# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 愛たちの物語 | 三浦 | 683 |
2 | 未明に | くわず | 564 |
3 | 珈琲ブルース | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
4 | かえりみち | 長月夕子 | 979 |
5 | 虹 | 眞鍋知世 | 994 |
6 | 蜂 | 江口庸 | 784 |
7 | (削除されました) | - | 1000 |
8 | 私の二酸化マンガン | 朝野十字 | 1000 |
9 | 白の世界 | 斉藤琴 | 964 |
10 | 僕のほこり | 真央りりこ | 1000 |
11 | マンホールの家族 | 川島ケイ | 1000 |
12 | 十二月、九龍尖沙咀にて | (あ) | 1000 |
13 | 時には昔の話を | 曠野反次郎 | 957 |
14 | ケンカ道場 | 五月決算 | 1000 |
15 | 夏の日 | 西直 | 927 |
16 | 奉仕される人 | Nishino Tatami | 997 |
17 | DRIVE | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
諒子が好きだ。彼女とは高校時代に同じ放送部員として出会った。アナウンサー志望で、歌うように曲を紹介する彼女の声は校内でも評判になるほどだった。僕達はよく居残って翌日にかける曲をああだこうだと熱を込めて選んだものだった。校内のアイドルを独り占めしているその時間のために僕は学校に通っていた。
彼女から連絡があった。突然。
「ごめんなさいね、急に呼び出したりして」
「用件は何?」
「……これを持っていって欲しいのよ」
「わかった……それだけかい?」
「うん」
中からレコードが数枚見つかった。諒子が好きで、僕も好きになった曲たちだった。今でも空で歌える。僕は口ずさみはじめた。
彼女にプレゼントした様々なもので荷物の中は埋め尽くされていた。服。靴。貴金属。写真。ひとつひとつに思い入れのある、派手ではないが大切なものたちだった。
帰り道で、不意に大きな声で歌いたくなった。酷い人間だなと思った。外は胸を刺す冬で、ひとりで歩くには今の格好では足らなかった。
部屋で彼女の好きな歌に埋もれる。このまま何もかも昔に戻ってしまえばいいのに。
散乱する彼女のものだった僕のものたち。彼女のものでなくなった今、僕のものである必要もなくなってしまった。ひとつひとつ壊していく。使い物にならないように、壊していく。
自分を優先していることに気がついていても、けっきょく何も変われないまま年を重ねている。こんなことを何度繰り返すつもりなのだろう。責め立てている傍から、あの人の顔が頭に浮かんで消えない。
今でも僕は、諒子が好きだ。
それでもやはり、由佳里が好きだ。
私は、昇が好きだ。
或る定時に床に就くのだが、どうしても深みに入ることができない。寝床の闇が明るく感じられてならない。
そのような不鎮の夜、私は部屋を抜け出しては決まって或る場所へ赴く。
誰とも擦れ違わず、生み出されたばかりの空気を胸に入れながら、私は暗い道路の真中に佇む。
痩せこけた猫の、無惨な轢死体である。
三日前の仕事帰りの夕暮れに、その猫はまだここで微かに息をしていた。息を吸い、その倍の血を吐いた。
布団に入っても、その猫のことが気に掛かった。悲哀や同情ではなかった。死の跫を、私も同じように耳元で感じ取っていたのかも知れなかった。
飛び起きて猫の元へ向かうと、もう容れ物だけになっていた。
それから毎夜、私はこうして人気のない道路に佇み、もう動かなくなった、かつて猫だった物を未明まで眺めている。
未だ息をしているように見えて恐ろしくなることがある。それはあの世の息を吸い、あの世の息を吐いているのかも知れない。あの世は暗く、静かであるのか。寝床の闇よりもより一層の闇であるのか。
或る夜、猫の死骸に無数の蛆が集っていた。
私という先客を差し置いて、面の皮の厚いことである。
見下ろす私など目も呉れずに、蛆は腐肉を貪り、体を波打たせている。静態する猫の死骸と動態する蛆の群れ。
夜が白々と明けてきた。
私も、蛆の様に生きねばならぬ。
その店はネオン街の裏通りにあった。
地下に通じる暗い階段を下りていくと、ソクラテスの顔がマークの重たいドアがあって、外に漏れていた光はクリスマスの教会のように穏やかであたたかかった。中には無表情のマスターとカウンターで腕を組んで目を閉じている客が一人。私は、テーブル席に腰かけて、メニューを開くが、ジントニックと炭焼き珈琲しかない。
白くて重たいカップがコトンと音をたててテーブルに置かれたが、砂糖もミルクもついていなかった。ゆっくりと舐めてみたら、苦さが口の中に広がっていくーーストレート珈琲を飲んだはじめての夜。
