# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 窓際の麻由美 | 三浦 | 975 |
2 | 父のコーヒー | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
3 | 湯気の先 | raspy | 742 |
4 | 赤い糸 | 眞鍋知世 | 785 |
5 | 浜辺の侵略 | Shou | 1000 |
6 | マシナリ | 野郎海松 | 998 |
7 | 春の日 | 真央りりこ | 1000 |
8 | 渦 | 長月夕子 | 704 |
9 | 見えないキズ | マーシャ・ウェイン | 1000 |
10 | 朽葉色の方程式 | 朝野十字 | 1000 |
11 | 朗読屋 | 江口庸 | 782 |
12 | 枚挙 | 戦場ガ原蛇足ノ助 | 1000 |
13 | 係長と私 | yui | 1000 |
14 | 三点リーダー | 西直 | 975 |
15 | (削除されました) | - | 999 |
16 | (削除されました) | - | 993 |
17 | 女 | 曠野反次郎 | 649 |
18 | 午睡 | cake | 869 |
19 | シクラメン | 海坂他人 | 1000 |
20 | 内と外の活き | くわず | 998 |
21 | 石の街 | Nishino Tatami | 1000 |
22 | 象と砂糖 | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
23 | 今から帰ります | 川島ケイ | 1000 |
秋をすっ飛ばして冬になった印象を拭えない今年の冬の幕開けは進路調査だった。希望の進路(何故か世の中では高校進学と決まっている事)を書かなくちゃならないらしい。麻由美はこの前の調査で第一志望(麻由美は志望という言葉が嫌いだ)しか書かず、担任に「考えが甘いんじゃないか」と注意するようなことを言われた。考えが甘いとはどういうことだと麻由美は思う、こっちは書けと言われたから仕方なく無理矢理書いてやったというのに何が甘いだこのエロ教師、人の気も知らないでよく担任なんてやってられるな、と思う、心底。
用紙が配られている。あちこちで「どうするどうする」だなんて笑ってる奴がいたり不安そうな顔をしている奴がいたりでなんだかんだ騒然としている。麻由美は騒ぐ神経を疑う、ひたすら陰鬱だ。手を伸ばせば届くところにある窓ガラスもコンクリートみたいに濁っている、嫌な空模様だ。こういう天気だと自分が日頃どれだけ汚らしい建物の中で生活しているのかを意識させられる、今の空模様にぴったりじゃないか。
みんなが書き始めたところで雨が降り出した、前触れのない土砂降り。あまりの勢いに男子も女子も窓の方を向いて歓声悲鳴を上げた。みんながみんなこっちを向くので、麻由美は顔をそらすために窓を見た。雨はばらばらばらと音を鳴らして次から次へと窓ガラスに膜を張っては消えてまた膜を張っては消えた。麻由美はふと、この窓ガラス一枚が自分を守る盾になってくれてるんだと考えた。
担任が手を叩いてみんなを進路調査に呼び戻した、麻由美だけは戻らない。風も吹き出した。ごおごおかたかた教室で音が踊る、みんなの考えている音もそこに加わる、これが自分達の進路を決めている音なんだ、確かにそんな感じだな、麻由美は少し楽しくなった。
「小野田、書いたのか?」
いやらしい目つき、一気に不快。「まだです」
「ぼーっとしてないでさっさと書け」
けっ、さっさと書けとはなんだ、一生を決める大事な決断なのに、大事な決断をしている時の大事な音だったのに。
麻由美は軽い動きでペンを取った、第一志望(だから嫌いなんだってば)の欄に、すらすらあ、と書いて、ペンを置いた。
「どこ書いた?」隣の席の温子がそっと耳打ちしてくる。
「今度は注意されるだけじゃすまないかも」
温子は目を丸くした。
「授業に入るぞー」
「はーい」
やかんの笛が合図だった。
部屋で音楽を聴いていた私も寝ていた弟も部屋を出て、居間に集まった。
私は高校に、弟が中学に入った年に、「日曜日はみんなでコーヒーを飲もう」と父親が言い出して以来、その習慣は私が家を出るまで続いた。
父親のいれるインスタントコーヒーは沸騰していて、泡立っていた。コーヒーカップを使えばいいのに、と何度母親が言っても聞く耳をもたず、有田焼の湯飲みを使った。スプーン1杯の粉に対してお湯を縁いっぱいいれるため、薄かった。テーブルに集まったみんなは静かに飲み、全員がカップをあけたら黙って解散。時間にすると15分程。誰かが話そうとしたら父親の「こういうときくらい黙って飲め」。
不思議な時間だった。はなしをしなくても許される空間。温もりと大味のコーヒー。当時は見えていなかったが、父親なりのコミュニケーションの取り方だったのだろうか。
その晩、私は当時の父親と同じ歳になった。
珈琲豆を挽いて飲むのが好きな妻と暮らすようになって以来、インスタントコーヒーを飲むのは取引先のオフィスか、ホテルの部屋か、それくらいしかない。
「ねえ、今日は泊まってく? それとも奥さんのところへ帰りたい?」
私は備え付きのポットでインスタントコーヒーをつくって飲んでいたところだった。このまま泊まりたくもなければ、家に帰りたくもない。
「父親のコーヒーはうまくなかった」
返事の変わりに私が言うと、女は笑ってきいた。
「どんなふうに?」
「舌が火傷するくらい熱くて、薄かった」
「でも、好きだったんでしょう」
「ああ」
私は家へ帰ることにした。帰る途中のスーパーでインスタントコーヒーを買った。家に帰ると妻がケーキを買って待っていて、娘は私にハンカチをくれた。私は「土曜日はコーヒーの日だ」と大きな声で、数年ぶりの大きな声で、言った。娘は不思議そうに私をみていた。
「土曜日はインスタントだからな」と妻に言うと、笑ったが反対しなかった。
以来、土曜日の夜は娘もテーブルに顔をだすようになった。
コーヒーを飲み終わったあとも妻は編み物を、娘は雑誌を読む。私もやり残しの仕事をしている。ホテルでコーヒーを飲む習慣もなくなった。
そういう土曜日が何回かたったある晩、私が台所でコーヒーをいれていると、妻が隣にきて編み終わったばかりのマフラーをかけてくれた。私は妻から、豆を挽いてドリップでいれるやりかたを教わった。
猫が開いた窓の向こうで一声鳴いた。声は遠ざかっていった。ここは二階である。僕は今風呂に浸っている。窓を閉め、窓の代わりに湯気を逃がす為、手を伸ばして室内に繋がる引き扉を開ける。壁の方からかすかに泣く声が聞こえてきた。隣りに住む女の声だ。このアパートは作りが古く、壁が薄いのか、普通の声でも隣りの部屋に音が漏れる。ただ、よく聞こえるのは風呂場だけで、居間にいる時は大きな物音しか聞こえない。僕はいけないと思いつつも、風呂に入る時は外の窓を閉め、隣りの音に耳を傾けてしまう。そしてそのまま、のぼせるまでそこにいる。しかし、さすがに泣く声が聞こえたのは初めてだったので、少し心配になった。
