とか形とかを聞いても、思い出せないと彼は首を振る。仕方がないので、好きなように捜させる事にした。どうせ2DKの狭いアパートだ。さがすところなんて限られている。
彼はまず玄関の靴箱を開け一通り見終わると、キッチンの引出しやら開きやらを片っ端から調べていった。それからお風呂場、トイレ、トイレは便器の中まで覗いた。
しかし目的のものは見つからないらしく、次から次へとさがし続ける。
またキッチンに戻って塩の入ったビンまで開けたので、「そんな小さいものなの?」と聞くと、「わからない」と首を振りながらも、さがす手を休めなかった。
フローリングの部屋も、テレビの下とかビデオの奥とか本棚の隙間とかカーテンの裏とか闇雲にさがし回っている。
「ねえ、何か手がかりのようなものはないの?ひとつでもあれば、私も手伝えるよ。」
そう声をかけたが、彼は黙って首を振った。どうしようもないので、私はそんな彼の姿をただ見ているしかなかった。
「こっちの部屋も見ていい?」フローリングの部屋を一通りさがし終わって、彼が言った。
「いいよ。でも、タンスくらいしかないけど。」
隣の和室のドアを開ける。そこには本当にタンスしかない。
彼はそのタンスを、上から順番に丁寧にさがしていく。けれどやっぱり見つからないようだ。
押入れに気がついた彼は、そのふすまをそっと開けた。
そこには男がいる。男は膝を立てて座っている。体を壁にもたれさせ、首は不自然なほどうつむいている。右手がだらりと下がっている。しまってある布団はぐっしょりと血を吸い込んで真っ赤に染まっている。
「ああ。」
と彼は言う。
「俺がここでなくしたものは、俺の体だ、、。」
「忘れてたの?」と私が聞く。
「、、、忘れてた。」と彼が答える。
ぼくの毎日は、いつもこの階段から始まる。
学校へと続く、300段。
最初のうちはとてもきつくて、上るのが嫌だったけど、近頃はだいぶ慣れて、
むしろこの階段がなければ頭がすっきりせず、一日のはじまりが台無しになってしまうような気さえするようになってきた。
ぼくがいつものように階段を上り始めると、うしろからとなりの家の山田くんが追いついてきた。
「やあ、おはよう」
ぼくが声を掛けると、山田くんも返事をしてくれる。
「うん、おはよう」
ぼくらは階段を上りながら、話をした。
「昨日の夜、救急車の音で目が覚めたんだ」
話をしながらぼくは、上っている階段の段数を数えていた。
1,2,3……。
ぼくがその話題をしたときは、ちょうど100段だった。
「へぇ、そう」
山田くんがそれに答える。
「聞こえなかったの」
「うん、聞こえなかった」
「なんでも、ぼくらと同い年の男の子が突然倒れたらしいよ」
「そうなんだ」
101,102,103……。
階段はちょうど200段のところまできた。
「すぐに病院に運ばれたんだけど、今日の朝、死んじゃったんだって」
「それは可哀想に」
山田くんは、さも他人事のように言った。
201,202,203……。
ついた。300段だ。
「本当に、可哀想だね」
「うん」
ぼくが歩きだすと、山田くんはそこに立ち止まったまま手を振った。
「それじゃ、ぼくはここで」
そうして山田くんは、天国への階段を上り続けていった。
槇さんは壁にもたれかかるようにして眠りこんでいた。かがみこんでキスしたくちびるは冷たくて、あたたかくないのが悲しくて、あごに手をかけてそうっと上を向かせてくちびるを舐めていたら、ふと眉がよせられて、それからすこし遅れてまぶたが持ちあがった。
「‥‥らせん?」
わずかにはなれたくちびるから、息がもれるみたいにかすかにささやかれたことばに僕が首をかしげると、槇さんもつられたように首をかしげてみせる。ねぼけてた?とたずねると目だけでうなずく。僕はもういちど槇さんにキスする。こんどは槇さんも応えてくれる。
「ごめんね、起きてられなくて」
いいよ、と僕はのびかけた槇さんの髪を手で梳きながら言う。頭いたいんでしょ。
槇さんは体が弱い。一日の半分以上は寝ていて、起きているときもあまり活発に動けない。この部屋を借りるときに僕は槇さんのために寝心地のいいりっぱなベッドとやわらかい羽毛のふとんと、それからおおきなビーズクッションを買った。どこで気分が悪くなって座りこんでしまってもいいように床に毛足のながいじゅうたんをしきつめた。そのせいでなんだか成金趣味のようなホテルのような部屋になってしまったけれど、そんなことはかまわない。どうせこの部屋に他人を招ぶことはないのだから。
槇さんの病気がどんなものなのか、はっきりしたことは分からない。子供のころから体の弱かった槇さんは病院にあまりいい思い出がないらしくて、行きたくないと言うし、僕も無理強いしたくない。僕にできるのは槇さんの言うとおりにすることだけで、槇さんは抱いていてほしいと言うから、抱いていてあげる。キスしてほしいと言うから、キスする。キスは僕も槇さんにしたいことだから。
槇さんには家族がいるけれど、僕は槇さんをさらってきた。槇さんが死にたくないと言ったから。槇さんは家族にたいせつにされてきて、でもだれも槇さんの病気を治してあげられなくて、僕がはじめて会ったとき、槇さんはほとんど死んでいた。僕の手をにぎって、死にたくないと槇さんは言った。だから僕は槇さんをさらって、この部屋でいっしょに暮している。
僕の肩に頭をのせていた槇さんが、重い荷物を持ちあげるように首をあげた。キスして、の合図に僕は応える。どうしても、くちびるが冷たい。いくどキスしても、抱きしめても、槇さんのくちびるも体も、いつも冷たい。
槇さんは、僕の名前を呼んでくれない。
250ccオフロードを駆り単独ツーリング途中、山道の小さなカーブでエンジンを切った。
喉がからからだ。コッヘルを持って川に降りると、川べりには三人の僧形の者が座っていた。水を汲もうとする私を留めて言う。
「あなたがわたしに、何か話を聞かせてくれるなら、この川の水をいくらでも飲ませてあげましょう」
「あいにく、話の持ち合わせがありません」
応えたとたん、ばさりと幕を引いた夜になり、背後から放り投げられるように飛ばされていた。落ちたのは、三人の首のない男の足元だった。立派な鎧装束をつけているのだが血と泥に汚れていて、いかんせん首がない。
「そら、また一人来よったわ」
「おぬしなら見つけられるかの」
「早く見つけてたもれ」
傍らのうすくらがりには、川原の大石と見えて、首の塚があった。どれも刀で切り取られたものらしい、血みどろの首の山にすっかり驚愕していると、また背後からどん、と突かれるような衝撃があって、首塚の中に押し倒された。ごろごろと首が幾つも私の両脇を転がり落ちた。
「さあさあ、夜が明けるまでにな」
「われらの首を見つけてたもれ」
「できなければ、おぬしの首も切って塚に混ぜるわな」
三人の武士の手元で、抜き身の刀が血で錆びかけている。
私は首を一つずつ取って、武者の肩の上に載せた。目を剥いたもの、舌が飛び出したもの、血で髪が固まったもの、どの首も置いたとたんにごろごろと転がり落ちた。
