# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | わかれのうた | Shou | 1000 |
2 | 歴代アメリカ大統領の日本に関するちょっと重大な語録 | 妄言王 | 1000 |
3 | 白昼夢 | 南 | 984 |
4 | 洟 | 三浦 | 942 |
5 | 子供への偏見 | あ | 304 |
6 | 虚しい批評家 | 宇加谷 研一郎 | 663 |
7 | 抱擁 | アーナル・ファック | 998 |
8 | 距離 | 林徳鎬 | 986 |
9 | カタカタ | ゆう | 997 |
10 | 頼むよ サンタ | 真央りりこ | 1000 |
11 | 遠回りロンリー・ハート | 夕月 朱 | 740 |
12 | 電子の蝶 | Nishino Tatami | 1000 |
13 | 老3ミディアム | 荒井 | 997 |
14 | 小人 | 曠野反次郎 | 999 |
15 | (削除されました) | - | 1000 |
16 | 竹井さんの傘 | 川島ケイ | 1000 |
17 | 霧の中 | 戦場ガ原蛇足ノ助 | 979 |
18 | 昭和三景 | 朝野十字 | 1000 |
19 | 丘に立つ幼い木 | ワラビー | 998 |
20 | (削除されました) | - | 998 |
21 | ブルー | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
22 | ひとり | 西直 | 1000 |
23 | 口がすべりました | サトリ | 1000 |
4月に音楽の先生の仕事がやっと始まった。朝には授業が無くて、毎朝音楽室で自分の好きな曲をピアノで弾くことができた。
五月になり、その日も私が楽譜のページをめくったりしているとこんな事が綺麗な大きな字で置いてあった楽譜の裏に書いてあった。
先生、僕はいつも座っては考え、起きあがってはあなたのことを考えています。
私はその字を手で撫でながら可愛いらしいなと思い、なぜ先生ではなくあなたなのかな、男の人みたいだなと思った。
楽譜を見てみるとそれはショパンの「別れの歌」だった。
それを書いた子が誰かはすぐに分かった。私がその日の授業の終わりに「別れの歌」をピアノで弾き始め、楽譜を見ながらわざと途中でその楽譜をひっくり返すと、一人の子の顔が真っ赤になったからだ。私はその子をじっと見つめてにっこり微笑んだ。するとその子は、突然ずどっという音を立てて席から立ちあがり、教室を飛び出し駆け出てしまった。クラスの子供達は驚いたり、面白がって笑ったりしたが授業も終わったので、やがて自分達の教室に戻っていった。
授業の後に、私はしばらく楽譜を眺めながら座っていた。
4年生の教室は音楽室の隣で、私は毎朝弾く曲に、「別れの歌」を弾き始めた。なぜだかはよく分からない。でもあの時はいろんなことから少し寂しくて、少し意地悪に感じていたのを覚えている。
あの子に聞こえているかなと思いながら私は毎日弾きつづけた。授業中にはもう弾かず、その子の視線にも気づかないふりをした。そうしているうちに月日が流れ、夏休みも過ぎた。
11月頃だったと思う。市の交響楽団の元メンバーだったピアニストの人がうちの小学校でピアノの公演をしてくれることになった。私は彼のことは友達を通じて知っていてハンサムだな、後で話しかけてみようかな、なんて思った。
比較的小さな小学校だったので学校全体が体育館に収まり、私は他の先生達と並んで右側のベンチに座った。いくつかの曲が終わり、彼はこれが最後の曲ですと言ってあの曲を弾き始めた。すると不意に座っている子供達の中からあの子が浮き上がるようにして見えた。前をじっと見つめていて、自分の胸を押さえ、涙を流さずにはらはらと泣いていた。それを見ると私は目頭が熱くなるのを押さえられず立ちあがり、隣の先生が私に何か言ったがその時には私はもう外に向かって駆け出していた。逃げゆく私を追うように美しい音色が後ろから遠くに聞こえた。
初代ワシントン、日本について尋ねられて曰く、
「ジパングのことだろう? 架空の国について何を話せというのだ」
2代アダムス、同じく日本について尋ねられて曰く、
「よくは知らない。しかし、その国の民衆たちも、私のことなど知らないだろう。お互い様だ」
5代モンロー。
「極東にある島国であるという噂は聞いた。そんなことより、私はマリリンではないからそう思え」
11代ポーク。
「元首から独立した将軍の政府が、200年以上も継続しているのだそうだ。それでいて内乱は起こっていないという。不思議だ。ちなみに、私は豚肉ではない」
13代フィルモア、日本の元首に宛てた親書について曰く、
「ああ、確かにペリー提督に預けたよ。かの島を、貿易と捕鯨の一拠点にするためにね」
アメリカ人なのに捕鯨をやるのかと念押しされて曰く、
「無論やるとも。何か問題でも?」
16代リンカーン、日本人に面会したことがあるという逸話について曰く、
「そう言えば、アジア人と握手をしたことがあった。けれども、それが中国人だか朝鮮人だか日本人だか、私には区別がつかんよ」
20代ガーフィールド、日本の明治政府について曰く、
「政府とは言えないだろう。たかが島の内部のことだ。しかしあえて語るなら、頭の上にピストルをセットしたようなヘアスタイル……そう、チョンマゲとか言ったな。それを禁止する法律を制定したそうじゃないか。ファンキーなベッドだったのに残念だよ」
23代ハリソン、日本の内閣制度について曰く、
「我がアメリカ合衆国の民主政治とは程遠いね。聞くところによると、2代首相のキヨタカ・クロダは、発狂してワイフを惨殺したそうじゃないか。どうしてそんな奴が政府のリーダーになれるのか。神秘の島国ジパングだ」
32代F.ルーズベルト、日米対戦における「神風」について曰く、
「ノーモア、カミカゼ! クレイジージャップ! 鬼畜イエローモンキー!」
33代トルーマン、日本の戦後統治について曰く、
「マッカーサー元帥ばかりが注目されていて、甚だ面白くない」
さらに、ヒロシマ・ナガサキの人たちに言いたいことはないかと問われて曰く、
「ない」
35代ケネディは、尊敬する人物として、日本人の名を挙げている。
「上杉鷹山」
彼に尊敬された日本人がいたことを知っておいても損はない。
41代&43代ブッシュ父子、日本について曰く、
「私闘の後始末をカネで解決してくれる属国」
微熱が出てうつらうつらと眠っていても息苦しく
いつものように壁にもたれて足に布団をかけながら座っていると
湯気ののぼる白湯のようなものを持ってくる坊主が入って来て
少々おどろく。
