# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | バンパイアたちの主張 | のの字 | 624 |
2 | ある会社の・・・ | マコト | 962 |
3 | 来 | 荒井マチ | 788 |
4 | 沈黙 | 中里 奈央 | 1000 |
5 | 漂白 | 朽木花織 | 997 |
6 | 永字占い | 翠 | 876 |
7 | (削除されました) | - | 999 |
8 | 虹の彼方に | 宇加谷 研一郎 | 990 |
9 | 波紋 | 戦場ガ原蛇足ノ助 | 994 |
10 | 潮騒 | ムシャブリータ・オナニーニ | 673 |
11 | 後部座席劇場 | 西直 | 1000 |
12 | 宇宙からの警告 | 山川世界 | 770 |
13 | タイムマシン | も。 | 1000 |
14 | 『チャタロー夫人の恋人』軍団 | 妄言王 | 1000 |
15 | 静かな木 | ユウ | 751 |
16 | アンダーテイカー | 野郎海松 | 1000 |
17 | 地下鉄 | 曠野反次郎 | 983 |
18 | 壊れた子どもたち | 逢澤透明 | 1000 |
19 | (削除されました) | - | 968 |
20 | あの人は今 | 朝野十字 | 1000 |
21 | 地震 | 海坂他人 | 1000 |
22 | 百万匹 | 林徳鎬 | 998 |
23 | 運動時のすばやい水分補給 | (あ) | 1000 |
24 | 16×16 | 赤珠 | 976 |
25 | 深夜の食卓 | Nishino Tatami | 1000 |
26 | 孵化 | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
27 | 雲のトアコ | 川島ケイ | 1000 |
アメリカ大統領専用機がハイジャックされた。国際会議出席のため、政界や経済界の要人も多く同乗している。
ハイジャック犯罪史上空前の大事件に国防当局は騒然とした。
「犯行グループの狙いはなんだ?」
「バンパイアの人権、及び生存権の要求です」
「犯人はバンパイアなのか!」
「そうです、彼らは吸血鬼です。吸血鬼の分際で、独立国家の建立を求めているのです。そのための領土を地球上のどこかに許可するよう、全人類に対して要求してきました」
「吸血鬼が独立して国家を作るつもりなのか?」
「不死身の免疫抗体を含んだ血清を輸出し、人工血液を輸入するという形で人間との共存共栄を提案しているのです」
「ううむ、理にかなっているな」
「ですが、すべてのマイノリティに人権や自由を大判振る舞いするわけにはいきません。容赦ない対応で臨みましょう」
「当然だ。だが血清だけはいただきたいな」
「長官、とりあえず、飛行機の燃料があとわずかになっています。バンパイアたちは給油のための着陸空港を指示するように言ってきています」
「わかった」
「各国のテロ対策特殊部隊の協力を要請して、着陸空港に待機させましょう。すでにSEAL、デルタフォースが作戦行動に移っています」
「いや、そこまでする必要はないだろう」
「……?」
数時間後、空港に降り立ったバンパイアたちはたちまち衰弱し、当局にあっさりと逮捕されてしまった。
着陸場所はソウル空港。さすがにキムチの国だ。外へ出ると、ニンニクの臭いが充満している。
四谷三丁目でタクシーから降りた土井は、握り締められた右手に眠る紙片に記載された住所へと歩き出した。汗の染み込んだ萎れた冬用スーツを不器用に着こなし、額から滲む汗を仕切りに拭っていた。
「それでは明日の午後二時にお待ちしておりますので」
昨日、愛想の良い女性と面接の約束を交わし、今朝は早くから身支度に追われ、今、漸く面接の場所へと向かいつつある。
急募!簡単な事務処理。社員として働きませんか?月給18万プラス歩合。残業なし。未経験者歓迎
そんな求人を土井は求人誌から見付け、即座に電話をしたのだ。
「では、こちらに掛けて下さいね」
「はあ、すいません」
「今日は本当に暑いですね」面接官は体のラインに沿った黒のパンツスーツを上品に着こなした女性で、昨日、電話で話した本人と思われた。
「求人誌で拝見させて頂いたんですが、事務処理っていうのは具体的にどういった仕事ですか?」
「ええ、はい、そうですね。事務処理ですね。えーと、土井さん、あなたはお金を稼ぎたいですか?」
「はっ?ええ、まあ、お金は稼ぎたいです」
「そうですよね!なら、細かい事は良いじゃないですか!土井さんはテレアポとかをやられた事はあります?」
「はあ、学生の頃に家庭教師のテレアポを少しだけやっていました。大学生の振りをして、子供からアポを取っていました」
「そう。それなら話が早いわ。ここの仕事も簡単に言うと、それと同じなんです。主婦の方々に電話をしてもらって、契約を取るって仕事でね、四件契約が取れたら、歩合として10万が付く事になります。」
「えっ、そんなに付くんですか?」
「ええ、付きますよ!働いている人の中では歩合だけで100万を稼ぐ人もいるんですから!土井さん夢ってあります?夢の為に頑張って働きませんか?」
「ええ、働きたいですけど、何を売れば良いんですか?」
「100万のCD-ROMです!パソコンで仕事をして頂く為の教材を購入してもらうんです!主婦の方々も稼げるので、みんなプラスになるんですよ!」
・・・・・土井は翌日から働き始め、半年で六件の契約を取った。そして、会社は二ヶ月目で株式のままで社名が変わり、半年目で倒産した。
土井の雇用形態はバイトと同じであり、倒産の次の日からまた職探しが始まった。土井は後味の悪さを覚えただけであった。
こめかみに鈍痛がほとばしると僕は、くらくらとつっぷした。ベットから外れた音を拾い、それを部屋の中央に寄せ集めると滲んだ闇が進行した。深夜2時、僕は疲れていた。腕を振り上げるのと同時にビームを発射する。連想しながら赤外線にて送る命令をテレビに下す。脳内で腫瘍が破裂したような音をたて、横一文字に広がった光の筋を集め広く深く情報を照らす。このテレビの奴が。この箱が。
誰が砂嵐と呼んだのか。白と黒と灰が入り混じった点を映し出す。点をひとつひとつ拾い集めるように目を追うと眩暈を引き起こし、またベットから外れた音を拾い集めた。今度は、闇が抜けた。僕は疲れていた。画面に額を押し当てると身体から吐き出すように言葉を漏らした。誰かお願いだから、お願いだからそっちに連れて行ってくれ。この世の中の何を憎み、そして何に怯え、何を愛し、何を得るのか。全てが未成熟な青年は情緒不安定のまま奇妙な形の箱を抱く。チラチラと白と黒と灰が混じる点を映し出す箱を。
向こうの世界では、向こうの世界の僕がいる。脳はなく、考えることもせず、結論だけが書き込まれているロボ。そいつが言った。
「来」
血と肉で覆われた世界で唯一無機質な物体で作られた向こう側の僕。彼の結論は「来」だった。僕が出した結論に従うままに顔面を箱に押し当てる。唾液が垂れると白と黒と灰はパラレルに広がる。やがてその道はブラウン管を突き抜けて、ロボの身体に突き刺さる。崩壊の合図を受けた向こうの世界は、途端に歪み、収縮し、爆発した。高濃度に凝縮された風が部屋に突き抜ける。
僕は、何かに迫られるように部屋を飛び出た。
真っ直ぐすぎる廊下の真ん中に本が落ちている。
「365日が記念日」という文庫本。
2月1日、僕の誕生日はテレビ誕生日の日。
挿絵に描かれたロボは、向こう側の僕とそっくりだった。
感動を覚えたところで、僕はこの遊びをやめにした。
自動ドアから足を踏み入れた瞬間、後悔した。初めて来た大型スーパーはあまりにも明るく、あまりにも広く、人込みの嫌いな私は気絶しそうになる。
自分が一体何を買うために来たのかということはどうでも良くなり、備え付けのかごに手当たり次第に品物を放り込む。早くここから出たい。
一番すいているレジを見つけて最後尾に並び、自分の番になったと思った瞬間、店長らしい中年の男がやってきて、レジを交代すると私に笑顔を向けた。
「予約のお客様がいらっしゃいますので、ちょっとお待ちください」