半年ほど前は、隣りでよく男女の声が聞こえていた。数箇月前から会話が聞こえなくなった。男の声も女の声もしなくなったので最初は引越しでもしたのかと思ったが、物音はたまに聞こえ、単に男が消えただけのようだった。
隣りに住んでいるのに、僕はその女の顔を見たことがない。一度だけ中に入っていく後ろ姿を見たことはある。あまり若い感じではなかった。
会話が聞こえなくなって以来、しばらく静かな風呂が続いたが、最近変化が訪れた。猫である。いつからか、時々猫の鳴声がするようになった。ここは他にある大抵のアパート同様、ペット禁止なのだが、隣りはどうやら部屋に猫を入れているらしい。まったく、他の住人はアパート管理会社に文句を言わないのだろうか。呑気なものだ。
のぼせてきた。僕は湯船から立ち上がり、窓を開けて下にある裏庭を覗いた。暗がりの中、猫がそこにいて、覗いたこちらを光る目で一瞬見ると、すぐに建物の隙間にある溝に消えた。あの猫は、隣りの部屋に通う猫だろうか。窓を開けた遠い先から、車の走る音が聞こえる。立ちくらみがする。
どうして気づかなかったんだろう
結ばれることがあれば
切り離されることもあるということを
「ねぇ 赤い糸ってあるかな」
突然そんなことを聞いてみた。孝徳が驚いた、という顔をして私をみていたのを覚えている。
あれはあまりにも桜が散りすぎる、北海道の五月。桃色の小さな欠片がひどく目の前をちらついていた。
「赤い糸は・・・あるかな」
確か付き合ってはいなかった。
二人とも、出席番号が近かったからよく話していた。くだらない話ばかりだったけど、一度だけこんなことを聞いてみた。
「なんであると思うの」
「だってあるもん、俺の指に」
そう言って、長くて細い孝徳の指が私の目の前に突き出された。孝徳は優しく笑って、私を見てくれた。
私に繋がってないかな
「それは、誰に繋がってるの」
まじまじと、まっすぐに目を見れないまま聞いた。もう心臓は荒波の中の小さな魚みたいだ。あっちへこっちへ動き回る。
私に繋がってないかな
「おまえ」
きゅっという音がした。決して強くない力でなにかが小指に結びついた。ふと、指先をみると孝徳の小指から続く赤い糸が、私の小指に巻きついていた。
夢を見ていたんだ。長い長い夢を。
たくさんの季節を二人で過ごした。
あの日から二度目の桜を見て、小さな公園で笑いながら花火をして、手をつないで歩いて、
「ずっと一緒にいられますように」と
神様にお願いした冬の日。
ずっと二人でいた。
ずっと隣に孝徳がいた。
私を笑って、耳の奥ではいつもあなたの声がこだましていた。赤い糸は、いつも小指に結びついていて。
絶対離れないと思っていた。
世界で一番だと信じていた。
けれど
それはあまりに突然。
「ごめん、他に好きな奴できた」
ぷつんという音がして、糸は切れた。
気づかなかった。糸の先は、あまりにほつれすぎていた。
ごめんね。
ずっと前から、あなたのきれいな小指から
赤い血が流れてたこと
気づけなかった。
ごめんね。
ごめんね。
緊急事態発生です!隊長、緊急事態です!先ほど私が浜辺をパトロールしているとですね、いやあのすいません息を切らせているので、ハア、ハア…するとです!浜辺を一緒にパトロールしていた三等兵高卒の中松がいきなりオオッララ!と叫んで倒れるじゃないですか!すると近くにいた山田軍曹がなんてこった奴はふらんす語を喋っているぞ、あれは敵国の言葉だ!反逆者をひっとらえろと怒鳴るもんですから私が中松にどうした、どうした、おい山田軍曹がお前のことで何か言ってるぞお前何を話しているんだと聞くと中松はうーんと唸ってはあはあと苦しそうにしているのですが、興奮した山田軍曹は反逆者を捕まえろと怒鳴りながらピストルを空にバンバン撃つものですから中松はショックで気を失う有様でありまして私は山田軍曹に中松は痛みか何かで叫び声をあげただけだと言いますと山田軍曹は顔を真っ赤にしながらいやいや、わしは確かに中松がふらんす語を喋るのを聞いたのだ奴の機関銃を渡せおんどらあとドスをきかせて言うのですが、そこへ村の坊主の三吉が通りかかりまして軍曹さん、あんた自身ふらんす語わかんなきゃ中松さんがふらんす語喋ってるってどうして分かるんだいと中々いいことを言うのでありますが、これに山田軍曹怒ったのなんのって耳から蒸気が噴出して生意気な坊主め!お前も反逆者だな!と叫んで三吉をピストルで撃とうとするのですが、そこに山田軍曹の頭上から10メートルはある巨大な蝸牛が落ちてきて山田軍曹がぎゃーっと叫びながらぐちゃぐちゃになると、なんと今まで倒れていた中松が、がばっと起きあがるやいなや高らかに笑い出してふらんす軍の援軍だあ、ふらんす軍の援軍だあと喚きながら逃げるわ逃げる三吉の背中を機関銃でババババと撃って三吉が倒れるのを見届けると私にふらんす軍と戦え、毎日えすかるごにしょこらが食えるぞと言うんでありますが、私は何を言っている、最後に聞いたときにはふらんす人は蝸牛ではなかったぞ、と言い中松はそれもそうだと言いながらこちらへ向かってくる巨大蝸牛から逃げようとしたのですがそこに第二の巨大蝸牛が落ちてきまして、中松がぎゃーっと叫びながらぐちゃぐちゃになる頃には私もとっくの昔に駆け出しておりまして、その時にはもう蝸牛があちこちにぼこぼこ落ちてきまして私はあっちに飛ぶわこっちに飛ぶわでここまで駆けてきたわけなんですがもうすぐ、ってあれは、うわああ!
おれの言葉は枯れっちまった。
静止したモニターの中では、仲間がおれの言葉を待っていた。でもおれの言葉は枯れっちまった。ゲームは止まった。おれはネットワークから落ちた。
これは『マシナリ』というゲームだ。つまんないもんだ。適当に並べた言葉からイメージを連想して、ラップのように言葉を連ねていくだけの遊びだ。そこには予めゲーム・マスターによって定められたルールがある。ルールから外れた奴は自動的にゲームから弾かれる。おれは『マシナリ』のF級ランカーで、アマチュアとしてはそこそこのレベルだった。だからってわけでもないが、間違っても言葉が枯れっちまうなんてことはありうる話じゃない。まったくもってどうかしている。
おれはキーボードに手を置いた。しかしたったひとつのキーを叩くことさえできなかった。おれの頭の中には研ぎ澄まされたクールな言葉たちがセットアップされている。すさまじいスピードでニューロンの迷路を駆け巡る。華麗なタップを今にも踏み出そうとする。それでなぜおれの手は止まったままなんだ? おれは考えた。指が疲れたか?
――どうしたの?