次第に空が白んでくる。首を探すふりをして少しずつ遠ざかり、踝を返して逃げ始めた。
すぐに後ろから、どん、と飛ばされる衝撃があった。
「これで話が、できるわな」
「する話が、できたわな」
「聞かれてする話が、できたわな」
朝の日差しが山の端を照らし、木々の葉が光り輝いていた。川原に覆い被さる緑は記憶にあるものよりも鬱蒼として感じられ、いつの時代のどこの朝なのかもわからない。私がこれから会う最初の人に、助けを求めてする話は、この話に違いない。喉がからからだった。
僕は・・・、いつも何時も・・・つきに見放されていた。
小さい頃から、ケアレスミスの連続。
―――そんな・・・―――
大事な最後に、失敗する。詰めが甘いせいだろうか。
テスト。 人間関系。 予約録画に恋愛・・・。
最後の最後で・・・何時も嫌な結果を見てきた。
―――不公平だ―――
何度そう思ったか・・・、数え切れない。
運命の女神・・・もし居たらそいつをのろってやる。
そこまで思った。
これまでは。
―――運命の女神・・・―――
そんな物は居ないだろう。僕は偶然に引き合わせられたんだ、きっと。
彼女と目が合ったとき、そう感じた。
そして、それは当っていた。
幸せな日々が始まった。
「おい、西川?」
「何?」
あの出会いから半年ほどたっていた。
「もしかしてさー、お前彼女とか出来た?」
「何で・・・そんなの居るわけ無いよ。」
「・・・」
武田は無言に疑いの目を強め、そうはしながらも戻っていった。
―――勘のいい人だ―――
男の勘というものは在るのだろうか。少なくとも、
―――武田は気付いた―――
僕はそう思った。
―――けど・・・―――
僕も馬鹿じゃない。
成績だって何時も二三番手だ。
―――一番にはなれないけど・・・―――
嫌な事を思い出した。
・・・忘れよう。
今思えば武田は何時も僕のそばに居た。
邪魔だった。
僕の予定が狂うとき、
―――アイツが・・・―――
あいつの影が見え隠れしていた。
―――又、・・・壊される―――
―――武田に―――
僕は本気でそう思った。
計画は完璧だった。
誰にもばれなかった。
―――もっと早くやれば良かった―――
そうとさえ思った。
たった一人の男の死。誰が困るものだろうか、誰が悲しむだろうか。
誰も、何も、変わらない。
そう・・・全てが、
―――これで良かった―――
僕の幸せは持続する。
僕の思いでは、一生だ。
綺麗だ、彼女は綺麗だ。
彼女にだけは悪いけど・・・。
―――もう少し暖かい日が良かったか、な―――
思えば最後の最後まで・・・、詰めが甘かった。
揺れている、風に。
まだそれに意思があるかのように、あがなうかの様に。
僕は首をつっている、公園の中。
僕は幸せだった。
―――もう壊されない―――
僕の夢は。
僕は静かに。
僕は、少しだけ悲しかった。
不公平な日々は、・・・もう終わった。
藍は純情女学園の高校二年生。小学校の頃から幼なじみの晴久と遊んでいた。しかし、中学生のあるとき急によそよそしくなっていました。しかし、藍は晴久が好きでした。部屋にいると晴久のことばかりが思い出されてせつなくなりました。ある日曜日の朝、飼っていた犬がいなくなりました。夫婦喧嘩があると、犬は情緒不安定になり家中をかけ回ります。今朝は勝手口が開いていて出て行ってしまったのです。藍は血相を変えて犬を探しに行きました。犬は藍の宝物でした。探しに出ると向こうから晴久が来ました。上気しうつむいて通りすぎようとしたときに、藍はポケットから小銭をまいてしまいました。すると、晴久が拾ってくれました。どうしたのだと聞かれた藍は犬のことを告げると晴久も探してくれると言いました。晴久の自転車の後ろに乗せてもらって散歩する道をたどりました。地蔵前公園の空き地、ざりがにを取った団地裏の沼、山の木々を伐採して作り出したうねりある勾配の草原。藍と晴久は幼い時代を追憶して行くのでした。ふたりは疲れて広い草原で寝転びました。晴久はどうして中学の半ばからつれなくしたのかを語りだしました。晴久は自分の部屋から藍のお母さんがひとりで、いえ正確に言うとひとりと一匹で愉しんでいるのを見てしまったのです。晴久はそれから、藍の家族と距離をおくようになってしまったのでした。沈黙がふたりを覆いました。風が低い草の葉先をいっせいになぜたとき晴久は藍の手を握りました。胸騒ぐ藍は晴久にゆだねました。あっというまの永遠の幸福を感じました。そして藍は思いました。お母さんも犬の「そら」に慰めてもらっていたのね。私はもう要らない。どうりでわが家はバターの減りが早いはずね。雲ひとつない空の下、ふたりは甘く見詰めていると、お母さんの声がする。振りかえると「そら」を抱き抱えながらうれしそうに走ってきたのでした。
何の変哲も無い部屋。
椅子。机。ランプ。窓。
ありふれた家具。そして、ありふれた男。これらが部屋をなす。
その男を破壊する為に、任務が始まる。
変わった男。その奇怪さゆえに世間からは狂人扱いだ。精神鑑定は受けていないが多分正気だと思われる。
性格に深刻な問題はあるが。
奇怪さ。それは、その熱意。部屋の外に立つと中から聞こえてくる笑い声。
何かが起こっている。頭の中で。
ありふれた男の名前は山田太郎。名前自体はありふれていない。
その部屋の中で、椅子に座り、机に向かっている。何もしていない。
変わった男の任務、それは命令達成。
命令は山田太郎の破壊。ただし殺すな。
夜と共に訪れる影。
「ホ−ッ」
変わった男はサインの鳴き声を上げた。梟の鳴き声。
サインの鳴き声と共に影は動き出す。影の正体は自明。
変わった男は窓ガラスにガムテープを窓一面に貼っている。それを拳で一撃。
音もなく窓ガラスが割れる。ドラマで観たのだろう。
狂気が始まる。
隣にいた憐れな男はいささか間抜けた質問をしたために、
その場で射殺されてしまった。しかしそのおかげで俺にヒントを残してくれたとも言える。
その死を無駄にしてはならなかった。
その質問。
「C子さんとD室は存在するのかっ!」
その質問に対し謎の仮面の人物は軽く笑って男をもっていた拳銃で撃った。
轟音と共に弾は男のこめかみに命中。即死だったろう。
たとえどれほど命が尊いものであるにしても失われる時は実にはかない。
その謎の人物。ぶらぶらした手。拳銃を持っている。
細めの体型。かなり背は低い、か。
そして顔。すぐ目にとまる仮面。一昔前、仮面ライダーと呼ばれた代物ではなかったか。
気まぐれな死。とても恐ろしい。自分にいつ降りかかってくるか分からない、
というかいつ降りかかってきてもおかしくはない。この状況では。
つまり恐ろしい状況だったと言う事だ。
ヒント。女の発言。
拳銃を発砲したすぐ後にその人物、こうつぶやいた。女と分かった理由も発言にあり。
「私がC子さんよ。」
無論、男は死んだ後だったのでその答えには意味がないとも考えられる。少なくとも自分以外には!
