# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | あの日 | 長月夕子 | 982 |
2 | 白鍵 | raspy | 944 |
3 | 英会話入門 | のの字 | 999 |
4 | 恋愛小説 | 水野ハジメ | 1000 |
5 | 小鳥 | 永瀬 真史 | 798 |
6 | 五月 | クイント | 417 |
7 | 髪を染めるな | Shou | 787 |
8 | ペイント慕情 | 味噌野 芳 | 656 |
9 | (削除されました) | - | 1000 |
10 | (削除されました) | - | 978 |
11 | 恋人 | サトリ | 737 |
12 | 珈琲 | 荒井マチ | 780 |
13 | 縁側の攻防 | Nishino Tatami | 997 |
14 | 離愛 | クンニスト・マンクサー | 721 |
15 | 蝶の蒐集 | 朝野十字 | 1000 |
16 | (削除されました) | - | 999 |
17 | 「放屁倶楽部」 | 五月決算 | 1000 |
18 | 半焼の家 | 戦場ガ原蛇足ノ助 | 944 |
19 | ガラスケース | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
20 | 渡海譚 | (あ) | 1000 |
21 | 池 | ワラビー | 694 |
22 | 再会の夜 | 赤珠 | 1000 |
23 | 司書の仕事 | 林徳鎬 | 1000 |
24 | 半ずぼん | 海坂他人 | 998 |
25 | 幸せなら蚊を叩こう | 朽木花織 | 998 |
26 | 雨 | 曠野反次郎 | 1000 |
27 | 月下無明 | 野郎海松 | 1000 |
空を見ると何かがきらりと光った。と思うと電車は急ブレーキをかけた。立っていた彼女は体を吹っ飛ばされそうになった。
「降りろー!降りろー!」
兵隊が怒鳴り声を上げる。
「これは狙われている!!降りろー!降りろー!」
電車のドアは開かれ、次々に乗客は降りていく。彼女が降りようとした時、ホームのない電車の高さに足がすくんだ。身長は150センチに満たない小柄な彼女は、さらに高所恐怖症であった。躊躇っていると、
「降りろというのが解らんのか!死にたいのか!」
と、兵隊に怒鳴られながら引きずり降ろされた。ほとんど落っことされるように電車から降りた彼女は、降りるときに足をぶつけたらしい。足をつくと痛みが体を駆け巡った。しかし、痛みに気をとられている場合ではない。電車からは逃げ出す人たちが四方八方に走り去っていく。彼女も走り出した。突然目の前に戦闘機が姿をあらわす。彼女の小さな心臓は飛び出しそうになった。その戦闘機の操縦者と、一瞬目があったような気がした。
だだだだだだだだだだだだだだだだ
すさまじい音が激しく彼女の鼓膜を打つ。弾は運良く彼女をよけた。後ろから叫び声がして彼女は走りながら振り向いた。電車の反対側に逃げた人たちが、次々に倒れていく。おぶった赤ん坊ごと殺された親子が目に入った。それはさっきまで彼女の目の前に座っていた親子であった。
思わず目をつむる。つぶった瞬間、勢いあまってすっ転んだ。靴が脱げる。彼女は靴を胸にかき抱いてそれでも走り続ける。走ってるのか転んでるのかわからくなりながらも、まだ逃げる逃げる逃げる。爆音が小さな彼女の体をなぶる。弾は当たらない。遠くに大きな柿木が倒れているのが目に入る。小さな彼女は木の下にもぐりこんだ。両手で耳をふさぐ。ふと気が付くと木がかすかに震えている。木の中を見渡すと男が一人大きな体を小さく抱えて、彼女と同じ木の下にいる。男が震えているのだ。カタカタとみっともないほど歯を鳴らし
「内地は怖い。内地は怖い。戦地にいたほうが良かった。怖い怖い。」
念仏のようにつぶやいていた。
どれほど時間がたったろうか。どれほど逃げつづけたのであろうか。彼女はやっと自分の家にたどり着いた。彼女の家は奇跡的に難を逃れた。
家の中では末の妹が金たらいをかぶってまだ震えていた。彼女は思わず声をたてて笑った。何に対して笑ったのか、彼女にもわからなかった。
ねえちゃん、リュウガクやめたん? 家にずっとおるの?
残念そうな顔のなかに、それでも隠しきれない安堵を含みながら、栄子は智子に言った。智子は台所から応接間に続く廊下を歩きながら、斜め後ろをひょこひょこと付いてくる、十歳も離れた小さな妹に、そうやよ、やでしばらくはまだおるわ、えいちゃんのレッスン続けられて姉ちゃん嬉しいわ、じゃあ今日のレッスンしよか、と言った。
応接間に置いてあるピアノの正面前に栄子、その左側に智子が座った。栄子はまだ九歳だったけれど、智子に負けない才能を持っており、近ごろは結構な難曲も弾けるようになっていた。昨日の続きからいこか、と言って、栄子に弾かせる。栄子がドビュッシーの練習曲を見せている間に、智子はロンドン行きが駄目になったことを考えていた。智子にとって長年の夢だったロンドンでの大学生活が、家の経済的な理由で駄目になってしまったことは、薄々はわかっていたけれど、それでも昔は景気が良くて、高価なピアノも気軽に買っていたのに、数年で嘘のように変わってしまったのを今でも理解しきれていなかった。両親が意地を張って、智子にその姿を見せまいとしていたせいもある。
栄子のまだ小さな手先が、鍵盤上を舞う。今日の栄子は調子が良かった。智子が家に留まるということの嬉しさが、押さえきれずに栄子の指から響いてくる。それが智子の神経に刺さった。栄子には和音の後、微かに弾く修飾音符の部分で、わずかに休憩する癖があり、他の部分はとても良かったが、今日はそれが特に目立って聞こえた。智子はその癖が嫌いだった。
えいちゃん、いつもの癖でてるで。昨日もそれ言ったやろ、何回もおんなじこと言わせんといて。姉ちゃんだって暇と違うんやで。そう言うが早いか、智子は立てかけてある楽譜を手で払った。楽譜は演奏が止まると同時に栄子の方へ落ち、栄子の右人差指に当たって、そのまま栄子の膝に隠れた。指が切れて、血が滲んできた。
ほらもう、とろいことしてるから手、切ったやない。いつまで鍵盤に手を置いとるの、はよティッシュとマキロン持ってきて消毒しなさい。鍵盤汚れたらどうするの。
栄子は突然の出来事に目を大きく開いて、智子に言われても鍵盤から手を離せず、ただ置いてあるばかりの人差指から血は白鍵の間へと流れた。
イイヨン英語教室の英悟先生は、英語を学ぶことで世界が広がり、細かい事を気にしない大きな人物になれるという。
その日は春の受講開催日、フレッシュな顔が教室の中に並んでいる。
「まず、英会話の第一歩は「r」と「l」の発音の違いを理解することです。君、rawとlawを発音してみて」
「ロウとロウですか?」
「ううん、だめですね。「r」の発音は、舌の中央を盛り上げながら唇をわずかに丸めて「ル」のような音を出し、「アー」と「ウー」の中間のような発声をするのです。皆さんどうぞ」
「あー」
「そうです。では、「l」ですが、これは舌の先を歯根につけて、舌の両側から「ウ」と「ル」を同時に出すように発声してください」
「る」
「よろしい。では、「法律家」は?」
「ロウヤー」
「なってないですね」
「ラウヤー」
