# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 取り扱い説明付き | 長月夕子 | 991 |
2 | 靴と民子 | 三浦 | 979 |
3 | 冬の熊さん | 宇加谷 研一郎 | 615 |
4 | 人らの殺人入門! | Shou | 1000 |
5 | 窓辺に珈琲 | 荒井 | 481 |
6 | 怪獣になって空を飛ぶことについて | 蟹 | 957 |
7 | 父の年賀状 | 江口庸 | 775 |
8 | ハーフなライフ | ジョン億三郎 | 999 |
9 | 老婆の戯言 | akoko | 780 |
10 | 大飛球 | プライス | 989 |
11 | ふうせん屋 | 黒木りえ | 1000 |
12 | 父親・失格 | 綾村操 | 733 |
13 | ふーとらるーの冒険 | 朝野十字 | 1000 |
14 | (削除されました) | - | 970 |
15 | 求人広告 | マーシャ・ウェイン | 971 |
16 | チータ | 西直 | 1000 |
17 | 正義の味方 | 真央りりこ | 1000 |
18 | 筋引き | くわず | 997 |
19 | バンダナ・シフト | Nishino Tatami | 994 |
20 | リップクリーム | 川島ケイ | 1000 |
21 | 腐れ名月 | 曠野反次郎 | 1000 |
22 | 東京ど真ん中 | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
「運転手さん!なるたけ急いでください!」
僕はタクシーの後部座席でほとんど腰を浮かせていた。
「任しておいてくれ!お客さん!そういうことならちょっと飛ばすよ!」
いよいよ妻が産気づいた。予定日よりも少し早いので心の準備が整わない僕は、落ち着け落ち着けと自分をなだめた。
同僚との会話が頭をぐるぐると回る。
「やっぱり立ち会った方がいいよ。いい経験だしな。」
「俺も立ち会ったけど、こう、身の引き締まる思いだったよ。」
僕も、絶対に立ち会おう。そう、心に決めたのだ。
タクシーは半ばつんのめりそうになりながら病院に到着した。
「お客さん!がんばるんだよ!!」
運転手は大きく手を振った。
「がんばります!!」
僕もその声援にこたえた。
分娩室では今まさに新しい命が生まれようとしていた。僕は妻の手を握り、思いつく限りの言葉をかけつづけた。
妻が最後にいきむと、医者は赤ん坊をとりあげた。その場にいる誰もが赤ん坊の動向をうかがった。赤ん坊がうっすらと目を開け、はたと僕と視線を合わせた。
「おい、めがね。てめえが父親か?」
「はははははは、はいいい!!」緊張のあまり声が裏返る。
「何だよ、情けない面しやがって。ま、いいや。時間がねえ。いいか、一度しかいわねえから耳の穴かっぽじってよおくききゃあがれ。このかあちゃんは乳は良く出るようだからその辺は心配いらねえ。俺が泣くときゃ、腹が減ったかオムツか眠い時だ。俺はオムツかぶれしやすいタチだから市販のお尻拭きなんぞは使ってくれるな。夜泣きは少しやるかも知れねえがそんなに迷惑はかけねえ。そんときゃ、おぶってゆすってくれりゃすぐに寝付くさ。俺の言いたいことはこれだけだ。何か聞きてえことはあるかい。めがね。」
「いえ、何もないです!」僕は震える手でメモを取りながら必死で答えた。
「そうか、そんじゃまあ、しっかりたのむぜ。なにしろおれっちは後2年は口をきかねえ。あんただけが頼りなんだからよ。」
そう言い終わると赤ん坊は改めて産声を上げた。看護師さんが笑顔で言った。「元気な男の子ですよ。」
僕は手帳を閉じて妻の手を再びしっかり握る。
「ありがとう。これから一緒に頑張っていこうな。」
「ちゃんと書き取ってくた?」
「うん。大丈夫だ。任せておいてよ。」
少子化で赤ん坊と接する機会が少ない僕たちにとってこの取り扱い説明はありがたいものだけど、もう少し優しい言葉遣いにしてもらえないだろうか。
政府は小惑星回避に協力して下さる一般の方々を広く募集しています
十二歳以上の健康な男女
経験不問
未成年の方は保護者の同意が必要となります
あなたもこの機会に地球を救ってみませんか
「行っていーい?」
「学校は」
「……休む」
「やめなさい」
民子はこれ見よがしに溜息をついてみせたが、母は無視を決め込んで服を畳んでいる。
小惑星回避の実行場所が日本に巡ってきたのは実に十六年ぶりで、四年生の時にオーストラリアで行われたものをテレビで見て以来、それは民子の夢になった。ようやく十二歳になって、小惑星回避の話も天から舞い降りたのだ。また何年も待ち続けるなんて考えただけでも死にたくなる。
ふて腐れて、民子は自分の部屋のテレビを点けた。
迂闊だった。スペインでのやつが流れてる。
サクラダなんたら教会を取り囲んで大きな人の円が何重にもなってできている。手を繋ぎ合って、みんなすごく楽しそうだ。ああ、なんて素敵なんだろう。
涙が出てきた。どうして参加しちゃいけないんだろう。学校なんか行くより何万倍もいいことだと思うのに。
堪えられなくなって、ベッドに逃げ込んだ。もうおしまいだ。
「民子」
お父さん?