小学2年生ぐらいの男の子が突然姿を現し、両手いっぱいの小さなプラモデルをカウンターの上にばらまく。中年の男は慣れない手つきでレジを操作し、プラモデルの値段を一個ずつ丁寧に確かめては、そのたびに男の子に笑いかけ、それを永遠に続けるので、私はまた気絶しそうになる。
私の買ったものはいつの間にかビニールの袋に移されている。自分でやったのだろうか。
後ろの客が太い腕で私を押しのけると、カウンターの上に身を乗り出した。まだ若いのに女を捨て去ったような肥満した体で、順番を待っているのが苦痛になったらしい。顔を真っ赤にしながら汗臭い体を持ち上げ、ジャージーのズボンが張り裂けそうなほど大きなお尻を私の袋の上に勢いよくのせた。
袋から飛び出すあんこ、あんこ、あんこ……。
大嫌いなあんこばかりを、私は一体いつのまに買ったのだろう。それとも、実は私は甘いものが好きだったのか。好きなものを嫌いと言い、嫌いなものを好きと言って、今まで生きてきたのだろうか。
私はショックのあまり呼吸困難に陥りながら、あんこでべとべとの袋を巨大なお尻の下から引きずり出すと、そのままお金を払わずに店を出た。誰も気づかなかったのは、上品な人々は肥満した女から目をそむけ、そうでない人々の目は彼女に釘付けになっていたからだろう。
自分の車を置いた場所に戻ると、大型の観光バスが停まっている。慌ててあたりを見回すと、レッカー移動されたらしく、駐車場の隅っこにぽつんと一台、シルバーの小型車が見えた。
どうして移動されたのか確かめたかったが、あんこのお金を払っていない私には何も言えない。急いで車に乗り込むと駐車場を出た。
渋滞の道で片手運転をしながら、手掴みで自分の口に思いっきりあんこを詰め込んだ。何を買いに来たのか思い出せないまま、私はあんこで自分を埋め続ける。
新入社員として入社したあたしは、一ヶ月経った今もまだ仕事に慣れない。先日は浜田さんに「最近三階、夜は片中さんしかおらへんなあ」としみじみ言われてしまった。ショック。
今日ももう十時近く。先ほど完成した明日の会議資料のコピーを取っていると、そういえばまだ給湯室で布巾の漂白をしていたなと思い出した。慌てて行って水を捨てると、塩素系の、プールのような匂いが部屋中に充満する。
(小学生の匂いだ)
あたしは元気に泳ぎ回っていた頃のことを思い出しつつ、ぼんやりと布巾をすすいでいた。あの息苦しくて、でも楽しくて、水の跳ねる様を頭に描いて。
「なー、片中さん、まだおんのー」
いきなりのその声におっかなびっくりして、あたしは「はいー」と急いで応える。浜田さんだ。
「何か手伝おかー」
その大きな声はこの階の入り口からのようだった。入り口と給湯室には少し距離があるものの、彼女の大きな声はよく通る。
「いや、いいですよー。あたしももうそろそろ帰りまーす」
負けじとあたしも声を張り上げる。すると「そうなーん」と返事が。
「ええ、どうぞ浜田さんお先にー」
そう怒鳴ると、「ホンマはよ帰りなー。気いつけてなー」とあたしの声を更に上回る大きさの声が返ってきた。そして次の瞬間にはもう部屋はひっそりとしていたのだ。
(やれやれ)
大声を出した分、疲労が体を包む。ホント早く帰らないと、と目をしばたかせながら布巾を干して、給湯室の電源を落とす。そこでするりと今まで考えなかったことが頭の中に滑り込んだ。
(そういえば浜田さんはこの広いビルのどの階で働いているのだろうか)
それと同時に、この前同じ階の先輩と話していたことが頭に浮かぶ。昔この会社にいた女性、彼女の死因は特に過労死とは関係なかったそうだが、先輩曰く「幽霊として会社にまだ居着いていてもおかしくないぐらいには仕事熱心だった」。実際見た人もいるらしいという話に、しかし「非科学的」と鼻を鳴らしたのだその時は。その時は。
心拍数の上がる気がした。安易に結びつけるのは気が早いと分かっていても、冷や汗が背中を伝いそうで、慌てて心落ち着かせようとする。
(ああ例え、万が一、浜田さんが幽霊であっても)
(そんなことはきっと、あたしの仕事に、関係ない、ないんだ……)
するとふっと頭の中が真っ白になり、妙に安心して、でもなんだか涙腺の緩むような感じがして、慌てて後片付けに走った。
『永字占い』
昔食べた英字ビスケットをふと思い浮かべてしまうようなネーミングのこんな占いが
本業の書道教室よりも人気が出てしまうとは思いもよらなかった。
基本の筆使いを8つ含むことから習字の練習によく使われる「永」という文字を見て
それを書いた人の性格や人柄、その時の体調や心の様子をすばやく見抜き
それらに運勢をからめておごそかに告げる。
そしてその字に朱を入れながらさりげなく暗示を与えるだけの簡単なものだ。
ただ、時々訪れる特別な「客」には私も特別に極めた「技」を使う。
お香の匂いがたちこめるこの部屋に入ってきた時、その女も最初は半信半疑だった。
しかし彼女の書いた「永」の文字を見て、私が性格だけでなく現在の仕事や生い立ちなどを言い当てると
さすがに驚いたようだった。最後の言葉は決まっている。
「あなたは今、不毛の愛に悩んでいますね」
そのあとは心のゆれに乗じるように墨を磨らせる。
「ただ磨るだけじゃだめ。自分の心が腕を通って指を通って墨を通って硯に全部注ぎこまれるところをイメージして」
催眠効果の高いお香と暗示の言葉。
私の入れた朱にあわせて、ふたたび「永」を書く頃には心はほとんどからっぽだ。
あとは筆の動きに合わせてさらに深い暗示を与えてゆく。
強い意志、確実な未来、軌道修正、自信・・・
「アノオトコトハ ワカレタホウガイイ」
納得できる「永」が書きあがった時、朦朧とした意識の中で彼女はそう決意するだろう。
「ふん。いつもながら見事なお手並みだね」
出て行った客と入れ違いのように入ってきた男は、書き散らした半紙をつまみあげるとバカにしたようにそう言った。
愛されているという根拠のない自信から、好き勝手をしてはいつもしりぬぐいをさせる「夫」の言葉を聞きながら
私は手本として書いた完璧な『永』を見ておだやかに微笑む。
あなたは知らない。
彼女が別れるためにどんな手段を使うのか。
私が与えた最後の暗示を・・・。
数日後。
夫の愛人に妻が刺される、という小さな記事が新聞に載った。
占い師は最後の「右払い」の方向を間違ってしまったらしい。
「アナタヲクルシメツヅケタヒトヲ ケセバイイ」
佳樹は生徒をホームの端に並ばせるしゃがませる黙らせる線路を覗かせる。言う事を聞かないと蹴る生徒の後ろを行きつ戻りつしゃべる。「はい枕木を見る。もし1本が僕はいいやってサボったら大変な事になる。隣の1本もどうでもいいやって思うだろ。結局皆どうでもいいやって思って線路が曲がって電車が脱線しちゃう。お前達はあの枕木の1本1本なんだ。大人になったらあの枕木みたいに黙って働くんだ」
聡い所のある尚司がきく。「じゃあ僕達のお父さんは線路かなあ」。「馬鹿。線路は鉄」
これも聡い所のある隆幸がきく。「枕木な人生って嫌だなあ」。「しょうがねえだろお前ら公立なんだから」
どちらかというと鈍い恵子がきく。「先生は砂利ですか」。「砂利です。犬釘かも知れません」
一斉に犬釘ってなんですかなんですかと騒ぐ。佳樹は無視する。しまった犬釘も鉄だし。
鈍い真理子がきいた。「私立の生徒はどうなんですか」佳樹は言った。「よしもうすぐ英才が来るぞみんな用意」。佳樹はいつも真理子を無視しているつもりだが皆知っている今だって佳樹は真理子にちゃんと答えることになる。
電車が来た。先頭に『私立英才小学校遠足御一行様』とある。『美容整形外科特進クラス』とある。ほらね。佳樹は『市立堂島小学校遠足』の旗を持っていて、今、振った、ら、皆リュックから出したおやつを電車に投げつけ始めた。バナナが窓にへばりつくチョコで線を引く卵が割れて風に飛ぶマシュマロ投げても意味ないだろおい蛙は轢死したがおもちゃだ。ポテチをまだ食う奴もいる(哲也)。崇はリュックに詰めてた生米をファとふりかける。母親に教わった通りにやる。母親と練習した通りにやる。
「何やってんだ崇!それじゃあライスシャワーじゃんか」
「フア?」
佳樹は崇のリュックに手を突っ込み米を掴んで投げつけた。電車の窓にバチバチあたる。「崇固いものダメだって言ったじゃん」。佳樹は皆に米を配る。やれ投げろ窓狙え。
