# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 妻を返せ | のの字 | 1000 |
2 | バイバイ、スキャットマン | はっすぃ | 996 |
3 | 腐ったご飯 | 中里 奈央 | 996 |
4 | エレベーター | 林徳鎬 | 988 |
5 | 有閑社員 | も。 | 1000 |
6 | ダークネス | マーシャ・ウェイン | 996 |
7 | (削除されました) | - | 767 |
8 | メロンの味 | 宇加谷 研一郎 | 928 |
9 | 受生謳歌 | 陽愁 | 988 |
10 | きみのポワゾン | 模造人間P | 1000 |
11 | 地獄のパン食い競走 | Nishino Tatami | 999 |
12 | 月光石の秘密 | 朝野十字 | 1000 |
13 | 神様ヘルプ! | 五月決算 | 1000 |
14 | 想い出にする前に | 夕月 朱 | 1000 |
15 | 嫁月余話 | 野郎海松 | 861 |
16 | 千文字の永遠 | P | 1000 |
17 | カニ・プラ・マンション | 山川世界 | 1000 |
18 | 干渉 | 戦場ガ原蛇足ノ助 | 1000 |
19 | トモダチ | 西直 | 957 |
20 | 赤い帯 | 弥一 | 958 |
21 | 落としもの | 赤珠 | 1000 |
22 | フリー | せぷ | 560 |
23 | 手術 | シャクハッチ・マスカキコフ | 678 |
24 | ファミリーレストランで | (あ) | 1000 |
25 | (削除されました) | - | 1000 |
26 | めざせ、3択のクイズ王! | 妄言王 | 1000 |
27 | 踏切 | 曠野反次郎 | 454 |
28 | 2-C | ジョン・フリッパー | 1000 |
29 | PARADOX | 舘里々子 | 997 |
30 | 欅並木の芽吹く街にて | 海坂他人 | 1000 |
31 | 閑計 | 西藤琴 | 1000 |
32 | 昼の月 | ワラビー | 968 |
33 | 古城にて | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
34 | フロントガラス | 逢澤透明 | 1000 |
鉄の階段を二階へ登り、突き当たったところにドアがある。中年男がひとり、そのドアを連打しながら、大声を上げていた。古い木造アパートの建物全体が揺れるような勢いだが、時間帯のせいか、なにごとかと気にかける住人もいない。
しばらくするとドアが開き、内側から異様にやつれた青年の顔が覗いた。何の用ですか、と問う声にも力がない。
中年男は強引にドアの中に押し入った。夕日が窓から差して、部屋全体を赤く染めている。一間しかない狭い部屋だが、二三の家具が置いてあるだけで、恐ろしく殺風景だった。
「妻を返せ、妻はどこにいる。今度こそはお前と別れると約束して、ここへ来たはずだ。それなのに、いつまでも出てこないのはどういうことだ」
中年男は青年に掴みかかるような勢いで叫んだ。青年は顔を歪めるだけだった。
「私を裏切った妻を許すわけにはいかないが、もっとも許せないのは、妻をたぶらかしたお前だ。そこをどけろ」
「ご主人」と、青年がやっと口を開いた。
「お気持ちはわかりますが、僕たちはあれから一度も逢っていません」
「嘘をつくな。この部屋に妻が入ったのは間違いない。出て来い! これ以上私を騙そうとするなら、首を締め上げてやる」
言いながら、男は狭い部屋の中を見渡した。勝手に襖を開けたり、トイレを覗き込んだりしたが、人が隠れる場所はまったく見当たらない。
窓の外は小さなベランダがあって、物干し棹が渡してある。幾つかの洗濯物が干したままだったが、まさかそこから逃げたようには思えなかった。ずっと、この下で待っていたのだ。たったこれだけの空間と時間のあいだで、人間ひとりが消えるなんてことはありえない。
が、結局男は妻を見つけることができなかった。
「気が済みましたか」
仕方なく部屋を出て行く後ろから、青年の皮肉な声が聞こえてきた。男は歯軋りしながら、アパートを出た。
すでに夕闇が迫っている。古いアパートの周りを包む木々がざわざわと鳴って、生ぬるい風が男の頬を撫でた。
ふと、さっきの部屋のあたりを見上げると、例の青年が洗濯物を取り込んでいるのが見えた。大きなコートを抱えるようにしてロープを解き、重そうに降ろした。
ここで妻を待っていたとき、あそこにコートは吊るしてなかったはずだ。
まさか…。
いや、もうどうでもよい。どちらにせよ罰が当たったのだ。
男はすでにこの時、妻と再び会えない事に苦痛を感じなくなっていた。
「でぇでも、こぉ今夜は楽しかったね!」
「はははい、みみみみんな、イイ感じで酔ってましたね!」
深夜の喫茶店は、まったりと話し込むカップルや、深夜まで家をほっぽり出してふらつく上品なマダムたちで満席だった。鈴木さんは陽気に笑ってこう言った、時代は変わったんだね、と。
「じぃぃ自分らの頃は、うまく喋れないことで物怖じする子たちばかりだったけど、そぉそのう、中学の頃、教科書の朗読が苦痛でねえ、生きていくのも疲れていたよ、今思えば、その日は別に、がぁ学校、ズル休みしたって良かったんだよね。天罰なんて、なかったんだよねえ。教室の机で一人、真面目な十字架を、背負っていたね」
「ぜぜぜんぜん“朗”読じゃないですよね、どどどこが朗らかなんだろう!」
そう言って僕達は笑いに笑った。
夜の街を歩こう、そう叫ぶウキウキ気分の鈴木さんと一緒に、僕は最後の時を付き合うことに決めたんだ。深夜の目抜き通りが派手な暴走族のパレードみたいになっていて、その輝きを見て、感動した。歩道に座り込んで虹色の携帯を点滅させる南国姿のコギャルたち、それを見て鈴木さんが、
「こぉこのコたちは、どこから来て、どこへ行くんだろう♪」
と、ふざけて訊いてくるので、僕も笑ってこう叫び返した。
「きききっと、このカワイイコ達なら気持ちよくこここう答えてくれますよ、どこからも来ず、どこへも行かないんだ、うせろ!って♪」
「きょぉ今日は最後に、みんなに会えて嬉しかった! もう僕らは、誰かにわかってもらおうと、必死になって理解を迫ることもやめにできるし、重度や、きょぉ境遇や、世間のせいにするのも、やめにできるんだよお!」
道ばたのゴミの中で自分の自転車を探す僕に向かって、鈴木さんがそう叫ぶや否や、
「うっさいんだよ、てめえら!」
と、背後でヤンキー達の声がした。
「最悪です! ボボボ僕のママチャリ、ボボボボコボコです!」
自転車を見つけてそう叫んだ僕は、途端にヤンキー達の蹴りを喰らってよろめいた。振り返ると猛ダッシュで走り去る鈴木さんの後ろ姿、そして最後の挨拶を聞いたんだ。
“にぃぃぃげろぉぉぉぉ!”
素晴らしさのあまり髪の毛が逆立った。漲る力を覚え、僕はネオン街へ駆けだした。
「待てや、この野郎!」
ヤンキーよ、また会おう! 途中すれ違った風俗嬢らしき女の人の、シャンプーの香りが凄く良くてウットリし、僕はなぜかアリガトウと口走っていた。
洋子は、腐ったご飯か腐りかけのご飯以外、食べたことがなかった。
母がご飯を炊くのは一日に夜一度だけ。炊きたてのご飯は湯気の上がっている炊飯器の中から、まず父の縞模様の茶碗、次に兄の青い茶碗、母の花柄の茶碗へと順に盛られていく。そこで母の手は決まって一度止まり、残りご飯を入れるための専用のアルミの小鍋に移る。そして、これも残りご飯専用の古いしゃもじで、冷えたご飯が洋子の幼い頃から使い続けている小さな幼児用の茶碗に盛られるのだ。
朝は、前夜に炊いたご飯がジャーに保温されているので、夜と同じ手順が繰り返される。母と二人きりの昼も同じだった。
冷えているだけならまだ良い。冷たくて硬くなっているだけのご飯なら食べるのには苦労しない。しかし、臭いがしたり粘ついたりするご飯を食べるのはつらかった。でも、今食べてしまわなければ、残したご飯は翌日の朝食に出る。そのときには臭いや粘つきはもっときつくなっている。それを食べることができなければ、また次の食事にそのご飯が出される。だから、洋子はなんとしても出されたご飯をその場で食べてしまいたかった。
梅干やふりかけでごまかしたり、味噌汁と一緒に飲み込んだり、洋子は子どもなりに色々な方法を考えて、腐りかけのご飯を食べた。鍋に入っている分のご飯さえ食べてしまえば、自分も炊きたてのご飯を食べることができるのだと無理に自分をだまし、ご飯を飲み込んだ。しかし、炊いてから一日過ぎたご飯は、洋子の食べる分としてアルミの小鍋に移される。残りご飯は、食べても食べてもなくなることは決してないのだった。
食事中にはテレビは消され、一切の会話は禁止されていた。うっかり食器が触れ合う音を立てたり、正座に疲れて姿勢をくずしたりすると、母の平手が容赦なく頭や顔に飛んでくる。
洋子にとって食事とは、強い緊張感を伴う儀式でしかなかった。
小学校に上がって初めて給食を食べたときは、その美味しさに驚いた。そして、洋子にとっては豪華なご馳走としか思えないその給食に、他の生徒が文句を言ったり残したりするのを見て、もっと驚いた。
腐りかけのご飯を食べるつらい儀式はその後もずっと続いたが、高校を卒業し、家を出てからは、洋子はどんなに生活が苦しいときでも、ご飯だけは毎食必ず炊きたてを食べることにしている。
ほんの少しでも古いご飯は、胃が受け付けない体質になってしまったのだ。
いまでは忘れられた計画について。
歴史上のあらゆる思想や方法論がそうであったように、この計画も科学者達の害のない想像と好奇心から始まった。
ちょっとした実験が、小さな研究室で行われた。箱が置かれた。研究室全体を覆うような、大きな箱だ。扉が一つ、なかは真っ白。箱のなかにある照明のせいで、あまりにも明るく、こっちの壁からあっちの壁までの距離もよくわからない。とにかく真っ白だ。
そこに、弦の切れたギターを置いた。白い箱の真ん中に。
美しかった。
科学者たちは仮説どおりの結果に喜んだ。これで他のものでも成功する可能性がでてきた。続けて臓物、乾いた馬糞の順に置かれた。
やはり美しかった。箱のなかでは、どんなものでも美しく見えた。
数ヶ月の後、人体実験に進んだ。まずは赤ん坊。次に成人病の男性。最後の被験者は酔っ払いだ。酒壜を持たせるかで意見が割れたが、結局持たせることにした。壜を持ってこそ「酔っ払い」だっていうのが理由だったが、このころには皆相当に自信をもっていたんだろう。
そしてその通り、きれいだった。美しかった。
研究の結果がどこかに報告された。
すると意外なところから命令が下り、海沿いのホテルで、ある計画のための予備実験が行われることになった。
その日、酒と薬に汚れたロックスターは急いでいた。早く部屋に戻りたかったからだ。