珍客にびっくりして顔を出す。何しに来たんだ。
「ごはんだぞ」
そう言われたが、民子の目は父の手元しか見ていなかった。
靴。
「お父さんっ、それどうしたの!」
声がうわずる。
「え、いや……昔な、参加したんだよ……これは、その時のだ」
言葉もなかった。
まさか、本物をこんな近くで見られるなんて。
「ちょっと見せて……」
父の手からそおっと持ち上げる。
「……わあ」
意外に重かった。それに頑丈そうだ。
「それは男用だ。女用は、もっと柔らかくて軽いぞ」
「へえ……」
テレビではちょうど、円になっていた人たちが一斉に靴を履くところだった。
初めて履く人がほとんどで、みんなよろよろしながらわいわい履いている。
履き終えて、みんなの足が地面から離れた。
浮いている。
靴を胸に抱きながら、民子はそこだけは敏感に感じ取ってテレビを見ていた。
一メートルくらい浮いて、止まる。この時、人が地面から浮いているんじゃなくて、地面の方が人から離れているんだそうだ。
こんなことで、地球を救うことができる。
民子は、靴を強く抱きしめた。
絶対参加しよう。
そう、心に決めた。
「熊になりたい」
サヨはマサオに言った。マサオは目を閉じている。時計の針は7時をさしているというのに外はまだ暗かった。
「私、熊になりたいよ」
サヨはもう一度言って、マサオの身体を後ろから抱きしめる。マサオは目をあけたが寝ぼけている。
「ん?」
「ねえ、マサオったら、マサオ。私熊になりたいの」
サヨは足の裏をマサオのふくらはぎにくっつけた。サヨの足の裏は冷たい。マサオはにやにやと笑った。
「そうか、熊になりたいのか」
「本気よ、私。ねえ、私を熊にしてよ」
「サヨが熊になりたい理由を教えてくれたら考えるよ」
マサオは両手をあげて、伸びをした。サヨのくっつけた足の裏は、マサオの体温で温かくなった。サヨは今度は指先をマサオの服の下に忍び込ませて腹の肉をつかんだ。マサオは今度は声をだして笑った。
「私昨日夢をみたのよ。私は小学生だった。教室に入るとね、私しかいないの。チャイムがなって先生が来たら、先生は熊だった」
「ほお」
「先生に、『あのう、みんなどうしたんですか』ってきいたら、『こんな日に学校に来るのは人間ぐらいですよ、みんな冬の間は熊になるから学校へ来ないのです。ほら、サヨちゃん、あんたも早く熊にならないといけませんよ。先生もあなた一人のために学校へ来たんだから』って言われて、私はどうしたら熊になれるかきいたんだけど、教えてくれないの」
サヨの話が終わると、マサオが言った。
「ひとつ、条件がある。ぼくはサヨを熊さんにしてあげよう。でも冬眠してるみんなを誘って学校へいかないといけない。ちゃんと授業をうけると約束できる?」
「じゃあ熊にしてくれるの」
「うん」
「じゃあ熊にして」
マサオは立ち上がり、台所へ行き、お湯に蜂蜜を溶かしてレモンを絞った飲み物を持って戻ってきた。
「熊になるには、それを飲まないといけない」
「うん」
サヨはゆっくり喉に流し込んだ。どろりとしていて、甘酸っぱい。
「のんだよ」
マサオはサヨの着替えを持ってきた。まず、足に靴下を履かせた。それから上にセーターを、下にズボンを、首にモヘアのマフラーを、頭にニット帽をかぶせた。
「はい、熊さんになったよ」
「ありがとう」
マサオはパンを焼き、サヨがベーコンと目玉焼きをつくった。食べおわるとお互いの職場へ向かって家を出た。
冬の寒い朝にサヨはよくこの手を使った。明日は猫にしよう、心の中で呟きながら従業員入り口を通った。
これを読んでいるということは、あなたもしかして殺人に興味ありますね?
あっはっは。いや、私は元政治家ですから。すみません。ついつい馬鹿口調になってしまいました。
あなたにだけ教えますがね、殺人というものは良くないものですよ。第一、道徳に反しますからね。え、当たり前? 気にしない? そうですか。良いでしょう。あなたもかなりの悪人ですね。道徳に関心がないのかな。
まあ、そうこなくっちゃここに来た意味もないですし、じゃあ始めるとしますか。
殺人するに当たってまず初心者が考えるのは捕まるかという疑問でしょう。
ああ、その前に動機がありますね。狂気とか復習とか。まあこの際、動機は何でもいいことにしましょう。肝心なのは行動ですからね。
捕まるかという疑問に正確に答えるのは難しいです。捕まっていない犯罪者というのはどの資料にも載らないわけですから新聞やテレビで見るのは捕まった犯罪者、つまりごく一部の犯罪者に過ぎないわけです。
分かりますか?ですから捕まった殺人者達を真似するのではなく、捕まっていない殺人者の真似をする。パーフェクトクライムというやつです。それらを真似ることにより捕まらない。さあ、なぜ私がこの講座を開いたかもうお分かりになったでしょう。フフフ。いいですか。死体を湖や山に埋めるなどというのはもはや古い方法です。それより頭を使わねば。
まず第一に大切なのは自分を清潔にすることです。自分をキレイに洗わねばなりません。
ですからまず一階のシャワー室へ移動して下さい。そこからアナウンスで講義を続けます。
あー、あー。マイクのテスト中。聞こえますか?まだ水を出さないで下さい。
では殺人して捕まらない方法を教えます。殺人で捕まらない方法は動機を磨く。それに限ります。理由を考えるのです。
かつて殺人者達は方法のみを考えてきた。それは大きな間違いだったのです。それでは殺人の理由を考えながらシャワーを浴びてください。
「じゃー」
ガスが出てきましたか?あなたは死にます。ハイルヒトラー。
殺人を行おうと集まる人達を殺す。それによってお前らに殺されかけてた人を救うわけですよ。さあ、今度は深呼吸をどうぞ。もう死んでますか?あはは。こうして社会が認めてくれるなんて思ったら大間違いですかね。まあいいでしょう。私も捕まる気はないですから。どうするのかって?簡単です。こうして自分に銃口を向けて引き金を引く。
ドギュン。ぐふ、ばたっ
太陽の光を部屋いっぱいに取り入れ、窓辺にいる住人の影が部屋の中央に大きく映し出される。影が部屋いっぱいに広がっているのを見ながら、私は湯を沸かす。
珈琲はブラックに限る。とは言ってもインスタント珈琲なんだけどね。マグカップに淹れた珈琲はかき混ぜない。溶けきらない粒を口の中に運ぶと苦味が増し、それがなんともおいしいからだ。窓辺の住人も承知しているので、今回もかき混ぜないブラックを差し出した。窓辺の住人は喜んでトゲを赤くさせる。
だがサボテンは珈琲を飲まない。香りを楽しむのだ。ブラックに浮かぶインスタント珈琲の粒を楽しむ事ができるのは私の特権だった。それでもサボテンは珈琲の香りを楽しみ、私は珈琲の粒を楽しんだ。お互いちびちびやっているものだから珈琲はすっかり冷めてしまう。
マグカップを満足げに片付け、私はサボテンと向き合った。そのトゲを愛撫しながらサボテンに向かってささやく。
大きくなぁれ 大きくなぁれ
今よりもっと 大きくなぁれ
そうしたら 珈琲が飲めるようになるはずだから
たぶんね
愛撫していた指先から血が流れる。慌てて指を咥えると珈琲のすっぱい味がした。
僕が怪獣になると言ったらたぶん両親は猛反対するだろう
