# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 拍手 | のの字 | 313 |
2 | ナオミ | 中里 奈央 | 999 |
3 | 湯の怪 | みかりん | 998 |
4 | 哀歓 | マサト | 803 |
5 | ちゃぶ台広げて | 五月決算 | 1000 |
6 | 正しい休日の過ごし方 | 守部大地 | 395 |
7 | いっそセレナーデ | フェラッチオセンズリーニ | 914 |
8 | トマト・ジュースの女 | 野郎海松 | 1000 |
9 | (削除されました) | - | 866 |
10 | 充電 | 戦場ガ原蛇足ノ助 | 992 |
11 | 紅の手紙 | Nishino Tatami | 994 |
12 | 薄暗い道 | 曠野反次郎 | 921 |
13 | そらいろチェリー | 坂口与四郎 | 1000 |
14 | まだらの芋をめぐる冒険 | 朝野十字 | 1000 |
15 | 真っ赤な | 林徳鎬 | 1000 |
16 | 眠り姫 | も。 | 1000 |
17 | 源平呪留記 | 妄言王 | 1000 |
18 | 人食いブタをやっつけろ! | 川島ケイ | 1000 |
19 | カーネーション、ユリ、ユリ、バラ | 逢澤透明 | 1000 |
20 | 猫のドイさん | (あ) | 1000 |
21 | 108ピース | 宇加谷 研一郎 | 988 |
22 | 第10期感想一番乗り | ツチダ | 969 |
23 | 外は雨だよ | 西直 | 865 |
24 | 祖母の話 | 海坂他人 | 1000 |
25 | 触ってごらん おとなしいから。 | ワラビー | 1000 |
26 | 馬之助 | 山川世界 | 1000 |
27 | カット | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
28 | 緋い記憶 | 赤珠 | 966 |
誕生パーティの式場で、二十歳の誕生日を迎えた友人の未来は、まぶしいほど輝いていた。幸せの絶頂だったはずだ。
彼がケーキのろうそくを吹き消すと、それを囲む人々は一斉に拍手した。友人は婚約者の肩を抱き、グラスを目線に構えて、乾杯と大きな声で言った。
まさにその瞬間の写真が手元にある。
写っていたのは、拍手したみんなの手が合わさる一瞬。しかも、全員が同時に瞬きした一瞬だった。
悪魔の意思に支配された偶然というものが、世の中には本当に存在するのだろうか。
ろうそくのおぼろげな明かりに浮かんだケーキは、まるで白い墓標である。人々はあたかも墓前に向かって合掌し、黙祷しているようにしか見えなかった。
次の日、友人は事故で死んだ。
夕方のバス停にナオミは立っている。雨の中で傘もささずに。
自分の乗るべきバスを、もう何台見送ったろう。バスは十数分に一度しか来ないのだから、いい加減に次のバスには乗らなければ……。そう思っても体が動かない。
びっしょりと濡れたセーラー服の襟元から、冷たさを増した空気が忍び込む。ナオミの体はすっかり冷え切って、カバンを持つ手にも感覚がなくなっている。
高校三年になったばかりの十七歳。そう、まだ十七歳。誕生日の夜に、このまま永遠に十七歳でいたいと思った。十八という数字は嫌いだ。それ以上の数字は自分には似合わない。
永遠の十七歳……。ナオミは思わず笑いそうになる。でも、もう既に表情さえうまく作れない。待っている間に、ナオミの総ては冷たくなっていくばかりだ。
待っている? 一体何を?
もう、それさえも定かではないほど、長い時間、ナオミは待っていた。誰もナオミのことなど気にしない。何人かいた客は、目当てのバスが来ると、さっさと乗り込んでいってしまう。そしていつのまにか、バス停にはナオミ一人きり。
ゆっくりと白い小型車が停まる。車体の横に書かれているのは、地元では大手の薬品メーカーの名前。
「送っていきますよ、この雨じゃ風邪をひいてしまう」
助手席のウインドーを開けてそう言う男は、まじめそうな、ごく普通の中年のサラリーマン。
「早く乗らないと、車の中にまで雨が入り込むよ。遠慮しないで」
大きく開けられたドアの中からそう言われ、ナオミは嬉しさのあまり、久しぶりに生気を取り戻す。
殆ど失いかけていた記憶、自分がどうしてここにいるのか、何を待っていたのか、はっきりと思い出す。
バス通りとは言っても、学校の裏の寂しい場所。まして雨の日の夕方なら人通りは少ない。傘を持たずに濡れている女子高生は、親切に声をかけられたら車に乗ってしまう。社名を明記した営業車であることに、つい油断して……。
サンプルの麻酔薬が車の中に隠されていることなど知るはずもないし、自分がそのまま山の中に連れて行かれ、殺されてしまうなどとは夢にも思わずに。
待っていた甲斐があった。完全に向こう側の世界に行く前に、再びこの男に会えた。一緒に連れて行くのだ、この男も。
恨んでいるからではない。愛してしまったから……。
ナオミの顔を思い出したのだろう、驚愕の表情を浮かべている男に微笑みかけながら、彼女はゆっくりと車に乗り込む。
湯船を熱心に掃除をしてもしなくても、湯はいつも綺麗なことに湯屋の主人は気付いていた。
店は繁盛していた。近隣からも遠方からも客が来る。どんなに大勢の客が来た日でも、湯は濁ることなく綺麗なままだった。
時々、妙な噂がたつ。
「湯がいつも綺麗なのは、湯船の中に湯の怪がいるから。それは一年に一度ほど客を喰らうんだ」
湯屋の主人は、噂を無視していた。店が繁盛していればそれで良かったのである。たとえ、一年に一度ほど、閉店時に服と靴がひとり分残っていたとしても。
持ち主はどうしたのだろうと思いながらも、丁寧に服を畳み靴と共に風呂敷に包む。そういう風呂敷包みがいくつも納屋にある。家族に尋ねられても「お客の忘れ物だよ」と言うだけである。
「うちの亭主が朝から湯屋に行ったきり帰ってこない。湯に飲み込まれたんではないか」
ある日、近所の顔なじみがそう言って怒鳴り込んできた。
「ここの湯には何かいるんだろう? みんな言ってる」
「根も葉もない噂には迷惑している」
湯屋の主人は、内心「顔なじみはまずいな」と思ったが、今日は持ち主不明と思われる服は見ていない。
「今日は混んでいて、誰が入ってもう出たか、いちいち覚えていない。その内、家へ戻るのではいないか」
怒鳴り込んできた女房は「また来る」と言い残し、納得のいかない表情で戻っていった。
閉店間近になり、脱衣所は込み合ってきた。戻らないという亭主を目で探したが、それらしい男はいない。
最後の客が「良い湯だった。また来るよ」と言った所で、湯屋の主人は片づけはじめた。散らかった脱衣かごを集めていると、脱ぎ散らかした服を見つけた。先程言われていた服装と同じだった。まさかと思って玄関に行って下駄箱を見ると、靴が一足揃って行儀良く並んでいた。
そこへさきほどの女房が来た。
「すまんね。うちの人が裸んぼうで納屋で震えていた」などという。
話を聞くとどうも正気ではないらしい。「化け物に喰われそうになったが逃げてきた」などと言い、うなされて寝込んでいるという。
湯屋の主人は靴が見つからないような位置にさりげなく体を移動してから、じっくり話を聞いてやった。女房は「あのばか亭主。どこかでたちの悪い女に騙されたに違いない」と毒づき、先程の非礼を詫びて帰っていった。
湯屋の主人は、丁寧に湯船を洗う。そんなに洗わなくても、いつも湯は綺麗で、店が繁盛することは知っていたけれど。
窓辺に掛かるレースのカーテンが外気によって静かに揺れる度、正午の暖かな光も視覚的にではなく、感覚的に揺れるように感じる。そこへ手を置いてみると、触覚が愛情のような暖かさを覚えた。窓辺の向こう、空をカーテン越しに見上げると小さな飛行機雲を見つけた。
私の苦しみをあなたが理解するなんて不可能なのよ!
そう言ってしまった昨夜を思い返しては、涙が込上げて来る。
私は子供を堕胎しているのよ!捨てられたくないって、必死になって!その結果は、書き間違えたメモ用紙の如くゴミ箱行きよ!その苦しみがあなたに理解出来るの?ねえ!