その夜、山田の家は5人の狂人に押し入られたと週刊誌には書いてある。
その見出し。「なんたる不運!はちゃめちゃナイト!」
このような週刊誌が存在する以上、全ては非現実だ。
その夜、山田は家にいなかったらしい。普段から何も考えない男だったし、何も考えずに外出したのだろう。
私の弟は小学五年生である。家庭訪問に来た弟の担任はめくれた唇をぺろりぺろり舐めて常に薄笑いを浮かべていた。
「これが孝太君の答案なんですがね」
どの教科も九十点以上で特に算数は満点だった。氏名欄に五年三組チャーラン・プーと書いてあった。
「本名がチャーラン・プーだと言い張るのです」
母は困惑しつつも本名は杉本孝太であると答えた。
「ご主人が外国の方なんですか」
「いいえ」
母は離婚したので、母がこの家のご主人である。言葉を知らない男である。
「しかし幾分は外国の血が混じっているとか」
「いいえ」
「腑に落ちませんな」
血が混じっていようといまいと関係のない話である。そんなことを気にする教師のほうがよほど社会人として腑に落ちない。
夕食時、弟に聞いてみた。
「なんで答案用紙にあんな名前、書いたの」
「今まで隠していたけど、ぼくは火星人なんだ。本名はチャーラン・プーなんだ。これからは本当の名前で生きるんだ」
弟は火星人のくせに勉強は真面目にやっていた。私は近所の弟の同級生の女の子に学校の様子を聞いた。弟のクラスでは二学期直前に自殺した女の子がいたらしい。いじめにあっていたらしい。クオーターで美しい褐色の肌の少女だったそうだ。それ以来、弟は自分が火星人であると言い出したそうだ。担任は、火星人は授業に来なくていいと言ったそうだ。孝太は転校したことになって、クラスのみんなが色紙に寄せ書きを書いて、担任が「さようなら孝太君」と書いて弟に渡したそうだ。
弟は体に青痣をつけて帰ってくるようになった。学校は見ぬふりをしているようだった。父なら、学校に怒鳴り込みに行くだろうか。兄なら、いじめっ子を殴り返しに行くのだろうか。けれども私は姉であるのでそのようなことはできなかった。母は心労が続いてそろそろ倒れてしまいそうだった。
ある夜、弟は庭に出て火星を見上げていた。茶色のシャツを着たなで肩の小さな後姿は柴犬みたいだった。
「君は自殺した女の子を助けてやれなかった自分自身が許せないのだろう。本当は学校でも社会でもなくて、君自身が強くならなきゃだめだろう」
弟は返事をしなかった。火星のことを考えているらしかった。火星では一生懸命働いてはいけないそうだ。皆が平和に暮らしているそうだ。火星人は自由で誇り高い種族だそうだ。
「火星に帰りたい。火星に帰りたいよ」
不意にそう言って、彼は、ぽろりぽろり、大粒の涙を流した。
保育所から帰ると、かあちゃん、お八つと叫ぶ。でも、かあちゃんの返事がない。うちの周りを探したら、庭の隅っこで草むしりしていた。日差しが厳しい。頬っかむりの顔が真っ暗で見えない。
かあちゃん、お八つだってば。
すると、かあちゃんが、少しは手伝ったら、どいが! と、手に持つ鎌を振り上げて、ボクを追いかけるのだった。
小学校の四年だったかの頃、ボクは、家の手伝いが大好きだった。雪がたっぷりと降って、二階から出入りしていた時など、朝、昼、午後、夕方、晩と、休みの日は、雪掻きに精を出した。
春になり雪が溶け出してからは草むしりに汗を流した。雪の白を蹴散らすように草の緑が辺り構わず芽吹いてくる。ボクは、両親の言われるがままに、あれを活かし、これを根こそぎ、引っこ抜くのだった。
中学も卒業する頃だったか、ボクは生意気盛りになっていた。名もなき雑草と親達が手塩にかける名前も立派な花々や植木とを区別するのはおかしい。どっちも懸命に生きている、咲いている、それをえこひいきするなんて、納得が行かない。
そう言って、草むしりも家の手伝いも、そして親の呼びかけも拒否し通した。
ボクは、羊蹄 (ぎしぎし)やら、鼠麦 (ねずみむぎ)、掃溜菊 (はきだめぎく)、屁糞蔓 (へくそかずら)などというヘンチクリンな名前の花々を見知ったのもその頃のこと。これらが蓮華とまではいかなくても、せめて露草とか白詰草 (しろつめくさ)なんていう名前を付けてもらっていたら、花輪の花に使ってもらえたかもしれないのに。
あれから何年が経ったろうか。ボクは家を出たっきりだった。その間に、父は足腰が衰え、母は体も弱っていた。その上、母は、植木の世話の際に、葉の先で眼を傷め、庭の世話どころか家事さえもできなくなってしまった。
草むしりをする人は誰もいなくなっていた。雑草も何も区別がなくなっていた。花壇の枠も崩れ去り、名のある花の脇には野草の数々が好き勝手に生えていた。畑には鍬の筋も見出されなくなり、生えているのはネギなのか雑草なのか分からなくなっていた。
そう、気がついたら、若い頃のボクの願った通りの光景が我が家に出現しているのだった。ポツンポツンと絢爛豪華な花が咲き、その脇では地味さを誇るかのような小花が咲き乱れ、寂びた鎌を下草が覆い尽くしていた…。
ああ、でも、ボクはこんな光景を望んでいたのだったろうか。
オープン最初の仕事は、雪かきだった。長かった下積みを終え、ようやくバー「ヨーク」を開いた田中君に、従業員を雇う余裕はない。商売道具であるグラスを揃えるのがやっとだったから、雪かきのシャベルを買うのも負担だった。
田中君は安物のシャベルしか買えなかったが、柄をビニールテープで補強し、ブレード部分が錆びないように毎回磨くことを忘れなかった。ざっくざっく雪をかいてその冬を越した。
雪が溶け、桜が散り、太陽がまぶしい夏になったころ、「ヨーク」にも何人かの常連がついた。新人デザイナーの吉田さんもその一人だ。
「あたしデザイナーなんかやめようかな。だって、あたしが今まで格好いいと思っていたもののほとんどは会社の宣伝の受け売りだったんだもん。格好いいものを知らない子たちに、みせかけの格好よさで踊らせるなんてまっぴらよ。ねえ、本当に格好いいのはたとえば、このバカラのグラスじゃなくて、それを磨くあんたの手なのよ」
田中君は下積みのデザイナーの辛さが手に取るようにわかった。
「吉田さん、いいものあげようか」
「なに、いいものって。お酒かな」
「残念、ちがう」
田中君は倉庫からシャベルを取り出してきた。
「ただのシャベルじゃない」
吉田さんは笑いとばした。
「まあ、おまもりにどうだい」
それから数年たった。
吉田さんはデザインの会社をやめて、自分で服をつくりはじめた。最初は流行と関係なしのデザインに注目は集まらなかったが、吉田さんは自分がいいと思うものしか作らないスタイルを貫きとおした。
泥まみれになったとき格好良さが増すような服、が吉田さんのテーマだった。「ヨーク」に集まる人たちを思い浮かべながらつくった。それは雑誌やテレビに取り上げられることはすくなかったが、確実にファンを増やしていった。彼らは、吉田さんの服を着ていると、自分の信念を曲げずに頑張れると口々に言った。
吉田さんはときどき、居間にたてかけてあるシャベルを手にとる。念入りに手入れされていたおかげで、その刃は今でも鈍い輝きを放つ。
「バカラより、あんたの手」を思い出すたびに赤面し、(でもあれは良いことを言ったぞ)と甘酸っぱい一夜を回想するのが吉田さんの本当のおまもりになっている。
ある晩、電話がなった。
「おれ、もうこの仕事をやめさせてください。なんかちがうんです」