「だめです。いいですか、「ロウ」の部分は舌の先を歯根につけて、舌の両側から「ウ」と「ル」を同時に出すように発声すると共に、「オー」に近いが口はかなり開いて舌も低く唇の丸め方も弱く、「ア」に近く聞こえる音を出すのです。はい、どうぞ」
「ロウ…」
「よろしい。次は「ヤー」ですが、「イ」と「ヤ」の中間の母音から、舌の中央を盛り上げ唇をわずかに丸めて「ル」のような音を出し「ア」と「ウー」の中間のような発声をしてみてください」
「ヤー」
「はい。では、ロウヤ−を発音してみてください。どうぞ」
「ロウヤー」
「だめです。いいですか、ロウヤ−は舌の先を歯根につけて、舌の両側から「ウ」と「ル」を同時に出すように発声すると共に、「オー」に近いが口はかなり開いて舌も低く唇の丸め方も弱く、「ア」に近く聞こえる音を出したら、そこで間髪いれずに「イ」と「ヤ」の中間の母音を発し、舌の中央を盛り上げ唇をわずかに丸めて「ル」のような音を出し「アー」と「ウー」の中間のような発声をするのです。どうぞ」
「せ、先生」
「なんですか」
「できません。そんな細かい舌の動き」
「細かい事を蔑ろにしたら、大きな人物にはなれません。やりなさい」
生徒は困惑している。
「ロウヤ−」
「だめです。もう一度」
「ロウヤ−」
「ダメ!何度いったらわかるんだ。いいですか、まず、舌の先を歯根につけて、舌の両側から…」
この英会話教室は3人の生徒が舌をひきつけ、5人の生徒が顔面神経痛になり、20人の生徒が言語障害をおこし、全員が英語に嫌悪感を抱くという結果で、ほどなく営業を停止した。
彼が私の性器を舐めるとき、ちょっと変てこなことをするので、だってそこはクリトリスじゃないし膣でもないし、そういう所を執拗に舐めるので、私は「どうしてですか」そんなふうに尋ねてみたことがあります。
「あなたのここに小さな痣があるのですよ。だから、つい」
彼は照れくさそうにそう答えました。私は自分の性器にそんなものがあることを知らなかったのでとても驚きました。自分の体なのに見たことなくて、だから自分の体なのに他人のほうが詳しくて、おもしろいなあ、それがセックスなんだなあ、と、愛を感じてしまったのです。
だから私も彼の知らない彼を探すのに必死になりました。それはきっとたまたまの裏からおしりの穴にかけたとこらへんにいると思います。ところが彼のそこらへんには痣とか黒子とかおできとか、そういうものが全くない。蟻が門渡りしてるほかは、全くもってつるりとしているのです。
それでも私は必死に探し続け、そして季節は一巡り。
ちょうどその頃、好きな人ができたと言って彼は私から去っていきました。それでも私は彼のことが大好きだったので、だって、痣を見つけてくれた人だし、それでとても悲しかった。いえ、何よりも悲しかったのは、とうとう彼の秘密を見つけられなかったことでした。
時にたまたまを裏返して懐中電灯で照らしたりまでしたのですが、やっぱり彼のそこはつるりとしたままで、ですから私は彼に愛を教えてあげられなかった。ちょっと照れた顔をして「ここにおできがあるから、ついつい吸ってしまうのです」って言いたかった私も。
一人で街を歩いていて、うっかり彼と恋人とが睦まじく歩いている場面に出くわしたことがあります。慌てて近くのお店に身を隠し、ギリギリと歯軋りしながら、その様子を見守りました。
何さ、目尻下げちゃって。ついこないだまで私のおまんこにむしゃぶりついてたくせに。
彼はまた恋人の性器に、その人の、その人も知らない秘密を、探し出すのでしょうか。今までもこれからも、ずっと?
そう思い至って、ようやく、あれは愛だったのか、何なのか。だって彼は、私に愛を誓った彼は、今、他の女といる。それに気付いて、男なんてそんなもんだなあ、と、何度目かの絶望をしたのです。
つるつるきんたまの男がへらへらしながら、私の目の前を、私に気付くことなく、歩いていく。それは愛なんてものは存在しないと気付いた確かな瞬間なのでした。
現代文の補講は退屈だった。教師は一定のリズムでテキストの文章を音読している。僕は教師の音読に合わせて適すとの文章を目で追っていたが、それにも飽きた。テキストから目を離して教室内を見回してみると、半分くらいのクラスメイトが机に身体を預けていた。そんな様子を気にすることなく、教師は音読を続けていた。僕はそんな状態にため息を漏らした。
ふと窓の外に目をやると、緑が風に揺られていた。窓は閉じているので葉の擦れる音は音は聞こえなかったが、きっとサラサラと音をたてているのだと思う。空の色はくもり色で目に優しい。緑の揺れる木々の間には、オレンジ色の屋根の上に立つアンテナが見える。それは、自然の中に揺れる物に対して無機質に見えた。風の流れに影響を受けず立っていた。僕のようだ。
風が止んで外は静かになった。小鳥が一羽飛んできてアンテナの上に止まった。猫が毛繕いをするしぐさのように、小鳥も自らの羽をくちばしでつついていた。アンテナの上にいる小鳥は孤独なのだろうか。そんなことを思いながら僕はその様子を見ていた。
窓の外をぼんやりと見ているうちに教師の音読は終了した。教師は「なかなか良い作品ですね」と言い、この作品の内容を段落に分けて説明を始めた。作品として持つ一つの存在を否定し、それをいろいろな意味を持つものとして説明している。一つずつの言葉の順序に意味がある、と…。
アンテナに止まる小鳥の前にもう一羽の小鳥がやってきた。屋根の近くをまるで誘うように飛んでいる。僕はアンテナの鳥はそんな誘いには乗らないと思った。だって、君は孤独でそれを望んでいると思ったからだ。そんなことを思いながら願うようにその様子を見ていた。アンテナの小鳥は屋根のまわりを飛ぶ姿を見て、大空へと羽ばたいた。
僕はそれを見ると、口だけでニヤリと笑った。その様子を見た教師が僕を注意した。くもり空からは太陽が顔を出し始めていた。
もう1人振りまわしていたのは彼で、にやにや笑っていた。私はにたにたと笑いを奴に返しながら憎しみに燃え、鉄の棒を振りまわし続ける。二人の狂人が5月に鉄の棒を振りまわしている。勝利への貪欲な微笑、そして狂気。勝ち誇った高らかな笑いを聞く負け犬には死よりも恐ろしい、狂気。どうすれば勝てるのか、何を争うのか、狂人達は知らない。鉄の棒を頭の上でぶんぶん回しながらヘリコプターを思い出す。あれはまだ少年の頃、ヘリコプターに乗ったのは。時と共に薄れた何か。そして時と共に濃くなる狂気の気配がぶんぶんと唸っている。ふいに正気が姿を現す。やめようと思う理性。私は狂気から逃げる。現実に駆け出す。しかし逃げだす私を天から見下ろす私にはもはや。狂気から逃げる私自身が狂気で、狂気が、狂気にむなしく変わりゆく。不意に聞こえる絶叫。私の鉄棒が奴に当たる。頭を押さえて唸る彼。鉄の棒をまわし続ける私。彼が動かなくなったのに気づいた時。一体勝ったのは誰なのか。
「犯人は誰だ?」
刑事が言っている。床に倒れている死体と、そこにいる4人の人達。そのうちの1人が僕。もちろん僕は殺してなどいない。他の3人を疑わしく眺めながら誰が犯人でもおかしくないと僕は考える。一人は工事現場のおっさん。案の定、連れの女からもおっさんなどと呼ばれている。こいつがキレたら人の一人や二人殺すんじゃないか。それとその連れの女、僕のタイプとかいう以前のブス。世の中を恨んでいても無理はないだろう。そして最後に一人。僕はこいつが一番くさいと睨んでいた。そいつは外人だった。流れるようなブロンドで、眼は青。長身でハンサムな青年。なんで桶屋の二階にいるんだよと言いたくなる。僕は死体に目を移す。あれは!