彼はただ黙って抱きしめてくれた。それがどういう答えなのか私は知らない。それが昨日の夜で、今はもう彼はいない。暖かな日差しの中に置かれた手の甲で、私は現実の中にある数少ない哀歓を覚える。彼はそれでも受け入れてくれる。彼はそれでも笑ってくれる。私の悲しみを吸い尽くし、そしてまた笑ってくれる。
結婚しようね。僕はそれも含めて、君を愛しているからさ。
私は哀歓を覚える。私は失うことの恐怖を再び味わう。彼が私を一つ許してくれる度に、私は彼を一つ失う。何故、全てを優しい笑顔に変えてしまえるのか。私には疑問符ばかりが増える。彼を少しずつ見失ってしまいそうで怖い。
傷を付け合う事だけが人間の関係じゃないでしょ。僕は君の全て受け入れるよ。大丈夫、必ず幸せになれる!
私の心が切り裂かれる前に彼と会う事が出来ていれば、私は彼を見失う恐れを抱く事はなかったかもしれない。
見失う為に私は彼との関係を続けなければいけないのかしら。結婚する事が一つの答えになるのなら私は彼と結婚しようと思う。でもそれが、彼の事を一つどころか全てを見失う道になるのなら私は躊躇する。伸び続ける飛行機雲を眺めながら、私は私に関する将来を私の手によって裁く。ここに置かれた手を引っ込めても、置いたままでも、私は生き続けるしかないのだ。
ちゃぶ台にはロマンがある。
しかし、それには必要な条件が揃っていなければならない。
まず、適度に年季の入ったものが好ましい。
何故なら、ちゃぶ台の質はその年季にあるからだ。適度な傷、適度なハゲ具合、これらも重要な要素の一つに違いない。それを自然に身につけるためには、やはりある程度の年月を経たと一目でわかるものでなければならないのだ。これは欠けてはならない、言わば必要不可欠の要素と言えよう。
次に必要なもの、これは脚を折りたためるものでなければならないことだ。
本来、ちゃぶ台は狭い日本住宅で必要なとき、必要なスペースを確保する目的で開発された意味合いが強い。それは坊主の修行でいわれる「起きて半畳,寝て一畳」に通じるものがある。人間が寝ている間は常に身を折りたたんで部屋の隅に置いてそれまでの占領スペースを有効活用できるよう、脚が折りたためて当然、いや、折れない脚のちゃぶ台など言語道断なのだ。いくら年季のある質のよいちゃぶ台だとて、脚が悪ければ何の意味もなくなる。ちゃぶ台としては失格だと言わざるをえないのだ。
望むべくちゃぶ台を作り出すには、根気も要る。
数年ごときで出来あがるものではない。いや、一生涯かかったとしても我が手で作り出す事など不可能かもしれない。
だってそうだろう。望む場所に思うような傷がつかなければ、侘び寂をかもし出す風情あるハゲができなければ、そのちゃぶ台はただの小汚い古道具に成り下がってしまうのだ。そんな悲しい事はない。あってたまるものか。
傷、ハゲ、脚、その全てが必要で必須条件だ。まるで人生を凝縮している、そう縮図と言うにふさわしいものと言っても言い過ぎではないくらいだ。
なあ、キミ。キミにならこのロマンを理解してもらえるだろう?
この古道具屋のショーウィンドに並ぶこのちゃぶ台、この痛み具合とても質が良い、魅惑的なフォルムだしハゲ方に品もある。無骨な脚がまた良さを引き立てている。これぞベストちゃぶ台、いや、『キング・オブ・ちゃぶ台』と呼ぶにふさわしい逸品だ。
そうだ、特別にちゃぶ台の正しい使い方を教えよう。キミのちゃぶ台をそこで広げて耳を押し当ててごらん。時代の足音が聞こえるだろう? それはちゃぶ台が見てきた歴史そのものなのだ。
聞こえないなんて事はない。それは正しい聞き方をしていないからだ。ええい、この未熟者め、心の耳で聞くに決まっているだろう。
「お父さぁん。遊んでよ〜!」
「ねぇ、お父さん!!」
子供たちの言葉に、父親はけだるそうに答える。
「ゴールデンウィークっていうのは、いつも働いてる人がゆっくり休む日なんだぞ」
そのまま父親はまた目を閉じて横になってしまった。
「お父さんったら、そんなことばっかり……」
母親は苦笑いを浮かべたが、休日特有のけだるさから、それ以上は何
も言わない。それどころか母親もゆったりと体を休めてしまっている。
「「つまんなーい」」
異口同音に呟くと、姉弟は退屈しのぎにじゃれ合い始めた。
「えいっ!」
「お姉ちゃん、上に乗ってこないでよぉ」
子供たちの微笑ましい姿に、母親は目を細めた。
「あら、お隣はお出かけね」
子供たちの下をのぞき込み、母親がそう呟いた。
「お父さん、うちの鯉のぼり、全然泳いでないね」
「鯉のぼりさんもお休みなんだろう」
親子が見上げた先で、鯉のぼりたちはそよ風にかすかに揺れるばかりだった。
愛しのセレナーデ。行かないで。行かないでくれ。甘いくちづけは遠い記憶の海にながされていた。
ダンディズムのチャンピオン吉田昇は春の陽だまりでまどろむ部屋でパイプをくわえた。
春の日差しを浴びた昇の体はからは漬物の匂いが漂っていた。きっとキュウリか茄子が食べごろに違いない。
吉田昇のダンディズムはその後猪木イズムとして継承され現在では酸化マグネシウムとしてしっかりと酸素と結びついた。
ダンディーは自然が大好きなのだ。
「夢か・・」
昇はまた同じ夢を見ていた。愛しのセレナーデ。昇は高まる気持ちを慰めるようにパイプを吹かしおならをすかした。
コンソメパンチの強烈なリバーブローは食事の準備をしている執事の武田を襲い悶絶させた。キレは増すばかりだ。
ダンディーは決しておならの音を立てない。朝、ムスコも立てない。
朝にいきりたっている海綿体はダンディーではない。どんなに叫んでもそこからは愛は生まれない。
出てるくるのは昨日涙だけだ。男はそんなに涙を見せるものじゃない。昇のダンディズムである。
武田はアールグレイを昇にもってきた。
「ご主人様。また同じ夢を?」
「ああ。最近じゃ夢か現実か分からない。」
明らかに困憊している昇を武田はほっとけなかった。武田はおもむろに服を脱ぎはじめた。
ダンディー昇は動揺せずにアールグレイを口にした。
「なんのマネだ?」
武田は昇の手をそっと握った。
「あなたのお子様はもはやこの世にいません。もういないのです。死んだのはご主人様のせいではございません。
運命だったのです。誰も想像できませんよ。生まれて三日で歩き出すなんて・・」
昇も分かっいた。あの交通事故は誰のせいでもない。ずっと分かっていた。けれども心の何処かで許されることじゃないと思っていた。
わが子を殺した自分は生きる価値がないと自分を戒めて生きてきた。
「ご主人様。私は先日還暦を迎えました。そうです。私は生まれ変わったのです。一人の赤ん坊です。」
昇はゆっくりと頷き、裸の武田を抱っこしおっぱいをあげた。シワシワの赤ちゃんだが力を入れると壊れてしまうところは赤ん坊そのままであった。
おしめはオプションだったことは昇には関係なかった。ダンディーは常にフルオプションである。
「アタシ?」
おれが声を掛けたのはいかにも場末のバーに相応しいはすっぱなハスキー・ボイスの女だった。大きな眼がくるくると落ち着きなくよく動く。
「誰かと間違えてるんじゃないの?」
そう言いつつも女の声は押し殺した確信に微かながら震えていた。おれは黙って女の隣に座った、そしてバーテンダーに言った。
「トマト・ジュースを」
「トマト・ジュース?」
女は呆れたように笑った。
「トマト・ジュースさ。おかしいかい?」
女は首を振った。香水の匂いがおれの鼻先を掠めた。
「三ヶ月前のことだ」
おれはぽつりと独り言のように言った。
「おれの友達がある女を捨てた」
「ずいぶん昔の話ね」
そう、ずいぶん昔の話だ。
「お友達はなぜそのヒトを捨てたの?」
「理由はない。よく女を捨てる奴なんだ」
「あらあら」
おれの前にバーテンダーがちりちりに冷えたトマト・ジュースを持って来た。トマトの赤は誰かを誠実に裏切るときの嘘に似ている。それをおれは一口だけ含んだ。
「美味しそうね」
「旨い」
おれはタンブラーを置いた。
「それでおれはそいつに頼まれて女を捜してるんだ。これを渡すためにね」
離婚届だった。
「あらあら」