エレベーターの扉が開くと、中は真っ白だった。なにもない。階数表示も。でも疲れていた。記録にあるとおり、彼は疲れていた。だから文句は言わずに乗り込んだ。エレベーターは降りていった。最上階のスウィートルームからどんどん遠ざかる。下りの途中で一度開き、一人の女性を乗せた。
その狭い真っ白な箱の中で実験結果を支持する事実が確認された。
降りて行くってときに、天にも昇る気持ち、記録にはそう書いてある。
この理論はその後あらゆる分野に応用され、より大きな計画に取り込まれた。計画は詭弁的に対象を拡げ、さまざまなものを損なった。ある時には他の国で人を殺した。そして最後の侵略が失敗に終わったとき、計画と一緒に、この理論も葬られた。
敗れ去ったものに関わるものすべてが否定されるのは歴史の教えるところである。計画の中核である白い箱の持つ力は、今では語られることすらない。
しかし、忘れてしまうのは、あまりにも惜しい。それはただの美しさだったのだから。
五月中旬の月曜日、珍しく早く目を覚まし、清々しい気分で出社した。金曜は有給休暇を取ったから久々の出社だ。三月までは月曜といえば憂鬱な曜日だったが、月・水・金だけ出社すればよくなってからは、月曜が憂鬱だと感じることもなくなった。閑散としたオフィスに入ると、私の部署には今年の新入社員がいるだけだ。癖で挨拶をしたが、彼はこちらを一瞥することもなく黙々と仕事をしている。いつものことだ。彼は仕事に関係のない話は一切しない。
彼が入社する前、この部署には七人の従業員がいた。しかし、そのうち五人は彼が入社して間もなく解雇された。彼がとてもよく働くからだ。残ったのは私と片倉のニ人だけ。片倉は火・木・土しか出社しないから、今では顔を合わせることもなくなったが。
私と片倉が週に三日だけ出社すればいいのも彼がとてもよく働くからだ。彼は月曜から土曜まで毎日働いている。もちろん私達の給料は減ったが、彼はそんなことを気に留めるはずもない。私と片倉が解雇されずにすんだのは、他の連中よりいくぶん若いのとメカに強いからだが、私達もいつ解雇されるか分からない。他の部署もだいたい同じような状況だ。今年の新入社員は、皆本当によく働く。
私と片倉には特に決められた仕事があるわけではない。業務は基本的に全て彼が遂行するからだ。どうしても彼には対処できない場合だけ、私や片倉が対処することになっている。ごくまれに、「電子メールが読めない」と言ってくるが、たいていはメールに誤字脱字があるので、それを直してやればよい。それ以外の仕事といえば、彼の世話をすることだけだ。しかし、その必要もほとんどない。うわさには聞いていたが、ここまで仕事がデキるとは思っていなかった。そんなわけで、午前中はネットサーフィンをして過ごした。
昼休みになったが、彼は相変わらず黙々と仕事をしている。会社の食堂は閉鎖されたから、私はビルを出て近くのファーストフード店で昼食をとることにした。以前は昼時ともなればサラリーマンやOLで混み合っていたが、最近は閑古鳥が鳴いている。他の会社もウチと同じような状況なのだろう。
あじけない昼食をすませてオフィスに戻ったが、彼は昼休みの間もずっと仕事をしている。感心するほどよく働くが、一年もすれば彼も解雇されるだろう。その頃には、彼よりも高性能なロボットが開発されるからだ。
さて、午後は何をして過ごそうか……。
暗闇が恐い。本当の真っ暗闇が恐い。それはそういう暗闇を、まだ見たことも感じたこともないからだろうか。
時々そんな暗闇に近づいてみたくなる。「みたくなる」というのは、何かに誘(いざな)われている気がしているからだ。
家への帰り道のとある場所、終電の時間、誘いは突然やってくる。誰が決めたのか知らないが、決まってその場所なのだ。
その場所というのは、家の近くの駅とショッピングモールとを繋ぐ橋で出来た道、つまり橋の上だ。特に面白い場所ではない。自分にとって特別な場所というのでもない。でも今のところ、その時と場所だ。
道の両端には等間隔にいくつか電灯が立っている。「なんだ、暗くないじゃないか」とあなたは言う。しかしこの電飾溢れた都会において、「まったくの暗闇」に近いところはそう見つかるものではなく、ましてやそこを歩くとなると、身の危険もあるので、選択肢はおのずと少なくなってくるのだ。
そう、その道を歩く。それも目を瞑って。
道は広く、一家族が横一列に手を繋いで通っても、反対方向から同じ様に手を繋いでくる家族とは絶対にぶつからないくらいの幅は確保されている。なにしろショッピングモールへの道なのだから。
電灯は立っているが、終電の頃にはショッピングモールの明かりも全て消え、モールの名前とその一部であるSEIBUの電飾、そしてそのいくつかの電灯だけになる。目を閉じてしまえばそこに明かりのあることはわからない。
「誘われた」ことは自分が目を閉じていることでわかる。等間隔の電灯が消え、SEIBUが消え、橋が消えている。見える暗闇、見えない、暗闇。
そして一歩ずつ進む。
いつも思うのだけど、なぜあんなに恐いのだろう。一歩目二歩目は意識の外だが、三歩目、意識してしまったが故に眼球の奥の暗闇は一気に襲ってくる。足下がふらつく。四歩五歩、態勢を立て直そうとするが首の後ろが締めつけられる。両手がそわそわし、何もかもに耐えきれなくなる!
実を言うと、十歩以上目を瞑りながら歩いたことはない。臆病者なのだろう。
目を瞑るとそこに奥行きみたいなものを感じる。そしてその奥には「本当の暗闇」が潜んでいる。いつもはそんなものには気づかない。でも目を閉じれば、そこにそれをありありと感じることができる。実態はわからない。でもそこにちゃんとある。
時々、そういうものに近づいてみたくなる。誘われている。
(ボク達の居るとこに西光院君は来た。
「きみ誰?」
「西光院」
「お坊さんみたいな名前だね」
「お坊さんじゃないよ」
西光院君は頭もツルツルだったけどお坊さんじゃないし良いヤツだった。
「野球やろう」
ボク達のチーム対西光院君達のチームで三角ベースをやった。3−2でボク達が勝った。
「今度はサッカーやろう」
ボク達のチーム対西光院君達のチームでサッカーをやった。今度は負けた。みんなですごく遊んで面白かった。
次は何をしたい?と、西光院君が聞いた。ボクは富士山に登ってみたいと答えた。
ボク達は電車に乗って川とか海とかを渡って坂も登って富士山に着いた。富士山は真っ白な雲の上にあった。西光院君はお弁当を持って来てくれていた。ボクのお母さんのお弁当だった。卵焼きとそぼろとシュウマイと野菜とイチゴが入ってた。おにぎりは海苔とゴマとしゃけだった。西光院君と半分こした。お弁当を食べたらすっかり暗くなった。真っ暗になった。何も見えなかった。富士山も見えなくなった。暗闇の中でお月様のような顔で西光院君がボクに言った。
「ごめん。僕、まあ、お坊さんみたいなもんなんだ」
そうだボクは一人で死んだんだった。そう気づいた途端、西光院君がだんだん遠くへ行きだした。多分見えなくなるまでずっと遠くまで行って仕舞うんだった。お弁当ありがとうって言ったけどボクも、もう、だんだん消えていくみたいだった)
読経が終わると、近くの幼稚園の子供達の歓声が戻って来る。次々にやって来て、声は仏様をひと撫でして煤の天井を通り抜けていく。黒い屋根瓦も白い雲も青空も何でも通り抜けてずっと遠いところまで届く透明な響き。
西光院は香川県観音寺町の小さな古いお寺で、住職も年寄りでヨボヨボです。でも近所のみんながしょっちゅう立ち寄ってお掃除やお墓の世話をしてくれるいつもきれいで気持ちのいいお寺です。
メロンの味
床に反射した光で部屋が明るくて、とても午前6時とは思えなかった。徹夜で働いていたから気持ちも高ぶっていたのかもしれない。
7畳一間の部屋をふさいでいたベッドは、友だちにあげたばかりだった。代わりに貰った小さな緑色のクッションを枕がわりに寝転んだ。ふとももと両腕がフローリングの床にはりついて、そこだけひんやりした。風船の空気が抜けていくように、手足の疲れがとれていくのがわかって心地よかった。
手元にあったリモコンでCDコンポの電源をいれてジャズピアノを流した。買ったばかりで聴きなれていなかったせいか、自分の部屋じゃない気がした。
目が乾いてきたからコンタクトレンズを外そうと立ち上がろうとした。でもクローゼットと洗面所がとても遠く感じられて、気づいたら眠っていた。
目覚めると正午を過ぎていて、今日も講義をさぼってしまったと思った。急に歌いたくなって、ビートルズのCDをとりだした。予備校で習ったことがある「イエローサブマリン」をかけて、大きな声で歌った。
そのとき、壁を叩く音がした。無視していたら、今度はドアのベルが鳴った。
「メロン食べにこない?」
隣の吉村さんだった。両親が連休に来て、ダンボール箱いっぱいの食糧、それにメロンを持ってきてくれたことを話してくれた。僕らは挨拶程度の知り合いだったが、そのときの会話で急に仲良くなった気がした。
昨日の服をあわてて脱いで、買ったばかりの白いシャツと黒のストレッチパンツを用意して、シャワーを軽く浴びた。そして吉村さんのドアのベルをならした。初めて入る女の部屋はとてもいい匂いがした。
「いつも朝に帰ってくるね」
「コンビニでバイトしてる」
「歌、きこえてるよ」
「うるさい?」
「笑ってきいてた」
「一緒に歌おうか」
「いいね」
最近、部屋の整理をしていてたまたま見つけた黒のストレッチパンツと白のシャツ。服も記憶を持っているのか? いろんなことが一気に頭の中を駆け巡る。差し込む初夏の日差しや、ジャズピアノ、イエローサブマリン、彼女が壁を叩く音、部屋の匂い。そして。その後の僕らのことも。ただ、そのときに食べたメロンの味だけ、忘れてしまった。記憶を探ろうと、手を頭にあてて考えても思い出せない。それが少し、寂しかった。
青年は生きることに疲れていた。僕は何のために生まれてきたのか。それは誰かに教えてもらうことはできない。だからこそ答えを見つけ出すことに焦り、それでも何もしない自分にジレンマを感じる。青年は自分の無気力さを嫌っていた。
こうなったらこう言おう。青年は言い訳を準備し、自分を守ってきた。何か後ろ盾がないと何もできず、言い訳という後ろ盾を用いることで成すことの勇気を得てきた。成す前に失敗を考えるから、物事がうまくいっても自分の力だと信じることができなかった。青年は生きる力に負けていた。
青年は通学に電車を利用する。人ごみに飲まれ、風景と同化し、青年の個は消え去る毎日。友人とほどほどに付き合い、決して特別な関係にはならず、それを恐れて、青年は望んで個を消し去る。そうすることが押し寄せる流れに身を守るための手段だったからだ。青年は時代の流れから脱線し、人生を放棄していた。
僕は生きているのかい……
僕は何のために存在してるの……
僕が死んで悲しむ人はいるのかい……
青年は何の行動も起こさないくせに、自分を認めない世間を恨んでいた。気持ちは一人妄想の世界へと溶け込み、その中での彼は英雄である。現実を視ることに恐れ、慣れ親しんだ空間に身を委ね、青年は未知への開拓を拒んでいた。
本当は誰よりも弱いのに、本当は誰よりも臆病なのに、能面を被り偽りの装束を身にまとい青年は演じ続ける。