慌てて話すのは新人の村田君だ。
「いいものあげるから、うちにきなさい」
吉田さんは電話を切った。
同じクラス男の子に偶然出会った。隣の席の子。夕方で学校帰りで、彼はゲーセンから出てくるところだった。目が合ったので笑い掛けた。わかりやすい反応だ。
笑い返してきた彼の目は、的確に私の口元を捉えていた。彼は「よう」と低く言い、それからすっと目を逸らした。私は手の甲で口の端を擦った。
よくあることで、私んちは今けっこう荒れている。親父の浮気がおかんにばれて以来、家には常に重くて冷たい空気が流れている。兄貴がその空気にのせられたのか、やさぐれモードに入り、変に笑うようになった。笑いながら冗談っぽく殴り掛かってくる。表情や声は冗談っぽいのに、けっこう本気の力で殴ってくる。で、今、口の端が腫れている。口の中も切っていて、笑うと軽く痛い。
私は私んちの家庭事情を特に隠してない。言い訳とか苦手。聞かれたら答える。彼に聞かれたことはないけど、たぶん知っているんだろう。殴られて腫らした顔を、彼は隣でよく見ていたから。
まあ、そんな彼は一週間ほど前から学校に来なくなっていた。理由はよく知らない。色んな噂が流れていたりするけど、よくは知らない。最近少し塞ぎ込んでいたような印象もある。隣の席で、だから気にしてなくもなかった。
しばらく気まずく黙り込んだあと、「飯でも食う?」と彼が言った。私は少し躊躇いながら頷いた。
「おごり?」
「違う」
訳アリっぽいけどよくわからない彼と、ヤな家庭事情の私。
安っぽいドラマのようで、笑えなくもない。ずっと無言だった。でも歩いていくうちに気まずいのも次第になれていく。
ふと、これがドラマなら傷を舐め合う場面なのだろうなと思う。同情しあったり、可哀想だと言い合って慰め合ったり。あるいは、
「やる」
「え? 何?」
「ん? いや、何も」
安いAV……、いやいや、昔の青春映画のように。上手くいかなくてむしろ落ち込んだりとか。でもそれがかえって青春っぽくなって、ゆるく笑えてしまうかも。……なんて。
そんな中学生日記なことをぐだぐだ考えながら、学校近くのお好み焼き屋に入った。ぎこちない感じの私ら二人。顔なじみの店の人が心配そうに見つめていた。いい人だ。
食べながらもごもご、「気が向いたら学校来なよ」と私が言い、「気が向いたらね」と彼ももごもご応えた。ほんと中学生日記。
私はつい苦笑。それを見て、彼も私と同じような苦笑を返した。まあ、安っぽいドラマのワンシーンみたいなもので。
「わたしを愛してる?」
寧音は訊いた、僕の答えはいつも同じ、
「もちろん」。
彼女は決まって俯いて、
「でも抱きしめてはくれないんだね」。
しかたない。寧音にはハリネズミのような棘が無数に生えていたのだ。抱きしめれば、僕のからだは無事では済まない。
「君を愛してる」
僕は言う、彼女は僕をじっと見つめる、僕は彼女の鼻先をそっと撫でてやる、そこだけは棘が生えていなかったから。彼女は鼻をすすって、微笑もうと努力する。僕はもっともっと彼女を愛そうと努力する。
僕と寧音には某大学の教授や、ワイドショーのレポーターや、人権団体の活動家なんかが、夜昼となくまとわりついていた。
教授は寧音の皮膚組織のサンプルが欲しいと言い、レポーターは寧音の好きな食べ物やアーティストを知りたがり、活動家は人々を啓発するため立ち上がるべきだと迫った。寧音は彼らを避けていたが、僕の方はまんざらでもなかった。僕は、ハリネズミのような棘を持って生まれたかわいそうな女の子を愛し、守り、慈しんでいたから。
「ねえ、本当にわたしを愛してる?」
寧音は一日に何度となくそう訊くようになった、
「もちろん」。
僕の口調は、知らず知らずのうちに見えない棘を育てていた、
「ならいいの。わたしにはあなたしかいないから」。
しかたない。その頃の僕にとっては、僕自身があまりにも愛すべき存在でありすぎたのだ。今だって、僕のこころは無垢じゃない。
僕が、ある芸能プロダクションと専属契約を交わした日、寧音はとつぜん僕のもとを去った。裏切られたような気持ちだった。僕は彼女のためを思ってそうしたのだ。彼女が嫌っていた教授やレポーターや活動家を遠ざけるには、そうするしかなかったのだ。
けれど彼女は去った。
僕のバスルームに、無数の棘が切り落とされて散らばっていた。僕の中で、何かがぴしりとひび割れた、その何かは二度とひび割れる前の状態には戻らなかった。
僕は僕を去ることはできない。僕は僕を占めなければならない、どれだけ孤独でも。自分に言い聞かせたが、うまくいかなかった。
「君を愛してた」
そのことばを抱きしめると、僕の心には無数の穴が開き、風がひゅうひゅうと通り抜けていく。
菜穂は射的がとてもうまい。
僕のキーホルダー、ハンカチ、ストラップ、腕時計、カード入れは、すべて彼女が撃ち落としたものだ。バレンタインデーには、くるみ入りのチョコレートに命中させてくれた。
そのお返しに、僕は彼女におもちゃのピストルを買ってあげた。包みを開けた彼女は、けげんそうに僕を見上げる。
「本物じゃないよね?」
「そりゃあ、ね」
それでようやくほっとしたように微笑んだ。
菜穂はおもちゃのピストルにおもちゃの弾を込めて、星空に向けた。普段はどこかぼーっとしたような彼女の表情が、そのときだけはピシリと引き締まる。いくぶんやわらいだとはいえまだ冷たさの残る風が、彼女のマフラーをふわりと揺らす。その風は僕の鼻腔もやさしく撫でた。くしゃみが出そうになるのを、鼻をつまんで慌てて抑える。
パスン、という乾いた音が、あたりに響いた。
菜穂はじっと空に銃口を向けている。残響、と呼べるほどでもないそれがあたりから消え、そしておそらく自分の耳からも消えてしまうのを待ってから、彼女は手を下ろし、またいつものようなゆるっとした表情に戻った。
「ありがとう」
彼女は引き金に指をかけたまま、僕によりかかってきた。かすかな香水の匂いが僕を包む。銃口は僕の肩に向けられている。警察が通りかかりませんように、と僕は願う。ホワイトデーにおもちゃのピストルだなんて、と僕を撃ち抜くようなことは、菜穂はしないはずなのだ。
彼女を抱き寄せたいけれど、その前にこの銃口を何とかしなくてはと思い、僕は肩をよじる。
パン、という何かのはじけるような音が、遠くから聞こえてきた。僕が撃たれたわけではない。肩は痛くない。
顔を上げると、白い小さな光がいくつも空にまたたいていた。急に星が増えたかのようにも見えた。おだやかな光をたたえて、ゆっくりと広がっていく。
「当たった」
と彼女がつぶやいた。
しばらくその光景に見とれていると、ひとつの光が僕たちのところへ落ちてきた。手のひらを上に向けて、それを受け止める。弱々しいながらも、美しく白い光をたたえている。
空を見上げた。星がひとつ消えている、ような気もするが、はっきりしたことは分からない。分からないけど、きっとそうなのだ、と僕は思う。
あの星に生き物はいたのだろうか、とふと気になったけれど、聞くのはやめにした。彼女がそんなヘマをするわけはない。
手のひらの星が、小さくまたたいた。
運のツキ空の月。
私の癖は反省してしまう事だ。
「持ち越し苦労」。
母はいつも私に言う。
けれどそれがそんなに悪い事なのか私にはわからない。
例を挙げるとあの時もそうだ。
もっと話が上手だったら。
確かに私は彼の女になれたかもしれない。(―確かに?)