手にブロンドの毛を握り締めているではないか!やっぱりそうだったのだ。 僕が刑事にこのことを言おうとすると、なんとブロンドの青年が僕を指差している。なんということだ。 僕はわめいた。
「あの毛を見ろ!ブロンドじゃないか!」
ブロンドの青年はにやりと笑い両手をさあという風にあげてみせた。
「だまれこの差別野郎!人間ってのはなあ、みな平等なんだぞ。」
おっさんがわけのわからないことを言っている。
「あいつがやったっていうのね? そうなのね?」
ブス女が聞くと、青年は私を指差し熱心にうなずく。
「あの死体を見ろ!手に握っている毛を!」
ブロンドの青年以外の全員が死体を見たがそこには何も無い。僕はうろたえた。
「何を言っているんだ野郎!てめえあいつは俺の友達だったんだぞ。」
おっさんは友達だった死体を飛び越え僕に踊りかかってきた。小柄な僕はぶっ飛び、窓を突き破り、そこから投げ出された。例の外人が間抜けな顔を真剣にぱくぱくさせ叫ぶ。
「ユウ ドロップト ヨア ハンカッチフー!」
中2レベルの英語でも分かる。ハンカチを落としましたよ。
むなしく落ちゆく僕に見えたのは金色に染めた刑事の髪だった。
恰も不釣合いな孤児のように栗色の空を漂う白鷺が羽根を休める閉鎖灯台、錠剤・酒瓶・避妊用具。世界を統べる三人の王が机に鎮座ましまし、級友は私を突付いた。指から流れるちぎれかけたパッチワーク、二年の月日が呼び出した怠惰な石版、錠剤を流し込み、ペニスの変わりに温かな息を吹き入れると、教室は浮かぶ島となり私たちは、揺れに揺れた。 裁縫から縫合への大いなる飛躍と意訳が世界の稜線を描くような、つまりは精神を縁取るような、彼方霞む橋が、誰も乗せずに伸びている。 高台の学舎から私は滑走する。ブリーツスカートから波が消え、進行方向真逆に流れる毛先から、朝のニュースが飛び出していく。昨日は無い。死を含んだ明日は遠すぎる。風はただ恣意的なスピードに身を委ね、君なんてどこにもいないと知った時、ブレーキはなかった。ただ、赤信号で私は停止した。停止線を少しはみ出した。 明かりの無いサウンド・フロアは魚のにおいを運んで来た。それが疫病を含んだ爽やかな高原の風に吹かれくるくる回りはじめると、今夜が夜景から電子部品を想起するこの重層の、その反射神経への供物に、確かに思えた。ふいに、音が震わせた。夜が更けていった。避妊具に空気を吹き入れフロアに投げ入れると、乾いた音と破れたゴムが、床に投げ出され転がった。私は笑っていた。大いに笑っていた。体温を測ると平熱だった。時間は平日の11時だった。 ただそこには何も無かった。というには遅すぎた。 明日は君に会えるといいな。私は恋をしている。 白鷺が橋を飛んでいき、彼方の君を捕まえる。
つい先刻の話です。
にこにこと上辺ばかりは機嫌よく人とお喋りしながら ふと日暮れた外に目をやりましたところ
暗がりをすかした窓ガラスは 部屋の内と外を 同時に反映する鏡に変わっておりまして
私の頭骨の天辺付近から 暗褐色の山羊の角が二本 禍々しい意思をひけらかすように
ぐにゃりと曲がりくねって生えているのが くっきり映って見えました。
一瞬息が止まりましたけれど 他の人の目には見えないふうでありましたので
まだ微笑を絶やさずにおりましたら
今度は腕の皮膚を突き破り 青黒いウロコが次から次へと生えてきました。
ウロコは瞬く間に私の全身をくまなく覆い尽くしましたのに
誰一人として 私がもう私でなくなったと気づかないのです。
私はさりげない様子を装って 洗面所へ向かい 心臓の握りつぶされる心地で
それでも覚悟を決め 真正面から鏡に向き合いますと
鏡の中で笑っているのは 両の眼に異様な光を宿した ヒトならざる者の顔でした。
ヒトならざる者は 笑みを耳元まで引き裂いて
さぁ どうやってあいつを殺してやろうか と 囁きました。
無数のウロコに埋もれた私は そんなことは望んでない と言おうとしましたが 声にならず
そのかわり ウロコの外側に現れた私が どうぞ望むままの方法で と 答えました。
ああ けれどやはり見えるのですね この姿の変わり果てた様が。
他の誰でもないあなたにだけは。
硬い爪に目玉をえぐられ 長い牙に腹を裂かれ
臓物を引きずり出され 生きたまま骨の髄液まですすられたくないのなら
どうか今すぐ 私の手が到底及ばない場所へ逃げてください。
血溜まりに横たわるかつてあなただった肉の塊、
そんなもの 私は見たくはないのです。
さぁ いつまでも突っ立っていないで 早くお行きなさい 憎くていとおしいあなた。
じりじりとカフェインが僕の身体を焦がす。珈琲の香りを感じながら、なかなか理解できない物理式に立ち向かっている。すでに自慰行為を済ませている事で僕の逃避場所は無くなっている、物理を理解した瞬間のきらめきが訪れることなく脂汗が滲むばかりだ。誰も見ていないのに考え込んでいる振りをしているのは、演じることで自分を楽にしようとしているのだろうか。深夜1時。ごぽっとコーヒーメーカーが音を立てる高校3年の冬。結局物理式を理解できることはなく、その解き方だけを丸暗記して見切りをつけると、妙な安堵感で満たされていた。足先で石油ストーブのスイッチを消し、窓を全開にして部屋の空気を外に逃がすと、たまらない。安堵感が突如として不安感に変貌する様がたまらない。たまらない不安感で逃げ出したくなる。1分にも満たない換気を終え、机に向かった。机に向かうのは、これで4回目。警告音と共にコーヒーメーカーは役目を果たしているのを見ると、僕はカップに残っている珈琲を飲み干す。新たに薬を摂取するべく空になったカップに黒い液体を注ぎ込む。カフェインの過剰摂取により息遣いが激しさを増す中、現代国語の問題に取り組んだのだが、興奮状態での解答は困難を極め頭に入ってくる問題文は煌いたと思うとすぐに血液に溶け込んでなくなってしまう。何度やっても自分が選んだ記号は正解を得られない。解説文を読んでも理解できない。あなたのその主張は理解できない。あなたのその説明に納得できない。じりじりとカフェインが僕の身体を焦がす。力を込めて答えを書き込み、冷静さを保とうと努力してはシャープペンの芯をボキボキ折る。自分の不甲斐なさに涙が溢れると、そのまま静かに号泣した。涙は、時には浄化を時には苦痛を与える。どちらにしろ今は逃避以外のなにものでもないのだから、僕はとことん逃避するべくテレビに向かったのである。
