誤字とか発見しつつ、第五弾。いよいよ後半戦です。
冒頭
> 「掌の小説」を最初読んだと時
ととき。
エントリ7「宝の部屋」感想
> 以外に強い人
何以外に強い人? いずれにせよ、極めて無敵に近い人です。
13 チュベローズ 宇加谷 研一郎さん 1000
いいなあ猿。毛づくろいもしてあげたい。
「公人と個人の間」という言葉が冒頭に添えられていたのでそのことを考えながらずっと読んでいたのだけれど、古田さんの好きなその時間は、その言葉のあたりで終わっていて、猿と過ごす時間はかなり私人であったように思う。猿もまたしかり。完全に個人になる時間は、この場合オフィシャルなスタイルを脱ぎ捨てたときであろうか。そのすがたがあまり描写されなかったからそう感じたのかもしれない。
猿、股の髭、チョコレート、冷蔵庫、自転車、気ぐるみ、オランダ水仙。意外性で物語をつないでいるようなので、ついていけないと思ったが、ついていこうとしないでそのまま読んだらぬるい空気がふんわり漂ってきて、ほっとした。
この場合の危なさ加減とは言い換えると不安定さ、不条理さの度合いで、いわゆる物理的な危険とかハードボイルドな危なさとは一線を画するものであろうとあえて余計な分類をしてみる。つまり微妙な感覚の齟齬であり、これが危ない感じを与えるとすれば、自分の持つ感覚からのささやかな反発と言えるだろうか。取り込むとき違和感があり、そのあと体がそれにまるっと馴染もうと自律的に反応する感じ。西瓜の塩とか、焼きそばの青海苔とか、冷麦の七味とか。ちょっとスパイシー。
14 晴雨 白雪さん 770
前作も狐のお話で、何かとても狐がお好きなのだろうと思う。今回は他にも狐のお話を書く方がいらしたが、ひょっとして狐友達だろうか。
きつねのよめいり、というよく知られた伝説を下敷きにしている。語り手と男との間で、もう少し感情の交流が描かれていたら、もっと素敵な話になったと思う。
逆に、気をつけないと非常に非人間的で意地悪い解釈が成り立ちうる物語になってしまうということだ。手を引いて歩いた男が天気の話をして、引かれていた語り手も、それに答えるだけだ。すると男(狐)は天気のことを聞きたいがためにわざわざ盲人である主人公の手を引いて歩いたということになり、穿った言い方をすれば、白雪さんが視覚障がいのある語り手を便利な気象情報の放送か何かとしか扱っていないように受け取れてしまうのだ。「相手の姿が見えない」「空気の変化に敏感」という設定のためだけに「盲人」を使ったのだとしたら、そういう書き方は止めたほうがいいと私は思う。
15 わくわく 野川アキラさん 634
そうか、6月って競馬の休業期のようなものなんだ。知らなかった勉強になった。いよいよ社会に出る時期が来た若者のアンビバレントな感覚が、語り手を馬に転じて描かれており、そのことは物語の最後まで隠されているのだが、この書き方は実はとても難しいと思う。それは、「自分が何を書こうとするか」というところに焦点化されるであろう。先に述べたように「若者のアンビバレントな感覚」を書くならそのまま書けばいいかもしれないし、もしそのことを、あえて馬を語り手にして書くなら、文中でそれを隠してオチにとっておくことは逆にマイナスになる。馬を語り手とすることで生まれるであろうおもしろさを生かすことができなくなってしまうので、もったいない。
第六弾です。今回はおまけつき。
16 僕と猫 たけやん 490
たけやんさんの作品はかなり好き。字数的に物足りなさを感じるのだが、かといってどこに何を付け加えても自分は作品を壊してしまう感じがする。「短編」では川野さんの作品にも通じるのだけれど、1000字より少ない字数で独特の世界をきっちり描いてくれるので、楽しみな作家さんである。
