# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 「華」 | 菊華大輪 | 860 |
2 | トンネル | 赤珠 | 1000 |
3 | 隠し場所 | のぼりん | 1000 |
4 | 雪止まじ | 野郎海松 | 1000 |
5 | ただいまおサルのかご屋えっさほいさっさ中 | ツチダ | 953 |
6 | 猫でいて | 朽木花織 | 997 |
7 | 天網昇降機 | ラリッパ | 1000 |
8 | 自殺はしたくないけど | 田中佳 | 998 |
9 | (削除されました) | - | 401 |
10 | ジェルソミーナ ジェルソミオ | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
11 | 橋本のお婆さん | 朝野十字 | 1000 |
12 | ゴーレム | 逢澤透明 | 1000 |
13 | 竹林と太陽 | 川島ケイ | 1000 |
14 | 心中月 | 坂口与四郎 | 988 |
15 | 年賀状 | 海坂他人 | 1000 |
16 | 一個のパン | 神崎 隼 | 1000 |
17 | 墜落堕落短絡娯楽 | 西直 | 1000 |
18 | お星さまを食べた話 | 曠野反次郎 | 562 |
19 | タンデムは振動する | 佑次 | 1000 |
20 | なくした消しゴム | 紺詠志 | 1000 |
21 | バースディ・ドレス | Nishino Tatami | 998 |
だって僕,彼と生まれたんだ。
僕が生まれた日に彼も生まれた。
だから,今日,花を咲かせる。
「何度言えば分かるの?あなたにはまだ,早すぎるのよ」
僕の妖精が,いよいよ癇癪を起こして叫んだ。僕だって分かってる。まだ僕には早いってこと。だから,止められることも予想はしてた。
「でも,君がいなくちゃ,僕1人じゃあできないよ」
何度目かの同じセリフ。
「僕は花を咲かせたいんだ。ケイに贈る為に!」
僕と同じ日に生まれた少年。僕が植えられてる家の男の子,ケイは,毎朝僕におはようを言い,かるくなでてくれる。ここ最近は庭に姿を見せなかったけど,特に珍しいことでもないし,風邪でもひいたのかな,なんて大して気にしていなかった。だけど,今朝,ケイの母さんが洗濯物を干しながら,真っ白なシーツに隠れて泣いているのを見たんだ。それからしばらくして,家の中から低くうなるようなお経が聞こえてきて,たまたま開けられた障子の隙間から,ケイの屈託のない笑顔が見えた。黒いリボンに縁取られた,写真のなかのケイの笑顔が。
「僕は,ケイと一緒に生まれた。だから,ケイへのお別れに,僕も花を咲かせたいんだ。お願いだよ,君の粉がないと植物は花を咲かせれ ない」
「でも,でも分かってるの?あなた,花をさかせたら……」
「分かってるよ。僕,それでもケイに僕の花を贈りたいんだ……」
数時間後,1人の少女が庭を指差して叫んだ。
「おばさん,ケイ兄ちゃんのおばさん,お花が咲いてるよ」
「まあ。竹が花を咲かすだなんて……。」
「珍しいの?」
「とてもね。竹はね,花を咲かせるとすぐに枯れてしまうの。一生に一度花を咲かせるのよ。ケイは,あの竹をとても大切にしていたわ」
涙をこらえ,声を震わせながら,花の重みで首を下げた竹から,やさしく花を切り取った。
「あなたもケイと逝きたかったのね……。」
静かに眠るケイの隣にそっと並べる。
「ケイを,よろしくね」
だって僕,彼と生まれたんだ。
僕が生まれた日に彼も生まれた。
だから,今日,花を咲かせる。
だから,今日,僕はケイと逝く。
遠くで雷が鳴った。
雨はとうとう本降りになったようだ。私は冷たいコンクリートの壁に背中を預けるとホッと息を吐いた。
私が祖母の十三回忌のために八年ぶりに帰郷して二日。最後に懐かしい町並みを見て帰ろうと散歩に出かけた私は、ものの見事に道に迷い、当てもなく彷徨っている内に雨がぽつぽつと降り出したのである。
なんにせよ濡れ鼠にならなくてよかった。また一つ息を吐くと、私は暗いトンネルの中を見回した。廃線になった車両かなにかに使われていたのだろうか。まるで人気はなく、ただじっと沈黙に身を沈めている。それ程大きなものでもなく、巨大な一本の土管のようにも思える。奥の暗がりからは微かに硫黄かなにかの匂いがしたが、降りしきる雨にその匂いは霞んでしまっていた。
こんなところにトンネルがあったとは今の今まで知らなかった。私は意外とこの町のことを知らないのかもしれない。ふとそう思った。この雪深い地方の田舎町にさえ、文明の波は着実に押し寄せていた。知らぬ間に駅前には繁華街ができ、それなりの賑わいを見せていた。
なにか言いようのない喪失感を覚えるのはどうしてだろう。やはり故郷には昔のままであってほしいという、身勝手な願望がなせるものなのか。都心の大学に通うためにこの町を離れて八年。変わってしまったのは私の方かもしれない。ブランドもののスーツに身を固め我が家の表札前に立ったとき、私は家出してまた戻ってきた子供のような決まりの悪さを感じた。笑顔で出迎えてくれた母の皺にまみれた横顔が胸にズンと響いた。
母の顔に幾筋にも刻まれた縦皺を目にしたとき、私は不意に死というものを身近に感じた。死というものはこのトンネルのように、ぽっかりと口を開け、ここへ迷い込む者をじっと窺っているのかもしれない。そして迷い込んだ者を優しく暗い闇の淵へ誘うのだ。そう考えてみると眼前に広がるこの闇がなにか禍禍しい異界のように思えて、私は背筋に冷たいものを感じた。
気が付けば雨が上がっていた。私は掌だけをトンネルから差し出して、雨が完全に上がったのを確かめると、濡れた砂利を踏んで外へ出た。外は雨が上がった後のあの独特の匂いに包まれている。木の葉の上に残された雨の雫が磨きたての真珠のように輝いて、雨降りのささやかな償いをしているようだった。
そして私は何事もなかったように顔を覗かせた太陽に目を細めながら、また元来た道をゆっくりと下り始めるのだった。
男の諜報作戦は、まさに大詰めを迎えていた。敵側情報はすべて手中にあるし、すでに脱出経路も確保している。
後はすみやかにこの部屋から姿を眩ますだけだ。
ところが、男が身の回りの整理を始めたまさにその時、ドアの向こうからノックの音が聞こえてきた。
「誰だ!」
