仮掲示板

サイト『短編』は私にとって

タンソさんへ

はじめまして。こんにちは。
サイト『短編』が、まだまだ自分とは遠い世界に思えてならない、なべと申します。
タンソさんの投票から始まった、みなさんの書き込みを、読ませていただきました。
以下、もしかしたら参加者のみなさんが気分を害されるかもしれませんが、
私にとってのサイト『短編』について、書いてみたいと思います。


サイト『短編』を初めて見た頃、タンソさんと同じような印象を私も持ちました。
書き手のみなさんが、とても強い。(読者に対して、ではなく、ゆるがないものを感じる)
いわゆる「オチ」のない作品がある。(最後まで読んで「え?これで終わるの?」という作品)
きっと、何かを言っても、とてもたちうちできない。(というか相手にしてもらえなさそう…)
(みなさん、すみません)

でも、私はこのサイトが、とても好きです。
むしろ、上記のような印象から、逆にとてもとても憧れました。
私の書いたものが、サイト『短編』に載ることで、
このサイトの崇高さを貶めるような気がして、とても投稿できませんでした。(大げさですが本心なので…)


最初に投稿した『駅』が掲載されたのを見ただけで、本当にドキドキしました。
どう評価されるか、より、このサイトに自分の作品が載った。
ただそれだけで、こんなにも動揺するものだろうか、
そしてこんなにも胸が高鳴るものだろうか、と思いました。
後悔に似た思いさえありました。
それは、私が作品を人に見せることを、とても恐れていた、ということもあります。
見せるからには、わかってもらいたい。
でも、見せなければ、わかってもらえるかどうか、わからない。
このジレンマを越えなかったら、そもそも、作家など目指すことはできない。
(プロとは、という議論は、今回は置いておきます)


『駅』を投稿して、いくつかのご指摘をいただいて、妥当だけれども、
やっぱり厳しいなあ、と思いながらも、わりと冷静に受け止めている自分がいました。
むしろ次の『リンゴを選ぶとき』で、思いがけず優勝をいただいてしまって、
だけど「なし」票の方も多くて、(そもそも投票数が少なくて)
なんだか、ズルをしたような変な気持ちになって、しばらく投稿できませんでした。
(他にもいろいろあったのですが割愛します)

でも、やっぱり参加しないのはもったいない、と思って、今、
毎回とにかく投稿することを自分に課しています。
それは、やっぱりこのサイトが好きだからです。
批評(感想)が的確な方が集まっている、ということよりも、
わかってもらうことよりも、
このサイトに毎回投稿する。
そうしたら、自然と、月1本たった1000文字であっても、何かを書き続ける自分がいる。
…いえ、書き続ける自分よりも、やっぱり、このサイトに投稿していること、
それ自体が、私にとっては、かけがえなのないことのようです。
(すみません、今、書きながら思考しています)


最初は、感想をいただくこと自体が、痛みでした。
そもそも、作品を公開すること自体が、痛みです。
しかも、このサイトは、そういう痛みを感じる方が少ないように見えました。
常連の方は「どんな感想が来ようが自分の作品は自分の作品だから」という方ばかりに見えました。
だからそんな痛みをわかってもらえないだろうと思いながら投稿するのですから、とても痛い。
掲示板137
> 読者がいなくてもいいって? 分かってくれなくてもいいって?
> 何故だ、何故、そんなに勇気がある?
タンソさんのこの言葉は、まさに私の思いの代弁です。

だけど今回、タンソさんが書き込んでくださって、
他のみなさんが色々と書き込んでくださって、
自分の持った印象が、じつは違うということがわかってきました。
長月さんが、「泥の中をはいずりまわりながら、怖い怖いと叫びながら書いてください。
それが小説というものだと私は思っています。」なんて、思ってらっしゃるなんて。
海坂さんが「どうせ死ぬんじゃん、と自分も思ったことありましたよ(要約)」なんて。
もっとずっとクールだと思っていました。(でもやっぱりクールだなあと思いますけど)
他の方たちも、ああ、こんなふうに思ったり考えたりしてらっしゃるんだ、って。

他にも、「どこが閉鎖的なんですか?」「こんなに開かれている」というご意見。
言われてみれば、投稿さえすれば掲載されるのですから、開かれています。
でも、タンソさんに「ぜひ投稿してくださいよ」と、こんなにたくさんの方がおっしゃるなんて、
正直、驚いています。
ああそうか、自由に参加できる場所なんだ、と、今更ながらに思うのです。
そう思うということは、敷居の高さを、今もなお感じている自分がいるということだと思います。
見る人によって、閉鎖的にも見えるし、開かれているようにも見える。
それは、どちらも正しい認識だと思います。このサイトに限らず。