私が泊まっていた宿は一泊2300円。三階だての建物で、入り口付近は甘酸っぱい臭いが漂っていた。料金は先払いで、門限は22時。 案内された二階の部屋へ行くと二月だというのに暖房がなく、シーツには小さな血痕がついている。おまけに部屋の鍵は壊れていたが文句を言う度胸がない。何も言わずにドアを閉め、100円で30分みれるテレビをみようとしたが、財布の中に小銭がない。しょうがなく寝転んでいたが、あんまり身体が冷えるので、地下にあるという浴室へ向かった。
畳一枚分の浴槽に飛び込もうと思ったが、湯には垢がたくさん浮かんでいて入る気がしない。
迷っていると、誰かが入ってしまい、どうしようもなく風呂をあがり、ドライヤーを首筋にあてて部屋に戻った。スーパーで買ってきていたレタスサンドイッチと鶏のから揚げを食べたが、やることがない。ノートとペンを取り出してとにかく思いつくままに手を動かしていた。最初は、持っていたキーホルダーのイラストを描いていたが、気づくと文章を書いていた。しばらくたって、何かに憑かれるように荷物をまとめ、宿を抜け出して、夏の虫のようにネオン街に吸い込まれていった。
舌が火傷するくらい熱くて酸味のない珈琲は、喉に流すというより、歯茎にしみ込んで身体の内側に落ちていくような感じがした。そして、そのときようやくトランペットの叫び声や、ドラムが吼えていることに気づき、胸の中にジャズの風が吹いた。宿で書いたメモは今も残っている。
ぼんやりしていると
路上で口論している女のわめき声
嘔吐する男のうめき声
不意に隣から
ピアノのメロディがきこえてきた
そのメロディは
ぼくを安心させる
リュックの中の単語帳に
そろそろ手をつけなければと思っているうちに
ピアノが止まった
入試まで8時間
「帰ろうか…。」
と兄が言った。「もう、夕方だし。おかあさん心配するからさ。」
「ころは?ころはどうするの?」
そういって弟は声を詰まらせた。兄もぎゅっと口を結ぶ。
「そうだけど…。明日はまた探しに行こうよ。」
兄は力なくそう言うと、弟の手を引いて歩き出した。弟はともすると涙がこぼれそうになるのを懸命にこらえた。長い影は重石みたいに、二人の足をいっそう重くした。
「おい、ぼうず。」
不意に上から呼び止められた。兄はびっくりして声の主を仰いだ。そこにはぼさぼさの頭で、泥をかぶったような汚い服を着て、黒い顔をした男が立っていた。兄はギョッとして身を引き、弟をその小さな背の後ろにかばった。
「どうしたんだよ、しけたつらして。」
「しらないひととはなしちゃいけないっていわれてるから。」
彼はしがみつく弟をしっかり抱きながらうわずった声でそう言った。
「ははは、それは正しいね。今のご時世大切なこった。」
その男は片頬を上げて笑いながら言った。
「ま、そんな顔すんなよ。あのおてんとさんを見てみなって。きれいなもんだろうが。」促されたその夕日は、目に痛いほどだった。日が暮れる。夜が来る。ころはどこへ行ってしまったんだろう。今ごろおなかを空かしているんじゃないだろうか。そう思うとまた涙が浮かんできた。
「おいおい、どうしたんだあ?」
「ころがいなくなっちゃたんだ。」
弟が思いがけず大きな声そう言った。兄はすぐにたしなめた。
「へえ、いぬっころかい?」
「なんでもないです。さ、いこう。」
「まちなよ。そのいぬっころ捜しておいてやるよ。」
弟はにわかに顔を輝かした。
「ほんと!?ほんとにおじさんがさがしてくれんの?」
「ああ。俺はヒマだからな。どんな犬だい?」
「しろいの!しろくってちっさくって赤い首輪してんだ。」
兄は弟の手を引っ張った。
「ほんとにいいんです。かまわないでください。」
そう言い捨てると一度も振り返らずに駆け出した。暮れゆく今日からも
逃げるように。
それでも次の日はやってきた。でもそれは素敵な朝だった。
ころが帰ってきたのだ。ころの体はぬれてたけどそんな事はかまわずに
兄と弟はやさしく抱きしめた。そして「もうどっかいっちゃだめだよ。」とよく言い聞かせた。雲一つ無く空は澄み渡り、風は穏やかだった。世の中に何も悪い事は存在しないような朝だ。川で男が一人死んだけど、一つくらいは仕方がない。
とぼとぼと二つの影が揺れる。
今年で中学三年生になった。あんなに大きかったセーラー服も今では小さく感じられるようになった。私は、涙でからからになった薄桃色のハンカチを左手に握り締めて、大きな歩幅でずんずんと歩く。
「おねぇちゃん、つかれたよ」
背中の後ろのあたりから、小さな声がした。不安そうな目が、こちらを覗いている。妹のさきも今年で六歳になった。
「しょうがないなぁ。じゃあ休もうか」
はぁ、とため息をついていたものの私もかなり疲れていたのでついさきの言葉につられてしまった。さきは嬉しそうに、土手へと座り込んだ。
ぽつぽつと、雨が降り出していた。ふと顔をあげると小さな粒たちが私の顔をぴょんぴょんと跳ねる。
「おねぇちゃん、おとうさんどうしたの」
「んー・・・お父さんね」
「なんでおとうさん、いなくなったの」
父は死んだ。
急な事故死だった。もしかしたら自殺かもしれないと親戚の人たちが話していた。そんなことは、どうでもよかったのだ。
父が死んで、母は海の水を飲み込んだように嗚咽を繰り返して涙を流している。あんなに笑っていたのに。
私に笑いながらいってきますと、手を振った父。ただいまは、もう二度と聞けないのだ。
