第75期 #23

背中

 背中が重い、とベッドの上でなんの気なしに呟いた茂昭は、ふいに父親がむかしに読み聞かせてくれた、子泣き爺の話を思い出した。子どもを負ぶっているとしだいに石のような重みとなって、やがて子どもに押しつぶされてしまう。けれど、いまはそんなものを背負いこんでいる訳ではない。気を紛らわそうと茂昭は手を上げ大きく伸びをする。しかし、こびりついた汚れのような重みが茂昭にまとわりついて、身体にどんよりとした気だるさが立ちこめる。茂昭は横に美佐の眠るベッドからのそのそと抜け出し、朝刊を取りにいった。
 一面には、ある大きな企業が破綻したとかで、今後の日本への危惧がくだくだと書かれていた。茂昭は玄関先に立ちながら、すこしの間みょうな高揚を感じていたが、すぐに手垢にまみれた倦怠感が襲ってきた。このまま、どこかに消えてしまえばいいと幾たびも反芻した、満員電車の息苦しさとその時間が、想像のなかでぐるぐる渦を巻き、原型をとどめないほどまで歪に変容した人々の顔が、茂昭を取り囲む。もちろんのこと、知ってはいないのだが、我慢ならないとばかり、これは誰だ? と、茂昭は呟く。下駄箱の脇に置かれたデジタル時計は午前六時ちょうどを示しており、ふと見た茂昭は、勝手に予定表が頭のなかに組みあがっていくのを発見して辟易する。背中はいまだ重い、ひょっとすると、体調を崩しているのかもしれないと、茂昭は額に手を当てたが熱があるのかないのかは自分ではよくわからないようだった。
 寝室に戻りながら茂昭は、何故だかむしょうにでんぐり返しをしたくなった。まったく脈絡のないその計画に茂昭は自分で驚きながら、しかしだからこそやるのだと思いなおし、両手を床につけた。えいっと掛け声をかけ、ぐるりとまわると一瞬身体の重みがひっくり返り、その足がベッドに当たってがんと音がした。なにしてるの、と寝起きのかすれ声で美佐が顔を茂昭のほうに向けた。自分でもなにをしているのかよくわかっていなかった茂昭は、なにしてるんだろうか、と思うままを答えた。美佐は、楽しそうね、と言い、すこし間をおいて、怪我しないでね、と呟きふたたび眠ったようだった。
 ふと、子泣き爺を背負いながら、でんぐり返しをしたら果たしてどうなるのだろうかと、茂昭は思い描き、さながら喜劇の様相だと苦笑した。時刻を確認し、美佐が目覚めたらこの話をしてやろうと思いつつ、茂昭はゆっくり立ち上がった。



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