「 どうぞ 」と言われるがままに飲み干すと
米で作った糊のような粘り気のある飲み物で
甘草のような甘みが少し舌に残った。
「 なんでしょうか、これ 」と尋ねると、茶坊主のような
その坊主はもう消えていて、
次から次へと天井から花が降ってくる。
それは紫や紅色の縁取りを持った白い蓮のような
ひらきすぎた百合のような花たちで
あまりに美しいせいか、少し良い気分になった。
なぜか涙がでるほど懐かしい感じがした。
東の窓からぷぅと風が吹いたかと思うと
枯れ草のような色の服を着た兵隊たちが
次から次へと部屋に入ってくる。
なんだ、なんだと思いながらも何処か懐かしく
座りながら敬礼をする。
皆どこか笑っているような口元でつぎつぎと
横並びにすわりだし、きいたこともない歌をうたいだす。
六人か七人かの声が美しく一律となり、花々はまだ降っている。
左に座った小柄な男がやにわに小さな三味線のようなものを渡すので
何やわからぬままかき鳴らし、わたしも唄いだす。
なにを唄っているのかわからないけれどとても嬉しい。
そして懐かしくて楽しい、こんな気分はひさしぶり。
男たちはみたこともない濁った色の酒を持っていて、
かわるがわるそれを飲み干している。
あるものは歌い、
あるものは手を叩き、
あるものは目を瞑り、
あるものは黙ったまま泣いている。
降る花々は膝のあたりまで降り積もり、
香りは徐々に強くなっていった。
「 ほぐさん、忘れたんだね 」
少しうたうのに苦しくなってきた頃に、誰かがきいてくる。
申し訳ない気がして
「 多少はさ、忘れるもんだよ。 」と言ってみるが
「 ははっ 相変わらず嘘吐きだなっ 」と高笑いされ
どうしようかと思う。
けれど唄うのをやめてしまったら彼らが帰ってしまう、
そんな気がしてそれがどうにも嫌で唄いつづける。
気がつくと降り積もった花々は徐々に小さくなり水流に
乗っているかのごとく部屋のドアから
くるくると回りながら流れていく。
何かが終わってしまうように強い芳香が少しづつ消えてゆく。
そうだね、時間はどこにあるんだろう
自由だった流れの、一端の
彼らが何か思い出してるうちに
わたしもなにか想いだせるように、
泣かないように目を瞑りながら唄いつづけた。
洟が止まらないと言ってもそれを聞いて普段人が想像する規模ではとてもなく、もうどぼどぼどぼどぼ溢れ出てくるのである。困るは困るのだがそれならまだ冷静になろうと努めれば取り敢えずどうにかしようと考える気も起きるかもしれないのだが何と言っても鼻水はねばねばしている。鼻にティッシュや指を突っ込んでみたところで歯が立たない勢いなので流しっぱなし、鼻から下はもう完全に鼻水で浸っているのだ。これは気持ち悪いぞ。ご存知の通り鼻水は少しすると固まってくるわけで最初の頃に放出された洟は顔面を覆う鎧みたいにかぴかぴに固まってしまっている。生命を繋いでおくために咥えたシュノーケルは既に溶接されていて外すことが不可能な有り様だ。だから飲み食いはシュノーケル経由でしなければならない。さっき飲み物を流し込んだら溺れ死ぬかと思った。危なかった。トイレも要注意である。ばりっと固まったファスナーをこじ開けてホースを出すわけだがその前に腰を極端に前に突き出し鼻水を回避。用を足し終わったらそのポーズをキープしたまま収納。あとは壊れたファスナーをくっつけてズボンの中にまで鼻水が入らないようにしながらひたすら固まるまで待つのである。大はもっとひどい。トイレに入るなり便器に背を向け前屈するように上半身を畳むとズボンを慎重に下ろしていきそのままの姿勢を維持して便器まで後ずさりしていくのである。妖怪か。腰掛けてもやはり前屈ポーズなのでできるだけ速やかに遂行しないと顔と膝怠りがくっついてしまい今度はそれを剥がすのに一苦労することになる。そんな状態だから外出する気になれるわけもなく仕方なく居間でテレビを眺めているのである。
テレビでは今回の事件についてコメンテーターが話し合っていた。シュノーケルを通じているためマイクの拾う音が妙に反響して聞こえる。顔の真下にたらいを置いてコメンテーターは一様に「世界の終焉だ」と感情的になっていた。その目にはわざわざメイクしたかのような隈がくっきりとできていた。
僕は由美に電話をかけた。呼び出し音。呼び出し音。呼び出し音。繋がらない。繋がってくれない。
だめだっ、眠い、限界だ……もう、どうにでもな…………ほばーくわー。ほばーくわー。ほばーくわー。ほばーくわー。
……ごっ。
一人の子供が、どこかへ向かって走っていた――――それも、腐敗したような悪臭が、
空気になりすまして漂う街を。
上空の雲は、怖ろしいほど速く流れる。
すべてが高速で過ぎて行く。
途中、少し苦しげなようすを見せたが、私たちは知っている。
それは単なる誤魔化しに過ぎないのである。
やがてひっそりと立ち止まる。どうやら街を抜け出したらしい。
呼吸をととのえ、川辺で手をすすぎだす。
楽しみといえば、これくらいのものだろう――――肩にかけた小さな鞄から、林檎を一つとりだした。
たくさんあったはずの林檎が、もうすでに、一つだけ。
これが、どうして不幸なはずがあろうか?
林檎はとても甘いのだ。
さらに、一つだけあることのよろこびといったら!
僕は哀しい。それは僕が二回目に「ゴッホの音楽はいいよなあ」と呟いたときに、彼女が何も反応してくれなかったからだ。僕は彼女にむかって「バッハ」について自分なりの考えを語っているつもりだったのだが、あるときを境にバッハとゴッホを混同して使っていた。そのことに、彼女は気づいてくれてもよかったのに、「そうね、うん」と呟いたまま、彼女はイカをさばいている。
何も僕はずっと「ゴッホの平均律パルティータはなあ」などと言っていたわけではない。ある瞬間混同したように、今度はある瞬間、その間違いに気づいたのだ。だから、僕が二回目に「ゴッホの音楽はいいよなあ」と呟いたのはある種の作為があったのである。
「あのさ」
僕は彼女の肩に手を置いた。
「ちょっと、危ない」
彼女はイカの内臓をとりだし、まるで外科医のように冷静にその臓物をゴミ袋へ捨てた。それからイカの皮を剥き、内側を水できれいに洗い、輪切りに切った。一連の作業が終るまで、彼女は僕をよせつけず、無視した。両手を石鹸で洗い、たおるできれいに拭きおわるとようやくこちらを振り向いて口を開いた。
「で、ゴッホがなんだって?」
「いや、僕が言っているのはバッハなんだ」
「バッハがどうしたの?」
「いや、バッハをゴッホって言ったのは一度は偶然で二度めは必然なんだ。作為的なんだよ」
「ふーん。そう。話はそれだけ?」
「それだけだよ。つまり、結局のところ音楽や絵を語るっていうのはこういうことなんだっていうのがわかったよ」
「今日はイカ料理でいい?」