「おねぇちゃん」
さきが、雨に濡れた私の肩を揺する。さっきよりも雨足は強くなり、泣いたってわからないくらいになった。
「お父さんは、真っ白になったの」
「まっしろぉ?」
そう、父は骨になった。もうなにもないのだ。なにも。
「だからもう、なにもなくなっちゃったの」
私は少し、涙声になりながらさきをみることもできずに言った。
「おとうさん、いろもないの?かわいそうだよ、おとうさん。」
さきは泣きそうになりながら言った。でも、その言葉はどこか力強くて、私なんかよりもずっと優しくて。
「あ、おねぇちゃん」
そう言って、さきは勢いよく立ち上がった。雨はいつのまにかやんでいた。あたりから、雨独特のにおいが香る。
「にじだよ」
はっと目が覚めたような感覚がした。私は思わず指差された空を見上げた。決して立派とはいえない、薄く小さな虹が空へと上っていくように開いている。それはまるで、雨が残した足跡のように。
「おねぇちゃん、おとうさんににじをあげよう。」
「え」
「なんにもないならにじをあげようよ。そしたらいっぱいいろがついて、おとうさんまっしろじゃなくなるよ。またさきのことぎゅーってしてくれるよ。」
父が笑っている気がした。
学校を卒業した鶴留繁は地方都市の市立小学
校に着任した。五年生を担当。初等教育の理
想に燃える。が児童に人気がない。同時に、
繁は若ハゲという悩みを抱えている。卒業を
機にかつらをあつらえていた。二学期、いじ
めの噂を耳にする。活発な伸男に元気がない。
体育の時間、悲鳴が聞こえた。授業を見学の
伸男だった。伸男の二の腕にスズメバチがと
まっている。繁は動くなと指示をした。繁も
恐いが、意を決して隣に座った。気をそらそ
うと話題を投げた。今日のカレーは美味しか
ったなぁと繁が言うと伸男は涙をこぼす。繁
が聞くと、近ごろ仲間はずれにされると言う。
原因は先生の頭だと言った。繁はドキッとし
た。先生は汗をかいても、髪の毛が濡れない
のはかつらだから、とリーダー格の剛司と取
り巻きが言うので、伸男だけが自毛だと反論
したところ、仲間はずれにされたと言う。繁
は顔から火の出る思い。かつらを隠蔽する術
を繁は蜂をにらみながら考えた。伸男は繁の
顔が紅潮し目が血走るの見て、本当にかつら
なのかもしれないと思った。もしかつらなら、
いじめも終わると考えた。そして、早く蜂と
先生のふたつの重圧から逃れたかった。一方、
冷静さを欠いた繁はしどろもどろに言葉を吐
く。先生がいつでも味方だ。自分の意見を腹
にためるな。嘘はついちゃいかん。人をだま
すよりだまされろ。夕日に向かって走れ。そ
のとき伸男は目を耀かせてうなづいて、二の
腕に蜂を載せたままそおっと立ちあがった。
クラスメートのところへ向かっていった。み
んなは蜂を載せた伸男を遠巻きに眺めた。取
り残された繁は嫌な予感がした。伸男が「先
生はかつらだぁ!」と叫ぶと同時に、繁は半
べそで笛を鳴らした。どよめきのなか蜂は秋
の空に消えて行った。うなだれる繁。次の日
から繁はかつらをはずした。あだ名はツルピ
カ先生。伸男に笑顔が戻った。もう隠すもの
もなく、教育に体当たりで臨む繁であった。
木ないか?
木ですか
うん。木
ないでしょう
あるだろ
切っちゃいました先月。最後の一本
切っちゃった?
規定オーバーで。1cm
切るなよそれくらい。木、県に聞けない?
県ですか
うん。県
県ないですよ
な、なんでぇ
道州制ですから
いやだからじゃあ州でいいけど
面倒ですよ。コミュニティで採決とって暫定区長の許可と臨時市長の許可と前知事の許可と州のCIOとCEOの
いいよもう。誰かどっかで見かけなかった?木
国に聞くんなら国民なんでも質問コーナーで直接聞けるよ
あれ回答5に年は懸かるだろ
5年で来ない時は不適格者扱いらしいです。命懸けです。で、どうしたんです急に。木、何に使うんです?
いや見たいだけなんだが
インターネットで見りゃいいじゃないですか
インターネットって君そういうんじゃなくてサアじかにサア
木なんてあったかあなあ。木見たいですか?僕見た事ないですよ
昔はなんぼでも生えてたんだがなあ
木って何ですか?
もういいよ。俺もうあがるよ。お疲れ様
いいよなあ課長は独身だから気楽で。俺は3階
お疲れ
お疲れ様
でもあいつなんていい方だよ。俺なんかカミさんトコしか空きなくてあっちの住室だもん
やっぱ職場結婚に限るよなあ。全部ビルん中で済むし
課長寝ちゃったよ。課長のシェルなんか薄汚れてるなあ
なんで木が見たいのかなあわからん人だなあ
木って外にあるんだろ?ヤダねえ。俺なんてシェルがあっても外ヤダ
ヤダって隣だろ。早く帰れよカミさん待ってるぜ
そうだな。じゃあまた明日。俺、友達に木ないか聞いとくわ
中国の奥地まで行かなきゃ木なんてないだろ
中国に木ありますか
あるだろまだ。まだ川もあるらしいし
川まずいよ
まずいか
本当にあるんスか
噂だゼ
でも川ヤバイですよ。差別ですよ
そうだな。聞かなかった事にしてくれ
おーいみんなぁ今の聞かなかった事で宜しく
OKです、聞いてません、了解、知らないよ、イヤ本当に聞こえなかったけど何?