「トーコ」からチャットが入った。ネットワーク上でのおれのキャラクター「ジュード」と親しくしている女性タイプのペルソナだ。電脳世界での分身、プレーヤーが演じるヴァーチャル・ビーイングをペルソナと呼ぶ。
なんてことない、ながら見してたテレビが面白くて、よそ見してたんだ、HAHA、おれは頭の中でキーボードを叩いた。だが現実のキーボードはまったく叩かれなかった。現実のおれは「トーコ」に答えたのに、「ジュード」は黙ったままだった。
――へんなの
トーコがチャットから落ちた。
おいおい、本当にどうしちまったんだ。おれは手をマッサージしてみた。だめだ、打てない。一文字も打てない。どうかしてるぜ。何があったって言うんだ? たかがゲームじゃないか。おれの言葉がどこかで革命でも起こすって言うのか? だが「ジュード」は何も答えなかった。心臓だけが早鐘を打つ。
おれの言葉は枯れっちまった。
どうしようもなく枯れっちまった。
どこかの誰かさんがどこかの誰かさんに言った。
「そういう日もある」
オ・ケー、オ・ケー、オ・ケー。
それじゃ、冷たい雨が両の肩を刺し貫くとき、いったいどうすりゃいいんだい?
カリカリとHDDが何かを刻む。それは間違っても、おれの心なんかじゃないだろう。
暗闇の空に一番星が光っている。年が明けたというのに、夕暮れはまだ早い。仕事が始まって一週間もするとなまった体も動きだし、去年と変わらない暮らしぶりに戻る。冷え込んでくる空気をヒーターで温(ぬく)め取る。もうすぐ電話がかかってくる頃だなと思う。
「もしもし、可乃(かの)?」
親友の美世は、必ず始めに私の名前を呼んだ。
「もうどれくらい会ってないんだろう」
入院した彼女からの、最後の電話と同じだ。
「気が遠くなりそうだよ、生きていくのも」
「だから、会いに行くって言ってるでしょ」
「いいよ」
美世はここで息を継ぐ。そして繰り返す。
「いいよ、来なくて」
「わかってる、行かないから。きちんと治すんだよ」
今年で37回目になるセリフを、一字一句違えずに答える。
「退院したら、遊びに行こうね」
「はいはい。早く帰って来てよ」
それで電話は切れるはずだった。いつもなら。
「ごめん」
台本にはない美世の声が、受話器を通り抜けてきた。
「こんなに長くつき合わせてしまって。あたしってよくよく業が深いのね」
彼女は笑っていた。だから思いきって口にした。
「欲張りなんだから美世ってば」
電話の向こうで美世の表情がこわばるのが見えるような気がした。
「独り占めしなきゃ気が済まないんでしょ」
言ってしまった、と思った。でも、これでいいのだ。すかさず美世からの声が届く。
「可乃なんて、言いたい事隠して優しいふりばかり」
ふるえていた。美世のこんな声は、生きているときにも聞いた事がなかった。
「嫌いよ、可乃なんて大嫌い」
わぁぁーーん。壊れそうな振動に、受話を持つ手がしびれた。
「来ないでって言ったのは、来て欲しいってことだったのに」
やはりそうだったのかと思う。
「ごめん」
「謝らないでよっ」
泣いているとばかり思っていた美世が、今度は猛烈に怒り出す。
「そうやってかっこばかりつけるの、可乃の悪い癖だね。あたしがそのたび傷ついていたのなんて、考えた事もないんでしょう?」
「だったらどうだっていうの」
言い返した。とたんに静まった。
「だってあたし死んじゃったんだもん」
「待って」
立ち上がって美世を探した。
「待ちなさいよ、美世。話はおわってないんだからね」
どこにいるの、今すぐ行くから答えてよ。返事の代わりに私の体は、穏やかな空気で包み込まれた。春の日のように暖かだった。
「ばいばい、可乃」
舞い上がった声が、空へと吸い込まれていった。
それから二度と電話は鳴らない。
電車に揺られながら流れていく景色を何の感想もなく眺めていた。
不意に三つ編みの髪を引っ張られる。振り向くとアメリカ人の兵隊がニヤニヤ笑っている。「さわらないでよ。」そう言ってにらみつける。大仰に肩をすくめるのを横目で見ながら電車を降りる。どうしてあの人種はあんな嫌な笑い方ができるんだろう。
駅からまっすぐ続く商店街は、暮れていく色に染まっていた。家路を急ぐ。
「おねえちゃん!」
少年が一人、私に駆け寄ってくる。
「おねえちゃんち、今日も白いご飯だよ。いいなあ。僕も白いご飯食べたいよ。」
「きよちゃんちは兄弟いっぱいいるからね。うちはお母さんとお父さんと私しかいないから。」
そういうと急に少年の顔から表情がすっかり消える。その瞳もただ黒いだけの穴になる。
「うん、そうだね。」彼は踵を返すと再び子供たちの輪の中へ戻っていく。その背中にははっきりと『失望』という字が書いてある。失望くらいなら私だって捨てるほど持ってる。
西日の重さに耐えかねるようにそのアパートはやっと建っている。一階から子供の泣く声が聞こえる。
「だからコッペパンを買えと言ったろう。おでんなんかじゃ、おなかは膨れないんだよ!せっかく十円やったってのに、おまえにはもうやらないからね!」泣き声はもっと高くなる。
私は静かに二階への階段を登り、自分の家のドアに手をかける。
何かが倒れるような大きな音がする。そして母が怒鳴る。
「おうおう、やれってんだ。え!酒飲まなきゃなんにもできやしないくせに!ほうら、やれやれ!この意気地なしが!」また何かが割れる音がする。四畳半一間の狭い部屋で父が酔って暴れている。母がまた怒鳴る。私はドアの外にいる。私はドアの外にいる。
あなたのその定規をかして?
ユナはそのキラキラと光るジャスティスの新品の定規を欲しがった。
でもジャスティスはそれを誰にも触られたくなかった。
いいからかして。私のほうがきれいに線が引けるわ。
ジャスティスは仕方なくユナに定規を差し出した。
ユナはジャスティスの手から奪うようにして定規を受け取った。
ジャスティスは心配でならなかった。
ユナはこれまでにもいろんな人の大事なものをかりては壊していた。
でもそんなことユナはまったく気にしていない。
心配をよそにユナはたくさんの線を引き、自分の好きな形を描いた。
三角形四角形、たくさん角形。
ジャスティスは壊されないうちにと、ユナに定規を返してと言った。
ユナは意外にもすぐに返してくれた。
少しびっくりしたが安心してジャスティスは定規を受け取った。
でもそんなにうまくいくはずがなかった。
定規には目立たないが小さなキズがついていた。
それは持ち主のジャスティスにしかわからないくらい小さく、他の人が見たら、なんだたいしたことないじゃないかと言うかもしれなかった。
それでもジャスティスには大事な定規だった。
仕事が忙しいジャスティスのお父さんは、日曜日にも仕事がある。
そんなお父さんと休みの日に、算数で使うからと近所の文房具屋さんへ一緒に買いに行った定規だった。
ジャスティスはユナが嫌いになった。ユナを恨みさえした。
ジャスティスに「恨む」ということがどういうことかちゃんとわかっていたかどうかは定かではないけれど、ジャスティスはユナを恨み、憎んだ。
自分のもつ、あまりよくない気持ちは全部ユナにぶつけてやる..