と尋ねる間もなく、ドアを蹴破ってなだれ込んできたのは敵側当局の一団である。男は、たちまちのうちに銃器を持った数人に取り囲まれた。
「我々が君をこのまま逃がすと思うかね。盗み出した機密書類を今すぐ渡したまえ」
しかし、男は口の端に薄ら笑いを浮かべている。
「ほう、やっと私の正体に気がついたというわけか。しかし、ここで素直に従うわけにはいかない。書類はお前たちがわからないところに隠してある」
「拷問してでも口を割ってもらうぞ」
「ははは、私はプロだ。任務のためなら平気で死ねる男だよ」
と、次の瞬間どこからか「逃げろ!」という叫び声が聞こえたかと思うと、あっという間に部屋中が真っ暗になった。誰かが電気のブレーカーを落としたのだ。敵もパニックになったのか、互いがぶつかり合う音が聞こえる。
男は、その時床に弾き飛ばされていた。頭に激痛が走り、気が遠くなった。
再び意識を取り戻したときには、辺りはますます混乱していた。声と音が飛び交うだけの暗闇の中では、誰もが疑心暗鬼に陥らざるを得ない。
おそらく味方が助けに来てくれたのだ。チャンスは今しかない。
男はそう察すると、暗闇の中で身を伏せ、這いずりながら部屋の片隅に移動した。見えなくても諜報拠点として使用してきた部屋である。手探りで分かる。
床に隠した秘密部屋の扉を静かに開いた。もちろん、その中にこれまで収拾してきた情報も隠してある。外へ通じる抜け道もあった。
が、入り口から下に降りようとする男の肩を掴んだ者がいる。味方か、と思ったがそうではない。
「そこまでだ。この穴が隠し場所だな」
耳元で敵の氷のように冷たい声だけが聞こえた。いつの間にか暗闇の中の喧騒は消えていた。
男は動揺した。
「なぜ私の行動がわかったんだ。こんな真っ暗な中で……」
「実は停電は我々が仕組んだものだ。暗くなると同時に君は気絶していた。その間に罠をかけたのだ」
「罠だと?」
「書類はこちらに渡してもらう。そのかわり君にはこれを返すとしよう」
見えない中で男は手首を掴まれた。
その掌に握らされたものは、二つの柔らかい球である。
さよなら、エリコ。
私は降りしきる雪に包まれていた。
かじかんだ手に、傘が馬鹿に重く感じられた。
列車が動き出した。私はそれを暫く見守った。
警笛が鳴った。ポウと物悲しく、まっすぐに空に上っていった。
おばさんは手に取れそうなほど白い息を吐きながら私に言った。
「ごめんなさいね、ナッちゃん」
エリコはその胸に抱かれていた。
「この子、馬鹿よね。こんないいお友達を残して逝っちゃうなんてね」
ぽつりと言う。
「ありがとう、ナッちゃん」
おばさんの涙は乾いていた。トイレでお化粧を直したんだと思った。
私たちは廃校になる小学校にたった二人残された最後の生徒だった。
春からは私と一緒に、町の学校に移るはずだった。友達をたくさん作って――。
「すぐ戻るから」
おばさんは言った。エリコが納められた桐箱を、私は預かった。
「ちょっと待っててね。ごめんね」
ホームの外は一面の銀世界だ。私の心にもゆっくりと雪が積もる。思い出さえ見えなくなる。
私は泣いたよ、エリコ。みんなが泣いたよ。おばさんや、おじさんや――。
あんたよく言ってたよね、冗談みたいに。
「私が死んだらみんな泣いてくれるかな?」
お医者さんは親切だったけれど、あんまり頭が良くなかったね。
「長くは生きられないかも知れない。でも元気で長生きするかも知れない。分からない」
何で病気なんかあるんだろう。何で神様はエリコを選んだんだろう。分からない。
雪は後から後から降ってきた。何でこんなに雪が降るんだろう。分からない。
灰色の空はすべての色や感情を私たちから吸い上げて、呑み込んでいるみたいだった。
私は空を見上げた。
エリコはいま雲の上だ。そこには成層圏の真っ青な空とぴかぴかの太陽とがある。だよね?
倒れたのは五月だった。それから随分エリコは苦しんで、最後にやっと死んだ。
張り詰めていた私の気持ちはぱしゃっと水風船みたいに地面に落ちて割れた。
エリコは死んだのだ。
隣に越して来た時から、ずっと一緒に大きくなるんだと思っていた――でも。
ねえ覚えてる、エリコ? 最初に会った時。初めて言葉を交わした時。私は覚えてる。
おばさんは戻ってきて、私に言った――ココアでもどう? 私はううん、と断った。
おばさんは駅員さんに列車の時刻を訊きに行った。もうすぐだア、という駅員さんの声が聞こえた。
駅はひどく寒かった。エリコを送る列車が間もなく、やって来る。
えっさほいさっさ
えっさほいさっさ
その一見単純な掛け声の中に、実はとんでもなく差別的なひどく愚劣な表現が含まれている等とはつゆ知らず、カゴ屋のおサル二匹はカゴをえっさほいさっさと担いで山道をひたすらサル巡回していた。
さて、向こうからえっさほいさっさとやって来るのはどう見てもおサルのカゴ屋ではないか。名無しのじんべさんは目をこすって目を瞬かせ、しかしどう見てもやっぱりおサルのカゴ屋ではないか。ははーん、さては裏に仕掛けがあるな、等というのは現代人のつまらない発想である。ははーん、さてはもののけだな、というのが江戸時代の人間の納得の仕方である。しかもじんべさんは延々と続く先の見えない山道にほとほと疲れ果てており、ここらでカゴ屋でも通りかかってくれないかと思っていた所だからこれは渡りに船というやつだ。
じんべさんはカゴを止めて聞いた。
「お前たちはカゴ屋なのかい」
「うん、ぼくたちおサルのカゴ屋」
どう見てもサルが喋っているのだが、純粋なものだ江戸時代の人間は。ははーん、これは大人しいもののけのようだから乗っても大丈夫だな、とか思ってしまうのだ。そして搬賃を聞いてみれば、これまたえらく安い。じんべさんは嬉々としてカゴに乗り込んだ。
えっさほいさっさ
えっさほいさっさ
えっさほいさっさとは、これまたどえらい差別的な掛け声をかけてやがるなこのサルどもは、と、しかしえっさほいさっさの当事者でもあるまいしカゴから飛び出してサルどもに鉄拳を食らわす程の強い不快感を抱くわけもなく、しかもサルどもはカゴ屋としての腕はなかなからしく凸凹とした山道を駆けているのに揺れもほとんどカゴの中には伝わらず、じんべさんはついうとうとと眠ってしまった。
さて、そんなこんなで結局サルたちに身ぐるみ剥がれて山中で転がっているじんべさん、とにかく身体の節々が痛くてぴくりとも動けないから自力で下山などできっこない。しかも人道外れたもののけ道に転がっているから、おそらく人間は通りかからないだろうし人間以外が通りかかった所で自分を助けてくれるとは、とても思えない。ああ、おれこのまま死ぬのかなあ、と薄らぼんやりとした意識の中で今度の年貢の心配とかしながら、ついに息絶えようかというその直前、あ、思い出したおれの名前は従五位下本間越中守有義也。