いいよもう
ところでさあ、課長のシェルの背中の下に生えてるの、アレ木じゃないの?
ええっコレ木なの
マツ?
木ってあんな平べったいか
マツタケ?
子供だろ
マツタケノコ?
いや木も松も縦に生えるんだよ
ピンクだから桜じゃない?
桜も縦に生えるよ
菌とか黴だろ
どっちにしろヤバイよ
ヤバイなあ捨てちまうか
課長捨てるの?
しょうがねえよワケわからんもん生やされちゃあこっちまでコレもんだもん。木とか言ってるし
そうだなあ木とか言ってるしなあ。捨てちまうか
ああ捨てちまえ
捨てちまえ
彼女の言葉の遣い方にはいつも感心させられるが、私のことをこれから二酸化マンガンと呼ぶと言われた時にはさすがに面食らった。私は彼女の誕生日のお祝いのために彼女を自宅に招いて料理を作っている最中だった。料理の手伝いを断ると、彼女は最近見たという映画の話を始めて、波瀾万丈なストーリーを詳細に語り、身振り手振りを交えてしばしば長台詞を暗唱してみせた。私はその映画を見ていないのでただ時折相槌を打つことしかできなかった。食事が始まってからもずっと映画の話が続いて、あらかた食べ終えた頃、恋人達はようやくハッピーエンドに漕ぎ着けた。
「ああ、面白かった」
彼女は大きく息を付いて満足そうに私を見た。
「あたし、喋りっぱなしねえ。きっとあなたは気を悪くしたねえ」
「そんなことないさ」
「あなたがあたしを嫌いになるまで後どれくらいかな。って考えるのよう。どうせそうなるなら今のうちに喋っておくというわけよ」
私は彼女がまだ私の料理について触れてないことを指摘した。
「おいしかったよ」
「それだけ?」
「うん」
彼女はちょっと寂しそうな様子になった。
「あたし、わざと、あなたに嫌われるようなこと、してやろうか。そうしたら、あなたに嫌われて、別れた後も、あたしの中には、本当は、あなたに嫌われなかったあたしが残るはずだもの」
食事を終えてソファに座って寛いだ。けれどもうまい台詞は彼女の専売で、私にできることはせいぜい間抜けな調子で感嘆するくらいだった。
「ぼくは、君のこと、好きだなあ」
「今はそうでも、段々にあたしを嫌いになるんだわ。けれどもあなたは優しい人だから、あたしを嫌いになってもただ黙り込むだけなんだねえ。そんなわけで、あたしは、ちっとも気付かずに壊れたドアみたいにいつまでもバタバタ話し続けるのよう」
私は思わず含み笑った。彼女は急に息が詰まったみたいにお腹を押さえて俯いた。
「あたしねえ。若い時、ボーイフレンドに拳固で殴られたことがあるのよ。黙れ。って言われたわよ。その時のことを思い出す度、気持ちが落ち込むわ」
「そいつは――ひどい男だね」
「そんなことないよ」
彼女はムキになったように私を睨んだ。
私は自然な感じで彼女の肩を抱き寄せた。私は次第に彼女を理解している気がするのだった。
「どこか二人で旅行へ行かないか。一緒に旅行すると本当の人柄がわかるって言うじゃないか」
「あたしの二酸化マンガン」と彼女は言った。
てのひらの上の折れ曲がった羽は、風に飛んで見えなくなった。起き上がると、倒れた私の形に窪んでいる雪があり、雪面に着いた腕が、ずぶと沈む。
握り締めていた時には羽と気がつかず、雪とは違う白い何かということしかわからなかった。冷えた体を震わせ、うつ伏せのままどうにか首を動かし、ようやく判った。徐々に体温が上がり始め、神経がぴりぴりと指先へ流れた。指を伸ばすと、雪をさらう風が吹き、羽も共に舞い上がった。
雪の上の手は青白く、かじかむどころか凍えてろくに動かせもしなかった。感覚がほとんど無く、どうにか指の隙間から握っている物を見た。私の手のような死にかけた白ではなく、雪のような透明な白ではなく、ただ白い物が手の中にあった。
何を握っているのだろうか、指は言うことを聞かず、力も入らず、恐ろしく時間をかけ、それでも僅かな隙間しか得られなかった。
隙をついた光が、私の目を刺した。あまりの眼痛に瞳を閉じたが、すでに遅く。ちらちらと、赤い目蓋の裏側で何かが踊る。短く吐き気に襲われた。
目をつむって何時間もそうしていたような、ほんの数分だったような。しばらく、冷たい雪の上にいることを、私は忘れていた。
何か気配を感じたような気がした。私は死んだ振りをしたままだった。このまま春までいようかと思った。そのほうが今よりもずっと楽だろう。耳元で、雪が体温により解ける音がした。
鳥が頭の上を、黙って私を見下ろしながら通り過ぎた。何も見なかった振りをし、黒い影が雪面を滑る様子だけを残した。
消えていった先へ、追いかけもつれた足は、私をその場に留まらせた。ばたりと倒れ、冷たい湿りを頬に感じ、誰もいない冗談で目を閉じてしまった。
空から見れば、今の私ほどこっけいなものは世界に無い。