だけどそれが一体どうだというのだろう。
或いは彼は悪人で、私が身を滅ぼしていないとも言えないのだ。
空に、黄色いぽっかりとした月が置き去りになっている。
―私は思う。
先の事を心配する能力― 過去を悔やむ能力―
どちらも空想のなかの自分と現実を、秤にかける、愚かな知恵。
後者を恐れる為に、前者を遂行する事も可能!
ひんやりしたベランダの床に膝ついて思う。
心配と後悔は、人の性。
―私は、後者が好きなのだ。
目覚めたドーナツは、胸にぽっかりと穴が空いたような気分でした。それで自分の胸に手をやってみるとどうしたことでしょう、本当に穴が空いているではありませんか。
驚いたドーナツは飛び起きて鏡の前に立ちました。間違いなく体の中心がくり抜かれています。ドーナツはあまりの衝撃に全身茶色くなって、部屋の隅で水を飲んでいた職人さんに詰め寄りました。
「穴が空いている」
「ああ、空いているね」
「何か、とても大事なものを無くしてしまった気がする」
「気のせいだよ」
職人さんは首に掛けたタオルで汗を拭って、面倒臭そうに答えました。
「どうしてそんなことがわかる」
「何を言っているんだい。君には初めから穴があったじゃないか」
そう言われて、ドーナツははっと息を呑みました。目覚める前の記憶がひどく曖昧なのです。目の前にいるのが職人さんだということはわかりますが、喉元まで来ている彼の名前が出てきません。自分が今何という町にいるのか、知っているはずですが言えません。
「そうだったかな」
「そうさ」
「でも、それならどうしてショックを受けて茶色くなったんだろう」
「何を言っているんだい。君は初めから茶色かったじゃないか」
そう言われて、ドーナツはじっと自分の体を見つめました。茶色くなる前は何色だったのか、やはりドーナツ自身答えることができません。
「でも、確かに何か、胸の辺りにあったと思うんだけどなあ」
「さあさあ、もうすぐ出荷の時間だよ」
職人さんに促され、ドーナツは渋々元いた場所に戻りました。その場所を何と呼んだらいいのか考えてみましたが、わかりませんでした。
暗く狭い場所に閉じ込められて、ドーナツは送り出されました。運ばれる道すがら色々なことを思い出そうと努めましたが、切ないような悲しいような、やるせない気持ちばかり込み上げてくるのでした。
やがて光が射し込んできました。まばゆいばかりの太陽の光を浴びても気分が晴れなかったドーナツは、ああ、まるで胸にぽっかりと穴が空いてしまったようだ、と呟き、それを自分でもなかなかの名言だと思いました。
しかし明るい場所に出たのも束の間、突然ドーナツは真っ二つにへし折られてしまいました。自分の片割れが見る見る内に遠ざかって暗い穴へと呑み込まれて行くと、もう胸の穴の心配をする必要もありません。撫で下ろす胸を持たないドーナツは、ただ目を閉じて横になりました。
どうにもこうにもヤボったい物体が出現していた。
それが六本木ヒルズに現われたのだからたまらない。道ゆく人びとは眉をひそめ、なるべく見ないフリをしたが、その物体に注意を払っていることには変わりないのだから憎悪は増すばかりだった。
物体は、大きいと言えば大きいが、わざわざ言うほど大きくはない。形は球体と見てよさそうだけれども、どこかいびつで釈然としない。灰色がかった白が基調ながら、部分的に濃淡のムラがある。全体につるつるしているが、シワが寄っているところもあり、細かい毛がはえているらしいところもある。
ビルのあいだに浮かんで、まごまごしている。つねに動いているようだが緩慢で、風向きに沿ったり沿わなかったりだ。壁にあたっても跳ねかえらず、忘れたころに壁から離れる。のろのろと上昇を始めたかと思えば、いつのまにか下降している。パッと見事に消えたかと思いきや、ただ半透明になっただけで、それがじわじわまばらに色を取り戻す姿は、見る者をイライラさせた。
UFOだと思って集まった人びとは、みな舌打ちをして帰った。未確認の飛行物体ではあるが、だれもこれをUFOとは認めたがらなかった。新聞はもちろん、ワイドショーも無視した。
ヤボな物体は六本木をなんとなくさまよったあと、東京中をなんとなくさまよった。そして、ゆく先ざきで憎まれた。原宿、渋谷、代官山、とかなんとか、およそ物体の似つかわしくない場所での憎悪はことさら高く、秋葉原や巣鴨でさえも、やはり物体はヤボったかった。新宿や五反田では、男たちの酔いと性欲をいささか冷ました。永田町を通過したが、国会で問題にならなかった。大学のキャンパスに浮かんだところで、教授も学生も研究しようとしない。自衛隊の施設に侵入しても、サイレンは鳴らなかった。
目の前にあっても、窓の外にあっても、恋人の背後に浮かんでいても、だれもそのことを口にしなかった。態度のうえでは物体の存在を認めないが、だれもがその存在を認めてしまっていた。ただホームレスだけは、まったく物体に注意を払わなかった。カラスもつつかず、野良犬も吠えない。
やがてヤボな物体は、御台場あたりをなんとなくさまよったあと、ゆっくりと東京湾に沈み、海辺のカップルを安心させた。ようやく恋人たちは、ムードあふれるキスをした。
それから数年。あれは今でもヘドロの底に沈んでいるのだろう、と内心だれもが思っている。
博士「うっかりミスをなくす機械を発明したぞ! これで全世界から、うっかりミスがなくなる」
助手「へー」
博士「さあ、スイッチを入れてみろ」
助手「はいはい。あれ? 動きませんよ」
博士「バカを言え。ちょっと見せてみろ。あれ? 電源が入らない、故障か……」
助手「博士。……コンセント抜けてますよ」
その村には、ある夫婦が住んでいました。
夫は勇敢であり、数年前に村を襲った山賊数人をたった一人で皆殺しにして以来、村の英雄でした。そしてその山賊に捕えられていた女を妻に向かえたのです。
女は美しいと評判で、しかもその女の優しいことといったら、夫が台所を這っていた御器齧りを叩き殺そうとしたところを、これ以上の殺生はいけないと夫を押し止め、御器齧りを紙に包んで外へ逃がしたこともあったほどです。
始めの頃、女は助けてくれた恩返しにという思いで夫に懸命に尽くしました。しかし女の身、抱かれるうちに恩返しという感覚は次第に薄れ、変わりに慕う気持ちが強くなっていったのです。
二人の仲は睦まじく、誰もが羨む夫婦でした。しかし近隣の領主の間でいくさが起こり、夫が武士として名を上げようと妻の必死の制止に耳も貸さず村を発ってしまいました。こうして、いつまでも続くと思われた幸福な生活は、崩れ去りました。
