# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 壊れた思考 | 永瀬 真史 | 464 |
2 | 凶器の行方 | のの字 | 923 |
3 | ウサギのような君へ | 中里 奈央 | 1000 |
4 | 落し物 | 水野ハジメ | 989 |
5 | (削除されました) | - | 991 |
6 | 月の国 | サトリ | 1000 |
7 | 金沢 | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
8 | PM2:00 | raspy | 636 |
9 | 砂地行脚 | マサト | 1000 |
10 | (削除されました) | - | 994 |
11 | 舌鼓 | 江口庸 | 713 |
12 | 路上生活者 | 世糸巡一 | 874 |
13 | 誕生日には幸運がいっぱい | 戦場ガ原蛇足ノ助 | 1000 |
14 | 海の惑星 | 朝野十字 | 1000 |
15 | ベーカリー・ストロベリー | 川島ケイ | 1000 |
16 | 卑怯者 | ドグ | 856 |
17 | アスファルト | 逢澤透明 | 1000 |
18 | 論よりショーコ! | 野郎海松 | 999 |
19 | 閻魔の知られざる秘密 | 妄言王 | 1000 |
20 | 夢の続き | も。 | 826 |
21 | ふたりのり禁止 | 西直 | 1000 |
22 | 滲むな、滲むな君よ | 朽木花織 | 963 |
23 | 脱皮 | 海坂他人 | 1000 |
24 | 夕暮れを待つ | 斉藤琴 | 998 |
25 | (削除されました) | - | 986 |
26 | 隣 | 荒井マチ | 980 |
27 | 鍵 | 林徳鎬 | 999 |
28 | 日常浪々夢 | 赤珠 | 974 |
29 | ニューニューシネマパラダイスパラダイスパラダイス | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
30 | シンク | 曠野反次郎 | 985 |
服にケチャップが付いた。これはいけないと思って蛇口を捻りケチャップの付いた服を揉み洗いする。少しずつケチャップは落ちていく。だが、白い服には少し目立つ染みができてしまった。こんな服じゃ、皆に会いにいけないと思った。今日は友達の家に遊びに行く約束をしていたのだった。お母さんは今寝ているから自分で服を探さなくっちゃ。真っ白で清潔な服着て皆に見てもらうんだって張り切っているのだ。タンスの中を引っ掻きまわして探したけど良いものがないって思った。そうだ、弟から借りよう。弟は、服をケチャップだらけにして寝ている。そんな幸せな顔をして僕も眠ってみたいなぁ。僕は心の中で弟に向かって服を借りるよというと、弟は首だけを微かに縦に動かした。弟も白い服が好きだった。タンスの中には白い服がたくさんあった。僕はその中から白いTシャツと限りなく白に近い青色のジーパンを借りた。急いで身に付けたけれど、またケチャップで汚れてしまった。まいったなぁと思ったけどもう動きたくなかった。僕も皆と同じ様にケチャップだらけで床に崩れ落ちると静かに眠りについた。
「まだ何か私に……?」
吉田のアパートを訪ねてきたのは、あの時の刑事だった。確か名前は三沢といった。
「令状はお持ちなんですか?」
と、吉田は静かに尋ねたが、三沢は勝手にドアを押し開き、そのままズカズカと居間まで入ってきた。吉田は困ってしまって、その場にただ立ちつくした。
「いえ、今日は非番です。仕事じゃなく、プライベートでお伺いしました」
三沢はソファーにすわり、真剣な顔をしている。
「仕事じゃないとおっしゃってもご用件は例の殺人事件のことでしょ? あなたは、まだ、私のことを疑っているんですか」
「プライベートだから正直に言いますが、その通りです。私には納得がいかないんですよ。どう考えても、犯人はあなたしかいません」
ところが、警察の捜査結果では、吉田が限りなく犯人に近いという疑惑以上の証拠は発見できなかった。凶器がどうしても見つからないのである。被害者は袈裟がけに斬り殺されていたのだが、凶器は刃渡りの長い鋭利な刃物、例えば日本刀のようなもの、と推測されていた。
疑わしきは罰せず、というのが法の基本だから、状況証拠だけではどうしようもない。
「諦めの悪い刑事さんだ。なら、現場から私がどうやって凶器を隠すことができたかを明らかにしなければいけませんよ。できますか?」
「そのことですが、個人的にあなたの過去の経歴を調べさせていただきました。昔、サーカスにいらっしゃったそうで」
三沢は吉田の顔色を探るようにいった。
「で、これはあくまでも推測に過ぎませんが……ところで、いつまでもそこでしゃちほこばって立っていないで、まあ、座ったらどうですか?」
「いや、それはできません」
「座らないと、話できないよ。とにかくリラックスして」
「座れない事情があるのです」
「まさか、逃げるつもりじゃないんだろうね」
吉田はため息をついた。
「そこまでおっしゃるのなら……」
いうが速いか、吉田は上を向いて開けた口からするすると天井に向かって何物かを吐き出した。三沢刑事はあっと叫んだが、後は凍り付いたように動けなくなった。
非番で拳銃を所持していなかったのは、まったく三沢の迂闊である。
「剣の丸飲み」……それは、吉田がサーカスで演技していた頃の得意技だった。
あの日の君は、雪ウサギのように真っ白なコートを着ていたね。
初めて二人きりで会う嬉しさで約束の時間よりかなり早く着いた僕は、公園の入り口で暖かな冬の陽を浴びながら、君との出会いを思い返していた。
君はいつも目立っていたよ。大勢の仲間に囲まれて笑いの中心にいる、やんちゃなウサギのような君と親しくなるのは大変だった。
僕を見つけて息を弾ませながら駆けてきた君は、飛び跳ねる子ウサギのように可憐だった。僕を見上げるいたずらっぽい瞳には冴えない男が映っていたから、君を抱きしめたい気持ちを抑えるために、思わずジャンパーのポケットに両手を入れた。
冬の公園には誰もいなかったね。堀の表面には薄っすらと氷が張り、冬囲いされた木々はひっそりと春を待っていた。
君がずっとしゃべり続けていたのは沈黙が怖かったからだろう。ただのサークル仲間からやっと親しい友達になったけど、大学以外の場所で会うのは初めてだったし、僕が黙り込んでいたから、君は余計にしゃべらずにはいられなかったんだよね。
思いきって君の手を握ったとき、驚いたように僕を見上げた君の瞳に、すっかり自信を取り戻した男が映っていた。だからそのままキスをしたんだ。おしゃべりな口をふさいで男と女になるためにね。
君が逃げようとしたから思いっきり強く抱きしめた。大きく見開いた目には怯えが溢れ、そこに映る男は力強い支配者だったから、僕はその目をふさいであげた。
君はすっかりおとなしくなって穏やかなウサギのように僕に総てを預けてくれたね。
あのとき僕が噛み切った君の舌はガラスのキャンディーボックスの中でホルマリン漬けになっているよ。スチール製の本棚の二番目の段で目覚まし時計とブックエンドに挟まれている。夕陽が当たるとキラキラ光ってきれいだよ。
あのとき僕が使った太い針も引き出しの奥に大切にしまってあるよ。ティッシュでくるんでから真っ白なハンカチに包み、透明なプラスチックケースに入れてある。
君のきれいな血がすっかり黒ずんでしまったのは残念だけどね。
あれ以来、僕たちは真実の恋人同士になったね。こんな幸せなことはないよ。君もそう思うだろう。解っているよ。
君はウサギのように真っ赤な目をして、何も言わずに一日中微かに震えながら、僕のそばから離れずに、今日もおとなしくうずくまっているね。
緑色の首輪が似合っているよ。ウサギのような君は本当に可愛い。