私は精一杯の速さで、雪をかき分け歩いていた。後ろにでこぼこと醜い痕を残した。振り向いてはいけなかった。どうしても歪む道のりに、歩いた距離を測り、いかに自分が愚かなのかを己に叩き付けることになるのは、わかっていた。空を見上げた。青が静かに降り注ぐ。
どこまでも白い国で、冷たい気を頬や体に感じた。目に映るものは全て、吐く息すら、白い光の屑だ。一歩踏み出し、深く足跡が残る喜びに、私の息は荒くなった。
さあ行こう。
自分へ向けた、その言葉は始まりだったはず。
今日でまる3ヶ月、おふくろは重なったままだ。お金なら何億もの束に相当するだろうが、残念な事におふくろはただ重なっているだけで、誰かに福をもたらすとか得をするとか、そんな事は全然なさそうだった。
3ヶ月前の9月26日、日曜日の朝だった。おふくろは仲人を頼まれた。姉貴の友達とゴンタレスさんが結婚するのだ。おふくろは何度もやっぱり断ると騒ぎだし、その度にゴンタレスさんがなだめた。
「美貴のおかあさん、日本一いえいえ世界一のお母さんね。I’m proud of You, Yaeko. 分かりますか? 八重子さん、僕のほこりです」英語が混ざる事にからきし弱いおふくろは、あっさり仲人を引き受け、ゴンタレスさんに英語を習い始めた。そして重なり始めたのだった。
英語一文につき、ひとり分のおふくろが、押入の布団みたいに積み上げられていく。
レディースアンドジェントルマン。
おふくろが口にすると、吐き出した空気が背中に盛り上がって、次第におふくろの姿を形作る。
ディスイズアグレイトセレモニートゥデイ。
ふたりめ。
マイネームイズヤエコ。
さんにんめ。
プリーズメイクユアセルフアトホーム。
よにんめ。
スマイル。
それは言わなくてもいいのに。
姉貴も僕も、母の手を借りるという年齢はとっくに過ぎていたから、特に困るってことはなかった。家事一切を任されてる姉貴にしたって
「近いうちこの家を出ていくから」とはりきっている。恋人がいるのだ。退職したおやじは庭の盆栽いじりに精を出していて
「もともと母さんは重なる素質があったのさ」と、ぶちぶち松を剪定してる。
挨拶を英語で言えるようになったおふくろだが、式場に入る事はできなかった。当たり前だ。すでに屋根を突き抜けてしまったのだから。しかし、おふくろの重なりは衰えなかった。姉貴の結婚が決まり、式場から貸衣装の下見など、益々おふくろが口を挟まないではいられない状況が続いた。僕の海外研修にあたっては、とうとうドイツ語までしゃべり始めた。おやじは人材センターから中国人宅庭木の手入れを頼まれ、息つく暇もないおふくろは、裏山のてっぺんにある神社をはるかに上回る高さになってしまった。何重にも重なっているおふくろの身体から、言葉が振動して、お告げのように降ってくる。
一番下の仲人前のおふくろはつぶれそうになりながら、バイリンガルの合間に
「年末大掃除いつになったらすんのよぉ」と嘆いている。
「はじめまして、マンホールから引っ越して来ました、マンホール光一です。よろしくお願いします」
そう彼が挨拶したときには、僕らはもう既に度肝を抜かれていた。彼の頭にはマンホールの蓋が乗っかっていたからだ。蓋は大きく、重量感がある。偽物ではない。彼の首の太さを見て、そう思った。
僕の隣の席に座り、「よろしく」と彼は頭を下げた。ちょっと避けてしまった。
その日彼から聞いた情報をまとめるとこうだ。
・マンホール光一というのは本名
・マンホールという地名ではなくて、本当にあのマンホールから越してきた
・頭の蓋は確かにマンホールの蓋
・蓋は重さが40kgほどある
・マンホール家は数百人の大所帯
・ただし生活する単位は数人でまとめられており、蓋の模様がそれぞれ違う
・蓋を付けて生活するのを苦にしたことはない
・マン(人)ホール(穴)はそもそも人が住むためのもの
・趣味は将棋
・妹の名前はマンホール久美子
一週間もたち、みんな彼のことをマンホールではなく光一と呼ぶようになったころ、帰り際に彼から声をかけられた。
「今日、うちに遊びにこない?」
何の部活にも入っていない僕に、断る理由なんてない。
「おう、いいよ」
そこで思った。もしかして彼の家って。
「うちは、マンホールじゃあないよ」
僕の気持ちを見透かしたように、彼は言った。
「どんどんマンホールが住みづらくなっちゃって。だからみんな引っ越してるんだ」
ふつうの一軒家だった。マンホールの形ぐらいはしてるかも、と思っていたから拍子抜けした。
「お邪魔します」
靴を抜いで、うちに上がる。彼の後に続いて居間に入り、固まった。天井から、女の人がぶら下がっていた。
ぶら下がった人は薄っすらと目を開けて、僕たちを見た。
「ああ、お帰り、早かったわね」
ごめんお母さん寝てたみたいだ、と彼は僕に告げた。夜の仕事やってるから、この時間は寝てんだよね。
頭に付いているのは、マンホールの蓋なのだろう。
「あの、お邪魔します、光一君のクラスの山本です」
