第60期 #4
地図はいつでも正確だ
何分の一という尺度から道がどのように走ってその脇にどんな建物があるのか
ことこまかに教えてくれる
ぼくはそこに自分の生活を書き込んでいく
家を基点にして、小林さんの勤めているジャズバー
小林さんは木曜日から土曜日まで顔を出し、たのめばいつでも
「煙が目にしみる」を体全部で弾いてくれる
ランチタイムには賑わうカフェ、ここのランチは絶品なのだ
「文」の文字で表された中学校、自転車で通るといつもサッカー部なり
野球部なりが練習している。
コンビニ、スーパー、薬局、いろいろな生活を書き込んでいく
さまざまに書き込まれたメモから
ぼくの目の前にそれらの場所で生活する人たちの息遣いが聞こえてくる
それらに囲まれたぼくの家だけがなんのメモもされずに、地図からとりのこされている
書くことはコップから溢れるほどある
しかし、いざ手で掬おうとすると、指と指の間からみるみるうちにこぼれてしまう
こぼれた欠片を拾い集め、ジグソーパズルのようにひとつひとつ当てはめていく
すると、ぼくの家のピースだけがどうしても見当たらないのだ
そこにこそ、ぼくの長い物語が書かれていたはずなのに
欠落した部分の周りを指でなぞってみる
ジャズバー、カフェ、中学校、コンビニ、スーパー、薬局
それぞれに触れるたびに、指先にかすかに電流がはしる
ぼくがメモしたよりも、ずっと長い物語がそこここに隠れている
それは暴風雨の中を行く一艘の帆船の話かもしれないし
朝の静謐な空気のなかから香る真新しいシャツの香りだったりするかもしれない
毎週金曜日の夜は小林さんのピアノを聴きにいくことにしている
その音階の隙間にも小林さんの物語はひそんでいるのだろうか
静かな調べがぼくの心を揺らし
高い音階がぼくの耳の奥で踊る
ぼくはぼくの物語を読むために
小林さんのピアノを聴きにいく