昼休みも終わりがけ職場に戻ろうとす小生の目にとんでもないものが映って吃驚した。
小生のごとく昼食と休息とを楽しんだサラリーマンの足元を縫うように全裸の女性が転がっている。その肌は輝くように白く、唇は微笑さえ浮かべ、瞳ははるか虚空を見つめ続けている。そしてそんな彼女の肌を申し訳程度に隠す生鮮食品の短冊たち。小生、気づいた。これは女体盛りと呼ばれるものではないか。
噂では女体盛りを楽しむにはかなりの費用が必要と聞く。これはいわば大量の札束が道路に無防備に置かれているようなものであり、善良な市民としては即刻交番に届けるべきである。ところがサラリーマンどもは、自らが遅刻しないことのみに精一杯であって、ひたすら女体盛り様々を避けつつ歩みを進めるばかりなのである。
なんたることだろう。小生の腸煮えくり返り、怒髪天を突くとはこのことか。現代日本の病巣はこんな身近に存在していた! こうなったら仕方がない。小生、自らをして、あの女体盛り様々を交番に届けようではないか。
女性と誠実なつきあいしかしたことのない小生、実は女性の全裸を生で見るのは初めてであり、いささか照れを感じつつ女体盛り様々に近寄った。近くで見たらば、ますます女神と見間違うばかりの美しさ。荘厳な微笑は一瞬とて崩れることなく、肌は白桃のように瑞々しい。そしてその上に整然と並ぶ刺身たち。秘所にあたる部分に鮑が盛られているのは、また粋な趣向であると、小生、一瞬とは言え自らの使命を忘れ見入ってしまう。
いや、こんなことではいけない。それでは凡百たる他のサラリーマンと変わらないではないか。小生、ようやく我に返り、女体盛り様々をおずおずと抱き上げようとした。
ところが抱き上げた瞬間に彼女の楽園を覆い隠していた鮑が道路へと転がり落ち、瞬間サラリーマンの無骨な革靴がそれを踏み潰すではないか。小生、泣きそう。なんでも女体盛り様々は大変高級であり、もし弁償しろと言われたら小生の生活は。そうしている間にも鮪鯛平目など生鮮食品の群れは容赦なく道路に落ちていき、その度に待ち構えていたかのように革靴が、それらを踏み潰して去っていくのである。
成る程それで皆は女体盛り様々を無視したのかと気づいても後の祭り。小生、今やほとんど刺身がずり落ち単なる全裸の女性になってしまった元女体盛り様々を抱え、呆然と立ち尽くすより他ないのである。
今年の七夕は生憎の雨でしたが、私はその日、月にいました。
月の裏側には小さな国がありましてね。
そこの巨大図書館に入り浸りで古代の文献とか読んでたんです。
いえ、ほんとは紙に書かれた挿絵を眺めて来ただけなんですけど。
なにしろ私、日本語しか読めないもので。
絵に縫いこまれた物語の輪郭を追うだけで精一杯です。
穏やかな安息に包まれた国でした。
古い魂の息づきが聞こえる、美しい廃墟なんです。
誰もいない筈の路地裏には残り香が漂っていました。
うら若い娘が髪に振りかけるような香水の香りです。
道向こうの曲がり角、歩き去る誰かの服の裾がひらりと見えることもありました。
幽霊のような恐ろしいものではないのです。
あれはこの国を形作る思い出の姿。
住人たちのいのちが過ぎ去って久しい今も、国自身の懐に抱かれて、大切に温められているのでしょう。
やがて蒼い星が地平から顔を出せば、地上へ帰る頃合いです。
かつての王国に別れを告げ、天の川のさざめく夜空へ向けて小舟を出します。
しばらく帆を進めてからふと振り向くと、月面から打ち上げられてはじけた花火の、色あざやかな閃光が目を射抜きました。
舟のへりから身を乗り出すと、下界に大勢の人だかりが見えました。
彼らはそれぞれ星月草を入れたカンテラを手にぶら下げて、花火の火の粉を浴びながら出店をひやかしています。
しかし賑わいの風景はしんと静まり返っているのです。
口々に喋る声も笑う声も、花火の炸裂する音も無く、まるで無声映画のような光景でした。
すぐに王国の見る夢を目の当たりにしているのだとわかりました。
幾星霜も彼方に行われた星祭りの記憶を。
気が付くと私は何かを叫んでいました。
すると火の見やぐらに登っていた一人の若者がこちらを仰ぎました。
幻影である筈の彼は私を見止めると、こぼれんばかりの笑顔で大きく手を振ったのです。
私は彼にどこかで会ったことがあると思いました。
どこの誰だったか思い出せないまま、私は手を振り返します。
見えなくなるまで、幾度も、幾度も。
やがて月がすっかり遠ざかり、見慣れた地上の山脈が近付いてきた頃、だしぬけにあの若者が誰だかわかりました。
王国の巨大図書館で見た古い書物には、代々の王家一族の挿絵が描かれている箇所がありました。
その中の一人である、国民に最も慕われた王子様が、あの若者とそっくり同じ笑顔で描かれていたのです。
ええ。今年の七夕はこんなふうにして過ごしていました。
マモルは雨の日が好きだ。晴れの日が嫌いなわけではないのだけど、避けたくなるくらい強い陽射しや、迷いひとつ感じさせない澄みきった青空は、マモルの気持ちを重たくすることのほうが多かった。気分が沈んでいるときなどは「がんばれ、がんばれ」と空から過剰な期待をされている気がして、落ち着かなくなった。
霞がかかっていて、立ち込めている曇り空は、マモルを励ました。学校の友達が「今日はじめじめして嫌だね」と言っているとき、マモルはひそかに粘りつくような湿り気を心地よく感じた。よくわからないが、むくむくと広がっていく黒雲は自分の心情を素直に表していて、マモルはありのままの自分でいられる気がした。
雨が降る。
ぽつり、ぽつり、雨がしょぼつくと、グラウンドがまだらに染まっていく。やがて、ぽつりがぽつ、になり、ぱらぱらと音がして、気がつくとざあざあ降っている。数学や化学の授業中はそんな自然の奏でるささやかなメロディーがマモルの耳を魅了した。
一時の雨季を除けば、マモルの住んでいた地域は雨が少なかったので、この楽しみを味わいつくせぬまま高校を卒業した。大学を決めるにあたり、金沢を選んだ。日本中に、マモルの進もうとする大学と同じ偏差値の大学はたくさんあって、マモルはとくに大学に期待する人間ではなかったから、どこへ進んでもよかった。今おもえば、雨が関係しているかもしれない。
今でも覚えているが、梅雨のある時期、マモルはニュースをみた。台所では母親が夕食の支度をしていて、マモルは居間で洗濯物をたたむように言われていたときだ。画面に映し出された兼六園には不穏な雨が降っていて、雨に濡らされた紫陽花の花はいかにもなまめかしかった。それはマモルの心を十分にかき乱した。
付き合っていた彼女に「兼六園って知ってる?」と尋ねた。「金沢。遠いところね」彼女は答えた。マモルは「ふうん」とこたえたあと、「紫陽花がきれいな庭やった」と言った。それでおしまい。
金沢の雨は気性が激しい。乱れるように降る日は、バケツをひっくり返したような騒ぎになる。そして、どこまでも優しい。天使に髪をなでられているような気分というのはこういう気持ちのことかもしれない。そういう日は傘をささない。雨がぬらした街は、あまりに鮮やかに映える。優しいのに、哀しくなるときはそんなときだ。
今日も雨。じゃんじゃん、降っている。もっと降れ。もっともっと。
男は喫茶店に入る。
喫茶店は古びており、テーブルは幾度となく拭かれてつやが出ている。男は一息付いた後「ホットコーヒー」と注文し、膨らんだ鞄の中から何枚かの紙と、スーツの内ポケットから黒光りするペンを取り出して鞄のボタンを音たてて閉じ、鞄をテーブルの下にある狭い荷物入れに押し込んだ。午後過ぎの太陽が少し射し込んでテーブルを照らし、広げた紙の上を通過する。男は首を傾けて肘をつき、しばらくペンを弄んだ後、姿勢を正して紙にペンを走らせ始めた。アイスコーヒーがコースターと一緒に届く。男は店員に何かしら言う。店員が頭を下げて、アイスコーヒーを下げる。後には水滴が残っている。テーブルの上に置かれた紙が動いてしまう。水分を吸いとり、しわがはいる。男はハンカチを取り出すと、それを濡れた部分に当てた。