小雨が降るある日の夕方、青年は草むらの中で、小鳥の死骸を見つけた。まだ羽毛も生えきっていない生まれたばかりの小鳥である。青年はしゃがみこんで小鳥の死骸を見つめた。
君は誰からも必要とされなかったんだね……
君は誰からも知られることがなかったんだね……
生まれた意味がないなんて寂しいじゃないか。
だから僕が君を覚えるよ。
道路という表舞台から離れ、草むらに死んだ小鳥を、青年は埋めて弔った。
本当は誰よりも優しいのに、本当は誰よりも愛せるのに、青年は気がついていなかった。しかし青年は小鳥を見て、漠然とだが自分の優しさに気付き始めていた。
生とは、何かに影響を与えることなんだ。それはどんな些細なことだっていい。それが生きている証なのだから。それが個として存在することだから…。小鳥は僕に優しさを気付かせるきっかけを与えた。
青年は立ち上がって走り出した。
青年には名前がある。青年の名前は……。
ふりかえる小さな蜥蜴の愛らしさ……歌うようにアヤカが言った。なんだいそれ? 蜥蜴は美しくふりかえり、時計の針は薄すらあかりをいそしむ。白秋の詩よ。気味が悪いな。見返り美人みたいで可愛いと思うわ。アヤカは薄桃色の舌を突き出してちろちろと動かす。やめなよ気持ち悪い。蜥蜴もキスをするのかな。アヤカの舌が入りこむ。洞窟を手探りするように口のなかであちこち動きまわる。ちろちろ……二つに割れた舌の先がまるで内視鏡のように洞窟の闇奥へと伸びていく。アヤカのモニターはなにを視ているのか。
ナニかを呑みこんだ蛙はみるみる黒ずんで固まっていく。見開いた眼は血走り瞳孔が虚ろに拡がる。やがて身動きがなくなり、内部からこじ開けられているのか、ゆっくりと開いた口から、ぬっとナニかが現れて、やがて胃液にまみれた全体が抜け出る。ナニかは、振り向きもせず、ゆったりと森奥へと消えていった。
なんともグロテスクだな。あなたに似てるわね。それはどうも。二人はベッドに寝転び顎を枕にあててテレビをみている。朝のワイドショーからみつづけ、今は夜の八時から始まった動物アワーをみている。クーラーの冷気が裸に心地よい。今夜、鰐が食べれるわ。アヤカは枕元に食べこぼしたパン屑を払いながら言った。ああ、あれか。刺身にでもするのかな。背の半分ほど水に浸かり、半円に円まっていた金盥の鰐。行きつけの店の親爺が食べにこいと言っていた。煮込みにするんですって。俺は遠慮する。わたし食べてみたいな。再び薄い舌がちろちろと入りこむ。絡まれた舌が真赤に染まっていくような気がして慌てて抜く。どうしたの? いや、なんでもない。パンだけじゃお腹すいたでしょ。ちょっと待っててね。キッチンに立った裸のアヤカをみながら煙草を喫む。ちくりちくりと、ほかに女ができたことを咎めている……アヤカ特有のさり気なさを装いながら。だから一日中、こうやってベッドにつきあっている。けれどそのあざとさが通じるようなアヤカではない。具体的に責めてこないのがなによりの証拠だった。
ベッドに胡座をかいてホワイトシチューを食べる。具がほとんど蕩けて原形がない。よく煮込んであるからおいしいでしょ。食材には苦労したのよ。きみは食べないの? わたし? わたしはいいの。あなたのためにつくったんだから。そう……ところで、これなんのシチュー? 可愛いは、おいしい……わたしにふりむいてね。
グラウンドに描かれたスタートラインの前で、啓は軽く肩を揺すった。
「パパ!3位入賞でいいんだからね」
「うるさいよ」横からの娘の余計な応援に、啓は手を振って応え、他の5人の参加者達の様子を観察した。
運動会での娘の活躍を見たくて、朝から張り切って場所取りをしていたのだが、さすがに父兄参加のパン食い競争に駆り出されることまでは、啓は予想していなかった。しかしスタートラインに立った以上、妻と娘の前で無様なところを見せる訳にはいかなかった。
「トレイにあるパンを完全に食べきるまで、ゴールには行けないので注意して下さい」女子生徒が参加者達にルール説明を始めた。後ろでは、男子生徒達が参加者達の手足を縛っている。
「何だか変わったルールだな」「紐でつり下げるんじゃないのか」「意外と縛りがきつい」他の参加者達の反応を横目で見ながら、啓は深く息を吸い込み、トレイを置かれた台を見つめた。
ピストルの音と同時に、参加者達はスタートラインを飛び出した。啓はやや出遅れたが、他の参加者達が悉く転倒する中、順調にトレイの前に辿り着いた。
「おっ、チョコレートパンは好物だぞ」トレイを覗き込んだ啓は、中に置かれた黒い物体に期待を寄せた。しかし、その期待は長くは続かなかった。「くっ臭い!何だこれは」
『パン』らしいその物体は、くさやの様な臭いを発し、啓の接近を拒んだ。それをこらえて口でつまもうとした啓だが、『パン』はぼそぼそと崩れて抵抗した。
「麦粒を固めて『パン』って言っているだけじゃないのか?」しかしその食感は啓の想像を超えていた。口の中にいつまでも残る麦粒一つ一つが悪臭を放ち、啓の鼻と口を襲った。更に悪いことに、まだ2〜3口ほどの『パン』が、トレイの上に残っていた。「これを全部食べなきゃならないのか…」
それでも先に食べ始めたのは有利に働いた。『パン』が後続を苦しめている間に、啓は何とか食べきり、1着でゴールラインを切ることが出来たのだった。
「どうだ、パパは1等賞を取ったぞ」観客席で昼食をとる妻と娘の前に、啓は景品の段ボール箱を抱えて戻ってきた。
「お疲れさま啓、お茶でもどうぞ」
「おめでとうパパ、中身は何かしら?」
「そうだな、ちょっと開けてみるか」箱を開けた啓は、その直後、空を見上げた。「こっ、これかあ、トレイの中身は」箱の中身は、ぎっしりと詰め込まれたライ麦パンの真空パックだった。
月の夜、母は懐から祖母の形見の白い瑪瑙を取り出すと、低く口笛を鳴らせて息を吹きつけた。月光石とも呼ばれる小石は、ぼんやり発光したように見えた。
「こうすると、願いが叶うんだよ」
以前母はそう言った。
夏の終わり、姉は恋人と喧嘩別れしてしまった。恋人の名は正広と言って、不可もない温厚な青年だった。姉はよく二階の自分の部屋の窓から外を眺めた。窓柵には鉢植えの花を置いていたが、しばらく前に全て別の場所に移していた。
ある蒸し暑い夜、私は眠れずにいた。
ふと、口笛の音がした。そして、小石がコツリと鳴る音。
キッチンに行くと、車椅子の母がいた。母は月光石を両手で撫でさすっていた。私は母の動かない両足を思った。十年前、母は車にひかれそうになった姉を助けたが、自分は重傷を負い、歩けなくなった。
そんな事故の思い出が、姉を内気にさせているのかもしれない。
「おまえは出来の悪い子だ」
母は姉にそう言うのだった。優しい性根から出発した気持ちが、姉の中で罪の意識になり、頑なな態度に変化して、そのことが勝気な母をいらいらさせるのだ。姉は黙って母の叱責に耐えた。そして家事のことも家族の世話も、みな自分で引き受けた。姉は私と二人きりになると、ひどく思いつめた様子で、「母さんはとても辛いに違いないわ」と言った。
学校から帰ると、姉がアイロンを当てていた。衣類ではなく、しわくちゃの白い紙で、何か字が書いてあった。覗き込むと、姉は慌てた様子で紙を畳んだ。もうひとつの手掛かりは、姉の部屋の窓柵にあった。がらり窓を開けると、そこに幾つもの小石が並んでいた。姉は曖昧に笑って答えなかった。
「母さんは、姉さんを助けたんだよ。助けなかったら後悔しただろうけど、助けたから、願いが叶ったんだよ」
ある日、再び、口笛と石の当たる音がした。今度は夕方だった。姉は自分の部屋に行った。私は母の部屋に行った。母はテレビを見ていて、唇を尖らせて、口笛を吹く代わりに指を当てて、静かにするよう合図した。
夕食後、姉がこっそり家を出て行くのを、私もこっそり後を付けた。
私は気付いた。犯人は、手紙で小石を包んで窓に投げたのだ。そして口笛で知らせた。姉は石が当たらないよう鉢植えをどけた。そして小石の数だけ手紙を受け取って、頑なな気持ちを解いたのだ。
姉の眼差しの先に月の光が濡れ落ちた。
正広だった。見詰め合う目と目、そして強く抱きしめた。
ミチコさんはどっかに魂飛ばしたような瞳で熱っぽく語る。
「だからね、点々先生のお告げは本物だと思うの」
久しぶりにあった友人と小洒落たレストランに来て、そんな奇天烈な会話に発展するとは思わなかった。大学当時のミチコさんは理知的で凛とした姿が印象的な女性だったのに、今はどこか所帯窶れした荒んだ雰囲気が漂っている。身なりも独身のキャリアウーマンだというのに随分と質素だ。専業主婦におさまっている私のほうが、ずっとましな服装をしている。これは一体どうしたことだ。
「ほら、○川に来たアザラシのザラちゃんにこの間までついていた釣り針を念力で取ってあげたのは友人の転々先生なんですって。点々先生とは魂で繋がった救世主のお一人なの」
念力? そんなものがあるのだろうか。救世主っていうのも胡散臭い。大体、動物愛護の精神は結構なことだが、ザラちゃんの釣り針を取るよりも首に矢が貫通した鳩を先に救ってやったほうが道理にかなっている。
先生の生い立ちから今までの奇跡の数々を、延々と語りつづけてくれたミチコさんの勢いは止まらない。なんだか笑顔で話を聞くのも疲れてきた。
「今度、点々先生をお招きしての勉強会があるのだけどユウちゃんも来てみない?」
曖昧な相槌をうっている私にとどめの科白が突き刺さる。
「折角だけど遠慮しとく」
勧誘を撥ね退けるとミチコさんは悲しそうな顔になる。
「でもね、十年以内に関東、東海地方で大きな地震がおきて今の文明は衰退するとのお告げもあるのよ。今から非常時の対策、その後の文明維持の方法を研究する事は大切な事なのよ」
そんなあるかないかわからない非常事態に備えるよりも、目の前のミチコさんを怪しい先生から救うほうが先決のような気がする。しっかりしてよ。
「神の使徒に出会える好機なのに」
神様なんて毎月月末になると出没する貧乏神様一人で間に合っている。
「ミチコさん、何か悩みでもあるの? 相談にならいつでものるよ?」
少しでも彼女の力になれたなら昔の彼女に戻ってくれるのだろうか。一縷の望みを託した言葉が耳に届く事を祈った。
「点々先生の素晴らしさを誰にも理解してもらえないこと、かな」
これまでまともに神の存在など信じてこなかったが、もし本当に神様がいるのならどうか今の状況からミチコさんを救ってくれないだろうか。そしたら信じてやっても良いのに。久しぶりに困ったときだけの神頼みをしたくなった。
「――久しぶり、だね」
風が強く吹き付ける中、ふとそんな声を聞いた気がした。
マンションの屋上。金網の前に座り込み、街の様子をぼんやりと見つめる。高所から見下ろす景色は壮観だ。夕焼けに染まった町はひどく美しい。
「これがお前の見た、最後の景色か」
沈みゆく太陽。遠くに見える山々。動き回る小さな車。そんなものを見ていると自分がどんなに小さな存在であるかを思い知らされる。それは圧倒的な無力感。世界は残酷だ。そんな世界を眺めながら彼女のことを考えた。
(ねえ。私のこと、好き?)
