# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | ブレーンリーダー | 斉藤琴 | 997 |
2 | 世界一不幸な男 | 林徳鎬 | 677 |
3 | 自動ドア | のの字 | 1000 |
4 | 浦賀沖で | みかりん | 1000 |
5 | 猫 | 西直 | 998 |
6 | バランディオ | 野郎海松 | 1000 |
7 | 夜空とエクスペリメント | ラリッパ | 1000 |
8 | 厠へ | 逢澤透明 | 1000 |
9 | 懐刀と丸腰 | 妄言王 | 1000 |
10 | (削除されました) | - | 296 |
11 | カート選手権 | (あ) | 1000 |
12 | 無風状態 | 戸田一樹 | 298 |
13 | 愛なかりせば | 朝野十字 | 1000 |
14 | 赤い小さなマール | 川島ケイ | 1000 |
15 | 告白 | Nishino Tatami | 996 |
16 | 健在者 | ワラビー | 963 |
17 | ささやかな贋・預言の書 | 海坂他人 | 998 |
18 | ゴーゴーパンチ | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
19 | 青い星のモグラ | 赤珠 | 1000 |
20 | トンネル | 曠野反次郎 | 923 |
21 | どっちもどっち | 朽木花織 | 995 |
22 | 怪奇実話 鳥人事件の大真相 | 紺詠志 | 1000 |
絶叫の後、同僚のニックが死んだ。これで2人目だ。
俺達の仕事は死体の頭の中身を覗く、つまり記憶を読むのだ。読み込んだ記憶は頭の中で変換してから出力する。変換とは頭の中で再現することだ。浅い記憶の場合死亡時の状況が再現されるために読むことは危険だ。動物を使った実験結果の死亡率は9割以上。殺害される直前の再現は、擬似とはいえ、死を招く。しかしニックは、遺体の絶対安全な深部の記憶を読み、彼女の身元を解読している最中だった。
ニックの事故処理で帰宅は深夜になった。子供部屋に入り、アーヴィンの寝息を確認してから寝室に行った。ベッドの上でアリスが体を丸めて眠っている。俺はベッドに突っ伏しそのまま眠った。
朝だ。眠りが浅いのか、頭が重い。朝食を取る気にはならず、着替えて玄関へ向った。
「ジョージ」
アリスがアーヴィンを抱いて見送りに来た。
「行ってらっしゃい」
アリスの声を聞き流した。アーヴィンに声もかけなかった。
「ジョージ、仕事だ」
俺が読むのは他人のアルバムだ。俺を乱すものがあるはずが無い。
「今日は、四十代後半とみられる女だ。ニックやケイジの読んだ若い女とは違う」
「そうか」
俺は少しだけ安心した。
「あいつらは運が悪かっただけだ。他のやつは生きてるじゃないか」
そうだ。きっと操作ミスで浅い記憶を読んだに違いない。俺は自分に言い聞かせた。何度も人の記憶を読んだ。犯人の手がかりを読んだこともあるのだ。ただ、幼女の記憶を読んだことはあっても、女の記憶を読むのは初めてだった。
装置を着け、目を開ける。最初の記憶が見えた。台所だ。小さい男の子が近寄って来た。俺は菓子を与えた。次の記憶だ。赤子を抱いている。俺は歌を歌っていた。その次だ。突然目の前に光が広がった。大きなライトの光線が俺の目を刺す。熱い。汗が噴き出る。体がだるい。激痛が走る。呼吸を指示する声がする。髪が汗で顔に張り付く。涙で光が滲む。俺は声をあげた。激痛がまた来た。嫌なリズムを刻みながらどんどん痛みが増す。知らない男が俺に触る。助けてくれ。俺は叫んだが男は俺を励ますだけだ。言葉はいらない。俺は泣いた。おねがいだおねがいだおねがいだ。たすけてくれ。
ズルリ
俺の中で何かが切れた。血のにおいで吐きそうだ。だが、臭覚だけではなく全ての、痛覚すら、薄れていく。ギャーギャーと泣く声が聞こえた。アリスの偉大さを知ったが、いまさら遅い。
世界一不幸な男がいると聞いて、私はその街はずれの住所を訪ねた。
小さな湖をぐるりとまわり、丘をひとつ越えるとそこは森だった。ほどよくひらけた所に煉瓦作りの小屋があり、木漏れ日を受けてとても平和に見えた。少し心配になって戸を叩くと、憂鬱そうな男があらわれ手招きで部屋に案内してくれた。
世界一不幸な男と酒を飲み交わし、小一時間ほどすると、期待したような話も出ないのでまた不安になってきた。なにを察したのか男は、
「腹が減ったんだろ?」といい、台所に行くと、フライパンに卵をふたつ落とした。その様を眺めていると、男は冷蔵庫からトマト・ケチャップを取り出して容器をフライパンの上の目玉焼きに向けた。すると水っぽい安物のケチャップのようにとろとろと流れ出るので私は驚いて、
「すごい。どうやったんですか?」と訪ねると、男は、
「不幸なんだよ」と答えた。
なるほどそういうことなのか、と納得したようなしないような気持ちで目玉焼きをいただくと、私は礼を言って小屋を後にした。
家に戻る途中スーパーでトマト・ケチャップを買い、家に帰るとさっそく目玉焼を焼いてみた。それからいそいそとケチャップの容器を軽く皿の上に向けると、ケチャップは水っぽくとろとろと流れ出し、でもそれなりにおいしそうに目玉焼きをあやどった。
もう一度男と話したあれこれを思いだしてみたけれど、とくに不幸な話はなかった。それでも男がとても不幸に見えて、目玉焼きはおいしそうに見えたので、それ以上は考えずにえいと食べてしまってからというもの、私は幸福とか不幸については考えられない人間になってしまった。
微熱があるらしい。軽い頭痛を感じながら部屋を出た。夕方から片付けなければならない仕事があったので、いつまでもベッドの中というわけにはいかない。時間を決めずに眠れるのは、私のような自由業で生きている者の気楽さともいえるが、恐ろしく不健全なことでもある。
体調を崩すとすぐに頭痛に襲われるのは、眠り方に原因があるのだとある友人はうるさくいうのだが、今度はどうも流行の風邪にやられたらしい。一階の入り口まで降りてきたところで、我慢できないほどの悪寒が背筋を走った。
ふと、一枚ガラスの自動ドアの外側に、ひとりの小さな少女が立ち止まっているのが見えた。長い髪が木枯らしに煽られて、ひどく寒々しい。夕日の逆光を浴び、顔や姿ははっきり見えないのだが、少女の陰は地団太を踏むような仕草をしている。おそらく体の重さに自動ドアが反応しないのだろう。