「全く、厚かましいったらありゃしない」冷蔵庫を開いた石は、顎の無精ひげを撫でながらビールの缶の山を探った。「真夜中に押し掛けて酒をせびるなんて」
「悪かったよ兄貴」縁側で座布団を枕に寝転がる一が応えた。「でも今日は飲まずにはいられなくてなあ」
「飲み過ぎなんだよお前は」縁側に戻った石は踵で一の頭を小突いた。「彼女に振られたぐらいでやけ酒して、挙げ句『終電逃したから泊めてくれ』なんて、冗談じゃないんだよ。タクシー代けちってまで飲みたいのか?」
「蹴るなら靴下ぐらい履いてくれよ、頭が禿げたらどうするんだ」蹴られたところを押さえながら一は体を起こした。「っと、さすが兄貴。三本なんて太っ腹」
「よく聞け馬鹿野郎」石は三つの缶のうち二つを手に取り、軽く振りはじめた。「馬鹿には酒はやらない主義だったが、お前が振られた記念ということで特別に譲歩してやる。振っていない缶を当てる事が出来たら、その一本はお前にやろう。振ってある缶を引いて中身が噴いたら、酒代と掃除代を払って、とっとと寝ろ」
「掃除代っていくらよ?」
「三百円、といいたいところだが、大まけにまけて千円だ」
「本当けちだな兄貴は」一は大げさに財布を取り出し、百円玉十個を取り出した。「それ、元手品研究会会長の腕を見せてもらうか。ところでつまみは無いのか?」
「誰がお前のためにつまみを出す手品をやるか。それに、外で散々食べてきたんだから要らないだろ?」石は一の目の前で三つの缶を動かしはじめた。「言っておくが、そう簡単には見破れないからな」
「うるさいな、集中出来ないだろ馬鹿」缶を目で追いながら、一は応えた。
十数回の動作の後、石は手を止めた。「さて、当てて貰おうか。制限時間は十秒だ」
「短いな、時間までけちるのかい」一は暫く缶を見つめていたが、やがて中央の缶を手に取った。
「選んだな、さて開けてもら、っと」冷たいアルミの固まりを額に受け、石は頭を押さえた。「殴ったな、ビール缶で」
「本当にけちだな兄貴は。動かしながら缶を振って、全部噴くようにしたんだろ」一は缶を床に戻しながら百円玉を手に取った。「馬鹿馬鹿しい、もう俺は寝るよ。布団はどこだい?」
「向こうの押入だ、居間にでも適当に敷いて寝ろよ」部屋の奥に消える一を見送りながら、石はポケットからジンのミニボトルを取り出した。「やれやれ、さすがに三度は引っかからなかったか」
洋子が空を見上げるともう雨は上がっていた。洋子は静かに微笑んでいた。
目一杯の六畳の部屋の片隅にはアイアイ傘が書かれたパコ姫が、残り少ない命で主を待っていた。
二人の出会いは友人同士のグループ交際であったが、趣味が同じ遠投であることですぐに意気投合した。
「へえぇ。正志さんは野ブタを遠投したことがあるんだ?」
「あぁ。偶然俺のアパートに入り込んできてね。捕まえた瞬間感じたんだ。コイツはイケるんじゃないかってね?
急いで遠協(遠投協会)に電話で確認したんだ。それしたらOKが出てね。すぐさま窓から投げてやったよ。」
「すごい。野ブタを遠投したのはまだ世界にだって数名しかいないんじゃないかしら?」
「まあね。これはちょっとした自慢なんだけどアマチュアじゃ俺が初めてだって。」
その後、素敵と言った雌ブタを小刻みに遠投し、二人は結ばれた。
洋子と正志は結婚してから三年になる。正志が失踪したのは洋子が蛹の時の半年前だ。
結婚してからの時間はありふれた言葉だが短いようで長い、長いようで短いまるでちんぽのような時間であった。
正志の失踪理由はわからなった。蛹から羽化した洋子の前には正志はいなかった。
結婚後しばらくして自分は蛹にならないといけないと告げた。正志は唖然としたがすぐに応援してくれた。
「蛹の洋子を遠投したらごめんな。」
「ひどーい。遠協には認めないようにちゃんと連絡しとかなきゃ。」
それは冗談だと思っていた。いや冗談だった。でも正志は遠投した。蛹の洋子ではなく、自分自身を。
洋子の見上げた空が朱色に染まり、愛欲の匂いが聞こえてきた。すると何処からか野ブタが現れた。
洋子はため息をつき、野ブタを捕まえると部屋のドアを開け外に逃がした。洋子は正志を信じていた。
夕方、近くの小学校の校舎から次々と蝶が飛び立っていった。幻想的な光景だった。私はいつも持ち歩いている折畳式の虫捕網を広げて懸命に振り回し、なんとか一匹捕まえることができた。アオスジアゲハだった。アオスジアゲハは東洋全域に分布する広域種で、黒色の地色の上の斑列は日の光を浴びて美しい空色に輝く。
私は自宅の地下室に蒐集した蝶の標本を保管している。そこで猫のように目を見開いて捕まえたばかりのアオスジアゲハを見つめた。
「おじさん……」
不意に蝶が口を利いたので、私は驚いてピンセットを取り落としそうになった。
「おまえはアゲハなんだよ」
「目を覚まして」
「これは夢なのかね」
「大人たちはみんな眠っているのです」
蝶は世にも奇妙な物語を語り始めた。この世界には、正義なく愛もない。そして美もない。大人たちは耐えられずみな夢の中に逃げ込んでしまった。
「この国にはいくつもの強制収容所があって、その中も外も、醜い暴力と飢餓に満ちているのです」
「私は美の蒐集家なんだよ」
「ぼくの母を助けてくれますか」
「お母さんがどうしたんだね」
「母は収容所に送られました。母を助けてください。お願いです」
「なぜ私に頼むんだね」
「あなたは収容所の所長です。そして、ぼくのような少年が好きだと。だから……」
私は部屋の隅の蝶の標本を指さして尋ねた。
「あれはなんだね」
「標本です」
「そうだ、美しいだろう」
アゲハは沈黙した。
「この国に美がないだって? とんでもない」
「はい、おじさん」
アゲハは期待を込めて頷いた。
私は標本用の注射器を取出した。ふと気になってアゲハに「今私は何をしているかね」と訊いてみた。
「おじさんは……ズボンを脱いでいます」
私はかぶりを振ってアゲハに近付いた。そして美しい羽を傷つけないよう両手で押し開いた。ひくひくと動く柔らかい腹の中心に私の注射器を押し当てた。
「おまえは美しい。美しい私のアゲハだよ」
「痛いです」とアゲハが言った。
「リラックスして」と私は親切心から忠告した。
私はゆっくり注射器を差し込んだ。
アゲハが泣き出したので強く窘めた。
「我慢しなさい。お母さんの苦しみを考えてごらん」
「母を助けてくれますか」アゲハがくぐもった声で言った。
