第51期 #27

老人の日

 平日の閑散としたショッピングモールのゲームコーナーで、何故だか大勢の老人がゲームに興じていた。ただ通りすぎるだけだったのだが、その様子がなにやら珍妙で、しばらく眺めていると、スロットマシーンにコインを投じていた老婆が声をかけてきた。
「ニィちゃんみたいな学生さんは、こんなウソモンより、ホンマモンのパチンコのほうがええねんやろ。それともニィちゃんは、ガラガラポンのほうかいな」
 大学など卒業して何年にもなるが、老婆から見れば、平日の昼間にうろついている若い男はみな「学生さん」みたいなものなのかもしれない。麻雀牌を混ぜる手付きをしてみせる老婆の真似をして、「そうですね、僕はこっちのほうですね」と、麻雀などろくにしたことがないのに、そう答えた。
「友だち同士でやる分には平和でええわなぁ」
平和ならざる何かがあったのか、老婆が嘆息めいて言ったところで、短い会話は途切れた。

 その日の夜のことだった。家の近くの病院から、白髪頭の老人が、腰のまがった老婆の手をひいて出てくるのを見かけた。老夫婦だろうと思ったが、男のほうは背がしゃんと伸びていて、老婆と同じ年頃には見えなかった。しかしその様子には、他人同士にはない親密さがあるように思えた。
 すると、あの二人は親子なのか。老婆が九十を超えているとすれば、男が七十を過ぎていてもおかしくはない。母も子もともに老人であるというは、奇妙なことのように思えた。
 考えてみれば、人が老いゆく姿というのを僕は見たことがない。祖父は僕が生まれたときにはすでに老人で、母はまだ中年の終わりといった年頃だ。
 学生だった時分に、年老いた母とバスに乗って、山へと向かう夢を見たことを思い出す。それは母の不幸を知らせる不吉な夢のようで、はっとしたが、別段何もありはしなかった。当時の僕の年頃に、母が自らの母を亡くしていることを思うと、あれは母ではなくて、祖母だったのかもしれない。
 祖母が老いていくのを見ていない母は、ちゃんと老いるが出来るのだろうか。手本となる身近な老婆を母は持たない。老婆になる代わりに、段々と淡く稀薄になっていって、ある日パッと消えてしまうのではないか、ふとそう思う。
 そうだとすると、父を知らずに育った僕もまた、中年を過ぎると白髪でも抜けるように、躰のあちこちが薄く剥がれ落ちていき、ある日吹いた風に、ふわっと舞い上がり四散してしまう、そんな気がした。



Copyright © 2006 曠野反次郎 / 編集: 短編