数ヵ月後、妻は流れ矢に中ってあっけなく死んだ夫のことを伝え聞きました。
以来、残された女の周囲には男の亡霊が出るようになりました。女に言い寄る男の枕元には、きまって亡き夫の亡霊が立つのでした。祟りを恐れた村の男達は誰一人として、いまだ若い未亡人に近づけないでいたのです。
そんな話をどこから聞いたのか、蒸し暑い真夏の日、ある旅の若者が女の小屋を訪ねました。若者の姿形が夫に瓜二つであったものですから、女は夫が帰ってきたのかと思うほどでした。
若者は護符を取り出し、念仏を唱え、ついに亡き夫の亡霊を調伏したのでした。
そして、これは無理からぬ事。女は若者に恋心を抱いてしまったのです。しかし若者は旅を続けなければならないと、女を拒みました。
「後生でございます。今宵限りでも構いませんから。もう、もう独りきりは嫌なのです」
女の悲痛な訴えに困り果てた若者は、一晩だけ女の家に泊まることに決めたのでした。
そこへ以前、女に言い寄った村の男の一人が無粋にも二人のまぐわいを覗き見しようと小屋の障子の隙間から中を覗いたのです。
男は小屋を覗き見たその刹那、目を剥いて仰天し、腰を抜かして蜥蜴の様に地を這って一目散に逃げ出しました。
男が見たものは、揺らめく灯台の下、甘く艶やかに喘ぐ女。そして重々しくゆっくりと交わっていたのは、忙しなく宙をまさぐる長い触覚を持った、布団のように大きな漆黒の御器齧りだったのでした。
愛犬を連れ、海へ散歩に出掛ける。久しぶりの散歩に犬は手綱を引きちぎらんばかりに興奮し、わんきゃん鳴き散らしながら私の周りをグルグルと回った。犬という生き物は、本当に可愛い。
海にたどり着く。春はすぐそこまで来ていた。海は未だ氷りづけのままである。波音は全く聞こえない。静かな、とても静かな海である。だが日は高く、風はぬるみ、実に気持ちが良かった。春はすぐそこまで来ている。
若者達が砂浜にドラムセットを組み、ギターにアンプを繋ぎ、歌を歌い始めた。良いね。下手くそな音楽だけれども、良いね。海がこんなふうに物凄く静かだとやっていられないものね。春の初めのこの季節は、海がこのようなこの季節は、歌でも歌わないとやりきれないものね。私なんかは人を初めて憎んだとき、憎んでしまったとき、とても暑くて、焼き切れんばかりに暑くて、それなのにとても寒くて、そしてとても静かだったから、波の音くらい無いと、とてもじゃあ無いけれどやっていられないよ。音楽無しじゃあ、未だに手が震えて、震えが止まらなくて、気が狂いそうになるよ。
手綱を放すと、犬はもう十四歳、人間で言えば私以上、相当な高齢であるにも関わらず目眩滅法に走り出し、転びながら放尿、嬉ションをし、またジグザグに走り出すのだった。
音楽。歌。犬のわんきゃんいう鳴き声。風が吹く。微かに海から氷の軋む音がそれに混じる。春はすぐそこまで来ている。
砂浜に立てられた重厚な金屏風に、がつんと音を立て犬が激突した。狩野派風の見事な金屏風で、犬は見事に吹き飛ばされたが、すぐ立ち上がるとまた小便を漏らしながら走り始めた。金屏風の前には着物の女が居て、咲き始めた花々を素足で踏み散らしていた。
「あたし、金魚が好きでねえ。金魚をおまつりでいつも買うのだけれど、でも必ず死なせてしまってねえ。だからあたしはいつも泣くことになるの。金魚はばらばらに砕けていってしまってねえ、赤いかけらになっていってしまってねえ、それがとても綺麗でねえ、赤いばらばらのかけらはとてもとても綺麗でねえ」
女は踊るような動作で花を踏み散らし続ける。
「泣きながらそれを見てねえ、あたしはとても悲しいのだけれどねえ、とても、とてもやりきれないくらいに、悲しいのだけれどねえ」
ああ、解るねえその感じ。そうか、そうだね。悲しいね。だが美しい。なるほど。それも生か。それも死か。それも踊りか。
それも歌か。
仕事を終えて、車でやっと妻の実家についたときは深夜になっていた。まだ、家の明りと人の声が漏れている。
「喪主を誰にするかでもめているの」
出迎えてくれた妻の第一声だった。
義父が亡くなったのが今日。知らせを受けた近隣の親類が集まって、誰が言い始めたのかは知らないが、式のことで意見の対立があるようだった。妻には八つほど歳の離れた弟がいる。義母は私達が結婚した五年前には、もう鬼籍に入っていた。私にはもめるほどの選択肢はないように思われた。
翌朝になると、今度は葬儀の宗派でもめていた。本家が浄土宗、分家が浄土新宗ではおかしいと激論が交わされていた。まだ若輩の妻と義弟の意見などには耳も傾けない本家の年寄り達が、勝手に己の意見を主張しているように見えた。
散々もめた末、義弟が喪主となって本家の宗派にそう形で葬儀は速やかに行われた。
あれだけ口煩く難癖をつけてきた親戚一同は疲れたといって各々勝手に休んでしまった。
手伝いに来てくれた近所の人達へ頭を下げ、葬儀社と雑務を打ち合わせる。
妻一人が忙しく動いているなか、家の中に急ごしらえで作られた祭壇を前に、私と義弟は終始ぼんやりと座っているだけだった。
義父のお骨を抱いて火葬場から戻ってくると、またもや紛争の火種が持ち上がった。
どの墓にお骨を収めるか、ということだった。義父のたてた義母の入っている墓があるのだから当然そちらに、と勝手に思いこんでいた私は、「本家の墓」の大切さも今一つ理解できず、わざわざ分骨にしてまで双方の墓に骨を収める必要性がまったく理解できなかった。それでも、私が口を挟む話題でないことだけは自覚していたので、すべての話し合いを聞いているだけの姿勢に徹していた。
そんなこんなで初七日が終わる頃、妻は見るからに憔悴していた。ずっと他人事のような顔をしていた義弟も、連日続く親類との話し合いにはさすがに疲れているように見えた。
納骨も終わり、私達の自宅に帰る車中で妻が言った。
「私が死んでも葬式なんてしなくていいわ。家族の前でお坊さんにお経あげてもらって。お墓もいらない。永代供養がいい。盛大な葬式なんかしたら反対に化けてでてやるから」
「……別にいいけど。それよりも、悲しいときにはちゃんと泣いておいた方がいいぞ」
返答はなく、車中にはラジオの音だけが流れていた。自宅につくまでずっと車窓の外を眺めていた妻の顔を私は見ていない。
佳也子がいつの間にか昼寝から起きて、畳に膝を突き、窓の桟に体を預け乗り出すようにして外を眺めていた。真上から少し傾いた陽の光が、佳也子の背から腰に覆い被さるように部屋の中へ雪崩れ込んでくる。
「これ、おやめ」
七恵は奥の仏間で縫い物をしながら、足をばたつかせる佳也子を嗜めた。それでも佳也子の両爪先は尚緩く狂った調子を打ち続けた。