「もうテレビつけっぱなしで」
恵美はそう言ってお盆を置くと、テレビを消した。そしてコタツの上で俯せになって眠っている娘の亮子を揺り動かす。
「こんなところでうたた寝しないの」
「うーん…」
そうしてまた寝入ってしまう娘に溜息一つ。恵美は自分もコタツの中に入り、運んできた二つのココアの内、一つを手に取る。
「自分が飲みたいって言ったくせに…」
ぶつぶつ呟いて湯気の漂うそれに息を吹きかけていると、どこからか子猫が「にゃあ」と体をすり寄せてきた。「あらあ」と恵美は声を出す。
その子猫は、普段独り暮らしをしている亮子が拾ってきたものだ。でも彼女には到底世話する時間がないので、年末の帰省に合わせてこちらで預かることとなった。
(ダンボールに入っていた捨て猫だったんだけど)(見捨てられなかったの)
我が子の優しい言葉を思い出し、恵美は顔を綻ばせる。ああいうところは昔と変わらない。そう考えてしばらく子猫を撫でていると、小さいそれは彼女の膝の上で丸くなり眠ってしまった。その様子に微笑んだ後、恵美はふと同じく眠っている亮子を見る。
ほんの少し前まで子供だったのに、今ではもう化粧をした立派な大人の女性になっている。そのことが恵美に少しやるせなさを抱かせた。
別段子供を育てたことに後悔があるわけではない。育てていく間、自分の顔に皺が刻まれる苦労はあったけれども、むしろそれを上回る楽しさが一杯で。一杯だったから。
『時間は誰にでも平等に。いつか家族が解体する時まで』
子供は巣立つもの。だけれど、そう考えると恵美は切なくなった。
亮子はいずれ新しい家族の一員になっていたりするのかもしれない。でもその時には自分の育てた「娘」は存在せず、「母親」がいるだけ。
そのことが、ただ、淋しい。
(いっそ猫でいてくれればいい)
(そしていつまでも、傍に)
そんな馬鹿なことを本気で考えて、またココアを一口、すする。何かの衝動をぐっと堪えて、恵美はもう一度娘の顔を見た。
亮子が目を覚ますと、正面で俯せになって眠っている母親の姿があった。そういえばと、眠る前まで自らの近くに居た猫を探すと、母親の膝の上にそれらしい毛玉を発見。そのまま横の席に座る。
そして。何かに気づいたように母親の白髪に指を沿わせ、亮子はしばらく動かなかった。やがてゆっくりと子猫に視線を落とし、最後には冷めかけのココアに手をつけて、「にゃあ」と鳴いた。
私がこれを造りえた最大の要因は、資金でも知識でもなく、私の中から、それこそ腹の底からふつふつと沸き上がる何かであったに違いない。もちろんサリンやマスタードガスのように、強力な殺傷力があるわけではないが、兇悪さという一点においては充分に比肩しうる。その開発過程で最も私の頭を悩ませたのが濃度である。これは毒薬などと違い、気流の影響次第で効果に大きなばらつきが出る。濃縮効果と散布者自身の被災とが表裏一体の関係にあるのだ。適正な濃度を決定するため、ここ数日は不眠不休で生理現象すら我慢して追い込みをかけた。その成果を試す日が遂にやって来たのだ。私はこの計画を完璧に遂行するために、奴の行動を丹念に調べ上げた。その結果、ジンクスを異常に気にする男である事が判った。出社の際は、十一時ちょうどに送迎車を右足から降り、正面玄関のドアも右足でまたぎ、三基あるうちの、高層階専用である右端のエレベーターにしか乗らない。
あの日の妻の言葉が私には死刑宣告のように聞こえた。しかし、受験生をふたりも抱えたわが家の状況では、私が涙をのむより選択肢はなく、禁断症状と闘う辛い毎日を想像したら憂うつになった。きっと奴にとっての三万円など、はした金に違いない。己のしくじりを末の者になすりつけて平然としている男を、断じて許す事はできない。
私はエントランスの各階テナント案内を見上げながら、コートの襟を立て腕時計を見た。まもなく十一時になる。
表で車のドアが閉まる音がして、ガラス越しに奴が姿を現した。私は悠然とエレベーターに乗り込み、右手中指で[開]ボタンを押したまま、息を止めて奴を待った。
奴がせり出した腹を左右に揺さぶりながら、ドアから右足を一歩中へと踏み入れた。タイミングを合わせるためにボタンから指を離す。
続いて二歩。
そして三歩。その瞬間、私はすかさず[開]を連打すると、扉が開ききる直前に最上階ボタンを押し込んで脱出し、うつむき加減で早足に出口を目指す。喜び勇んで駆け込もうとする奴と、予定通りの位置ですれちがい、私はその時点で計画の完遂を確信した。
私が表に出る寸前に、吊り上げられる鉄の棺の中から絶叫が漏れ聞こえた。振り向くとランプが明滅していて、奴が十階までのランデブーに出掛けた事を告げている。
表通りに出た私は、掌中の給与明細を破り捨て、吸い殻を蹴っ飛ばすとズボンの尻をたたき残留ガスを払った。
僕は自殺はしたくない。
誰にも心配して欲しくないし、「人間の道」に反することをわざわざしたくない。
皆のことが好きだし、嫌いな部分があっても、エキセントリックになるほどのものじゃない。だから、迷惑をかけるわけにいかない。
でも、早く寿命が尽きて欲しい。
誰にもどうすることもできなく、運命のままに…。
彼は彼らしく十分に生きた。幸せだった。よくやった。いい人生だったね。と思ってほしい。
でも、そんなうまくはいかない。
僕は希望をもてるほど若くはないけれど、天からお迎えがくるには若すぎる。
そしてとても健康だ。
たぶん、今までの人生の倍以上、これから生きるのだろう。
いいかげんにしてほしい。
今、終わらせてしまうのが、一番正しいのに。
奴にはもううんざりだ。
僕はよーく知っている。奴がきてからというもの、
どんな希望も、目の前まできて、通り過ぎていく。
うまくいく計画なんて、あり得ない。
期待するところに失望が生まれる。
期待さえしなければ、謙虚に、小さく、幸せに、生きられるのか。なんて思ってもダメ。
そんな小さな期待も、やっぱりうまくはいかない。
どんどんと期待を小ぶりにしてみたけれど、いつもちゃーんと失望が待ち構えている。
しかも、失望はとても厄介なものだ。
一つの失望は、いずれ癒される。
でも、癒される前に、次の失望がおとずれると、
その二つの失望は、四つの失望分、心に穴をあける。
えっ、また?