電車が止まるぞ。「おい止まるぞ。皆んな2列縦隊。はい。帰ります。遠足終わり」。皆とうに逃げ出している。遠足で大事なのは機転であり人生で大事なのも機転である。と佳樹も思う。鈍い真理子はまた遅れたので佳樹と一緒になる。皆よく言う事を聞くしなあ。どうせつまらない事しか教えないんだからどうでもいいのになあ。ほら皆走れ。真理子も走れ。
夕日が赤い。
「佳樹、旗、仕舞えば?」
「佳樹ってゆーな」
大家のおばちゃんが突然、窓を開けて入ってきたから、僕は驚いた。
「ちょっと、最近、夜うるさいわよ」
「すいません」
うんざりした。それでもここで「うっせえ」などと言ったら、部屋を追い出されてしまうだろう。
「すいません」
唇を噛みながら、もう一度謝った。
「よしよし」
おばちゃんは僕の頭を撫でて、「あら、いいシャツ着てるじゃないの? それおばちゃんに頂戴」と言った。
「え?」
かなり混乱した。それでも、嫌だと言えなかった。一つの家に住むのにも世の中の圧力があるのだ、と考えた。朝の光が部屋の中に差し込んでいた。
「いいですよ」僕は着ているシャツを脱いだ。
「ところでさ、最近さ」
おばちゃんが呟きはじめたとき、嫌な予感がした。朝の光は一本の柱のように部屋の中を照らした。部屋の塵がはっきりみえた。おばちゃんはにやり、と笑っていた。
「ちょ、ちょっとまってください」僕は言った。これ以上、おばちゃんのペースにさせてはいけない。
「ぷっちんプリン食べますか?」僕は冷蔵庫の中に入っている賞味期限が一ヶ月たったプリンをおばちゃんに勧めた。これで、お腹を壊してくれればいい。
「ぷっちんプリン? そんなのいらん。それよりさ、最近、夜うるさいんじゃないの?」
僕の我慢は限界にきていた。この人はどうしてこんなにしつこいんだろう? 僕は思わず、言ってしまった。
「あの、プライバシーのことなので」
「プライバシーなんかやめて フライバシーはどうかしら?」
「フライバシー?」僕の頭ではどう考えてもわからなかった。
「そう。フライバシー。全部、油で揚げちゃうの。たとえばね、この部屋の壁を油であげちゃうの」
おばちゃんはそういうと、スカートのポケットから小さなビンを取り出して、部屋の壁にぶつけた。ビンは大きな音をたてて割れた。中にはガソリンが入っていた。臭いでわかった。
「なにするんですか?」
僕は我慢ができなくて、おばちゃんにとびかかった。おばちゃんはタックルをするりとかわした。そして、ライターをとりだし、火をつけた。
部屋が燃えた。おばちゃんは、「どう? これでプライバシーもフライバシーになるわね。おほほほ」と笑った。
僕は逃げ出さなければいけないと思った。だが、僕はあくまでもプライバシーを守りたかった。どんなにきつくても、僕の空間を守りたかった。夜、うるさくしたかった。
やがて、体に火が燃え移った。
「ランパブか」
迫水はブラインドを引き上げ、グラウンドの方を眺めた。体操服姿の女子高生が列を成して走っている。目を細めたのが夕暮れの日差しのせいか無数の脚のせいかは本人にも定かではない。
「しんどいな」
迫水が声をかけても、武志は椅子に座ったまま微動だにせず、じっと正面を見据えていた。
父が脱サラしてランパブを開業すると言い出したのが三日前。一昨日半狂乱の母が父の頭を花瓶で殴りつけて家を出て、父が病院から戻ってきたのは前日の夜のことだった。武志はランパブ自体が俗悪に過ぎるとは考えていなかったが、かといって歓迎する理由も見当たらなかった。
「お前のところは確か妹がいたな」
迫水は椅子に座り直し、武志の視界へと収まった。頷くことすら億劫なのか、武志は口もほとんど動かさずに、
「はい」
と答えるのみであった。
実際武志は憔悴していた。母は行方知れずのままで、これから毎晩小学生の妹と二人でランパブ開業への歩みを聞かされるのかと思うと、不安にならずにはいられなかった。しかし、それが家族のことを心配する故か、自分の体面を気にする故かは、武志自身にもまだわかりかねていた。
「教師の俺から何か言うのも変だしな」
迫水も困り果てていた。親の仕事がもともと怪しいもの、あるいは極道や水商売ということなら珍しくないのだが、在学中に開業するという例は扱ったことがなかった。彼自身は既に潰しの効かない年齢に達していたので、武志の父の暴走する行動力を羨んでいるところもあったのかもしれない。ただ非難すればよいとは思えずにいた。
これがキャバクラか風俗店であれば、二人がここまで悩むことも無かったであろう。迫水も武志も、悩んだ先に辿り着いた袋小路は、なぜランパブなのか、という一点であった。
「なぜランパブなんだろう」
二人は同時に口を開いた。相手がその答えを持ち合わせていないことを知ると、失望の色を隠せなかった。
せめてキャバクラならメリットがあるかもしれないが、武志は自分がランパブ嬢を口説く場面は想像もできない。
中途半端に脱いでも何の慰めにもならないことを迫水ほど体験的に知っているものは多くない。迫水はまたグラウンドを見やった。極端な薄着には違いない姿で、若い娘たちが走っている。ランパブ嬢とそれほどの年の差はないはずだ。
ブラインドを下ろし、迫水は溜め息をついた。そして呟く。
「ランジェリー。プラス、パブ……」
一面に広がる白い砂の海岸で、潮風の騒ぎを無視してさまようカモメは敦子を馬鹿にしているようだった。
「ララバイ...てっちゃん。」
敦子の失恋レストランにまた新作が追加された。
砂の上に書かれた敦子の暴走族ばりの危険印太陽はいやらしいほど映えて写り、波が押し寄せても消して消えなかった。
敦子と鉄次郎の出会いは突然だった。敦子は二十歳になるまで宗教上の理由で鉄仮面をつけて育ってきた。
仮面姿の敦子は恋人はもちろん、友達もいなかった。一度こっそりと訪れた仮面パーティーでは仮面違いで失笑をうけた。
20歳のときにグレートサスケとのマスクを賭けた勝負に敗れ、鉄仮面をはずしたが、一人は変わらなかった。
一日中海を眺めること、それが敦子のすべてだった。
そんなある日、敦子に突然の恋が襲った。
一人で海を眺める敦子の前に昆布にからまった男が海岸に打ち揚げられた。
敦子は駆け寄った。男にはまだ息はあるようだ。敦子は必死に絡まる昆布をほぐした。
人とのコミュニケーションの取り方はわからない敦子は男が目を覚ましても黙って昆布と格闘していた。
「前世ラッコだったんだけど」
男が呟いた。
敦子は男のアニマルジョークに思わず拭き出し、潮も拭き出した。二十数年分の潮はいつもよりはやく満潮を呼んだ。
粘り気がある波が昆布のほぐれた鉄次郎をさらっていった。
「あんた名前は?俺は鉄次郎」
叫ぶ鉄次郎に敦子は叫んだ。
「私は敦子。あなたが好き」
波間に見える鉄次郎のいきり立った親指を敦子はずっと見ていた。
夕日が沈むの見届けると敦子は立ち上がった。海岸には鉄次郎とともにやってきた昆布が腐り始めていた。
車の中。煙草のにおい。あたしは後部座席にぐったりしていた。車に酔うのだ。
運転席に父親、助手席に母親。ぐったりしている娘を気にもとめず、母親は軽く窓を開けて煙草を吸っている。前に座るこの二人、あたしの両親はもうすぐ離婚するらしい。そんな話を一週間くらい前に聞かされた。
で、ドライブ。「三人家族の最後の旅行」ということらしい。どっちでもよかったんだけど、まあ付き合いでここにいる。でも後悔。父親のイライラと乱暴な運転をしていた。母親は煙草を吸っている。最後だからって無理するんじゃなかったとつくづく思う。世界が滅べばいいのに、とか思うのはこんなときだ。あたしはそっと目を瞑る。
ふいに車が止まった。目を開ける。すぐ横に歩道。前の二人が言葉を交わしている。母親が何かを言ってきたので、あたしは「何でもいい」と答えた。コンビニに寄るらしい。助手席のドアが開いて、閉まった。
あたしは親戚の家に行く。そこで暮らしていく。父親も母親も選ばずに、でもそれが一番マシな気がしたから、そうした。
会話はない。まだ母親は戻ってこない。
ぼんやりと眺めていた窓の外に、「ガリッ」と、そんな風景。
自転車。車のサイドミラーに、微かな傷がひとつ。自転車の上の少年が、青くなってブレーキをかけた。
……行けばいいのに、と思う。