女は愉快そうに笑った。そしてそこに書き入れられている名前を見た。
「これってアタシ?」
「そうだ。君の名前だ」
「お友達はアタシを捨てるだけじゃ物足りなくて、アタシに“捨てられた女”っていう烙印を背負わせたい訳ね?」
「まあ、そうなる」
女は酒臭い息を吐き出しながらまた笑った。
「お笑い種だわ。アタシに何もかも捨てろって言うの? あいつを苦しめる唯一の切り札さえも」
「君だって楽になれる」
「アタシは楽になんかなりたくないの!」
バーボンのグラスを握り締めた女の手が、滑稽なほどぶるぶると震えた。おれはそれを見ないようにした。
「アタシはずっとあいつの自由を奪ってやるの。アタシの自由の全部を賭けてね。アタシに信じられる正義はただそれだけなの」
「よく分かる」
おれはまたトマト・ジュースを飲んだ。
「でも君はまだ若い。君の自由を解放してあげるべきだ」
「ねえ」
女は一息にバーボンを飲み干してから、ふっと呟いた。
「アタシにもそのトマト・ジュースちょうだい」
おれはもちろん、というように手を広げるジェスチュアをした。女はゆっくりとタンブラーを傾けた。
「美味しい」
女は泣いた。
「だろう?」
おれは笑った。トマトの赤は行き場を失った愛に似ている。
「桜より梅が好きだ」という男がいてよくよく話を聞いてみると桃が好きだった
という話はよくある。いずれ果樹だというのがポイントだが樹高も似たり寄った
りなところが面白い。もちろん花卉には花卉でよいところもあろうが花は木花が
優れる。
すずらんの毒が花にあるのか根にあるのかはたまた若芽にあるのかを忘れたため
これらを一時に食った男がある。一時に食ったから中毒作用と解毒作用が相半ば
し死ななかった。毒に関しては要領を得ない話だが味については強い苦味が今も
舌に残ったままだという。
実生と挿し木とでどちらが佳い盆栽になるのかについては永く論議されていると
ころであるが、面白みという点ではしばしば実生の側に分がある。必ずしも親木
の形質のみを受け継ぐとは限らないところに謎の答えが隠されている。
即ち、ミツバチの糞やイモムシの足の擦り具合にふと感じて精を得たタネもなし
とはいえないのである。
水遣りもしばしば問題となる。要は天然自然の摂理のままがもっとも良く朝露
晴雨夜露と順に浴びるのが良い。が、それだけでは足りないことも多くその場合
は水道水でもセミの小便でも赤子の涙でもちっともかまわない。
木が子守りをするという俗説がある。我が子も人の子も隔てるところなしという。
本来は「人の子」とは「他人(ヒト)」「他の種類の草木の種子や苗」を指したが
いつしか「人間の子」の意味にとられるようになった。しかしこれもあながち間違
いでは無い。私自身ケヤキの木に育てられた記憶が少しある。
園芸術の祖は中国に居たという。その後天竺にくだりアラビアを経てオランダに至
ると。さらにはアメリカに渡り黒船でようよう日本にまでたどり着いたというがこ
のあたりまで来ると話は眉唾である。とはいえ日本の海岸には成るほど松が多い。
園芸は鉢に始まり鉢に終わる。そのむかし名高い天目茶碗に孔を穿ち鉢とした人が
いた。酔狂ついでに茶の木を植えたところ鉢はひょっこり立ち上がりトコトコ歩い
て裏山の藪の北側に落ち着いた。藪北茶の始まりである。ここまでよく出来た鉢は
稀だが似たようなことをする鉢はいくらもある。
私が看護士になってもう随分経つが、新人の頃から今に至るまで、常に扱いに困るのは点滴狂の患者達である。医師がお疲れのようですから充電しておきましょうと言うや否や、彼等は人が変わったように怒り出すのだ。
恥ずかしながら私の祖父もその点滴狂の一人であった。二十世紀生まれの祖父は医療行為は何事も苦痛を伴わなければ効き目が無いと信じ込んでいて、当然ながら充電は断固として拒否するのだった。
そんな祖父が私の勤める病院へ診察を受けに来たのは、祖母に先立たれて五年程経ったある日のことだった。体調がすぐれないと医師に訴える祖父の姿がやけに小さく見えたのをよく覚えている。祖父の奇妙なこだわりについては私が前もって伝えておいたので、祖父は点滴を勧められた。点滴のラインを確保するのに手間取って何度も針を刺されている間、祖父は窓の向こうを眺めて痛みを紛らわしているようだった。
両親と話し合った結果、独り暮らしをしていた祖父をしばらく病院で預かることにした。私がその事を告げても祖父は落ち込んだ様子も見せず、入院生活に積極的に馴染んでいった。点滴スタンドを引きずって歩く姿が病院内で話題となり、年配の患者の何人かが点滴を希望した。
本人は飄々としていたが、医師によると状態はあまり良くないとのことだったので、私は両親に病院へ顔を出すように連絡しなければならなかった。見舞いに来た両親も点滴スタンドを見て少なからず驚いたようで、在庫取り寄せで別料金か、と冗談めかして私に尋ねた。両親は祖父にそれとなく充電を勧めてくれたようだが、本人には全くその気はないようだった。
当直を務めたある晩、私は休憩時間を利用して充電を行っていた。今も昔も看護士は人数不足だが、充電が普及したお陰で肉体的には随分楽になったのだそうだ。そこに突然祖父がやってきて話し始めた。祖母は以前看護婦をしていて、よく点滴をしてもらっていたのだという。私は黙ってその話を聞いた。点滴にまつわる思い出を語り終えた祖父は、私の充電池を見つめて、自分を充電するよう私に促した。そこで始めて祖父が点滴スタンドを引いていないのに気が付いた。
それから間もなく祖父は亡くなった。充電のお陰か穏やかな最期であった。私は今でも、点滴をされたがる患者に出会うと落ち着かなくなる。何か只成らぬ思い入れがあるに違いないと、そればかり気になって仕方がないのだ。
学校から戻った緑は郵便受けを開け、 一通の葉書を見出した。
「何だろう、裏は真っ白だけど…って、紅君からじゃないの!」
紅は緑が想いを寄せるクラスメイトで、2メートルを越す精悍な体と、何事にも積極的に取り組む勇気と知性を兼ね備えた若者だった。その紅から直接葉書が届いたとなれば、緑は黙ってはいられなかった。
「どうしたの、緑?そんな顔を赤くして」緑の母が居間から顔を覗かせた。
「いや、友達から手紙が届いてね」
「でもそれ、裏真っ白じゃないの」母の一言で、緑は一気に現実に戻された。
「それなのよ、何で白紙の葉書なんて寄越したんだろう」
「あぶり出しじゃないの?火をかざすと文字が浮き出すって」
「あぶり出し?」緑は首を傾げた。「聞き慣れない言葉だけど…お母さん、試しにやってみてよ」
台所に入った二人は、早速コンロに火を入れた。
「これをどうするの?」
「炎の上にかざすのよ、あまり近づけると燃えるから、少し離してゆっくりとね」
恐る恐る葉書を火の上にかざそうとする緑だが、その手は火から離れゆくばかりだった。
「いややっぱり辛い。熱いし、火事も恐いし」
「何情けないこと言ってるの」母は緑の手から葉書を取り上げた。「手だけでなく、頭も使いなさいよ」母はパン用のトングで葉書をつまみ、火のそばにかざした。
「まだ何も出ないんだけど」
「まだまだ。もう少し炙らないと」母は構わず火にかざし続けたが、文字が現れるよりも先に火が葉書に燃え移った。悲鳴が上がったときには時既に遅く、葉書は黒焦げの炭と化していた。
「びっくりした…火事にはならなかったみたいだけど」
「うーん、やっぱりローソクの方が良かったかも」」
「それを早く言いなさいよ」緑は母の頬を軽く小突いた後、コンロの前に座り込んだ。「それより紅君の手紙、読む前に燃やしちゃって…きっと大事な話よねえ…」
翌朝、実験室でたまたま紅と二人きりになった緑は、おずおずと切り出した。
「あの、ご免なさい」
「緑さん、どうしたんです?」ピペットの掃除をしながら紅は訊ねた。
「昨日、紅さんから手紙を貰ったんですけど、あぶり出しがうまく出来なくて燃えてしまって。だから…」
紅は肩を震わせて吹き出した。「いやね、こういうのに正直に応えてくれたのは君が初めてだよ。君とはもう少しお話する必要があるみたいだね」
「紅さん…!」