「ああ。イカのトマトソースのパスタがいいな」
「わかったわ」
「警部お待ちしておりました。」
トレンティーノは部下の敬礼を目礼で返し、夜もヒッパレの復活を祈った。トレンティーノはちょっとセンチになり、ウンチが黄門様を激しくノックしたが、助さん、格さんの活躍により、今日も平和が保たれた。
トレンティーノはいつも通り襟を立てたトレンチコートをはおっていたが、休日出勤のため中はブリーフ一丁であった。
時折刻む16ビートのチラリズムは生理的不愉快であったが、白雪のようなブリーフは初日を伺わせ部下は安心した。トレンティーノはブリーフを七日間連続装着する四次元ブリーラーであった。七日目のブリーフは見るものの視覚や嗅覚を強烈に刺激をし、心を折った。
「ホシの名前は太田雄二、20歳。Y大の二年生です。」
トレンティーノは顎の髭をゆっくりと擦り、視線を太田に向けた。今にも飛び降りようとする興奮した太田の姿は、ホモ科狩猟民族のトレンティーノの大好物であり、純白ブリーフに軽い染みが滲みはじめた。
「太田はかなりの借金があるみたいで、暴力団とのつなが・・。」
「ドントタッチミー」
NOVA帰りのトレンティーノ叫びは綺麗な金髪であった。発音があまりにも素晴らしいため、トレンティーノのウルトラソウルは伝わり、部下は口を閉じた。
トレンティーノはゆっくりと頷くとトレンチコートを脱ぎ部下に手渡した。野次馬と警官でごったがえしている現場に、トレンティーノが進む度にモーゼの奇跡の如く道が出来た。
騒ぎに気づいた太田は近づくトレンティーノに叫んだ。
「それ以上近づくな。飛び降りるぞ。」
太田はポケットに隠し持っていた拳銃を取り出し、トレンティーノに向けてかまえた。
「来るな!撃つぞ!」
「撃ちなさい。私はもう発射しました。」
太田は叫びながら銃を撃ったが、素人の銃弾はトレンティーノには当たらなかった。
トレンティーノはその隙に一気に太田との間合いを詰め抱きしめた。勝負はついた。
トレンティーノの抱擁は、聖母マリアにに抱かれた様に、癒され、救われるのである。
太田は涙し、手から銃が落ちた。トレンティーノは太田を見つめた。
「あなたを逮捕します。」
トレンティーノは手錠の代わりに激しいベーゼをした。ねっとりと絡みつく濃厚なトレンティーノの舌は人に触覚があることを憎ませた。太田の心が折れ、ひざも折れた。太田の体はセピア色した地上に落ちていった。トレンティーノは消えていく太田に向かって本日二発目を発射した。
例えばテレビ。
「ボリュームあげてくれる?」彼女が言う。
「いいよ」
例えば食事。
「ドレッシング、かけないほうが好きなんだ」と僕は言う。
「じゃあ器は別にしようか」
彼女と暮らすようになって、ちょっとしたずれがあることに気づいた。
一ヶ月も経つとはっきりしてきた。
例えばまたテレビ。
「もっとボリュームあげてくれる?」
妙に思ったのは、二人で並んで、テレビを見ていたから。禿げ男を演じる俳優が車をぶつけてきた相手に凄んでいる。聞こえないはずがない。
「なんで?」と僕は聞く。
「ちょっとね、薄い」
「薄い?」
「うん、ちょっと聞こえづらい」
字幕の映画だ。迫力が足りないってことなら。ボリュームを上げる。急発進する車の音が派手に響いたのをいまでも覚えている。
その頃から、彼女は口癖のように「薄い」と言うようになった。無表情でいることが多くて、悩みでもあるのか心配した。
一方で僕は過敏になっていた。病的に。刺激だけでなく、感情の起伏も激しくなった。昼間は、花粉やら埃やらのアレルギーでまともに外を歩くことができない。テレビを見れば笑いっぱなしだった。
なにか原因があったわけじゃない。彼女もそうだと言った。結局どちらの感覚も異常だった。食事を見れば明らかだ。
そしてどういうわけか、お互いの変化は逆向きだった。
僕達は悩んだ。問題を抱えていたわけではないし、他のことはうまくいっていた。彼女が僕の中のなにかを貪っていき、そのせいでどんどん弱っていくように感じた。
彼女はどう感じたのだろう?
とにかく互いが逆方向に走り出せば離れていく。そして変化の速度はかなり速かった。
別れの日、夜の公園を歩きながら話をした。雪でも降りそうな寒さで、僕はコートを二枚着てマフラーを巻いていた。彼女は腕に薄手のコートをかけたまま。それが悲しくて、涙がぼろぼろ溢れた。
時計の下で、言葉を探りあて、僕達は別れた。
彼女の目尻にほんの少し、滲む程度の涙。目元にやった指先にそれを感じたのか、彼女は笑いたいような、なんだか複雑な顔をして、僕のほうを見て言った。
「よかった。涙が出て」
ほんとうにそのとおり。
めいっぱい離れてしまったけど、最後に触れることができた。
あのときの僕には、それですべてが救われた思いだった。
でも、彼女はどうだったろう?
それから病気の僕達は、別々の方角に向かって歩き出した。
片手、片足、片腕、片肘、という言葉はあるけれど、片方の肩という意味の言葉はどうしてないんだろ? 片肩? かたかた? カタカタ?
私は今まさにカタカタ状態なのだ。何故なら右肩がやけに痛かったので右肩を外してしまったから。パカッという機械的な音をさせて肩は外れた。私は、左肩しかない片肩の女だ。
肩を外した後も痛みは治まらなかった。この痛みは何処から来るのだろう。私は外した右肩をはめようとしたが、はまってくれない。何度やってもはまらない。外すときは、あれほど簡単だったというのに。仕方なく誰かに私の肩をはめてもらおうと、外へ出た。
冷たい女の手が私の頬をかすめるように吹いてくる。うっとおしい空気だ。私は風にのって飛んできた新聞紙をバリッと破れんばかりの勢いで取ると下に敷き、その上へ腰をおろす。体育座りをした。その前へ、下手くそな字で書かれたプレートと右肩を置く。
「誰か私の肩をはめて下さい」
私の前を誰もが失笑ぎみで通り過ぎていく。誰もいない、人はいても誰もいないんだ、きっと。
諦めて、敷いていた新聞紙で右肩をくるみ、大事そうに抱えて帰ろうとした時、左肩を叩く者がいた。
「あなたの肩、はめてあげましょうか」
温度のある声の主は左目がない。片目だった。
「かわりに僕の左目をはめてもらいたい」
そう言うだろうということが最初から分かっていた。そうなのだ、彼もきっと私を待っていたに違いない。左目をはめてくれる誰かを。
私は彼がポケットから出した左目を、生まれたての赤ん坊を抱く時のように、そおっと手にとり、空洞だった左目にはめた。カチッと音がするまで奥まで入れた。
彼の目は透き通り、まだ片肩のままである私を鮮明に映し出す。恥ずかしくなって目をそらすと、彼は私の右肩を受け取り、パッパッと何度か埃をはらってからはめようとした。
「深い穴ですね、後少し深かったら落ちていたでしょうね」