早く入れてやらなければと思って、そのドアに近づいたとき、傍の管理室からいつもの老人が出てきた。慌てたように、ちょっと待ちなさい、という。
「可哀想に、体重が軽すぎてドアが開かないのでしょう」
と私は説明した。しかし、彼はかまわず私を押し戻そうとした。
「今はドアを開けてはいけません」
「でも、バスの時間もあるし……」
もとは教員で、大病のせいで校長職につくこともなく定年を迎えたと聞いたことがある。公務員独特の融通の利かなさが、管理人の仕事にはあっているのかもしれない。私が前に出るのを頑なに阻み続けながら、
「何年か前にこのマンションから連れ出されて行方不明になった女の子に似ています」
と奇妙なことを言い出した。
「もう四日目になりますが、今さら帰ってきても、両親は他所に引っ越しているのですよ。しばらく待てば、あきらめてどこかへ行ってしまうでしょう」
「そんな馬鹿な、まだ小さな子供じゃないですか」
老人の言葉の理不尽さに、私は思わず大きな声を出していた。外はどんどん暗くなっていくし、寒くもなる。とりあえず中に入れてやればいいではないか。
私が苛立っているのに困り果てたのか、相手は顔をゆがめて泣きそうな声をだした。
「もし中へ入ってきて、ここに居付いたら面倒なことになります」
「どういうことですか」
「あの子には体重がないんですよ。だから自動ドアが開かないんです……」
重苦しい静寂がふたりを包んでいる。
ひどい悪寒が相変わらず続いて、頭痛はさらに激しくなってきた。
ペリー提督が浦賀沖に4隻の船と共に停泊してすぐ。こちらへ向かってくる日本人がふたり。若く見えるがペリーには東洋人の年齢は見当もつかない。
それにしてもだ。旗艦と蒸気艦と二艘の武装帆船の黒船艦隊に、木っ端のような手漕ぎの小舟で、たったふたりで乗り込んでくるとは。日本人とは勇敢なのか、向こう見ずなのか、バカなのか。
ペリーは友人のグリーン中佐から日本人の性質について予備知識を得ていた。中佐は、長崎にアメリカ漁船の漂流者を受け取りに行った経験がある。
「日本の役人には高圧的な態度でのぞむこと。相手が弱いと見るとつけあがり、強いと見ると卑屈になる」
ともあれ日本人ふたりが乗り込んできた。浦賀奉行所与力の中島三郎助と通訳の堀達之助だ。ふたりは早速ペリーに面会を求めたが、ペリーは会わなかった。友人の言葉を金科玉条としていたから副官のコンティ大尉に応対させた。
「用向きの如何に関わらず、直ちに浦賀を去るよう」
三郎助は伝えた。
コンティは答える。
「ソレハデキマセン。大統領ノ親書ヲ大君ニ渡スタメ浦賀ニ来マシタ。帰リナサイ」
三郎助は即座に切り返した。
「明日は奉行が来るであろう」
嘘だった。翌日三郎助は義弟で同僚の香山栄左衛門を奉行と名乗らせ、再び旗艦を訪れた。
栄左衛門は三郎助よりも人当たりがよいこともあってか、参謀長のアダムス大佐と艦長のブキャナン大佐が応対にあたった。
その間、三郎助は艦艇の隅々まで測り、機関室に入り込んではスケッチをしている。何でも覗き回り根掘り葉掘り聞き回る。
ペリーは、三郎助の行動を知り驚嘆した。
我旗艦サスクェハナ号を測っている? そんなことをして何になるのだ? 作ってみる気なのか?
会談を終え一行は帰っていった。見送りながらペリーは、この先の日本との交渉を思い空を見上げた。空は澄み切っていた。目を陸地に移すと遠くに富士が見える。ここが故郷から遠いことを思い知らされる。それでもこの空は遠く世界中の様々な国と繋がっている。鎖国など止めさせてやる。ペリーには勝算があった。
日本が大きく変わろうとする時代。初めて「黒船」に乗った日本人中島三郎助。この頃の日本人は外国人に対して萎縮するという素地がなかった。
三郎助はこの年の大船建造令によって、日本で最初の洋式軍艦「鳳凰丸」を半年余りで完成させている。ペリーはこの時点ではそれを想像することもできないでいた。
最初の猫が死んだのは、十年前だった。僕はまだ小学生で、親と一緒に住んでいた。社宅だったから、規則が厳しくて、猫は飼えなかった。
あの日は小雨が降っていた。本降りにはならなかったけれど、とても寒かったのを覚えている。猫は電柱の陰にそっと置いてあった。僕は猫を抱き、家に帰った。そして、さっそく親に見せ、言った。
「ねえ、飼っていいでしょ?」
ダメと言われるとは思いもしなかったのだ。母親は困ったような顔をしていた。僕は泣きながら家を飛び出していた。傘は持たなかった。細かな雨が身体を濡らした。寒かった。気の良い世話好きのお婆さんも、仲の良い近所のお兄さんも、僕の知り合いの中にはいなかった。仲の良かった友達の家に行こうとして、母親の顔が浮かんだ。友達の母親も「ダメ」と言わないだろうか。僕は友達の家にも行けなかった。
気がつくと近くの駅にいた。屋根があって、雨がしのげた。しばらくの間ぼんやりしていた。わりと大きな駅で、僕のことを気にする人などいなかった。
子供だったから、時間が経ち暗くなると不安になった。もう家に帰ろうと思った。猫は連れて帰らなかった。連れて帰れなかった。
駅にはコインロッカーがあった。僕のポケットの中には、百円玉が何枚かあった。
僕の両親は今も同じ社宅にいる。だから、ずっと猫は飼えない。高校のときだった。猫は、川辺の草むらで震えていた。
僕はアルバイトをしていた。だから、金銭的には多少余裕があった。今度は親に報告などはしなかった。コンビニでミルクとタオルを買った。数学のノートを破いて、小さな皿を作り、ミルクを入れた。
それからまた駅に向かった。百円玉でコインロッカーを鳴らした。
友達の家にあずけても良かったはずだ。でもたぶん、悔しかったのだ。最初の猫を死なせてしまったことが、とても悲しかったのだ。
僕は大学に入り、一人暮らしをはじめた。安いアパートだ。動物を飼うことは禁止されていたが、隣の住人は虎柄の猫を飼っている。大家も動物好きのようで、見て見ぬ振りで、黙認している。
僕はまた駅にいる。コインロッカーの猫は、ひどく弱ってきている。
最初の猫が死んだとき、とても悲しくて、切なかった。二匹目のときも、痛みに、泣いた。
三匹目のこの子が死んだら、僕はひどく悲しむだろう。その切なさに、僕は切り裂かれるだろう。
その痛みを想像したのか、僕の唇は笑みを浮かべていた。
彼の名はバランディオ。口笛のバランディオ。外つ国から来た。
流れの傭兵。暗殺者。人攫い。ダヴォールの領主。
「よう、ダヴォール侯!」