胸に抱きつく緑に、紅は優しく応えた。
「水かけるのが正解だったんだけどね」
灯りのまるで点っていない見知らぬ道を歩いていた。薄暗いことはそれ程気にならなかったが、何故自分がこんな道を歩いているのかまるで見当がつかない。どこからか蟇蛙がぐわぁと鳴く声が聞こえるところをみると近くに池でもあるのかもしれないが、自分の家の近くに池などある筈はない。いやいや確か自分はちょっと一杯ひっかけた後、知人の家を訪ねる途中であって、久々に会う知人だからこうして土産を携えている訳で、ちょっと近道をしようと思ったら、こうして見知らぬ道に迷い込んでしまったのだ。一旦はそう納得しかけたのだが、その知人の名前がまるで思い出せない。そういえば知人の名前なぞ気にしたことはまるでなく、あるいは、一度も名を訊ねたことなどなかったのかもしれない。それでどうして知人と言えるのか。いやいや勿論その疑問は至極当然のことなのだが、こうして目を閉じて見れば、脳裏にはっきりと知人のにこやかな顔を思い浮かぶ。その顔はどこか蟇蛙に似ていないこともない。そういえば、その知人というのも先程の蟇蛙の声から自分が勝手に捏造したかのようにも思える。どうも頭がふらふらする。あるいは私はすっかり酔っ払ってしまっているのかもしれない。
また蟇蛙がぐわぁと鳴き、その声につられる様に足を止め、改めて辺りを見渡した。薄暗かったので、まるで気付かなかったのだが、そういえば灯りが点っていないというだけで、細い道の両脇に立ち並ぶ家々にはどこか見覚えがある気がしてきた。そう、あの看板などは普段よく見かけていた看板の筈で、あの角のペンキの剥げ具合は確かに記憶にある。そうだ、ここは家のすぐ裏手の道だ。そう思うと、途端にこの薄暗さが不気味に思えて来た。人気のまるでないこの薄暗さは一体なんなのだろう。背中にいやな寒気が走り、急いで自分の家に向かおうと思うのだが、何故だかまるで見当がつかない。やはり自分は知人の家に向かう途中だったのだろうか。いや、そんな筈はない。ここは家の裏にある道の筈で、あそこの電信柱に貼られた広告には確かに見覚えがある。
また蟇蛙がぐわぁと鳴いた。道は相変わらず薄暗い。私は蟇蛙がいる池を思い浮かべ、そういえばそんな池が家の近くにあったかもしれないと思う。
リリカは、最後にできた友達だ。
ずっと病院で暮らしていた。ある日、病気が直っていないのに家に帰れることになった。家族は気を遣って、いとこを家に呼んだり、ほしい物を買ってくれた。僕も気を遣ってはしゃいだ。そうやって、過ごしていた。
ぼんやりと二階の窓から外を見ていると、女の子が顔を上げて走っていた。目が合い、女の子は立ち止まり照れくさそうに笑った。不思議に思った僕は窓を開けた。
「何でこっちを見ながら走っているの?」
「花がどこまで飛んでいくのかと思って、追いかけてたの。見失っちゃった。」
それがリリカだった。
僕の家は桜の風下のようで、次の日もリリカは来た。リリカは僕より三歳年下だった。そのうちリリカを庭に招いておしゃべりをするようになった。僕はリリカに病気のことを話した。
「あたしがあと、三年早く生まれればもっと早く友達になったのにね。」
リリカは年の差を残念がった。僕はずっと学校には行ってないから、あまり変わらないだろう。
「そうしたら、僕たちは会わなかったかもよ。」
僕の言葉にリリカは、ぱちぱちと瞬きをしてから、自身たっぷりの笑顔でこう言った。
「ううん。絶対に会って友達になるの。」
僕は目をそらした。うれしかったから。リリカと目が合うのが恥ずかしくて。僕はいつも誰かに、神様みたいな誰かに、もてあまされているような気がしていた。「とりあえず、ここに立っていなさい。」と、言われ、黙って立っている。みんなはどんどん通り過ぎていく。
「もう少し、君と一緒にいたかった。」
リリカのように笑ってみたものの、目の奥が痛んだ。声も上擦ってしまった。カッコ悪い。涙を拭いた。ますますカッコ悪い。胸も痛み出した。僕はさいこうにカッコ悪い。
「できるだけいてあげる。」
リリカは僕の死を否定しない。
桜の花びらが降ってきた。最後の花かもしれない。手のひらで受け止めようとしたけど、吹き流されてどこかへ行ってしまった。
「あのね、あたしが大人になったら、あなたのお母さんになってあなたを産むから。だから、また会えるよ。」
リリカはにこにこして言った。
「そんな――」
無理だよ、と言おうとしたけど、なぜ無理なのか言えずに困っていたら、にこにこ笑いながらリリカは僕の頭をなでた。
「ほら。」
リリカの手にあったのは、さっきの花びらだった。
無理だよ。僕は君が好きなんだ。
口下手の僕は、いつも後から言葉が浮かぶ。
一年前大富豪かつ冒険家だった男が妻と共に事故死した。残された双子の姉妹は絶世の美女だった。ある日姉が名探偵・朝野十字を訪ねた。
姉妹は宮城県出身だが今は東京の一軒家に家政婦も置かず二人で暮らしている。姉妹の寝室は一階の隣同士である。妹の部屋には冒険家だった父のプレゼントである南米の芋の置物があった。竜神ライグウの好物でまだら模様のある伝説上の芋である。二週間前妹の恋人・誠が結婚を迫ったが妹は断った。誠は顔面蒼白で帰った。数日後、妹の部屋から念仏のような音、強いお香の匂いがするようになった。ある夜姉が目を覚ますと隣で「ライグウ!」と叫ぶ声がした。妹の部屋のドアを叩くと、しばらくして放心状態の妹が現ればったり気絶した、と言う。
名探偵は直ちに姉妹の自宅を訪れた。姉妹の寝室のドアは同じ廊下側に開き、窓は庭に面してあった。名探偵は姉妹の部屋の窓の周辺を丹念に調べた。壁には蔦が絡み鎧戸を閉めた窓を外から開けることは不可能だった。廊下側のドアは姉の勧めで就寝前に内側から錠を下ろしていた。妹はライグウや念仏に心当たりはないと言った。また結婚を断った理由は、両親を失って日が浅く恋人より姉を大事にしたい、結婚して家を出る気になれないと述べた。なお、姉にも恋人がいると聞いて名探偵は悔しそうに唸った。名探偵は姉の恋人・隆を厳しく訊問した。隆は一月前に喧嘩して以来姉に会ってないと答えた。
ある日私(助手の新之助)は急用の名探偵に代わり姉を訪ね、内緒で妹の部屋に盗聴器を仕掛け窓の鍵を壊しておけという指令を伝えた。姉は今夜自分の部屋で用心のため恋人と共に盗聴すると言った。仲直りしたのかと尋ねると「私には唯ひとりの家族が第一、隆さんは二の次なのです」と答えた。名探偵には危険だやめろと命じられたが、その夜私は独断で姉妹の家を見張っていた。庭の植込みが揺れたので飛び出すと、同時に飛び出てきた名探偵とぶつかった。名探偵は黒装束でカメラを抱えていた。
「その格好は――」
「黙れ字数がない回答は姉妹が共に相手を思いやり恋人を遠ざけたが誠は深夜窓から妹の部屋に忍び込み(蔦に踏まれ切れた跡あり)愛を確認恋人と喧嘩した姉に気兼ねし愛の営みを悟られまいとステレオを低く鳴らしたのが念仏に聞こえ男の匂いを消すため香を炊いた宮城県出身の妹は『おら、いぐう!』と叫んだ」
妹を盗聴した姉はその夜の内に恋人と仲直りしたと言う。
昼休みの時間、37人のクラスメート達は皆ひどい顔をしていた。
彼らはそれぞれに人を殺してしまったのだ。
なぜ私がそんなことを知っているのかはわからない、はずが、これはどうやら夢の中のことなので、そのうちの数人の犯行場面が映像として夢を見ている私自身には記憶されている。
昼休みのいま、彼らは自分の罪が暴かれることを恐れていた。
夢の中の私は、給食を皿に取り、椅子に座る。窓の外は真っ赤だった。景色はない。かといって何もないわけはないのだが、意識はそちらに向かわず、夢の中の自分自身の後ろ姿を見ていた。六つの机が向かい合わせになっている中の、端の席だった。顔を見られないようにうつむいてパンをかじっている。クラス全体を見回すと、みんなそうだった。
話すこともなく見るものもないので、椅子に座っている私は、あるいは椅子に座っている私を見ている意識である私は、記憶に刻まれた犯行の場面を、まるで薄いセロファンに描かれている絵を手に取るようにして、じっくりと眺めた。犯行の場面には殺された者の姿は映っておらず、ただ、クラスメートの怯えた表情だけが見えてくるのだった。