「ああ……」と私は唸った。
私はすでに彼の母親を殺してしまったのだろうか。全く思い出せなかった。ただ美の追求に専心して静かにオールを漕いだ。
私はすぐに到達した。
日常において屁を我慢した経験ない人間はいないだろう。学校、会社、電車やバスの中はともかく、満員のエレベーターの中でなどは我慢するのがマナーだといわれている。果たしてそうだろうか。音、匂いが与える不快感は否めない。だが、それによって生じるその後の体調不良を考えたなら簡単に耐えろというのは如何なものだろうか。ストレスを溜め込みがちな現代社会において最低限度の生理現象までもが対象になるのは頂けない。よってオレは社内初活動費不要の「放屁倶楽部」なるものを発足することにした。この倶楽部の画期的な所は部員が匿名性である事だ。部長のオレ以外は誰が部員なのか部員同士ですらお互い知ることはない。倶楽部参加の鉄則は名の通り何所であろうと屁をかますこと、これ一つに尽きる。最初のうちは「すかし」も有りだ。自分の殻を打ち破る事は入部後即実行できるほど簡単な事ではない。特に未婚の女性は世間体を随分気にするものらしいのでこれは要望にこたえて特別に加えたルールだ。そう、驚いた事に女性の部員もいるのだ。最初は男性しか集まらないと仮定していた倶楽部規則の改定が必要になるほど、最近は増加傾向に有る。部員は増加の一途を辿った。社内の枠を出て一般参加者が激増し始めた。倶楽部を会へと名前を変え順調に運営していた頃、新興宗教団体から突然起訴された。なんでも教義を真似したとかしないとか。裁判で争った結果「放屁会」が勝利した。地元の新聞で奇天烈な社内活動として記事にされていた事が大きな決め手となり、宗教団体より古くから活動していた会に軍配が上がったのだ。熱烈な支持の下、会は何時の間にか宗教団体の装いを醸し出していた。古参の会員が幹部となり、オレはお飾りの教祖に祭り上げられた。そして、教祖のオレには妄信的な「放屁教」の若い美女が世話係として傍についた。聡明で優しい彼女にオレはたちまち心を奪われオレ達は夫婦になった。彼女は唯一の教義を熱心に守る敬虔な信者だった。いつ何時であろうと屁を放つ事を心がける。食事中でも夜の営みの最中でも必ず放つ。今日も笑顔でお茶を運びながら一発放たれた。家庭内で唯一不満があるとすれば、それ一点に尽きる。惚れた女に理想を求めるのは男の性だ。ああ、これで彼女がオレの前で少しでも屁を謹んでくれたなら何も言う事はないのに。自分で作ったモノに首をしめられる羽目になるとはなんと迂闊なことをしたのだろう。
田んぼの中に一軒ぽつんとあった家が火を出した。もう人が住まなくなって随分たった家だったから、火を消す人も、それを見守る人も、どこか呑気であった。鎮火すると、喝采が湧き起こった。いかにもわざとらしい喝采だった。
放っておいても危なくないと、半焼のまま残された。半焼の家は、それまでとは打って変わって目立った。真っ黒な、骨組みばかりの、むこうが透けて見える家は、それが田んぼに囲まれているという事実によって、いよいよたちの悪い現代美術の作品のようだった。一片のもの悲しさすら無かった。
あまり商売っ気のある田んぼではなかったから、そんな家があっても、わざわざ壊そうと考える人もいなかった。半焼になったことでかえって人の気配が感じられるという人もいた。
随分遠くを走っているようでも、なにしろ見渡す限り田畑に覆われていたので、電車に乗ると誰もが半焼の家に目を留めることになった。燃えた事情を知るものなどほとんどいないから、不気味と思うか不思議で済ますかが関の山だった。
そんな中、一人の若い女が気まぐれに写真を撮った。買ったばかりのカメラで、電車の中からシャッターを切った。女は腕がいいわけではなかったので、意に反して家が写ったのは画面の隅の方であった。腕がいいわけではなかったから、それを気に病むこともなかった。
それから一年あまり、女はときどき思い出して家の写真を撮った。変わったことと言えば女自身の撮影技術と周囲の季節くらいで、家は時間の流れにはまったく無頓着に思われた。画面の真ん中に据えてやるといわくありげと見る人もいたが、実際は色気も無ければ動きも無い、被写体としては枯れ木と大差ないものでしかなかった。
写真を撮る者もいなくなると、家は傾ぎ始めた。傾ぎ始めた頃にはもう写真を撮る者がいなかったのかもしれない。ともかく、それでようやく危ないということになって、家は崩された。道が細くて廃材を運び出すのに四苦八苦したが、済んでしまうと黒ずんだ地面が現れて、ますます不格好な眺めになった。
買い手もつかずに草が生え、遠くから見ると田んぼの中に荒れ地が迷い込んでいるようだった。
奇妙な光景にも慣れてしまいそうだったある日のこと、ひょっこり現れた案山子が住みついて、皆一様にほっとした。
眩しい。
空は真っ青に澄み渡り、雲一つ無かった。
その空から、誰かの割ってしまったガラスの、その細かな欠片が、太陽光をきらきらと七色に反射しながら雨のように降り注いでいる。
レストランの窓辺で、一人赤ワインを飲んでいた時からそうだった。
ひどく眩しい。
子供達は手を取り合って、ポルカを踊っている。
あたしはステッキを置き、シルクハットを脱いで、
「やあ」
と子供達に挨拶をした。
あたしのタキシードの胸ポケットには、ずっと前から一輪の花が挿してある。蝶ネクタイと同じ色の、柔らかく深い色調の黒い花だ。その花の名を古い友達に聞いてみたところ、彼はあたしと同じようにその皺深い手で花を触り、暫く眺め回した後、
「これは造花だ」
と言った。
「随分上手く作っているがこいつは造花だ。こんな花は、世界中の何処にも無いよ。こいつは、造花だ」
彼はそう言うと立ち上がり、歩き出した。片足を引きずっている。ずる、ずる、と足を引きずる音がする。彼はもう何年も使ってなかったのだろう書棚へ、積もりに積もった埃を払い、一冊の本を取り出した。
世界地図だった。その本には紀元前の人々が書いたものから現代のものまで、何度も書き替えられてきた世界地図が、何百ページにもわたって纏められている。
「ほら、見てごらん。何処にもそんな花は載っていないだろう」
「そうね。確かに載ってない」
「随分上手く作ってあるんだがな。本当に上手く作ってあるんだが。とにかくこいつは造花だ。こんな花は、何処にも無いよ」
従ってこの花には種も無く蜜も無く、花言葉も無い。
