第60期 #3
「マコちゃん、おはよう。」
「チヒロ、今日も遅くなるから、先に寝てなさいよ。」
ちぃちゃんのお母さんは、私達のランドセルをぽんと叩くと、あっという間に坂道を駆けていった。
ちぃちゃんは、私と同じクラスの男の子だ。
お母さんと二人暮し。
仕事で帰りが遅くなるので、私の家で宿題をし、夕飯を食べる。
隣町でちぃちゃんのお父さんが、ベトナム屋台というお店を開いている事は、町内で有名だった。
色キチガイ。
近所のおじさん、おばさんは口々に噂している。
ちぃちゃんは、自分が悪いことをしたように、いつも下を向いて歩いている。
ちぃちゃんのお母さんは、気にも留めていないようだ。
都会的でかっこいいと私のお母さんは言う。
ちぃちゃんは、頭が良くて、絵も上手、おとなしい、おまけに足も速いので、女子から密かに人気がある。
でも、お父さんに一度も会った事が無い。
こたつで算数の宿題をしていると、
ちぃちゃんが突然、
「今度、ベトナム屋台に行かない?」
私は言葉に詰まってしまった。
ちぃちゃんは続ける。
「前々から考えてたんだ。お金ならお年玉の貯金があるから、心配しなくていいよ。」
ちぃちゃんは、一度決めた事は必ず守る。
気持ちがぐるぐるしたまま、頷いていた。
ドアを開けると、ベトナムの民芸品やちょうちんが飾られている。
テーブルにランプが置かれていて、全体的に薄暗い。
「ガキの来る所じゃないぞ。」
マスターは、細い目をもっと細めてにっこり笑った。
ちぃちゃんに似ていて体も細くて、きゅうりみたいだ。
「ジンジャエール。」
怒っているみたいな大声でちぃちゃんが言った。
マスターは横目でちぃちゃんをみると少し笑い、威勢のいいガキだと呟いた。
スーパーや自動販売機では見た事がない、外国の文字で書かれたビンが出てきた。本物の生姜が入っているみたい。飲むと体がぽっぽっする。
しばらくすると、綺麗なお姉さんが、サラダを作ってくれた。
優しい笑顔で、くすぐったい気分になった。
ちぃちゃんは普段無口なのに、よりいっそう意思を持って口を閉ざしている。
レタス、蛸、ピクルスを頬張っている途中、変な感じがした。
ざらりとした感触。
口から取り出すと、お姉さんの長い長い髪の毛だった。
気付いているのかも知れない。
よく見ると目の奥が、凍りつくほど冷たい。
マスターは肉を切らしたので、買い物に行くと言っている。
ちぃちゃんは、あいかわらず黙ったままだ。
私はハラハラしながら、ジンジャエールを飲む。