目が覚めたときに、隣りに寝ていた彼女にその話をした。
あなたも誰か殺したの、と彼女は聞いたが、その答えを私は知らない、はずが、そう彼女に言われて思い出したのだが、どうやら私も一人殺した設定だった、と私は記憶している。どっちだと思う、と彼女に聞くと、殺したでしょ、と彼女は言い、なんでそう思うの、と返すと、顔を見ればわかると答えた。たぶん、悪夢にうなされ憔悴した顔をしているのだろう。私は、教室にいたクラスメートよりも、いまの自分のほうがきっとマシな顔をしている、と彼女に言った。
「だって告白したんだから」
それからベッドを出て洗面所に行き顔を洗った。そのひどい顔を見て思い出したのだが、私は夢に見てしまった罪を告白したつもりが、まだ彼女に黙っていることがある。というのも、夢の中、私が殺したのは彼女だったのだ、と私は記憶している。
黙っておこうか迷いながら部屋に戻った。彼女がいないのに気づき、隠れているだろうと思いベッドにゆっくり近づく。近づきながら、夢では見ることの出来なかった外の景色に目をやり、薄く雲のかかった空、葉のない枝、割れたガラス窓を通って真っ赤に染まったベッドの上にこぼれる弱々しい光を、とても暖かく、美しいと感じた。
僕の彼女はとてもよく眠る。僕は悩み事があったりすると眠れないタチだから、彼女がとても羨ましい。こないだも、こんなことがあった。
「もしもし、ルミー」
「名前が出るから、わかってるよ」
「明日なんだけど、渋谷に十時だよね?」
「あ、ごめん、明日行けなくなった」
「え? なんで?」
「仕事」
「えー、だってこないだはダイジョブって言ったじゃん」
「今日、課長に急ぎの仕事頼まれちゃって」
「えー、マジで?」
「うん」
「それならもっと早く電話してよぉ、エミに誘われたのに断っちゃったじゃん」
「あ、ごめん」
「いっつもそうなんだもん」
「お前だって、ドタキャンすることあるじゃん」
「そうだけどさぁ。アタシは自分から言うじゃん?」
「そうだっけ?」
「そうだよぉ、ユウジはアタシが電話しないと言わないじゃん」
「そんなことないよ」
「今日だって、アタシが電話しなかったら、どうするつもりだったの?」
「ちゃんと電話しようと思ってたよ」
「ホントに?」
「本当だよ」
「ウソでしょ?」
「なんでだよ?」
「なんとなく」
「なんだよそれ」
「だって、なんとなくそんな気がしたんだもん」
「あっそ」
「……明日は何時頃まで仕事なの?」
「わかんないよ。なんで?」
「仕事終わったら会える?」
「多分無理」
「早く終わりそうもないの?」
「わかんないけど」
「早く終わらせてよ」
「うん」
「全然思ってないでしょ?」
「思ってるよ。早く終わらせるように努力します」
「ウソ」
「嘘じゃないよ」
「ってゆうか、ホントに仕事なの?」
「仕事だよ」
「ホントに?」
「同じこと何回も言わせんな」
「だって」
「だって、なんだよ?」
「……」
「なんか言えよ」
「……」
「聞いてんのかよ?」
「……」
「おい」
「……」
「怒ってんの?」
「……」
「ねぇ?」
「……」
「ごめん」
「……」
「謝ってんだろ」
「……」
彼女はそれっきり何も言わなくなった。僕は不安になった。電話を切って、何度もかけなおしたけど、彼女は一回も出なかった。
結局、眠れないまま朝を迎え、ウサギのように赤い目で出社した。でも、彼女のことが気になって仕事が手につかず、煙草の本数ばかり増えた。
昼休みになって、携帯にメールが届いた。ルミからだったので、急いで見てみると、
昨日はごめんね。携帯持って寝てた。起きたらお昼。十二時間も寝ちゃった(照)
思わず、「寝てたのかよっ!」と携帯に突っ込んだ。
それにしても、なんで彼女は気まずい雰囲気のときに限って寝ちゃうんだろ。
後白河の御時、位人臣を極む平清盛入道、熱病に罹りたり。比叡より冷水もて参れども、忽ち湯となす。
火も温泉もなき処に湯ありとて、伊豆の源頼朝、大ひに嘲る。父の仇なれば、さもありなん。敵将の子なれど幼しとて、頼朝赦し、伊豆北条時政に預けたは、入道、一世一代の大うつけなり。
京の以仁王、平家討たんとて起つ。頼朝応じて挙兵すれば、北条伊豆、機と見て従ふ。王、返り討ちにさるゝも、頼朝死なず。あまつさへ、初陣にて平家が軍勢をば破りたり。
入道、頼朝の首、墓前に供えよとて往生す。遺児宗盛、維盛、知盛、束となりて平家の切り盛りせんと励めど、武運拙し。頼朝が異母弟九郎義経、平家追ふ。一ノ谷、讃岐屋島、とゞめは海戦、壇ノ浦。
高倉帝が后、建礼門院徳子は入道が娘なり。兄ども、弓矢尽き果て、鎧のまま海に飛び込むを見るや、御子の安徳帝を抱き、海の都に参りませうとて、後追ひたり。海の都、人の姿にては行けず。波間のうちに蟹に変じたり。世に平家蟹といふ。恨み忘れず、かにかに堪忍できぬとて、後生泡ふきて怒れり。
徳子、死にそこなひて尼となれり。坊主なれば生臭は食さず。身内口にせぬは幸ひなり。
頼朝、有頂天を極む。鎌倉に鎮座しままに京へ入らず。後白河が御影おそるる気色あり。崩御に高笑ひすること限りなく、しかして征夷大将軍となりぬ。
人呪はば穴二つ。頼朝、武家の棟梁にあるまじき落馬し、あまつさへ落命す。手足の痺れゆゑの失態なるや。今際に浮かぶは九郎なるらむ。平家亡くばいらずとて追ひし九郎義経、みちのく平泉衣川にて腹切りたり。頼朝、白き目むきつつ、奴の呪ひなるかとて、泡吹きて逝きたり。頼朝最後の晩餐、それすなはち蟹なり。
義経、死にたる振り袖。衣川抜け、北へ行けり。祖国にて生きるは叶はぬとて、大陸の土となるらむと覚ゆ。髷、辮髪に結ひ直し、蒙古の地にて獅子奮迅に掠め、成吉思汗と名乗りて皇帝と号す。
その遺言、ただ故郷に帰らんと欲す。側の者ども、そはいずこなるか知らず。
その孫、忽比烈なり。祖父の仇討ちと知るや知らぬや、黄金満ちたるときく島国、掠めんと画す。対馬壱岐をば蹴散らし、博多に入れども、神風吹きて、船悉く砕け散る。木つ端にすがりし蒙古ども、命からがら呂栄に流れ着けども、泣き面に蜂ならぬ蚊、熱もちて悶え苦しみ、死にたり。蒙古どもが恨み骨髄、怨霊となりて呪ひぬ。倭国を統べる者、我等と同じ様にて死ねとぞ。
「人食いブタが出るんだって!」
とはじめに言いだしたのはレバーだ。レバーは太ってて色が白いやつで、ランドセルにバレーボールのシールを貼っていたからバレーというあだ名がついた。けどバレーがへたくそだったから、レバーになった。
人食いブタの話はおじさんから聞いたらしい。ふつうのブタのなん倍も大きくて、小さい子供は丸ごと食われてしまうそうだ。レバーがぼくにその話をしたのをシバ子が聞いていて、シバ子はおしゃべりだからすぐみんなに広まった。
チームがいくつかできた。チームフェニックスはしっぽをつかんだけど逃げられたと言っていた。とんこつ軍団は子供が食われそうになっているのを助けたということだった。
学校が終わると、ぼくたちユニコーンズは秘密基地に集まる。ユニコーンズはぼくとレバーとガネコの三人で、レバーのじいちゃんの山で見つけたタイヤのついてない車を秘密基地にしている。うしろの席がぜんぶ取られていて、中はけっこう広い。
「レバー、人食いブタ探しに行こうぜー」
「えーやだよー」
「だって勝てるのはレバーしかいないよ」
「なんでだよーこわいもん」
「レバーなら体でかいから、丸ごと食われたりしないよ。ぜんぶ食われる前に人食いブタが腹いっぱいで動けなくなったら、レバーの勝ちだ」
「ちょっと食われるのだってやだよー」
「大丈夫だよ、バンソウコウつければ治るんだから」
レバーはぶんぶん首を振った。体がでかいくせに、ほんといくじなしだ。
ガネコはいつものように機械をいじっている。ガネコの本名は金子なんだけど、メガネをかけてるからガネコになった。
「そいつまだできないの?」
ガネコはずっとロボットを作っている。名前はジェネシスにするかユニ丸にするかでもめている。
「あと二年半はかかるよ」
