///まとめ
小説は、世間の外にいる人が嘘で塗り固めて、
一人で、作っている。
ただ、それは信じられるものだ。
///小説を書くにあたってぼんやりと
思い浮かべている言葉がふたつ
あります。
A「小説を書こうと思っているのに
上手に書けない人は本当に不幸だ」
B「文は気取って書くものだ」
それぞれ著名な人の文章を読んで
得た言葉です。
そしてこの言葉は技術的なことでは
なくて、小説を実際に書いている気分の
下地にある気分です。
Aは、小説を書こうと思っている人と
言うのは、世間を世間の外側から見ている
ものだから、心から人生を楽しめていない。
それなのに書きたいと思っている小説すら
書けないことは不幸だ、という意味です。
Bは、小説は嘘だという意味です。
そもそも現実とは違う言葉を積み重ねて
小説を書くわけなので、そもそも
文とは気取っていて当然だということです。
AとBをかけあわせて考えると、私は、
「小説とは人生を心から楽しめない人が
嘘を積み重ねて作りあげたものだ」と
結論します。
ただ、その嘘を信じられる能力という
ものが人間にはあって、そこに小説が
社会にある意味も生じていると思います。
なぜ嘘でも信じられるかと言えば、
嘘は、嘘だと気づくまでは真実だからです。
///それじゃあ、なんでそもそも世間の
外側から世間を眺めているのか?
これは私には分かりません。
でも仮説はあります。
運動ができなかったり喋るのが下手で、
集団の中でうまくやっていくことが出来ない
経験が世間からつまはじきされる原因を
作ったのかもしれません。
あるいはそもそも天性の素質として、
世間を外から眺めている。
そして、世間の人とは違う方法で世間に
アプローチするようになる。その手法の
ひとつが小説で、あるいはゲームや映画で
あったりしてもいい。けど、小説という
形式は、一人で作りあげられることのできる
もので、そこが他の形式と、とても違うところ
だと考えています。
///まとめ
小説は、世間の外にいる人が嘘で塗り固めて、
一人で、作っている。
ただ、それは信じられるものだ。
ここで、信じると人はどうなるかということも
続くのですが、割愛。