ホットコーヒーがコーヒーカップに入って届く。テーブルの下の荷物入れは底板が手前に傾いており、鞄は徐々に滑って、男の膝の上に落ちる。男はまた鞄を元の荷物入れに押し返して、紙にペンを走らす。紙には表が書かれており、そこには幾つかの数字が記載されている。男は紙を眈むように顔を近づけた。紙には日が射しこんで、濡れた部分を乾かし続けている。
喫茶店の洗い場からガラスを洗う音が水の流れる音と共に聞こえだした。店員はコップを洗い、まな板を洗い、包丁を洗い、皿を洗う。ドアに付いている鈴が鳴ってドアが開き、客が入ってくる。ドアが開いている間は店内が明るくなる。ドアが閉じる。鞄が男の膝の上に落ちる。
達郎は額に滲む汗をハンカチで拭うと再び砂浜を歩き出した。海水浴客で賑う砂辺は、スーツ姿の達郎を酷く場違いな人物に変えた。
「この暑さ何とかしてもらえませんかね?」達郎の横を付きまとい歩く赤い競泳用パンツの男性が呟いた。
「何とかしてくれって言われたって暑いものは暑いんだから仕方がないじゃないか」そう言うと、達郎は付きまとう男性を砂地へ激しく突き飛ばし走り出した。
「ちょ、ちょっと待って下さいよ!あなたが決めた事でしょ?今日、雨が降らなければスーツ姿で海岸線を歩き続けるって!」男性は砂だらけになりながら叫んだ。
「うるさい!だから今日、スーツ姿で歩いてるじゃないか!」達郎は立ち止まり、はき捨てる様に叫ぶと足早に歩き出した。
正午を過ぎたばかりの日差しは強く顔の皮膚に差込み、スーツの中は汗にまみれ、一歩一歩が重苦しかった。
「八つ当たりしないで下さいよ。昨日、あなたが明日は必ず雨だって言ったんだから。雨が降らなきゃ昼間にスーツで海岸を歩き続けるって約束でしょ?」
「少しは黙れ!こっちは暑いし眩暈はするし、本当に倒れそうなんだよ!」
「えっ?まだ歩き始めて三十分も経ってないじゃないですか。これからが大変なんですから頼みますよ」
達郎は大きく目を見開き、男の言動を有り得ないという風に首を振った。
「ああ、ちゃんと歩き続けるさ。だからちゃんと見てろよ」
「ええ、ちゃんと見ています!こっちは報告する義務があるんだ」
その会話を最後に無言で歩き続けた。達郎に付きまとう男は数歩後ろを歩きながら、時折携帯で連絡を取る以外、眼光鋭く達郎を見つめ続けた。
何時の間にやら達郎の周囲には人だかりが出来、みな、達郎の歩く姿を嘲笑的に眺めていた。
達郎の意識が飛ぶまでそれ程の時間は掛からなかった。砂地を見つめ続けていた視界が狭くなったとこで、突然前後不覚になり、フラフラし始めたかと思うと地面にのめり込むように倒れた。見物客はその姿を歓声で迎え、拍手や笑い声が辺りを包んだ。
「ちょっと大丈夫ですか?」赤い競泳用パンツの男は達郎に駆け寄り揺すった。
「うおっあがっ」達郎は言葉にならない言葉を出し小刻みに痙攣をした。
「ちょっと、大丈夫ですか?だれか!だれか!」
赤い競泳パンツの叫びは散り始めた見物人の隙間を通り抜けるだけであった。見物人は遠巻きに二人の様子を眺めるだけで、関わりを避けるかのよう散っていった。
少年京平の家は日本料理屋。中学を卒業してから父泰一の仕事を手伝う。泰一と京平は血のつながった親子ではない。京平はそれを知らない。泰一が急死。自分が死んだら親友の幸造の店で修行させてもらうという手筈ができていた。京平は一人前の料理人になるべく「とむら」へ向かった。そこには同じ釜の飯を食ったという幸造はいない。番頭格であった重弥が「とむら」を牛耳っていた。幸造は、妻藤子を殺めた罪で服役しており、二年前に刑期を終え、離れにこもり、店のことには干渉しなくなっていた。贔屓客からのお願いということで住み込みを始めた京平をひと目見たときから重弥は自らの身の危険を感じた。重弥は策を弄して何とかこの京平を店から追い出そうと考えた。毎日、毎日異常とも思えるしごきを繰り返した。京平は身体を壊し入院した。毎日見舞ったのは幸造。京平は幸造に指導を依頼する。承諾した幸造は密かに鍛える。素質のせいか腕は上達し、復帰後も店での地位を上げた。重弥は幸造が京平の後ろ盾になっていることで危機感を強める。重弥は幸造を自動車で襲う。重体の幸造。幸造は京平に隠していた事実を告げた。自分は重弥に狙われていたこと。お前は息子であること。十四年前の妻、藤子は重弥に犯された。密通と誤解した幸造は藤子を責めた。藤子は自害。あとで間違いだと知り、藤子への罪滅ぼしとして自ら罪を被って服役していたことを語る。京平は驚き、復讐を誓う。ちょうど、「とむら」三十周年パーティーが行われる。京平は料理主任を買って出る。重弥も失敗すれば、店から放逐する口実ができると任せる。当日、京平はその日とれたての肉料理を振舞う。その日以来、重弥の姿は消えた。皆が重弥に舌鼓をうったのだ。
今現在、東名高速道路を車で走るのは至難の業である、と言われている。2年ほど前にこの高速道路を端から端までノンストップで通り抜けた者が居たが、この若い女はその後ありとあらゆるメディアで──と言ってもその数はたかが知れているが──数ヶ月間スターとして扱われた。それほど、現在の東名高速道路は通過が困難になっているのである。
かく言う私も、彼女の成し遂げた事に単純に驚嘆し感動し半ば呆れたものである。彼女が通過にかかった時間は約20日。よくそれだけの時間を安全に過ごすだけの食料や水、それに衣類などが一編に手に入ったものだ。慢性的な物質不足に見舞われている世の中でそんな事の出来る彼女は、余程の金持ちか余程のコネがある人間であると考えられるが、こちらにしてみればフザケルンジャナイヨと言いたくなる。こちらはその日暮らしの生活を続けているのだ。
今日だって死人の持ち物を漁って露店市で売り払ってようやっと手に入れた食料を半分以上かっぱらわれ、玉ねぎ1個しか食べられなかったのだ。彼女はさぞかし車の防衛にも力を入れたことだろう。隣に住む金城がはるばるパーキングエリアにまで行ってラジオを聴いてきたところによれば、彼女はショットガンとその弾をトランクに大量に積み込んでいたそうだ。その弾は、ゴールに到着する事には殆ど無くなっていたらしい。やはり余程の金かコネが無ければ出来ない芸当である。こちらはクロスボウの矢1本を使うのにも逡巡すると言うのに。
こんな事を考えていると腹が立ってきて仕方がが無いので、私はそれに関する思考を取り止め、金城の住む4WDに行って何か食べ物を分けてもらおうとミニクーパーから出た。彼には異常な物探しの才能があるので日々の稼ぎもいいし、おまけに心が広い。黒パンの1つ位は分けてくれるはずである。
振り返ると、私の今の住まいであり終の棲家となるであろうタイヤが4つとも破裂したミニクーパーは、薄汚れた防音壁を背景にしても相当に汚れて見えた。そろそろ掃除をせねばならないが、その水を何処から手に入れようか。
私の頭に新たに考えるべき課題が浮かんだ。
今日は私の誕生日で、人間で言えば四十歳ほどになる。私はスタジオの隅で、快調に進む撮影を見守っていた。ジェフは今日も天性の愛想の良さを十二分に発揮し、スタジオ中の人々の心を和ませていた。数週間後には、彼の写真が全国の犬好きの心を和ませることになるのだろう。私はそんな彼が家族の一員であることを、この記念すべき日に改めて誇りに思わずにはいられなかった。
「ハーイ」
いつの間にか隣に現れたエリーが言った。ジェフへの親心が表に出てはいなかったか。私は照れ隠しに軽く鼻をかいた。
「やあエリー。どうだい、ウチのゴールデンボーイは」
「悪くないわ」
「おいおい、それだけかい」
「冗談よ。スタッフの態度を見れば分かるでしょう? 彼は時代に愛されたみたいね」