戦場では旧知の者からそう呼ばれた。彼は三年前の三帝会戦、王家の三男アスティリオ率いる左翼軍を、敵の夜襲から間髪の差で救ったのだ。それ以来、消息に通じた者の間ではそれが通り名になった。アスティリオから与えられた称号だ。領地も下賜された。しかしその封土は今、彼の手には無い。
「口笛のバランディオが来るよ!」
彼が後にしてきた邑々では、夕暮れになるとそう言って母親が子供たちを追う。彼の名は子供たちにとって、悪魔と同じ響きを持っていた。悪魔は心を攫うが、バランディオは体を攫う。そして殿上の貴人たちに戦場(いくさば)での従者として、また性の慰み者として売りつけるのだ。彼は邑人たちの訴えで手配書に名を連ねた。士官の道も狭まった。国を出るしかなかった。
バランディオは夜目が利く。しかも尋常ならずだ。それが彼の取り得だった。夜襲を察知したのも、官憲の手を逃れて国境(くにざかい)を突破したのも、全てはその生来の異能に由来していた。夜行鬼(やぎょうき)バランディオ。いつしかそんな綽名もついた。
そして新しい王国で、彼はさっそく戦の噂を聞きつけた。飛耳長目のバランディオ。彼は情報収集も巧みであった。幾人か有力な貴族・武人をリストアップし、剣を預けるに足る主人を探した。
「戦斧」と字(あざな)されるナッヴァーロが彼の新しい主人になった。ナッヴァーロはアスティリオ軍と戦い、これを夜襲で散々に蹴散らした。バランディオがアスティリオの用兵・築陣の委細を前もって彼に教えたからである。彼はバランディオを「蝙蝠」と字した。敵からは裏切り者の汚名が浴びせられた。やがて宮廷闘争が起こり、ナッヴァーロに毒が盛られた。バランディオが疑われた。
口笛のバランディオ、ダヴォール候バランディオ、人攫いバランディオ、夜行鬼バランディオ、飛耳長目のバランディオ、「蝙蝠」バランディオ、裏切り者バランディオ、暗殺者バランディオ。
バランディオは夜の街道を単騎、奔っていた。第三の天地を求めて。夜間、彼に追いすがることの出来る騎手など皆無だった。闇は常に彼の守護者・協力者だった。雲が割れ、月が姿を現した。彼は自分の領地を見上げた。決して手にすることの出来ぬ封土を。
月は冷え冷えと彼を見下ろしていた。
僕はお尻と携帯を持ってうちを出た。月も星も見える穏やかな夜だ。外に出てしまってから僕はこの役を引き受けた事を少し後悔した。
こたつでテレビを観ていた姉ちゃんが、突然思い立ちベランダに歩み寄ると、血相変えて台所へ駆け込んだ。
「父さんのと一緒に私の下着を洗わないでって言ったじゃない」
母ちゃんは姉ちゃんのあまりの剣幕に、ごめんねごめんねと平謝りをしている。以前にその申し出を諒解していながら、うっかり一緒に洗ってしまったのだ。約束を忘れた母ちゃんも悪いが姉ちゃんも悪い。あんな言い方をされたら父ちゃんがばい菌みたいで可哀想だ。
僕が同情の念を込めて隣を見ると、父ちゃんは漫才を観ながら鼻毛を抜き、涙を浮かべ笑っていた。僕はそんな父ちゃんに似ているらしい。
いつか僕が居眠りをしてしまった時、母ちゃんと姉ちゃんの大笑いで目が覚めた。二人の視線を追い首を捻ると、父ちゃんがお腹を半分出して、僕と同じ非常口のイラストの格好をして寝ていた。
父ちゃんは上司にへつらい部下に威張って、休日はごろ寝とパチンコだ。こんな人生は堕落だと思う。でもそんな調子でも会社もクビにならず、母ちゃんも結構美人だったりするから、僕はつい堕落に惹かれるのだ。
お風呂に向かう姉ちゃんが、鼻をほじっている父ちゃんの脇を通る時、「不潔っ」て呟いたから僕は思わず言ってしまったんだ。
「不潔なお尻と一緒にお風呂に入るの?」
姉ちゃんはキッと僕を睨み、だるま落としみたいにスコンとお尻を外してこたつの上に置き、さっさとお風呂に入ってしまった。
残された僕と父ちゃんは、お尻を真ん中にして顔を見合わせた。
しばらく腕組みをしていた父ちゃんは、おもむろに箸を手にするとお尻をつついた。とたんにお風呂から「きゃっ」
僕も真似してつつけば「きゃっ」
面白くなり二人でつついて遊んでいたが、やがて飽きた。
父ちゃんが僕を見て言った。
「お前、それ持って外へ出ろ」
反応がなくなる距離を確かめようと言うのだ。少し迷ったけれど引き受けた。
ぼくはお尻を小脇に抱え外に出ると、一番近い辻でつつき、ポケットから取り出した携帯で父ちゃんに連絡する。
「いまどこだ」に、すぐそこと答えると、父ちゃんはもっと離れてみろと言った。どうやらまだ反応はあるようだ。
その後少しずつ離れてみるものの反応はなくならず、僕はお尻と共に延々と夜の街をうろつく羽目になったのだ。
気がつくと寮のトイレに立っていた。十畳ほどの広さで左側に小用の便器が三つと洗面台、右側に大用の個室がやはり三つ並んでいる。
その中央に僕は立っていた。
右手には包丁が握られ、床は赤い血に染まっていた。その血の池のなかに、ひとりの女が倒れていた。窓が開いていて、そこからススキの穂と夜空に浮かぶまるい月が見えていた。
「……つまり人間は僅かに異なる連続した瞬間における差異を運動としてとらえてしまうということなのです。前にも述べましたが運動とは時間であり、結局、時間とは現実に存在するものではなく、我々の心が生み出した幻想なのです」
教授は黒板に書かれた「時間」という言葉につづけて「=心理現象」と書き、すこし表情を弛めて話をつづけた。
「こんな話があります。パズル好きの悪魔の話です。この悪魔は世界を原子ひとつひとつまでバラバラにし、それをパズルとして、もう一度世界を組み立てる。再び組みあがった世界は元の世界とほんの少しだけ異なっている。悪魔はまたそれをバラバラにし、またほんの少し違う世界を組み立てる。それが凄まじい速さで行われるので、世界は動いて見える……」
『「つぎの瞬間」と信じたのは漱石のみである。「つぎの瞬間」まで実は三十分の時間が経過し、その三十分のあいだ漱石はたしかに死んでいたのだった。彼は約ひと月後に妻からそのことを知らされ、唖然とした。
「強いて寝返りを右に打とうとした余と、枕元の金盥に鮮血を認めた余とは、一分の隙もなく連続しているとのみ信じていた。その間には一本の髪毛を挟む余地のないまでに、自覚が働いて来たとのみ心得ていた」
そのとき漱石は、眠りから覚めたとすら思わなかった。』
(関川夏央・谷口ジロー「不機嫌亭漱石」より)
「どうしたの? マルコフ」
「あ、マクスウェルくん。パズルのピースが見つからないんだよ」
「コレじゃないの?」
「それがちがうんだよ。それだとうまくはまらないんだ」
「いいじゃん、こうやって押し込んじゃえば」
「あ、だめだよ。ムリヤリじゃないか」
「いいって、いいって、大丈夫」