こんどは八個分の失望をいたわってあげなくちゃいけない。
でも、頑張った。八個分の穴になんとか薄皮がはった。
もう少しで、癒される。笑ってみようかな。ニコッ。
なんて奴なんだろう。
今度は大きめの失望を落としやがった。逃げ切れなかった。
やっぱり、あの悪魔は笑顔が気に入らないんだ。
あ〜あ、今回の傷口はぐちゃぐちゃだ。
もう、わかったから、これで最後にしてくれよ。
いいや、これは期待じゃないんだよ。
奴はどんなに深い不幸の中の、とても小さな期待も、決して見逃してはくれないんだ。
きっと奴の狙いは、心にたくさん穴をあけて、無くしてしまうことなんだ。
ああ、やっとわかった!
心を無くしてしまえばいいのか。二度と笑えないように!
そんなの無理に決まってるじゃん。
君はどんなに注意を払っても、絶対に希望を持ち続ける。
そうして、失望し続けるのだ。
私の狙いは、君の心を無くしてしまうことなんかじゃないよ。
こうして、できるだけ効果的に君をいじめ続けることなんだ。
A氏は経済界の明日を担うとされる中堅だった。年の割に子供っぽいと評されることもあったが、本人は認めなかった。
ある日、社用車の運転手が急病になった。
「病気では仕方がない。会社へはバスで行く」
A氏はバス停に向かった。待っていると、最新型のノンステップバスが来た。
「段差もなく楽なものだ」
A氏は感心しながら、運転席すぐ後ろの一段高い席に座った。
「運転手と同じ目線で景色を見るというのも、おつなものだな」
乗客を乗せ、バスは走りだした。A氏が見ていると、信号が赤に変わった。バスは速度を緩め、ゆっくりと停車した。
その途端、A氏はもんどり打って席から転げ落ちた。
「イタタタタ! いったい何事だ?」
A氏は顔をしかめた。ふと見ると、座っていた席の横に注意書きがあった。
『この席のお年より、お子さまのご利用はキケンですので、ご遠慮ください』
A氏は苦笑しながら立ち上がると、空いていた別の席に腰を降ろした。
張り付けにされたあの男を、俺は好きだった。
他に好きになれるような物も無かったし、他に美しい物も無かったから、俺はいつもあの男を眺めていたよ。
周りの大人達もそんな俺を誉めた。ただ一人、姉だけが、俺を冷たく笑っていた。普段は優しい姉だったが、その時だけは俺をまるで裏切り者を見るような目で見るのだ。
姉は長くは生きなかった。生まれつき身体が弱かった。姉は美しく頭が良かったが、何も出来無いまま死んだ。
俺はそれでもあの男を嫌いになれなかった。あの男を嫌いになる前に、俺はあの男を可哀想だと思うようになった。
ある春の夜、俺はあの男に会いに行った。
暗闇の中に、あの男は一人だった。
俺はあの男によじ登り、助けてやろうとした。解き放ってやろうとした。
どきどきしながらあの男の身体に触った。それが初めてだった。あいつの身体は冷たかった。硬かった。掴めなかった。俺は無理に引っ張った。するとあの男は、支えていた台ごと崩れてしまった。
がしゃ。
地面に叩きつけられたあの男を、俺は助け起こそうとした。
かしゃり。かちゃり。
それはただの砕けた石膏だった。
それで俺はやっと、あの男は何処にも居ないということを理解したんだ。
何処にも居ない。何処にも居なかったんだあいつは。
「おい」
僕は慌てて振り返った。
考え事のせいでついぼうっとしてしまった。
「すいません」
「そろそろ出るぞ」
男は僕にそう言うと車に乗り込んだ。
僕も乗り込み、車を出す。
僕の雇い主は無口だった。そしてその無口な彼が一回だけ熱心に語ってくれたのが「あの男」の話だった。
僕には解らない話だった。彼の子供時代と今じゃ大分違う。「あの男」なんて僕には誰のことなのか見当もつかない。
「今日はこの辺りにしよう」
「はい」
僕は車を停めた。
彼の芸は人気があった。柱を二本組み合わせた物にただ縛り付けられているだけなのに、人々はどんどん集まってきてお捻りを放った。
「そろそろ出るか」
「はい」
夜になり、僕らはまた移動を始める。
夜空が美しかった。その空を、何本かの軌跡が通り過ぎていく。
「ねえ」
僕は声を掛けた。
落下音が聞こえ始める。戦闘機の爆弾だ。
「なんだ」
「戦争、早く終わると良いですね」
僕はハンドルを滅茶苦茶に切って爆発を避ける。
「関係無い」
彼は小さく答えた。
「そんなことは関係無いよ」
爆発音が木霊する中、彼はゆっくりと目を閉じた。
小学校から帰って母の作ったチーズケーキを食べてまた遊びに出掛けて帰ってテレビを見た。すると夜になった。夕食はまだかと思って台所に行くと誰もいなかった。居間を覗くと橋本さんのところのお婆さんが来ていて母と話をしていた。
お婆さんは今年九十歳になるのだそうだ。落ち窪んだ眼窩の奥にビー玉みたいにまんまるな目が光っていた。黄色く乾いた皮膚には火星の運河みたいに碁盤目状の皺が入っていた。学校の友達が言っていた。長生きした猫は妖怪になるし年取った女の人は魔法が使えるようになるそうだ。
お婆さんの口がもごもご動いて「そろそろ帰る」と言ったようだった。母は傍らをうろちょろする妹を抱き寄せて窓の外を見た。外はすっかり暗くなっていた。母がそのことを独り言みたいに言うと、お婆さんが、ひえい、ひえい、と笑った。暗くなると笑うのかなとぼくは思った。部屋に入るとぼくに気付いた母がお婆さんを家まで送るよう頼んだ。
「うん……」
橋本さんの家まではほぼ一本道で一キロ程だった。ただし途中道の舗装されていないところがあってそこで転んだりしたら大変だと母は言った。道の舗装されていないところというのは、墓地の脇を通る細い抜け道のことだった。
「怖いの?」と妹が聞いた。