> 代わりに、金魚の万年筆で今これを書いている。
一番やられたのがこのラストの一文であったというのが、この作品の掌編としての質を物語っている気がする。いわゆる物語としてのオチらしいオチではないけれど、安心する猫、ふわふわゆれる金魚の万年筆、というゆるやかな創作風景がこの一瞬でふわっと広がるようで、嬉しかった。
17 松の木のおじさん bear's Son 1000
> 田舎の小学生三人の内一人が少し離れた県道沿いに池を見つけた。
という一文で始まるのだが、これは一体誰の視点だろう、という違和感を与えられた導入であった。小学生三人。統計的だ。この後も同じ表現が続く。三人の内二人は王子池で釣糸を垂らしていた。おじさんが一人来た。二人でおじさんとゆれる木を見ていた。違和感の原因はきっと人称の使い方にあって、最初に人数を書くと不特定多数から抽出して登場させたようで、登場しない予備軍との取替可能であるような雰囲気を与える。独特だ。自分は意識して使ったことがないので使ってみようかと思うけれど、読み手に距離を感じさせてしまうので、使いどころが難しい。
物語はかわいらしくて、小学生とおじさんのギャップとか、気遣いとかがそのままストレートに描かれている。体を痛めて糸を取ろうとしてくれたおじさんに対して、「弟子にしてください」と叫ぶちょっと残酷な王子も、小学生らしいと思う。
以下、練習。
おじさん一人が戻ってきたのは、戻ってきたから先のおじさん一人と同一人物であって、別なおじさん一人ではない。そのおじさん一人は、小学生二人が自分に気を遣って、取れてもいない糸を取れたと言ったのではないかと思った。おじさん一人には、行動した責任として、小学生二人が無事に魚釣りに復帰して、ある夏休みの一日を楽しく過ごすことができているか見守る義務があった。しかしおじさん一人は、さっき松の樹から落ちるという子どもっぽい失敗をしてしまったため多少気恥ずかしくもあり、口笛を吹きながらさりげなく通りかかった。そのメロディーは「十人のインディアン」であったかも知れない。今はインディアンではなくネイティブアメリカンと呼称するようだが、この歌の歌詞まで変わってしまったのだろうか。それとも「ちびくろサンボ」のように存在自体抹消され、誰も歌わないのだろうか。しかしそういうことはおじさん一人には関係ない。おじさん一人の関心は、先の小学生二人が今も楽しく遊んでいるかどうかに向けられている。おじさん一人は口笛を吹きながら通りかかる。One little, two little, three little…現場では小学生一人が増えていて、小学生二人は小学生三人になっていた。増えた小学生一人は小学生不特定多数からの無作為抽出された小学生一人ではなく、彼らの呼称するところの「王子池」の名付け親である小学生一人であるわけだが、おじさん一人にはそれはわからないし、池が彼らによって王子池と呼ばれていることすら知らない。小学生一人が増えているとそう思っただけである。おじさん一人はそ知らぬ顔で現場を通り過ぎ、角を曲がる。すると小学生三人の内の小学生一人、多分さっきはいなかったもう一人の小学生一人が「弟子にしてください」と大声で叫んでいる。おじさん一人は、自分に向けられた言葉であるかどうか判断に迷い、それに応えないが、もれ聞こえる笑い声から、先の小学生二人が、もう一人の小学生一人を加えて、楽しく遊んでいるのだと考え、一安心して去ってゆくのだ。
…覆面トーク?