気がつくと隣で寝ている女がさめざめと泣いている。「そんなに泣くな。そのうち慣れる」と私はなぐさめる。私は布団から出、着物を身につけ、障子を開ける。庭にはススキが揺れ、まるい月が出ている。
「どちらへまいられるのです?」女が訊く。
「ああ、ちょっと厠へ」私は云う。「ちょっと厠へ、いってくる」
坂江は、鷹司家に能く仕える剣士だった。
坂江が鷹司家によって密かに呼び寄せられると、翌朝には某の屍が辻に転がった。鷹司家にとって坂江は、邪魔者を斬って捨てるための、文字通り懐刀だった。
鷹司家としては、暗殺という手段を用いずとも、抹殺したい者に濡れ衣を着せて処刑を申し渡すこともできた。それをしなかったのは、消したい者たちは概して人望が厚く、その処分によって自らの評判を落とすことを懼れたからである。命令に従わぬ者は勿論、自分以上に慕われる臣下の者をも、敵も同然であると見ていた。
今宵、坂江が斬りに向かうのは、横井という剣士だった。
横井は以前、暗殺の蔓延は司法機関がまともに機能していないからであるとの旨を鷹司家に諫言した。結果、勘気を蒙って永蟄居に処された。横井は程なく出奔した。
数年来、行方不明だったが、何故か鷹司家の領内に舞い戻り、遊郭にいるとの密告を得た。坂江と横井は、かつて連れ小便もした仲だった。それゆえに、互いに剣の腕を知っている。互角の斬り合いなると、坂江は覚悟を決めていた。
坂江が遊郭に踏み込むと、横井は座敷で杯を呷っていた。
「久しいな」
横井の挨拶に、坂江は応えなかった。
「上意である」
言うべきを言い、抜刀した。
横井は抜刀しない。坂江は剣を構えて漸く気づいた。そもそも、横井は全くの丸腰だった。自らの剣を恃むところ、坂江に負けず劣らず強かった横井の所業とは思われなかった。
「刀はどうした」
坂江の問いに、横井は平然と答えた。
「捨てた」
信じられぬ。坂江は己の耳を疑った。いま一度聞き直そうとした刹那、横井は激しく咳込み、赤黒い数滴が畳を染めた。
坂江は呆然となったが、横井は薄く笑うと、肩で息をしながら言葉を続けた。
「上意であろう。早くやれ」
逆らえば、今度はお前が鷹司家の標的にされるぞ、との意味である。
「労咳だ。どうせ長くはない」
その言葉に、坂江は横井の真意を知った。
余命幾ばくもないからと、他ならぬ自分に斬られるために舞い戻ったに相違ない。
横井の逐電によって、幼馴染みの坂江は、真っ先に鷹司家に睨まれた。その疑念を晴らすためにも、剣で屍の山を築く必要があった。なかんずく、横井の誅殺ほど「高潔な忠誠心」を示せる好機はない。坂江のそのような境遇を、横井は的確に見抜いていた。
剣を交えずして刎頸の交わりを示した友に、坂江は初めて薄く笑い、一刀を以て応えた。
教授は傍らの悪魔に尋ねた。
「おまえの機械はこんな砂漠で本当に雨を降らせることができるんじゃろうな。マスコミの連中が向こうで見ておる。わしは恥をかきとうないぞ」
「心配ねえでがす。教授や博士っちゅうのはプライドが高いくせに心配性でいけねえ。ようがす。その青いスイッチを押してくだせえ」
「これじゃな」
教授がスイッチを押すと、機械から煙が噴き出た。教授は悪魔を睨んだ。
「失敗したら魂はやらん」
「大丈夫でがすよ」
「次にどうするんじゃ?」
「両手を上げて、体を大きく前後に揺するんでがす。そのまま小刻みにステップを踏みながら、機械のまわりを回ってくだせえ」
雨が降り出し、教授の姿は全世界に報じられた。
組織からは過度の期待をかけられている。このシリーズで組織のプレゼンスは順調に上がってきているらしい。非合法のレースを極東の数百万の人々が固唾をのんで見守っていると聞かされたときには強い違和感を感じたものだが。
デビュー直後のころ先輩がプレゼンスの概念を教えてくれた。
「テレビの視聴率と思えばいいわ。それとも露出度と言えば分かる?」
結局私は「走る広告塔」という割のよいパートをやっていることになる。夫には秘密だ。組織は自らと同等の真摯さを私に対しても要求するので、気軽に取り組めるものではなかった。だが今となっては、そこから得られる刺激なしでは主婦の退屈な日常を維持できなくなってしまった。
いきなりのフルスロットル。カートのフレームが軋む。手からハンドルが引き離されそうになる。加速したまま第一コーナを攻める。親子連れを轢きそうになりラインが膨らむ。すかさず後ろからキムが追いぬいていく。ショートトラック出身の彼女のライン取りは確かだ。メインストレートに入る。止めてあるワゴンの数が普段より多い。人々が群がっていて邪魔だ。組織のポップ広告が目に飛び込んでくる。車載カメラの設置がうまくいったか気がかりだ。ホイールの直近に取りつけた補助エンジンが熱を帯び始める。もっとも主エンジンである私の心臓はレース前から回転数が上がりっぱなしなのだが。今日は雑念が多い。第二コーナ。無難にまとめる。ピットロードが近づいてくる。オバチャンがソーセージを爪楊枝に刺して私に薦める。やんわり断る。最終コーナ。タイヤが嫌な音をたてる。そして混雑するストレート。限界ぎりぎりの疾駆が続く。商品を山積みにしたカートが横から次々飛び出てくる。巧みにかわし奥のレジに入る。隣りのレーンではキムがやや先行している。エプロンをつけた女性が赤外線を操るのをじりじりと待つ。
見るとキムが支払いを済まそうとしている。負けられない。私は叫ぶ。
「キム、お弁当用の箸を忘れないでね!」
キムを担当する女性が、釣銭をつかむのをやめた。
突然何かを忘れている気がして、読んでいたハングルの教材を閉じた。窓を見ると雲海の上に夕焼けが広がっていた。機体が降下を開始した。隣の席のオバチャンが呟く。
「戦いは終わっちゃいないんだよ」
確かにそうだ。まだ気は抜けない。そしてその一言で私は思い出した。今晩の我が家の買い物がまだ終わっていないということを。
昔の友達から久しぶりに電子メールが届いていた。ちょうど関東に台風がやってこようとしていた時のことだ。「君はきっと台風の目の中にいるのでしょう」とそこには書いてあった。「君は無風状態の中で涼しげな顔をしているけど、君の周りではものすごい嵐が巻き起こり、たくさんの人がそれに巻き込まれているのでしょう」と。
文章はさらにこう続いていた。私も無風状態の中にいます。でも私の場合は周囲も無風状態です。特に面白いことや何かすごいことが起こったりはしません。でもそれなりに楽しく暮らしています・・・。
彼女は今、関西の、それほど有名ではない私立大学で事務の仕事をしている。僕はまだ彼女に返事を書いていない。