ぼくは妹を睨み付けたが言い返さなかった。そしてお婆さんを送っていった。月も星も出ていない夜だった。曇空だからに違いなかった。風の妙に生暖かい理由はわからなかった。街路灯が途切れて墓地に入った。しばらく行くと、手を繋いで後ろを歩くお婆さんが、うう、うう、と低く唸った。ぼくは振り返らず歯を食いしばって歩いた。橋本さんの家に着いたら元のお婆さんに戻っていた。お婆さんは総入れ歯のきれいな歯並びを見せてにっと笑った。出迎えた橋本さんのおばさんに「ありがとう」と言われた。それから後半一キロ走った。家に着いて、はあ、はあ、と息をした。父が帰ってきて、夕食が始まった。
「今日は鍋だぞ」
父は自分が作ったみたいに自慢そうに言った。妹は母に付きまとって食事を始めようとする母の膝に座ろうとした。母は椅子に座るよう言った。
「お兄ちゃんを見習いなさい」
「おい、見習われるぞ」と父がぼくに小声で連絡した。
「いいよ」
「お兄ちゃんは偉いね」と母が言った。
「おい、偉いそうだぞ」と父がまた耳打ちした。
妹はぼくを睨んだ。ぼくは平然としていた。
「もう子供じゃないのさ」とぼくは言った。
なにもかもがいやになって家を出て、空地を掘り返し、土で人型を造った。ふうっと息を吹きかけると、それは僕になり、僕はそのまま家に戻った。
僕は従順だった。
学校では皆にいろいろなことを押しつけられた。なんでも僕にやらせればいい。そんなふうにいわれた。
一人で教室を掃除し、十三人分の宿題を終え、家に帰っても母はいなかった。
僕はなにもかもがいやになり、家を出て空地に行き、土で人型を造った。息を吹きかけると、そいつは俺になり、俺はそのまま家に戻った。
俺は傲慢だった。
しかし誰もが俺を頼りにした。職場での同僚や後輩はもちろん、上司も先輩も取引先も、俺に指示を求めてきた。
しかし、いつも一人だった。誰もが俺の顔色をうかがった。俺に従うばかりで、自分の意見をいうのものはいなかった。飲み会で、俺が先に帰るというと、そこには安堵と喜びの空気が広がった。そして家に帰っても母はいなかった。
俺はすべてを投げ出して、空地に行き、大きくあいた穴に降り、さらに深く穴を掘った。掘った土で人型を造り、息をかけると、それは私になった。
私は理性だった。
家にいないと思いこんでいたが、行き場のない母はどこかに隠れているのだと推理した。
そして、風呂桶に隠れていた母を見つけ、問いかけた。
「どうして私は人に嫌われるのでしょうか?」
「ばかだねえ、おまえは」と母はいった。「そんなこと決まっているだろう。おまえが人間じゃないからに決まってるじゃないか」
母は桶から腕を伸ばし、私のシャツをめくった。
「ほら、へそがないだろう」
私の腹にはへそがなかった。
私は、肉体にいいしれぬ畏れを抱いた。私は完璧だと思っていた。が、それは、まったくのまちがいだったのだ。
なにもかもがいやになった私は家を出て、生まれ故郷の、あの空地に向かった。
空地には無数の死体が、いや、人のかたちをした土塊の残骸がいたるところに倒れていた。
私はへそを探した。土塊、一体一体の腹をさぐった。しかし、たったひとつのへそすら見つけられなかった。
私は絶望し、空地に掘られた穴のなかへ降りていった。
穴の底に一本の腕が突き出ていた。それは土ではなく、まるで人間の身体のような色をしていた。私がそれに触れようとすると、
「そいつにはへそはないよ」
と声がした。
ふりかえると母が穴の上に立っていた。
母は、だれかのへその緒を持ち、見下げるように笑っていた。
太陽をまともに見るのはやっぱりまぶしすぎて目をそらすと、傍らの竹林はかしこまった顔つきで太陽を見つめていた。
「ダメ、まぶしいって」
何も答えない竹林をベランダにひとり残し、僕は部屋の中に戻った。まとわりつく黄色い残像がうっとうしくてたまらない。
太陽を見よう、と言って竹林が僕の部屋に入ってきたのはついさっきのことで、うちは北側だからダメなんだ、と言いながら竹林はすぐベランダに出た。いきなりのことに僕が戸惑っていると、いつもわれわれは太陽のまぶしさゆえにまともに見つめようとはしないけどそのまぶしさの向こうに真理が隠されているんだ、と竹林は言って、まあ君も見てみろよ、と続けた。
二秒で音を上げた僕は太陽の真理なんかよりマッハ大王の記録を更新することのほうが大事だったから、部屋に戻るとすぐコントローラーを手に取った。うまくいったのはスタートだけで、ひとつめのコーナーで大きく外に振れてしまったからすぐにゲームを中断した。太陽のチカチカのせいだ。
しばらく目を閉じて残像を静め、気を取り直して画面に向かった。ノーミスで三周走りきったけど記録にはわずかに及ばない。ベランダに目をやると、竹林はまだ太陽をにらみつけているようだった。
「なんか見えた?」
「まだ」
竹林は生クリームが大好きなクセにバニラアイスは嫌いだし、まるで刀を振るかのようにボールを投げるし、以前からヘンなやつだなとは思っていたが、ここまで妙な行動をとることはかつてなかった。いくら竹林でもこれはおかしい。
「なあ、なんかやなこと、あった?」
竹林は急に背筋をピンと伸ばし、
「ないよ」
と言った。
「ホントに?」
しばらく沈黙があって、
「強いて言えば、江藤さんにふられた」
と返ってきた。
「ああ、それで」
「別にそんなことは関係ない」
迷惑そうな口調だったから僕は再びコントローラーを手に取ったけど、ゲームをはじめる気にはなれなくて、竹林の後ろ姿に目をやった。背筋はまっすぐ伸びていた。部屋の中に差し込む光が、僕のところまで届きそうだった。
「竹林、江藤さんのこと好きだったんだ」
「ちょっとな」
「そっか」
僕がマッハ大王に戻ろうとすると不意に、
「あ」
という声が聞こえてきた。
「なに?」
「今、一瞬、見えた気がする」
「何が?」
「真理が」
太陽の真理を一瞬だけつかんだ竹林の背中を見ながら、江藤さんに告白するのはもう少し後にしよう、と僕は思った。
「ねえ、本当に死ねるの?」
仰向けに寝転ぶ二人の上から、静かに雪が降ってきた。
「うん。ちゃんと天気予報を見てきたから。携帯電話で最新の予報をチェックする?」
ユウはコートのポケットの中を探った。
「いいよ。雪も降ってきたし。」