親父の向かいに正座させられ横には母親が座る、そして両親は僕を踏みとどめようと説得を始める、しかし僕の決意は断固たるものでよく考えた末の結論であるからもう後戻りするつもりは無い、両親はそんな僕の性格をよく知っているのでもはや僕が怪獣になることを止めることは出来ないことを悟るのにそう時間はかからないだろう、だから両親はせめて怪獣になるのなら”ゴジラ”になりなさいというだろう、だが僕は怪獣になるなら空を飛べなければ意味は無いと考えているので”モスラ”になるという考えを改める気は無い。
親父の顔はみるみる赤くなり、熟れた柿のようになって、その柿が落ちようというとき、テーブルの上の物が宙を舞った。
僕は宙に舞った灰皿やらウイスキーの瓶やら枝豆のカラやらを吸い込んでガラスを突き破り夜の空へと羽ばたくだろう、硬い殻の下には薄い膜のような羽がまるで小さい頃に遊んだラジコンのモーターのような音を立てて僕を夜の空へと送り出している。
僕は第一志望に”モスラ”と書いて先生に提出したのだがどうやら僕は第三志望の”ラキャストス”という怪獣になったらしい、”モスラ”になれなかったのは残念ではあるが空を飛べるだけマシだ、それに第二志望の墨下鉄工所にならなかったのは不幸中の幸いだった、今考えると墨下鉄工所なんてまっぴら御免だ、一日中気の狂ったキリギリスの合唱を聴きながら油にうたれる生活なんて考えただけでも寒気がする、今ではなぜそんなものに成りたかったのか見当がつかない、きっと怪獣のことだけを考えている怠惰な奴だと思われたくなかったんだろう、僕は昔からそういうところのある人間だった、本当は16色のクレヨンが欲しくても12色で十分、肌色なんていらない、そう思い込みながら自画像を描くような子供だったのだ。
ある家の窓を覗き込むと色鉛筆の赤になった山下君がぬりえの女の子のリボンに頭を擦り付けられていた、乱暴に扱われていた、きっと山下君はすぐに磨り減って消えてしまうだろう、たとえそうだとしても山下君は幸せだろう、だってすべての志望欄に赤い色鉛筆と書いていたのだから、それを曲げなかった山下君は遂に色鉛筆の赤になった、素敵だ。
そして僕は科学特捜隊に退治されるため、都心へと飛び去った。
六十五歳を過ぎた俊実は年金を受ける歳になった。が、俊実には父、富蔵がいた。富蔵は逐電したがひょっこり現れ、1年前から引き取っている。本心では世話したくなかった。毎日、行くコンビニにはゆき子という三十三歳の男好きのする後家さんがアルバイト。俊実が競馬の予想をしていると、富蔵がベッドからピンクと叫ぶ。俊実は人気のない8枠から総ながし。大万馬券。富蔵の予想で倍倍にお金が増えていく。俊実はゆき子をデートに誘い、面倒を見てやってもいいと口説く。生活苦のゆき子は俊実に身体をあずけ、すぐに暮らし始める。しかし、その生活は富蔵の予想にかかっている。しだいに富蔵は増長し、ついにはゆき子とキスさせろと駄々をこねた。そのうち金の源泉を知ったゆき子は富蔵に興味を抱く。いじけた俊実はひとりで株に手を出し大やけど。一方、富蔵はゆき子を使って予想会社を設立。あまりの的中ぶりに会員は毎週毎週増えつづけ、1年経つ頃にはオッズを動かすほどの影響力を持ち始めた。有馬記念も撃破した富蔵は金杯の完全的中を宣言。予想した枠連1−5に殺到する競馬ファン。富蔵の予想したオッズは急激な上昇。蚊帳の外の俊実に遅れた年賀状が届く。富蔵からだった。そこには枠連3−6一点と書いてある。追伸に「当たった金で借金を返して、ゆき子と宜しくやってくれ」とあった。会員に出した予想とはまるで違った。何かを感じた俊実は一点張り。ベッドに駆け寄ると富蔵は永遠の眠りに就いていた。レースが始まる。予想した馬は2着3着。外れも審議の青ランプ。恨めしげに富蔵の死に顔を眺めていると、1着馬が失格で降着。繰り上がって的中。喜ぶ俊実。が、そのとき俊実は考えた。富蔵はほんとは外れさせようとしたんじゃないのか。それは永遠になぞのままだ。心なしか富蔵の唇がにやけた気がした。最後まではらはらさせた父がいとおしく思えた。
高校生の彼は何もかにもが全て中途半端であった。
運動が上手いわけでもないが、成績が最低と言うほど全然駄目と言うわけでもなかった。勉強が得意なわけでもなかったが、着いていけないと言うほど苦手でもなかった。彼女がいると言うほどでもないが、格好良くも無く、格好悪くもなかった。趣味は沢山あるのだが、沢山あるが故に深く知っている訳ではない。
その中途半端と言ったらパーフェクトと言うほど中途半端と言いたい所だが、そんな彼にも一つだけ得意な事があった。それは歴史であった。
しかし、いくら歴史が得意でも彼は工業高校の生徒であり中途半端と言うことには変わりは無かったのだが、本にはそれを逆手に取り一大決心をしたのである。
「俺は歴史のテストで100点満点を取ってやる!」
工業高校だからこそ、歴史で100点満点を取ることは出来ると彼は考えたのである。そしてこの100点満点を取ってせめて一つでも中途半端から逃れようと、彼は誓ったのだ。
それから彼は、毎日放課後残ってまで来る日も来る日も必至に歴史の勉強をしたのであった。
運命のテストの日。彼は意気揚々とテストに挑み、今日まで勉強してきた全ての力を発揮した。全ての解答書き込み、楽勝にテストは終わったのだ。
数日後、テストの結果が彼のもとに返ってきた。クラスの人も、彼の数日の頑張りを知っていた。担任の先生も、そして自分自身も、彼を知る全ての人々が、100点満点を取っているに違いないと確信していた。
次々と答案が返されて行った。歴史の先生はなぜか今日に限って趣向を凝らすと言って、点数の高い方から順にテストを返すと宣言した。
「それでは、いきなりではあるが本日の最高得点を発表する!100点!出席番号11番!」
出席番号11番、もちろん彼の番号だ。クラス内は一気に歓声が響き渡り、解答用紙を取りに行く彼にはみんなのコールが鳴り響いた。彼は先生から解答用紙を受け取ると、すぐさま皆に両手で解答用紙を掲げ上る。気分はボクシングの世界チャンピヨンだった。
しかし、それを見たクラスの人たちは一人、また一人、顔が引きつっていく。
「何かがおかしい。」
異変に気付いた彼はすぐさま解答用紙を確認した。そして、そこには驚愕の事実が隠されていたのだ。
この問題は、先生の問題ミスで、1問多く出題されていたため、104点満点のテストだったのだ。
彼は最後まで中途半端な運命から逃れられなかったのである。
復讐や裏切りってのは、事実と真摯に向かい合えないヤツが陥る、いわば一種の逃避行動なわけだ。後悔や疑念を振り払おうと己を憎悪で塗りつぶし、そこに後からご大層な理由を付随して己に陶酔しているだけ。そうやって足掻けば足掻くほど、自分を追いこんでいるってことに気付けないのかねぇ。
ただ…さ。そこでしか生きれない輩も居るんだよ。
それを失うってことは、そいつがそこに居る存在理由そのものを奪い去ることに繋がるってことを忘れちゃならない。そいつは復讐の炎に身を焦がすことで、己の存在を必死に誇示しているんだ。
ん?そんなやつは捻くれ者で、愚かしくて、救いようが無い莫迦だって?