ようやく声を絞り出した。
「いらっしゃい、来て下さってありがとうね」
そう言って光一の母は、天井についた取っ手を掴み、体を持ち上げた。器用に穴から這い上がる。横にあるもうひとつの穴は、父親のものだろうか。
壁に、家族の写真が飾ってあった。一家四人。光一の横で笑っているのは、妹の久美子だろう。蓋の重さを微塵も感じさせない、爽やかな笑顔だった。
海港城を出るともう薄暗くなっていた。聖誕祭の飾りつけの向こうに見える中環のビル群は既に光で装飾され始めている。
「やっぱりあっちは寒いんでしょう?」
サキにそう尋ねた後、晃は日本人学校でも何度か同じ質問をしたことを思い出して少し後悔した。何となくぎこちなさが悟られているような気がする。
「らしいね。でも想像つかないな、私雪見たことないし」
「香港人みたいだね」
「うん、生まれた時からこっちで、滅多に日本に行かないから」
「うちは正月にばあちゃんち――山形に行くからね」
フェリー乗り場を通り過ぎる。背の高い西洋人もいれば中国本土から来たらしい観光客もいる。皆色々な言語で機関銃のように喋っているので二人も負けずに大声になる。
「そういえば、さっきの店員サキに何て言ってたの?」
「晃のこと、彼氏ですか?って」
晃は黙ってしまう。晃も長いこと香港にいるけれどもサキほどは広東語を理解できない。サキの横顔を見た。耳の後ろからきれいに髪がまとめられポニーテールになっている。晃にはすれ違う人々が皆、サキのことを見ていくように感じられる。振り払うように話を続ける。
「ごめんね、出発前で忙しいのに」
「ううん楽しかったよ今日は。ていうか」
「ていうか?」
「まだ終わってないし」
サキがあどけない顔を向ける。目が合ってしまい晃はどうしたらいいか分からなくなる。訳もなくサキのことをずるく思う。
時計塔を過ぎプロムナードに入った。香港島の夜景が視界いっぱいに広がる。この季節だけの特別な意匠もある。くっついて歩くカップルが沢山いる。付き合っているわけではない二人は無言で対岸を見つめる。
突然やっ、いー、さん、とはやす声が後から聞こえた。晃も分かる広東語の『一二三』だ。二人が振り返ると仲間たちに囲まれて若い男女がキスをしていた。急に何か心が押されたような気がして晃はサキのほうに向き直る。
「あのさあ、サキ……」
「その先は言わないほうがいいと思う」
サキはそうつぶやき、晃は口をつぐんだ。その後路線変更して切り出す。
「手をつなごうか」
差し出されたサキの手は少し冷たかった。もっと早く気付けばよかった。
「私、今日のこと絶対忘れないと思う」
言い終えると急にサキは泣き始めた。周りの人がこちらを見ている。けれども晃は手を握り続けることしかできなかった。未来を語るのには幼すぎるのだろうか。肩を震わすサキの横で晃は唇を強く噛んだ。
奈津子に会ったのは数年ぶりの帰郷を終え、駅へと向かう途中のことだった。
「久しぶりね」
「……うん」
「高校卒業して以来だから五年ぶり?」
「そうだね」
細かった頬はすっかり丸みを帯び、金色に染められていた髪は、今ではもうすっかり黒くなっていた。でも、久しぶりに聞く彼女のその声は、昔と一緒で僕はすっかりドギマギしてしまったのだ。
だからだろうか。彼女が抱いている赤ん坊に気がつくのが随分と遅れてしまった。
僕の視線に気がついたのか、赤ん坊に向かって微笑んでから津子は言った。
「私ね、去年結婚したの」
「……そうなんだ」
「そ」
思えば、奈津子と過ごした時間の倍以上の間、彼女に会っていなかった。奈津子と一緒だった頃、僕はずっと彼女を追いかけていた。彼女が聴く音楽を聴き、彼女が読む本を読んだ。
だけど、教師に反発したり、突然髪を金色に染めてしまうような、そんなところは小心な僕にはとても真似することは出来なかった。
誰かが「あんなやり方はもう古いよ。教師の前では、はいはいって言ってりゃいいんだよ」と、そんなことを言った。けれど、僕はそうは思わなかった。奈津子はただ彼女のやり方を率直に表明していたに過ぎない。僕はそんな彼女をずっと眩しく見つめていた。
そう、僕はただ彼女の崇拝者であればよかったのだ。
だけど、奈津子は僕にそれ以上のものを求めた。
そして、僕はその彼女の期待に十分に答えることが出来なかった。
赤ん坊の泣き声が僕を今の時間へと引き戻す。
赤ん坊をあやす彼女の姿はもうすっかり母親のものになっていて、僕はまた彼女に置いていかれた気がした。
「抱いてみる?」
と奈津子は突然言った。
「……え?」
一瞬、違うことが思い浮かび思わず聞き返す。
「この子をよ」
「ああ」
僕は頷きながら、絶対狙って言ったに違いないと思う。
そして、赤ん坊を抱きぎこちなくあやしながら訊ねた。
「名前はなんて言うの?」
「この子の名前? 知りたい?」
「うん」
僕の顔を見ながらゆっくりと彼女は名前を言った。
それは、確かに僕の名前だった。