小学校の算数で、「バスに何人乗って、何人降りて、今何人残っていますか」みたいなのがあったけど、そんなイメージ。斬新だけど、やはり難しいか。
18 きれいな円が描きたい 三浦さん 992
一揆の首謀者を探すために書かされる円と、真円すなわち深遠を単の世界に描く行為との意味づけを探してしまった。どのような円を描いたものが殺され、また、生かされたのだろうか。描き慣れた者を智恵ある者と見做し処刑したのであろうか。そう言えば一揆に参加し生死を共にすることを誓い、署名する際、唐傘連判状というやり方で、円形に名前を書き並べて首謀者をわからなくさせた(普通に並べると端の人が首謀者になることが多い)という。社会科の資料集で写真を見たことがある。
過去の恩讐を乗り越えて、唯、円を描くことに己を見出すという感覚は、肉体的・心理的なものを超えて霊的な(幽霊の意味でなく、今様の言葉でスピリチュアルな)世界を観ずることができなければ、生まれてこないものであろう。深い。
さっきのタイトルで三浦さんの18番を落としてしまいました。三浦さんごめんなさい。一つ前のグループのラストに、感想は入っております。
そんなわけで第7弾。もうじき終わりますので、ご勘弁を。
19 メフィストフェレス qbcさん 1000
この作品はかつてきらら携帯メール小説で佳作をお取りになったもので、私も同じ月にはじめて同賞で佳作をいただき、名前が並んだことでとても嬉しかった。あらためて読み返してみると凄い作品である。メフィストで観音さまとか、それぞれの行動を描写する言葉のリズムとか、実に読み応えがある。
「この日本酒は私が呑んでもよい日本酒でしょうか」という台詞は初見から印象に残ったのだが、今のお気に入りは、
> 課長が気味悪そうに頷いた。周囲は苦笑した。
と、
> 私はお猪口を飲み干す。この時だけ私は許される。
この二文だけで主人公の職場での関係(彼女が言うところの過去も含む)と、彼女の人生についての自己認識とをすぱっと書いてしまっている。秀逸。
もぐらさんの感想にあった文章の『湿っぽさ』というのは配分を間違えると露点を超えて空気中から流れ去ってしまう…えー、つまり見え透いたロマンチシズムに堕してしまうものだと思うけれど、qbcさんはそのへんが実にうまい。
20 Dreamer 群青さん 1000
白い花、の印象が作品を通じて変化する。最初、(不条理な空気はあるが)簡素に可愛らしく咲いている花に、水を与えられる描写とあいまって、水気を含んだ花弁に空の色の映えるメルヘンな白をイメージした。ところが二つの死体を花畑が包含した結果、それは乾いた骨のような白の印象に変貌を遂げる。兄の死体についてのどす黒い描写を読み超えてなお、不思議とそう思われるのだが、その理由は、繰り返される「なんて平和な生活だろうと、僕は思った」の一文と、作品を通じた主人公の語りの湿度の低さによるものであろうと思う。
隕石が落ちても平和、という語りはよくある不条理表現と当初捉えたのだが、二階に封印された(自ら感覚的に封印した)兄の死への衝撃と感覚的逃避が底にあると思うと、実感のある言葉として伝わる。
21 美空ひばり評 わたなべ かおるさん 920
> じょうかん。きかせてしまう。
美空ひばりをきちんと聞いたことはないけれど、敬愛すべき歌手を語る時は、かえって言葉少なになるのだろう。後半、娘が懸命に父の言葉を呑み込んで自分の言葉を捜している様子が初々しい。
でも正直、冒頭の語りの順番に戸惑った。「やっぱり、ひばりはすごい?」この娘の言葉の後すぐ、地の文で父の描写に入るせいか、美空ひばりの世代でない娘が聞いているとは最初思えなかった。「何がすごい?」この質問の後すぐ母の描写に入るので、聞いた娘が父の言葉を期待して待っているように読むことが難しい。さらに続けて家族カラオケ大会の回想であるから、家族を描こうとしているように思えてしまう。それはそれで、美空ひばりを囲んで二世代の感性の違いを描くというのも興味深いけれど。
第八弾。ここでおしまいです。長々とご迷惑をおかけしました。
22 部活動生22 壱倉柊さん 1000