「当たり前だろ。だから俺はこんなにも苦しんで、そしてこんなところにいるんじゃないか」
冷たい風が頬を撫でる。どれだけ待っても、風の音しか聞こえなかった。
(あたし、あなたの笑顔好きだな)
苦々しい感情が身体を支配する。憎しみではない。行き場のない怒りが体の中で再燃する。いっそこのまま体を内面から焼き尽くしてくれればと、何度願ったことだろう。
「お前が好きだと言ったものは、今では全く現れてはくれないよ」
空を見上げる。茜色に染まった空は地上から見るよりもずっと近くに感じられた。それでも伸ばした手はただ宙を掻き毟るだろう。
紅く染まった世界。美しい街並み。彼女の見た最後の景色。不意にそれらがひどく脆いものに思えて、俺はゆっくりと目を閉じた。その暗黒の世界のなかで、彼女の透明な瞳を思い出した。その瞳は何処までも澄んでいて、何も映してはいなかった。
ゆっくりと目をあける。そこには先ほどと何一つ変わらない景色が広がっていた。まだ太陽は世界を紅く美しく染め上げていた。だがもうじき山の向こうに消えてゆき、世界は闇に包まれるのだろう。そしてまた太陽は世界を照らし、そして沈み、そんなことを何度も繰り返すのだろう。
「お前は、死んだんだよな」
そしてそんな繰り返しの世界の中で、俺は彼女がいなくても生きていくだろう。
しばらくして、俺はゆっくり立ち上がった。
「もういいのかい?」
少し離れてずっと見守っていてくれた友人がそう言った。
「ああ、もういいよ」
振り向いて笑顔を作ろうとしてみたがうまくはいかなかった。それでも微笑くらいにはなってくれただろうか。
「じゃあ帰ろうか。じきに、日も暮れる」
「そうだな」
頷いて友人のもとへと歩を進める。その途中、心の中で彼女に最後の言葉を贈った。さようなら。
「――バイバイ」
彼女の声を聞いた気がした。
朝は無糖の珈琲。夜は舶来の蒸留酒。葉巻飲まず。庭には犬。棚には書。家人一人。
吾、文士也。草脇稀人と号す。浮世に幾許かの名を知られたる者――。
「小父様、御午の支度が調ひましてよ」
「あゝ」
菊子に答ふるも、猶半刻ばかりは自室を出でず。
「冷めますわよ」
「あゝ」
漸う腰を上ぐる。菊子は、少しく予を責めむが如き気色で迎ふ。
「小父様、すっかり冷めて仕舞いましたわ」
「済まぬ」
卓に着き、椀を取る。飯は忽ちに予が腹に消ゆ。
香の物、赤出汁、根菜煮付け、焼き魚。
「茶を貰はうか」
「はい、只今」
菊子は甲斐甲斐しく厨へ立つ。宿痾に斃れし莫逆の友、月形光輪が忘れ形見――。
「幾つに成る」
「嫌ですわ、お忘れに為ったの、小父様」
茶を淹れ乍ら、菊子は笑ふ。
「然うでは無い。何時迄もお前に女中の真似事をさせては置けぬと謂ふ事だ。お前も世間並みに良縁を得て良い年歯だらう」
菊子は覚束ぬ気色で小首を傾ぐ。
「菊は、小父様にお仕えするのが仕合せなので御座います」
「然しだ」
「菊の仕合せは菊が決めます」
常に似ぬ強情な口調で、菊子は楯突く。おやと思えど、旧友の面影を其処に見むか、予は重ぬべき言を失ひつ。
「小父様は菊を煩く思われて、お屋敷から放逐せむと御考えですのね」
「馬鹿な」
噎せたるは、茶の熱きが故。
菊子は庭に出て、犬を呼べり。尾頭付の骨添へたる飯、与ふ。
「それに……、菊には月形の血が流れて居りますもの」
「止さぬか」
菊子の背に向かひて、予は少しく語気を荒げる。菊子は黙る。犬は飯を食らって居る。
菊子の芳姿――其の細腰、其の項、其の緑髪。微かに覗く頬辺に、憂愁と為すは頗る明かき色が漂って居る。陽、高し。
予は掌篇を物せり。文壇は之を容れず。筆を折りけり。癇癪の類に非ず、去り遣らぬ哀憐の情に従へば也。天には唯、謐謐たる皎月ぞ有り。予には唯、年経る毎の思ひぞ有り。彩へる間管咲が記憶を誘はむ。
朝は無糖の珈琲。夜は舶来の蒸留酒。葉巻飲まず。庭には犬。棚には書。家人居らず。
吾、文士也。草脇稀人と号す。浮世に幾許かの名を知られたる者――。
「僕達の命があと千文字しかないって知ってたかい、セイ」
「興味ない。くだらないノイズだね」
僕達は夏だけ顔を合わせる。セイは一才上の僕をゲンさんと呼ぶ。他は遠慮しない。
セロハンをべたべた張った『無関心眼鏡』をセイがかけてしまったから、話はそこで打ち切り。祖母が食事に呼びにくるまで、僕はぼんやりセイを見ていた。
「千文字って、まだ終わらないの」
会話が再開したのは部屋に戻ってからだった。セイは畳に転がって宿題の続き。気乗りしてないのはペンの指先で回る具合で分かる。
西瓜を食べ過ぎたせいか、僕の腹は水っぽい。
陶器みたいに滑らかな、セイのうなじと襟元がのぞけるこの場所を頼まれたって動く気はないけど。
「けっこう豪華なメニューだったけど、今晩は」
セイはいつでも冷笑的な調子を崩さない。
そこがいいんだけどね。
「……ああ、まだ憶えてたんだ。珍しいね」
「やっぱりまた、ノイズなんだ」
「ああ、いや、……多分ね。
省略されたんだよ、きっと。
だってさ、全部書いてたら最初のシーンで終わっちゃうよ。
それを許すなら僕達が死んだって五百文字以上残るとも言えるよね。でも彼だって程度はわきまえてるよ。そこまでは省略しないと思う」
「ゲンさんは、余計な事にばっかり頭が回るんだよね」
もぞもぞとポケットに手を伸ばす。『無関心眼鏡』が出てくるのかと思ったら、ちびた消しゴムだった。
「それで?」
「ああ、うん。あと四百文字と少ししか残ってないとしたら、セイは何をするかなって」
「コタツでみかんでも食べる」
セイが自分の口を押さえる。他の季節の話題は禁域だった。僕達は夏しか会わない。
夏休みは明日で終わる。
セイが寝返りを打った。視線の先にはカバン。僕は寝返りの拍子にのぞいた鎖骨と肩のラインを頭の中でスケッチ。このラインも省略されるんだろうか。
明日、とセイの唇が動いて、でも声にはしなかった。僕を見て、ちょっと笑って襟元を合わせる。
「ゲンさんは、いつ帰るの」
明日だよ。僕は答えた。百も承知している癖に、セイはなるほどそうなんだとうなずく。明日迎えが来る、それはセイだって同じなのに。
「さっきの話ね、夏だったらきっと、千文字分ゲンさんのことでも考えるよ。けっこう省略とかされそうだけど」
「夏休みが終わるまで?」
「夏が終わるまで」
「僕も、セイのことを考えるよ」
言わなくても分かるよ。セイは笑った。
宿題帳が涼風で閉じる。
男は北国からやって来た。懐には除隊金があり、いかに物価の高い東京といえども、充分に余裕がある筈であった。
「千六百円になります」
「えっ、カレーとコーヒーですよね」
「……そうですけど」
ウエイトレスはぽかんと口を開けた。
男は店を出てホテルに向う道すがら、急に不安になり、服の上から金を触って確かめる。早く住む部屋を決めなければ、瞬く間に無一文になると思った。
「不動産に掘り出し物はないからねぇ。格安にはそれなりの理由があるもんだよ。それとも、お客さんは大丈夫なの、これ?」
店主は、カマキリを模したポーズから、胸前で手をだらりと垂らして見せた。
それを見た男は大げさにかぶりを振って答える。
「それはちょっと。生き物なら蛇でも蜘蛛でも大丈夫なんですが」
「生き物ねえ……」
店主はそう呟くと彼を見て言った。
「このビルの二階の部屋だけど、一応見てもらいましょうか」
鍵を手に立ち上がり、男を伴い外に出る。
「ちょっと奇妙な部屋だから、なかなか借り手がつかなくてね」
階段を上がり廊下に出ると、三つ並んだ扉の真ん中で立ち止まった。
「ここですよ」
男は案内された部屋の前で首を傾げ、両隣の表札を確認する。
「201と203に挟まれた部屋が、なぜ12号室なんですか」
「詳細は前のオーナーが知っている筈だけど、とにかく私がここを買った時から12号……ん? 12号室だったかな」
扉を開けたとたん、奇妙な部屋と称される理由が解った。玄関の壁から扉の内側にいたるまで、一面に太い緑の蔓が絡みついている。
