第58期 #18
きれいな円が描きたい、と思っている。線の頭と尻がくっついて、線の内側と線の外側という区別ができあがったその瞬間に、はじめからそこにいたような自然さで立体的に感じられるような、そんな円が描きたいと思っている。
画用紙を机の上に置いて、右手でペンを握り、上から反時計回りで線を滑らせてみる。下に行き着くまでは順調だ。けれど、半分を過ぎ、時計でいうと「4」の辺りにペン先が来る頃には、そこからどうやって「12」のところまで行こうかというイメージの形成に失敗して、不安になり、右手右腕に余計な緊張が走り、ペン先は結局はじまりよりも外側を通ってしまい円は完成しない。画用紙の真っ白いスペースにペン先を移動させ、今度は下から、つまり時計でいうところの「6」から時計回りで線を滑らせてみることにする。が、今度ははじまりから既にきれいな円をイメージできないことに気がつく。私は、ペンを上へ、正確には奥へ向かって走らせるのが苦手なのだ。
「佐和美さん。今年の円はどうですか」
裏の守屋さんが訪ねてきた。手には紙袋を提げている。
「毎度のことです。都会の空気を吸ったものの手先は歪むのでしょう」
今しがた描き終えたものを渡しながら、私は言い訳をした。
守屋さんはほがらかに笑って、あんにぇい、あんにぇい、と言って闇夜に消えた。「考え込んだってしょうがない」というような意味の言葉だ。
この土地には、住民に円を描かせるという風習がある。年度はじめに行われ、「守屋」姓の家が順番に円の回収役に就く。回収された円は夏まで地元の寺に預けられ、祭の時に一斉に燃やされるのである。
この風習の起こりは、一揆の首謀者を判別するべく藩が、土地の者に円を描かせ、それによって罰する者を選定したという出来事に因るらしい。やがてそれは制度化し、守屋家に藩の仕事が委託された――。しかし現代では、そういった暗い歴史を感じさせない穏やかな風習として息づいている。
私がこの土地に移ってきてまず、円の姿に好悪はないと教えられた。裏の守屋さんにである。私はその言葉を、堅苦しいものではないから、というような意味なのだと認識していた。けれど、年を経るにつれ、その言葉の芯とでもいうべきもの、円を描くということの難しさ、そういったものが感得されてきたように思え、この風習を続けてきたこの土地の人々の真実さを感じられずにはいられないのである。