エリは隣のユウを見て微笑んだ。小さな雪は、吐く息で地面にたどり着く前に消える。
「ねえ、死んだら――どうする?」
エリは、深く息を吸い、高く白い息を吐いた。ユウは宙を見ながら答えた。
「セックスしようか。」
「エッチ?」
「その言い方は嫌いだ。だって、変態の頭文字のHなんだよ。」
「そうなんだ。でも、セックスは何度もしたじゃない。」
「死んでからの方がきっと、いいと思うよ。だって、シスターは生涯貞操を守るじゃないか。」
あの世はすごいんだよ、とユウが言うと、エリはカラカラと声をだして笑った。
「本当はね、セックスの後、どうしようもないぐらい不安になる。あれが嫌だ。」
エリは笑いをとめた。
「ユウは、私がいやなの?」
「反対。」
ユウはエリの手を握った。
「エリの全部が好きだ。だから、ひどくもどかしい。もっと深く、奥に触れたいのに、この体が邪魔をして、いけない。」
ユウの横顔を見ていたエリは、空を見た。ゆっくりとらせん階段を下りるように、雪は回りながらエリの頬に着地して、解けた。
「私、不安も、不満もないよ。」
エリは目を瞑った。冬の空気と雪の軌跡を肌で感じる。
「死んだら不安はなくなるのね。」
エリはゆっくりと、腕を引き寄せ、ユウの手の甲に唇をあてた。長いまつげが雪で濡れている。かじかんでいる手が少しだけ暖かくなった。
「君が好きだ。」
ユウはもう片方の手で涙を拭った。
「うん。」
「好きだ。」
「うん。」
「ごめん。」
「うん。」
「好きだ。」
「うん。」
エリはユウの手を握り返した。歯が噛み合わない。体が雪の中に沈んでいく気がして、強く手を握った。もう少しで感覚がなくなる。ユウを見た。目を閉じている。頬が緩む。エリも目を閉じた。
冬空から雪が一片一片が舞いながら降りてくる。地表に降りる前に解けた仲間を弔うために、次から次へと雪は降りてくる。景色はほとんど白一色になり、あとは二人だけとなった。
林道脇で凍死体が発見された。死亡した川村優美・佐伯絵梨子の二人は、同じ高校に通っていた。遺書はない。二人の両親やクラスメイトは、記録的な積雪の中、悲しみにくれている。
去年の暮れは初めて、某新人賞に派遣する原稿にかかりきるために、賀状を一切出さぬことにした。
なまじ母親が人並みの躾をしてくれたせいで、義理ある人へは暮れのうちに出しておくものと思い込んで来たが、実際、年内には一切準備しないと決めてみると、正月になってから頂いたのに全部返事を出せばいい訳で、余計なことに頭を使わなくて済むし、大変良いと思った。
つき合いの狭い私の所にも、今年も元旦を期して寄越した人が八人もいたが、中に一寸妙なのがあった。小学校一・二年の時の先生なのだが、寸分違わぬ活版刷の葉書が、二枚も届いたのである。
数えてみれば、私がお世話になったのはもう二十年以上昔のことになる。当時すでに大ベテランで、間違えて「お母さん」と呼んでしまった子もいた程、皆に慕われていたが、私が小学生のうちに定年少し手前で辞められたのであった。
卒業して中学・高校・大学の頃までは毎年年賀状を差し上げて、返事を頂いていたが、先生の方にも私の方にも不幸があったりして、いつとなく絶えていたのが、久しぶりである。
「何、あの先生、惚けちゃったんじゃない」
と無造作に言う母に、
「まさか……普通の人でもたまにある事でしょう、何時だったか、自分の名前を書かないで寄越した先生もいたもの」
と笑いながら、何気なく眺めているとしかし、おかしな点は他にも見当たるのだった。
表の宛名書きの、きちんとした黒いペンの字は昔と変わりないようだが、郵便番号に二通ともご自宅のそれを書いていられる。番地も、一〇七ノ一とあるべき所が一〇〇ノ一となっていて、微妙に違っている。
さらに一通の表には、濃い鉛筆のレ印の痕が消されてくっきりと残っているのが、意味が判らないだけに、何か凶々しい感じがする。
現在もそうであるが、子供のころ私は弱虫であった。従ってよくいじめられたが、先生はそんな私を、何かにつけ皆の前で引き立てて下さった。こんなに一人に目を掛けて良いのだろうかと思うほど、誉められて、良くして頂いた記憶しかないのである。
何年かぶりに私なぞに年賀状を出そうと思い立たれたのは、いかなる心境であろうか。そして今はどんな暮らしを送っていられるのか……。
早速返事を出すことにしたが、何と書いたらいいものか、しばらく躊躇った。結局「私こと、未だ就職もせず実家に居りますが、健康に暮らしております故、先生もどうかお元気で」としか書けなかった。
森の中をまだ若い青年と男が歩いていた。
「なぜ、着いてくる?」青年は振り返ると、そう言った。
「言ったはずだ。俺はこの命に代えても、お前を守る、と。それがお前の父親への恩返しだ」青年を追う様に歩いていた男が、そう答える。
「馬鹿馬鹿しい。飢え死にしかけていた時に、パンを一個貰っただけで、命をかけるなんて」青年が呆れた様に言う。
「わかっているはずだ。あのパン一個の重みが、どれほどの物か」男が諭す様に言う。
と、男は辺りを見回した。それを見た、青年の顔が引き締まる。
「話は後だ」男がそう言うと、二人は同時に腰の剣に手を伸ばした。それを合図にした様に、森の奥から何者かの集団が現れた。
「盗賊か。用があるなら、後にして欲しい物だな」男はそう言いながら、飛び掛ってきた男を剣で薙ぎ倒した。
やがて、それまでの喧騒など無かったかの様に、森に静けさが戻った。二人の周囲には、数人の盗賊の死体が転がっていた。
「邪魔が入ったが、話の続きだ」
「その必要は無い。あんたに守って貰う必要も、ね」青年は剣を鞘に収めながら、そう言った。
と、その時、青年の背後に倒れていた盗賊が、起き上がった。
「死ね!」盗賊がそう叫び、青年に短剣を突き出す。
「くそ!」と、次の瞬間、男は青年を突き飛ばしていた。
突き飛ばされて地面に倒れた青年は、最初、何が起こったのかわからなかった。起き上がり、男の方を見た青年の目に映ったのは、血塗れの腹を抱えながら倒れていく盗賊と、左胸に短剣を突き刺した男の姿だった。
