第78期 #11
夜の闇が嵐を抑えている。
天気予報通り、今にもポツリと来そうな夏の夜、恵里佳は夫の帰宅を待ちながら、携帯電話のサイトからいくつか着メロをダウンロードした。
夫は今夜も残業である。一人の夜を過ごすのに、DVDもマンガも見飽きていた。
無料試聴型のそのサイトには投稿者が投稿した、最近流行りのJ−POPから洋楽、演歌、童謡、軍歌まで、
様々な曲が月額利用料を払うことでダウンロードできる。
投稿者の好みで原曲のままや、オルゴール版や着メロ用にアレンジされたものなど、何千曲も投稿されている。
子供の頃にエレクトーンを習っていた恵里佳は、迷わずクラシックをダウンロードする。
30を過ぎて結婚し、子供のいない専業主婦をしている為、その気になればいつでも音楽教室へ行ける。最近はそんなことを考える。
恋愛結婚をしたが、夫とは日一日と、男と女の関係ではなく、血のつながった家族のような温かい絆が結ばれていく。
独身の時、愛を求めてさまよった、カミソリと揺りかごが常に背中合わせだったような感覚が忘却の彼方へ行く。
大好きなベートーベンの曲をダウンロードした。「月光」「テンペスト」「英雄」…。さすがベートーベンである。投稿者の数がクラシック曲の中でもダントツに多い。
好みの投稿曲を見つけ、その人が投稿している曲を様々聞き比べるのも面白いと思った。
ダウンロードした楽曲を再生する。
携帯電話から譜面通りにピアノで弾いた旋律が流れ始める。
「月光」の調べが、嵐にさらわれるようにあの人に恋焦がれた感覚を思い出させる。
どんな人が投稿したのかと自己紹介欄を見てみると、小柄な男性で郵便局に勤務をしていることがわかった。
3分間で終わった曲をまた再生する。
顔も名前も分からない彼が奏でる旋律は、恵里佳が忘れていた遠い日の記憶を音符でくすぐる。
表現力もピアノの技術も上手なのにプロにはならず、郵便局に勤める彼の背景を想像してみたりもする。
黒いアップライトピアノの前で譜面を置き、音符や記号を追いながら自分の世界を表現する彼。どんな人なのだろう。
彼が投稿した曲を他にも聞いてみる。
どの曲においても、彼の奏でる旋律は恵里佳の心をくすぐる。
ふっ、と再生が途切れた。
夫からの着信が来た。
「もしもし?何してた?今から帰るから」
夫の優しい声が聞こえる。
恵里佳は微笑んだ。
夫への恋心を思い出した。