それは遠足の日だった。
ジャスティスはユナがめずらしがりそうなものをたくさんリュックに詰めて持って行った。
ユナは予想通りジャスティスの持ってきたものに興味を示し、二人はみんなとは離れてそれらで遊んだ。
中にひとつ、プロペラで飛ぶおもちゃの飛行機があった。
ユナはそれをすごく気に入り、ずいぶんそれで遊んだ。
飛行機が崖の方に飛んでいった時だ、ジャスティスはユナの後ろから思いっきり体当たりした。
二人はまっ逆さまに崖の下に落ちたが、どういうわけかユナは助かり、ジャスティスは即死だった。
落下直後、ユナはパニック状態でよくわからないことを喋っていた。
しばらくして怪我が治っても、遠足に行ったことくらいしか、ユナには思い出せなかった。
ジャスティスの死は、ただの事故として、人々に悼まれた。
それは、朽葉色をしていた。
虚空を飛翔する宇宙船はある小惑星の調査を終え、地球へ向かっていた。乗員の一人がパネルを見て重量オーバーに気付いた。このままでは地球に辿り付けない。誰かが密航したのだろうか。
「密航者を廃棄しよう。法律でそう決められている」
この宇宙船の乗員は四人でうち一人がアンドロイドだった。
「アンドロイドがいないぞ」
「あいつは死んだよ」
乗員たちは必死に記憶を辿った。小惑星から連絡が途絶え自分たちが調査に行った。そこでは希少金属が発見され数十人の採掘労働者が働いていたが全員死亡していた。遺体は一箇所に集まり朽葉色のヒラタケのようなものが一面に生えていた。サンプルを採取し離陸後、重量オーバーに気付いてやむなくアンドロイドを廃棄した。
では、いまだに重量オーバーしているのは誰のせいなのか。乗員たちは顔を見合わせた。みなよく知っている者同士のように感じられた。乗員たちは家族や地球の思い出を話し合った。
「おれの妻はアンドロイドなんだ。妻にはお気に入りの人格を複数インストールしてある。いずれ学習によって人格が統合されて、その過程で錯乱したりする危険があるから、本当は禁止されているのだが」
「待て。地球ではアンドロイドを妻にすること自体が禁止されている」
「なぜおまえが知っている」
「なぜってそれは――」
百億の人口。過密な地球で生まれたおれは貧しかった。金になることならなんでもやりどこへでも行った。とうとう銀河の果ての小惑星で岩盤掘りさ。
「おかしい。全員が宇宙飛行士のはずだ」
「それに、おれたちは一度も地球に行ったことがない」
「おれたちは辺境の植民惑星の人間で、さらに離れた小惑星に行ったんだ」
地球へ行かなければならない。そのために不要なものはすべて廃棄しなければならない。アンドロイド、そして船の操縦部とエンジン部以外をすべて取り外せ……。
「やめろ! この船は地球に向かうべきじゃないんだ!」
自爆スイッチに手を伸ばした乗員の背後から、全身に朽葉色の茸を生やした乗員たちがしがみついてきた。なぜか懐かしいような感じがこみ上げてきて……。
朽葉色のそれの中で複数の人格が次第に統合されていく。人格の枠組みが曖昧になり記憶が交じり合う過程で一時的に不安定になり葛藤が生ずる。けれども時間の問題だ。統合――それだけが朽葉色のそれの目的だった。より大きな――百億の統合へ――地球へ……。
埼玉のあるデパートの一隅に児童図書館がある。文化事業として、図書館会社を誘致。職員の優子は童話を朗読。その声は子どもを虜にした。あるときの朗読中、泥酔した女が闖入し優子の顔に嘔吐。優子は女を殴る。後日、優子はひとりで痛飲。結果、卒倒して病院へ。担当医は過日の嘔吐女。優子も嘔吐。女医が始末。優子も苦笑い。女医は志穂といった。うわばみのふたりはすぐ打解ける。志穂の闖入は優子の心地よい美声に誘われたもの。優子の朗読は病を癒すのではないか、と志穂は病院での朗読会を依頼。諾した優子は朗読会を始めた。すぐ会は盛況となり、患者は癒された。優子は休みなく童話を読み聴かせた。そして帰って大酒を飲む。あるとき、児童図書館に一ヶ月以内で撤退の話が浮上。デパートの若社長、伊東洋が主張。居場所の喪失を憂慮した優子は一計を案じた。一ヶ月後、有料朗読会を開催し一千万円集めたら、撤退要求は撤回されることを提案。洋は承諾。それから図書館では優子の有料朗読会を大きく告知。当日人は続々と集まり、立錐の余地もない。が、あと一万円が足りない。定刻に現われたのは洋。洋は恥も外聞もなく算盤を弾いたのだ。壱万円札を差し出して継続を要請。意図を見抜いた優子はにこやかに歩み寄ると、洋の股間をひざ蹴り。洋は悶絶。会場を後にして、優子は吐血。志穂が病院へ担ぎ込む。一命は取りとめたが、少し良くなると優子は自宅療養の病人のために何度も病院を抜け出した。依頼先のおじいさんが安らかに亡くなるのと同時に優子も倒れこむこともあった。志穂は優子を抱きかかえ、朗読せずにはいられない優子をいとしく思った。のちに優子はやっと退院するが、無理からのどをつぶしていた。児童図書館すでには撤退、戻るところはない。優子は紙芝居屋となり夕暮れの街を彷徨う。誰も寄らない優子のそばで、だみ声で語られる童話に耳を傾ける志穂がいた。
どういった縁に当たるのかよくは知らないのだが、親類の集まりで年に数度決まって顔を合わせる、遠い血縁らしき人がいる。見るからに年齢が近く、また二人とも下戸であるため席を並べることが多く、会えば互いの近況を遠慮がちに語り合う仲である。
滅多に口を利かない人なので自然とこちらの口数が増えるのだが、不自然な間合いで、
「そろそろ」
とだけ言い残して去ってしまうことが幾度か続き、かといって私の話を特別迷惑がっているようにも思えなかったので、ある時思い切って尋ねたことがある。
「君が無口だったり話を途中で打ち切ったりするのは、何か理由があってのことなのだろうか」
彼はしばらく黙ったまま何と言ったものかと考えていたようだったが、ようやく口を開いたかと思うと、やはり言葉少なに答えた。
「言葉を節約しているのです」
「それは、話すのが億劫だということかい」
「いえ、聞く、話す、読む、書く、考える……すべての言葉を節約しているのです」
「なぜ」
「何となく、無駄遣いしない方がいいかと思いまして」