「除草剤を撒いても、一週間もすれば元通りになっちゃうんだよ」
嘆息しながら振り向いた店主に、彼は即答した。
「この部屋に決めます」
いかに不気味とはいえ、自衛隊の訓練で使用される原生林に較べれば、観葉植物のようなものである。
男は浴槽の縁まで湯を張り、ざぶんと首まで浸った。勢いよくあふれる湯を、少し贅沢な気分で眺める。管理された自然以外は、都会の人間にとっては、気味の悪い存在でしかないようだ。身体が温まるにつけ、心もほぐれてゆくような気がして、徐々に眠くなった。
突然、顔の前に大きな泡が浮き上がり、脂肪片が漂った。男は何気なく胸の辺りを見て愕然とする。白い肋骨の隙間から赤黒い肺の内壁が覗いている。慌てて見回すと、すでに手足も腰も溶けはじめている。
静まり返った廊下にカタリと音がして、部屋番号が13に換わった。
窓ガラスが横殴りの雨に微かに震えていた。私は台風の立てる低い音を聞きつつ窓の向こうの薄暗い空を眺めた。受付の机の後ろの、人目に付かない空間。
会社設立時の社員の一人が亡くなり、役員まで務めたその人の社葬が催されると聞かされたときは正直驚いた。社葬というのはもっと大きな会社がやるものだと思っていたからだ。
そして当日、台風が直撃した。手伝うことがあるかもしれないと呼ばれていた私はすっかり暇を持て余していた。義理で嫌々来るつもりだった人には恵みの雨であったことだろう。電車は止まり、道路は浸水し、閑散とした会場には沈痛な面持ちの人々が点在していた。
雨で滲んだヘッドライトが近付き、ある一点を過ぎると急に目映く輝き、私はたまらず目を背けて受付の方を向いた。風雨に負けじと声を張り上げ、電話で何やら話している。もう式の始まる時間のはずだ、おそらく欠席者が増えているのだろう。
車から降りた律儀な客が式場に入ると、窓の外はまた薄暗くなり、ただ低く重苦しい音だけが残った。私は目を閉じ、その重苦しさから逃れようと試みた。見知らぬ故人を想像し、雨に濡れてかさの減った哀れな羊を数え、袖のボタンの掛け外しを繰り返した。どれも長続きしなかった。
受付の机が片付けられるのを見ていると、式場で音楽が流れ始めた。葬儀の際によく聴くような、聴いたことがないような、不思議な曲だった。その曲はすぐに外の轟音に紛れ、溶けるように聴こえなくなっていった。
いつの間にか周囲に誰一人として見当たらない。私は帰ろうと思い、閉ざされた式場に会釈した。水を吸いきれず、吐き出しているようにすら見えるマットを跨いで、黒一色の傘の列に手をかけた。単調な動きを繰り返して傘を捜しつつ、明日の予定を考え、落下する水滴を思い描き、額の脂ぎった汗を拭った。傘は見付からない。
傘は見付からない。目を閉じても雨は止まず、耳を塞いでも風は吹き付け、重低音の波は絶えず押し寄せる。
私は誰のものかわからない傘を手に取った。すると辺りは台風のノイズに包まれ、私と傘以外は掻き消されてしまった。ひどいノイズの中を、傘を差して歩き出した。
駅に近付くと傘が歩き出した。傘だけになった。ぼやけた駅を色とりどりの傘が埋め尽くし、いつ来るとも知れない電車を待ちながら、時折くるりと回っていた。
やがて傘たちは整列し、雨で滲んだヘッドライトが近付いてきた。ホームに響く重低音。雨。風。
月明かりの下を、彼女はうつむき、歩いてくる。手にはコンビニの白い袋。黒い服を着ていた。
私は塀の上にいた。コンビニ袋の中身に惹かれ、彼女と同じ場所に降り立つ。驚くかなと思ったけれど、彼女のほうでも私を見つけていたみたいで、目を細めて微笑んでいた。
近寄ると、彼女はしゃがみ込み、私に触った。頭を撫でて、のどをくすぐる。
私はゴロゴロとのどを鳴らした。彼女のてのひらはとても優しくて、気持ちよかった。私を撫でるとき、彼女はいつも優しい表情をする。
ふと気づいて、彼女はコンビニ袋の中を漁った。サンドイッチを取り出し、封を開ける。パンに挟まっていたハムを私にくれた。安っぽいハムは、いつもの味がした。
彼女はまたさらさらと私を撫でていく。
「……友達が死んだ」
ふいに囁くように彼女が言った。一瞬何のことかわからなかったけれど、彼女の黒い服で、「ああ、そういうことか」と気づいた。お葬式。お線香の残り香を、微かに感じたような気がした。
そっと見上げた先の目が、ふと暗くなった。優しかった彼女の表情が消えていく。私を撫でる彼女の手が止まった。その手が微かに震える。
「……泣かなかった」
彼女は呟いた。それから、ゆっくりと、震えるその指が私の首に食い込んでくる。
私は彼女を見つめる。彼女の目の奥に、薄暗い感情。死んだのは、彼女の大切なひとだったんだろう。大切なひとだったから、泣けなかったんだろう。
息が苦しくなる。少しずつ彼女の指が食い込んでくる。たぶん、彼女は私を殺したくなんてない。それでも、彼女自身、どうしようもないのだと思う。彼女を見つめる。冷たい表情。何もない静かな表情。静かに、私ののどが絞まっていく。
……そうしてもいいと思う。それもそんなに悪くないと思う。
息が止まる。彼女の手が震えている。彼女の目に、光があればと思う。光のない目に、私は悲しくなる。苦しい。私は、彼女をじっと見つめる。
……目が合った。
……結局、彼女は何もせず、私は何もできなかった。彼女は放心したように虚空を見つめている。彼女の手は、もう私に触れてはいない。
力なく下がったその手をなめると、彼女は一瞬痛そうな顔をした。私を見つけると、力のない笑みを浮かべた。
……でも、せめて泣いてくれたらと願い、私はもう一度その手をなめる。
あの人はそこにいる。湖を見渡す宿の窓辺に腰掛けている。
湯上りなのか、浴衣をしどけなく着て団扇で煽っている。
髪が揺れる。俺の心も揺れる。襟元に零れる白い胸が濡れているような。
はやる俺を擽るように、風鈴の涼やかな音色が聞こえる。窓辺から青白く月の光が射し込んでいる。あの人の愁いに沈むような青い横顔。窓辺の手摺には解かれた赤い帯が垂れ下がっている。
やっと今日という日が来た。今日こそ俺はあの人を抱く。
俺は立って、あの人を抱き寄せた。
あの人は恥ずかしいのか顔を伏せたままだ。殺したいほど愛しい奴。
唇を奪った。燃えるような口付け。火照る体。震える心。遠い篝火。紫の夜。青い月。赤い帯。燃える瞼。蕩ける花芯。
あの人を抱いている…はずなのに、俺は、一体、誰を抱いているのか分から
ない。あの人は顔を背けたままなのだ。体は俺に許すし、唇も与えてくれる。
でも、目を覗き込もうとすると、顔が月の影に隠れてしまう。
俺は焦っていた。今、俺のこの腕の中にあの人がいるのに、部屋の隅にあの人の浴衣が脱ぎ捨てられているのが分かるのに、不安が募ってならない。
だからこそ、俺は一層、あの人を強く抱き締めた。決して放さない覚悟で。あの日、一人で湖に沈んだあの人だから、今、この手を放したら、二度と抱くことなどできない。
俺は、手摺にある帯を手に取って、俺達二人の体を巻きつけた。二人の体が絡み合い求め合えば、それだけ帯が俺達の体に食い込むように。
次第に息が苦しくなってくるのだった。何故か、あの人を抱けば抱くほどに、俺の首がきつく締められるようだった。
ついには気が遠くなってしまった。
脳裏には燎原の火が燃え広がり、やがて炎の海は真っ赤な焦点へと収斂していった。
何処とも知れない世界へ渡っていってしまいそうだ。何処へ行くのだ!
何処へ行く?! そんなことはどうでもいい。あの人と一緒なら湖の底に沈んだって構うものか!
気が付くと、俺は小船に乗っている。俺一人で、何処へとも知らず漕ぎ出していた。
ただ、オールの代わりに手にしているのは、だらりの帯なのだった。その赤い帯が、俺の手を抜け出して、蛇のように俺の首に巻きついてきた。
ああ! 俺は今こそ、あの人に愛されている!
