第75期 #22

クリスマスカロル

 僕は鉄道を君と同じくらい愛している。鉄の塊にみえる車体が線路の上を、ものすごいスピードで走っている。人や荷物を運んでいる。
 速い新幹線以外は廃車、ということもしない。小銭を握りしめた子供でも隣駅までの各駅一人旅ができるんだ。僕がそうだった。鈍行の渋さがわかるかい? 阪急電車の白いブラインドのおろし方は難しい。初めてのときは失敗して、居眠りしてたおじさんが寝惚けて六甲おろしを歌ったときは驚いたよ。
 魅力は鈍行だけじゃない。あのリニアさえ……夢の超特急だぜ、いざ出番となれば時刻表通りに動くだけの自制ができてるんだ。リニアと今も富山を走るちんちん電車が同じ時代に存在してるって、歴史学的にやばくないか。
 笑わないでくれたまえ! 僕は鉄道そのものに意思がないことは知ってるんだ。でも、僕にはもはや線路は血管。列車は血液。僕は細胞。そして君は太陽。つまり、偉大な思想を身につけた生き物に僕らは乗ってここまでやってきたんだ。

 男は満足したのか、ミルクティを一気に飲み干した。二人は駅前の喫茶キムタクで休んでいた。
 女は、大阪の地下鉄駅は天井が高かかったなあ、とか、江ノ電の海がみえる窓は好きだなあ、とぼんやりしていた。とんち小僧のように男はしばらく黙ったあと

「牛タンの味噌づけ食いたいなあ」

と今度は駅弁についてまくしたてたが女は聞いてなかった。昔、猿に変装して散歩する趣味の恋人と乗った江ノ電を思い出してしまったのだ。

 君の舌と同じくらいに牛タンが好きだ! と男が言ったとき、あまりに恥ずかしくて女は我にかえった。隣には赤いバラを胸に刺した婦人とシルクハットの老人が座っている。老人は菊が描かれた香水瓶をプレゼントしていた。猿に似ていた。
 変な店名にしては見事な青磁の壺が品のよいたたずまいで置いてあって居心地のよさは尋常ではない。よそ者気分がしない。BGMでティンパニが朗らかに鳴っていて、女のクリスマス気分は高まるのだった。

 キムタクから帰宅後、二人とも並んで本を読み始めた。女はチェーホフ「三人姉妹」を、男はディケンズ「炉辺のこほろぎ」を黙って読んでいたが、男は感極まったのか、涙をながしはじめた。泣けるねえまったく、ディケンズって奴には魅せられ尽すってことがないね、と言って、テーブルの蜜柑を凄い勢いで飲み込み始めた。そして、僕が今日はカレーをつくってみせる、といって初めて台所へ向かっていった。



Copyright © 2008 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編