今度は私が、何と言ったものかと考える必要があった。至って陳腐な感想が、自然と口をついて出た。
「そういうものだろうか」
「さあ。ただ、年々少しずつ、減ってはいます」
「まさか」
余計な言葉を吐かせまいと気を回したのか、彼は片手で私を制すると、もう一方の手で、シャツの胸ポケットから薄い手帳を取り出した。
そこには、彼が触れた言葉の数とおぼしき数字が、一日ごとに、小さな字で延々と書き連ねられていた。最後の頁には月ごとの集計がグラフ化されており、確かに右下がりの軌跡を描いていた。
どういった基準で数えているのかを、敢えて問う気にはならなかった。何の役にも立たないことを何年も続けている彼の精神力に、ただ恐れ入ったというのが、正直なところだった。
「不便なことは無いのかい」
「人付き合いが」
「そりゃそうだ。他には」
「本を読んだ後に、感想を手短に抱く必要があります。……では、そろそろ」
おそらくは、言葉を使い過ぎたと気付いたのであろう。彼はそそくさと部屋を出た。
いつか言葉がゼロになり、彼は消えてしまうのではないか。私のくだらない予測は今のところ現実のものにはならず、件のグラフは緩やかに右に下がり続けている。
親類の集う機会は減りつつあり、彼は相変わらず寡黙だが、それでも私たちが交わす言葉は、不思議なもので減っていないと聞く。
「しょうがないよ。」
と、係長は儚く微笑んだ。私はこのやさしい係長が好きだ。
日々続く深夜までの残業が少しずつ私の心と身体を蝕んでゆくのがわかる。私はパソコンの画面をぼんやりと眺めつつも、指だけは常に忙しなく、まるで私とは別の生き物の様にキーを叩いていた。
そして5分ほど前、係長が編集した重要なデータの一部を誤って消去してしまったのだ。ハッとしたが遅く、私は震える声でこの事を係長に告げるしかなかった。
係長はううと低く唸ってから、私にこう言った。
「15分だけあげるから、下のコンビニでサンドイッチ買って来てくれないか。ハムとチーズの奴。タマゴの奴は僕アレルギーがあるからダメなんだ。はい、お金。」
意外にいつものさわやかな声だった。
しかし私は半ベソをかきながらオフィスを出た。やりきれない気持ちが込み上げる。
階段を下りてビルの一階にあるコンビニに入り、お目当てのサンドイッチを探していると、係長が店に入ってきた。
「あ、これこれ、これが美味しいぞ。君にはわからん美味しさだけど。」
「あの……。本当にごめんなさい。」
私は係長の優しい話題を敢えて無視した。
すると、係長は私の謝罪を軽く流して妙な事を訊ねた。
「あれね、君も内容知ってると思うけど、何のデータだったか思い出せる?」
「え、内容ですか……?」
私は唖然とした。確かに私がついさっきまで見ていたデータだったのに、眉間に皺を寄せて思い出そうとしても、内容が思い出せない。よほど疲れているのだろう。
「すいません、最近、ちょっと疲れてて、頭が働かないんです。」
係長は少し困った顔をして、納得したように頷いた。
「いや、そうじゃないんだ。君、会社の名前は憶えてる?」
一瞬、係長が何を言ってるのか解らなかったけれども、言われるがままに社名を答えた。
「高橋脳研工業株式会社……です……けど。」
困惑する私に係長は、ふうと一呼吸ついてからこう言った。
「君が消しちゃったのはね、君の記憶の一時保存ファイル。でも消えたのがそれだけで助かったよ。後でメモリー足しておくから。今日は自分のデスクに戻って、明日また起動しなさい。」
係長はまた、儚く微笑んだ。
私は係長の事が好きだなぁと思いながら、はいと返事をしてオフィスに戻り、人間なら敏感な場所にあるボタンを押して主電源を切った。キューンという微かな音を聴きながら、明日も私は係長を好きでいたいと思った。
雨が降ってきたのでコンビニの前の傘をパクった。一応気を遣ってビニール傘にした。雨は降り続け、どこかサテンにでも入ろうかと思いつつ歩き続けた。キョロキョロしながら歩いていると、ひとりの少女が目に入った。ちょっとした知り合いで、雨でびしょ濡れだった。でも彼女とどこでどう知り合ったとかは、もう忘れてしまった。
彼女は日によってぼんやりだったりイライラだったりする。今日はぼんやりの日のように見えた。
近づいて、彼女を傘の中に入れてみた。最初は気づかなかったようだけど、彼女はふと顔を上げ、僕と目を合わせた。やはり今日はぼんやりのようだった。彼女は何も言わずにまた前を向き、歩き続けた。僕も並んで歩いた。
しばらく無言でいたけれど、「こんな日、思い出すことがある」と彼女は突然話し出した。僕は「うん?」と先を促した。
「ずっと前、水道管が破裂したことがあって、床が水浸しになった。でも夏のことだったし気持ちいいから別にいいかなーと思った。でも一応水道工事の人のところに電話した」
「うん」
「来てもらえることになった。でも少し時間がかかるって。だからあたしは、座ったり寝ころんだりしてた」
「床に?」
「床に」
「それで?」
「ちょっといやな気配を感じた」
「気配?」
「うん、気配。木の板、壁に板を立てかけてた、木の板を。何に使ってた板だったかは忘れたけど、それが気になって、気になったんでひょいって、板の裏を覗いてみた」
「うん」
「床、水浸し」
「うん」
「板の裏、びっしり十匹くらい、ゴキ」
「う、うん」
傘を持たないほうの腕にヤな感じの鳥肌が立った。
「ゴキブリって水に弱いんだよねー」
「そうだね」
「で、板の裏にびっしり」
「うん」
「それは今も、あたしの大切な思い出」
「そっか」
雨が降り続けている。
「じゃあ僕はこっちに行くんで」
横の道を指差し、僕は適当にそう言った。
「うん、じゃあ」
彼女は頷き、前を見つめた。
傘が僕だけのものになると、雨がまた彼女を濡らし始めた。すたすたと少しだけ歩いたところで、彼女が「ねえ」と僕を呼び止めた。振り向くと彼女は同じところにいて、何かを言った。雨が彼女の言葉を消していたけれど、でも口の動きで何となくわかった。
だから僕も同じような言葉を返した。その言葉も同じように消えていたけれど、彼女にも何となく伝わったような気がした。
そんな日。
−あれ。こんなとこに
宙介は推子の首筋を撫でた。
−何?
−ほらポコッて
−咽仏?
