第92期 #18
とりあえずは無難に接近する。無難にとはつまり、ありきたりにということだ。
「きみ、釣りとか興味ある?」
「な、なんすか」
「あるよね? 貧乏そうだもんね。そんな人にはウチの釣りサークルが至上。いま入部したなら歓迎会もタダ。焼き肉食べ放題ジンジャエール飲み放題。どう?」
意外かもしれないが、こうすると十数人に一人は引っかかる。後日彼らは連絡をしてくる。
だが連絡先はフェイクだ。それはラグビー部に繋がっている。
どういうこっちゃ。新入生諸君は受話器を持ったまま首を捻る。
そしてある日唐突に理解するのだ。
「やられた! 魚じゃなくて俺が釣られたのか!」
そういうわけで釣りサークル四代目部長がこの俺だ。イタイケな新入生をムゴイ罠にかけて弄ぶ、許すまじきこの団体を、執拗に追い続け糸を手繰り寄せた〈魚〉だけが得られるこの立場。
「きみ、本当にそれで良かったの?」
「誰だ」
「私だよ」
ドアの前にいたのは夢野さんだった。
「いつ帰って来たんですか」
「今」
「なぜ」
「つまらないんだもの。よその院なんていくもんじゃないね」
そう言って欠伸を漏らすと、夢野さんは研究室のソファにもたれた。
三代目部長。青い悪夢と呼ばれたその女。その所以は、かつて酔った勢いで研究室の壁を青一色に染上げたという伝説による。
彼女は眠そうな目でぐるりと部屋を見渡した。
「壁、白いね」
「塗り直しましたから。俺が」
「なぜ」俺の口調を真似て彼女は言った。
「……落ち着きませんから」
「わからないな。青は母なる海だよ。人類皆魚。それを地上から眺めるのは愉快痛快」
「邪悪が過ぎます」
「冗談だよ。きみほどしつこい魚を見たらそんな気もなくなる」
彼女は微笑を浮かべた。俺は唇を噛んだ。三年前、イタイケな新入生だった俺は、釣られたままでたまるかと、醜態をさらすほどにこの部を追った。そのお陰で今がある。
俺はもはや自分が魚なのか人間なのかわからなくなった。
この人は、どうなのだろう。
「夢野さん」
「ん?」
「壁、半分だけ青くしますか」
言いつつ想像する。とても落ち着かない。
魚の住処でもなければ人間の住処でもない。
だが夢野さんは頷いた。
「……好きにすれば」
ただ一言そう告げて、彼女はふらり部屋から出てゆく。
その掴み所のない後ろ姿を眺めながら、ああ、あのとき自分は歓迎会の誘いなどではなく、この人そのものに釣られたのだったと、俺は今更ながら思い出していた。