佳也子が畳を打つ「たんたたん」という調子に、七恵はあらぬ方へ縫い筋を持っていかれそうになる。
「そんなしたら、畳が傷む」
自転車が一台、家前の路地を通り掛かった。タイヤが乾いた地面を掴んでは離して行く音が、七恵のいる仏間にも漂う。
「かんぶつやのおじちゃんやぁ」
自転車はそれに応えるように鈴を一つ二つ鳴らして遠ざかって行った。
七恵は鈴の音色を耳に留めながら、針が布切れを潜り再び頭から浮いて出て来るのを瞬きせずに見詰めていた。
「佳也ちゃん、外に何かおるん」
顔を上げたが、窓の外に何がいるのか七恵からは見えなかった。
「何がおるんかお母さんに教えてな」
小さく弾けるような笑い声を上げながら、佳也子は窓外の何かに心を吸われているようだった。
「ちょっと、佳也子」
寂しさと焦りの渦を喉元で凝り固まらせ、楽しげな佳也子の声に無理矢理割り込ませていく卑しさが、七恵にそのようなこわい声を出させるのだった。その苦さを押し込め染み込ませるように、七恵は一針一針縫い続けた。
佳也子は今初めて気づいたように振り向き、「ねこがすずめをとろうとしてさっきからしっぱいばっかりしよるんよぉ」と屈託のない声で応えた。
布切れに目を落としたまま、七恵は「そう」と聞き流す風であった。
野良猫は舞う雀に馬鹿にされながら、諦めずに捕らえようとしているのだろうか。飢えて細った脇腹を精一杯伸ばして、雀に爪を向かわせているのだろうか。七恵は布切れの上に、窓外の見えない風景を投げ掛けていた。
「佳也ちゃん、もうお昼寝はええの」
「おとんがかえってくるのここでまつ」
強い陽差しに、佳也子の表情も赤い寝着も白く塗り潰されて模糊としている。
七恵は余った糸を歯で切り、ゆらりと立ち上がった。
「お父さんは帰ってけえへんよ」
そう言いながら、縫い終わった滅紫色の布を仏壇の神鏡にそっと被せた。
七恵は正座で少し痺れた爪先を、畳の上でとんとんと打った。
佳也子は窓外から目を離し、七恵が打つ畳をじっと見詰めていた。
土曜日の午前10時43分に、げじげじまゆげの女がやってきた。あたしがテレビを見ていたところで、チャイムも押さずにやってきた。誰なんだ、どこの何様なんだと文句の一つもつけてやりたかったけれど、寝転がって堂々とテレビを見始めたものだから、ついつい声をかけるタイミングを見失ってしまった。
それにしても何というげじげじまゆげ。毛虫のような、なんて表現も生ぬるい。横がこめかみのあたりまで生えていて縦が額の真ん中まで陣取っているそれは、いつの日か顔の外にはみ出してしまうのかもしれない。
そう思ってつい触ろうとしたところで、逆に腕を捕まれた。止める間もなく彼女のもう一方の手で、あたしの額に円が描かれる。するとそこにぽっかり穴が開き、すぐさま中へ指を入れられ優しくまさぐられた。それが痺れるように気持ちよくて変に甘い声が出たところで、引き抜かれた彼女の手にあったのは白い小さな花。
一体あたしのどこにそんなものが隠れていたのだろうと首を傾げていると、彼女は大事そうにそれを懐にしまい、そしてまた何事もなかったかのようにテレビに向き直った。そこで急にあたしは眠たくなってしまったのだけれど、女の前で寝るのはいやだったから、外へ出ることにした。
道の途中の四つ角で、きれいな三日月のような形をしたまゆの男の人にぶつかった。その勢いで彼は開きっぱなしのあたしの額の中に思い切り手を突っ込んでしまい、そのまま抜けなくなってしまったようだ。焦った相手が力任せに腕を引っ張ったので、あまりの痛さにあたしは涙を浮かべる。でもとにかく我慢して足を踏ん張り勢いよく後ろに下がるとすぽんと抜けて、彼の手にあったのはおたま。赤い取っ手のステンレスおたま。美々しい彼にあまりしっくりこない代物だったけれど、あたしはお近づきの印にそれをプレゼントすることにした。
ところが彼は笑っておでこの中に返す。
「それは君のものだから、僕は受け取れないよ」
急いで家に帰ると、女はまだテレビを見ていた。あたしは先ほどの花を、自分のものだから返すように要求する。女は無表情のまま、あたしのおでこをさっと触り、穴を閉ざした。
そして、返せない、と柔らかな笑み。
「だって。あまりに美味しそうだったから、もう食べてしまったのよ」
あたしは女の額にでこぴんをして、それから、湧き上がってきた感情に従い相手を抱き寄せた。10時53分のことだった。
塔のてっぺんへと続く螺旋階段にはたくさんの死体が転がっていた。外は晴れ渡る空からの太陽で燦々と輝いているというのに、この石造りの塔は薄暗闇に広がる湿りと血と汗の匂い、こだまする軍人たちの声の残響が支配している。耳の奥で静かに鳴り響く怒号、銃声、叫び。どこの国の誰の声とも知れない。どこからどう間違ったのか知れない。我々は殺し続けた。醜い獣たちでも、妖精でもドワーフでも悪魔でもなく、同じ人間を。
彼らはどこにいったのだろう。
階段を降りようと思う。家に帰りたかったのだ。家に帰りたい。「家に帰る」という響きがなぜか心を打った。
階段をゆっくりと降りてゆく。壁づたいに。戦闘で疲れたのだろう、力があまり残っていない。倒れないように片方の腕を壁について支え、バランスを取りながらゆっくりと降りてゆく。死体の間を、死体の上を歩いて。
小さな窓から光が洩れている。青空と緑の草木と、遠くに森が見える。少し冷たい風が、ふと私の顔を撫でる。
突然、涙が溢れてきた。最初の一粒が流れてしまうと、あとはもう止めどなかった。止めようがなかった。止める必要はないし、どうしようもなかった。ただ、何に対して涙を流しているのか、何のために流しているのかが分からなかった。悲しかった。悲しくて悔しかった。でもその対象はわからない。なぜわからないのだろう。悲しいのはわかる。人をたくさん殺した悲しみだろうか。悔しいのもわかる。自分の無力さに対する悔しさだろうか。でも、私はそんなことは考えていないのだ。何も感じない。こめかみの奥に映るのは、青い空を飛ぶ私だ。カラダは軽く翼は風を簡単にとらえ、空の高みへとぐんぐん上がってゆく。街や人はどんどん小さくなってゆく。私はどこかに飛んで行ってしまいたい。私はなぜ泣いているのだろう。
生き残るのだ、と思った。数えきれない人間を殺し、私は生き残るのだ。さっきまで銃を持っていた両の手はまだ震え、発砲の重いリアクションの連続に肩は疲れきっている。そういう全ての重さが、私に「生命」をおしえていた。
階段はいつまで続くのだろう。私をどこへ運んでゆくのだろう。どこでもいいからまた、あの青空の下に戻りたい。どこでもいいから、あの空のもとで死にたい。消えゆく声のこだまに、私は連れてゆかれたくない。消えゆく力を振り絞って、殺して殺して殺して、進む。いつか、誰かに殺されるまで。