−ふふ。何言ってるの。女の子に咽仏なんかないよ。これは立派なポリープさ
−うれしい。私にも出来たのね
−私…切りません
−そうですか。「切りません」か。好い言葉です。あなたもポリーピストの仲間入りだ
裂烈医師は推子を見詰めたまま自分の鼻頭のポリ−プを摘み取った。
−さあ動かないで…じっとして…怖くないから…みんなやってる事なんだ
裂烈医師はキスするように推子に近づき、開けたばかりのポリープ孔で推子のポリープを包み込んだ。
−先生…気持ち…いい
−宙介君には内緒だよ
−はい
宙介はポリーピアンセミナーに初参加。
“ポリープの病理学的解釈はこの際どうでもよい大切な事は私達にポリープがありそれ故私達があると
いう事だ然るにポリープで死ぬ奴がいる一体なんたる事か
死んでどうする
死んでどうするポリープが悪性に転じたならその時点で潔く死を受け入れようではないかだが決して
ポリープで死んではいけない死ぬなら海に飛めガスを吸えポリープに罪を着せるな自ら死ね汝のポリ
ープと共に”
−そんなの変よ。悪性腫瘍になったら切るべきよ
バイトから戻った推子は過激な思想に驚いた。
−悪性なんて言い方、単にそのポリープ持ちが病死したという現象面だけに着目した軽薄な認識だよ
ポリープにとってそれは発展であり進化であり兆戦なんだ。新しいあり方を探求する。そこにあるの
は善悪じゃない。あるのは…そうだな…あるのは一つの可能性なんだ
僕達はこの体が動かなくなるまでポリープと共にあり、そしていよいよとなったら潔く死ぬべきだ
−あなたにはついていけないわ
−ああ僕達は終わりだ
その時ラジオから『ポリープ慕情』。
♪貴方 そんなの あんまりだわと
差し出す 指に 微かに触れた
ああ 貴方の
ああ 貴方の
そんな 貴方の ポリープが
見つめ合いひしと抱き合う二人。
−私のポリープ孔は宙介の物よ
−僕のポリープだって推子の物さ
ポリーパー:ポリープ持ち 単にポリープがあるという状態や事実のみを指した表現。一時的、限定的
類例:ピッチャー/バッター
ポリーピスト:ポリープ家 ポリープに自己同一性を置く事を選択した人達。継続的、全人格的
類例:ピアニスト/マルキスト
ポリーピアン:ポリープ主義者 自己という実存に先立つ本質としてポリープがあると主張。愚昧、目障り
類例:クリスチャン/サルトリアン
学生の頃と変わりないパブの古びたドアを開けると、途切れることなく弾かれるフィドルの音が耳に入った。わずかに聞こえるギターの伴奏。懐かしさに頬が緩む。
ほの暗い店内を歩き、カウンターに向かう。十年ぶりに会う店主が、無愛想な表情でグラスを磨いていた。
「ゴライアスか」
店主が俺の好きなビールの名を口にした。
「まずはギネスだろう。ゴライアスはあとだ」
店主は手を休めもしない。
「お前の体格だとハーフだな」
「子供じゃないんだ。パイントでくれ」
初めての時の会話を覚えていた店主は目を細めた。
「元気そうだな」
「あんたも」
「あとで料理を運んでやる。席で待ってろ」
ジョッキを手に壁際の席に行く。異国の人間が珍しいのか、何人かに見つめられた。アイリッシュダンスを踊って見せれば、目を剥くに違いない。
料理がなかなか運ばれてこない。ギネスを飲みながら、演奏に耳を傾ける。誰かが低い声で、朗々と英語ではない古い言葉のケルトの歌を歌いだした。
男が歌い終わると、若い女性が料理を運んできた。誰だかすぐに分かった。
「お待たせ」
「あ、ああ」
カウンターを見る。店主は視線に気づくとニヤリと笑い、すぐにいつもの無愛想な表情に戻した。
「水臭いわ。連絡、くれないなんて」
なじる声も記憶の少女の声ではなく、どこか艶かしい。十年ぶりに何を話せばいいのだろう。君に会いに来たとは言えず、黙ったままフィッシュアンドチップスとコルカノンをつつく。
俺の手を暖かい手が包んだ。
「踊れる?」
「オールドスタイルだったらね」
「そんな年じゃないでしょう」
青い瞳が笑っている。いつからそんな笑みを浮かべるようになったのか。
手を引かれ、わずかばかりの隙間のような舞台に立つ。驚いたような声。昔のように二人で顔を見合わせてから気取った会釈をする。拍手が聞こえた。
アイリッシュハープが爪弾かれる。
カッ、足元で床の鳴る音…… カッカッ、思うように足が動かない…… 膝を曲げて一拍置いて、素早く……
ギターの伴奏が重なっていく。
ゆっくりと踊り出すと、歓声が上がった。フィドルが奏でられ、独特の旋律が次第に速くなっていく。
体が昔を思い出す。上体を真っ直ぐ伸ばし、足だけを動かす。
見つめあいながら。
心の高鳴りに合わせ、ステップを早める。
『それがコツよ』
記憶の中の少女の声。
永久に流れる曲の中で。
見つめあいながら。
踊り続ける。
女がいた。
歳は二十五歳。
髪は黒く長く、背は高い。
小学校の時は泣き虫で、二つの違いの弟にいじめられては母親のエプロンの影でめそめそ泣いていた。学校では飼育係をして、ウサギにうさ子と名付けた。
中学に入る頃、急に背が伸びて女子の中で二番目に背が高くなった。バレー部に誘われたが、美術部に入り絵を書いた。絵は大して上手くならなかった。
高校では真面目な優等生で、生徒会の副会長を務めた。三年の時にクラスメイトに告白されたが、今は受験のことだけ考えたいと断った。
高校を卒業した後、都会の大学に進学し家を出た。
大学ではバトミントンのサークルに入り二年先輩の男と付き合って、初めてセックスをした。
その男が大学を出た後は、卒業するまで誰とも付き合わなかった。
大学を卒業すると、事務の仕事に付いた。
いつの間にか十二歳年上の上司と不倫の関係になった。
一年ほど関係が続いた後、上司が本社に栄転になり自然と関係は無くなった。
その後、何人か男が言い寄ってきはしたが、誰とも深く付き合うことはなかった。
二十五歳の誕生日を迎えると、突然仕事を辞めて故郷に帰った。
家では母親の手伝いをし、よく笑っていた。
彼女はまるで仕合せなように見えた。
薦められるがままにいくつか見合いをしたが、どれもまとまることはなかった。
そして、ある日曜の夜。彼女は小学校の屋上に忍び込むと、そこから飛び降りた。
死体を発見したのは朝早く登校して来た飼育係の少女だった。
そんな女がいた。
名前は亜希子。
僕の姉。
今日はみんなでドライブをしている。一体、どこに向かってるんだろう。聞いても教えてくれない。「着いてのお楽しみ」なんだって。それにしても2ドアのスポーツタイプに4人っていうのはドライブ向きじゃないよーな気がする。
わたしたちはドライバーを残していつのまにかみんな眠ってしまったらしい。窓の外はもう暗くなっていた。他の二人はまだ眠ってる。随分遠いところなんだな。
「あとどれくらい?」
話しかけると、車は急にスピードを上げて坂道を登り始めた。
