第53期 #21
月下美人。部屋の電気を消すと、満月に照らされて、切れるような白い花びらの美しさが際立つ。真一は本棚から太宰治を二冊取り出すと、下宿の毛羽立った四畳半の畳の上に放り、無造作に重ねた上へ鉢を置く。この花にはこれくらいがちょうど良い。
俯いた花を見下ろす。重たげな花をそっと包むのは、まるで人の手のようだ。
女の手はこうあるべきだ。こういう手を持つ女を一人だけ知っている。母。記憶の中の母の手はただただ白く細く、影すらないほど完璧だった。斜陽に包まれた母の背中。上下する肩。機械の音がする呼吸。束ねられたつやのない髪。そこに含まれていながら別世界に存在するようだった母の手は、母が持っていた唯一の美しさだった。いや、その手が、母を属させていたのかもしれない。
花びらに触れようと手を伸ばすと、月の青い光が真一の手をなぞる。母から受け継いだこの手。彼の手もまた、完璧だ。花には触れずに手を引き寄せ、そのまま口付ける。薄い皮膚に暖かい呼吸。そのまま花びらをなでるように唇で指をなでた。美しい。
机の引き出しから小さな木箱を取り出す。彼の手が木箱の蓋をなでる。右に左に。いつかの母のように。そこから遺品の手鏡と紅を取り出す。
中指で紅を掬い、唇に乗せる。右に左に。柔らかい唇をなぞる指は真一ではなく母の手だ。甘い香りが通っていくと、口元を映す手鏡の中で、女が微笑む。
女の唇はこうあるべきだ。微笑を絶やさず、薄く開かれたその奥は闇。何を隠して微笑むか。
襖の向こう、階下から忍ぶ足音が真一の部屋に近づいてきた。すすすとつま先で擦るような密やかな音。やがて、躊躇いがちに伺う。
「あの……真一さん?」
下宿屋の娘。束の間は日常に毒される。真一は手鏡の中の唇を見つめながら、いつもの通りに答える。
「起きてますよ、何ですか?」
「数学を教えてもらいたいと思って」
「今行きます。食堂で待っていてください」
「はい!」
弾んだ声がそのまま足音に変わり、とんとんとリズムよくそれは遠ざかる。階段を下りていく娘の白い靴下が目に浮かぶ。教えてやらなきゃいけないのは、汚れないということは美しさと違うということ。
月下美人は全ての指を開いて、その奥を彼に見せようとする。花びらをこすり合わせ、身悶えながら花開くその様は、慎ましく美しい。だがまだその時はこない。
紅をぬぐったハンカチに目を落とす。まるで母の溢した血のようだ。