欠片達はますますその勢いを強めていき、がしゃがしゃと音を立てて大地に落ちる。子供達の踊りはますます冴え渡っていく。もう眠くなってしまいそうなくらいに、それはスローだ。
手を取り合い、笑い合い、くるくると回り、また笑い合う子供達。
あたしは眠気を押さえ、一歩前へ進んだ。
眩しい。
「やあ、こんにちは子供達」
子供達はポルカを踊りながらあたしの方を向いた。
「これから君達に、ちょっと面白いものを見せてあげよう」
あたしは子供達に語りかける。レストランでは赤ワインしか飲めなかった。僅かに残った銀貨も尽きた。あたしに残ったものは、この身体だけだ。
ひどく眩しい。
「上手く出来たらお慰み」
あたしはそう言って、さらに一歩前へ進み、昔のような見事な踊りはもう踊れないので、子供達に手品を見せる。
真は十歳になるが未だに海を渡ることができない。村の男子は朝食をとるやいなや家を飛び出し、沖の島へ向かう。蟹でも貝でも高く売れたりおいしかったりするものはすぐに採られてしまう。やがて漁を終えると、彼らは成果を自慢しあいながら海面を歩いて岸へと戻ってくる。島を目指して船を漕ぐ真と彼らがすれ違うのは、ちょうどそんな頃合だ。彼らは真の存在など無視するように振舞っているが、会話の音量だけはきちんと下げるのだった。
真が家に帰ると母はため息をつく。いつになっても渡れないから愛想をつかされている。漁に出たきり帰ってこない父の昔話を母はする。いかに強く、いかに慕われていたか、と。でも真は考える。女は海を渡れない、だから僕を責める資格などない、と。
日曜の午後、真は女先生とばったり会った。先生もいつも真の父の話をする。父の昔をよく知っている。真と幼いころの父は似てるとか、父は人の見ぬところで渡る練習をしていたとか。実は真は父のことをあまり知らない。遠くの海を目指して村の男達が行進していった光景の記憶だけがぼんやりとある。昔は何だってもっと沢山獲れたのに、と先生は言う。
暇だったのか、先生は真を砂浜に引っ張っていった。当然先生も渡れないのだが、真を指導するぐらいは造作ない。真はまず右足で片足立ちをして、その状態で水際まで跳ねていった。いざ水面へと大きく飛び出す。そして右足が水中へと完全に沈む前に、片足立ちを解き今度は左足を水面に蹴り出す。でも何度試してもうまくいかない。真の両足はがっちりと水底の砂を掴む。
繰り返すうちに真は頭がくらくらしてきた。心配した先生に連れられて木陰に行くと、倒れこんだ。深い眠りに落ちる瞬間、母と先生が口論しているのが聞こえたような気がした。真は思う。なぜ二人は仲が悪いのだろう。
「お前ももう大人だろう」突然父の声が聞こえた。
気が付くと真は自分の布団で寝ていた。朝日が眩しい。居間では母が椅子にもたれかかって寝ていた。玄関が開けっ放しで、その先に鱗のように輝く海が見えた。真は誘われるように家から出る。浜辺に降りると島まで一筋、海の色が濃く変わって延びている様子が見える。憑かれたように勇んで片足立ちで跳ねていく。水面へ飛び出す。濃い水面では足はいつもよりゆっくりと沈む。母が追いかけてきた。真は渡れることを自慢しようと振り返ったが、次の瞬間平衡を失い海水に浸かった。
野道を羊とアヒルが出かけていく。
「私たち、似た性質ねえ」
アヒルが話掛けても、羊は知らん顔して、道端の草を食む。知らん顔でも、いつもアヒルを目の片隅に入れていて、間が離れると、さっと追いかける。追いかけながら、口をもぐもぐやっている。
「私たち似た性質ねえ」
アヒルがいくら言っても、羊は口をもぐもぐやっているから話せない。
アヒルはいささかおかんむり。池が見えたので、そちらへ走って行く。
羊は草をこいで追いかける。
アヒルは池にどぼん。
羊は慌てて水際まで行ったけれど、厚い羊毛の服では泳げそうもないから、
「エメー、エメー」
と二鳴きして、忘れたように水をのむ。それから池を回ってアヒルを追いかける。
アヒルは向う岸について、翼をぶるるん、尾羽をゆさゆさとやって水を切ると、道に出る。
羊は息を切らせて池を巡り終え、アヒルに追いついた。
そうやって二匹はまた道を歩き出す。
薄雲に入っていたお日さまが、顔を出してぱっと照りつける。周りの世界がいっぺんに輝く。
おや? その光り輝く前の道を、こちらへやって来るのは飼主なのだ。出先から帰って来たところらしい。
「あれ、おまえたち、どこへ行くつもりだね。似た性質のものが、こんな遠くまで来ると、帰れなくなるぞ」
アヒルはたまげたふうに首を伸ばして、きょときょとする。
アヒルは飼主を一ぺんに見直してしまった。何故といって、自分の思っているのと同じことを言ったのだから――
二匹はくるりと向きを変えて、飼主の前を走りながら、アヒルはまた言う。
「私たち、やっぱり似た性質ねえ」
羊は知らぬ顔で、道端の草をすくい取っては、駆けて行く。
俺は元々冷静で無愛想であまり物事に関心を持たない性格だったから、コンビニの帰りにいつもの格好であいつが歩道橋の真ん中に突っ立っているのを目撃したときもでもやっぱり驚いた。だってあいつは本当にあのときのままでスカートの裾は少し捲れ上がっていておまけに皺だらけだった。俺がなにも言えずにいるとあいつはいつもみたいに微笑んで、健ちゃん中学校以来だね背少し伸びたんじゃないのまた大きくなったんだね私もう全然敵わないやと嬉しそうに言った。それで俺はああこいつは本当にこいつなんだと思ってなんだか少し安心して泣きたくなった。それからあいつといろんな話をした。六年間もなにしてたんだお前あっちで上手くやってんのかとか尋ねるとあいつははにかんでまあねと俯いてそして笑った。気がつくとずいぶん時間が経っていて、あいつはああ私もう帰らなきゃまた今度ねと手を振って俺とは反対側の階段をあわただしく下りていって途中でやっぱりこけた。家に帰る途中俺は夜空を見上げてあいつを探そうとしたけど、あんまりにも星が瞬いていたからどれがどれだか分からなくてまあまた今度でいいやと思ってやっぱり家に帰ることにした。