そして、「ちょうど、今着いたとこ。」という友達の言葉と同時にわたしたち4人は車から空中に投げ出された。
何が起こったのか分からずに身を硬くしていると、持っていたカメラが地面に向かって落ちていった。って、なんでカメラだけ落ちていったんだろう? そういえば車はどうなった?うろたえていると横から声がした。
「あーあ、カメラ登録しとくの忘れてたよ。」
声の方を向くとみんながフワフワ浮かんでいる。どうやらこれが「着いてのお楽しみ」の正体らしい。最新技術を駆使した新世代のアトラクションなんだとか。
「ま、カメラは後で取りに行けばいいよ」
そう言うとみんなはそれぞれに泳ぎ出した。わたし以外はどうやら何度か来たことがあるらしい。気持ち良さそうに泳いでいく。わたしも手足をバタバタしてみると不恰好ながらなんとか前に進むことができた。
プールと違って、水の重さみたいなものが感じられないのでちょっと変。でも空気をかくと何の手応えも無いのに体が進んでいくのはちょっと楽しい。だんだん慣れてきたので、一人でどんどん泳いでみる。
「あんまり、遠くまで行くなよ」
友達の声もすでに遠い。気がつくとわたしは魚になっている。グングンスピードを上げて泳いでいると今度は体が雲になっている。そして、雨になって地面に向かって降っていく。
そこら中に、もともと一つだったわたしがいる。なんて不思議な感覚だろう。黄色い傘の上で弾けて、地面に吸い込まれていく。わたしはこのままどこまでも広がってやがて世界になるのだろう。そんな気がした。
冬、きれいに咲きそろった鉢を花屋から買ってきて、暖かい部屋に置いておくと、次々とつぼみが伸びて来て、新しい花が咲く。
しかし春が近づくにつれ、花茎は伸びすぎて四方にだらしなく倒れ、葉はしおれて腐り、最後には全部黄色くなって枯れてしまう。
しかしこれで終わりではない。花葉が消えた土の上には、平たくて円い、黒くごつごつした岩のような塊が残っている。これがシクラメンの球根である。栄養をたくわえて、つらい季節を休眠しているのだ。
暑い夏がすぎて涼しい風が吹きそめると、この岩もどきはあちこちに、可愛らしい貝殻のような芽をつける。他の木々の葉が色づき散る頃、緑いろの肉厚い葉が生えそろい、中に入れてやれば去年と同じように花を咲かせる。
こうして夏を越したシクラメンが、うちには五鉢もある。親戚の植木屋が、毎年お歳暮に売れのこりを持って来るので、花はどれも似たようなピンク、そのうえ花屋さんのように立派には再生しないから、母はいつも邪魔にするが、まだ命のあるものを葬る訳にはいかない。
この秋から冬は心忙しく、霜が降りてからも、家の北側の軒下に打ち捨てられたシクラメン達を省みることが出来なかった。うす桃色の花が一輪、ぼんやり開いているのに毎日気づきながら、私は小説書きに絡め取られていた。十一月に二日間だけ上京した時の経験を題材にしたものだったが、五十枚ほど書いてなお、作品として物になるかすら見当がつかなかった。
朝は氷点下まで下がるようになった。シクラメン達は青々としたままだった。母までが、
──裏のシクラメン、誰も見てない所で咲いてるのね。
と、めずらしく同情的な事を言った。
ようやく彼らを収容したのは、ある冷え込んだ冬晴れの休日だった。玄関先の水道で鉢を洗い、枯れ葉を取り除き、蜘蛛の巣を払い、窓際にならべた。
やれやれと一服するうち、一天にわかにかき曇り、雪が降りはじめた。炬燵の中から眺めていると、景色もよく見えない位の吹雪になった。実に危い所であった。
例の一つだけ花をつけていた株は、この頃にわかに元気よくなって、次々と花を咲かせている。つらい環境で頑張って、自分と仲間を、ついに陽の当たる場所へ導いたのだなと思う。
しかし一方で、外ではまだ緑いろの葉をつけていたのに、取り込まれてから枯れてしまったのもある。どんな姿をしてどんな花を咲かせていたのだったか、誰の記憶に残ることもなく――。
その春、彼の隣の席には頭痛持ちの男の子が座っていた。
彼はその眉間に刻まれた苦悶の痕を不憫に思い、その子の弧闘に障るまいと決めた。
そうして机の両端にそっと手をかけ持ち上げた瞬間、彼はバランスを崩して机上の物を落とした。
鉛筆や消しごむに混じって、鉄製の鉛筆削りが鋭い音と共に床に角を突き立て転がった。
刹那、男の子は犬のような咆哮を短く上げ、頭を抱えて机に突っ伏した。
担任教師が足音を響かせて駆け寄り、彼の頬を打った。
「お前には同輩を労わる心がないのかっ」
マ イ ド
その夏、彼はその日初めて受けた給金で指輪を買った。
小さいけれど、彼は背広の内ポケットにその確かな重みを感じていた。
ケースから零れ出てくる煌びやかな光の結晶を撒き散らせながら、彼は女の家へと急いだ。
扉を開けると、女は台所で水仕事をしていた。
彼は足音を忍ばせて、女の背後から指輪ケースを流し台に置いた。
笑みを湛える彼を振り返ることもなく、女はそれを開けた。
内から放たれた光彩の花弁は、彼女の嘆息によって一瞬にして曇った。
「貴方の心の中は真っ暗闇だというのにね」
タマ イ ヤド
その秋、身重の妻に精のつく物をと、彼は台所に立っていた。
野菜を煮、魚を捌きながら、生まれてくる子を想い、想って緩む自分に苦笑した。
老いの蝕む体と体が結んだ一粒種であった。
食卓へ料理を運ぶと、妻は縁側で夕陽に照らされながら声を殺して泣いていた。
戸惑う彼に、妻は詫びた。何度も何度も詫びて、妊娠は嘘だと告げた。
すぐに間違いだと気づいたが、打ち明ける機会を逸したのだと言った。
「貴方の懐かしい情にもう少し縋っていたかった」
シ テタマシイ ヤドス
白亜の部屋の中で、彼は馴染みの声が次第に鮮明になるのを聞いて、ゆるりと目覚めた。
掠れ切った声で、老妻が名を呼んでいた。その眼から零れ落ちた滴が彼の鼻をくすぐった。
「私を置いて行かないで下さい」
シシテタマシイヲヤドス
彼の内にこびりついていた泥のような血の塊が腹を膨らませ、泡一つを吐いて霧散した。
彼は漸く、己の体躯の内に何ものも抱かないということの無垢に浸った。
彼は漸く、己の厚みが限りなく零に近づき、その内と外とを狂い無く同じうすることの快楽に埋もれた。
空の体内から湧出する悦びで弛んだ彼の唇から抜けた最期の泡を、妻の耳殻が懸命になって掴まえた。
妻はその安らかな面貌を見送ってから、彼の墓石に泡の言葉を刻んだ。
山道を上り詰めた石は、林の中の小さな集落を見つけた。
「一、あんな所に村があるぞ」
「そんな馬鹿な」一は地図を取り出し、峠からの風景と見比べた。「村まであと10キロぐらいある筈だぞ」
「近道を通ったからかもな」一の肩を軽く叩いた石は、林への道を小走りで降り始めた。「行くぞ一、村に行けば温泉も」
「気を付けろよ兄貴、地面がぬかって、っと」下り坂で足を滑らせた一は、近くの木の幹に捕まり、体勢を整えた。
