第50期 #26

ことばくずれ

「ほら、やっと見つけた。あそこに犬がいるよ。さあ何て名前をつけようか」
 僕はガードレールに繋がれた犬を指さして言った。
「本当にそこに犬がいるの」と彼女は訊ねた。
「見えるだろう。ほら、あれだよ」
 犬を指さしたまま見ると、彼女は瞼を閉じているのだった。
「見えないのよ何も。なによこれ、ああ」彼女はそう喘いでしゃがみ込んでしまう。
「眼を閉じているからだよ。何してるんだ、せっかく見つけたっていうのに」
「何も見えない。真っ暗よ。真っ暗だわ。あなたどこにいるの」
 彼女は腕を空に向けてでたらめに振り回す。僕はその手を掴んで無理矢理に立たせようとするが、全身の力が抜けてしまったかのように、いくら引っ張っても彼女の体は沈み込んでいく。
 まただ、と僕は思った。いつだってそうだ。何をするにしても、あと少しというところで彼女がヘマをしてすべてが台無しになってしまうのだ。今日だって、「犬に名前をつけたい」と言い出したのは彼女の方なのに。
 僕は呆然と彼女を見下ろしていたが、彼女はいつまで経っても眼を開こうとはしなかった。
「帰ろう」と僕は言った。
「ごめんなさい。こんなつもりじゃなかったのよ」彼女はきつく閉じた上下の瞼の隙間から涙を零している。「でも、もうだめ。あたし溶けてく」
 溶けてく? その瞬間、体の輪郭がぼやけて滲み出し、縒り合わさった糸が解れていくように、彼女は溶けていく。
「おい、おまえ溶けてる」と思わず僕は叫ぶ。
 きつく握った手の中で、彼女の手がみるみる縮んでいく。どんなにきつく握ろうと止められない。一体なにが起こっているのか、輪郭が滲んでいるその縁をよく見てみると、表面の肉が言葉に置き換わっているのだった。まるで書物が風化して無数の塵に還元していくように、彼女の体は無数の言葉に断片化され、周りの空気の中へ拡散していく。
「名前が思い浮かばなかったから」起伏のなくなった肉の塊に開いた暗い穴の奥から、彼女の声が切れ切れに聞こえてくる。「あたしの中のぜんぶの言葉を集めても思いつかなかったから、そんな言葉あっても意味ないから……でも、もし、最後にひとつでも残ったら、それを名前にしてね」
 僕は何も言うことができずに、ただ彼女の残った部分を強く抱いた。

 僕は這いつくばって彼女の残した最後の言葉を血眼になって探している。いつまでもいつまでも探すだろう。アスファルトの上に、湿ったピリオドがぽとりと落ちた。



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