第5期 #8

傘を広げて

 鼻の頭に冷たい滴が触れて、見上げると頬にひとつ、ふたつ、雨が落ちてきたから、傘を広げた。
「たあ子ー」
 声のする方を見ると、マキは小さな傘にしがみつくようにして、左右に揺れながら降りてきた。横から風が吹いて、ぐんと流されたマキは、あわてて足を伸ばして地面に着けた。感触を確かめるように足踏みをして、私のほうを振り向いて目を細めた。
「や、ごめんごめん、出かけようとしたらなんか雲行き悪いから、折りたたみ持ってきたの。外出たらいい風吹いてたからさ、せっかくだから風に乗って行こうと思って。そしたら流される流される。こんな傘じゃ、だめね。いやーもうたいへんだったわ」
 そう言って悪びれずに笑うから思わずこちらも笑みがこぼれてしまったけど、すぐに頬を引き締め口をとがらせて、「だったらふつうに歩いてくればいいじゃない」と返した。
「そーなんだけど、ま、せっかくだから、ね」
 マキはくるりと傘を回した。
「若いねえ、マキは」
 しみじみと思ったから、しみじみと言った。年は変わらないのに、マキにはそういう無邪気なところがあって、ときどきうらやましくなることがある。そういえば私はもうずっと、雨のときにしか傘を広げていない。
「じゃあ、どこ行こうか」
 マキは大きく目を開いて、私の顔を覗き込んだ。
「チロリ屋行こっ。ほしい帽子あるの。えっちゃんが言ってたんだけど、すごいのよ、それかぶって体重計乗ると、二キロくらい軽くなるんだってさ」
 と、楽しそうに目を輝かせる。
「えー、それってずるいよ」
「ん、まあ、いいのいいの。ほら、たあ子にも貸したげるからさ、ね。とりあえず行こう、さあ行こう」
 マキは宙に手をかざして、それから傘を前に傾け、つま先立ちをした。二、三歩流されるように歩いて、「よっ」という小さな声とともに地面から足を離した。小さな傘で頼りなく漂うその姿を見ていたら、なんだか楽しくなってきた。
 ゆっくり息を吸って、静かに吐いて、すっと、体の力を抜いた。風が吹いて、流されそうになる傘を、体に引き寄せた。傘の動きに身をゆだねて、体を伸ばした。かかとが浮き、つま先が地面を滑り、そして、離れた。ふらふらと揺れる足が落ち着かなくて、体を丸めるようにして傘にしがみついた。
 マキがこちらを向いて「おーいいねでっかい傘は」と言った。私はちょっと照れくさくなって、なにも言わずにただ笑った。風が吹いて、体がふわっと浮き上がった。



Copyright © 2002 川島ケイ / 編集: 短編