「ダメだよ! そんなにかかったら他のチームがやっつけちゃうじゃん!」
「そんなこと言ったって無理だよ。ふつうに作るんなら二年でいけるけど、腕飛ばしたりするならもう半年はかかる」
まったく! みんなぜんぜんダメだ。
ピピピピピ、とタイマーが鳴った。さっきはレバーが行ったから、今度はぼくの番だ。トランクを開けて、秘密基地の外に出た。
「トンカツースブターブタノマルヤキー」
手を三回たたく。そうすれば三十分は人食いブタは寄ってこない。あと二年半なんて、それまでに何回これをやんないといけないんだ。
夕日が沈みそうだ。そろそろ、帰らなきゃ。
草むらに落ちて燃える提灯を見ながら、彼女はいった。
「ねえ、キスしてみようか」
「ヴァイオリンを弾く友人がいて、今日、演奏会があるんだけど、花でも贈ろうかとおもって、なにかいいのあるかな?」
「ユリなんていかがでしょう?」
「あー、きれいだね」
「今日の一番ですよ」
「じゃあ、それにしよう……あ、でも、こっちのカーネーションもいいね」
「きれいでしょう。でも、お母さんにあげるんじゃないでしょう」
「まあね。バラもあるかな?」
「もちろん」
「じゃ、カーネーションとユリとバラだけでの花束を作ってよ。ユリがメインで」
「そんな変な花束……」
「まあ、そんなこといわずにさ」
できあがった花束は女の子の努力の甲斐もなく、なんとも奇妙な代物になっていた。
「このようなものでよいでしょうか」
宿題を先生に提出する小学生のように女の子はおずおずと花束を差し出した。
「いいよ、いいよ、上出来だよ。じゃあ、こんど飯でも食いにいくかい? 二人で」
「はい!?」
「いや、いいんだ。あー、ちょっと聞くけど、君、テート・ギャラリーは知ってる?」
「は?」
「あー、いいんだ。変な客ですまないね。いくらだっけ、それ」
「もしもし、わたしだけど、あなたでしょう。花束くれたの」
受話器をとると彼女の声が響いた。
「あー、なんのことだか」
「とぼけないで。芳名帳に『幼なじみ』って書いたんでしょう。受付の人にきいたわ」
「赤ん坊のころから八方美人だった君のことだ。何人もいるだろう、幼なじみは」
「名前の欄に『幼なじみ』って書いて、あんな花束くれるのは、あなたしか考えられないわ。せっかく来たらなら送別会にも来てくれればよかったのに」
「会いたくないヤツにも会わなきゃいけなくなるからな」
「また、そんなこといって……。三年は会えなくなるんだから、空港には来てくれるんでしょう?」
「行けたらな。三年って……正月には帰って来るんだろう?」
「そうなんだけど旦那の仕事もあるから……ねえ、こっちにおいでよ、住む所、テート・ギャラリーが近くにあるんだよ。知ってたんでしょう。だから、あんな花束を」
「あー、昔、提灯、燃やしちゃったことがあっただろう」
「うん、覚えてるよ。海老原さんとキャンプにいったときよ。小学三年のとき」
「あれをさ、思い出すんだ」
「楽しかったね」
「ああ」
「ねえ、知ってる? あれから二十年も経ったのよ」
「ああ、はやいね」
「そうよ」彼女はいった。「はやいのよ」
案内されるとドイさんは既に来て座っていた。ドイさんは猫だった。課長から聞いた通りだ。
「やあ、君がミキ君かい」
ドイさんが右前足を僕に差し出す。握手をする。ドイさんの肉球が心地よい。
「さて、ミキ君。今度の新製品なんだが」
ドイさんがすぐに仕事の話をしだしたので、僕は急いでノートパソコンを開きドイさんに向けた。猫と話すのは初めてなので、何から切り出せばいいのか迷う。一匹と一人は画面をのぞきこんでいたが、こういうときに限ってパソコンはなかなか起動しないものでお互い無口になった。僕は気まずくウィンドウズのロゴなんか眺めていたのだが、ドイさんは誘いをかけてきた。
「今晩どうだい? ミキ君」
左前足を口の回りでくいくいと動かす古典的な仕草だ。僕はすぐに同意した。取引先のお誘いだから義務的にというわけではなく、純粋に僕の好奇心からだ。
話す猫が発見されたということぐらいは、テレビや新聞で盛んに取り上げていたので世情にうとい僕でも知っていた。今目の前でその話題の主が歩いている。ドイさんを見失わないように、僕は夕暮れの人ごみをかき分けている。四足歩行しているとやっぱりただの猫に見える。すると僕は猫を追いかけるさえない青年ということになるのだろう、きっと。
ドイさんお気に入りの店に入った。カウンターに並んで座り、生ビールを頼む。
「猫がしゃべることに驚いたかい?」
「いえ、ニュースとかで知ってましたから」
「じゃあ、私が地球の生まれじゃないってことは?」
ドイさんはいたずらっぽく私を見ているが、その一言で僕はすっかり混乱してしまった。メディアには厳しい情報統制が敷かれているのかもしれない、そんなことを考え始めた。
そこにジョッキを持ったママさんがやってきた。笑顔で言う。
「つっちい、また若い子からかっているんでしょ」
ドイさんはえへへと笑う。
「つっちいが宇宙人なわけないでしょ。どこから見たって猫なのに」
彼女は自信たっぷりに言い放つ。ドイさんがさらに笑う。何となく一緒に笑うことができず、僕は少しうつむいて一口だけビールを飲む。炭酸がやけにきつく感じる。
突然僕はドイさんに背中を叩かれた。
「ミキ君、猫背になっているよ」
姿勢を正す。
「ところで君、彼女は? うちには年頃の娘がいてね……」
ドイさんの顔は本気だ。ママさんは僕に目配せしている。今日の商談よりも手ごわい難題が今僕に課されようとしている。
あの日は雨が降っていた。
目を覚まし、歯を磨いて顔を洗った。時計は午前9時20分をさしていた。体操しようと思ってアパートの扉を開けると小包が置いてあった。持ち上げてみると、切手は貼っていないし、運送会社のマークもついていない。宛先は間違っていないけれど、名前は別の誰かになっている。
大家さんに電話で問い合わせた。「ああ、彼は今から10年前に君の部屋に住んでいたんだよ。フリーのカメラマンをしていると言っていたな。わしの写真なんかも撮ってくれた」と大家さんは言って「交通事故で亡くなってね」と付け足した。
礼を言って電話を切り、小包を押し入れになおし、昼から夕暮れまで机に向かって仕事を片付けた。短編小説を書くことが仕事で、副業にバーテンダーのアルバイトをしている。
夕食の時間が近くなったので冷蔵庫を開けるとごぼうと牛肉とえのきだけしかなかった。仕方なく牛肉ごぼう御飯をつくることにした。米を研ぎ、だんだんひどくなっていく雨の音を聴きながらごぼうの皮を剥いてえのきだけの根元を切り落とした。
このアパートを借りて4年になる。風呂なし、六畳、四畳半、それに台所がついて2万円という家賃が気に入っているが、世間の人は風呂なしの木造住宅を好まない。住みはじめてから今日まで、アパートに自分しか住んでいないこともあって、まるで持ち主のような気分になっていた。だが、かつてこの部屋にも人が住んでいたことがわかった。交通事故で亡くなったカメラマンも、この台所で米を研ぎ、包丁を握ったのだろうか。
食事を終えると眠気に襲われて、寝た。真夜中にすさまじい風の音で目が覚め、それから眠れなくなってしまった。しかたなく台所へむかいコーヒーをいれた。
不意にあの小包が気になった。沸き起こる好奇心を押さえられなくなって、開けることにした。
中には108ピースのジグぞーパズルと108ピース用の額縁が入っていた。コーヒーを飲みながら組み立てることにした。
新しい友人が来るたびに、このパズルの話をする。いったい、誰が何のためにパズルを届けてくれたのだろうか、と。
真相はわからない。ただピーターラビットのジグゾーパズルを送ってくれた誰かに感謝したい。その晩パズルを組み立てながら、「なんだ、人生なんて108ピースのパズルじゃないか」と思ったことを今でも覚えている。その日まで、小説家として生きていく自信がなかったから。
・返信拒否には理由がある/のの字の字