声が空洞に沁みた。
私は少しだけ恐かったので目をつぶっているとカチッと音がした。もし、はまらなかったら…そんなふうに思っているうちに右肩は簡単に元の場所へと戻る。
ぼんやりしていた私を見て彼は笑ったので、私も笑い、どちらからともなく歩き出す。ゆっくりと身体のうちからふきだす何かを分からないままに噛み締めながら、何処へ行くとも決めず二人とも黙って歩き出していた。
歩くたびに、右肩がカタカタと音をたてていた。
遠い昔に、一人の男の子がこの世に生を受けた。 彼は全世界に神の愛を説き、そのひたむきさに迫害を受け、その愛のために十字架に処された。彼こそが世界をB.C(BeforeChrist紀元前)と(AnnoDomini神の年で)で記す、イエス.キリストであった。イエスの誕生を祝う12月25日には、毎年多くの贈り物で街は賑わった。人々が恐れる冬の季節にあって、贈り物は生活の明るい兆しになったことだろう。子ども達にはあふれる夢や希望を与えただろう。身も凍るような寒さの中で、彼方からの訪れを待つ人々の至福なひととき。こころの奥底を流れる鈴の音。ああ、それはまるでキリストの再来。イスラエルの荒れ地に、アーモンドの花が咲き乱れるような白一色の空から。
クリスは口をとんがらせた。
ママったら返事もしないで、チキンをひっくりかえしてばかりいる。
「ね、ママ。聞いてる?」
今度はエプロンをひっぱった。花模様が10才の男の子の片手に束ねられた。
「そうね、パパに聞いてみましょうか」
ずるい。
クリスは花束を放りだし、ソファーで新聞を読んでいるパパの膝に座った。
「いないよね」
新聞を取られたパパは、ん? とクリスのほうを見た。
「いないよね、パパ。ほんとはどこにもいないんでしょう?」
パパとママの目が合う。ブラックペッパーを片手に、ママが肩をすくめた。
パパの目が、じっとクリスを見つめる。
クリスがパパの目の中に入っちゃいそうなくらい。
突然瞬きをすると、パパは言った。
「お前の言うとおりかもしれないな」
「パパ!」
シャンペンのコルクが天井まで飛んでったようなママの声がした。鮮やかに跳ね返ってくるはずのコルクは、真っ暗なエントツにはまってしまった。
クリスの家には毎年、クリスマスにサンタが来た。
朝起きたらプレゼントが、新聞紙で作ったでっかい靴下に入っていた。時々間違えて、リクエストと違うものを置いていくこともあったけど。
「たくさんの子どもたちのために、サンタも大変なんだよ」
パパが言ってたっけ。サンタなんていないよって仲良しのエルマは笑った。パパとママがプレゼントを買っているのさ。
『サンタなんていやしないんだ』
クリスだってほんとのとこ、エルマに相づちを打ったのだ。それでも、暗いエントツで見えなくなったコルクを探しながら、クリスは祈ってた。
サンタは来る。そして、エントツから僕を救い出してくれるんだ。
ね、そうでしょ、神様。
僕は目に付いた野菜を適当にカゴに放り込む。それから少し迷って、鶏肉を手に掴んだ。それから僕が彷徨っていると、彼女が戻ってきた。両手にもやしの袋を掴んでいる。
「どこに行ってたんだい?」
「もやしが安かったの。九円よ。九円。馬鹿みたい」
そう言って買い物カゴに投げ入れる。
「うん。馬鹿みたいだね」
僕は頷いた。
「ねぇ?」
「何?」
「今日は何にするの?」
「今日はね。鍋にしようと思って」
「鍋? 何で?」
「だって、今日は君の誕生日じゃないか」
「そうよ」
「だから、今日は鍋物なんだ」
「なんでよ?」
「あー、君に言っておくことがあったんだ」
「何?」
「僕はね、君のことが好きなんだ」
「……知ってるわよ」
「そう。ならいいんだ」
「でも、家には鍋がないわ」
「ここにあるよ。ほら」
そう言って僕は色々な鍋が並んでいる棚に目を向けた。値段も見ずに一番近くにあった土鍋を手に取る。
「じゃあお金を払ってくるよ」
「六千九百六十円になります」
レジのおばさんが言った。僕は一万円札を差し出した。
彼女は店の外に出て待っていた。
「土鍋が高かったよ。四千九百八十円もした」
「そう。高いわね。土鍋が高いなんておかしいわ」
「そうだね。おかしいよね」
「もうここで買い物するのは止めましょう。土鍋が高いもの」
僕は自転車のカゴに買い物袋を入れた。自転車に跨ると、彼女が荷台に腰掛ける。彼女の手が僕の肩を掴んだ。
「ゆっくり漕いでよ」
「わかってるよ」
僕はペダルを踏み込んだ。静かに自転車が動き出す。
「あー、そうだ」
「何?」
「誕生日おめでとう」
「何? 聞こえないわ」
「誕生日おめでとう、リョウコ」
「ああ。ありがとう」
視界の隅にオレンジ色に燃える太陽が見えた。肩を掴む彼女の手に力が篭る。僕はブレーキをかけながら緩やかな坂を下った。
「やあ、早かったね」所長室の扉を叩いた林を、所長自ら出迎えた。
「今日からこの研究所の研究員となりました、林といいます。宜しくお願いします」
「所長の郷です。宜しく」所長は白衣の衿を直しながら、軽く礼をした。「ここで立ち話というのも何だから、部屋で話を聞こうかな」
部屋に招き入れられた林はソファに腰を下し、室内を見まわした。未整理の工具や論文の山を眺めていた林は、やがて一頭の蝶のような物体が天井の辺りを飛んでいるのに気付いた。
「あれは、博士の研究の成果ですか?」林は窓や壁を器用に交わす蝶を指差しながら訊ねた。
「君はAIの専門家だったね」所長はポットから注いだ茶を林の前に置きながら訊き返した。「だったら、あの動きの仕組みも予想できるのではないかな?」
「ええと、カメラから得た情報を分析して、障害物の位置を推論し、それから方向計算を…」林は湯呑に浮かぶ茶柱を眺めながら考え込んだ。「どこかに計算用のサーバはありませんかね?それと通信をしながら」
「いい所に気付いたね。でもあんな小さな蝶にどうやってカメラを乗せるのかな?」
「カメラか…まさか単なる光センサということはありませんか?」
「センサなら明るさだけしか分からないがね…と、無くなったか」湯呑にわずかに入った茶を、所長は一口で呷った。「ここまで言えば分かるかな?」
「さすがに明るさだけで推論は無理だろうし」
「そうだね、明るさだけで推論というのは難しいね。でも初めから推論などしていないとしたら?」
「まさか、明るすぎたり暗すぎたりするところを避けているだけとか?でもそれでAIと言えるのですかね」
「君は人間的な『考えるAI』を目指して研究していたね?」林の論文を片手に、所長は部屋を歩き回った。「あれは虫の様な『考えないAI』を目指して作ったものなんだ」
「考えるないAI、か…」林は皿に置かれた茶菓子を一口頬張りながら、再び蝶に目をやった。「博士のことなら、もっと高度な推論や演繹を行っていたと思っていたのですが」