エリーはどこか懐かしげな様子で撮影中のジェフを見つめた。憂いを含んだ横顔。すぐ隣にいるのでなければ、自然と溜め息が漏れるような眺めだ。私はジェフとエリーに巡り会えた幸運を神に感謝した。
「君にそう言ってもらえて安心したよ」
「あら、今のは私を誉めてるの?」
エリーは私の顔を覗き込んで微笑んだ。下心が表に出てしまったか。私は照れ隠しに話題を変えた。
「君の方はどんな調子?」
「そうやってすぐ話題を変えるのは良くない癖よ。……私は順調。最近は撮影の仕事が多いわ」
はいオッケー、とカメラマンの声がスタジオ内に響き渡った。ジェフの撮影は終了し、スタッフが慌ただしげに誰かを探し始めた。
「お呼びかしら。行ってくるわね」
エリーは小走りにスタッフの元へ向かった。小柄な彼女の姿を見つけたスタッフが安堵の笑みを浮かべたのを見届けて、私は帰り支度を始めた。
「今日も絶好調だったな、ジェフ」
帰る途中で声をかけたが、撮影で疲れきったジェフは一旦大儀そうにこちらを見て、またすぐにまどろみ始めた。もう一人前のプロだ。
「エリーの奴、今日は一段とおめかししてたな。なあジェフ、お前は彼女のことどう思う?」
今度はもう、ジェフは微かに耳を動かしただけだった。
電話が鳴り、私は車を道路脇に停めて携帯の画面を見た。思わず溜め息が漏れた。
「――やあエリー。珍しいな、君の方から電話だなんて」
「――今日は特別な日でしょう? ジェフの出世のついでに、お祝いしてあげるわ」
眠った犬を起こさぬように気を使いつつ、四十二歳の中年男がハンドルを切る。慌てて駆け付けた私を見て、エリーはきっと笑うだろう。
ロイは咥えてきた石をスピーカーの頭部の擂鉢状の穴に押し込んだ。スピーカーはがりがりと体を震わせて石を噛み砕いた。
「Mn、Zn、Fe、うむむ。ただの石ではなくて鉱床を探して頂きたいのだが……」
「答が先だぞ、スピーカー」
「質問が先です――失礼ながら」
「ぼくたちはどこから来たか」
「さよう、地球です。あなた方イルカ族は聖なる地球の生き物であり、人間の友人です。そして遥か宇宙を越えこの星にやってきたのです……」
ロイはスピーカーの話を聞くのが楽しみだった。それで仲間たちからは少し変わり者だと思われていた。
ノルが歯をカチカチ言わせながらやってきた。
「ロイ。ジルがキリノガに取りつかれた」
浮遊島の移動に合わせ波に乗って伴走するのがイルカたちの楽しみだった。キリノガは浮遊島に棲む大きな甲殻虫で、海に入ってイルカに取りつくなど聞いたことがない。
ジルの傍には心配そうに仲間たちが遊泳していた。キリノガの四対の節のある足がジルの背中をがっちりと抱え込み爪が肌に食い込んでいた。頭部の長い針は根元まで突き刺さっていた。
「人間のところへ行け!」ジルは叫び続けた。
長老はジルがキリノガに操られていると言った。
「人間に会えば助けてくれるかもしれない」
「伝説では、ドライランドがあると言う。そこには水がなく、人間がいると言う」
ロイ、ノル、ジルは親友だった。三頭は人間を探す旅に出た。
艱難辛苦の末、三頭はドライランドに着いた。静かな入り江から顔を出すと、二本足のひょろ長い生き物が現れた。
この星に人間と知能強化されたイルカとコンピュータがやって来て一万年が過ぎた。人間はテレパシーを進化させ生き物を慈しむ穏やかな性質に変わった。イルカは第二の故郷で平和に繁栄した。コンピュータは知識伝達という使命を忘れず環境適合と自己再生産を繰り返した。
「ほほう、これは珍しい。キリノガじゃないか」
人間はジルに取りついたキリノガを優しく撫でた。
「サソリのような醜い生き物よ。けれどもおまえたちこそがこの星の元来の主人であり唯一の知的生命体なのだよ」
そのキリノガは選ばれし者だった。脱皮を繰り返すキリノガの中で、神に選ばれたものだけが、永遠の命を授かる。
「さあ、イルカを放しておやり。おまえには、地位も名誉もいらない。人間を捕まえて帰る必要もない。海に入って脱皮を繰り返し、新たな浮遊島になるのだよ。母なる大地となるのだよ」
「たとえ世界からお米がなくなっても」
真希ちゃんはそこでひと呼吸入れて、中野君をキッと見た。
「パンは食べません」
そして手に持ったパンを私に差し出す。今日のパンは、クリワッサンという。中野君のネーミングは、いつもおかしい。
「あ、どうぞ」
中野君に促され、クリワッサンを口に運んだ。栗の甘みが、口の中に広がる。
「おいしい」
私が言うと、中野君は嬉しそうに笑う。けど、どこか寂しそうでもある。そりゃそうだ。中野君は、真希ちゃんのためにこのパンを作ってきたんだから。
中野君の実家はパン屋さんで、中野君はそのあとつぎだ。半年くらい前に、はじめて自分で作ったというパンを真希ちゃんにあげたんだけど、パン嫌いだから、と真希ちゃんは断って、私が食べた。それからだいたいひと月ごとくらいに、中野君はパンを作ってきて、そして私が食べている。
もう意地の張り合いみたいだ。中野君にもパン屋の息子としての意地があって、真希ちゃんにもパン嫌いとしての意地がある。
「帰ろ」
真希ちゃんに言われて、私はカバンを手に立ち上がる。中野君はまだ残って勉強をしていくらしい。
スーパーで中野君に会った。見たこともないようなキリリとした表情だったけど、私が声をかけるとすぐいつもの優しそうな笑顔になった。
果物コーナーを見て、そういえば、と思い出して言った。
「真希ちゃん、いちご大好きだよ」
中野君はびっくりしたように私を見て、なんだか照れくさそうに「ありがとう」と言った。
そんなことも知らないんだ。
中野君は、いちごのパンを作ってきた。5つのいちごが桃色のパンに乗っている。
「いちごがご」
差し出されたパンを、真希ちゃんはじっと見ている。いらない、とは言わない。言えないのだ。だって真希ちゃんは本当にいちごが大好きだから。
「今日おなかいっぱいなの」
私の言葉に促されたように、真希ちゃんはすっとパンを手にとって、5つのいちごをパクッと食べた。笑顔がこぼれそうになる。中野君はじっと見ている。
真希ちゃんはゆっくりとパンを口に近づけて、ひとくち食べた。噛んで、噛んで、飲み込んで、中野君を見て言った。
「いちごは、おいしい」
そして真希ちゃんはそのままパンをぜんぶ食べた。中野君は嬉しそうに、本当に嬉しそうに真希ちゃんを見ている。
私もいちご好きなんだよ、と言いたかったけど、言えなくて、机にほっぺたをくっつけた。ひんやりと冷たかった。
重大な故障が見つかり俺の乗っていたロケットはその惑星に不時着した途端、二度と動かないガラクタになってしまった。地球へ帰るロケットを奪うためにその惑星で初めて出会った人間に光線銃を突きつけた。
「この星ではロケットのような貴重な物は一人乗り用の物が一台あるだけです。その一台もあなたのような地球へ帰ろうにも帰れない人達によって今、中央の広場で奪い合いになっているんです。頼むから撃たないで。」
この星の人間は光線銃を持っていないのか両手を挙げて泣き叫ぶように俺に話した。それが本当なら一大事だ。早くしないと俺が乗るはずのロケットが誰かに奪われてしまう。こんなつまらない星で一生を終えてたまるか、地球へ帰るのは俺だ。
中央の広場に急いで駆けつけるとそこにはもうすでにこの星の住民によって人だかりが出来ていた。人だかりを割って広場の中央に進むと綺麗な水しぶきを上げる噴水の前で三人の男達が盛んに言い争いをしていた。髭の男、痩せた男、太った男、そしてどこから駆けつけたのだろうか司会のような服を着た男がしきりに男達をなだめていた。
「待て!ロケットに乗るのは俺だ!」
俺が周りの注意を引きつけるようにそう言い放つと三人の男は一斉に俺の方を向いて何かを言おうとしていたが、その前に俺は光線銃の引き金を引いていた。三人の男達が焦げた死体となるのに時間はかからなかった。どこからかこの星の子供の声が俺に向かって、
「卑怯者!」