あまりのことに思わず赤ん坊を落っことしそうになる。
そんな僕から赤ん坊を奪い返すように受け取ると、奈津子は笑った。
「うそよ」
「え?」
「だって、この子は女の子だもの」
その笑顔は、昔の彼女のままだった。
夫の実家から荷物が届いた。米、みかん、乾物類、そして漬物が一樽。それらを見ていると私は息苦しいさを感じる。だってお礼の電話をかけなきゃならない。師走上旬、今年最後の一幕を覚悟して受話器を握る。
「斎藤です」
数回のコールの後、穏やかな女性の声が響く。義母だ。結婚当初から夫に言われている。義母は思った事をあまり考えずに喋るので何を言われても気にするな、と。私も気にしないようにはしているつもり。
「裕子です。こんばんは。今日、荷物届きました。有難うございます」
要点のみを一気に話す。
「あら、もう届いたの、早かったわね。英明は元気?」
「ええ、元気ですよ」
「そうそうお漬物ね、頂き物なんだけど英明の好物なのよ。お父さんは血圧が高いから食べられないし、そっちで食べて頂戴ね」
「はい、有難うございます。頂きます」
正直、私は漬物が嫌いだ。彼は確かに大好物みたいだけど、量がなぁ。ま、いいか。
思っていたより荒れた話題に発展せずホッとしかけた時だ。
「そう言えば、あの子太ったわね。去年のお正月に帰ってきたときは驚いたわ」
そうだろう、私も驚いた。でも夕食の後に駄菓子を食べつづけりゃ、太って当然だ。
「あんまり急に太ると早死にするのよね。裕子さん、あの子を死なせないでね」
「はぁ」
私も三十路手前で未亡人になるのはご免被る。っていうか、彼が太ったの私のせい? 大体、自分の小遣いで買ってくるお菓子をどうやってとめれば良いんだろう。
「野菜をいっぱい食べさせると良いのよ。でも、塩辛いものは避けてね。血圧上がるのも良くないそうだから」
「へぇ〜、そう……なんですか」
送られてきた漬物樽を横目で眺めながら返答に困る。これも天然?
その後も何事か言っていたがあまり聞いてはいなかった。
「それじゃ、元気でね」
明るい声が別れを告げる。通話が切れた時、タイミングよく夫が帰宅したようだ。
電話の前で立っている私の後ろで歓声があがる。
「あ、これオレの好きな漬物。うちから送ってきたの?」
「そう、今お礼の電話したところ」
「お袋なんか言ってた?」
暢気な声が癪に障る。
「……息子を殺すなって」
「えっ?」
握っていた受話器を力いっぱい元の位置に戻して振り返る。
「あんたが無駄に太るからよ、今日から夕食後のお菓子は一切禁止だからね」
「何で急にそんな……オレの唯一の楽しみなんだぞ」
「やかましい!」
うろたえる夫の抗議の声を一蹴した。
蝉が鳴いていた。暑苦しいその音で目を覚ました。
今日は休日で、一時に彼女と待ち合わせをしている。場所は公園の池の前。今は十一時を過ぎたところで、待ち合わせまではまだ時間はある。部屋の中はクーラーが効いていたが、何だかけっこう余裕で暑くて、こういう日は外に出たくないなと思う。それでも一応着替えて顔を洗った。
居間のテレビは高校野球を映していた。しばらくそれを見る。テレビの中には汗と日差しと土があって、僕はそれだけで少しげんなりした。
飯を食って、支度をした。場所と時間を指定したのは彼女のほうで、「これは軽い嫌がらせか?」と少し疑いながら家を出た。空が青く、日差しが強かった。なるべく日陰を歩いたけれど、ものの五分で汗が吹き出てくる。僕は黒っぽいTシャツを着ていて、黒はがしがしと熱を吸収していく。何だか失敗したなとだらだら思う。
蝉が鳴いている。
シャツの背中がそれとわかるくらいに湿ってきたところで、僕は公園に到着した。
公園の中は意外と涼しい。緑が多く、背の高い木が道に陰を作っている。蝉はずっとうるさく鳴いていたが、この場所だとさほど不快には感じなかった。
歩いていくうちに木の陰は途切れ、そこから少し行った日向の場所に池があり、池のたもとに白っぽいTシャツを着た彼女がいた。彼女のTシャツも汗で濡れていた。彼女は眉間に皺を寄せながら、池のほうに向いて何やら振りかぶっている。その手の中には小さな石があり、どうやらそれを投げようとしているらしい。
「待った?」
僕が声をかけると同時に石は彼女の手から離れ、ゆるい弧を描きながら池の中に飛び込んでいった。チャポンという水の音と共に、彼女が振り向く。彼女は一瞬で微笑んで、「ううん、全然。今来たところ」と早口で言った。彼女の顔は汗まみれで、化粧もしていなかった。さっきまで眉間に皺を寄せていたのに、今は爽やかな笑みを浮かべている。よく見るとTシャツもよれた感じでだらしない。
僕は気づいて、つい笑う。
この炎天下の中での待ち合わせ、それはたぶん、本当に軽い嫌がらせだったわけだ。けれど、被害は彼女のほうが余裕でひどくて、僕はやっぱり笑ってしまった。暑かったし、「あはははは」と指差して。
