第73期 #12

うどんだよ

 台所で筑前煮の、ごぼうの下茹でをしながら、何年か前に応募した自作の小説を読んでいた。当時は意気揚々と書き上げ、女の肩に手をかけては「俺もこれで家を建てるだろうよ」などといい気持ちになっていた作品である。

 つまらなかった。ごぼうがボコボコ沸騰するのも忘れ、ページをめくる指は夢中というよりも怒りの感情にちかい。もう鳥肉や人参といっしょにこいつも煮てやろうかとまで考えたとき、料理していることを思い出して、火をとめた。

 狭い台所がごぼうの香りでいっぱいになる。花とはちがった土の匂いというのもなかなか落ち着くなあ、正月を思い出すなあ、と気分もよくなったところで料理をつづける、といっても煮るだけである。

 鍋に放り込みそうになった原稿を再び手にとる。煮ても焼いても喰えないけれども、やはり捨てられない、と思う。なんだかんだもう一度読み返す。二度目の再読ではさっきより大人の態度で、かつての若書きを受け入れる。恥ずかしい表現も感傷の爆発も、愛想笑いで読み流す。

 鍋が煮えているのも忘れてしまい、すっかり焦げてしまったころに気がつく。真っ黒になった肉と野菜を前にして、こういう感情に慣れてしまったな、とためいきをひとつ。

 たわしを握りしめ、ごしごしこする。思わず「ごしごし」と独りごとまで呟いていた。つまらない物語ではある。つまらないが、そのなかのある種の気分は決してつまらなくなんかないんだ! と急に燃えてくる。自分の作品をけなしている自分に悔しくなってきた。

 きれいになった鍋で再度湯をたっぷり沸かしながら、今度は赤ペンを握りしめてもう一度読み直す。ナイフを持ったピエロに追われる記憶喪失の男の物語だった。ピエロを猿に変えてみる。ナイフはペーパーナイフにしてみよう。男が失ったのは記憶ではなく感情にかえて、やはり素敵なヒロインに登場願いたい。

 無我の境地で書き直していると、女が帰ってきた。鍋? 鍋がどうした、今日は……うどんだ、これから茹でるからちょっと待ってな!

 赤ペン原稿をそっと食器棚に隠し、そういえば讃岐うどんがあったことにニンマリとなる。葱をななめにザクザクきり、即席つゆを使ってものの見事にうどんを用意した。

 焼きごぼうの匂い? 幻覚じゃねえか、ほら、うどんだよ、今日はうどんだよ。

 かつおぶしと七味唐辛子をふりかけて、我々はうどんをすすった。長い夏もどこへやら、涼しげな初秋の晩であった。



Copyright © 2008 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編