第50期 #25

蝶と蜻蛉と蟻

 この夏はどこにも行かずに、ずっと家ですごした。
 田舎なので、虫が多い。今年は揚羽蝶をよく見た。茶の間から庭を見ていると、黄色いのと黒いのが代りばんこに、どこからともなくひらひらとやって来ては、また去って行く。それを一日に何度となくくり返す。何か意志のあるもののようにも見える。
 四月に祖母が亡くなって、今年は新盆だった。亡き人の魂が、蝶に姿を借りて来る――家族の間では自然とそういう感じがしていた。
 お盆が終わると、急に涼しくなった。ある日の夕方、洗濯ものを取り込もうと庭に出たとき、地面の上に何か動くものが目に止まった。
 よく見ると、一匹の蜻蛉がひっくり返っているのだった。早くも蟻が集まりかけていたが、六本の足はそれぞれに空をつかもうとしている。口も何かもの言うようにもぐもぐと動いている。時々羽根も羽ばたかせている。
 自分は要らぬ惻隠の情を起して、その蜻蛉を拾い上げた。息を吹きかけて蟻を落し、ハイビスカスの茂みの上に置いてみた。
 しばらく見ていたが、誰にも突つかれなくなると、全く動かない。――後で思えば、蟻の毒で、体が痺れていたのだろうか。いずれにしても、もはや命数は尽きていたと言えるだろうか。
 すでに死んでいるものなら、蟻たちに返してやるのが筋ではないかと思い、また元の所に戻して、家に入った。
 半刻ほどして、ふと思い出し、様子を確かめに庭に降りてみると、今度は蟻がびっしり集っていた。皆それぞれに休みなく駆けずり回りながら、蜻蛉の体が見えないくらい覆っている。
 なおよく観ていると、蜻蛉の羽根がかすかに震えた。風のせいかとも思ったが、忘れた頃にまた地面を打つ。確かにまだ息があるようである。
 取り返しのつかん事をしたと思ったが、今度は救い上げる決心はつかなかった。さっき以上に弱ってしまっているだろうし、一心不乱に働く蟻たちの迫力は、安易な手出しを許さないものがあった。生きている間、何百何千匹もの虫を捕った蜻蛉は、寿命が尽きた今、その体を今度は蟻たちに返そうとしている。
 翌朝見に行ってみると、蟻たちは列をつくって規則正しく歩いていた。閑散とした現場には、羽根がついた頭と胸だけが残っていた。少し離れたところに後ろ羽根もあった。胴体はどこにもなかった。
 頭を拾い上げてみると、重さというものが全くなかった。裏を返すと、驚いたことに眼玉まで綺麗にくり抜かれてがらんどうになっていた。



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