ああ、たしかにお前の言うことは正しいよ。何時だってお前の意見は正しい。だけどさ、よーく考えてごらんよ。その愚かな道はそいつ自身が選んだことなんだから、間違っていようが尊重されようが誰にも口を挟む権利なんかありゃしないと思わないかい?ましてや、そいつのことを何一つわかっていない、いや、わかろうと努力もしたこと無いくせに、そいつの全てを見透かしたような台詞を吐くことは侮辱に繋がるわけだ。
そう。誰にも理解されたくない。誰にも救えないってのが、そいつの言わんとしていることなんだから、卑下すること、異端視することが、そいつを癒す糧になるんだ。なんたってそいつは「罪は痛みで償える」なんて本気で考えているわけだからな。そいつが、失ったものは“後悔”なんて後ろ向きな感情じゃあ戻らないって事に気付くのは骸になった後のことなのさ。
これは全ての事象を理路整然と片付けられるあんたにゃ到底理解できない感情なんだよ。それを踏まえた上で発言して欲しい。あんたにとっては石ころみたいにちっぽけなものでも、そいつにとってはそれが全てなんだ。慈悲も哀れみも必要無いが、認めてやるぐらいはしても罰は当たんないんじゃないのかい?
夏の高校野球、地方大会決勝。9回裏、2アウト満塁、点差はわずか1点。
マウンドに集まる内野手たちを、神山はセンターの守備位置でじっと眺めていた。
やがて輪が解かれて内野手たちも各々の守備位置につく。キャッチャーがチームメイトたちになにか叫んだ。おそらく檄の類なんだろうが、神山はよく憶えていない。このあとキャッチャーに応えて自分もなにか声を上げたはずなんだけど、これもよく憶えていない。しかし、そのあとのことは鮮明に憶えている。
ピッチャーが直後に投げた1球目。明らかに失投だった。バットが鋭く振りぬかれる。
バットがボールを捉えた音が、あたかも甲子園が叩き壊される音に聞こえた。
神山はすばやく反転してバックスクリーンに向けて駆け出した。走りながら涙が溢れるのではないかと思うほど胸が締め付けられる。
ちらりと打球を見る。最高点に達したボールはすでに落下を開始している。この段階になるとだいぶ正確な落下地点を予測できるのだが、神山はあえてそれは考えないようにした。
また打球を見る。神山は驚いた。風が吹いているのか、打球にまったく伸びがなくなっていた。
捕れるかもしれない。神山の中ではじめて希望が湧いた。
濃緑のバックスクリーンを背景に白球が舞い降りる。捕れるにせよ捕れないにせよ、神山は飛び込むことを決めた。最後のバッターが1塁ベースにヘッドスライディングするのと同じだ。やれることはなんでもやってやる。
ボールから目を離さずに飛び込むタイミングを計る。すぐそこまで迫っているはずのフェンスが頭をかすめたが、気にしている場合ではない。
今だ!神山は飛び込んだ。
最後に残っている印象は、落下するボールとそれめがけて伸ばしたグラブ、そして迫りくるフェンスだった。
目が覚めた。
頭がずきずき痛み、意識が朦朧とする。
ベットの上に横になっていた。学校の保健室のような雰囲気から察するにここは球場の医務室だ。記憶はボールに飛び込んだ直後までしかなく、それからここに来るまでの経緯はまったく憶えてない。
それよりわからないのはベットを取り囲んで自分を覗き込んでいるチームメイトや監督やらの顔が一様に泣き腫らしていることだ。涙や鼻水で皆すごい顔になっている。
こちらが意識を取り戻したことで喜んでくれているのだろうけど、そのぐしゃぐしゃの顔からでは表情の変化はよくわからなかった。
ノックの音がしたのは、かれが机の上におかれている本のページをぱらぱらとめくっているときだった。どうぞと応えながら本をとじ、かれは立ち上がって、入ってきた女性に椅子をすすめた。女性が椅子の背にコートをかけて腰かけるのを待って、かれも椅子に座りなおす。
「あのう、こちら風船屋さんでしょうか」
女性は首をかしげるような、目をふせるようなあいまいなしぐさで尋ねた。
「どちらでうちを?」
かれの問いに女性は眉をよせる。
「あの、笑われるかもしれませんが‥‥夢をみたんです」
そのことばに頷いてみせると、勇気をふるい立たせるように女性はひざの上で手をくっとにぎりしめて続けた。
「夢のなかで私、こちらで風船にしていただくんです。赤い風船です。風船屋さんが、私がしぼんでいるから空気を入れましょうとおっしゃって、あの、夢のなかのことでお顔はわからなかったんですけど、それで私のおなかの‥‥鳩尾のあたりに手をあてて、そうしたら私の体から風船が出てきて、いつのまにか私、風船になっていたんです。風船屋さんが風船をふくらませて私はいっぱいにふくらんで‥‥とても気持ちよかったんです」
かれはじっと女性のことばを聞いていた。
「夢のことだからと思っていたんですが、こちらのお店を見つけたので、もし私の気がちがっているのでなかったら、夢で見たように風船にしていただきたくて」
「赤い風船ですね」
「そうです」
椅子にかけられている彼女のコートも赤い。かれは立ち上がって女性の傍に近付いた。肩に手をおいたその瞬間ぴくりとふるえた彼女がからだの力をぬくのを待って、手が飾り気のないシャツブラウスに包まれた腹にあてられる。妊婦の腹にふれるようなやさしさでそっとなであげ、鳩尾でかれの手がとまった。
「きれい」
かれの手の動きをじっと追っていた女性がためいきのようにつぶやく。かれの手には、女性のからだから覗いた赤い風船の口がのせられている。女性のからだがくたりとくずれ、彼女は風船になっていた。手のなかのしぼんだ風船をかれは、ゆっくりとふくらませた。きれいな赤い色が、すこしずつ大きくなってゆく。
いっぱいにふくらませた風船の口をしばって、かれは胸のポケットから一本の針を取りだした。
割れるその瞬間に、風船がかすかにふるえたようにかれには感じられた。
彼が椅子の背にとり残されたコートを取りあげたときに、ノックの音がした。
私は久しぶりに娘の部屋のドアを開けた。
ベットの毛布はくしゃりと丸まり、あの日のまま娘の形を作っている。
私が以前出入りしていた時にはなかったものが所狭しと並べられていた。
私はドアを力強く確実に閉める。階下から漂う線香の匂いが不快で。
それから、ゆっくりと学習机の椅子に腰掛けた。
目を閉じる。妻が亡くなってから、私は娘・・・有加と2人になった。