私は昔からドジでオッチョコチョイで幼稚園からの友達の名前もよく忘れるくらいだったから、コンビニの袋を片手に歩道橋を駆け足で昇ってくる健ちゃんの姿を見つけたときもでもすぐに思い出せた。だって健ちゃんは本当にあのときのままでジーンズはあちこちが擦り切れていておまけにだぶだぶだった。私が今まで言いたかったことを一気に捲くし立てると健ちゃんはおいおい少しは落ち着けよと言って優しく頭を撫でてくれた。それで私はああ健ちゃんは本当に健ちゃんなんだと思って凄く嬉しくて泣きそうになった。それから健ちゃんといろんな話をした。健ちゃんもう彼女できたのできてないなら急がないと一生独身のまんまだよとからかったら健ちゃんはうるせいやいこれもみんなお前のせいだかんなとよくわからないことを言って怒って俯いてそれから笑った。気がついたらずいぶん時間が経っていて、健ちゃんはじゃあまた今度なと手を振って私とは反対側の階段をゆっくりと下りていった。しばらく経って私は遥か眼下に広がる町並みを見下ろして健ちゃんを探そうとしたけど、あんまりにも町の光が眩しかったから誰が誰だか分からなくてまあいっかまた今度にしようと思ってやっぱり家に帰ることにした。
午前零時の閉館後は、重い闇が図書館を支配する。背の高い本棚がフロアを仕切り、その迷路のような構造が闇を一層深く、悪意に満ちたものにする。司書室のドアからは僅かな明かりが漏れていたが、暗闇のなかに溶け出した途端、吹いて消えてしまうのだった。
眠気と戦いながら司書が手にしている本は、図書館の歴史について書かれたものだ。毎年暮れになると、更新しなければならない。この図書館の歴史、それから統合される以前、世界に数多く存在した図書館の歴史を一冊に収めたもので、相当な厚さがある。暮れの作業では、この中から削除するべき項目を選ぶ。項目の数は規定されていてそれ以上に増やせないからだ。
新任の司書は悩んでいた。わざわざ書き加えるような出来事はない。けれどもそれは許されない。毎年古いものを一つ削って、今年起きた出来事を一つ加える。
歴史の古い図書館だから、重要な出来事で頁は埋まっている。内部の争いについては削れない。人事にいたっては、人名一つ削れば大変な騒ぎになる。こんなことだから、図書館の歴史にはかなりの偏りがあった。
彼はぼんやりと目次を眺める。それから去年のものを削ろうと思いつく。去年だってたいした事件は起こらなかったはずだから。
頁を繰ると、他の記述に囲まれ、肩身が狭そうだ。一行しかない。おまけに個人的な愛の詩といったところだ。なんでこんなものを。読むのも躊躇われて、消しゴムでごしごしと消した。
すると部屋の奥で金属音が響いた。振り返ると時計の針が折れている。
気のせいか息苦しく感じる。
窓の外を鳥が落ちていく。
胸のあたりが膨らんでいるので、どうしたことかと服の下を探ってみた指先は、ハート型のなにかをなぞる。ハート型のおそらくハートそのものであるものは、いまにもぼとっと落ちてしまいそうである。
司書は素早く頭を巡らし、とりあえずの結論を得た。消しゴムのかすを払って書くべきことを考える。これが落ちる前に書かねばと思う。
服の上から腕で抱えるようにしながら、司書は詩を書いた。
途端にハート型のものは胸の奥に収まる。部屋の奥からコツコツと時を刻む音が聞こえる。
司書は月明かりで照らされた庭を眺めた。さっき落ちたと思った鳥は、枝にとまって羽を休めている。
娘の顔を思い浮かべ、小さく溜息をつく。今日も帰れそうにない。
こうして新任の司書は、またひとつ、自分の仕事を覚えていくのだった。
夏のあいだ半月、札幌に遊学した。
月曜から土曜まで週六日、朝九時から夕方の五時半まで大学に缶詰にされて講義を受けていると、海綿を搾りつくすようにヘタッて来た。ふだんは週に四日、合計九コマしか働いていないので、これでやっと世間並みなのだ、とおもった。
衣食住といった類の、こまごました生活を統べていくのもまた、煩わしかった。ホテルに部屋を借りて、食事はコンビニの弁当で済ませた。洗濯は三日おきにした。部屋には電気洗濯機と乾燥機が備えつけてあったが、洗い上がった衣類は乾燥機だけではじっとりと湿り気が抜けず、風呂場の換気扇を回して、一晩吊しておかねばならなかった。
札幌というと、内陸で夏は暑いという印象がある。持ってきたのは夏物ばかりだったが、今年の夏は全国的に寒く、札幌もすごしやすかった。半ずぼんは何を考えて入れてきたのか、気が知れないようなことになった。
一本だけの長ずぼんを穿き通しているうちに、なんとなく脂じみて来たので、思い切って土曜日の晩、ホテル近くの洗濯屋に持ち込み、次の日曜日は、一日半ずぼんですごした。
私は大人になってからは、夏も滅多に半ずぼんを穿かない。理由は、見っともないからである。脚が火箸のように細く、X脚で、そのうえ毛が濃い。こんな脚は世間に晒して歩いてはいけないと思う。
それに半ずぼんにはやはりサンダルを履きたいが、あいにく革靴しか無い。半ずぼんに靴下そして革靴となるとまるで坊ちゃんに見えてしまう。だから部屋に籠もって、原稿でも書いているつもりだったのだが、ほどなく詰まると、天気もよいのでつい出かける気になった。
地下鉄を幌平橋で降りて、図書館まで歩いた。街並みの硝子に自分の姿を映しながら、
──まあ、そう見られないもんでもないか、
と思った。
来るときは暑いくらいだったが、五時すぎ、閉館になって出ると、黄昏とともに風はかなり冷たくなっていた。図書館前から市電に乗って山鼻9条で降り、中島公園から地下鉄に乗りかえた。
地下鉄を降りて、カードの裏の残額をなにげなく見ると、計算がどうもおかしい。
よく見ると、市電で引かれた分が、九十円しかない。ふつう大人料金は百七十円で、九十円は子供である。
この姿恰好から、まさか運転士は小人と見誤ってくれたのだろうか。降りた電車はちょうど赤信号の交差点で停まっていたので、私は何も知らずに颯爽とその前を横切ったのだった。
部屋の向こう、街路樹の上で蝉が鳴く。古い扇風機はそれに合わせるようにカタカタと音を出して首を振っていた。
「たーいりょー、ぎゃくさつー」
ヒロは机の上の夏休みの宿題をものの見事に無視して、声を上げながら調子良く手を閉じて開く。するとその度にへしゃげた黒い小さな蚊の残骸が。
「何やっとんの?」
たまたまヒロの部屋を通りかかったユキは、怪訝そうな顔をして彼を見た。するとヒロはにまっと笑って、広告の紙の上の‘成果’を指差す。
「見てや。八匹目」
「アホか」
「なんでーや。この部屋、蚊ぁ多すぎんねんて。夜、めっちゃ刺しよんねんムカツクわあ」
ヒロは手をはたき、今しがた殺った蚊を広告の紙になすりつける。ユキは一つ溜息の後、口を開こうとした。
「あんたそんなんより宿題やりぃな言いたいんやろ、姉ちゃんは。判っとるよ」