「大丈夫か?」その男の言葉に、青年はしばらく返す言葉が無かった。
「やっぱり、あんたは馬鹿だ」ようやく、青年は口を開くと、そう言った。
「馬鹿か? そうだな」男は照れた様に苦笑すると、片膝をついた。
「本当に、馬鹿だ。自分も餓えに苦しんでいるのに、年下だって理由で赤の他人に最後のパンをくれてやった父も馬鹿なら、助けて貰った命をこんな事で失うあんたも」
「いや、あの人は違う。なぜなら、あの人はたった一つの命で、あの時の俺と今のお前の二つの命を救ったんだからな」
「詭弁だ。結局は、二つの命が無くなるんじゃないか」そう、青年が否定する。
「ははは。俺は馬鹿だから、計算が苦手でな」男はそう言うと、ゆっくりと目を閉じた。
そして、二度と男が目を開く事はなかった。その男の傍で、青年はこう呟いた。
「二人とも、馬鹿だよ。だけど、一番、馬鹿なのは……、僕だ」
単純に言えば飽きたから。
馬鹿っぽく言えば、空が青かったからだ。
ぐずついた日が続いていたけれど、今日の空の青は、目が痛くなるほど綺麗だった。日差しも暖かく、柔らかく、生まれてきたこと自体を後悔したくなる、そんな優しい朝だった。
私はレトロなビルの屋上にいた。目を付けていた、と言うわけじゃない。五階建てのビルで、管理が杜撰で、誰でも屋上に上がれて、屋上の柵が、低かった。ふと、飛び降り自殺のしやすいところだなと思ったのを覚えていただけで……。
ふわり、スカートが膨らんだ。私がいるのは柵の外で、下に誰かいれば、この空と同じ色の下着が覗ける。スカートを右手で押さえて、もう片方の手で柵を握った。ここに立った瞬間に風が強くなり、風は私のパンツをさらけ出したいのか、それとも早く飛び降りを敢行させたいのか、そんな妄想も抱いた。
空を見上げる。青い。優しい青だ。ふっと笑みが漏れる。
飽きたんだ。ただ飽きただけ。特に悩みもない。いやあるけど、そんなの他の十五歳も抱いてるような悩みだ。まあ日々イライラするってのもあるかな。
五階建ての屋上は、思ったより高かった。キレイに死ねるだろう。ブザマに死ねるだろう。そう思ってしばらく地面を見つめていた。
手を振ってきたので、私は少し首を傾けた。
時刻は……いつだろう。朝でも、昼でもない。私がどのくらいぼんやりしていたのか、私は知らない。髪の短い女の人だった。私を見上げていた。綺麗な人で、キレイに微笑んでいた。私と、その女の人だけがいた。残酷そうな人だ。優しそうな、笑顔だった。
私は手を振り返した。スカートが膨らんだままだったから、パンツが丸見えだったと思う。女の人は満足そうに頷くと、すたすたと歩いて、下の地面を通り過ぎた。
私、見るからに自殺しようってな感じだよね……? 普通、止めない?
「まあいいけどさ」
そう呟きながら、私は柵の内側に足を下ろした。
今日は止めにした。明日もヤメにする。明日、ここの地面で、あの女の人を待ち伏せてみようと思う。通るかどうかわからないけど、そうしてみる。通らなかったら……、さがそう。さがしだそう。この町を隅から隅までさがして、絶対に見つけ出す。
あの女の人に、凄い意地悪をしてやる。決めた。うん、決めた。一生心に残るような、物凄い意地悪をしてやる。
「ふふ、あはは」
青い空も悪くないなーとか、馬鹿っぽくちょっと思った。
a
街の片隅にひっそりとその料理屋はありました。
ひっそりとあるにしてはずいぶんと盛況で、それというのもその店で出す料理を食べると幸福になれるというのです。
街には、その店の料理を食べて幸福になったという人で一杯になりました。
今では、評判を聞きつけ他所の街からもお客が来るくらいです。
幸福の料理の秘訣は何か、皆、それを店主に聞きます。
すると店主はいつも笑って
「お星さまですよ。うちの料理はお空にキラキラと輝くお星さまで作っているんです」
と言うばかりでした。
やがて、誰も店主に料理の秘訣を聞かなくなりました。
食べれば幸福になれることは確かだったからです。
ある時、
「毎日、お星さまを食わせていたら、今にお星さまがなくなってしまって困るんじゃないのかね?」
と、言った人がいました。
それに店主はこう答えました。
「大丈夫ですよ。お星さまを食べた人は、死んだ後、お空にのぼってお星さまになるのです」
b
「とまぁ、そんな話なんだけどね」
「へぇ、でも星の味ってどんなものだろうね」
「コンペイトウの味とか」
「それはなぁ」
「えー豆腐とか」
「うーん」
「いも!」
「ああ、ちょっといもかもしれないね」
「そうだよ。いもだよ。いも」
「うんうん」
「肉の味よ」
「え?」
「肉の味。だって、お星さまは死んだ人間で出来ているんでしょう?」
後部座席の女は、必要以上に正志の背中にぴったりとくっついている。その温もりや柔らかな感触で正志は何故だか震えが止まらなかった。
――どうかこの震えがバイクのエンジンの振動にまぎれて、彼女に気付かれませんように。
「お腹空いたね」女が言う。
正志はコンビニの駐車場にバイクを止めた。
――昔から「気持ち悪い」とよく言われる。中学の集合写真で「臭いので近づくのが嫌」と言われた事とか、小学生の頃に「バイ菌」と呼ばれた事もあった。正志はそういった経験から、ああ自分は一生モテないんだな、とは自覚しているつもりである。
それでもたまに、ふと妄想してしまう時がある、正志は無類のバイク好きなのだが、願わくばバイクの後部座席に美人を乗せて走る事ができたら、どんなに幸せだろうかと。だがすぐに昔風俗に行って、風俗嬢にゲロを吐かれた事などを思い出す。
女がコンビニから戻ってきた。その歩く姿、流れる髪、とても綺麗な女だ。
正志は思う、――彼女は人間では無い、
――あるいは俺がそうなのか。
女は「おまたせ」と言って、正志の隣りに腰掛けた。
昨日友人に誘われたキャバクラ、そこでただ一人、正志の隣りに座った女が彼女だった。そしてその翌日、つまり今日の朝、正志は自宅の近所でばったりその女と再会した。