四年前に妻を亡くして以来私は暗い部屋に閉じ篭っていた。そこは柔らかでとても落ち着く場所だった。不意にドアが開いて一条の光に一瞬眩しくて目が眩んだ。そこに顔を覗かせたのが彼女――名前を愛と言う。私は三十四歳で彼女の三十歳の誕生日を共に過ごした。ぼくたち同じ三十代だねと言うと愛は薄く笑った。けれども私はまだ彼女の唇ひとつ奪えないでいた。
「あなたって、優しい人ねえ」
愛が感じ入ったようにそう言う度、私の劣情はすっと萎えてしまうのだった。愛は亡妻の話を聞きたがった。私も妻の話をすると少し心が楽になる感じがあった。
「癌で、助からないとわかった後も、ぼくが強く延命治療を望んだ。そのために苦しみが長引いた。妻は苦しんで、苦しんで、死んだ」
「奥さんを愛してたのね。今も」
頷くと愛は私を抱きしめた。私は彼女の肩に頬を押し付けて泣いた。
愛との初めてのデートの帰り、私は強引に彼女にキスしようとした。愛は涙を浮かべて、
「奥さんのこと、忘れないで上げてください」と言った。
それ以来私たちの間には何も起こらなくなった。まるで親友のように長電話をし、好きな小説を貸し借りし、ドライブして、夜の海を見たりした。
ある朝、私はいつものように車で出勤したのだが、その後記憶が途絶えた。いつのまにか、私は明るい部屋にいた。体に触れるどこもかしこもが柔らかだった。ふと妻のいることに気付いた。妻はゆっくりと服を脱いでいった。そして白い場所に横たわった。
至福の時間が訪れた。
ちょっと違うなと感じたのは、それがいつまでも続くことだった。頂上ではなくて高原のようだった。妻を見ると笑っていた。
誰かに腕を掴まれた気がして、私は不意に目を覚ました。私は病室のベッドに寝ていた。傍らで愛が手を握ってくれていた。後ろで看護婦が叫んだ。
「あなた、まるまる三日間意識がなかったんですよ。交通事故に遭ってねえ。それをこの人が手を握った途端目を覚ましたんですよ」
看護婦は担当医を呼んでくると言って出ていった。愛は私がすでに精密検査を受けて脳に損傷がないこと、体の傷も完治することを話してくれた。
「妻に、会ったよ」
愛は静かに頷いた。私は理解した。この世に愛なかりせば、私は妻の元へ行くだろう。
リハビリに長く時間が掛かって、愛は毎日のように面会に来てくれた。ある日、
「奥さんはなんて?」と愛が聞いた。
私は軽く首を振って彼女に口付けた。
赤い小さなゴムボールに、エッちゃんが目と口を描いて「マール」と名前をつけたときから、それはマールになりました。
エッちゃんは、マールをとても大事にしています。お母さんに怒られるから学校には連れていけないけど、そのかわり、学校から帰ったらすぐマールのところにとんでいって、ごめんね、と声をかけます。
いちど一緒に公園に行ったら、乱暴もののターくんがエッちゃんからマールをとって、ポンポン蹴りました。エッちゃんはすごく怒ったけど、ターくんはぜんぜんやめないから、しまいには泣いてしまいました。
だいじょうぶ、そういうふうに、できてるんだから。
そうマールは言いたかったけど、マールの口は、にっこりと閉じたまま、動きません。ターくんが飽きてどこかに行ってしまうと、エッちゃんは涙で濡れたほっぺたをくっつけて、ごめんね、いたいでしょ、ごめんね、と繰り返します。
いたくないよ、ぜんぜん、いたくないよ。
マールの口は動かないから、エッちゃんは泣きやんでくれないのでした。
ある日、エッちゃんが学校に行って、マールだけが部屋でぽつんとしていたら、窓から太陽の光が射し込んできました。ちょうど窓のほうを向いていたからとってもまぶしくて、目を閉じようとしてみたけど、小さい点のようなその目は閉じることができません。どうすればいいのかマールは困って悩んで、ひとつの考えが浮かびました。
そうだ、ころがればいいんだ。
丸いんだから、目は閉じられなくても、転がることはできるはずです。さっそくマールは転がってみようとしましたが、ちっともうまくいきません。なんでだろう、と考えて、そういえば自分で転がったことなんてないんだ、と思いあたりました。いつもエッちゃんに動かしてもらっていただけなのです。
けど、マールはがんばりました。ずっとずっと頑張って、もう太陽の光もどこかに行ってしまったころ、マールは自分が天井を見上げていることに気付きました。マールはとてもうれしくなって、もっともっと頑張ろうと思いました。
エッちゃんが学校から帰ってきてドアを開けたとき、マールはドアのすぐそばにいました。だけどエッちゃんは何も気付いていないみたいで、すぐにマールを抱き上げて、ごめんね、とほっぺたをくっつけます。
じぶんで、ころがってきたんだよ。
そう言いたかったけど、やっぱりマールの口は動かないから、ただにっこりと、笑うのでした。
都心の高級レストランの一番見晴らしの良い席に、光と華はいた。
「ちょっと気取りすぎじゃないかしら」赤いドレスの華は、しかし落ち着いた雰囲気に満足顔だ。
「この時期は居酒屋も混んでいるから。華も騒がしい場所は苦手だろう?」タキシードの光は、馴れた手つきでワイングラスを構える。「今日は舌平目と黒毛和牛のコースがお薦めだそうだ。華もそれでいいかい?」華は笑顔で応えた。
コースも一段落し、食後の紅茶が出された時、光は窓の外を指差した。
「華、あれは何だろう」その先には1棟の高層ビルが不規則に窓を灯らせている。それを見た瞬間華は、思わず息を飲んだ。今まで不規則に並んでいた窓の灯が突然動き出し、整然とした形を作り上げはじめたからだった。
全ては光が仕組んだことだった。2ヶ月前、高層ビルの窓に絵と文字を書かせる計画を思いついた光は、オーナーとの交渉により協力を得ることにに成功した。その後、光は1ヶ月かけて文字のレイアウトを決め、更に窓の文字が一番よく見える場所の調査も同時に行った。オフィスビル内の一軒のレストランからの視界の素晴らしさを見出してからは順調だった。日時と席の予約を入れ、コースの長さから求まるベストの時刻を先のオーナーに知らせれば準備は完了。当日は予定時刻通りに入店、コースを選べば食後に丁度イベントが起こるという仕組みだった。
30秒後、窓の灯は一つの文章を完成させていた。華はその様子を呆然と眺めていたが、それは単にその光景への驚きだけが原因ではなかった。
「ゆい…じょう?」
華の意味不明の言葉は、光を少し動揺させた。おもむろに取り出した電子手帳と窓の外とを見比べて、光は頬を押さえた。「おかしいなあ、どこも間違ってはいないのに…」何かに気付いたらしい華の笑い声が店内に広がったのは、その5秒後のことだった。