そう叫んだ。そして俺が卑屈な笑みを浮かべながら声の方に銃口を向けようとした瞬間、俺の体は炎に包まれていた。驚き振り返るとさっきまで男達をなだめていた司会が卑屈な笑みを浮かべながら立っている。右手には光線銃。
まさか、お前も地球へ?この・・・卑怯・・・者・・・
「これで帰れる!地球に帰るのは俺だ!」
司会が笑う中央の広場の遥か上空で、まだ炎を上げ続けている男がこの惑星で初めて出会った人間は騒ぎの隙に盗んだこの星唯一の貴重なロケットの中でそう叫び、迫り来る遥かな宇宙に向けて卑屈な笑みを浮かべた。
彼女に言われるまま腕をだした。金属の、にぶい輝きが目に入り、冷たい感覚が手首に走った。
「なんだよ、これは」
私は手錠をかけられ、柵に繋がれていた。
「あなたは残るの」
彼女は言った。
私はアスファルトになりたかった
彼女は私から離れ、巨大なタンクの蓋を開いた。原油独特の臭いが流れる。
「なぜだ!」
手錠は強く引っ張ると、よけいにきつく締まった。体がしびれて、うまく声がだせない。さっき二人で飲んだ薬が効きはじめていた。
「あなたは残るの」
彼女は言った。
「そして書くのよ」
家と家、街と街のあいだに敷き詰められて
車に轢かれ
人に踏まれ
犬に小便をかけられる
彼女と私は病を通じて知り合った。同じ病を持つ者どうしが、家族にも恋人にも話せない悩みを打ちあけあう。そこで、彼女と私は互いの肉体の奥底に長い間しまいこんでいた、不定形の黒い塊を、言葉にしようとした。
白線に区切られ
標識や信号を刺し込まれて
私は人の役に立つ
私が売れない作家であることを打ちあけると、彼女は一篇の詩を書いてきた。「アスファルト」という題がついていた。
目立つこともなく
有り難がられることもなく
口がないので自らの役割を吹聴することもできない
「いまからでも遅くはない」
私は言った。
「一緒に道路に敷かれましょう」
何十億年も昔、下等で小さな生物たちが海を支配していた。彼らは寿命が尽きると雪のように海底に降り積もった。そうして気の遠くなるほど長い間、自らの重みに押しつぶされ、地球の熱に温められて、互いの壁を取りはらい、熔け合い、混じり合って黒い液体へと変化していった。そしてさらに長い、永遠に近いほどの眠りを経て、再び地上に運びだされた。
運びだされた黒い液体は火にかけられて、人の役に立つ部分が抽出される。抽出されたあとの残りは、黒く固められる。
「あなたは残るの」
彼女は言った。
「そして書くのよ。私のこと」
「やめろ! 俺をおいていくな! 小説なんてどうでもいいんだ。俺をひとりに」
彼女は黒い液体のなかに消えていった。
「俺をひとりに……しないでくれ……」
轢かれに轢かれ
踏まれに踏まれて
私は人の役に立つ
摺り切れるまで横たわり
古くなれば
新しい私が
その上に敷き詰められる
ああ
私は
ほんとうに
アスファルトになりたかった
「ハイ、みんな元気? 晴ノ台学園放送部が送る木曜プログラムの時間だよ。DJはおなじみツカサ・ショーコ、イエイ。今流れた曲、分かった? そう、『チュエルボン』の『ラヴ・エミュレーション』だね。みんなイイ恋してね、OK? それじゃ、今週もイッてみようか!」
「今日読むリクエスト、コレ? うげえ、また来てるよコイツ。気ッ色いんだよね、この○※△♂野郎。マジマジダメダメ代えて代えてお願い。え? じゃアンズ書いてよ。そうよ今よ。ホラ、曲終わっちゃうから!」
ショーコがオープニングで自分の近況を適当に喋っている間、私はその横で、よくニセの手紙をデタラメに書きなぐっていたものだった。おかげで私には沢山のアバターができた。
「ありがと、アンズ」
新しい曲を流している間、ショーコは私の頬にそっとキスをした。いつだってそうだった。私はショーコのわがままをつい許してしまって、そんなことの繰り返し。そういうリレーションシップだった。ちらと編集室の小窓を伺い死角になっているのを確かめると、ショーコは私の眼鏡をそっと持ち上げて唇にもう一度キスをした。男の子とはぜんぜん違う、柔らかな感触。
「愛してるよん」
きれいなアーモンド型の眼で私にウインクをした。そんなこんなで私はいつもどぎまぎさせられっぱなしだった。
ショーコは学園のトップDJだった。一年生の時からウィークリープログラムを持っていたのは、ショーコだけ。構成のミヤシタ先輩、音響のツジ先輩、タイムキーパーのサカキバラ君、色んな相手と色んな噂があった。でも、ショーコはいつだって自由、周りが呆れてしまうほど奔放だった。
「噂? What’s sad?」
ショーコがマイクの前に座れば、五〇分間のファンタジーが始まった。私はアシスタントとして、いつもその渦中にいた。彼女の声を、パフォーマンスを、ずっと傍で聞いていたいと思った。
そして今、私は分娩室にラジオをかけてもらっている。スピーカーからは、あの頃と変わらない声が聞こえる。
「ハイ、みんな元気? パラダイス・エフエムが送るハッピー・プログラム『論よりショーコ!』の時間だよ。今日は、私の大切な大切な友達がママになる日なの。みんな安産を祈っててね。絶対絶対にね。ウィズ・ラヴ!」
看護婦さんたちは笑みをこぼした。ヤスシが手を握っていてくれる。
大丈夫、がんばれる。私の不安は、遠い遠い彼方へと飛び去っていった。
渡し舟に揺られながら、彼は尋ねた。僕は罪に問われるのでしょうか、と。
頭部が勃起した船頭は、知らんと吐き捨てると、彼を岸に降ろし、さっさと元来た水路へと漕ぎ出した。
どれくらい歩いただろうか。一本道は豪奢な門に通じていた。彼が近づくと、門がひとりでに開いた。奥へ進むと、真正面に玉座があり、一人の男が座っていた。冥府を統べる閻魔王だ。
その姿を、彼は俄かには信じられなかった。
閻魔は全裸だった。ダビデ像のように。否、あの彫像と唯一異なることに、股間だけは植物の葉で隠している。
本当に閻魔大王様ですかと、彼は思わず尋ねてしまった。
全裸閻魔はそれを無視し、黒い表紙の帳面を開いた。文字通り、閻魔帳であるらしい。
公務中も裸で憚らないような人物が閻魔とは。
失望したのではない。寧ろ安堵したのだ。
娑婆に居た頃、彼は路上で全裸になって婦女子を追い回していた。死因も、婦女子に悲鳴を上げさせて恍惚とし、迫る大型車に気づかず、撥ね飛ばされたのだった。
全裸閻魔なら、同じ性癖の誼で罪には問うまい。
――露出狂の悪癖、恥を知れ。地獄行きだ。
予想外の簡素な判決に、彼は思わず咆哮した。
お前が言うなよお前が。露出狂が露出狂を有罪にするのか。
――痴れ者め。股間を隠すと隠さぬの差も判らぬか。
彼は更に激昂した。
うるさいこの偽閻魔め。お前のことはよく知ってるんだ。その股間の葉は無花果だろうが。女に唆されて泣きを見たんだろうが。お前は閻魔じゃなくて、アダムだ。そうだろうが。
――そうだ。それがどうした。閻魔は人類初の死者だ。史上初の人類であるアダムと、人類初の死者である閻魔が同一人物であって、何が不自然か。早々に地獄へ堕ちるが良い。
全裸閻魔の毅然とした宣告に、彼の動悸は高まり、胃が痛み出した。彼は、胸と腹に手を当てた。
そのとき、胸にある種の凹みがあることと、腹にはあるべき凹みがないことに気づいた。
彼の眼光が豹変した。
「退け、其処は俺の玉座だ」
唖然とする全裸閻魔に、彼は尚も続けた。
「アダムは神が創ったゆえ、臍を有さぬ。そして女に関する喪失感で、ハート付近の肋骨が一本欠けておる。決して、大型車に撥ね飛ばされて紛失したのではない。アダムはイブのような女を求めて輪廻転生を繰り返した。その影響で消えていたらしい記憶も、いま完全に戻った。――その機に乗じて、影武者の分際で簒奪を企むとは。地獄行きだ」
目を覚ますと、少し肌寒かった。奇妙な夢を見ていたような気がするが、どんな夢だったか思い出せない。窓が開いているようで、カーテンが風に揺らめき、優しい陽光が差し込んでいる。遠くからは小鳥のさえずりが聞こえ、本来なら申し分なく清々しい朝のはずだった。