年頃の娘との接し方など男親の私にはわからず、気づけば仕事尽くめの日々を送っていた。
いつからだったろう、玄関で出迎える娘を見なくなったのは。
いつからだったろう、夕食の用意をしたままテーブルに突っ伏し眠る娘を見なくなったのは。
気づけば、有加と一日も顔を合わせていない毎日が当たり前になっていた。
有加はだんだんと無口になり、私を鬱陶しがるようになっていった。
それでも私は、母親がいないということで劣等感を感じないよう小遣いなどは不自由しないように頑張ってきた。
それが、サインだったと知らずに。
1ヶ月前だった。警察からの電話で有加が飛び降りたことを知ったのは。
現場は私の会社の屋上だった。
呆然としたまま慌ただしく葬儀は済み、私は1人で生活するようになっていた。
私は、娘の机の引出しをゆっくりと開けた。
煙草の箱が置いてあった。いつから吸っていたのか、私には知る術もない。
置かれたジッポーで火を点け、ゆっくりと吸い込む。
ふと、ジッポーに何かが貼ってあるのに気づいた。
それは、私と娘のプリクラだった。
前が見えない。
私は泣いていた。葬儀の時にも出なかった涙が、とめどもなく溢れた。
どうして気づいてやれなかったのだろう。
こんなことの為に、有加は生まれてきたのではない。
黒い荊が胸を締め付ける。
もう一度、深く深く煙を吸いこむ。
娘の煙草は、苦かった。
らるーは、とても大きな生きもの。けれども時には小さくなることもある。夜明け前など大変小さくなることがある。それを捕まえようとすると、指を噛まれてしまう。らるーの友だちはふーという。ふーとらるーはとても仲がいい。でもたまに喧嘩する。らるーには長い首が二つと短い首が三つ、それぞれ四つの頭がある。らるーはそのうちのひとつを使ってふーと喧嘩する。囃し立てる頭もあれば黙って見ている首もある。喧嘩はいつもらるーが勝つ。ふーには頭も首もひとつしかないからだ。ふーはらるーが大好きだ。ふーはしばしばらるーの背中に乗る。らるーの背中は毛皮がふさふさして気持ちいい。
二匹は静かな湖の辺で平和に暮らしていた。ある時、ふーが言った。
「らるーよ。大きならるーよ。時々はちっちゃくなる夜の生きものよ。ぼくには首がひとつしかない。なぜだろうか」
「ふーよ。らるーの友だちよ。その兄弟の全てをらるーに食べられた一人ぼっちの生きものよ。君の首とは何か」
「ぼくの首が右を向く時、そこに特徴的な意思の感触が伴う。その感触のある時、それに伴って動く首を、ぼくの首と呼ぼう」
「ふーよ。小枝を持って右に振りたまえ。小枝も小枝の先の虫も右を向くだろう。そこには特徴的な意思の感触が伴うだろう。君はそれを『ぼくの首』と呼びたまえ」
「でも、虫は飛んで行っちゃうよ」
「君が『ぼくの首よ飛ぶな』と念じても、その首が飛ぶことがある」
「らるーよ。新しい首を探す旅に出よう。その首は愛しのもの。ぼくの首の対になるもの。終にはぼくのものと呼ぶものだろう」
ふーは熱心に説得したが、らるーは気乗り薄だった。日が暮れ、夜明け前になった。ふと、らるーがひどく小さくなっていた。ふーはさっと前足を伸ばしてらるーを捕まえた。すると指を噛まれた。
「ふーよ、君は旅に出たいのだろう」
らるーはきいきい叫んだ。
「でも、今はちっちゃならるーよ。旅に出たとて、ぼくのもうひとつの首は必ず見つかるだろうか」
「ふーよ。首も小枝も小枝の先の虫も、意思によって動き、場合によって得失するものである。君は旅に出たまえ。君は新しい首を得るだろう。または、今までの首を失うだろう。そこには特徴的な意思の感触があるだろう」
朝日が昇るにつれらるーは大きくなり、その声も太く自信に満ちたものになった。ふーはらるーの背中に飛び乗った。らるーは歩き出した。
こうして、ふーとらるーの冒険は始まった。
タイのバンコクでは、日本円にして六十円から七十円くらいで食事を済ますことができる。そんな場所で五千円もするステーキを食うのは贅沢だが、話の種にステーキ屋に入った。店は西洋人、どうもアメリカ人御用達のようで、背が高く、恰幅もいい連中が食事をしている。アジア系の顔をしている者は店員以外いない。
ウェイターと言っても少年のような、が、席に案内してくれた。 ウェイトレスと言っても少女のような、が、水を持ってきてくれた。
注文をしたが、なにやら二人は面白そうに話をし、席から離れない。ワインはどうか、とか、今までどこに行ったか、これからどこに行くのか、と聞いてくるので、それに答えると、これがまた面白いらしく大喜びする。
そうこうしているうちに、コーラとステーキが運ばれてきた。ステーキはハーフサイズを頼んだが、凄まじく大きい。付け合せのフライドポテトも山のように盛られている。
こんなに食えば体が大きくなるはずだ、と考えながら食べていると、西洋人の一人がやってきて前に座った。
「やぁ、あんた、日本人か?」
「然り。されば理解する。英語少し」
「そうか。俺はオーストラリアから来て、この店を始めたんだ」
「偉大。若年オーナー。こんにちは」
「ありがとう」
若いオーナーは微笑んだ。
「見ての通り、この店はアメリカ人が多いんだ。日本人はけっこうタイに来ているんだけど、うちには来てくれない。なぜだか分かるかい?」
「日本人貧乏」
「そんなはずはないだろう。経済大国って聞いたぜ」
「日本金ある。金ない。然るに貧乏」
「うむ。ケチってことか」
「この国食べる。安価。時々高価」
「そう。時々でも高い料理を食べてくれればいいんだ。日本人は肉が嫌いか?」
「日本人肉食せり。固くない肉マツザカ牛食す」
「マツザカ牛は旨いらしいな」
「然り。ステーキアメリカ肉固い」
「そうだな。アメリカの肉はまずい。よくあんなもんが食えると俺も思うよ。それはオージービーフだ。旨いだろう」
「美味。私幸せ」
「これが固いのであれば、日本人はあごが弱いんだ」
「弱い。弱くない。私食す」
「そうだな。あんた、国に帰ったら、俺の店を宣伝してくれよ。日本人大歓迎だ」
少年と少女はケラケラ笑いながら聞いている。
私も嬉しくなり、オーナーに手を差し伸べた。
「いい店。いい人」
オーナーは笑いながら、握手してくれた。