掲示板での騒動の割に、まとまった話を書く人だなという印象。タイトル「返信拒否」で、掲示板での不穏な雰囲気を漂わせながら、実は中身は「携帯電話にまつわる人間ドラマ」という大人しい内容で、ところがそれが実は囚人同士の話である、という二転三転の展開をした挙句、読み終わってみれば不思議な統一感がある。ついでに掲示板での「あの人」を囚人役に仕立て上げ、最後は殺してしまうという地味な復讐とかやっている所も面白かった。
・桃源郷の女/朝野十字
ある女性の切ない物語を連想させるタイトルに反し、徹底的に暴れまくる主人公のギャップが面白い。差別制度と言えばインドとか日本とか、まあどこの国の歴史にも色々とあるのだろうけど、とにかくそういった「被差別的な立場」における辛さ暗さのようなものが、彼女には全く感じられず爽快だった。彼女が足を踏み入れた国々がことごとく滅亡してしまう辺りなど、「都合が良すぎないか」と思わせる反面、すんなり納得させられるパワーが文章にあった。
・ただいまゲルマン移動中/妄言王
タイトルはパクリである。しかしなかなか面白い。ゲルマン系人が怒り狂って卍を復活させそうなほど面白い。まさかゲルマン系人が「短編」など読んでいないだろう、と好き勝手に書いている節があるしゲルマン人を冒涜しすぎかとは思うが、やっぱり面白い。でもタイトルはパクリだったりする。
・ソーリー、ソーリー/野郎海松
身体中がむずむず痒くなりながら読み進めていたら、ラストで思わず後ろを振り返ってしまい、ちょっと背筋が寒くなった。書き手として意表の突き方を熟知している感じがする。話の内容がタイトルにどう結びついているのか初読では僕は分からなかったのだけど、読み直してみて、なるほど「例の事件の関係者の謝罪」につながっているのか、と。全体的に組み立てが上手いなあという印象。
・カズヤの真相/紺詠志
これも背筋が寒くなるラストだった。相手を倒産に追い込むと同時に自分も利益を吸い上げる「倒産屋」と違い、相手はただ主人公カズヤを破滅させる為にだけ行動している節があり、これは商売の意図が無い(=自分の快楽を追求)と思いきや、ちゃっかりラストでカズヤの「残りカス」を絞る様な形で利益を得てしまっている。本当に商売として成立してしまいそうな所が恐い。
午後からの雨は、本降りになった。一応傘は持ってきたけれど、降りがおさまるまで少し待とうと思う。職員室には、同じような考えの教員が何人かいる。皆、暇つぶしに仕事をしていた。
窓の向こうに生徒達が見えた。傘を持っている者、持っていない者。生徒がひとり、校舎の端で迷い、そして鞄を頭に、駆けていく。私はそれを目で追っていた。
隣の席の国語教師も窓の外に目を向けている。参ったな、という困り顔。傘を持ってきていないのだろう。駅までなら送っていってもいいのだけれど、そう気が合うひとではないから少し迷う。私はほとんどやることをなくし、ただぼんやりと窓の外を眺めている。
窓の外、ひとりの女生徒に目を引かれた。彼女は特別美人というわけではない。何をするでもなく、でも彼女は存在感があった。彼女は同じ生徒達からは妙に慕われていたが、私達教師からは妙に嫌われていた。
……いや、怖がられていた、のほうが正解だと思う。私も彼女が怖い。よく一人でいて……、彼女はひとりが怖くない人間なのだろう。問題児、と誰かが言っていた。
校舎の端で、彼女は足を止める。雨が降っている。その雨を、彼女は静かに見つめる。傘を持っている気配はない。別の女生徒が彼女に声をかけたが、彼女はにこっと笑って、ただ手を振った。
手を差し出し、雨に触った。
微笑み、それから、すっと歩き出した。
雨は彼女を濡らす。服を濡らし、ブラウスとTシャツ越しの下着を透かす。彼女はかまわず歩いていく。憂鬱そうな足取りではない。むしろ楽しそうだ。少し顔を上げ、雨を見つめ、また少し微笑む。歩いていく。鞄を掲げもしない。たぶん、それが彼女のあたりまえなのだろう。
「傘、持ってます?」
「え? あ、いえ。……どうしようか」
「じゃあ駅まででよければ」と私は軽く傘を持ち上げてみせる。
「え……、えーと、じゃあ、お言葉に甘えて」
私はもう、彼女のようにはなれないだろう。彼女のようになりたいとも、もう思えない。
だから、と言うわけではないけれど、私は隣のひとを巻き添えにして、傘をさして帰ることにした。
私の祖母の母親という人は、七つの年から子守に出されて、学校へは行けなかったそうである。
奉公先は、当時としては当然だったのかも知れないが、思いやりのない家であった。たとえば、家族が皆でお八つを食べるという時にも、子守だけは赤ん坊を背負わされて外に出されてしまう。
食べ盛りの頃にそういう経験をしたので、嫁に行って小作人・手間取を使う立場になってからは、彼らによく気をくばった。
──よそに働いてる奴はな、何時でも、食いでと思ってるもんなんだ。
と、法事の引出物に大きな落雁、七つ八つも貰うと、一個を半分にして、幼い祖母に持って行かせるのであった。子供たちはまだ小さいので、同じ一個を四つに割って与えられた。総じて、
──うちで働いてくれてる人は、大切にしねくてなんねんだぞ。
という考えだった。
手間取の中に、祖母の一つ年上の少年が居た。自分は毎朝田圃へ行くのに、祖母は学校へ行くのを見ながら、お前は良いなあ、といつも言っていた。
やがて彼は兵隊に取られ、帰って来て、闇屋になった。物の無い時代で、大変儲かった。ある日突然、隣村へ嫁いだばかりの祖母の所へやって来て、ちょうど麦刈から帰ってきた祖母が驚いて、あやあ、あんだ何しさ来たの、と問うと、
──お前、誰か、会いで人ねえか。
しみじみと言うので、ああ、俺、姉ちゃんに会いでなあ、と同じく少し離れた在所に嫁いでいた姉を懐かしむと、
──ほしたら、俺が連れてってやっから。
と事もなげに言う。
──今から行ったら、晩げになってしまうもん、ここの人に怒られてしまうっちゃ。
──車で行けば良いべ。
──車なんか、どこに有んの。
──俺が運転すんのさ。
彼は車の免許を取って、当時ではごく珍しい自家用車まで持っていた。田圃の中を飛ばして、昼休みのうちに向こうに着くと、
──俺は一寸用が有っから。一時間したら、また来る。
と彼はどこかへ行ってしまった。
「姉ちゃんも、あいやあ、お前、なじょして来た、って、んっと喜んでくれて、二人でモンペ穿いたまま、縁側に座ってお茶飲んでお話して……あん時の事ァ、死ぬまで忘れねと思うなあ」
私が、きっとその人は、婆ちゃんの実家で良くしてもらった事を恩に感じていたんでしょうね、と訊いてみると、んだべなあ、と肯いた。
本当はもっと美しいおもいが秘められていたのかも知れない。しかしそれは物書きの余計な妄想というものである。私は口にするのを憚った。
夕方の商店街を、母親と誠が手を繋いで歩いて行く。
鮨屋の前に差掛かると、誠ははっと身をこわばらせて母親の前に回り込み、腹部に顔を伏せて抱きついた。
鮨屋の店先には、大きなセントバーナードがロープに繋がれてお坐りをし、真っ直ぐ誠を見詰めていた。
母親も一瞬身を竦めたが、すぐ置物の犬と気づいて、
「おばかさんねえ、あれはただの置物の犬なのよ」
と誠を振り放して犬の傍に寄り、頭を撫ぜてやる。
「ほれ、撫で撫でしてみなさい、何もしないから。駄目でしょう、来年は小学生だっていうのに」
いかにも親しみ深く犬を撫でつける母親を見ると、誠は安心して犬に近づき、おずおずと手を出す。なるほど頭はつるつるして硬く、生きものの血が通ってはいなかった。
母親は誠の手を取って、家路を急いだ。彼は犬に思いを残して振返りつつ、遠ざかって行った。
二、三日して母親と誠は別な商店街を歩いていた。眼鏡店の前に置物のコリー犬が澄ましてお坐りをしていた。
誠は咄嗟に後込みし、呼吸を整えてから二歩三歩と踏出して行った。それでも、すぐ頭を撫でるまではいかなかった。
「触ってご覧、おとなしいから」
言われて、すごすごと手を伸ばす。コリー犬は撫でられるままに、頭に力を溜めていた。それが嬉しがっているようにも見えた。
「そろそろ帰るわよ」
母親に言われるまで、誠は犬を撫で続けていた。