しかし、原因は定かではないが、私の頭は寝ている間に中身を鉛にすり替えられたかのようにズッシリと重く、ズキズキと痛んだ。とてもではないが清々しい朝を満喫する気分にはなれそうもない。しかもパジャマが濡れていて気持ち悪い。
頭痛に顔をしかめながら部屋の中を見渡すと、窓から吹き込んだ風のせいか少し散らかっている。足元を見ると、手紙の類いが床に散乱していた。私は、その中から一枚の葉書きを取り上げ、文面を読んだ。
ご無沙汰しております
もうすっかり秋ですが、いかがお過ごしでしょうか
こちらは元気にしています
この度、引っ越しをしました
是非一度、ご家族で遊びに来てください
洋子さん、明美ちゃんはお元気ですか
明美ちゃんは、来年から小学生だったかな
追伸
近いうちに、同窓会でも開きましょう
とても達筆だ。それにしても、「洋子さん」「明美ちゃん」とは、いったい誰のことだろうか。文面から察するに、私の妻と娘の名前のようだが、私には結婚した記憶もないし、もちろん娘もいないはずだ。宛て名を見ると「河内浩介様」と綺麗な楷書で書いてある。差出人は「渡辺隆一」。しかし、どちらの名前にも心当たりがなかった。そもそも、私にはこの葉書きを読んだ記憶がない。
「あなた・・・・・・なんで・・・・・・」
「パパ、だいじょうぶ?」
私は驚いて、視線を葉書から声がした方に移した。いつの間にか部屋の入り口には、大きな荷物を持った若い女性と幼い女の子が立っていた。女性の顔は驚きに満ち、声は震えている。女の子は今にも泣き出しそうだ。この女性はいったい誰なのだろうか。なぜこの女の子は私を「パパ」と呼ぶのだろう。なぜ「だいじょうぶ?」と尋ねるのだろう。
朝で女で高二で自転車。制服にスカート、下にはスパッツを穿いている。
信号が青になると同時にペダルを踏み込む。横断歩道を一気に渡りそのまま加速、左手の坂を駆け上がる。
前の自転車が「眉毛」で後ろに「赤頭」。どっちも私がつけた仇名。強敵。最近はこの二人と私の三人で争っている。
坂が続く。長い坂。立ち漕ぎ。太ももが軋む。加速、ペダリングでガタガタと車体が揺れる。漕ぐ。眉毛の背中が近づく。遠くを見てリズム良く漕いでいく、それがコツ、少し息が上がる、でもさらに加速する、太ももが軋む。
息が上がる。坂の終わりで眉毛を捉える。スピードを維持、そのまま抜き去る。抜き去ったあと深く息を吐く。でもスピードは緩めない。
平地。ペダルが軽くなる。踏み込む。
前に歩行者が二人。ブレーキとハンドル操作。慎重にすぱっと抜き去っていく。このレースに明確なルールはない。でも他人に迷惑を掛けないのが暗黙のルール。風が吹いてくる。ばさばさと髪が鳴る。強い風、すぐ先に川がある。橋が見える。短く無意味な信号を軽く無視して、橋の上に車輪を滑り込ませる。
眉毛は先行で赤頭は追い込み。いつもならこの辺で赤頭の気配を感じる。でも今日はまだ来ない。調子が悪いのか歩行者のパスに手間取ったのか。でも後ろは振り向かない。『私達はレースなんかしてない』から。
風向きが変わる。横風。川のにおい。ほんの少し心地良い。
橋が終わり、あとは下り坂。
暗黙のルール。他人に迷惑を掛けない。下りは危険だからペダルを踏み込まない。だからもう抜かれる心配はない。今日は……、勝った?
つい顔が笑っていた。心の中で「うっしゃ!」とガッツポーズ。
――そのとき、足元でカシャンと小さな音がした。
彼女は自分の机に突っ伏して寝ていた。どうやら今日も負けたらしい。俺は近づいて「はよ」と声をかけた。顔を上げた彼女は、予想通りに不機嫌そうだった。「どうだった」と目で聞くと、彼女は無言で右手を差し出した。その手の中には鍵、自転車のキーボックスがあった。
……えーと、つまり?
つまり走っている途中で鍵ごと外れた。振動でネジが緩んでいたか、どこかで悪戯されてたか……。
「そんなもんだね、人生って」と俺。
「別に人生賭けてるわけじゃない」と不機嫌そうに彼女。
「ふーん」と俺は軽く笑ってみせる。
彼女は「うっせー」と吐き捨て、それから「あー、くそー」とまた机に突っ伏した。
「眩しいぐらいだねえ」
女はそう言った。朽葉色の渋い色合いの浴衣を着て、縁側に腰かけ、空の高みに浮かぶ満月を眺めている。
「そうだな」
男はそう言った。藍色の袴と羽織を着て、布団の上にあぐらをかき、枕上に置いてあるランプ越しに女の方を眺めている。
ちゃぼんと池の鯉が跳ねた。
「一度くらい行ってみたいさね、お月さんへ。そしてあすこの穴に埋もれるのさ」
紅のやや剥げた唇を舐めるようにして女は呟いた。男は手元の書籍をゆっくりと閉じ、横になり、右腕を手枕とする。
「埋もれてどうなるんだ」
男の問う声に、女はふふっと笑う。
「あたしと言わず誰と言わず、穴に落ち、穴を塞いで、丸い球にしちまうのさ。そうするともしかしたら、自分から光ってくれるかもしれないよ」
男はその言葉にしばらく考え込んでいたかと思うと、やがて思い切り溜息を吐いた。
「夜闇には赤々とした太陽などいらない。人の眠りを妨げるだけなのだから」
その男の反応に女は薄く笑んだ後、脇に置いてあった団扇でぱたぱたと自らを煽った。
「じゃあ昼に照りかえればいいんだよ。何もお日さんに遠慮する必要はないんだ」
冴え冴えとした月は雲を食むようにして輝き、その存在を主張している。庭の端で花開ける待宵草、騒々しい虫の声、風鈴の高い響き、そして男女の匂い。
「海の向こうのそのまた向こう、もうちょい向こうのお国では、月への旅ができるようになるらしいよ。まあ金さえあればの話だろうが」
そして女は団扇を持つ手を止めて、流し目に男の方を見た。それは美しくも剣呑な色を帯びている。
「まあ結局、月はいついかなる時でもただそこに浮かび、弄ばれ軽んじられていればいいのさ」
凶暴さも秘めた女の声をきっかけに、男はランプの灯りを消した。暗闇の中、女は団扇を置き、畳を踏んで自分の方に近付いてくる音からわざと顔を逸らす。男はそんな女のおとがいに強引に手をかけ、唇を奪い、手を浴衣の緩やかな合わせ目から乱暴に侵入させた。その動作で女はわざとらしく掠れた声を出した後、自らの白い喉を晒すような体勢で、相手の頭をいっそ優しいぐらいの仕草で抱え込む。
花簪の挿している髪が数本ほつれ落ちて艶かしい。
「……あの人が帰ってくるよ」
女は男の耳元で感情を押し殺した低い声で囁いた。
月はやがて雲に負けるようにして滲んでいった。
この文章を、男性諸君に、と副題する。淑女は読まぬ方がよい。
アメリカのお尋ね者になったウサマ・ビン・ラディンやサダム・フセインだが、今日まで行方は杳として知れない。影武者が何人も居るからだともいうが、我々から見れば、かの地の人々の人相はみな実によく似ている。
奥まった大きな目、隆い鼻、そして男性は決まって髭をたくわえている。これは成人の徴で、髭を生やしていないと子供かゲイと間違われるというから、日本人もイスラム圏に住む場合は髭を伸ばして行った方がよいそうだ。
かくの如くムスリムの男たちは髭を大切にする一方、陰毛はこれを不浄として、常に綺麗に剃り落としているという話は、本当かどうか。
異教の地に実際そういう風習があるにしても、日本では下手をすれば何とかプレイなどと称されて変態扱いされかねない。しかし余計な思い込みを捨ててみれば、髭を剃るのと変わりはないとも言える訳で、特に高温多湿の日本の夏にはかえって向いているとも思われる。
実行してみると、蒸れず、汗もすぐに下着に吸収され、実に快適である。そこでここ数年は決まって、秋冬かかって伸びた毛を、梅雨明けを期して丸坊主に剃り落とすのだが、その後で今年は不思議な経験に見舞われた。
普段は剃刀など当たらない所なので、剃って二三日はヒリヒリする。それもやや治まったある晩、風呂に入って湯船に沈み、やれやれと手足を伸しながらふと目をやると、何かふわふわしたものが陰嚢の表面にまつわりついている。
(……?)