「…この様に、光君は非常に豪気で寛大、信頼できる男であることは、華さんが一番ご存じでしょう。あとは華さんが光君の漢字の学習を手伝ってくれれば…」披露宴において、光の友人が贈る言葉に、新郎は茹で蛸の様に真赤だった。
挨拶の最後に友人はまとめに入った。「それでは皆さんご一緒に…『けつむすめオメデトウ!』」
『けつむすめオメデトウ』の連呼は会場全体に響き渡った。逃げ出したい気分の光が後ろを見ると、そこには2ヶ月前に映し出された例の高層ビルの写真が大写しで飾られていた。
『結娘しよう!光』
山また山を越えた草深い村里に、男がたった一人で庵を結んでいた。
老人は死ぬなり、都会の病院に入るなりして、村にはいなくなり、若者は村を捨てていって、Uターンなどという現象は、この村に限ってなかった。
そうやって一人だけ取り残された男は、見捨てられた農地の、地味豊かなところだけをつまみ食いするようにして、農作物を植え、自給自足の生活をしていた。
一人暮らしとあって、身だしなみもあったものでなく、ぼろ服をまとい、髭はのばし放題。日焼けした肌は荒れ、皺も寄っていたが、足腰はしっかりしており、まだ壮年の域にあるのかも知れなかった。
男には都会への誘惑は起きなかったのか。それを問い質す者さえ村にはいないのである。たった一人の住人ともなれば、至極当然。
学校はとうの昔に廃校となり、一日一往復のバスもストップした。それもまた当たり前の話である。
さて、その山里の一軒家が火を噴いた。
火の不始末を注意する者もいなかったのだから、無理もない。男は慌てて火の見櫓を目指して駆け出した。
人っ子一人いない谷間の村に、半鐘を響かせて、いったいどうするつもりだったのだろう。
彼が生まれ落ちる前から建っていた火の見櫓に、慈母に寄せるような信頼があったのだろうか。
かくして村里には、一軒の家もなくなった。数年前までは空き家がかろうじて建っていたが、豪雪の重みに堪えきれず、家の形をとどめ得ないほどに押し潰されていた。
そのときから男は火の見櫓を常住の場と定めて、下りて来ようとはしなかった。村に一軒の家もなくなったとあれば、火の見櫓の務めも完了したわけで、家居としても何ら不都合はなかった。
男は時に、双眼鏡のように掌を丸めて村を睥睨していたが、それを知っているのは、向かい合わせた山の樹に留まる鳶とか、火の見櫓の近くを飛び交う鳥だけだった。
いや、これは正鵠を得た表現ではない。何故といって、上空を飛ぶ機の窓から、双眼鏡をあてがっていたカメラマンの私が、たまたま奇妙なまねをしている類人猿と思しき風体の男をとらえていたからである。
私は機の通過時間と、地図と磁石から、その場所を割り出し、探査の末に男を発見した。勿論接見して訊ねるの愚は避け、遠くより双眼鏡を頼りに、かかる男の心象を私なりに把握して、ここに拙い掌編とした次第である。
『メネ』とは、神があなたの王国を数えてこれを渡し、『テケル』とは、あなたが天秤にかけられたところ、不足と判明し、『ペレス』とは、あなたの王国は分割されて、メディアとペルシアに渡された、ということです。(ダニエル書5:25)
一つの帝国があった。その民は海の砂のようにおびただしく、彼らのたくわえた富は山のようにうず高く、その勢いは、これまで歴史上に現れたどの国よりも壮んであった。
地上にはもう彼らに敵する民はなかったので、彼らはやがて翼を持つ船をつくり、天の大いなる神の御座に向けて打ち上げることを始めた。
その船の一つが、航海を終えて戻る途上、虚空の中で溶けて燃え尽きた。長い尾を引いて落ちて行く火の玉を見て、人々は皆、胸を打って嘆き悲しんだ。
その日、王は民の前に、声を上げて言った、「我々は恐れず、勇者たちの切り開いた道を、なお共に進もうではないか。」
王が宮殿に戻り、今度は、自らに背いた国に攻め入る策略について考えをめぐらしていると、白い衣を着た人が執務室に忽然と姿を顕した。王は怪しみ、問いかけて言った、「あなたは誰か。」
白い衣の人は答えた、「私は聖なる方より遣わされた御使である。あの船が失われたことを、あなたは誰のしわざと思うか。」
「あれは誰も予想できず、誰にも責任のない、不慮の事故であると思います。」
「いや、そうではない。あの災いは、この国のやり方を快く思わない者たちの呪いによるものである。」
「それは違います。」王は言った。確かに去る年、空行く船を打ち当てて我々の神殿を打ち壊した者がいましたが、今度はそのような手段はありませんでした。
「それは世の知恵にすぎない。あの船を造りみがいた千万もの技術者の中に、秘かに、呪いをかけてその働きを害した者がいたのだ。」
「もしそうであれば、」王は憤りを発して、言った、「裏切り者は必ずや見つけ出され、正義の裁きが加えられるでしょう。」
「王はなお悟らないのか。人の子の知恵で見出すのは不可能な所まで、この国への悪意ははびこっている。聴きなさい、この国の正義の下に虐げられた世界中の幼子たちの声は、すでに天にまで届いた。地上のあらゆる国の上にその力を振るい、栄華に驕っているこの国が、見よ、あの船のように裂かれ、焼かれ、形を失って消え去る日は戸口まで迫っている。」
その晩、カルデア王ベルシャツァルは殺害された。(ダニエル書5:30)
ふざけやがって。
俺は叫んだ。
空に黒雲は禍々しく渦巻き、そしてその中心に、もっと禍々しく、ふざけやがっているものが見える。
出来が悪い癖に圧倒的に巨大な皿を二つ重ねたような飛行物体。
UFOだ。
UFOは怪光線を連発し、地上を焦土へと変えていく。
畜生め。
「明日は俺のタイトルマッチだぞ!」
怪光線を弾き返し、叫ぶ。
「金を積んで、待って、それでやっと、って時に! ふざけやがって、ぶっ殺してやる!」
(地球人、威勢が良いね)
頭に声が響いた。
身体を包む異質な空気。
俺はいつの間にか、UFOの中にいた。
(では始めるよ)
ゴングの音と共に第一ラウンドが始まった。
相手は典型的なデザインのエイリアンだった。俺は力一杯ぶん殴る。
(なんと)
相手は倒れ、立ち上がらない。
「次だ」
ゴングが鳴る。現れるエイリアン。殴る。迸る体液。ゴング。またエイリアン。殴る。殴る。
ふざけやがって。やれば負けはしないんだ。やっと明日タイトルマッチなのに。俺を馬鹿にした奴らを、俺を受け入れなかった世界を全て見返してやる筈だったのに。畜生、ぶっ殺してやる。畜生。畜生。
(強いな)
最後のエイリアンは倒れ、呟いた。
(本当に強い)
「そうかい」
(だが、これで良かったのかい?)