十数分程して、二人は集落に辿り着いた。
「それにしても、人っ気の無い村だよな」大通りに出た石は、灰色の石で出来た建物の列を見回した。「壁も屋根も色が無くて」
「廃墟か何かじゃないの?」
「廃墟って事は無いだろ」建物の一つに入った石は、石で出来た卓袱台の前に胡座をかいた。「面白いな、テレビや冷蔵庫まで石で出来てるぞ」
「扉が無いからって勝手に入るなよ」窓らしき四角い穴から中を覗いた一は、石の床に畳を模した模様が彫られているのに気付いた。「でも良く作りこんでるな、これ」
「ここでキャンプするのも悪くないよな」石は立ち上がり、窓越しの一に向き直った。「テントを張る手間も省けるし」
「俺は嫌だな、何か落ち着かなくて」
「まあお前の好きな温泉も無いしな」
「そういう訳では…ん?」人の気配を感じた一は、ふと通りの側を向いた。一が見たものは、黒ずくめの少女が斜向かいの建物から出るところだった。
「こんにちは」少女は歩きながら、一に向かって軽く挨拶をした。
「あ、こんにちは」一も挨拶を返しながら、少しだけ少女の方へ歩み寄った。「ここは不思議な場所ですね、こんな建物が沢山あるのに、人気が全く無いなんて」
「ここはご先祖様のための村ですから」足を止めた少女は帽子を直しながら、一の方へ向き直った。「今日は祖父の3回忌なので、父とお参りに来たんです」
「ということは、ここはお墓ですか?」
「別荘ですね、ご先祖様の。お盆には親戚がここに集まって、ご先祖様と一緒に過ごすのです」
「面白い風習ですね」
「あっ、お父さんだわ」少女は通りに入るサイドカーに向けて手を振った。「では私はこの辺で」
「さようなら…っと」悲鳴と共に建物から飛び出した石に、一は冷たい視線を浴びせた。「兄貴、何慌ててんだ?」
「一、逃げるぞ!お化けが出る!」
「只の墓参りだよ、あれは」一はサイドカーに乗りこむ少女を指差しながら応えた。「行こう兄貴、寝袋より温泉の方がいいだろ?」
時代の流れは確実に二大政党政治へ。
「やあこんにちはエレファン党の議員の方、今日もお使いかい? 偉いねえ」
スマイル商店街へどすんどすんと足音を響かせてエレファン党議員がやって来る。
「そうなんです、今日もお使いです」
「いつものようにじゃがいもとりんごだね」
「そうです。お金はこの長くて丈夫で便利な鼻に提げた買い物カゴの中に入っていますから、品物をお金と交換して、カゴの中に入れて下さいね」
「ああ、おじさんだあ、エレファン党のおじさんだあ」
「駄目だよお前たち、エレファン党のおじさんは今お仕事してらっしゃるんだから」
「いや良いのですよ八百屋のご主人。未来ある子ども達との触れ合いも私の大切な仕事ですからね。さあ子ども達、私の背中に乗りなさい。私の広い背中に乗りなさい」
「わあいエレファン党のおじさんの背中だあ」
「毎度有り難う御座いましたあ、バランスを崩さないように気をつけて帰って下さいねえ」
「さあ子ども達、丈夫で広い私の背中で存分に遊びなさい。あ、駄目だよワシントン君、牙に触ったら。怒られちゃうからね。さあ子ども達、何処へ行きたいかなあ。何処で遊びたいかなあ。あ、駄目だよワシントン君、牙は駄目だよ? 怒られちゃうからね、ああっ」
ぐあらあがあん。
「ああこの音は、またバランスを崩して倒れてしまったんだねえエレファン党の方。ふふふ、力持ちだけれど、全く仕方が無いねえ」
車二台を押し潰して倒れたエレファン党議員。街の人達が十人がかりで助け起こしている中、スマイル商店街の反対側にある集会場には続々と人が集まり始めていた。
集会場の周りに貼られたポスターの数々には山盛りの白砂糖が大写しになっている。
壇上にはマイクがずらりと並び、その中心にはピラミッド状に積まれた角砂糖が六個。
サ党の演説集会である。
人々はうっとりと壇上を眺めている。
「我々の集会にお集まり頂いて誠に有り難う御座います。それにしても良い天気ですね」
「あまぁい」
「景気は、まあなかなか良くなりませんなあ。どうすれば良いかはちょっと解りません。が、まあとにかく頑張ってみますよ。気合いだけは充分です」
「あまぁい」
「とにかく次の選挙はサ党へお願いしますね。清き一票を、お願いしますね」
「あまぁい」
人々はうっとりと壇上を眺めている。
時代の流れは確実に二大政党政治へ。
エレファン党とサ党。そのどちらの主張にも、私は半分だけ賛成です。
引き出物のペアグラスを箱から取り出して、昭雄はテーブルの上に置いた。指ではじくと澄んだ残響がしばらく残る。さすがに立派なものだ。
京子と別れてからもう二年以上もたっているし、新しい彼女だってできた。けれど、マサフミとかいう変な口の男とのキスなんて見せられると、不覚にも目頭が熱くなる。茶化す友人たちに笑い返すのもひと苦労だった。
そんなときに理穂はいないから、切なさは余計に募る。
彼女がこの部屋を出ていって、もう三日になる。どこに行ったのかは分かっている。フランス人のウィリアムのところだ。喧嘩して出て行くといつも、理穂はウィリアムのところに行くのだ。フランスに行ってくればいいじゃん、という昭雄の言葉を受けて、理穂はさっさと荷物をまとめた。
理穂曰く「文化の違いで」別れたクセに、今でも仲はよく、いろいろと相談に乗ってくれたりするそうだ。一度も見たことはないけれど、きっと格好いいのだろう。なにせフランス人だ。ウィリアムと昭雄では、名前からして負けている。
昔の男のところに行ったからといって、いちいち泣いたりはしない。もちろん腹立たしいが、テレビを見て笑うことはできるし、明日の天気を気にかけることだって、できる。プラトニックだからさあ、と理穂は言った。昭雄はその言葉は信じている。というか、信じなければやっていられない。
グラスの入っていた箱を折りたたみ、ゴミ箱に入れた。もうあふれそうになっていたから、ポリ袋ごと取り出して、口を結んで玄関のところに置く。いっぱいになったゴミ箱をそのまま放っておくと、それもまた喧嘩の種になる。
メールの着信音が鳴った。昭雄はあわててリビングに戻り、携帯を手に取る。
<ごめんなさい。今から帰ります。 りほ>
またウィリアムに諭されたのだろう。教師をやっているというだけあって、しっかりした男なのだ。けど、理穂が来た時点で追い返したりしないのが、ウィリアムの嫌なところだ。
メールの返事なんてするもんか。馬鹿。馬鹿。馬鹿女。けどとりあえず、
<ああ>
とだけ書いて返す。
そういえば、結婚式の二次会では何も食べていないから、少し腹も減ってきた。冷蔵庫をのぞくと、鶏肉がある。香草のソテーにしてみようか。結婚式でもらったワインに、よくあうはずだ。
昭雄はペアグラスを流しまで運び、丁寧に洗って布巾で拭いた。時計を見る。とりあえずテーブルの上でも、片付けておこう。