何気なく撫でてみると、膜になって剥がれてくる。ちょうど日焼けの後の皮のように。
驚いてなお良く観察すると、一帯の皮膚はまるで大晦日の換気扇のように煤けた色調を呈し、その部分から薄皮が次々と剥落して来る。剥がれた皮を丸めると、大豆ほどの薄黒い球が出来た。
落ち着いて考えた結果、次のような結論に至らざるを得なかった。則ちこれは垢である。毎日入浴して人並みに洗ってはいても、植生がある間は表土が安定的に保持されていたのが、急に禿げ山になった所へ大水が襲ったために、ひとたまりもなく流出したのであろう。
こんな話を聞くと、自分の体にも垢が積もっているかも知れぬと剃毛を思い立つ人があろうか。奥さんや恋人に非難されても責任は負いかねるが、こうして置くともう一つ良いことがある。則ちいつ盲腸になっても手間が一つ省けて、すぐに手術してもらうことが出来る。
サトミが時間にルーズなのはいつものことだが、映画を一本遅らせるほど遅刻したのは初めてだ。映画館の向かいの喫茶店で時間を潰していると、サトミがガラスをコンコン叩く。走りすぎだろうか、顔が青い。コーヒーの会計を済ませ、喫茶店の自動ドアのセンサーに手をかざす。サトミのいつもの癖だが、いつのまにか俺にも伝染したらしい。
午後の上映のため、映画館に入った。講義をサボって平日に来たので、映画館はガラガラで俺達以外に客はいない。平日にいる俺達のほうがおかしくて、これが正しい姿だろうと思うが、エンターテインメントの行く末が気になる。
映画が始まった。もしかしたら客が入ったかもと思い、何度か後ろを見たが、映写機の光の影しかなかった。おかしいのは、確かに俺達だ。つまらない。貴重な平日を潰すような映画ではなかった。もう一度後ろを見た。誰もいない。サトミは観ているのだろうか、そう思ったら、サトミが俺の膝に手をのせた。サトミも同じか。退屈しのぎに、キスしてみた。なぜかサトミは放してくれない。
「おい、映画館だぞ」
「誰もいないよ」
サトミが俺のシャツのボタンをはずす。やけに潤んだ目に、映写機の影が写る。いつもと違うサトミと、映画よりもおもしろいこの状況に、つい俺もノってしまう。サトミは俺に乗り、流れるセリフをBGMに腰を振る。大画面をバックにしたサトミは、やはりいつもとは違う。うっかり空のコーラ缶を倒した。からからからからと音が響く。
エンドロールが流れる。ひどく疲れた。隣を見ると、さっきまでぐったりしていたサトミがいない。照明が入った。やっぱりサトミはいない。先に出たのだろうか。ジッパーを上げ、狭い通路にでる。照明が消えた。さっきの映画がまた始まるのだ。俺は少し焦った。傾斜のある道がやけに長い。振り向くと、次回上映作の予告が始まっている。ドアまでが遠い。頭の上に伸びる映写機の光を確認する。俺がいるのは映画館。サトミはいない。
走った。いつまでたってもドアに着けない。映画は始まっている。息が切れ、走れなくなった体を近くの席に投げ出す。呼吸が治まり、唖然とした。前から八列目、さっきの列だ。振り向いても他に客はいない。
「Shit!」
セリフを真似た。俳優と同じタイミングで言う。夕方になれば一人ぐらい客は入るだろう。からからからから、空き缶が転がる音がする。おかしいのは俺。はじめからわかってる。
砂嵐吹きすさむ中、エアスクーターにまたがり道を真っ直ぐに進むと目印の一枚岩が現れて、家に到着すると、安堵感が身体を満たし、砂が入らないように慎重にドアを開けた。
「ただいまあ。」
出迎えに妻の顔を見ると、幸せでいっぱいになる。おかえりのキスを貰って、僕はソファーに座りビールを待った。冷えたグラスと冷えたビールと冷えた枝豆と妻の笑顔があれば、もう僕は何もいらないよと妻に言ったら、妻はまんざらでもなく早くもアルコールで耳が真っ赤になっている。
「そうそう、今日こんな話聞いたよ。」
妻が、ビール片手に言い出した。
僕は、頷きながら話を促すと彼女は語り始める。
この世界のすぐ横に、また似たような世界が存在する。それはつまりはパラレルワールドであるのだが、彼女の話は剥離について語られている。
「隣の世界のヒトはね。箱いっぱいにお湯を張るんだって。そしてその中に入って、皮膚の汚れを落とすの。皮膚から小さな汚れがポロポロ落ちるんだってさ。気持ち悪くない?」
確かに気持ち悪い。
だいたいなんでお湯に入らないとならないんだ。ポロポロと皮膚が取れる様を想像して、酒がすすまなくなってしまった。
「ごめん。ちょっと剥離してくる。」
妻の申し訳なさそうな視線を背中に感じながら、僕は剥離室のドアを開けた。
カラカラに乾いた状態に保たれている剥離室に掛けられている爪を取り出すと、吐き気を我慢しながら腕に着けた。壁にあるスイッチを押すと爪の先端が光りだす。レーザーを額の真ん中に押し当てると皮膚は焼け、穴があき、血が飛び出す。顔をつたるドロドロの血をそのままに、顔に沿ってゆっくりと爪を下ろしていく。さらに勢いを増したドロドロの血は、とどまることなく溢れてくる。そこに両手を差込み、一気に左右にひっぺがす。水平に飛び出した血の流れは、一気にタイルで覆われた壁を赤く、赤く。次に顔の皮膚を持った手をゆっくりと肩まで下げる。血の勢いは弱り、さらさらと流れるままになった。鏡を見るとつるつるになった顔を覗かせる。剥離って気持ちが良い。
突然思い出した。
会社に書類を忘れてきてしまった。
急いでジェルを身体に塗り、余った皮膚を溶かす。
「わりい。会社に忘れ物した。出張に必要なんだよ。ちょっと行ってくる。」
妻の返事も聞かずに玄関を飛び出した。砂嵐のことを忘れていたせいか、玄関に砂が大量に舞い込んだ。
膝に手をつき、ぜえぜえと喘ぐ。肺が破れそうだ。
廃墟は闇に沈んでいる。凍った地面だけが僅かな月明かりを照り返し、路の両脇に続く柱をぼんやりと浮き上がらせていた。その柱のひとつに、鍵穴が空いていた。ピストルで打ち抜かれたように。
追っ手はじきに来る。震える指でなんとか鍵を挟んだ。柱には鍵穴以外に何もない。これがどうやって天国に繋がるのか、不安がよぎったが、それ以上は考えずに鍵を差し、回した。
じわりと汗が噴出す。後ろを振り返る。
間違えるはずはない、鍵穴は一つしかないのだし、鍵も本物だ。そうでなければ誰もおれを追いかけたりはしない。
鍵を回す。今度は左に、それから右に。鍵穴は大きすぎた。
闇の奥から犬が地面を蹴る音が聞こえてくる。
苔の生した祭壇、崩れた壁。
なす術もなく柱の裏に身を隠すと、足音はあっという間に近づく。速度が落ち、ぱしぱし、ぱし、ぱしぱし、ぱし、という音になる。
その後ろから追っ手がまっすぐこちらに向かってくる。長い槍を持って。
地面に目をやると、凍った地面に薄い影が伸びている。おれの影だ。犬が鼻を鳴らしながら近づく。鍵穴の下をうろつき、柱からはみ出た影を踏む。
息を殺し、身をかためる。
はっとして指が触れているところを見る。鍵穴は貫通しているようで、柱のこちら側にも穴がある。鍵はこちらから差すのだろうか?
犬が吠えた。
素早く鍵を差し、右に回す。それから左に回す。
感触がない。
犬は一度吠えたきり、黙っている。
天国なんて嘘だったのか?そうではない。なにか。鍵も鍵穴も本物だ。他に。ここまで来たんだ。あと少し、逃げるには先に行くしかない。
追っ手はどうした?