あくる日、誠は母親の目を盗んで独りで犬を探しに出かけた。よく母親と行く商店街を経巡っているうちに、風変わりな黒い犬に出くわした。お坐りしているのではなく、四足を地面について、一箇所を鋭い目で睨んでいる。その格好たるや、グロテスクで頑健そのもの。
誠は四足で立つ置物の犬は初めてなので、気が気でない。しかも相手はいかつい貌つきのブルドックなのだ。犬は誠などまるで眼中にないかのように、斜め向こうの建物の陰のほうへ目を注いでいた。
犬の背中にそっと手をおくと、激しく皮膚が痙攣した。これには誠のほうがびっくり仰天。あまりのことに彼は手を放すのも忘れていた。
犬は凄まじく唸って誠の手を咬みにきた。牙が柔らかな肉に食込み、彼は声も出なかった。
犬の口から手をもぎ取ると、彼は商店街を帰路とは逆の方向へ狂ったように駆出した。
喚き声に道行く人々が振り返ったときには、すでに子どもの姿はなく、路地から路地へと平衡感覚を失った生き物となって走り込んで行った。
宅配便で届いた『現地直送夕張メロン』。二千六百六十発、鋼球遊戯の戦利品だ。
包装を解き木箱を開けると、甘い香りが溢れ出る。まだ少し青臭く、食べごろは二、三日先だろう。丁字の蔓は正宗の兜を連想させ、王者の風格をたたえている。俺は神々しい球体を丁重に籐篭に移し、ローボードに載せた。
馬之助はテレビの前に座り込み、夢中でテトリスをやっている。脇の屑篭はすでに山盛りで、こぼれ落ちた煎餅の小袋や、丸めたティッシュが周りの畳に散乱している。
こいつはバカだし、デブで蓄膿で花粉症だから、どうせ高級メロンの高貴な香りなど分るはずもない。
「ひょうひゃん、ひょうひゃん」
バカが前を向いたままで手招きをしている。俺は四つん這いで前に回りこみ指差す方を見た。
鼻から何かが出ている。まだらな灰色で鈍い艶があり、手触りは豆腐のようで饐えた匂いがする。どうやら脳味噌のようだ。
「吸い込んでみたのか」
俺の問いに馬之助は口を開けたまま頷き、身体を伸ばして鞄を引き寄せると工具ケースを取り出した。
「ふぁふぇふぇ」
俺にドライバーを突き出しながら自分の頭を指差している。覗き込むと前・後頭骨の境目にネジが六本付いていた。
「これを開けるのか?」
そうだ、そうだと頷いている。
ドライバーを差し込み左に回すと、ネジはキュキュと軋みながら外れた。ティッシュにネジを並べ、頭の蓋を開ける。脳味噌からは酸っぱい匂いが漂い、方々で白い物が蠢いている。試しに指で押すと、バカは電極を差し込まれたカエルみたいに、手足を反射的に伸ばした。
鼻の裏あたりを適当に引っ張ったら、鼻から垂れ下がっていた脳がずるりと吸い込まれた。
「あぁ、スッとした、正ちゃんありがとう」
風呂上がりみたいな顔で笑っている。
「お前の脳味噌って、なんでひとかたまりになってないの」
「あのね、それホルモンのしま腸だから」
消化器官出身か、どうりで食欲に底がないわけだ。
「ところで、脳味噌腐ってたぞ」
俺はそういってから失言に気づいた。馬之助がローボードの上をうっとりと眺めたからだ。
「バカ、メロンが似合う顔か、身の程を知れ」
俺は馬之助とメロンの間に割って入ったが、頭の鉢を開けたまま真顔でにじり寄ってくる。こいつはバカだから力は強い。
なだめすかして、替わりの脳味噌を買ってやることで諦めさせた。
いま『正直ストア』のレジには、カリフラワーを手にしたバカが並んでいる。
「こんばんわ。今日も良い天気だね」
「ええ」
「で、何か面白い話は考えてきた?」
「幾つか」
「聞かせて」
「自信作はこれかな」
「どんなの?」
「人が沢山死ぬ話」
「ふむ」
「街も人も燃えて、全て燃え尽きて、みんな居なくなってしまう話」
「ふむ」
「どう?」
「良いかもね」
「そう?」
「じゃあ早速撮りに行こうか」
「ええ、行きましょう」
二人はビニールジャケットを羽織り、街へと出掛けた。ジャケットは透明で、手にしたビデオカメラは真っ黒だった。ジャケットはフランス古着、二着で四千円、カメラは友達から貰った古い型のもので、ひどく大きかった。
「ここらで良いかな?」
「そうだね」
彼らはビル群の前に立ち、見上げた。
夜空の真ん中に向かって、冗談みたいな規模で伸びている灰色のビル、ビル、ビル。
その中に彼らは一本のマッチを投げた。
細く火のついたマッチが壁に当たり、炎があがる。炎は呆れるほど簡単にビルを飲み込んでいく。夢見るように簡単に、ビルを赤く染めていく。
「燃えているね」
折からの突風が炎をメリーゴーラウンドみたいに渦巻かせた。
大きく音を立て、ビルが一本崩れていく。
「ああ」
彼は答え、カメラを構える。
「何でだったの?」
二人は並んで座っている。映写機はかたかたと回っている。スクリーンには彼らの映画が映っている。
花だ。燃えていく花。
「何でビルを撮らなかったの?」
「さあね」
「退屈な映画ね」
「ああ」
「こんな映画が、賞を取るとはね」
彼女の手からトロフィが滑り落ちる。かたん。小さな音が響く。
「退屈な映画ね」
花はいつまでも燃え尽きることが無かった。背景には何かが、メリーゴーラウンドのような何かが、せわしなく動いている。花は燃え続けている。
あの夜の火災では、誰一人死ぬことはなかった。焼け跡は花畑になり、今では大勢の人が日曜毎にそこへ出掛ける。
「泣いてる?」
「そんなこと無いわ」
「そう」
「そうよ。あなたこそ、泣いているんじゃないの? 後悔しているんじゃないの?」
「そうかもしれないね」
「ねえ」
「何?」
「セックスでもしようか」
「そうだね、でもその前に」
「その前に?」
「映画でも観に行かないか?」
彼らがその後どうなったのか。それは、数本の映画を撮った、というだけに留めておこう。以下に彼らの作品の幾つかを記す。興味があったら探してみてはどうだろうか。
花(03年)
蛇の試行(04年)
メッシュメッシュメッシュ!(07年)
また燃えてる。家が燃えてる。あれはなんだろう? 双子みたいに寄り添ってる、あの黒い塊はなんだろう? 近寄って覗いてみる。人だ。伯父さんと伯母さんだ。僕を大切に育ててくれた、伯父さんと伯母さんだ。
でも、どうして? この家に火をつけたのは僕。この家が燃え尽きてしまえと願ったのは僕。焼け爛れた家の前、一人泣いてるのは僕。どうして? どうして?
……いつもここで目が覚める。目を覚ましてしまう。あの後、僕はどうなるんだろう? 分からない。僕には想像もつかないんだ。だって、僕は伯父さんと伯母さんが大好きなんだもの。パパとママとは大違いだ。伯父さんと伯母さんはとても優しい。僕をぶったりしない。僕をストーブに押しつけたりしない。僕を柱に縛り付けたりなんか絶対にしない。
パパとママなんか大嫌いだ。僕を苛めるだけ苛めて、僕一人残して死んじゃったんだ。僕はパパとママなんか全然好きじゃなかったんだ。だからちっとも悲しくなんかないんだ。いい気味だよ。僕は優しい伯父さんと伯母さんに引き取られたんだ。僕にはもうパパとママなんか必要ないんだ。
――でもどうして? どうして僕は夢を見るの? この家と伯父さんと伯母さんが真っ黒な灰になる夢を。いったい誰が望んだの? こんな夢、誰が望んだの?
コンコン
あ、伯父さんと伯母さんだ。待って、いまドアを開けるから。ああ、やっぱりそうだ。おはよう、大好きな伯父さんと伯母さん。
なんて優しい瞳なんだろう。冷たく光ってる。
なんて優しい顔なんだろう。薄ら笑いを浮かべてる。
なんて優しい手なんだろう。僕を何度もぶったりストーブに押しつけたり柱に縛り付けたりした手。
あ、やめてよ!? 僕をぶたないで!! どうして!? どうして僕をぶったりするの!? どうしてそんな嬉しそうな顔をするの!? あんなに優しかったじゃないか!! ねえ、やめてよ!! ねえ――
僕はまた夢を見た。燃えてる。家が燃えてる。あれはなんだろう? 双子みたいに寄り添ってる、あの黒い塊はなんだろう? あれはなに? ねえ、教えてよ。誰か僕に教えてよ。優しい伯父さんと伯母さんはどこに行ったの? どうして今日は夢が覚めないの? 焼け爛れた家の前、どうして僕は泣いてるの? 教えてよ。お願いだから、教えてよ―――僕の優しいパパとママ。