その翌朝、宿には帯で首を吊った俺の姿があった。
この島の向こうに、一つの島がある。この島より遥かに大きく、黒ずんだ島だ。
その島には、昼間は太陽の光をギラギラと反射し、夜になると赤や青の強い光を吐きだす四角い箱がいくつも生えていた。大地に真っ直ぐに突き刺さった灰色の巨木からは鉛色の煙が延々と空へと漏れだし、その島の全てを灰色に塗り潰していた。
私は寄せては返す漣に足の指先だけを浸しながら、その奇妙な景色を眺めていた。白い泡の真珠が浜辺へと打ち寄せて、海と陸の境界を引いている。
外周一キロにも満たないこの島に、私は一人だった。
視線を遠く泳がせれば、綺麗に定規で引いたような真っ直ぐな水平線が果てしなく続いている。遥か上空からはウミネコのおだやかな鳴き声が響く。
実を言うと、私には記憶がない。気が付いたときにはこの無人島の浜辺に何も持たず打ち上げられていたのだ。だがこうしてここからあの島を眺めていると、時々ふと思い出すことがある。
私はあの島で生まれ、あの島で暮らし、そしてあの島を捨てたのだ。
理由はなんだろう。これも思い出せる気がする。あの島は私には大きすぎたのだ。大きすぎて、狭すぎた。
あの島で暮らしていた頃の私は、なにか重たい荷物をいつも背負わされているような重圧を感じていた。それが一体なんだったのか、よく思い出せない。
いつからか、この島には小石ほどの小さな水晶玉がいくつも流れ着くようになった。
その水晶玉は皆一様に眩いばかりの光沢を持っていて、太陽の光に翳すと泣きたくなるほど透き通って美しかった。
不思議なことに、この玉を持っているとひどく満ち足りた気持ちになる。雨降りが何日続いても、太陽が優しく照らしてくれなくても、少しも気にならないのだ。
私はそれを拾い集め、後生大事に持っていたのだが、どうやらこれはあの島から流れてきたものらしい。時には油やヘドロにまみれた水晶玉が流れ着くこともあったが、私はそれを一つ一つ洗い流してやった。
それからもこの小さな玉は次々とこの島に流れ着いて、それに伴うように向かいの島の四角い箱もますます大きく歪な形へと変貌していった。夜空を引き裂く光はより一層その赤と青を強め、奇妙な形をした光るクジラが島を取り囲むように忙しなく動き回っていた。
そして私は今日もこの玉を大切に胸に抱きながら、この落としものの持ち主は一体誰なのだろうと、遥か対岸の島に想いを馳せるのだった。
少年は自由だった。
淡いエメラルド・ブルーの海の中から、空の底を眺めた。
空の底と、海の表面にあるわずかな隙間では、一瞬と絶えることなく虹が生み出され、そして消えていった。
人を見慣れていないイルカが、まるで子犬がじゃれつくように少年に近づいてくる。
名も知らぬ熱帯の魚たちが、少年の手から直接えさをついばむ。
少年はイルカたちと軽やかなステップでダンスを踊りながら、伝説に出てくる楽園とはきっとこのような場所に違いないと思った。
小一時間ほど海の中を漂っていただろうか、やがて泳ぎ疲れた少年は、イルカたちに別れを告げ、泳ぐことを止めた。
少年は自由だった。
望みさえすれば空を飛ぶこともできた。
気が向けば下界を遥かに山の頂きに望むこともできた。
すべては少年の望むままだった。
次にどこに行こうかと少年は考えた。
遥か未来社会へ旅行に行こうか、それとも太古の昔へと恐竜見物にでも行こうか。
少しの間考えていたけれど、やがて少年は宝物でも見つけたように顔を輝かせた。
そうだ、宇宙へ行こう。
宇宙は、エメラルド・ブルーの海に負けず劣らず美しい。
少年は、体の中で唯一自由に動かせる首を傾け、あごの先にとり取り付けてあるマニュピレイターを器用に操作すると、病室の一面を占めるスクリーンに、漆黒の大宇宙を浮かび上がらせた。
「父を返して下さい。」
痛い程のまっすぐな視線に高野は視線をそらし、体を反らした。綺麗な海老反りは洋子を余計にいらつかせたが、下の桜海老は洋子を慰めた。
「海老は止めて下さいよ。それに手術は成功するとおっしゃったじゃないですか?」
名医と言われた高野の腕なら失敗は考えられないことであった。
手術の前日、高野には英検3級の面接があった。日本では千昌夫の次にパツキン大好きっ子と自負する高野には、生のパツキン女性から発せられる言葉のアルペジオは刺激が強かった。
そして面接の最中に3回も達してしまった。まさに麺達である。
「看護婦さんに聞きました。先生の手術には落ち度がなかったと。でも・・・。」
イボ痔の手術のはずだった。高野もイボをとったつもりだった。まさか患者が仰向けになっているとは思いもしなかった。
自分は不器用なんで超能力や催眠術は信じられないんですと言って麻酔を拒否し、手術直前に寝返りをうった洋子の父親のうっかり八兵衛であった。
「父は麻酔から目がさめたらガムテープで自分の体毛をむしりながら「マイドリーム。」と泣きながら叫んでました。父を・・・父さんを返してください」
高野は自分包茎の甘栗をむいちゃって腹をくくった。例えどんな理由であれ父娘だけの大切な家族を高野は崩壊してしまったのだ。医者としては誠意を見せるしかない。
高野は洋子の肩をやさしく抱いた。
「洋子ちゃん。しってるかい?稲荷神社の賽銭には税金がかからないんだ。無税なんだよ。だから父さんのお稲荷様は無料で処理してもらうよ」
洋子は泣き崩れた。洋子に新しい母親をあげることが高野の精一杯の誠意であった。
絶対に落とせない試験が迫っていたので、僕はいつものファミレスに来ている。サラダバーだけ頼み(水はセルフでおかわり自由である)、四人がけの卓を一人で占拠してとりあえず勉強している。日付が変わろうとしている。店内に客はまばらだ。
友達のノートをコピったのだが、あちこち字がかすれており読みにくい。大学のぼろコピー機のせいに違いないが、愚痴をこぼしてみても始まらないわけで、僕はのろのろと解読を進めていた。気が付くと目の前に店員が座っていた。女の、僕より若い、胸の大きい子だ。
店員が僕の横の卓を指差す。見るとそこには男女がいて、女のほうは泣いているようだった。続けて店員は言う。
「さて問題です。なぜあの女の人は泣いているのでしょう?」
あまりに突然で、僕は戸惑ってしまった。が、どもりつつも考えたことを答えようとすると、店員はそれを遮り、卓に備え付けの商品注文ボタンを押すよう僕に指図する。ピンポン。店内にこだまする。店員は楽しげに応じる。
「はい、そこのお客様」
「男が別れ話を切り出したから」
店員のペースに完全に呑まれつつ、僕は回答した。その最中、店員の名札を確認しようとしたのだが、その際どうしても胸に目がいってしまう。名札の場所が悪いのだ。
そうこうしていると横の卓に料理が運ばれてきた。泣いていた女はそこでぱっと笑顔になった。
「正解は、空腹だったから、でした!」
向かいに座っている店員は得意げに言う。表情の豊かな子だなあと思った。
やがて店員は立ちあがった。机の上の空のグラスを持ち、去っていったかと思うと、ドリンクバーでメロンソーダをなみなみと注ぎ、また僕の席に持ち返ってきた。そのグラスには無料の水が入っていたのだが。僕は告げる。
「えっと、ドリンクバーは頼んでないんですが」
「お客様は不正解でしたよね、先ほどの問題」
店員は微笑み、追い討ちをかける。
「ドリンクバー追加でよろしいですね」
追加するなら新しいグラスで欲しい、そう僕は思ったが黙っていた。
店員が去った後、ストローで毒々しい緑色の液体を飲む。懐かしい味。どうやらそれには薬効があるようで、僕の心の底に静かに沈殿していた感情はかき混ぜられる。
ペンを持って勉強を続けようとしたが、店員のことが頭から離れない。財布の中身を確認する。注文ボタンを押す。押し続ける。ピンポンピンポン。少し手のひらが汗ばんできたのは、気のせいじゃない。
夜が明ける前の寒さに、リオは目を覚ました。
リオにとって街での四十年は、あっという間だった。馬車馬のように働き、会社を興した。結婚もし、離婚もした。子供たちはリオの元で育ち、去っていった。会社が潰れ、自慢の屋敷も人手に渡ると、公園で寝泊まりするリオに気をとめる者などいなくなった。
ベンチに座り直したリオは体を丸め、物思いに耽った。
故郷には多くの語り部がいた。語り部たちは安く仕入れた果物や手作りの菓子を売り、買った者たちに話を聞かせた。
リオの両親は幼い頃に他界していた。親代わりの叔父夫婦は優しかったが、暮らしは貧しかった。幼いリオは家々の仕事を手伝い、わずかな駄賃が貯まると語り部の話を聞きに行った。
ある日、リオは聞き覚えた話を叔父夫婦に聞かせた。その語りは見事だった。次の夜、リオは夫婦の自慢を確かめにやってきた、隣家の者たちにも話を聞かせた。
しばらくして、リオはお気に入りの若い語り部ナザイの元に向かった。ナザイは奇妙な笑みを浮かべ、金を受け取ろうとしなかった。
「おまえに聞かせる話はない」
それ以来、リオに話を聞かせる語り部はいなくなった。
十六になると、リオは村を出た。
「冷たい声だったが、あの笑みは」
リオは歯を鳴らしながら、記憶の中のナザイを見つめた。
日に日に寒さは増し、そして、あの時のナザイの表情も鮮明になっていった。汚れたコートのポケットには葬式代に残しておいた金があった。その金でリオは村に帰った。
風の便りに、リオは叔父夫婦が亡くなったことを聞いていた。立ち寄った雑貨屋も代替わりしていた。リオは残っていた金で、安いリンゴを買った。
「あの木箱をもらえんか。リンゴを売ったら、椅子にして話をしようと思ってな」
「あんた、語り部かい。やるよ」
リオが空き地で待っていると、新しい語り部の噂を聞いた村人たちが集まってきた。リオは黙ったまま、リンゴを売った。
最後に皺だらけの手が差し出された。見ると、老いてはいたが、若い頃の面影が残る顔だった。ナザイはリオに気づくと微笑んだ。リオはうなずいた。
「これはコスガイの砂浜地下深くにたたずむ黄金宮殿と、そこに眠る王女を訪ねた騎士の物語」
そこまで言うと、リオは顔を上げた。聞いたことがない話への期待に、村人たちは顔を輝かせている。
ナザイも。
リオは話を聞かせた。
夕暮れが過ぎ、星が瞬き、月が傾いてもなお、リオの話は続いた。
え? クイズなんて面倒だ? やってらんない? お黙りなさい! うむを言わさず解いてもらいます。さあ、解きやがれ。
どうしてもわからない場合は、3択の女王様・竹下景子を1回だけ使えます。それでも不安なら、はらたいら(註1)と黒柳徹子(註2)をセットにして9800円でのご奉仕です。まちがっても、篠沢教授(註3)や野々村真(註4)に手をつけてはいけません。500点たりとも賭けてはいけないのです。大槻教授(註5)や羽賀ケンジ(註6)もダメです。篠沢=大槻は教授つながりであり、野々村=羽賀はいいとも青年隊つながりだからです。最初から全問不正解を目指すなんて、もってのほかです。
それから、念の為に申し添えておきますと、以下の問題について、チョロQのアラレちゃん愛用のペロペロキャンデー(註7)で迫ると、赤っ恥・青っ恥・黄っ恥・緑っ恥・桃っ恥と、ゴレンジャー的にカラフルな大恥をもれなくプレゼントされます。石橋(註8)を叩きのめして踏みにじってケチョンケチョンにして堂々と渡る憲武(註9)の心意気でかかってきなさい。
Q1.日本における精神史の変遷を網羅した名著は?