「推論や演繹をせず、ただ環境に対して反応するだけで、虫達は何億年も生き延びてきた。そんな虫達を参考に作ったのが、あの蝶なんだ」
「そう言われてもなあ…」林は釈然としない思いで蝶の動きを眺めていた。
「それより君は、蝶の動力には興味が無いのかな?」部屋の隅から捕虫網を取り上げながら、所長は微笑んだ。「半導体を駆使した自慢の作品だったのだがね」
老人ホームのゆったりとした残酷なくらい遅すぎる時間の流れの中で私は思う。
「あとは死ぬだけか。」
老人ホームの食事は不味い。
「銀ちゃん。死ぬのは怖くないかい?」
銀ちゃんは、デザートのヨーグルトを食べている。少し考えてから銀ちゃんは言った。
「お迎えは、もう来ているさ。」
「なぁおいら、こんな所で死ぬの嫌だよ。」
「じゃあ抜け出せばいいじゃねぇかよ。」
とぼとぼと部屋を抜け出すと廊下にでる。車椅子に乗っているウメさんに出会うと、ビニール袋を足に乗せたまま車椅子を動かしていた。ビニール袋の中には蜜柑がいっぱい詰まっている。
ウメさんは笑いながらオレンジ色に輝く蜜柑を袋から取り出すと、ウメさんは差し出してくる。
蜜柑を貰い小躍りした。遠い昔に忘れ去られた盆踊りのリズムだ。汗と笛と太鼓と林檎飴。全てが一体となって、同じ時間を皆と共に刻む。軽快な笛の音につられて思わず輪の中に身を投じると、開放される。林檎飴を持ったまま。
メインエントランスを目の前に立ちすくんだ。これから自分はどこへ行こうというのか。考えていなかったことに今更気がついて、しばし玄関脇のソファーで考える雀の鳴き声がすると、顔を入り口の外に向ける。その向こうには山が。山が赤から黄色、そしてその上にはまっさらな紺碧の空。足をもそもそと動かすと、身体は自然とそちらに向かった。
風が吹きすさむ中、浴衣の裾をおさえながら、あの山を目指す。老人ホームから抜け出て道路の脇に立つと、純白な老人ホームの全体像が見え隠れする。
「こんな所で、死んでたまるか!」
大きい声で言った。
木々が揺らめいた。生命のざわめきを聞き、足は山へと向かう。
山林の途中で大きな木を見つけた。手で木々に触れると、そこから撓り、折れてしまいそうな感覚が伝わってくる。
「君はもう、何年生きているんだね・・・」
黄色や赤に彩られた葉をなびかせて堂々と大地に根をおろす巨大な幹に尋ねると、枝を揺するばかり。
「つかれた。」
その場に座ると、まるで山に完全包囲された気分になる。山の外側から見た景色とは違い、内側から見た景色は黒さが増し、またそれはそれで美しいものである。頬に当たる風と、鼻腔をくすぐる土の匂いを感じながら過ごした。もう何時間、その場所に居るのだろうか。山の中は何かの動物のようにうねうねと動いた。横に置かれているポテトチップの袋を手に持つと。
「飽きた。」
そう言って、また歩き出した。
部屋の真ん中で蹲る親指程の小さな人は、じっと見つめる僕に気付くと、ちょっと顔を上げ、自分は寂莫であると名乗りまた顔を伏せた。ほんの一瞬覗き込んだ小人の目付きを脳裏に焼き付けながら、名乗るべき名があることは実に羨むべきことだと思い寂しい気持を覚え、と、それは恐らく夢の話で、実際のところ部屋の真ん中には誰もいはしないし、何もなく、あるのは得体の知れない黒いシミだけで、得体が知れないとはいえそれは恐らくはコーヒーを零した痕か何かで、格別気にするような類のものではないはずだ。
物音がして部屋の奥にある台所を見ると、いつの間にか這入り込んでいた白猫が、三匹の黒猫を産み落としていて、子猫は其々唖と盲と聾だった。これも恐らく夢に違いないと思うのだが、いつまでたっても、そう気が遠くなるほどの時間が経っても目が覚めず、自ら寂莫と名乗った小さな人のことを懐かしく思いながら、唖でない二匹の子猫の鳴き声を聞いていた。
さてはて、この子猫たちの父猫は一体全体どこにいるのだろうかと思うのだが、それは勿論判然としないし、母猫であるはずの白猫もいつの間にかいなくなっていて、いつまでも鳴き止まない子猫だけが部屋に残されていた。窓の外は真っ赤な夕陽に染まっていて、飛交う二匹の蝙蝠が、声無き鳴声をあげていた。
僕は多分、子猫のためのミルクでも買いにいくべきなのだろうけど、どうにもそんな気にはなれず、ただ、部屋の真ん中で蹲まるしかなかった。そんな僕をじっと見つめる誰かがいて、僕はちょいと顔をあげると、自分は寂莫であると名乗り、その途端目が覚めた。
日はとっくに暮れていて、じっとりとかいた汗を拭いながら部屋を見渡すのだが、勿論のこと部屋の中には誰もいはしないし、何もなく、子猫の鳴声もしない。部屋の中には僕がただ独りぽつんといるだけだ。確かなことはそれだけだと当たり前のことを改めて思うのだけど、ふと本当にそれは確かなのだろうかと、疑問に感じるのはどうした訳だかまるで解からない。
灯りを付けてもう一度部屋を見渡してみると、部屋の真ん中に得体の知れない黒いシミがあって、改めてそれはコーヒーを零した痕か何かであるはずだと思うのだけれども、コーヒーなんてここしばらくまるきり飲んでいないはずで、やはりその黒いシミは得体が知れないと、まるでそれ以上詮索せぬよう自分に言い聞かせているのは一体全体どうした訳だろうか。
意識とは常に何物かについての意識である/フッサール
存在が意識を規定する/マルクス
パンが無いならケーキを食べればいいのに/伝・マリーアントワネット
トースト片手にベランダに出ると電柱に鴉がいた。と、中の一羽がフワリと(ついそこに地面があるかの様に予備動作もなしに身を乗り出して落下しつつ、余裕の態で展げた翼で)舞い上り私の鼻先を掠めて行った。電柱に戻った鴉は俯いている。が、隣の奴が私を睨んでいた。
来やがった…
体験せねば分からぬと聞いていたが確かに尋常で無い薄気味悪さだ。鳥に気圧される…
奴が微動だにせずこっちを睨んでいる裏には確乎たる自信があるのだろう。身の安全は確保済みだという。漆黒の眼球からは何も推し量り得ぬが、奴が今思考しているのは間違いない。四囲の気配を探る役務から解放された脳が内的情報処理に向かうのは生理学的必然だろう。
いつどこで始った同時多発だった進化だ何だと様々な議論があるが、問題はこの手の鴉が増えつつある事実だ。奴等は人間の利用価値を発見し効果的な対人間戦略を発明した。嘗ては「一度危害を受けた鴉は人間が近づくのを見ると威嚇する」という程度の話だったが奴等は違う。奴等の個体識別は正確で相手を見誤らない。標的の家族関係・人間関係まで把握している。鴉と戦おうとしたある魚屋は、客が襲われ始めて商売にならなくなり降参してしまった。庭の花を毟られて雑草だけ残ってたなんて話もある。野良猫には手出しせぬが頑固な飼い主のとばっちりを受けて隻眼にされた家猫は多い。天賦の武器。種の起源より洗練を積み重ねてきた戦術。そして新たなる生き残り戦略。奴等が来ると街が荒む。奴等の縄張りは急速に拡大している。