殴られた。
「お待たせしましたご主人様、何をお持ちいたしましょう?」
居間に現れた蘭が小さく礼をした直後、カメラのストロボが光った。
「とても似合ってるわ、蘭」舞はOKサインを出しながらもう一度ストロボを焚いた。「着心地はどう?」
「どうも下がスースーしてね」いつもの口調に戻った蘭は、スカートを押さえながら座椅子に腰を下した。
「タイツ履いてるからいいじゃない」華は、蘭と同じ白いタイツに包まれた脚を卓袱台から出して見せた。
「こんな薄手じゃあね。それに子供用じゃないの、これ」
「でも今日は良かったわね」向かいの雪は体を伸ばし、缶ビールを蘭に渡した。「皆の誕生祝いだけでこんな可愛くなれるなんて」
「良かったわね、じゃないでしょ」蘭はビールを口にしながら、エプロンのフリルをつまんだ。幸が丼を片手に台所から現れたのは、その直後だった。
「お待たせ、ピリ辛アボカド丼よ」
「あ、ありがと」目の前に丼を置かれた蘭は、カチューシャを外しながら箸に手を伸ばした。「大体おかしいのよね、5人のプレゼントを合わせるとメイドになれますなんて…桜?」
「まだ外しちゃ駄目よ」桜はカチューシャを蘭の髪に戻し、軽く櫛を通した。「これも服の一部なんだから」
「あと舞はもっとスカートが長いのを頂戴、股下10センチもないなんて毎日着られないでしょ」
「今日ぐらいいいじゃない、いつもパンツルックなんだから」ケーキを切り分け終えた舞は再びカメラを手に取り、蘭に向けてストロボを焚いた。
「ところで靴は脱がなくていいの?」幸は蘭の靴のベルトに手をかけながら訊ねた。
「履いたはいいけど、脱ぐのが面倒で」
「いい事を思いついたわ」カメラのレンズを戻した舞は、コートに手をかけながら応えた。「このまま外で記念撮影しましょう」
「この格好で?」
「近くの公園までだから10分ぐらいで終わるわ」
「そういう問題じゃ…きゃっ!」舞に抱き上げられた蘭は、慌ててスカートの後ろを押さえた。「せめてケーキぐらい食べさせてよ」
「大丈夫、私が持っていてあげるから」華は切り分けられたケーキを皿に載せ、立ち上がった。残る3人も丼やビール、箸などを手に取り、玄関へと向かった。
「それではお嬢様、撮影会場へ向かいますよ」蘭を抱きかかえた舞は玄関の鍵を開け、初雪の残る路上へ降り立った。
「こ、公園までなら歩いて行くからあっ」舞の腕の上で蘭が脚をばたつかせる中、舞達は公園での撮影会へと向かった。
この男がこんなに運転がうまいとは思わなかった。だってギターなんて持っているんですもの。肩にギターなんて。メーターを覗いてみる。意味ありげな五、六桁の数字をメーターはさしているけれど、あたしには良く解らない。車のことなんてあまり興味が無かったから。とにかく風景は凄かった。なんだかどんどん色々なものが通り過ぎて行く。あたしには生まれて初めての高速道路だった。きらきらと光り輝く赤いスポーツカーを、あたし達はするりと追い抜く。
あたしはバッグの中へ手を入れ、本を開いた。
「万引きなんて、いけないよ」
「万引きじゃないわ。だって店番のあの男の子、あたしが本を手に取るととても愛らしく微笑んだのよ? あれはあたしに、それを持っていって欲しい、っていう合図だったんだわ。運命だったのよ」
「レジには男の子なんていなかったよ。レジには石像があるだけで」
「石像だったのは鷹よ。石像の鷹が飛び立つのを、あの男の子とあたしは一緒に見上げた」
本は詩集だった。なかなか良い詩集で、あたしの好みだった。ひたすら美しい言葉ばかりが並んでいる。ああでも窓を開けると詩集は風に負けて、どんどんバラバラになって車外へと吹き飛ばされていってしまう。
「止めて止めて。詩集が」
「詩集なんて良いじゃないか。僕が歌ってあげるよ」
男はハンドルから手を離してギターを構えた。ギターなんてダサくてヤダなあ。頭の悪そうな男の子達は、いつも駅前に座り込んでじゃかじゃかうるさく弾いていた。でもこんなに間近でギターを聴くのは初めて。
車はよたよたと頼りなくよれ、壁にぶつかったり跳ね返されたりする。それでも車は走り続ける。
「僕の歌はどうだい?」
「まあまあ、ね。あなたはあまりじゃかじゃか弾かないから、そこだけが良いわ」
「ありがとう」
男のギターには弦が無かった。なるほど、これならうるさく無い。発明だな、と思った。
車はいつの間にか花園を走っていた。色とりどりの花々。七つの小川が静かに静かに流れている。
「砂漠に向かっていたんだがな」
「ね」
車はぶちぶちと花を轢き散らしていく。花びらが舞って、視界が花色に染まる。車は走り続ける。男が次の曲を歌う。詩集はどんどん風に飛ばされていく。あたしはそれをうっとりと見つめる。
花園はどうやらビルの屋上にあったようだ。あたし達はフェンスを突き破る。そして眼下に見えるさっきまで走っていた高速道路へ飛び降りていく。