鍵を回す。右に。右に。
鍵を抜く。
なにをすればいい?
静かだ。犬は吠えない。追っ手も来ない。
頭のなかだけが混沌としている。脈絡のない言葉、体は動かない、ただ言葉だけが頭に溢れてくる。もう諦めてしまったのか。考えてはいけない、もう一度鍵を握りなおす。
身を屈め、鍵穴を覗いた。向こう側は見えない。凍った路も、廃墟も。真っ暗だ。なにかが近づいてくる。感じることができた。
それがおれの目を刺し、頭を突き抜けていったとき、まだ意識があった。音を聞くことができた。槍は右に、それから左に、きっかりと回り、かちっという音。心地よく響く。
それでなんだか救われたような気分になって、おれは旅立つことができた。
つまらない夢を見た。
私はいつも通りの時間に目覚め、いつも通りの服装に着替えて、昨夜の作り置きの冷めた朝食を、半ば機械的に口に運んだ。妻も今年十六になる娘も、まだ暖かいベッドの中で眠りこけている頃だろう。毎度のことなのであまり気にはならない。
どこか力ない足取りで玄関を出ると、空には死にたくなるような明るい太陽が燦然と輝いている。気が付くと、私は駅の改札をくぐり抜け、大勢の、やはりどこか力ない、見えない糸で操られているような人たちと一緒に電車を待っていた。
やがてホームに電車が滑り込んできて、私はそれに乗り込んだ。
窓の外の景色が、音もなく流れていく。
車内ではしきりに携帯電話の使用を禁じるアナウンスが流れているが、勿論私には関係ない。元々電話をかけるような相手もいないし、よしんば相手がいたとしても、これは夢なのだからどうしようと私の勝手だ。三十分もすると目的の駅に着いたので私は足早に電車を降りた。
やはり、太陽が眩しい。
それから、私はいつもと変わりない、つまるところ平凡でなにごともない職務を終え、ただ一人帰路に着いた。朝に比べればやや人気の減った電車に乗り込み、行きとは反対側のドアにもたれて、やはり音もなく流れる景色をみていた。
家に帰り着くと、居間には皺くちゃになった雑誌を握り締めた妻がいた。
どうやらまた雑誌の懸賞が外れたらしい。腹を立てるくらいなら初めから出さなければいいのに、と一瞬考えたが、勿論口には出さない。
どうやら今夜はろくな夕食にもありつけそうにないので、ビールと枝豆を夕食代わりにさっさと寝ることにした。
近くの高校に通っている娘は友達の家に泊まるからと言って家には帰ってこないようだが、実際になにをしているのかは見当もつかない。
薄暗い階段を上がり、押入れから出した布団を敷くと、私は布団の上に崩れ落ちた。
今日は本当につまらない夢を見た。
これでは、起きているのも夢を見ているのも大して変わらないな。それならいっそ夢なんか見ない方がいい。天井の染みの数を数えながら、ぼんやりと思った。
枕もとには読みかけの推理小説が転がっていたが、読む気にはなれない。不意に、今朝電車からみた景色が思い出された。
明かりを消し、まだ冷たい布団に潜りこんで、そして私はようやく気が付いた。
――なんだ、現実か
寒い寒い雪の日の朝に路上で一人死んでいた男の死に顔がとても安らかだったので、忙しげに街を行く人々はそれを見なかったことにしたくて、だから皆は映画を観に出掛けた。
映画館は沢山あった。人々はアーノルド・シュワルツネッガーの映画を観た。または難解なフランス映画を観た。どちらかというとフランス映画の方が人気があった。アーノルドは人々に飽きられ始めていた。それでもアーノルドは世界を、その鍛え上げた肉体で救い続けている。
あたし達はというと、いつものように家でエイリアン2を観ていた。
エイリアン2は宇宙一面白い映画だと思う。絶対に。あたし達の持っているテープはテレビ放送を3倍で録画したもので、しかもそれを数十回観ていたから画質はかなり劣化していたのだけど、でもそんなことはどうでも良かった。エイリアン2は魂の映画だから、画質なんか関係無いのだ。
「面白いなエイリアン2は」
トニオが言った。
「面白いねエイリアン2は」
あたしは答えた。
「でもさ」
あたしはトニオの方を向いた。それで画面から目を離してしまったけれどでも大丈夫。エイリアン2は魂の映画だから大丈夫なのだ。
「何故エイリアン2にはシュワルツネッガーが出てないんだろうね」
「シガニーじゃ駄目なのかい?」
「駄目じゃあ無いけど。でもシガニーは女だからさ」
「女は女なのか」
「女は女なのよ」
あたしは画面に向き直った。
「あのさ」
「なんだい」
「あの男はさ」
「あの男?」
「路上で死んでいた男」
「ああ」
「あの男はさ、どんな映画が好きだったんだろうね」
「さあ」
そう言ってトニオは画面から目を逸らした。トニオには未だに怖くて堪らないシーンがある。
「あの男は映画は好きじゃ無かったかも知れない」
「そうね」
「映画なんて観なかったかも知れない」
「そうね」
「でも俺はさ」
「うん」
「俺は映画が好きだよ」
画面を薄目でちらちらと懸命に観ながら、トニオは言った。
「俺は映画が好きだ」
「あたしも好き」
「俺達は生きているからな」
「そうね」
「俺達は、まだ生きているからな」
「あたし達はまだ、死ねないものね」
「ああ」
あたし達は少しだけ寄り添った。
画面はちょうど人々がばたばたと死んでいくシーンだった。
その三日後、それは遂に完成した。
アーノルド主演・エイリアン5の企画書。出来上がったばかりのそれを手に、これからユニバーサルへ殴り込む。
寒い寒い雪の日の朝、あたし達は出掛けた。
電球の切れかけた薄暗い台所のシンクに無造作に置かれた圧力鍋の蔭で一匹の蝿が死んでいた。おそらくそれはイエバエで、いやというか、イエバエくらいしか蝿の名前を知らないのでそう思うだけで、実際のところはベンガルオオバエとかそんな種類なのかもしれないないし、さらにいうなら蝿に似た全く種類の異なる虫なのかもしれなかった。そう思うと途端に死んでいるというのもどこかあやしいように思え、指でちょいとつついてみたのだけど、何の反応もなく、死んでいるということだけは確かなことだといってしまっていいように思えた。
僕はシンクの下から錆びついた長包丁を取り出すとその蝿を、いや正確には蝿のように思える虫をまな板の上に乗せ、ゆっくりと刃を引いた。蝿のように思える虫は、いやもうめんどくさいので蝿ということにしよう。蝿は綺麗に綺麗に二つに分かれた。
その様子を居間からじっと見ていたドジソン君が欠伸をしながら言った。
「お前の部屋汚ねぇな」
僕は長包丁を仕舞って台所から出るとそんな彼に油分がひどく浮いたインスタントコーヒーを淹れてあげた。ドジソン君は「俺は珈琲はブラックで飲むのが好きでね」と、ミルクも砂糖も這入っていないまるで、せんぶりのように苦いだけのインスタントコーヒーを美味そうに啜った。そんな彼をぼんやりと眺めながら先ほどのおそらく蝿だろう虫が送った一生を思うのだけど、頭の中が妙にぽっかりとして、ロクなことが思い浮かばず、空っぽな頭の中で一匹の蠅が飛び回っているように思え、僅かに羽音さえ聞こえ始めてきた。ああ、そういえば洗濯機に洗濯物がいれっ放しだ。突然そんなことを思い出したのだけど、僕の部屋には洗濯機はない筈でどうにも変な気分だった。
ドジソン君はコーヒーをすっかり飲み終えると、無邪気な笑顔で「お代わり」と言った。
二杯目のコーヒーを淹れるため薄暗い台所に戻って、これもひどく錆びついた薬缶を火にかけた。まな板の上では、蝿が綺麗に二つに分かれたまま静かに羽を震わせているかと思うと、そのまま分かれたまま薄暗い台所の中を飛び回り始め、やがて、其々何処かに飛び去っていってしまった。
僕は台所の電球を代えなくっちゃと思いながらシンクに無造作に置かれた圧力鍋をひょいとのけてみたのだけど、そこには勿論、何もなくて、背後でドジソン君が僕を呼ぶ声だけが何故だか遠く聞こえてくる。