「朝早く起きるのは得意。だから学校にも遅刻しないの。でも部屋を片付けるのは苦手。みんなは言うの、朝早く起きれるんだから、それを利用して整理整頓すればいいじゃないかって。そうできればいいんだけど、早起きした分、みんなより汚してしまうみたいなの。
髪をセットするのは得意。ショートでもロングでも、ドライヤーとワックスでヒョヒョイ。美容師さんにも褒められるの。でもメイクは苦手。でもマスカラをつけるのだけは上手。三種類のブランドを使い分けてるの。凄いでしょ?友達にもお兄ちゃんにも褒められるの。お兄ちゃんに褒められるのはそんなにうれしくないけど。だってお兄ちゃんはメイクしないものね。
アイロンがけが得意。Yシャツのカフスも、襟も袖も皺一つない。まるで生まれたてよ。ただ、お父さんが死んじゃってからはかけてあげるYシャツがないの。それがすごく残念。
お父さんが死んじゃった時、私はお兄ちゃんと福島のおばあちゃん家に行っていたの。お正月だったんだけどお父さんには仕事があって、それでお母さんも行けなくて、お兄ちゃんとおいで駅まで迎えに行くから、とおばあちゃんに言われたから行ったの。それで『おせち』を食べている時にお母さんから電話があって、お父さんが倒れたから急いで帰ってきなさいって。おばあちゃんは『キトク』って言ってたわ。それでおばあちゃんも一緒に電車に乗って帰ったんだけど、病院に着いた時にはもうお父さんは死んじゃってて、白くて動かなくて、とても冷たくて、でもすごくやさしい顔をしていたの。それからはお母さんが私たちのために勤めに行っているんだけど、Yシャツは着ないからアイロンは必要ないの。残念よね。
料理は苦手。スクランブルエッグもうまくできないの。家庭科の時間、クラスの男子にバカにされたわ。ただグチャグチャにするだけじゃないかって。そんなこといったってできないのよ。私に言わせれば、卵がすぐ焦げるのが悪いんだわ。
あとは早く食べるのと耳掃除が得意で、お風呂に入るのと爪を切るのが苦手」という女性を「パートタイム・妹」として当方募集。時給は1500円(研修期間1000円)より。昇給あり。勤務時間、応相談。衣装貸出、要相談。連絡は携帯電話が090−××××−○○○○、e-mailが△△△△@hotmail.com。
お待ちしています。
長くて綺麗な髪だった。顔つきもほっそりしていて、美人の部類に入るのだと思う。少し痩せ過ぎな気もしてたけど、動くとすぐ痩せてしまうのだと言っていた。
彼女はダンスを習っていた。ときどき乞われて踊ったりした。教室や、中庭で。それは静かで、穏やかな動きで、彼女はいつも幸せそうに踊っていた。踊り終わったあとは少し照れたように笑って、私はそのときの彼女が一番好きだった。
高一のとき、彼女とは同じクラスになり、席が近かったから話すようになった。笑うとへにょって、子供みたいな顔になるのが結構いい感じだった。少し人見知りする子だったけど、自分の好きなことだとわりとよく話した。動物が好き。肉食の野生動物が特に好きだと言った。ジャッカルとかハイエナとか水前寺清子とか。……最後の水前寺清子がよくわからないけど。
休み時間に彼女と話しているうちに、他の子も話に入ってくるようになった。黒髪の綺麗な子って、どこか鑑賞用みたいなところがある。みんな最初は腰が引けていたけど、彼女の笑顔が素敵にそんなに可愛くなかったから、そのうち普通に接しだした。
ただ、彼女と遊びに行った記憶はあんまりない。たぶん私が一番仲良かったから、他の子ともなかったのだと思う。誘ったことは何度もあったんだけど、いつも「ごめん」とダンスの練習に行ってしまった。
当時の私は『彼女と仲良くしたい欲』が結構強かったから、一度、「別にプロ目指してるわけじゃないんでしょ?」みたいなことをつい言ってしまった。「なれるわけない」と、そんな感じで。
すると彼女はいつものように笑って、
「例えばね、すごく才能ある子があたしの前に現れて、あたしなんかをあっさり抜いていくの。すぐにでもプロで食べていけますぅ、みたいなね。そんな子の靴にはさ、もう、画鋲とか仕込んでおきたいじゃない? そんな子が現れるまで、そんな子の靴に画鋲を仕込めるその日まで、あたしはダンスを続ける気でいております」
冗談っぽく。でも、へにょって感じのいつもの笑みが、何だか泣き笑いのように見えて、何となく「ごめん」て思った。
高校を卒業して、彼女は髪を切り、靴屋でバイトを始めた。顔見せがてらに行って、接客してもらった。でも画鋲とか仕込んでこなかったから、がっかりしたような、ほっとしたような、そんな気分になった。
別れ際、「画鋲はまた今度ね」と、彼女はちょっと意地悪く笑った。
「……ん」
可奈子はフライパンを持って走っていた。走るのは得意だったから五分なんてたいした距離じゃなかったけど、紙袋に入れると走りにくいと思ったから、一人暮らしを始めるときに選び抜いて購入したフライパンを直接手にしていた。
卵一個を割り入れると丁度良い大きさのフライパンバトンを、振り子時計みたいに動かしていると、自分が時間になって一秒ごとに進んでいくようだった。すれ違う人の中には遠慮もなく可奈子のバトンに視線を集中させる人もいたが、たいていの人は気づかずに通り過ぎていく。やっぱり時間になってる、と可奈子は思った。時間そのものは誰の目にも見えない。
しばらく走るとほんとうに、可奈子は時間そのものになった。体に重さを感じない。呼吸が軽い。道行く人や風景が、電車の窓から見える景色のように可奈子の背後へ遠ざかって行った。代わりに、母の面影が後ろから追いかけてきた。
一人暮らしを始めたのは三年前だった。
「家から大学に通えるのに」
両親には反対されたが
「どうしても一人で暮らしてみたいの」
と、可奈子が説き伏せた。いつまでも甘えているのは嫌だったし、早く親から解放されたいと思っていたからだ。念願叶った年の冬に風邪を引いてしまった。後から考えればたいした風邪ではなかったけれど、可奈子には不治の病のようにも思われた。なんとか母に電話をかけた。十分も経たないうちに、母が小さな土鍋を抱えてアパートの前に立っていた。蒸気穴から漏れる湯気が、母の姿を蜃気楼のごとく揺らした。
実際には一時間近く待ったはずだった。たった十分なんて、空を飛ばなきゃやって来れない距離だ。熱と悪寒で朦朧としていた可奈子には、全く時間の流れがわからなかった。ただ、鮮やかだった母の登場が正義の味方みたいに感じられたのだ。時間を追い越すように早く来てくれた、それだけで、可奈子の風邪は吹き飛んだ。