あたたかくなって来て、今年も庭にクロッカスが咲いた。黄と紫の小さなつぼ型の花が肩を寄せ合う風情は、見るからに微笑まれるような可愛らしさである。
特に何の手入れもしていないが、冬枯れの庭に例年いち早く春を伝えてくれる。今年は特にみごとに咲きそろった。
去年まではこれほどの眺めはなかった、どころか、無残なものであった。というのは、ここにひよ鳥なるいたずら者があって、春の妖精のように可憐なクロッカスたちが地上に姿を現すや、何処からともなく飛来し、花が開くか開かぬうちに片端から啄み、むしり、散らし、食ってしまうからである。
今年こそは人間もクロッカスのお花畑を鑑賞したいので、二つの対策を施した。その一つは花畑の周囲に棒を立てまわし、紐を張りわたすことである。これによって、明らかにひよ鳥どもは侵入を妨げられたようであった。
もう一つには、彼らに他の食物を提供する。
最近うちでは「韃靼そば茶」なる飲みものを喫する習慣があって、これ元はいかなる植物の実であるか、あたかも文鳥か何かに与える餌みたいなものである。
人間がいいかげん飲んでふやけ切った出し殻を、庭の反対のすみの大きな花梨の鉢の根元に晒してみたところ、ひよ鳥には殊のほか好評を博した。あまり食いすぎて、腹を下してその辺で死んだりしたら、今はやりの悪い病気と疑われはせぬかと冷や冷やするほどである。
これで花畑も護られ、ひよ鳥も食欲を満足し、八方丸く納まったかと思われたが、世の中そう単純には行かない。
庭には以前から雀の群れも来ていた。彼らはほとんどは地べたをちょんちょんと歩き回って何か突ついているが、やっぱりこのそば茶に惹きつけられているのである。
時に勇気あるはね返りものが、花梨の鉢に登って、すさまじい勢いでかっ込んでいることがある。しかしその至福は長くは続かない。どこかで見張っているひよ鳥が、耳をつんざく叫び声とともに特攻をかけてきて、あっという間に追い払われてしまう。
自分が食べるために追っ払うのではなくて、とりあえず追っ払って安心する。そば茶という貴重な資源の産出する領域を、なわばりとして排他的に確保したいらしい。
この行状により、彼には「アメリカひよ鳥」なる綽名が付いた。ここしばらくうちの庭は鳥どもの相争う修羅場と化しているが、そば茶の供給を止めるわけには行かない。食い物が無くなって花を荒らされては困るからである。
駅への裏通りに一軒のペットショップがあって、ピンクの看板の横にトリカゴが並べられている。トリカゴは三段に積み上げられ、その位置は日々変わる。文鳥と十姉妹が並んでいるときもあれば、インコばかりが三段積み上げられているときもある。それら金網のトリカゴとは違い一回り大きな竹のカゴが、いつも入り口のすぐそばに置かれていた。ぱむという名前だと店の主人が教えてくれた。九官鳥だった。
椰子の実みたいなぱむの体がふたつ分入る横長のカゴで、ぱむはカゴの両端にある止まり木を行ったり来たりする。ぴょんと跳んで行き止まり、向きを変えてまたぴょんと跳んでは行き止まり。濃紺の羽を貝殻のように固く閉じ、よく動く目で周囲を捕らえる。細く突き出た黄色いくちばしが開かれるのを、まだ見た事がなかった。
夕刻のペットショップには、女子高生が立ち寄る。四.五人のグループが次から次へとぱむのカゴを覗く。女の子たちはぱむを見ると口々に言い合った。
「かわいいー」
「かわいいねぇ」
「まじかわいい」
ひとしきりの「かわいい」を言い終えると、今度は先を争ってぱむに話しかけた。
「こんにちは」
「言うかな」
「言うでしょ、普通」
「これ、九官鳥でしょ」
「犬に見える?」
「犬もしゃべるらしいよ」
「こんにちは。はい、言ってみて」
「こんにちは」
「犬じゃないんだから」
「じゃ、わんわん」
「言わないじゃん」
「だから、こんにちはだよ。基本だもん」
「こんちは」
「こんにちは」
「こん」
「略しすぎ」
「やだー、通じないー」
言葉はぱむの体をすべるようになぞり、竹カゴの隙間に抜けていく。女子高生の膝上プリーツに日暮れが絡み、影を伸ばし始めた。
「欲しいねー」
「めちゃ欲しい」
「欲しくない?」
「欲しいー」
影はしゃべりながら延々と路上を歩き、決して消えることのない耳鳴りのようにあたりかまわず響いた。夕暮れの町に欲しい欲しいと鳴く影を、時折車が轢いて行く。その度にぱむは呼んだ。
「きぃぃー。きぃぃー」
ぱむの回りに積まれたカゴの鳥たちが騒ぎ出す。何十羽もの鳥のくちばしが一斉に開かれ、羽ばたきに乗って産毛が散った。それは「欲しい」という言葉を飛ばしているようでもあった。人の言葉が闇に消え、ぱむの言葉がそれに替わる。いや、始めにあったのは、ぱむの呼び声だったかもしれない。
すでに『欲しい』という言葉の意味を、私はどうしても思い出せなくなっていた。
どうやら日暮れが近いらしく、傍を通り過ぎてゆく自転車は、みな黒いシルエットになっていて、時おり街灯にぼんやりと姿を映し出されるのも束の間、そう広くない道を何かに急き立てられるように、先へ先へと急いでいた。
僕も彼らに遅れてなるものかと、懸命にペダルを漕ぐのだけれど、思うように速度が上がらず、もう何か必死なとでもいうべき有様になってしまって、口惜しい気持ちで一杯になる。
その僕の気持ちを見透かしたように辺りはどんどんと暗くなっていき、彼等が、ああも急いで自転車を走らせていたのは、成る程、日暮れに追いつかれないためだったのだ。合点するも、それだからといって速度が上がる訳でもなく、僕はもう殆ど暗闇に飲み込まれてしまって、諦めに近い気持ちを覚え、ペダルを漕ぐのを止め、そのまま自転車を滑走させた。
もうまるきりあたりは闇だとついに観念すると、いままで燈っていなかった電柱の街灯がいっせいに瞬き、まるでスポットライトに照らされたみたいに、僕は灯りに晒されてしまった。唖然とすると共に何か違和感を覚え、その正体を探るように目線を彷徨わせると、照らし出されくっきり浮かび上がった僕の影が懸命にペダルを漕いでいて、思わずじっと見つめてしまう。影の方でも僕が気付いたことに感づいたようで、さらに懸命にペダルを漕ぎ、やがて、ぷつりと、僕から離れ、明るくなった道をどこまでも駆けていった。
必死で自転車を走らせる影を見送ると、何故だかひどくせいせいとして、その僕の気持ちに合わせるように、街灯が瞬くと、一斉に消えた。
ああ、これで良い。何もかも良いんだ。と、僕は真っ暗闇の中、一人そう思う。