すぐに父親が、運転席の男が少年を怒鳴りつけた。少年はさらに青くなる。男は調子に乗り、さらに嬉々として怒鳴り続ける。
コンビニ袋を持った女が戻ってきた。女は男と言葉を交わす。と、彼女もまた嬉しそうに少年に絡みはじめた。
ため息をつく。
この人達はどうして別れたりするんだろう? こんなに気が合ってるのに。こんなにそっくりなのに。
泣き出しそうな少年……。
あたしは息を吸う。呼吸をする。呼吸の仕方をときどき忘れてしまうのは、まあしょうがないことだ。言葉を選び出して、ゆっくりと声を出す。どきどきする。
「…………」
男と女は顔を見合わせ、困ったような苦笑いのような、そんな表情を見せた。少年は戸惑っていて、でも、あたしを見るとぎこちなく頭を下げた。
父親の運転は多少マシになった。母親は煙草を吸うことも忘れ、ミラー越しにあたしの様子をちらちらと覗いている。
あたしはそう悪くない気分だった。そう悪くなくて、それでいいような気がした。
だからまあ今んところは、世界は滅ばなくてもいいことにしておいた。
さわさわさわ。
夜風が河原の青草をなでた。
僕たちは土手の斜面に寝そべって星を見ていた。シャツを通してコンクリートブロックのひんやりとした感触が伝わってくる。
僕は左に少し顔を傾けて話しかけた。
「昨日のニュース見た?」
彼女は眉根を寄せて「そうねえ」と呟いたあと、言葉を選ぶように続ける。
「所属事務所のいい分も解るけど、わたしは産むべきだと思うわ」
向きを変えた風がシャンプーの香りを運んできた。
「……じゃなくて宇宙メッセージの」
「ふふふ、そういえばそんなニュースもあったわね」
マイペースの彼女はとても素敵だ。
「NASAがキャッチしたらしいよ」
「でも、何を叫んでいるのかは解らないんでしょ」
「うん、解析中らしいけど、そのうち解ると――」
「見て、流れ星!」
僕が話し終わる前に彼女が声を上げた。
流れ星は青い尾を引きながら、左上から右手前へと見慣れない軌跡を描いていた。それはぐんぐん大きさを増しながら瞬く間に接近してくる。僕はソフトボールを額でキャッチして、保健室に運ばれた時を思い出した。
逃げろ、という叫びは声にならなかった。
上体を起こし彼女の肩に手をかけた瞬間、凄まじい轟音と地響きがして、僕たちは爆風と共に飛んできた土の塊を全身に浴びた。
土煙の舞い上がる河原には、ひとかかえもある球体がめり込んでいて、そこから半径十メートルぐらいにかけて土が抉り取られている。クレータに覆われた隕石の表面は黒焦げで、マグマのような赤黒い斑紋が浮き上がりつつ消えてゆく。
七時のニュースが始まった。
「NASAが先日キャッチした宇宙メッセージの解読内容を発表しました。それを地球の言葉に置き換えるとこうなります」
男性アナウンサーは原稿から顔を上げるとそういうと、息を目一杯吸い込んでから、口の脇に両手をあてがい、そして叫んだ。
「ファーーーー」
「遂に時間を逆行する物質の開発に成功しました」
キッポラ研究員は誇らしげに言い、自らの発言の効果を楽しむかのように経営幹部の顔を見回した。机上には、こぶし大の黒い物体が置かれている。
「どういうことだね?」
「はい、社長。従来、時間を逆行する物質としてはタキオン粒子、つまり超光速粒子が考えられています。ディラック方程式によれば――」
「我々は多忙なのだよ。理論の話などどうでもいいから実際面の話をしたまえ」
社長が苛立った様子でキッポラの説明を遮った。
「わかりました、社長。この物質を用いれば過去へのタイムトラベルが可能になります」
「どういうことだね?」
「はい、この物質は未来、現在、過去と普通の物質とは逆に時間旅行をしています。ですから、この物質で人間が乗れる乗り物を製造すれば過去へのタイムトラベルが可能になるわけです」
「タイムマシンの開発に成功したのかね?」
「いえ、残念ながらそうではありません。この物質はとても軟らかいので、今の段階では人間が乗れるような乗り物を製造することは不可能です」
会長は工学部出身の技術者であるのに対し、社長は営業畑出身であり物理に関しては門外漢である。キッポラは、会長を一瞥し表情を窺ったが、会長は目を閉じてうつむいていた。
「それでは意味がないではないか」
「今の段階では、と申し上げたはずです。今後の研究によって硬度を高くすることは可能だと考えています。そこで、この会議をアレンジさせて頂いたわけです」
「どういうことだね?」
「我々のチームの研究予算として年間二十億ドルを今後十年間計上して頂きたいのです」
「キッポラ君、君は正気かね? そんな大金を出せると思うかね?」
「しかし、開発に成功すれば過去へのタイムトラベルが可能になるのですよ?」
「成功する保証はどこにあるのかね?」
「きっと成功させます」
「きっとじゃ困るんだよ」
「必ず成功させます」
ちょうどその時、会長が目を擦りながら大きな欠伸をした。
「キッポラ君といったかね?」
「はい、会長」
「君は、本当にそれで過去へのタイムトラベルが可能になると考えているのかね?」
「もちろんです、会長」
「その物質で作った乗り物に人間が乗っても、時間を逆行するのは乗り物だけじゃないのかね? 人間がタイムトラベルをするのであれば、人間をその物質で作る必要があるんじゃないのかね?」
「……なるほど、そうですね。では、その為の研究予算を――」
私の田舎の小学校は一学年一組で、文字通り「小さな学校」だった。それだけに、新学年の新しい教室で新担任が来るのを待つ間は、爽快な緊張感があった。
五年生の時の新担任は二十代の青年で、加藤雅之先生といった。
先生の提案で、教室で「記者会見」を行なうことになった。
「先生のこと、何でもいいから質問してくれ」
早く打ち解けたいという意図があったのだろう。出身地や血液型など平凡な質問が二三あり、先生は笑顔でハキハキと答えた。
同級生の一人だった俊弥が大声で尋ねた。
「先生! エロ本読んだことある?」
俊弥は日頃から「男はスケベだ」と公言していたが、まさか初対面の教師にそんなことを尋ねるとは。
先生はさすがに言葉に詰まったが、それでも力強く答えた。
「…あります!」
一瞬の静寂の後、場がドッと湧いた。
当時、私は唖然としたが、今は賢明なお答えだったと感服している。女子も居並ぶ中で、しかもこれから一年間教え子となる子供たちの前で、勇気ある肯定をしたとも思う。
選択肢は他にも二つあった。
一つは「ありません」の答え。もう一つは黙殺。
前者なら、私を含む生徒たちは直観的に「嘘臭い」と感じただろう。先生への不信感が心の澱となり、薄ら寒い一年になったに違いない。後者は論外で、生徒の質問に答えない教師なぞ、六法全書を知らない検事、包丁が恐い魚屋、ポケットの無い猫型ロボットだ。
俊弥をはじめ数人いた「スケベ公言派」の男子は特に、加藤先生になついた。
「先生もエロ本読んだことあるのか。オレらもあるよ。仲間だ」
彼らの言うエロ本が、女の全裸写真であることは明白だが、あれは果たして「読む」ものだろうか。
やがて加藤先生には「茶太郎」の渾名がついた。勿論、あの加藤茶に由来する。「チャタロー」と「チャタレー」の響きは似ている。俊弥は、
「オレたち、『チャタロー夫人の恋人』軍団だ!」
と、はしゃいでいた。「世界的なエロ本」という中途半端な教養を、錦の御旗にしたかったらしい。
担任教師のエロ公認に意を強くしたのか、悪童たちの破廉恥はエスカレートした。四年生の担任だった松浦京子先生のスカートめくりに熱中したのだ。「軍団長」の加藤先生は俊弥たちを叱りつけ、京子先生の前で謝罪させた。
一年後、加藤先生は、彼の名字に改姓した京子先生と共に学校を去った。
「巧いことやったなあ」
笑顔で言い放った俊弥が、とても大人びて見えた。
この頃ではなんでもかんでも 「消音」 が当たりまえになっている。しずかな街づくりの促進という政府の方針らしいけど、音のしない自動車とか、特定の人にだけ伝える車内放送、足音をたてない靴、音を吸収するトイレなど、至る所に消音設備が張りめぐらされている。
ひとむかし前には 「抗菌」 が流行ったこともあるけれど、その時とは比べ物にならない。いまでは駅前で歌をうたうことさえ禁止されているし、テレビやラジオの音が屋外に洩れると罰金刑に処され、警官に注意され激昂して大声を出そうものなら禁固刑だ。うるさいよりは静かなほうがいい。でも、少しずつ変な方向にすすんでいるな、とは思っていた。