トーストを置いて部屋に戻る。鴉も贅沢になってきているから満足しないだろうが。行政は供物(公称「不適切な餌」)を与えぬよう広報する。が、噂では市役所の裏庭の「小鳥の餌台」には肉や魚が置いてあったそうだ。
奴がバターの付いた部分だけを啄ばんでいる。これ又噂だが近頃は文字や数字を象ったビスケットを好み袋ごと盗ったりもするとか。今度買っとこ。
玄関の箒を取りに行く。鴉は案外綺麗好きでもあるらしい。
鴉の思考は飛翔し、人間の思考は這う/カア助
人間に翼を与えても風切羽根でキーボードを押下げるのみであろう/カア九郎
鴉はニ対の翼を持つ。一対は肩の上にありもう一対は頭の中に折り畳まれている/カアル
竹井さんの傘は、とても小さかった。
ようやく体を覆えるくらいで、ちょっとでも風が吹いたら憐れなものだ。そこそこ背の高い竹井さんには不釣合いで、その姿を見ると可笑しくなる。
一度だけ、一緒に入れてもらったことがある。
私が傘を忘れ、急ぎ足で会社から駅に向かっていると、竹井さんが声をかけてくれた。一緒に、とはいっても、ひとりでも覆いきれない傘だ、ふたりでどうなるかは自ずと知れる。私はまだしも、竹井さんはほぼ、なにも差していないような有様だった。
「実はね、雨が好きなんですよ」
竹井さんは、髪の毛から滴をたらしながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「小さいころ、雨に濡れて帰ってくると、服を脱いで、体をひととおり拭いて、下着を着替えさせられました。そのままの格好で、体が乾くのを待ちます。体に張り付いていた産毛が、乾いてそっと離れていく。そうしている時間が好きで、わざと傘を差さずに帰ることもありました」
雨が体を濡らす。駅に向かう足取りは、いつの間にか、ゆったりとしたものになっていた。
「ならこんな小さな傘なんて放り出してしまえばいい、と思いますか?」
私は、こくりと頷いた。
「けど、そんなのは子供のやることだ、とどうしても思ってしまうんです」
「でも大人なら」
あわてて出した声は、うわずってしまった。気持ちを静めて、続けた。
「ちゃんと大きな傘を、差すと思います」
竹井さんは、そうですね、と言って、雨に濡れた顔で、やさしく笑った。
その竹井さんが、足の骨を折って入院した。
昼食をとりに外出したとき、交通事故に遭ったそうだ。仲のいい同僚や上司たちは、連れ立ってお見舞いに行っていた。私は、部署も違うし、プライベートでの交流があるわけでもない。
入院して二週間もたち、お見舞いもひと息ついてきたころ、予報はずれの雨が降った。あいにく傘は持ってきておらず、未練たらしく傘立てを見ると、ひときわ小さな傘があった。竹井さんが事故に遭ったあの日、そういえば朝は雨が降っていたように思う。
私はためらいもなく、その小さな傘を手に取っていた。
ひとの傘を勝手に使うのは気が引けたけれど、届けてあげるのだ、それくらいは許してもらいたい。
いくら私が小さいとはいえ、こんな傘で斜めに降る雨をふせぎ切るべくもない。雨は服を濡らし、体に張り付かせる。傘なんて、放り出してしまいたかった。子供ですね、と竹井さんは笑うだろうか。
政市は慎重に急がなければならなかった。
深い深い霧の中では自転車のライトはいかにも頼りなく、時折白い壁を突き破って現れる人影に肝を冷やしながらも、相手の側にも同じように感じられているのだと気を引きしめる必要があった。
今日の一面は株価の話題だ、松田の爺さんはきっと派手に怒るか笑うかするのだろう。彼はペダルを踏み込んで、かなりの金を株に突っ込んでいるらしい爺さんの顔を思い浮かべた。
前回株価が急落した翌日には爺さんは表でわざわざ政市を待ち受けていて、その内上がりゃいいんだ、もう随分儲かっとるしな、と自慢気に語って缶コーヒーをくれた。
株価が下がっても余裕綽々だなんて、そんな大物と毎朝挨拶を交わしていたとは気付かなかったと、政市は熱い缶コーヒーよりもそちらの方がずっと嬉しかった。
田舎町の住人はなるほど田舎者には違いないが、一人一人がそれなりに取り柄を持っているものだということに思い至って、政市にはそれまで退屈で仕方が無かった毎日が、多少はましなものに思えるようになったのだった。
それはそれとして日々代わり映えのしない新聞を配らなければならないのだが、この日のような悪天候はいい刺激になる。鹿間の家の馬鹿犬も、霧の中では大人しかった。
政市の自転車は長い坂に差し掛かる。彼は自転車の整備を怠るほど慢心してはいないし、無茶なスピードを出すほど幼くもない。いつにも増して気を払い、坂を緩やかに走り降りたところで声を発した。
「おはよう」
陸上部員の高橋は、毎朝政市以上に長い距離を走っている。どうかしていやがるぜと思ってはいても、毎朝決まって坂の麓で挨拶を交わすようになってみると高橋との間には友情めいたものがあるような気がしてきて、せめて今年中に一度くらいは会話らしい会話をしようと、政市はずっと機会を窺っているのだった。
「よう、気をつけろよ」
「すごい霧ね」
息を切らさず目も合わさずに、高橋は坂を駆け上り出した。弾む後ろ姿はすぐ消えた。
どうせならあいつが新聞配りゃ効率いいんだよな、その閃きを政市は名案だと思ったが、しかし自分の家が苦しくなると思い悩みつつ松田の屋敷の前に自転車を止め、何となく彼女を見習って小走りに門を抜けた。
「ご苦労だな、小僧」
松田の爺さんがにやつきながら放って寄越した缶を易々と受け取った政市は、未だ晴れない霧の中にいた。
かせいじんが、攻めてきた。
小学校は、あんぜんです、と先生はいった。
でも、先生はいなくなった。
ぼくたちは、音楽室に隠れた。
ミノル君は、音楽室が一番あんぜんだから、ここにいようといった。
サナエちゃんは、家に帰りたいといった。
かせいじんが、来たら、オルガンのドとファとラを、いっせいに鳴らすと、いい。
でも、家に帰ることになった。
学校の門を出て、サナエちゃんにさよならといった。
街中が、しん、としてた。
蝉が、鳴いていた。
家に帰ると、父さんが会社から帰っていた。
昼なのに、ビールを飲んでいた。
かせいじんは、どうなったの、と聞いたら、
父さんと母さんが、顔を見合せて、悲しそうな顔をした。
スポットライトが舞台を照らします。
薄いカーテンの向こうに、
七人の子供たちのシルエットが浮かび上がります。
みな、胸を張って立っています。
太郎君が、言いました。
「僕たちは」
花子さんが、言いました。
「私たちは」
続いて全員で合唱です。