可奈子は走った。走っていると、自分が母と同じ正義の味方になっているような気がした。はっきりと告白もされていない高志のために、こんなにも一生懸命な自分を可奈子は笑った。実家から遠く離れて暮らしている高志だからといって、「卵焼きが食べたいんだ」と言われたからといって、フライパンひとつ下げて走っているなんて。
勢いをゆるめない可奈子と共に時間が過ぎていく。
吹きつける粉雪が足元を凍らせても、可奈子は走る。自分で選んだフライパンをしっかりと握りしめて。
降車する人の波に押されている内はいいのだが、駅の階段を降り切ると途端に惑い、歩みが鈍くなる。
人々が淡々とバスやタクシー乗り場、或いは呑み屋へと列成す一方で、私はのろのろと駅から離れながら頭を巡らせる。
タクシー―懐事情が許さないだろう―なら七分、バス―混み合っていて疲労が増す―なら十五分、徒歩ならとぼとぼ四十分。
乗り場を横目で見遣りながら徒歩で帰宅するのが、私の常であった。
と、目に映った列の中に柿島さん―高校時代の先輩―を見たような気がした。柿島さんは確か他県に進学後、その土地に勤めを得たと聞いていたのだが。
懐かしい後姿が列に埋もれたように思い、不意に足を止めてしまった。
私は直に歩き出そうとしたが、時既に遅く、私の足許から数歩前方まで一本の白筋が地面にすぅと伸びてしまっていた。
筋引き屋である。
「今日はいいよ」
そうは言っても、駅前でぼんやり佇んでいたのでは―既に足許から筋が伸びてしまっていることだし―弁解しようもないのである。
そうして私は筋引き屋に―少々癪ではあるが―導かれて夕暮れの家路を辿ることになった。
筋引き屋は御丁寧に自宅への道程を逐一、私に首―だか胴だか―を擡げて示してくれた。これも勤勉さの表れ―仕事を得る時の図々しさには辟易させられるが―なのだろうか。
大通りに差し掛かると、同じ団地の六号室に住む甚太君―息子の明より二つ年上で、よく家に遊びに来ていた―が車道を挟んで向こう側を塾へと急ぐのが見えた。
彼の後姿を見送っていると、明を塾へやるのは得策なのかどうか―妻の時子には怒られるだろうが―と悩む。
筋引き屋が、焦れた様に行く先を指していた。私をさっさと片して駅前に戻り、次の客を捕まえたいのであろう。
漸く私の住む団地が見えてきた。八号室の窓から身を乗り出して、時子が迎えてくれた。
彼女に手を振ってから、財布から数枚の小銭を落としてやった。小銭は音もなく白筋に吸い込まれていった。
だが尚も白筋は、私の家とは別方向へと引かれてていた。
「家はこの上だよ」
筋引き屋の白筋は、団地の奥の森を指していた。
「そうか、帰るのか」
白筋が私の足許からするりと離れ、泳ぐように暗い森へと消えていった。
筋引き屋の尾を見るのは哀しい。哀しくて、家が恋しくなる。
私の鼻腔を、カレーの香りが擽る。この香りの筋を手繰って、願わくば懐かしいドアに辿り着けますように。
「お待たせしました、オムハヤシとミックスサンドでございます」初老の男は二人の前に料理を置いた後、衝立の奥に消えた。
「また店長だよ、あたっ」立ち上がろうとした沢は、森に手の甲を抓られ、慌てて席に戻った。「痛いじゃないですか先輩」
「見苦しいぞ、沢」森はネクタイを直しながら、手拭を沢の席の前に置いた。「そんな下心見え見えなこと」
久々の買い物に出かけた森は、CD屋で後輩の沢と出会い、話の流れで彼の薦めるファミリーレストランで食事をすることになった。ウェイトレスの制服が可愛いとは沢の弁だが、彼らを待っていたのは店長らしき初老の男だった。高い衝立で覆われた、殆ど個室というべき場所に案内された二人の前に現れたのは、今のところその男だけだった。
「確かにいる筈なんだけどなあ」衝立に耳を張り付けた沢は、注文を取るウェイトレスの声を聞いた。「これは呼べば来るかな」
「店長が俺らをマークしていなければね」森は顔をしかめながら、付け合わせのピクルスを頬張った。
「そうだ、いい手を思い付いたぞ」沢は衝立から手を伸ばし、軽く振って見せた。暫くして先の店長が衝立の中に現れ、伝票を手に取った。
「はい、何でしょう」
「いえ、注文じゃなくて」沢は下腹を軽く押さえながら、店長を見上げた。「ただ、トイレはどこかなと思いまして」
「あちらでございます」店長は沢の背後から伸びる短い廊下を手で指し示した。
結局ウェイトレスを近くで見る機会の無いまま、二人はレジで支払いを済まし、店を後にした。
「最後まで店長がかかりきりなんて、何てついてない」リュックサックの肩紐を直しながら、沢は口を尖らせた。
「目をつけられてたんだよ」沢の頭を覆うバンダナを取り上げながら、森は応えた。「そんな目立つ格好でファミレスなんて、おかしいだろ」
「そうか、やっぱりスーツで行かないと駄目か…」
「それ以前の問題だろ」森は沢のトレーナーに顔を近づけ、わざとらしく鼻をつまんだ。「これに懲りたら、ウェイトレス目当てでファミレス行くなんて考えないことだな」
ぎゅう、という音が森の耳に飛び込んだのはその直後だった。
「食い意地が張ってるな、牛丼でも食いに行くか?」
「奢ってくれるんなら、いいですけど?」
「そうだな、やっぱりお前は牛丼って感じだものな」沢の手の中の財布を横目で見ながら、森は牛丼屋に続く裏道へと向かって行った。
唇痛いからあんましゃべりたくない、と私が言うと母はお茶をしっかりと注ぎきってから、棚の上の小物入れを開いてリップクリームを取り出し、「ハイ」と私に差し出した。
「なに?」
「リップクリーム」
「うん」と気のない返事をしてから受け取った。「お母さんのでしょ?」
「いいから、使いなさい」
「え、やだよ、自分の……ないけど、買ってくるから」
と言ってリップクリームをテーブルの上に置くと、母は腰に手を当てて私をじっと見下ろした。
「あんたさあ、もう二十……」
「はち」
「その年でなに中学生みたいなこと言ってんのよ」
母は向かいの椅子に腰をおろして、湯呑みを手元に引き寄せた。湯気に手をかざして、その手を頬にあてる。
「私は四十になっても五十になってもお母さんのリップは使いません」
「かーー、じゃあ六十になったら使うわけ」
「そのころお母さんが生きてればね」