弟に先手を打たれて苦々しい顔つきで、ユキは部屋の奥の大きい窓を眺める。網戸と窓枠との細い隙間は、地震による歪みが原因とされている。
「これ、この隙間。目張りしといたら? ガムテあったやろ」
姉のもっともな台詞にヒロは顔をしかめた。
「テープないんやけど。家のどっこにも」
「もっと気合入れて探しぃや。もしくはお母ちゃんに頼んで百均」
「もう頼んだ方が早いって。家汚すぎ」
毒づきながら、ヒロは汗を一滴ぽとりと落とす。空には薄い雲が流れ、蝉の声がやけに暑苦しく流れた。
やがてユキが呟く。
「あれよな、友達に聞いたんやけどさ、叩いたりして殺した蚊って水で流したらあかんねんてな」
「?」
ヒロが目で疑問を訴えると、ユキは「考えてみぃや」と言葉を繋げる。
「蚊の子供はボウフラやで。水で育つんやで。いつか親ぁ殺された恨み溜まって、仮面ライダーの怪人やあらへんけど、人の血をいっぺんに吸ったりするヤツとか産まれてくるかもしれんやろ」
ヒロはユキの台詞にしばらく首を傾げていたが、生温い風が狭い部屋に僅かばかり吹き込んだ拍子に、「うわぁ、やだやだ」と嫌そうな顔をする。
「俺、早死にしたないー。絶・対、そんなヤツに殺されたないー」
「……よぉまぁ、そんなん言えるなぁ。……因果応報って知らんの自分」
「知らんよそんなん、俺蚊ぁちゃうし。恨まれてても知らんし」
しれっとした顔でヒロは広告の紙を折りたたんだ。それを見てユキはその場にしゃがみこみ、扇風機の首をわざと自分のところで止めて、「幸せなやっちゃ」と震える声を出す。
雨が降っていると女は言うのだが開け放たれた障子の向こうに見える夜空にはいくつか薄く筋のような雲が浮んでいるだけで雨雲など何処にもなく当然ながら雨など一滴も降ってはいない。私は俯き加減で給仕を続ける女の半襟から覗く白い項を見るとはなしに見ながら雨など降ってはいないと言い返すのだが女は私の言葉がまるで聞こえない様子で「ほら、雨音が」などと相変らず俯いたまま酒を注ぐ。ぐつぐつと煮える牛鍋に箸をつけるのは私だけでともすればちぎり蒟蒻の山に埋もれがちになる紅色の肉を返す私の箸の鈍色をした箸先さえ女は見はしない。「このような風情の雨はなんと申し上げればよいのでしょうか。ざぁざぁでもなく、しとしとでもなく」いやだから雨音など全くしはしないし障子の外に見える庭木を濡らすものは何もない。雨など決して降ってはいないのだ。女は相変らずこちらを見ようとはせず酒を注ぎながら「お帰りの際には傘を」と言う。私はそんな女の長く伸びた睫を見ながら、はてこの家は私の家の筈ではなかったかと思うのだが何故だか判然としない。いや、判然としない筈はなくこの家は間違いなく私自身の家で違い棚に置かれたあの皿はいつだか古市で見つけた古伊万里で、いやいや実のところ古伊万里に似せた全くの贋物で全く何の値打ちもない。「なかなか心地のよい雨音ですわね」いやだから雨など全く降ってはいないし、雨音など聞こえはしない。聞こえるのは牛鍋がぐつぐつと煮える音だけで、それ以外は虫の聲一つしない全く静寂だというくらいで気付いてみればそれはそれで不気味というべきかもしれない。空いた杯に女が酒を注ぐ。その白く長い指先を見つめながら、そういばこの女は私の妻なのだろうか愛人なのだろうかそれとも全くの他人、例えば先日亡くなった友人の妻なのだろうか。これもまた何故だか判然としない。或いは私の母かもしれず、娘かもしれなかった。「ほら、雨が降っていますわ。このところ毎晩雨」と女は膳にとっくりを片付けながら言う。鍋を覗くとすっかり肉はなくなっていて煮込まれ色付いたちぎり蒟蒻だけが鍋の中で山をつくっていた。「ほら」と女はまた口を開いたが今度は雨が降っているとは言わずそのまま動きを止めてほんの僅かちらりと私の方を見遣った。女の眸に私が映り込んでいる。ああ、そうだ。雨は降っているのだ。雨音はしない。庭木を濡らす雨粒もない。けれども、確かに雨は降っているのだ。
ウェイ・イーは盲目の軽業師だった。
三月ほどの間、彼と私は同じ雑技団に属していた。
「お月さんが出てるなあ」
盲目の軽業師は鼻歌を歌いながら、私の隣に腰を下ろした。シュイツァイの城市での興行を終え、西へと移動する二日目の夜だった。
「月は出てないよ、ウェイ・イー。星も出てない」
「そうか?」
軽業師は天を仰いで、肩をすくめた。
「まあ、おまえさんが言うなら、星は出てないんだろうさ」
そして付け加えた。
「だがね、月は出てるよ」
「月なんて見えないぜ、ウェイ・イー」
「見えなくてもいいのさ」
軽業師は鼻歌を続けながら、立ち上がった。私の肩までも届かない矮躯。
「なんて曲だい? ウェイ・イー」
「月」
軽業師は命を助けてやった相手に名を告げるように、そっと呟いた。
「おれは月で生まれたんだ」
「へえ?」
「月はさびしい処だよ。おれは地上に降りたくて仕方なかった」
軽業師は足踏みをした。地面の感触を確かめるようにだ。
「でも、不思議なもんさ」
歌うように、軽業師は続ける。
「今じゃ月に帰りたくて仕方がない」
「帰れないのかい? ウェイ・イー」
私は暗雲に覆われた天蓋に向けて目を凝らしていた。もしかしたら私にも月が見えるかも知れない。
「帰ろうと思えば帰れるんだろうがね」
「帰らないのかい? ウェイ・イー」
「――」
軽業師は答えなかった。
「降りてきて良かったことはある? ウェイ・イー」
「食い物がうまい」
軽業師は即答した。
「それに月を見ることができる」
私はその言葉に驚いた。軽業師は盲目だった。
「月は金色だった、といつか故郷の皆に語ってやりたいさね。でも、それはまだまだ先のことさ」
「どれくらい先のことなんだい? ウェイ・イー」
軽業師は掌を月にかざした。
「おれには永遠に思えるほどさ」
月から来た男が言う「永遠」には説得力があった。
軽業師はリャオツェンの城市での興行中、得意のナイフ投げに失敗して雑技団から去っていった。しばらくは大道芸のようなものをしていたらしいが、その後ぱったりと彼の噂は聞かなくなった。私は別の雑技団に移って、裏方をやるようになった。そして老いていった。
今にも雨が降り出しそうな曇天になると、私は決まって空を見上げる。そして月を探す。月の光の粒子は、厚い雲の僅かな隙間からこぼれて、私の網膜に落ちかかってくる。
ウェイ・イーが月に帰る時が近づいたのかも知れない。
右肩の古傷が、少し痛んだ。