第60期 #5
ひとりぼっちで、冷蔵庫のようなショッピングモールをうろつく。過剰な笑顔の店員が近寄ってきたので、そそくさと逃げる。
街の赤色が目の奥をちくちく刺す。頭に鈍痛を覚える。加えて、ひどい空腹だった。しかし、何を食べる?自問し、色々を思い浮かべるその途端、胃の奥から不快感が込み上がる。油でぎとりと光り、虫のように蠢く唇と舌を思う。嫌だ。
満ち足りた人々の、細波のような笑い声。もういい。帰ろう。いらいらとして、重い硝子の扉を押すと、吹き込む熱風に、くらりとなる。
深く傾いた夕方の日差しが、十分に鋭い、八月のおわりである。じりじりと焼かれながら、長い影と、家路を寂しく歩く。
突然の、ささやかな欲望。
蜜柑が食べたい。
あの香り、陽だまり色の果肉を思い浮かべたその途端、視界がじゅんと滲んだ。狼狽して、涙を拭う。だめである。止まらない。
私の蜜柑を思う。冬の、ごろごろと無骨なそれではない。こじんまりして、外皮の薄い、ハウス蜜柑だ。果肉に傷をつけないよう慎重に剥く―――刺繍糸のような白い筋は、すべてを丁寧に取る。大切に育てられたのだ。優しく、清潔な甘み。
何が、私をこんなに悲しませるのか少し考え、ようやく思いあたる。母が時々、蜜柑の好きな私の為に、買ってきてくれたのだ。季節はずれに、遠足や運動会のお弁当に、こっそり入っていた。
つまり、本当に欲しかったのは、ちっぽけな優しさだ。
小さな灯りを胸に、スーパーに行く。
あるにはあった。しかし、あの幸せの果実とは似ても似つかない。パック詰めされた6個の蜜柑は、いかにも貧相で、がたがたといびつだ。蛍光灯に、茶の斑点が目立つ。
それでも、欲しかった。甘い記憶が、とても欲しかったのだ。しばし呆然とする。手は伸びない。
私はすでに、醜い自分に、税込み980円を以って喜ばせる価値を認めなかった。
とぼとぼと向かったのは、『缶・瓶詰め』の棚である。105円、中国産の蜜柑缶。おまえには、これくらいが相応しい。ひっそり笑い、レジにごとり、重い缶を置く。
私は一人、私の為に買ってあげた蜜柑缶を開けた。きこ、きこと、小気味良い感触と音が、少しだけ楽しい。半分をタッパーに入れ、半分を硝子の皿に開ける。その色は、いささか鮮やか過ぎる。薄暗い台所に、シロップできらきら光り、浮かび上がる。
冷たい果肉を口に含む。人口の甘さは、とろり、思ったより透明だった。