「かーー」と大げさに目を丸くする。リップクリームを手にとって、自分の唇に軽く塗り、開きっぱなしだった小物入れにしまった。
「あんた、怖いこと言うわねえ」
「八十まで生きれば十分でしょ」
「まあそりゃねえ、それまで元気でいられればねえ」
感慨深げに首を振ってから、母は眉間にしわを寄せて私の顔をじっと見る。
「ねえ、あんた彼氏できた?」
「できない」
「そろそろあせりなさいよ」
「言われなくてもあせってます」
「だよねえ」
と感じ悪い口調で言ってから、何かに気付いたように手を広げる。
「あのさ、あんたの口紅貸してよ」
「は? なに言ってんの」
「口紅貸してって言ってんの」
「自分の使えばいいじゃない」
「放っといたらね、なんかヘンな臭いすんのよ」
そういえばずっと、母が口紅をするのを見ていない気がする。
「そんな臭いなんて気にするんだ」
「そりゃあんた唇臭かったら嫌でしょう。すぐ鼻じゃない」
笑ってしまう。負けた、と思った。私はカバンの中から口紅を取り出した。まだ買ったばかりで、ほとんど使っていない。テーブルに置くと、母はびっくりしたように口紅と私を見比べた。
「いやに素直じゃない」
「いいよ、それあげるから」
「使ったら返すわよ」
「いらない」
「返すわよ」
「いらないってば」
きりっと言うと、ようやく観念したようだった。
「じゃあありがたくいただきましょう」
と弾む声で母は言った。壁にかかった写真の父は相変わらずの笑顔で、私は目をそらしてしまう。
唇のひび割れを舐めると、ヒリリと沁みた。
いやに長いエンドロールが漸く終わり、ぞろぞろと席を立ち始める黒衣の観客達の幾人かは感極まったせいか明らかに融け始めていて酷い腐臭を発していた。見れば完全に融け果ててしまい座席に黒衣のみを残しいている者もいた。彼らが出払った後、私も席を立ちスクリーンに背を向けた。館内の廊下は相変らず薄暗く、壁一面の色褪せたポスターももう随分と長い間貼りかえられていない。何気なく天井を見遣ると大きなサジキシャクトリが這っているのが見えた。
冗長な映画も時に実在的思索をうながすものだと思いながら、黒衣の客等を避け改札に向かい、呆けきった犬のような顔をしたモギリの男に定期を指し示し構内に這入ると、丁度ホームに滑り込んできた最終連絡列車に乗り込んだ。人気も疎らな車両のやけに硬い席に座るといつものように大きく開いた天井から腐りかけたまん丸い月を見上げた。月は時折ポトリとその腐肉を滴り落し、その度に街は恐ろしい叫び声を上げ、抗議でもするように白いサーチライトをぐるぐると回していた。
酷く詰まらなかった映画の内容を反芻しながら、それとは別に思うのはいつの頃からかずっと続けている夢のことで、その中で自分はこことはまるで違う街で毎日仕事に追われながらも、何も変わることのない平凡な日々を至極平穏に過ごしていた。何よりもその夢の良いところは腐った月の代わりに真っ白で静穏な月が昇ることで、それはもううっとりとしてしまうくらいなのだけど、夢の中の自分は仕事に疲れ草臥れ果てていて、夜見る奇怪な続き夢(それはつまり今私が現実として生きているここのことなのだけど)だけを楽しみにしていた。私に言わせてみれば日々何事も変わらない夢の中の私の生活はまるで天国のようなのだけど、夢の中の私にとって、そこは殆ど地獄なようなものらしい。
奇妙なことなのだけど、「夢の中の私」と「私」の思考は乖離していて、私は彼の思考がまるまる解かるのに彼からは私のことがまるで解からないらしいのだ。その代わりに彼が夢見る時(つまり私にとっては今)、私は彼の存在を全く感じることが出来ないでいる。そんな関係はまるで他人のようなのに彼は私自身に他ならないと思えるのが不思議だ。今私そのものであるところの彼は私の思考を覗きながら何を思っているのだろうか。
また月が腐肉を垂らしたらしく街が叫び声をあげた。私は耳を塞ぎ夢の中で見る銀盤のような月のことを思った。
ノーミュージックノーライフとはタワーレコードの宣伝だけれどもともかく全くその通りなので、あたしはラジオとステレオラジカセのスイッチを同時に入れ、さらにはテレビのスイッチも入れるから、あなたはギターを。お願い、ギターを! ギターを!
「オウケイ、解った」
ぎゃんがんぎゃがぎゃがぎゃががぎゃががが。
「オウケイよ、とても良い!」
ぎゃががががんがががぎぎぎぎぎゃかががが。
「難しい質問をします」
大音量のテレビからはアナウンサーが普段通り、歌うような調子で喋るのが聞こえる。
「そしてそのあとで、簡単な質問を。良いですか?」
そして飛行機が落ちる!
窓の外の青空に凄まじい放物線を残して、飛行機が落ちる!
落ちる! 落ちる!
落ちる!
爆発音。全てを引き裂くような爆発音。これを求めていた、というような凄まじい爆発音。あたしはうっとりと立ち尽くし、辺りを見渡す。
焼け跡では、ロールケーキがくるくるとロール、回っています。ショートケーキも、くるくると回っています。もちろんモンブランもザッハトルテも例外無く、くるくると回っています。
薄ピンクのハートマークに銀の小さなスプーンを入れてすくい取り、子供達は嬉しそうに笑いながらそれを食べていく。
「随分と大きな飛行機だったね。随分と立派な飛行機だった。何人乗っていただろうね。とても大きな飛行機だった。そして、とても凄まじい音だった」
「うん、でもね。全て嘘だったの。ごめん、あたし嘘をついていたわ。全て、全部、丸ごと嘘だったの。
だからお仕置きをして? あたし、あなた無しじゃあもういられないの。あなた無しじゃあ駄目なの。だからお仕置きをして。いっぱい、お仕置きをして。そしてあなたと、いつまでも一緒にいさせて」
「オウケイ、解った」
裸にされて縛られて、あたしの白い身体に鞭を百発くれた後、彼はそこら辺に落ちている折れた木材を利用してギロチンを作り始めた。
あたしの首は絞め木にしっかりとはめられて、息も出来ないまま、ギロチンの刃は容赦無く落とされる。
ギロチンは破壊し、身体も、意味も、時代も、全てを破壊し、切断し、ガラクタだけを残し、去る。
街の真ん中に取り残された首の無いあたし達は、東京タワーの前でにっこりと笑い合った。
気が付けば無音。夜明け間も無い空の下には、カラスの鳴き声が微かに聞こえるだけ。
あたし達は抱き合い、ようやく初めてのキスを交わす。