下町の小さな企業で開発されたという新しいクスリ。
この薬を水に溶かして樹木の根元にまくと、数日で木全体の組成を変えることが出来るのだという。雨がふっても絶対に音をたてない。幹や葉っぱが音波吸収材の役割をはたすらしい。これを試験的に街路樹などに使用し、ゆくゆくは全国の森林に撒布する計画だという。
そして新薬の評判は上々だった。雨音がうるさくて仕事や勉強に集中できなかったという人々から絶賛の声が挙がり、伐採した樹木は建造物の遮音材としての用途も検討されているという。騒音のない静かで暮らしよい社会、その実現に貢献した下町企業の社員には紫綬褒章が贈られるとか、ノーベル賞だとかいう声もあって僕はいやだった。
雨音が好きな人は、全国に何人くらい居るのだろうか。
……それから数年後、某地方都市で水害があった。薬のまかれた森林では土地の保水力が落ちていたらしい。新しく造られた住宅地のほとんどが例の遮音材をつかった木造住宅で、流され、崩れるとき、やっぱり音はしなかった。
森林から流れ出る川では今でも、音をたてずに水が流れている。
ウルリッヒ・シュワルツコプ、レオナール・ダングラード、ハビエル・バルビエリ、ヴィルジリオ・ブッキ、エヴゲニー・コンドラチェンコ、デイヴィット・フレッチャー、ブレンダン・アシュレイ、イザーク・ゴールドスミス。
現在世界で暗躍するアンダーテイカーの中でも、彼ら八名は我が統制政府によって特に指定された、最重要危険人物である。巷間に「オクタゴン」と称され、我が政府への反動的地下活動に多大なる影響力を及ぼして久しい。各機関は最大限の留意を払い、我が政府の威信と鉄の秩序とを守ることに精励せよ。
統制政府第一一代大統領クリスティアン・ヨハンセン 第一七一号布告文書より
「……だとよ」
「ハッ」
ブッキは短く笑い捨てた。「オクタゴン」の面々は南洋のヘイヴン島でバカンス中だ。コンドラチェンコがブルー・ラグーンを片手にそこへやってきた。
「どうした?」
「クリスの道化芝居がいつもながら可笑しくってさ」
「我らが大統領閣下、か」
コンドラチェンコは口笛を吹いて、グラスを宙に掲げた。
「終わりなき夢と光なき未来に!」
ダングラードはカミュを読んでいた。
「で?」
「で、いよいよゲームも終わりに近いってことさ」
アシュレイは言った。
「勝者はどっちだ?」
「勝者はおれさ」
眉を潜めて、ダングラードは頁から顔を上げた。アシュレイの前にはゴールドスミスが座っており、チェスの駒を睨んでいた。
「そしておれたちさ」
「それには大いに賛同するがね」
ゴールドスミスは、ようやく駒を動かした。それは決定的なアシュレイの攻撃をいなし、体制を整える妙手だった。
「おいおい」
アシュレイは首を振った。
バルビエリはナイフを研いでいる。
「フレッチャー、神を信じるか?」
「信じるとも、それはおれさ」
シュワルツコプは表情も変えずに頷いた。
「少し訂正していいか?」
「ああ、いいとも。神はおれたちさ」
フレッチャーはにやりと笑ってバーボンのグラスを掲げた。シュワルツコプは依然無表情に頷いて、グラスを合わせた。
「戦争が始まったぜ」
とブッキ。
「いつ終わらせる?」
とアシュレイ。彼はゴールドスミスを下し、その腕時計――ヴァシュロン・コンスタンタンのアンティークモデル――をせしめていた。
「いつでも」
ブッキは請け合った。
「おれの誕生日が近いんだけど、いいかな?」
「いいとも。記念日は大切だからな」
「特におれの記念日はね」
バルビエリはナイフを研いでいる。
照明の具合がどうにもおかしいようで、構内はひどく薄暗く、時折かすかに瞬いたかと思うと、全くの暗闇が構内を覆ったりする。ただでさえどこか黴臭いのに、その上真っ暗になってしまうと、辛気臭いのを通り越して、不気味というべきくらいだったのだけど、この駅の職員でもなければ、電気技師でもない私にはどうすることもできないのだし、ほんの僅かの間いるだけの構内の照明が悪かろうと、列車さえ時間通りに来てくれればたいした問題ではなかった。ホームに散らばる他の客たちにしても左程気にしている様子はない
再び照明が点いて構内が明るくなり、といっても真っ暗な状態に比べれば明るいというだけの話で薄暗いのは相変わらずで、構内の角の方になるともうまるで真っ暗でどうにも辛気臭くていけないと思うのだけど勿論たいした問題ではない。そのようなことを考えながらぼんやりとしていると、ひたひたとどこからか水が漏れ出すような音が聞こえ始め、いや実際にそれは水が漏れる音だったようで、気づいた時にはすでにレールが水で浸っていて、さらにどんどんと水かさは増していき、ホームに溢れんばかりまでになった。しばし呆然とした後、これでは列車が来ることが出来ないではないかと、私は酷く憤慨したが、その怒りをぶつけるべき駅員の姿はどこにも見当たらない。
ボッボッボっボッと安っぽいディーゼル機関の音が聞こえ、穿かれた穴の向こうからにゅっと小型の船がやって来ると、さもそれが当然のようにホームに止まった。船に被せられた継ぎ接ぎだらけ幌の横で、船頭らしい灰色顔の老人がだまってホームを見渡すと、疎らに散らばっていた他の客たちがすっと集まってきて、皆乗り込んでいってしまった。そして船は、ただ立ち尽くすだけの私を残して、ボッボッボっボッと穿かれた穴のあちら側に消えていった。
船がすっかり見えなくなると水はすーっと引いていき、レールの上でぴしゃりと跳ねる一匹の魚を残して全く元のとおりになった。ぴしゃりぴしゃりと跳ねるその魚をぼーっと眺めていると、微かに瞬いたかと思うと明りが消え、ゴウッと音が響き、窓を明るく光らせた列車が私の目の前を通り過ぎていった。
再び照明が点いた。レールの上では先程の魚が轢断されていた。構内は相変わらず薄暗かったのだけど、この駅の職員でもなければ、電気技師でもない私にはどうすることもできなかった。
おいで
おいで
壊れた子どもたち
おどろ
おどろ
リズムにのって
開け放たれた玄関の前を子どもたちが、歓声をあげながら突風のように通り抜けると、路地のむこうから、歌のような、祈りのような声が聴こえてきた。
燦々と太陽が照りつける夏の日、ボクは玄関につづく廊下で友達を修理していた。友達は脳が中古の安物で、そもそも調子がわるかったのだけど、専用のラードが切れてしまって、かわりにサラダ油をつかったら、すっかりおかしくなってしまった。攻略本には「サラダ油だとさっぱりした性格になる」と書いてあったのに。
「グエッ、ギョッギョッ」
ジタバタする友達を拘束具で縛り上げ、頭を開く。おかしいところなんか、どこにも見つからないけど、脳をとりだして一回ひっくり返し、また、脊椎につなぐ。
友達は眼をぐりっと回して、言う。
「きみはこう言いたいのでしょう。イシャはどこだ!」
玄関から射し込む太陽が強い。すぐそばでセミが泣きはじめた。
おいで
おいで
壊れた子どもたち
声が近づいてくる。それは子どもの笑い声や大勢のばたばたという足音にまぎれ、最初はよく聴き取れなかった。しかし甲高い子どもの声とは異なり、深くしわがれたその声は、一度聴いたら耳から離れようとしないのだった。
さかそ
さかそ
紅い花
たくさんの子どもの足音がこっちにやってくる。ずりずりと地面を擦るだらしのない足音。そして、歌のような祈りのような声。
それは、あれよあれよという間にボクのすぐ近くまでやってきて、
やんだ。
玄関に射し込む光を大きな影がさえぎった。烏のような男だった。
男は、玄関にいる祖母たちに言った。
「壊れた子どもはございませんか」
祖母たちは三人ともオハジキに夢中で答えない。ボクは恐かった。祖母たちが男に気がついたら、ボクは……。
「いいえ」
ボクの背後で誰かが言った。
「うちには、そういうものはありません」
男は、鉤のような右手で左腕のねじを締めた。軽く頭を下げると、また、あの歌うような祈りのような声で去っていった。後を子どもたちがぞろぞろとついていく。
ボクは立ち上がり、どうして置いてくの!、と叫ぼうとしたが、声にならなかった。どうして! どうして! 女の子なのにズボンをはいているから?