その時女はぐしょぐしょに泣きじゃくって、正志にこう言った。
「ねえお願い、私を助けて」
「そのバイクで、名古屋まで乗せていって」
そして今、女は再び正志の隣りに座っている。
――付き合っている彼氏がひどい男で、別れる事を許してくれなくて、その度自分はその男から暴力を受けてしまう、と女は言った。しかし女は、自分にも落ち度があるかも、と言っている、結局まだ少しだけその男が好きなのかも…、とかなんとか。
「私分かるの、あなた暴力は嫌いでしょ」
「ねえ、名古屋に着いたら一緒に暮らそうね」
3時間後、名古屋に到着。
女はバイクから降り、真剣な目で正志を見ている。正志はバイクに跨ったまま、何を言うでもなく、ただ、ぶるぶるとバイクの振動に同調して震えたまま、女を見据えた。
「あのさ…」正志が何か言いかけた、その時、女の携帯電話が鳴る。
「ゴメン」と言って女は正志に背を向けてしまった。
正志は俯いて、ため息一つ「はあ」、それからおもむろにバイクのハンドルを切って、アクセルを吹かした。女は振りかえる事しかできず、後はもう、彼が去っていった方向を見つめるしかなかった。
有能なぶん余計にムカつく後輩に、たまには飲みに行きましょうよなんて誘われたところで行くはずもなく、今日はチョットと照れくさそうに苦笑して、あたかもデートかなにか色っぽい約束があるかのごとくに断わっておき、しかし用事など存在しないので店でビデオを借りて帰ったら、アパートに着いたころには十時を過ぎていた。金曜の夜は、いつもまあこんなものだ。
玄関のノブに手をかけて、ふと、足元に小包を発見した。一辺が十センチほどの立方体で、茶色い紙に包まれており、宛名もなにも書いていない。手にしてみると、なかでゴトゴト、なにか小さな物体がひしめいているらしく感じられた。差出人不明というのが猛烈にあやしいわけだが、興味がまさり、部屋にあがってスーツを脱ぐなり小包を開けてみた。
箱の中味は、大量の消しゴムだった。が、ただの消しゴムでないことが、すぐにわかった。目についたひとつに、ヘタクソなキン肉マンの顔が彫ってあったからだ。
思えば、消しゴムというものを最後まで使いきったおぼえがない。小中高、専門学校と、十四年間にわたり彼らの世話になったが、いつも、いつのまにか失踪してしまう。学生時代を通じて、もっとも熱心にやり続けたことと言ったら、勉強でも部活でもなく、消しゴムをなくすことだったのかもしれない。
箱の中味は、再会に満ちていた。
小学生のころ、買ったばかりなのにカバーをむいて、鉛筆でキン肉マンを刻んだ消しゴム。裏にはロビンマスク。これはカドがもげるようにして削れている程度だから、すぐになくした消しゴムなのだろう。ほかには、においも形状もチョコレートの消しゴムや、ちっとも消せない通称「ねり消し」が箱のすみにへばりついていた。
中学校のころのものとして思い出せるのは、朱色で神社の名をあしらった消しゴムで、これは塾の先生が受験直前に配ったものだ。ほか中学時代のもの、また高校および専門学校のときに使った消しゴムは、どれがどれだかわからない。とにかく、大きさも色も形も雑多ながら、どれも見おぼえがなくもない消しゴムだ。
いったいだれが、なくした消しゴムを集めてわざわざ届けてくれたのか。なかなかたいへんな労力だろうから、とても親切な人にちがいない。
とはいえ、どれも今さら必要ないので箱ごとゴミ袋に放りこんで、ビデオを観ることにした。金曜の夜は、まれにちょっとした事件があっても、まあこんなものなのである。
「ごめん遅くなって」
蘭が舞の家に着いたのは1時半になってのことだった。
「早かったじゃないの蘭、外は寒いから上がってらっしゃい」
出迎えてくれたのは舞本人だ。
舞に連れられて部屋に入ると、パーティの準備は既に済んでいた。壁の時計を見て、開始時刻が12時半ではなく2時半だったことを蘭は思い出したが、その直後、視線はクロゼットを開ける舞に移った。白いレオタードにレースのスカート、そして脚には光沢のある褐色のタイツという服装だ。
「バレエの練習か何か?」
「アメリカでの習慣よ、お祝い事の日ぐらいは着飾らないと」
クロゼットからは十数着ものレオタードが現れた。
「これなんかどうかしら」
舞は蘭に、短いフリルスカートの付いた黄色のレオタードと、白いタイツを手渡した。
「蘭もダンスを習っているなら、こういうのはよく着るでしょう?」
「私はジャズダンスだから」
パンツルックしか着たことのない蘭にとって、レオタードは勿論、タイツすら初体験だった。体に密着する素材。そしてレオタードが胸から下を吊り上げる感覚。確かに窮屈ではあったが、不思議と不快感は無かった。
「ね、そんな悪くはないでしょう?」
「いいけれど、このままパーティに出るの?」
「他の子も派手に着飾ってくるから、それぐらいやらないと」
二人は姿見の前に並んだ。鏡に映る舞と、未知の衣装を纏った少女。それが自分自身ということに気付くのに、蘭は少し時間を要した。
2時半になり、友人達を加えて始まったパーティは、ちょっとしたファッションショーになった。
「皆こんな可愛い服を隠し持っていたなんて」
「そういう蘭もどうしたの?レオタードを着て来るなんて」
これは舞が、と言いかけた蘭を遮ったのは舞本人だった。「蘭もダンスを習っているから、レオタードぐらい持っているもの。そうでしょう?」
いつの間にか自分のものにされてしまったらしい。しかし蘭は全く不愉快さを感じなかった。今までにない衣装を着て、皆に誉めてもらうのがこんなに嬉しいことだなんて。夢の時間はパーティの終わりまで続いた。
帰り際、蘭は着てきた上着とコートを舞から受け取った。
「本当に持ち帰ってもいいの?これ」
「プレゼントのお返しよ。それより上着を忘れない様にね」
蘭は少し考えた後、上着はバッグにしまい、レオタードの上に直接コートを着た。
「誕生祝いにレオタード…結構いいかも」そんな事を考えながら、蘭は家への道を駆けていった。