1.『大日本史』
2.『古事記伝』
3.『週刊少年ジャンプ』
Q2.「NATO」の正式名称は?
1.北大西洋条約機構
2.納豆
3.NAんばしよっTO!
Q3.おじいさんが、あやまって餅をのどにつまらせた。正しい対処法は?
1. 119番に電話
2. 掃除機で吸い取る
3. あやまったので許してあげる
Q4.長寿アニメソング「悪女」を歌っている鑑定士は?
1.中島みゆき
2.中島誠之助
3.中島君(註10)
以上で問題は終了です。え? 難しかった? 無理もありません。ハーバード大学の学生でも解けないレベルですから。
以下、注釈です。
註1:なんと漫画家。蛭子某より疑わしい
註2:なんと元NHKアナウンサー。頭部はブラックボックス
註3:ホントに教授だったのかただいま調査中
註4:恐妻家キャラを確立。ライバルは峰隆太
註5:UFOはヤキソバしか信じない
註6:名前の漢字、忘れた
註7:チョロイチョロイとナメてかかる竹村健一のような態度
註8:ホナミとは仮面夫婦
註9:ナルミとは仮面夫婦
註10:カツオのホモダチ。サザエとの三角関係の噂も
以下、解答です。
でも、見ないほうがいいですよ。どうしてもというなら、止めはしませんけど。
Q1全部正解
Q2全部正解
Q3全部正解
Q4全部正解
カンカンとなる踏切の音が随分と間が抜けているように思えるのは、遮断機がひどく錆びついているせいだろう。点滅を繰り返す警報灯もどこか薄々としてはっきりとしない。ただ奇妙なのはそのことではなくて、随分と以前から警報の鐘が鳴り響いているのに関わらず一向に列車が通る気配がないということの方だった。空はどんよりとした薄暮で、ひどく錆びついた遮断機はその空と丁度、釣合いが取れているように思えた。
随分と時間が経った後、突然何の前触れもなく警報が止まり、ひどく錆びついた遮断機がギギっと棹を震わせながら上がっていった。空は相変わらずの薄暮でどこかで烏がカァと鳴いていた。そして、ゴトゴトを音をたてながら、線路の向こうの遠い所からひどく錆びついた列車がやって来て、丁度踏切の所に停車した。錆びた列車はしばらく錆びたドアを震わせた後、大きな力で無理矢理抉じ開けたように勢い良くドアを開けた。中からは幾人ものどこか錆びついたような人々が降りて来た。
私は彼らを歓迎すべくゆっくりと諸手をあげて「おおい、こっちだ」と言った。
「出席をとる」
戸張高校に赴任してきてから三年目になる担任の原は出席簿を手にとって言った。
「新木順平」
「はい」
順平はあくびが出そうになるのをこらえながら答えた。
「茨城楓」
「はい」
楓はピアスの穴を空けたばかりの耳を触りながら答えた。
「加藤明日香」
「はい」
明日香は原の高圧的な口調に苛立ちながら答えた。
「木村龍介」
「はい」
龍介は消え入るような声で答えた。
「坂巻翼」
「……」
「坂巻は休みか」
誰も何も答えなかった。
「椎名晴彦」
「はい」
晴彦は朝食のときの父親の寂しそうな表情を思い出しながら答えた。
「柴聡子」
「はい」
聡子は昨晩龍介のホームページを見つけたことを龍介に言おうかどうしようか迷いながら答えた。
「鈴木朝子」
「はい」
朝子はまつげを指で整えながら答えた。
「高野真里菜」
「はい」
真里菜は治の汗の匂いにうんざりしながら答えた。
「高橋亮太」
「亮太くんは途中で怪我しちゃって、ちょっと遅れるそうです」
千沙は落ち着こうとつとめながら答えた。
「田中葉子」
「はい」
葉子はスクリーントーンを買いに行かなきゃと思いながら答えた。
「種田治」
「はい」
治は翼がまた学校を休んだことに悲しみながら答えた。
「千葉一兵」
「はい」
一兵は机に原の似顔絵を描きながら答えた。
「鳥羽理尾奈」
「はい」
理尾奈は弟の正人に殴られた右肩を押さえながら答えた。
「中村務」
「はい」
務は千沙が亮太の代わりに答えたことに動揺しながら答えた。
「服部幸次郎」
「……」
「幸次郎」
「……」
幸次郎は何も答えずに窓の外の景色を眺めていた。
「羽野小百合」
「はい」
小百合は幸次郎なんか学校に来なければいいと思いながら答えた。
「柊柚月」
「はい」
柚月は原の切れ長な目をじっと見つめながら答えた。
「吹雪創」
「はい」
創は理尾奈の辛そうな顔を気にかけながら答えた。
「古橋研一」
「はい」
研一はUFOのことを話してもどうせ誰も信じてくれないとあきらめながら答えた。
「的場千沙」
「はい」
千沙は通学中に手をつなごうと触れた途端逃げ出した亮太を思い出しながら答えた。
「睦月健次」
「はい」
健次は椅子から尻を軽く浮かせながら答えた。
「室井杏子」
「はい」
杏子は千沙が亮太と仲良くしていることに苛立ちながら答えた。
「横溝要」
「はい」
要はいまここにミサイルでも落ちてくればいいのにと思いながら答えた。
「それじゃあ授業をはじめる」
原は出席簿を閉じて言った。
重い扉をこじ開けると、風がぶわりと吹きつけてきて、沙穂は思わず目をつぶった。
都でもっとも高い塔の屋上である。
今夜は大陸から黄砂が押し寄せている上、光化学スモッグが発生しているから、お月さまはもちろん星の瞬きもまるでなし。隣の塔の、飛行艇のための灯火に照らされるときを除けば、そこは闇の領分だった。占星術なんかクソ喰らえだ。
(――未来なんて、そもそも不確定事項じゃない)
沙穂はぷりぷりしながら、備え付けのドーム型貯水器のはしごに足をかけた。
(それをどうして怖がる必要があるんです。ちょっと不吉な陰があったくらいで、それがなんだっていうんです。まったく神経質にも程があるわ)
お客さんが聞けば卒倒するに違いない。師匠が怒ったのも無理はないと沙穂は思う。理性的な判断だ。だけど、言い返さずにはいられなかったのだ。
沙穂は貯水器のてっぺんに腰掛ける。一番空に近い場所だ。屋上に張り巡らされた金網よりも高いから、もし風に煽られ転げ落ちたりしたら、ペちゃんこに叩き潰されて死ぬのは必至。そんなこと、馬鹿でも分かる。
(高いところには絶対登るな)
少し青ざめて師匠は言った。懇願だった。師匠の腕はピカイチで、予知能力など持っていないのに、よく当たるのだ。
下を覗き込めば、飛行艇やら飛獣やらが、塔の谷間を行き交っているのが見えた。ちっぽけな人の群れ。だけど隕石に当たって死んでも、それが運命と受け入られやしない。だから人は占いに頼るのだろう。馬鹿げたパラドックスだ。
「未来は変えられる。危険は承知。運命なんて存在しない」
沙穂は声に出して言った。すると、背中から返答があった。
「知ってるよ」
師匠だった。いつからそこに居たのか、金網の向こう側、紅狗に跨って浮かんでいた。飛獣は音もなく着地して、師匠も屋上に降り立った。
「ただ、沙穂はおっちょこちょいだからね。危険を避ける方法を知っていても、しくじる公算が大きいだろう? 危険から守ってやりたいという、親心のつもりだったんだよ」
「可愛い弟子には旅をさせろ、とも言いますが」
師匠は溜め息をついて、降りておいでと手招きをする。沙穂は素直に従うことにした。引き際だ。これ以上困らせても得をすることはない。
「まあ、臆病風に吹かれたわけではないのなら、良しとしましょう」
沙穂はにっこり笑って飛獣の手綱を握った。あたりは真っ暗だったけれど、師匠が苦笑するのが分かった。
あなたはどこでこの春を迎えているのでしょうか。
冴え返った硝子のような空気の中、黒く骨ばっていた欅並木の枝々が、黄緑の絵の具でぼかしたように煙っているのに気づくと、ああ、と胸が迫って、何故かあなたのことを思い出しました。
私があなたを初めて意識したのは、高校二年の時でした。組は違っていたものの、何日かに一度、廊下なぞで見かければ、それだけで何か幸せな気分になるのでした。
私立の男子校の進学クラスで、あの頃の私たちは皆、長い長い冬の中に放り込まれていました。自恃と自嘲の複雑に混じった微笑の裏には、暗い不安が常に貼りついているのでした。
そんな中で、あなたの周りにだけ、不思議と暖かい日だまりが出来ているように、私には感じられました。次の年に同じ組になると、私たちは水がぬくまるように親しんで行きました。
あなたには二人のお姉さまがいらして、子鹿のようにやんちゃな所、そしてどこか可愛らしい所はそのせいかと密かに納得していました。逆に私は長兄の生れつきで、二人の交わりは自然とそういう役割を持ち寄ったもののようでした。
同じ大学に進んでからも、往来は絶えませんでした。あなたは市民オーケストラでバイオリンを弾いていて、演奏会のたび、私はあなたから券を買って聴きに通いました。幼い頃から親しんでいた芸術の香気が、あの冬の時代にも、あなたの明るさを支えていたのですね。
ある時、演奏会が終わって外に出ると、いつの間に先回りしたのか、黒い燕尾服姿のあなたが、ロビーで待っていたことがありました。お喋りしているうちに辺りは閑散として来て、あなたは、
──うちに泊まっていかない?