「のうキクチサヨコ」
友達が眼をぐりぐり回しながら言った。
「眠れや………」
気がつくと、ボクは誰かに、強く抱きしめられているのだった。
煙草のヤニで変色した壁の一部には、部屋に似つかわしくない派手なカーテンがかけられていた。その向こうにある窓を開けさえすれば、異国の、灼熱の風が流れ込み、全てを焼き尽くすだろう。
ベッドに横たわったまま、天井で回るファンを見つめる。色とりどりの記憶の断片を舞わせながら、ねっとりとした風が螺旋を描いて降りてくる。懐かしい思いも今はない。
足音が聞こえ、部屋の前で止まった。『Don’t Disturb』の札がかかっている部屋の掃除はしない。それでも、いつかはドアが開かれる。
遠ざかる足音を聞きながら、まどろみの消滅する時を思い、悲しむ。
部屋の中は甘酸っぱい香りで満たされていた。閉ざされた部屋だというのに、漂う匂いに誘われて、どこからか虫たちが集まり始めていた。
ファンの金属音が部屋に響く。風は螺旋の中に、香りを巻き込んでいく。ベッドに当たった記憶の断片は、さらに細かなきらめく螺鈿のかけらとなって部屋中を舞い続けている。
たゆたうカーテン越しに、光は強くなり、やがて弱まっていく。
繰り返される朝と夜。
闇の帳が降りると、部屋の中も幾らか涼しくなった。それでもクーラーが効いた部屋とは違い、昼間の熱気が消えることはない。噴き出した膿んだような体液で濡れた体に何かが触れる。爪が全身を優しく愛撫する感触に似ていた。その微かな感触は、おぞましくも甘美だ。
愛しい者のはずがない。褐色の滑らかな肌の女は、隣で身じろぎもしない。天井を向いたまま、横たわっている。
悲しいことに、自分以外の人間が何を考えているのかは分からない。人が他人を理解できるということは幻想でしかない。常に理解しようとしているだけで、永遠に分かり合えることなどない。
はっきり分かることは、肉の柔らかさと湿り気を帯びた生暖かい感触だけだ。
その確かさも、もはや必要ではなくなっていた。柔らかな風が体をなぶり、虫たちが途切れることなく愛撫を続けている。懇願も悪態も嗚咽も、この異邦の地には届かない。ただ、ファンの軋んだ音が休みなく聞こえる。
光と闇の繰り返しが、時の流れを知らせてくれる。この部屋の中で時は不要だというのに。
情け容赦なく、時は流れていく。
カーテン越しに外が明るくなる。
また朝がやってきた。
いつかは消えるこの場所で、しばしの間、快楽の夢を見る。
岩場の割れ目に足を挟まれ気絶していたのは原住民の美しい娘だった。シュウはレーザー銃で慎重に岩を切った。足の怪我はひどく、娘を背負い基地に運び、医療室で手当した。ベルが鳴ってレギュラー番組の開始を告げた。シュウは急いでモニタの前に座った。
「お昼休みはウキウキ・ウオッチング! 今日から火曜日のレギュラー・コメンテーターは、太陽系から四.三光年、ケンタウリ調査団唯一の生存者、シュウ・フルヤさんです。聞こえますか」
「聞こえてるで」
「あの人は今で人気沸騰したフルヤさん、どう感じてますか」
「わしの母ちゃん浪速娘。突っ込みは任せとき」
「植民団が旅立ったのが三百年前。すぐに連絡が途絶えようやく二十年前調査団が到着。先遣植民団は文明を忘れ原住民化。調査団は原住民と風土病に襲われ次々死亡。医者であったフルヤさんの母は現地生れの人間だけが風土病を免れることを突き止め出産するもその後病死。以来フルヤ少年はたった一人で基地を死守してきたのです」
ハイパー通信システムで時差なく地球と連絡はできたが、調査団を送りこんだ世界連邦は瓦解、地球では自由同盟と義勇連合に分かれ、泥沼の戦争が続いていた。
「今一番欲しいものは何ですか」
「金や。金くれや」
「何に使うんですか」
「生活費やんけ」
風土病で植民計画中止、戦争で地球の人口問題解決。世界連邦は既になく、もう人は来ない。しかし基地機能の停止は父母の遺志に背き、調査団の全滅を意味する。シュウは地球の商社から無人光子船で必要品を購入するつもりだ。そのためには自分で稼ぐしかない。
「地球での戦争についてどう思いますか」
「戦争反対。そんな暇あったら、たこ焼き器送ってや」
スタジオがどっと沸いた。自由同盟日本州は平和な母の祖国でありどこよりも気前よくギャラを払ってくれる。彼らの機嫌を損ねてはいけない。
娘は数週間で歩けるまでに回復した。彼女の部族は蛮族に侵略されていた。蛮族は調査団を殺戮したのと同じ奴等だった。シュウはコンピュータに現地の地形を打ち込み軍事データベースを検索した。シュウの指導で土嚢が積まれ投石器が作られた。平和な部族は奮闘し、遂に蛮族を追い払った。シュウは部族の晩餐に招かれた。シュウが助けたのは酋長の娘だった。
「シュウ、私と結婚する。王になる。ここに住む」
「君を守る。他のことはまだわからない」とシュウは答えた。
レギュラー番組の出演時間が迫っていた。
五月の末の、日曜日の昼下りであった。
自宅の茶の間で、青空を背にして静かにソファに座っていて、来たな、とおもった。
しかし世界には何も変わった様子はない。家の中は森としている。
──人間の意識の明晰な部分なぞ、饅頭のうす皮みたいなもの。
この頃つくづくそう実感するというのは、別に心理学で深層意識とか無意識とか言うらしい、そんな高尚な話ではないのである。ときどき得体の知れない眩暈におそわれるたびに、自然とそういう感慨が来る。
たとえば、風が吹いて樹の枝がざわざわと揺れているのを眺めるだけで、視界がぐらりと揺れ、自分の生命の根も吹き抜かれそうな心細さが生まれ、すぐに抑えがたい不安感・恐怖感に成長していく。静かだった水面に、ひとりでに波が立ってきて、それがどんどん激しくなっていくような気分である。冷静にものを考える余裕など無くなってしまう。無論、こうして文章を綴ることなど全く出来ない。
医者に言わせればパニック障害とか何とか診断はつくのだろうが、そうと認めたが最後だと思って放ってある。先の展望のない無為徒食の暮しがいけないのであり、十年近く以前、毎日のように招いていた死神の残した変調でもあろうか。
寝不足もよくないので、この頃では根を詰めて読書したり原稿を書いたり等も出来ず、とにかく無理をしないように、怖々暮すよりない。
微かな泡立ちのように、不安の芽が、顔を出す。そのまま目を閉じて、意識を強制終了する。
この時はそれで済み、何もなければそのまま忘れていたに違いないが、次の日の夕方、大きな地震があった。
家のあたりは震度四ほどで大した事はなかったが、それでも天地が轟と鳴り満ちると共に、本立の本がみだれ、人形は倒れ、食卓の味噌汁はお椀から溢れ出した。
揺れがしずまってからふと、昨日の「発作」が思い出された。地震の前に動物が異常な行動を示すことがある。犬が悲しげに鳴く、蛇が木に登る等という時、彼らにもまた、説明のつかない不安・恐怖が感じられているのではないか。
そしてもし地球に意識というものがあるならば、地震とはその一寸した錯乱であり、動物たちはそれに共鳴する。人間でも日々何もせず空に過している者には、伝わりやすいのかも知れない。
妄想の類いではある。地震がおさまって以来、眩暈の発作もしばらく影を潜めているのは、作品らしい作品も書こうとせず、相変わらず怠けているお陰であろう。
