第58期 #19

メフィストフェレス

 コピー頼まれ、データ入力頼まれ、資料作成頼まれ、電球の交換頼まれ、トイレットペーパーの補充頼まれ、コピー機の紙詰まり直し頼まれ、買物行くんですかだったら俺の昼メシ用の弁当もと小間使いにされ、風船おばさんと失礼だが体形を言い当てつつも若干のかわいらしさを漂わせるアダ名をつけられ、このまえ営業の人と親しげに話してましたよねいつの間に手なづけたんですかと痛くもない腹をさぐられ、だが職場にアロマディフューザーを設置し心地良い芳香に包まれたすこぶる快適な労働環境を実現させたのは紛れもなく私だ。
 二六日前、そのオフィスに悪魔が来た。新入社員の男の子だ。私は彼をメフィストと呼んでいる。
 メフィストは動作が機敏だった。頭の回転が早く応答が的確。会話術に長けている。仕事の覚えも早い。判断も冴えている。気難しいうちの課長とも三日で仲良し。仕事場を軽やかに思いのまま飛びまわる。女の扱いにも慣れている。メフィストが女に耳打ちする。すると女が困惑したように笑う。その瞬間に人間の皮をかぶった暗闇の住人の本当の姿が現れる。耳が上に伸びる。犬歯が二センチ伸びる。目尻も吊りあがる。まちがいない。悪魔だ。
 世に悪魔崇拝者は多かった。同僚たちはメフィストを招き、週末にたびたび黒ミサを開く。
 いつかその宴の席でメフィストが私の傍に寄ってきた。
「――さんはうちの課の観音さまです」
「なぜ」
「みんながお願いごとをするからです」
 メフィストは悪魔の頬笑みを見せながら私の傍を去った。私の過去をなんにも知らないくせに。
 私は目の前のジョッキを飲み干した。「さすが」、「酒だけが楽しみ」。周囲がざわめく。メフィストを眺める。隣に座る女とふざけていた。メフィストはずるい。だから許される。
 それから私は酔った振りをして課長の席の隣に行った。課長の飲みかけのお猪口を指差した。
「この日本酒は私が呑んでもよい日本酒でしょうか」
 課長が気味悪そうに頷いた。周囲は苦笑した。私はお猪口を飲み干す。この時だけ私は許される。

 観音さまと呼ばれて以来、私は休日にメフィストを食事に誘うようになった。メフィストから世間の飛翔術を盗もうと思った。メフィストはどこにいてもすぐに来る。たぶん背中に翼が生えているからだろう。鼻も効くんだろう。結婚適齢期を過ぎた女のもとへも、すぐに飛んでくる。私のうすぎたない過去をうまそうに喰らって、快感にうちふるえる。



Copyright © 2007 qbc / 編集: 短編