爆発していくUFO。地上へと戻される俺。
(これで本当に良かったのかい?)
そして。
ゴングが鳴った。長かったな。倒れながら俺はそう思った。
「くだらねえ試合だったぜ!」
「クズめ!」
罵声に包まれ、俺はリングを降りる。
空き缶が飛んできた。だがそれを払うことも出来無い。なにしろ腕がぴくりとも上がらないのだ。
昨日のあの連戦のせいだ。
突然消えたUFOを人々は無かったことにした。試合は普通に始まった。俺は試合の間、打たれ続けた。チャンピオンはげらげら笑いながら俺を殴った。
(あいつらはこんなものでは無かった)
俺は殴られながらそう思った。
「あなた、頑張ったわ」
妻が側にいた。
「良くやったわよ」
「少し黙っていてくれないか」
「また一から、ね」
「黙っててくれ」
俺は叫んだ。
自分の声がうるさかった。耳を塞ごうとした。手は今になってやっと動いた。
手は半端にずれ、妻の頬に当たり、そしてだらりと垂れ下がった。
「あなた」
妻は涙に濡れ、血走った瞳で俺を見た。
「悪かった」
(それで良かったのかい?)
あの言葉が頭の何処かで響き、俺はそれを随分懐かしく感じた。
真上から射す太陽。少女は積み上げられた土の山の頂きの一つに腰掛けて、忙しく動き回る男の背中を頬杖つきに見ていた。
「やあ、お嬢ちゃん。今日も来たのかい」
男は人のよさそうな微笑みを浮かべ、頭上の少女を仰いだ。
「ええ」
風に靡く黒髪をさかんに押さえ付けながら、少女は微笑みを返した。また少し土の山が高くなった。男は胸の高さまで掘り下げられた地面からひたすら横に向かって掘り進んでいた。
「おじさん」
「ん、なんだい、お嬢ちゃん?」
男は土の壁を掘る手を一旦休めて、一頻り額の汗を拭うと遥か頭上の少女に目をやった。
「おじさんはどうして土を掘っているの?」
「さあね。強いて言えば、見てみたいんだよ。この土の壁がどこまで続いているかをね。だが掘っても掘っても無くならならなくてね、こいつがさ」
男はぽんぽんと土の壁を叩いて、やれ困ったと苦笑いを浮かべはしたがその表情はどこか嬉しそうだった。
「ふうん」
気のない返事を返して、少女は視線を遠く泳がせた。赤茶色の地平、赤茶色の大地。掘り返された地面が巨大なクレーターのような円を描き、太陽の光に大きな影を落としていた。真上にあった太陽が、いつの間にか少し傾いている。少女は両足をぶらぶらと揺らしながら、なかなか溶け切らない飴玉をいつまでも舌の上で転がして遊んだ。
「おじさん」
思い出したように少女が口を開いた。
「わたしも掘っていい?」
「ああ、かまわないさ。好きにおやり」
少女はスカートの裾の土を丁寧に手で払い、山をそろそろと下ると、側に立てかけてあったシャベルを手に取った。一メートル程の段差をぴょこんと飛び降りて男の脇に並ぶ。
「おじさん」
「ん、なんだい、お嬢ちゃん?」
「わたしと競争しない?」
「ああ、かまわないさ」
男は答え、二人は一斉に土の壁を崩し始めた。
「Σ▲♂∋$!!」
ブリッジは騒然となっていた。薄暗い室内の暗がりに、あちこちから呻きにも似た声が響く。
「*〆★⇔∴??」
ブリッジに入ってきたばかりの艦の司令官らしき者が逸早く室内の異常に気付き、近くにいた若いオペレーターに事情を尋ねた。
「≠※‖●%……」
オペレーターはしどろもどろにゼスチャーを繰り返した後、最後にはくいと視線を一点に注いだ。その視線の先に、無数の星々を宿した巨大ホログラフィー。そこに大写しにされた青い惑星の球面に、雲の隙間から、二本の赤茶色のラインがどこまでも並んで伸びていた。
薄暗さに慣れとっくりと目を凝らして見ると、トンネルの両脇には延々と鯨幕が続いていて、足元の細長い金属のようなものは予想通りトロッコのレールだった。私はそのレールに沿ってトンネルの奧へ奧へと進みながらよくよく考えてみるのだが、どうにも解らないのは路面電車に乗り込んだ筈なのに、何故このような場所にいるのかということで、途方に暮れるという程でもないが、いささかの気持ち悪さのようなものは感じていた。
奧へと進むたびに、いや奧へというのもどちらが奧なのか要領を得ないので、便宜上奧へということにしているのだが、ともかく歩み続けるたびにトンネルの両脇に薄っすらとした灯りのようなものが燈り始め、というのもとっくりと眺めてみれば、そこにあるのは鯨幕がかかった壁に過ぎず何の光源もなかったのではっきりと灯りという訳にはいかなかった。そのよく解らぬ灯りと共になにやら生活のざわめきのようなものも聞こえ始め人の気配など微塵もないのに全く妙なもので、ちょいと耳を傾ければどうにも夕食時のひと時のように感ぜられるのだが、ここは薄暗いトンネルの中なのであって夕暮れ時の街中ではない。
そうして私の頭がいよいよ可笑しくなってきたに違いないと思い始めた矢先に背後でレールの上をゴトゴトと走る音が聞こえ振り返って見れば、薄暗いトンネルの中をトロッコがこちらに向かってくるところで、いや、近付いてくるそれをよく見てみればそれはトロッコではなく、棺桶に相違なく、何故永延と鯨幕が続いているのか諒解出来た気がした。ひょいとレールから退いて棺桶を見送った先に、先程からのはっきりとしない灯りとは異なった灯りが燈っているのが見え、足早に近付いてみたならば、トンネルの壁を穿ったような格好で一膳飯屋があって、中に這入ると粗末な外見とは裏腹に粋な様子でビフテキなどがひどく安かったのでビールと共に注文して席に付いた。店の親父に顔にはどこか見覚えがあるような気がするのだがどうにもはっきりとしなかったのだが、ビフテキがそのひどく安い値段にも関わらず美味かったので気にせず食べ終えた頃に、ああ、近所の野良犬にどこか似ているのだと思った私の背後で、またゴトゴトと棺桶が通っていく音が聞こえた。