虫歯を見つけられてしまった。痛みはない。放っておいてほしいが、若い医者は熱心に口のなかを探っている。その間、目線の先にある電灯をじっと見つめていた。特別の素材で作ってあるのだろう、見ていても眩しくない。新しい診療所。人工的。
「ここ、痛いですか?」
顔を横に振る。それでも先の尖った棒がさらに口内を探る。そしてついに動かぬ証拠を見つけたようで、
「ここ、痛いでしょ?」と嬉しそうに言う。医者は私の目の前で両手を広げてみせ、あれ、棒はと思うと、私の口の中から伸びている。
「ほら」と言って医者は金属の棒の先を軽く叩き、穴の空いた歯に刺さったそれは、ぶらぶらと揺れた。
「穴が空いてるんです」
痛みはなかった。
「痛いでしょ?」
痛くない。
「でもね、私のほうが詳しいんです。だから治療したほうがいい」
耳を疑ったが、医者は棒を抜くと麻酔はいらないといい、すぐにドリルを突っ込んだ。手伝いの女の子が小型の機械で唾液を吸う。歯が削られる。ひどく危険な音。それでもときどき鈍い痛みがあるだけだ。
「百万匹はいますね」と医者が言う。女の子が頷く。乾いた口の中で高速の刃が唸る。目をつぶると音が恐ろしく巨大に感じるので、時計を見ていた。それから診療所に流れる音楽に注意を向ける。また、時計を見る。医者の目は軽い興奮で輝いていた。
百万匹?
医者は一生懸命に私の口の中を削った。やめる気配がない。
なにかがいるのだろうか。でも、百万匹いたとしても、もうなにも残っていないだろう。頼んでもいないのに。
電灯をにらむ。
そしてそれがなんであれ、私のものなのだ。
眩しくない。でも私は目を細めて難しい顔をする。
少し、痛くなってきた。
ガラス越に診療所の前の通りが見える。街は夕陽に照らされている。でも、診療所にはあの緩い、暖かな光が届いていない。不思議なことに。
「口の中になにいるんですか?」
医者はドリルを洗っていた。それは私の想像よりもはるかに大きく、かたちは異常だった。黙々とそれを拭き、女の子が受けつけに戻るころ、やっとこっちを向いた。
「あなた、最後に歯医者に来たのはいつですか?」
五年は来ていないはずだった。
「いろいろ変わったんですよ。あなたは知らないかもしれないが」
受付で女の子にも聞いた。
「いえ、なにもいませんよ」
「きれいになりました。一匹もいません」
そう言って、にっこり笑った。
ちょっといい温泉旅館なので部屋には穴ぼこ型ではない普通の冷蔵庫がついており、沢山の飲み物の中から選ぶことができた。けれども三十を過ぎてから二人ともすっかり酒に弱くなっていたので、結局僕はスポーツ飲料を手に取り、布団に寝そべる彼女に軽く放った。その行動は予期しないものだったらしく、彼女は裸のまま横に転がり缶をよけた。布団がへこむ。拾って缶を開けてやると、彼女は言う。
「運動時のすばやい水分補給、てやつ?」
僕はうなずき、彼女と回し飲みした。やがて時間になったのでテレビをつけた。百円玉は要らない。
僕達は寝転んだまま頬杖をつきゴールデン・タイムの番組を見る。画面の中にも彼女がいて、僕達と同じ旅館に泊まっている。先程僕達が食べたのと同じ料理を、彼女は中年の男と一緒に食べている。僕は尋ねる。
「こいつ誰?」
「時代劇俳優。名前は忘れちゃった」
「ふうん」
「ねえ、嫉妬したりしないわけ?」
「だって、仕事なんだろ」
「そう、仕事。あいつに合わせてバカっぽいコメントを付け加えて……」
場面が切り替わり、今度は彼女が温泉に入っている。カメラは後ろから彼女をとらえている。両肩は湯に沈んでおらず、うなじがよく見える。
「視聴者に裸を見せるというわけ」
彼女はそうつぶやき、突然一句詠んだ。
いいですねしか言わない温泉タレントの肌は湯を弾かざりけり
「心の俳句なのか、それ」
「うん、かなり自由律だけど」
いまや僕には山頭火や放哉を議論する余裕はなくなっていた。切り出してみる。
「女湯ってあんなふうなんだ」
「女湯と、女湯に入っている三十路の女性、どっちに興味があるのかなあ?」
せっかちはすぐに見透かされた。急に彼女は立ち上がり、布団の横で丸まっている浴衣を手に取る。下着は床に残った。後ろを向いて羽織ったが、明らかに僕に見られることを意識しているようだ。僕は彼女のラインを正確にトレースした。帯を締め終えた後、彼女は涼しい顔で言う。
「真夜中だったら女湯に一緒に入っててもばれないって」
不意に彼女は残っていたスポーツ飲料を持ち上げ、僕に横顔を見せつつ障子を背景に姿勢よく立ち、斜め上を向き一気にそれを傾け、そして飲み干した。
先程のあの姿態とは違う健康的な雰囲気にめまいを覚える。彼女は僕に問う。
「どう、カンジ出てた?」
「出てたんだ、CMに」
「この会社じゃないけどね」
彼女は缶を指差しながら少し照れたように微笑んだ。
妻の顔を、はっきりと思い出すことが出来ない。あんなに愛していたのに。あんなに愛されていたのに。
2度と動くことのない妻の華奢な手首をもちあげたとき、無性に心が安らいだ。
妻はあまり目立たない女性だった。私と付き合い始めた高校時分から慎ましく奥手で、いつも恥ずかしそうに目を伏せながら、少女のような瞳で私を見つめた。
結婚してからも妻は相変わらず内気で、どうしようもなく一途だった。
自分からはあまり外出しようとせず、いつも玄関先で私の帰りを待っていた。私が帰ると小さな体全体で喜びを表し、少しでも私の帰りが遅れると、怯える子猫のような顔をした。
妻は私に精一杯優しかった。私を異邦人のようにうやうやしく扱い、私がなにを言っても決して抗わなかった。妻は私と一緒にいるだけでそれだけで幸せなようだった。
私が与えられることに疲れたのはいつからだろう。決して微笑みを崩すことのない妻に、言い知れぬ嫌悪を覚えたのはいつのことだろう。
妻に不倫がばれたとき、妻はなにも言ってはくれなかった。
ただ初めて唇を歪め、心なしか伏せた目を曇らせて、肩を何度も震わせていた。
次の日、妻は自宅で首を吊って死んだ。
それから少しして、私宛てに宅配便が届いた。
長方形の底の浅いダンボール箱に伝票が貼り付けてあって、差出人の欄にはなにも書かれていない。なぜか心が騒いだ。私は無心でダンボールのガムテープを引き剥がし、花柄の包装紙を破り捨てた。
中から顔を覗かせたのはジグゾーパズル。無地の白い箱に収められた256ピースのパズル。箱を揺するたび、音を立て波打つ256欠けの記憶。私はパズルを埋めはじめた。
ピンクのカーディガン。流れるようなうなじ。か細い首筋。微かに紅潮した頬。
少しずつ出来上がっていくパズル。見覚えのある女性の顔。
強い耳鳴りがした。鼓膜の奥が、何度も何度も泣きじゃくるように震えた。まただ。強い強い、心臓を揺さぶるような耳鳴り。くそ、鳴り止まない。どうしようもなく吐き気がこみ上げてくる。
パズルの顔を、直視することが出来ない。それでもなにかに吸い寄せられるように手が動き、パズルを埋めていく。
あと10ピース――5ピース――3ピース――そして最後のピースが埋まる。
――私ははっきりと思い出した。
亜麻色の髪。褐色の瞳。微笑を浮かべる、艶やかな唇。