「日本七人の原爆子供たちです」
桃子さん、二郎君、三夫君が続きます。
「私たちは、平和の子」
「私たちは、未来の子」
「私たちは、希望の子」
いよいよ最後です。
慎司君が「私たちは、二度と繰り返してはいけません」と言って、
一番年下の幸子ちゃんが、「決して繰り返してはいけません」と言うのです。
そのためにずっと稽古してきたのです。
今日こそが晴れの舞台なのです。
「私たちは、二度と繰り返してはいけません」
慎司君が、朗々と、言い終えました。
次は、幸子ちゃんの番です。
でも、幸子ちゃんは黙ったままでした。
幸子ちゃんはひどく緊張した様子でした。
太郎君が幸子ちゃんの腕に触れ促しました。
でも、幸子ちゃんは口を利きません。
花子さんが台詞を小声で教えてやりました。
でも、幸子ちゃんは言えません。
みんなが口々に励ましました。
「これからよ」
「まだ取り返せるよ」
「だめよ。もう取り返せないのよ」
幸子ちゃんはそう言うと、ぽろぽろと涙をこぼしました。
昭生は小学五年生。
三つ年上の兄は、柔らかな髪を振って、薄笑いを浮かべる。
母は、元気良く父を罵倒する。
父は、心不全で死んだ。
保険金が、入った。
母と兄は同じ笑みを浮かべた。
隣の美世子ちゃんは猫を飼っていた。
昭生は、猫を殺した。
美世子ちゃんは、それはもう要らないと言った。
それから、新しい猫を買ってもらった。
それから、ピアノを習い始めた。
昭生はたびたび引きつけを起こし、居間や客間で反吐を吐く。
僕の故郷は貧しい村で、塵だけでなく何でも捨てに来た。あるとき馬を捨てに来て、埋めて行った。そこは、草地の中を通っている道の縁だった。
とてもよく走る馬だったのに、獣医にも治せない足の骨折だというので、注射をして息の根を止め、トラックで運んできたのだった。
馬を埋めた跡は、小高い丘のようになっていて、僕ら子供達は、恐る恐るそこに乗ってみた。柔らかくバウンドする感じがあった。いくら踏み固めても、弾む感じはなくならなかった。土の中から馬が合図を送ってくるように思えた。
もっと走りたかったのに、という馬の無念さだったのだろうか。
僕はなんとなく馬の気持ちが分ったから、モミジの幼木を丘の中心に植えておいた。
丘は日が経つうちに平らになっていき、もし幼木がなければ、どこに馬が埋められたか分らなかった。一方幼い木は育っていき、秋になると紅葉して、ひときわ目立った。
子供達が成長すると、人々は村を捨てて都会へ出た。
僕はパルプ工場に勤めるうち、足の速いのを見込まれて、マラソンランナーとして活躍するようになった。
炎天下、B新聞社主催のマラソン大会が開かれた。百二十名の選手が一斉にスタートした。
僕は二十位以内に入れば上出来だと思っていた。時間配分も考えていた。
それが魔がさしたというのか、逸る気持ちを抑えられず、三キロ地点でトップに出てしまったのだ。馬鹿なことをはじめてしまったものだ。
しかしトップを飛ばす快感には克てなかった。僕はますます快調に、大都会の中を駆け抜けて行った。
折返し点に来たとき、後続の一群が意外に迫って来ているのを知って、力が抜けていった。走者の息遣いが聞こえてきて間もなく、するすると四、五人が前へ出て行った。それからは抜かれっぱなし。
真夏の陽光がアスファルトを溶かし、路面が陽炎のように揺らめいていた。路面が熱く息衝いて、内側から柔らかく弾んでくる感触があった。
あの馬の記憶が甦ってきた。俺の代わりに走れ! 馬がそう言っている。目前に、モミジの木が燃えるクリスマスツリーのように浮かび出た。
僕は走った。疲れを感じない肉体になって、疾走を開始した。抜いていった者を何人も抜き返し、やり残した馬の気持ちを頭に描き、悲壮な思いにかられて、駆けて行った。
スタジアムに入ったとき、前には一人もいなかった。僕はそのままゴールへと飛込んで行き、テープを切ると気を失った。
やりすぎたか。
ロブは唇をかんだ。死刑は覚悟していたが、ここ二百年処された者がいない追放刑になるとは考えてもいなかった。
「ちょっと待て。追放刑はひどすぎやしないか」
威圧的に言ったつもりだったが、ロブの声は弱々しかった。裁判官の顔がゆっくりと形を変え、笑みを浮かべた。
「ひどすぎることをしでかした者には妥当だと思うが」
抗議しようとしたが、口が乾き、声が出ない。
「シティでの爆破事件七件、死傷者は一万人を越える」
裁判官は顔を曇らせた。
「お前は覚えているかね。幼児二百人と父母や関係者五百人以上を爆殺した事件を。私は覚えている。刑は明朝九時に執行される。閉廷」
時の流れが止まることはない。時間になると、ロブは外部へ続くトンネルの入り口に立たされていた。
「トンネルは外壁の厚さと同じ百メートルだ。内側の扉が閉まって三十秒後に外側の扉が開く。三十秒で外側の扉も閉まり、滅菌処理が施されるが、それでお前が死ぬことはない。即死されては死刑と同じだからな。半死半生のまま数日苦しむ。行くか留まるかは自分で選べ」
「くたばっちまえ」
ロブが毒づくと、刑務官は面白そうに笑った。
「貴様は長生きしろよ。外の世界で、な」
扉が開いた。銃口に追い立てられ、ロブは扉を越えた。
「追放刑を執行する」
裁判官の声と共に扉は閉まった。
ロブはオレンジ色の照明の中を歩き出した。半分も行かないうちに外気が流れ込んだ。
「ひでぇ臭いだ」
除菌され、空調が効いたシティの中では考えられない悪臭が、ロブを覆った。
「閉鎖まで残り二十秒。十秒からカウントダウンを開始します」
穏やかな声がロブをせかした。ロブは足早にトンネルを抜けた。外に出ると同時に扉は閉まった。
膝までの草が生い茂り、鬱蒼とした森がシティのそばまで迫っていた。遠くにシティに似た超々高層タワーが幾つか見えた。
湿気を帯びた青臭い大気がロブを不安にさせた。デジタル音声でしか聞いたことがない鳥や獣の鳴き声が聞こえる。目の前を黄色の羽を持った不気味な虫が飛んでいった。
森の中から咆哮が聞こえた。すぐに幾つかの顔が浮かび上がった。
「追放刑の子孫どもか」
ロブは出てきた扉に寄りかかり、顔を上げた。天に向かい、シティがそびえ立っている。異様に高い場所に、灰色の天井ではない、青い空と白い雲があった。
人が近づいてくる。
嗅いだことがない他人の濃厚な体臭に、ロブは絶叫した。
眠りたい。また三日も徹夜をして本を読み続けてしまった。
花園に立ち、羊を数え続ける。
「教えられた計算方法だとこの花園は実に三万ヘクタールになるなあ」
と考えながら。
お昼は済ませていた。そこの軽食堂で出されたのは丸いサンドイッチだった。サンドイッチなのに、丸いなんて。窓からは海が見えた。静かな海である。波が殆ど無い。海は年々その波を穏やかにしていくように思える。