会社のロッカー室で高木は、買い置きしていたクラッカーを開ける。本日寝坊して朝食抜きだったので、上司が席を外した隙を狙い食べに来たのであった。
端に置いてあるパイプ椅子に座り咀嚼していると、いきなり部屋のドアが軋んで開く。見上げると、向こうから来た人物は何を気にすることなく隣に腰掛けた。
「春日さん」
高木が名前を呟くと、相手は「一服しに来たのよ」とロングサイズの煙草を取り出して吸い始める。そんな春日は階の違うせいか余り面識ない。高木は会話に困り、それを誤魔化すように食べ続ける。
二人黙ったままでしばらくいると、薄い壁の向こうから「適性検査に関する要項」を読み上げる声が聞こえてきた。
「…面接しているんですかね」
高木がクラッカーをちょうど噛み砕いたところで口を開くと、春日がふっと煙を吐く。
「あれ、私の後釜決定戦」
その身も蓋もない言い方に高木は「はあ…」と気のない台詞を返し、「辞められるんですか?」と慌てて付け加えた。
「結婚退職」
そして彼女は鼻から煙を吹く。
「というのは上司に対する建前。実際は、面白くないから、よ」
「…。これからどうされるんですか?」
クラッカーを勧めながら高木が問うと、春日は「いらない」と手を振って、深く煙草を吸い込み渋面を作る。
「そうね。誰も知らないところに行きたいわ」
その言葉に高木は手を叩いた。「海外でのんびりカントリーライフとか? いいですね」
しかし春日は首を振る。「嫌よ。あたし日本語しか喋られない都会っ子だもの」
(…何言ってんだこの人)
横で呆れられるのも構わず、春日はちっと舌打ちした。
「でも主婦への道も捨て難い」
そしてにっと笑って、彼女は備え付けの灰皿に煙草を押し付ける。
「予定ないけどね。だからどこかで働くしかないの」
どこかってどこだろう。結局どうしたいのだろう。高木がそう思っている内に、春日は「お先」と言い置いて去っていってしまった。
(あの人、きっと何がしたいのか分からないまま辞めるんだ)
高木はぼんやり考える。
(じゃあ自分は? こんなところでサボっている自分は? 仕事に熱意の欠片もない自分は?)
「どっちもどっち、かしら」
そしてぺろりと舌を出す。
夢に向かって邁進する人は素敵だけれど、夢の端っこさえ分からない私たちはどうすればいい。そう思い、でもとりあえず食欲が満たされたので、高木は「ああおいしかった」と呟いたのだ。
オヤあれは何だらう! 帝都上空に不思議の人影、再々目撃さる! 事実は小説より奇なりとは正に此の幻怪なる突発事であります。目下、満都の男女に大評判の鳥人事件は大正の世の新怪談、今や鳥人と聞けば東京市民こぞつて天を見上げるやうになつた。果たして鳥人の正体は何者でありませう。驚くなかれ其の大真実を吾輩が諸君だけにコツソリ暴露しようと云ふのですから刮目せられよ! まづは市民の語る処を聞け。
原田シゲさんの談話
用事がありまして浅草の叔父を訪ねましたのです。叔父は十二階をあたかも自分が建てた物のやうに自慢してゐますから連れて行かれましたのですけれど、此の世の物とも思はれぬ大建築の威容を呆然と見上げてをりましたら正に其処にあれが飛んでゐたのです。鳥みたやうに巨大の翼をバサバサやつて八階の辺をグルリ飛んでをりました。驚いてアツと声を上げましたから叔父も周囲の人達も皆あれを見ました。アラ不思議だねエ、鳥かしら人かしら、と大騒動になりました。皆で本当に見たのです。信じて下さいませ。
浅草に名物が増えたと喜んだ叔父殿には申訳なくも、大胆不敵の怪人は其後、市中の随処で神出鬼没の大飛行を反復したのであります。
市民の実見談を統べるに、鳥人の身丈は五尺余、両翼端の幅も五尺程にして、全体を鼠色の羽毛にて覆ひ、面は梟の如きなるも身体的の形状は人間に類し、足は鳥類同然に鱗を有して鋭利なる爪を末端に配し、腕は有無の二説あるが吾輩の意見では翼に転じてなき物と覚える。日本橋で一婦人が襲はれたと聞くが甚だ怪しく、風説に云ふ性質の凶悪は信ずるに足りぬ。
たちまち新聞報道の過熱するに至り、帝大教授らエライ学者先生方は口を揃へ鳥人の科学上不可能なるを主張し、鳥が人に化するも人が鳥に化するも科学万能の当世に類なき神秘であるからあり得ぬ事ゆゑ断じてあり得ぬのであると庶民の迷信を嘆かるゝが、嘆くべきは先生方の禿頭内部に腐乱せるヘチマの脳髄であると言はねばなりません。あり得ようとあり得まいと、稀代の怪鳥紳士は確固に実存するのであります。
片や超心理学者を称する某先生は、
あれは何か悪しき兆に相違ない。キツト大きな地震が来るぞう。
と言ひ残して早々に市内から引越したさうで、ナントそゝつかしい人でありませう。吾輩は地震なぞ知らぬ。たゞ飛びたいから飛んでゐただけであります。暴露は以上。では諸君! さやうなら。バサバサバサ……