「さぁお嬢様、食事の時間ですよ」卓袱台の前の緑は、台所からの幸の声に思わず振り向いた。
「ご免なさいね、急に押し掛けて来た上にご飯まで作らせちゃって」
「いえいえ、終バスを逃したお嬢様の為なら」大げさな礼の後、恭しく皿や椀を並べてゆく幸の姿に、緑は思わず吹き出した。
「でもこれって、結構手間がかかったんじゃ?」
「緑はベジタリアンって聞いたから、肉も魚も使わずに作ったんだ」いつもの口調に戻った幸は、料理についての説明を始めた。「まずこの玉葱の味噌汁は、利尻産の昆布から使った出汁を使用、煮干しも鰹節も使わない特製品です」
「意外とこくがあって美味しいじゃない」味噌汁を一口吸った緑は感嘆の声を上げた。
「昆布の出汁はこのじゃが芋の煮物にも使われているんですよ。そして今回の自信作」じゃん、と口で効果音を出しながら、幸は丼の蓋を開けた。「ピリ辛アボカド丼です」
「ピリカラーボガトドン?」奇妙な名前に不意を突かれた緑は思わず聞き返した。「恐竜みたいな名前だけど」
「濃厚で深い味わいのアボカドに、一味唐辛子とネギでピリッとした風味を加え、更にレモンで爽やかな味を演出してみました…って、もしかしてアボカド食べたこと無い?」
「名前は聞いた覚えはあるけど、フルーツじゃなかったの?」
「最近は鮨屋でもよく使うらしいよ、そんな甘くないし」幸は盆に残っていた小皿を丼の前に置きながら説明を続けた。「そうそう、お好みに応じてこの特製醤油をかけるとより美味しく…」
小皿の中身を注視しながら聞いていた緑は、ふと幸の側に向き直った。言葉が急に途切れたのに気付いたからだった。緑が見たものは、「ちょっと失礼」と台所に消えて行く幸の姿だった。
暫くして、別の小皿を手に戻ってきた幸は、急に緑の前に跪いた。
「もっ、もしかしてかけちゃいましたか?さっきの醤油」
「まだ箸も取ってないけど?」
「もっ、申し訳ございません!」幸は緑の前で深く頭を下げた。「先程お出しした醤油、実は魚のアラから取った魚醤でした! ベジタリアンであるお嬢様に対しての非礼、何とお詫びしたらよいか」
「その小皿は?」
「ははぁ、これが本命の特製ごま醤油でございます」幸は頭を畳にこすりつけながら小皿を差し出した。「どうか、これでお許し下さいませ」
「ありがとう、でも」緑は小皿を盆の上に置きながら箸を手に取った。「私は薄味の方が好みだから」
鱶とは一体何だろう、もしかしたら孵化の間違いじゃないだろうか、と人々は思い、辞書を引っぱり出して、それでやっと、ああ、鮫のことなのか。フカヒレのフカね、と納得して、「太陽と鱶の季節」と印字されたチラシをゴミ箱へ捨てた。
東京都庁に、鱶が居る。二本の塔に渡されたロープの中心にぶら下がっている。巨大な鱶だった。目は濁り、曇ったガラス玉のようだ。その目で鱶は高みから、カラス達さえ辿り着けないような高みから地上を見下ろしている。
背後には太陽。
「太陽と鱶の季節」は東京都知事主催のイベントであるにも関わらず、都庁の周りにはあまり人は居なかった。居たことは居たけれど興味がないのか、皆足早に通り過ぎてしまう。鱶を観ていたのは半ズボンの少年だけだった。少年は手に賞状を持っていた。東京都作文コンクール佳作の賞状である。少年は授賞式に出席したのだ。佳作なのにわざわざ会場まで来て賞状を貰うなんて面倒だなあ、と思いながら少年は賞状を受け取った。今はぼんやりと鱶を見上げている。
「凄いかい?」
少年の隣に男は立ち、言った。二メートルを越す巨躯。都知事の石原ジンタだ。
「私が、獲ったんだよ」
少年は凄いとか凄くないでは無く、鱶の目は何故あんなに曇っているのに、星のように輝いて見えるのだろう。死んだおばあちゃんもそうだった。死者達の目のあの不思議な色合いは何なのだろう、と思ったのだが、結局色々な部分を飛ばし、凄いね、とだけ答えた。
都知事はその言葉に満足した。
「君は頭の良い子だね」
彼は満足したままで展示を終わらせることにした。部下達に合図をし、ロープを切らせる。
「これからも頑張りたまえ」
鱶は少年と都知事の目の前に落下し、地面に大穴を空けた。大気が揺れ、少年の持っていた賞状がかさかさと鳴った。
都知事はその後、人類史上初の都知事兼宇宙飛行士になった。スペースシャトルに乗り込み、人々に拍手で送られ、彼は火星へと旅立っていった。
少年は青年になった。女に大変もてるようになった。何一つ嘘を吐くことなく、彼は女に全てを貢がせた。
年上のソープ女にその白く細い指を舐めらながら、彼は窓の外を眺める。
「星が見えないな」
見当違いの角度で空を見上げ、そう呟く。
あれから「太陽と鱶の季節」は開催されていないが、地面に空いた穴はそのままになっていた。暗く底の見通せないあの大穴は、今でも東京の名所として人気が高い。
「雲になります」
という書き置きを残して姉がいなくなったのは、一年前のことだ。そのとき姉は二十六歳になったばかりだった。僕は慌て、父も母も祖母も、姉の恋人の長沢さんも、大いに慌てた。
長沢さんはうちの家族が姉をどこかに隠しているんじゃないかと疑い、母は長沢さんのせいで姉がいなくなったのではと疑い出して、二ヵ月後には長沢さんから音沙汰はなくなった。
何年か前に、姉の書いた小説を見せてもらった。誰にも言わないでね、と念を押されて。
トアコは、ごくごく普通の少女だった。バドミントンが得意で、本を読むことが好きだった。そんなトアコはある日、隣のおじいさんから自分が本当は雲になるはずだったのだと聞かされる。「くも?」「そう、空に浮かんでる雲だよ」トアコは雲の巣から生まれて、そのまま雲になるはずだったのに、その日はとても寒い日で、冷えて雨になって地上に落ちて、人間になってしまったという。「なんでそんなこと知ってるの?」「私もそうだからね」
そしてトアコは雲の巣を探す旅に出た。今度はちゃんと暖かい日に、雲になって空に浮かぼう。だけど途中で気が付いた。雲になったら、バドミントンもできないし本も読めない。パパとママは、気付いてくれるだろうけど。どうしよう、どうしよう、どうしよう。
「どうしたらいいと思う?」
姉が僕に聞いてきた。分かんない、と僕は答えた。
ちょっと前に長沢さんに会った。
「姉さんは、どう?」
まだ、と僕が答えると、「そっか。それじゃ、早く見つかるといいね」と長沢さんはすぐに去っていった。後ろから石でも投げつけてやろうかと思ったけど、もちろんそんなことはしない。
天気がよくて、白く美しい雲がところどころ、浮かんでいた。姉が浮かぶのはきっと、こんな日だ。
僕はうちわを持ってベランダに出た。かたちのいいひとつの雲に向かって、うちわを扇ぐ。
すぐに疲れた。空に向かってうちわを扇ぐのは、けっこう大変だ。僕は扇風機を部屋から引っ張り出してきて、空に向けた。風速を強にして、しばらく待った。雲はゆっくりと流れるから、それにあわせてちょっとずつ傾きを変えて、ちょうど真上にさしかかってきたころ、頬に滴が落ちた。ぽつり、ぽつりといくつかの雨粒を落として、雲は流れていった。
ああ、これは、姉の涙だ。
そう思ったら急にばからしくなってきて、扇風機を止めた。濡れた顔を手で拭い、トアコのことを思った。