と勧めてくれました。もう遅いし、親もそうすればいいと言ってる、と。
何度も、いいの? と言いそうになりながら、私は結局、その無邪気な好意に応えることは出来ませんでした。
──やっぱ止めとく。ご迷惑になってもいけないから、帰る。
ホールの周りの橙色の街灯に、霧雨がぼうっと暈を広げていました。
大学院を出たあなたは、マレーに働き口を見つけて、去って行かれました。
どんな仕事なの? と尋ねても、「イリーガルな仕事」だよ、と微笑するばかりで教えてくれなかったのは、単にあなたの軽い意地わるだったのでしょうか。
私は──あなたと通ったあの学校で、やくざな講師をしています。あなたのような輝きを持った少年には、いまだにお目にかかりません。
窓から入る光の方向を確かめ麻布を取り払い、布の下から現われた石の裸婦の頬から冷たい首までを掌でなぞる。それの質を確かめていると奥から声が聞こえた。
「これが例の像ですか」
声の主はゆっくりと近づき、像を指差した。
「『下界から優れた作家を探しだし、楽園にふさわしい純真さを持つ女性像を作らせよ』との命だ。もう一つの人型のために御手を煩わせる必要はないのだろう」
裸婦像に触れ、一周した後、怪訝な顔で訊く。
「見目はなかなかですが、ヒトをただ丁寧に象っただけで、躍動感があるわけでもなく艶も欠片もない。このような物でよいのでしょうか」
「女の形をしていればよい」
「それに」
「どうしたのだね」
「純真というよりも、私には、白痴に見えるのですが」
「それが狙いなのだよ。蛇を放っても実を食べねば意味が無い。作家探しには苦労した」
二人の笑い声が聖堂に響く。
「そのご苦労は必ず報われることでしょう」
懐から白く細い枝のような物を取り出し、裸婦像の胸に当てた。
「アダムの骨さえ埋め込めばよい、と、仰ったのも主でございますから」
骨は像にゆっくりと吸い込まれ、完全に内に入り変化が始まった。骨格、心臓ができると同時に血管が像の隅々まで走り渡り、心臓の拍動で血が流れ肌に赤みがさす。うつろだった目の焦点が合うと、初めて生を与えられた像は長い髪を揺らし、小さくあえぎ、ぐらりとその場に倒れこんだ。
「なんと回りくどいことをしなさる」
「蛇に直接たぶらかされたのがアダムでは御尊厳に関わるからな」
床に横たわる女の手を取り立ちあがらせ、白い額に口付けをした。
「マドンナ、楽園へご案内しましょう」
女は無邪気に微笑み、一歩踏み出した。
「私が駆けだしのころ、裸婦像の依頼を受けました。依頼者は無名の私の作品をたいへんな高額で買ってくれました。しかし金額よりも、私の作品を見て『理想どおり』と言ってもらった、その言葉で自信がつきました。
それからです。運命が変わったみたいに私の女性像があちこちで高く評価されるようになりました。今の私がいるのはあの時の裸婦像を依頼され方のおかげだと思います」
取材地の安ホテルで、田舎に引きこもり創作をする彫刻家の記事を書き終わると、喉の渇きに気がついた。冷蔵庫に入れ忘れて温くなった安い茶を飲み干し、ゴミ箱へ放る。ホテルに備え付けられている聖書が目に入り、手を伸ばしてはみたものの、私にそんな閑はない。
眼下の入り江では、
一頭のイルカが昼の月を捉えようと、海中から跳ね上がっている。
凪いだ海原はびょうびょうとして、動きと言えば、このイルカの飽くなき跳躍くらいのものだった。
「どうしてあんなことをしているのかしら」
崖上に立って海を見下ろしていた連れの女が言った。
「俺たちに芸当を見せようとしているんだよ」
相手の男が言った。
「そうかしら」
「イルカって、そういう生き物なんだ」
「でも、野生のイルカが、どこで芸を覚えたっていうのよ」
「海に接したシーワールドでは、イルカの芸を見せているからね。イルカは、飼育係が投げ上げるボールを受け取ろうとして、高く跳ね上がるんだ。それを海から見ていて覚えたんだろう。観客が沸きあがるのを見て、自分もしてみようとしたんだよ」
「あの昼の月が、ボールってわけ?」
「ああ、届くはずのない、無償の営為。イルカの夢。励みになるのは、俺たち人間の反応だけだ」
女が揺さぶられたように崖の際まで歩み寄り、拍手をし、黄色い声で叫ぶ。
「イルカさーん、素敵よ!」
透明な海中にイルカの黒い背が浮上してきて、跳ね上がった。先程よりは思いなしか高く。
「ほーら、言ったとおりだろう」
「信じられない。私たちを喜ばせようとしたなんて。あれはイルカ自身のひたむきな賭けよ」
「賭け? 一体何に賭けようってんだ」
「知らない!」
女は拗ねるように言い放って、傍らの青草を乱暴に掴み取った。
それからもイルカは、跳ね上がる行為を繰り返した。海から出てくる間隔が、五分から六分と、やや不規則ではあったが、跳ね上がる行為そのものにさしたる変化は見えなかった。そしてイルカの頭上には、淡く昼の月がかかっている。どこか幻めいて、月は有るようでもあり、無いようでもあった。
女は生欠伸をし、それが男に感染して、間もなく二人は海に接する断崖を離れた。
二十分も歩いて、海が視界から消えようとするとき、女は男を先にやって断崖に続く径を振り返った。海原よりも濃いウルトラマリンの空を、イルカが白い腹を煌かせてロケットのように上昇して行った。
昼の月まではもうすぐだった。
そしてついに
イルカは月を捉えた。
それを見届けると、女は安堵の胸を撫で下ろし、男のところに戻って並んで歩いた。昼の月は彼女のうちにぽっかりと浮かんでいた。が、秘密にして男には教えなかった。
老婆が姿を現したのは二日前のことだった。
老婆は、その痩せた両腕を前に突き出し、よろよろと歩いていた。今その手は少女に引かれ、老婆はゆっくりとだが真っ直ぐに歩いている。
「ここが厨房よ。こっちが」
「覚えているよ」
老婆が答える。
「階段だろう?」
「その通りよ。これで大分覚えたわね」
「ああ」
老婆は返事をした。老婆の瞳はせわしなく動いていた。その動きには何処か悲しげな規則があった。良く見れば彼女の瞳は白く濁っている。
老婆はめしいだった。
「ここは随分良いね」
老婆は言った。
「随分色々な所で働いたけど、この城は良いね。広々としてて」
「そうね」
少女が答える。
「それに作りもとても複雑で」
「うん」
「ここの王様は随分立派な方なんだろうね」
老婆の言葉に、少女は何かを言いかけた。
だが少女の声は別の声に阻まれる。
「どう?」
声は頭上からだった。
「うん。もう大丈夫よ」
「全て覚えましたです」
「そう。じゃあこっちへ」
「お婆さん、こっちよ」
「そうかい」
彼女達は声の方へ、一段ずつ昇り始めた。
「ここは良いねえ本当に。こんなに良くして貰うのは、産まれて初めてだ」
「そう」
「頑張って働きますよ」
彼女達はたっぷり時間をかけ、昇った。
「ようこそ」
昇った先には少年が一人居た。
「今日からここがあなたの部屋です」
「どうぞ、お婆さん」
少女が老婆から手を離した。
老婆はよろめきながら歩き出した。数歩進み、彼女は椅子に辿り着いた。
「座って良いですか。足が、随分悪いんで」
「どうぞ」
老婆は椅子に腰掛けた。想像以上の固く冷たい感触だったが、彼女はそれについては何も言わなかった。座れるだけで良かった。
「今日はこれで。おやすみなさい」
そう言って少年達は老婆から離れた。
「泣くな」
「でも」
「すぐにきっと全てが良くなる」
少年は少女から目を逸らし、そして振り返った。
視線の先は瓦礫の山だった。見渡す限りの灰色。そしてその天辺に見える黒く冷たいシルエット。
玉座に座るめしいた老婆。
「王様は、一体何処に行ったのかしら」
少女はすすり泣きを止めようともしない。
「前の王のことは言うな。考えてみても仕方が無い」
「でも。あのお婆さんにも悪いわ、騙して」
「すぐにきっと良くなる」
瓦礫の向こうには道があった。道は夕闇の彼方へ、何処までも続いているように見える。
「すぐにきっと良くなる」
少年はその道から視線を逸らしながら、そう呟いた。
フロントガラスに雨粒がはじけて、目の前の赤信号が滲んだ。
雨粒はまた、ひとつ、ふたつ、と増え、それから突然、強く降りだした。
俊明は後部座席にいる五歳の息子に声をかけた。
「テル、雨だ。傘もってきてよかったな」
返事がないので振り返ると、大人びた顔をして彼の息子は眠っていた。一週間逢わないうちにずいぶん変わるものだ。俊明はそう思った。
「朝から降らなくてよかった」
俊明は車体に叩きつけてくる激しい雨音のなかで、静かにひとりごとをいった。
駅の駐車場に着いても、雨は降り続いていた。
俊明は携帯をとりだし、深呼吸をしてから電話をかけた。
「もしもし、トウコ? 俺だけど、いま駅……」
「そう、じゃあ、すぐそっちにいくわ」
「雨降ってるから、家まで送るよ。どこにいる?」
「駅前のスーパー。でもテルと二人で帰るわ」
「寝てるんだ。寝たばかりで起こすのは可哀想だろう」
それは別れた妻を車に乗せる口実でもあった。
雨の中、車は高速に入った。
「テル、まだ起きないのか」
「ええ、ぐっすり寝てる」
「おーい、おきろ」
「やめてよ。寝かせてやりたいっていったじゃない」
「テル、俺と逢うたびにいうんだぜ。パパとママと三人でドライブしようってさ」
「……そんなこと、いってるの……」
「そうさ、このままだと家に着いちまう。おい、テル、テル!」
「ちょっと運転中によそ見しないで、ちゃんと前を」
「目がさめました?」
聞き慣れない声に、前を向くと、看護婦が立っていた。私は車椅子に座っていた。
病室では音声を消されたテレビが笑っていた。
「寝てた?」
「ええ、ぐっすり」
車椅子には、いたるところにメモが張り付けてあった。一枚をみる。
見慣れた筆跡で《もう忘れろ》と書いてあった。
もう一枚をみる。
《おまえの病気は順行性健忘症。事故以後の新しいことが何も覚えられない》
《トウコもテルも死んだおまえのせいだ》
メモの何枚かは日に焼けて、黄ばんでいた。
私はメモを指さし、看護婦に向かっていった。
「これは本当か? 書いたのは俺か?」
看護婦は黙って、頷いた。
「なぜ死んだ? なぜ俺は、こんなところに」
「交通事故で」
《何年経っても、おまえは過去の思い出だけ》
「何日ここにいる? それとも何年か? 俺は……」
フロントガラスに雨粒がはじけて、目の前の赤信号が滲んだ。
「朝から降らなくてよかったわね」
そういって助手席のトウコが後部座席の息子に笑いかけた。