そして、これはタンソさん以外のみなさんに考えていただきたいのですが…
タンソさんに、ぜひ小説を投稿してください、とおっしゃる気持ちはわかりますけれども、
創作という形を取らず、掲示板で意見を述べ合いたい、そしてわかってもらいたい、
というのは、小説を書くのとは異なる欲求だと思います。
小説という形にできるのなら、そうしているはずです。そうできているはずです。

その意味で、140ながつきさんの「今回の書き込み、実に面白かった。これはあなた、小説ですよ。」
というご意見は、あまりにも非情な言葉に思えました。
目の前で血を吐いてのたうち回っている人間に対して、それを書け、と言うようなものです。
確かに、愛妻の死に接してもなお、その妻をスケッチした画家のように、
芸術にすべてを変換してしまうタイプの人はいます。(ながつきさんはそちらに近いのかも?)
でも、そこまでの覚悟ができない人間にとっては、作品よりも前に自分の思いでしょう。
もちろん、もしそうだとして、そのうえで議論するか、あるいはどう議論するか、というのは別の話です。

タンソさんは、作品と自分の距離が、とても近い方なのではないかと思います。
作品を否定されれば、自分も否定されたように思うのではないでしょうか。(勝手にすみません)
もしそうだとしたら、あえて生身の自分の言葉として掲示板に意見を述べたのに、
「作品を書け」と言われたら、今度は直接自分を否定されたと感じても不思議はありません。
それがどれだけの痛みかを、想像すると、いたたまれません。
だから今、これを書いています。


わかる方にはすでにおわかりだ思いますが、私は創作を現実扱いする癖があります。
全感想で、登場人物に語りかけたがるのは、そのせいです。
悲しい話も苦しい話も非情な話も、嫌いではないし、非現実的な話も”おはなし”として読めるし、
でも、創作と現実の境界があいまいです。
悲しい話は書きたくないと思います。(くりかえしますが読むのは好きです)
…ああ、この際だから隠すことなく述べます。
書かないのはきっと、悲しい話を書いて、読む方に悲しいと思ってもらえないと、つらいからです。
作品と自分が分離できないのは、大人じゃない、と言えるかもしれません。
だとしたら、サイト『短編』は、精神年齢がいくつ以上の方限定、と言うべきかもしれません。
何よりも、私は、その鍛錬のために、このサイトに投稿しているのだとも思います。

でも、タンソさん。
作品を発表する痛みも、わかってもらえない苦しみも絶望も何もかも踏まえたうえで、あえて、言います。
(伝わるといいのですが…)
もし、作品をわかってもらいたい、と思うのなら、やっぱり投稿することだと思います。
私がこのサイトを好きなように、タンソさんが投稿したいと思う場所に。
投稿するだけで充たされるような場所に。(なんなら、私に送ってください。私でよければ。)

第58期に私が投稿した『美空ひばり評』は、じつは投稿するつもりのない文章でした。
だけど新しく書いたものがまとまらなくて、以前のメモを引っ張り出して、少し追加して、投稿しました。
最初に述べたように、このサイトが好きで、連続投稿を途切れさせたくなかったからです。

そうしたら。
思いがけず、「素直でよかった」という主旨の感想をいただきました。
ああそうか、書こう書こうとしてる作品になっていたんだ、ということに気付かされました。
これはもう、書き続けているからこそ、そして投稿し続けているからこそ、の産物です。
私は、このサイトがとても好きだから。とても憧れたから。
でも今、少しずつ、憧れから、参加者になっていけるような気がしています。
みなさんが、そんなに冷たいわけじゃないんだ、と思えるようになりつつあります。
(みなさんに、ホントに失礼ですけれど…! 冷たい、というより、冷静、ってことです)


それは、タンソさんが、投票として意見を書いてくださったから。
それを黒田さんが、掲示板に取り上げてくださったから。
そして、みなさんが、それに答えて、意見をたくさん書いてくださったから。

私としては、むしろ、タンソさんに投稿をすすめるより、
掲示板でのタンソさんに、死んでいただきたくないです。
私は、このサイトの掲示板で死ぬどころか、生まれることすらできなかったのですから。
私のできなかったことを、してくださって、心からお礼を言います。
まだ間に合うことを祈りつつ。
ありがとうございます。


そして皆様、これからもどうぞ、よろしくお願い致します。
失礼な発言がありましたことを、お詫びしつつ。

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