神父が聖書を読みながら花園へと続く階段を降りて来た。
子供達は騒ぎながら、あっという間に階段を昇り切る。
がん。ごん。
階段から酒樽が転がり落ちて来る。
がごん。
私の足にぶつかり、止まる。
「私の元へ落ちて来たのだから多分この中には私自身が入っているのだなあ」
そう思うと不気味だ。
「でもまあそのようなこともあるよなあ、人間だものなあ、仕方無いよなあ」
私は酒樽を手をかけた。酒樽はぴかぴかに磨かれていた。酒樽を磨いて何か意味があるのだろうか。だがそう言えば、宝石を磨き上げることには何の意味があるのだろう。
ともかく私は酒樽を担ぎ、元の位置に戻そうと、階段を昇り始める。
「重いだろうなあ」
と思っていたがそうでも無かった。軽い、とさえ言えそうだ。
蹴り飛ばすと酒樽は階段を一気に昇った。
「遅いですよ」
階段の途中で女と出くわした。
女はいつものように髪をきちんと結い上げ、赤い着物を着ていた。強い香水は男の精の匂いを消す為であろうか。女はそのような商売をしていた。
「待たされましたわ」
「そうだ、忘れてた」
女とは食事の約束をしていたのだった。
「旦那様はいつもそうですわねえ」
女は笑った。
女は妊娠していた。お腹がぽこんと膨らんでいる。触らせて貰うと実に心地が良い。
「では参りましょう」
私達は階段を昇る。
階段の途中に設けられたダンスフロアでは人々がひしめき合っていた。
「この狭さでは踊りなど踊れぬよ」
人々はそう諦めているようだ。皆一様に座り込み踊りをせず、好きなことをしていた。額に美しい刺青をしたカップルは笑いながらキスをしている。
流れている音楽は楽しげでファンキー。私は再び酒樽を蹴飛ばす。
「ねえ旦那様、あたくしにもそれをやらして下さいよう」
「良いよ。思い切りやるが良い」
女は嬉しそうに階段を駆け昇り、酒樽を蹴る。ばらばらに壊れながら、がががが、と楽しげに、酒樽は階段を昇る。眼下には青い海。穏やかな穏やかな青い海。
「信号待ちをしていた。車はそんなに多くなかった。彼女は……そこにいた」
彼は二メートル右の空間を指差した。
「それで?」と俺は先を促す。
「車が来た。車種とかはよくわからない。詳しくない」
「うん」
「白の車。中の男はスーツを着ていた。たぶん仕事中で、疲れてたんだと思う」
今は何もない空間を、彼は懐かしむように眺めている。
「車が突っ込んできた。それで、そこにいた彼女を撥ねた」
歩行者信号が点滅を始める。人通りは少ない。寂れた町。
「弧を描いた」
彼は視線を移動させる。視線は昔彼女がいたはずの空間から、弧を描き、彼の前を通り、左側の地面に落ちた。車が三台だけ通り、また静かになった。
「ブレーキ音が響いた。何もできなかった。グシャッと音がして、彼女は、そう、変形した」
変形って……。ロボットアニメじゃないんだから。
「車は僕の前を通り過ぎて、やっと止まった。僕は彼女を見ていた。目が合って、彼女の顔はこっちを向いていて、それから少し笑った。僕は微笑み返した。あんまり女性と見詰め合ったことなんてなかったから、少し照れた。彼女は動かなくなった。僕と見詰め合ったまま、目を開いたまま、停止した」
彼は俺のほうに目を向けた。
「車から男が出てきた。彼女を抱き起こした。『おい、おい』って呼び掛けていた。彼女、もう動かないのに」
静かに話し、彼は一旦空を見上げた。それからまた俺に視線を戻した。
「なあ……」
俺を見つめる彼の目が、少しだけ不思議そうな色に変わった。
「あんた誰だ?」
俺はただ独り言を呟く。
「車が突っ込んできた。そこに」
二メートル横の空間に。
「彼女はいた」
車の信号が黄色になり、赤になる。
「君はとっさに動いた。彼女の腕を掴み、そのまま引っ張り、投げた。君は彼女を助けた」
彼は青の歩行者信号を見つめている。
「君自身は……撥ねられた。弧を描いて地面に落ちた。変形した。……グシャッと」
誰も通らない。青の信号が点滅して赤に変わる。
「君の顔は彼女のほうを向いていた。君は彼女に笑いかけた」
俺は彼に笑いかける。
「彼女は微笑み返した。君を撥ねた男が駆け寄り、もう動かない君に『おい、おい』と呼び掛けていた」
「あんた、誰だ?」
もう一度そう聞いてくる彼を、俺はただ見つめる。
やがて、彼は「僕か」と思う。「あんたは僕なんだな」と思う。
俺は頷き、ゆっくりと空を仰ぐ。それから、途方に暮れたように、少し笑った。
はい、よろしいですか。
この古い森には森と同じくらいの年月を重ねた天狗の一族が住んでおります。
天狗の移動には風がつきものですから、風の強い時間帯にはどうぞ旅館の外へは出られませんように。当ツアー添乗員による館内放送が流れますので、お聞き漏らしのないようお気をつけ下さいね。
特に若い娘さんや小さなお子さんがいるご家族はご注意願います。
彼らは虫の居所が悪ければ人を害したり、喰らったりします。(中でも子どもの柔らかい肉を好みます)
そして機嫌の良い日には他愛も無い悪戯をしかけたり、恋をして森の奥へ連れ去ったりします。(概してよい香りのする妙齢の娘さんを好みます。さらわれたらもう戻って来れませんから心して下さいね)
ですが付近に湧き出る温泉は、美貌と健康をお約束する特一級の美人の湯、晴れた夜ともなれば満天の星が天球を巡り、一晩で数十もの流れ星を御覧になれるでしょう。風に油断されない限りはこの上なく心地良い休暇をお過ごしになれる事、間違いありません。
おや、そちらの奥様、お笑いですね。
ははあ。これほど文明の発達した現代に天狗も河童もない、そんなものは御伽噺の中にしかいない迷信の産物だと子どもでさえ知っている、と。成る程、成る程。
ではもう一つだけ、とっておきの秘密を教えて差し上げましょう。ここだけの話ですよ。
人間にも色々な人がおられますように、時折、天狗の中にも「変わり者」が生まれます。
そ知らぬ顔で人の群れに溶け込み、人の習慣を学び、人のように会社に勤め、余暇を楽しみ、妻を娶り、子をなして、加齢を重ねるふりをして少しずつ年老いていくように見せかけ、妻が亡くなると外見の抜け殻だけを置き去りにして、ひっそりと森へ帰る――
そのように「人の一生」を模倣する奴が。
その手の変わり者は「狭間者」と呼ばれ、森へ帰っても皆から遠巻きにされますから、ほとぼりが冷めた頃、再び人の社会へ舞い戻って行く、と言うのを繰り返す場合が多いようです。
どうです、身の回りでお聞きになられた事は? 愛妻家――または恐妻家――の真面目な働き者で、奥様を亡くされると、ふっつり糸が切れた凧のように後を追って事切れてしまうご亭主の話。
ええ、よくある話です。
つまりはそれだけ、人の社会における「狭間者」の数が増えて来ていると言う事になりますね。これも時代の流れなんでしょう。
ちなみに私はこれで五回目の……