夢は時おりこんな風に時間を狂わせて現れることがある。というか私はそういう夢をよく見る。予知夢らしい夢も見るのだが、実はこのお話とは真逆で、見ているときは今の自分の感覚なものだから、それと気づかないことの方が多い。例えば小学生の頃、足も届かないような異常に車輪の大きい自転車で、いつも遊びに行くのと逆方向に疾走するというおっかない夢を見たのだが、数年後高校になったら、二十六インチのロードレースタイプの自転車で、夢で見た方向に通学することになった。もちろん足は届いた。役に立たない夢であるが、気づいていたら勉強も手を抜いたであろうから、気づかないくらいで良かったのだろう。
読んでいて、知ってるような知らないような感覚だと思ったのは、こういう真逆の夢を見ることに原因があるのだと思う。壱倉柊さんがこの夢で何を語ろうとしたのかはよくわからなかった。実際見た夢を見たとおり語っておられるのかも知れない。日常の忙しさには忘れられてしまう、居場所を知覚する感覚が夢にはふっと出てくる、そういうことなのかも知れない。
目覚めた後の速度が素敵。
23 くろぐろとうろこを るるるぶ☆どっぐちゃんさん 1000
> 川だった川べりを男が歩いている。
この人の言葉のセンスはとてもまねできるものではないし、たとえそれっぽいものができたとしてもそれは悪しき亜流でしかない。と思う。別なサイトでこの方による詩を拝読することができるが、「言葉によるコラージュ」によって詩と小説と、あるいは絵画との境界を取り払ってしまっているように見えて、こんな風に概念から吹き飛ばす力が自分でも欲しいと思うのだけれど、実はご本人はそのへんきっちり分けて書いておられるのかも知れず、そのあたりも凡人には計り知れぬところである。こういう突き抜けたオリジナリティが自分に備わっていたらいいなあと羨ましい限りである。いいなあ。分けてくれないかなあ。
最近はこの方の作品を読む時に、つながりとか意味とかを一切無視して読むようにしている。とてもじゃないけど掴みきれないから、せめて雰囲気だけでも匂って、何か見つけようという魂胆なのであるが、これも成功していない。
しかし作中で見られる感動についての識見はともかく、るるるぶ☆さんの配置する言葉に涙を誘われたことは何度となく、ある。
> 鈴の音で、鈴の男の踊りを、トーマが踊る。
> 心臓を沢山ぶら下げて。
> 心臓には沢山の絵が描いてあった。どこかへ行けそうな、羽のような絵。
萩尾望都の「トーマの心臓」と、たなか亜希夫の「軍鶏」に出てくる元ダンサーの高原トーマと、どっちで読んだらいいんだろうかとか思った。いずれもマンガ。
そんなわけで、コラージュみたいな断片感想。陳謝。
24 線的虚構の解体(おためし版) 曠野反次郎さん 1000
自分が私小説やメタ小説になじみが無いだけかもしれないけれど、こういう曠野さん作品の場合、虚実どっちでも楽しいというか、あまり区別しないで読んでしまっている。今回もどのへんに虚実の境目があるのかよくわからない。けど楽しい。だからディレンマもない。こういう読者がいるからメタ・メタ書かないといかんのだろうか。
これを完全に現実として読むと、前回の作品について自分で解説をする、つまり種明かしであるから、古来作家はこういう欲求に逆らって作品で勝負をするので、これは芸人がギャグの解説をしてしまう事態に近い。しかし「線的虚構の解体(おためし版)」は作品として提出されているし、位置づけがメタメタで、ネタ。だからどのへんまでメタでどこからネタかはわからない。ランダムに幾つも掛けられた御簾の奥でにんまり笑う曠野さんが見えるような見えないような。
そんなわけで、るるるぶ☆どっくちゃん先生に続いて、次々回は文学に造詣の深い海坂他入先生の登場です。お楽しみに!
いや、嘘です。ごめんなさい。
一部で囁かれておりましたが。
昨日はお暇を、ではなくお休みをいただき、一日書いておったという次第でございます。ええ。今日出勤したらちゃんと机はありましたとも。椅子だって。
bear's sonさん、お返事ありがとうございます。
実は感想タイトルでbear's sonさんとたけやんさんの敬称が抜けていて、これはたいへん失礼をしてしまった、と怯えていた矢先でした。
長々と書き散らしたものを読んでいただいて、こちらこそありがとうございます。