第41期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 深海魚 齊藤壮馬 1000
2 (削除されました) - 952
3 風のイタズラ 御風路響 725
4 朝野十字 1000
5 所有者 笹帽子 1000
6 白い日記 市井泰酔 882
7 ポケット 真央りりこ 943
8 絵にかいたような テフ 977
9 戦場 朝霧 彰吾 725
10 暖かい部屋 sagitta 872
11 なまはげ わら 1000
12 (削除されました) - 866
13 真夜中のざわめき 時雨 954
14 回転鏡 神藤ナオ 980
15 蝉の空 狩馬映太郎 999
16 糸蒟蒻とNHK とむOK 1000
17 逆行 しなの 965
18 路情 865
19 はじまりはいつも鍋 負け犬 959
20 祖先は朝に招く 紺詠志 1000
21 あの男は死んだが、我々は生きている(私も生きている)。驚異的である。 るるるぶ☆どっぐちゃん 1000
22 どうかしていたのであった qbc 970
23 死は見えずひたひたと 瀬川潮 1000
24 ガラスのうた 宇加谷 研一郎 1000
25 原っぱの決斗 キツネ対メカダヌキ ヒモロギ 1000
26 葦の夜 エルグザード 954
27 カメレオン 壱倉 1000
28 灯台 三浦 986
29 せむしの理髪師 曠野反次郎 800
30 ユグドラシルの錠 八海宵一 1000

#1

深海魚

 仄暗いこの水底には、陽の光など到底届かない。朧気な視界に映るのは、濁りきったビー玉の瞳を持つ魚たちと、どこまであるかしれない深淵のみだ。
 私がここに存在するようになってから、もうどれくらいの時間が経過したのだろうか。幾度となくそれを考えてみるが、それを正確に知る術はない。結局はいつも思考を中断し、闇にたゆたうのだ。
 ごくたまに遭遇する深海魚たちは、実に珍妙な容姿をしていた。それは私が生活していた環境では見ることのなかったものだった。彼らは生気のない眼でこちらをちらりと見ると、大抵はつまらなさそうにどこかへ消えていったが、何回かに一回は声をかけてくることがあった。話の内容は他愛のないもので、よく覚えてはいない。ただ私は、話している間、少しだけ孤独から解放されるのだった。
 不意に、私の視界が少しだけ明るくなった。眼帯の下にある空の眼窩が疼く。私の周辺を照らし出したのは、名前も知らぬ魚だった。魚の頭頂部からは管状のものが伸びていて、そこがぼんやりと淡く光っている。
 照らされた先には、きらびやかな宝石や金銀があった。それらが嬉しそうに輝くのはこの魚が通りかかったときだけで、ほとんどは本来の使用用途とは違って静かに眠っているだけだ。
 宝石たちは忘れられたこの場所で、せめて自らの誇りを忘れまいと必死で輝いているのだ。自分自身が己の存在を忘れないように。
 やがて魚は去り、宝石たちはいつ終わるとも知れぬ永い眠りについた。私はただゆらゆらと浮いているだけだった。
 しかし、私は分かっている。もう限界がきたのだということを。既に生への執着はない。いや、そもそも私はもう死んでいるはずなのだ。とっくに消滅している存在なのだ。だが私はここにいる。それはやはり、私が背負った業の重さ故なのだろう。償えるほど軽いものではない。
 何も嵌っていない眼窩から、何かがこぼれ落ちたような気がした。すぐに闇に飲まれていったそれが何なのかは、おそらく分かることはないだろう。
 体が軋む。聞いたことのない音がして、私は崩れ落ちた。バラバラになってしばらく水中を漂った。私は砂に混ざって、大きな海の一部となった。その目を通して、私は一筋の光を見た。
 今度生まれてくる命が、この暗い水底で嘆かないように。そう願いながら、私はありもしない瞼をゆっくりと閉じた。艶やかな過去の映像が、一瞬だけ浮かぶ。
 そして何も見えなくなった。


#2

(削除されました)

(この作品は削除されました)


#3

風のイタズラ

 風のように舞い、風のように敵を斬る―
何度聞いた台詞だろう。とてもではないがベタ過ぎる。だが、彼にはその言葉は合い過ぎている。怖いほどに。

 『全ては復讐の為』
彼の合言葉だった。家族を奪われた、名前も知らぬ少女の為に、彼はそんな言葉を発した。


黒い帽子の下の、白銀の髪

それは彼の代名詞になった。
 
 真冬の深夜、コンクリートの巨人、そんな言葉がつい出てしまうくらいの威圧感がある、ビルの前。彼はその格好で其処に居た。
 自動ドアは彼を導くように開き、そして其処を潜ると直に、赤いランプが周囲に毒を吐くように回り、侵入者を知らせる機械音が黒板を引っ掻いた時よりも嫌悪感を呼ぶ音で響く。その10秒後、侵入者を葬るべく、機関銃を武装した、鼠を取ろうとする猫のような目付きの社員が彼の周りを囲む。
 四面楚歌。確かにそうだった。しかし彼は腰に備えていた細剣を引き抜き、そして『風のように―』人体で出来た壁に衝突していく。
 彼に金属の殺人蝿は当たる筈もなかった。風は銃弾を引き付けすらしない。


その10分後、そのビルには銃弾の跡と社員の亡骸しか残っていなかった。地獄絵図、この言葉が相似する景色が、ビルを覆っていた。

 
今、彼は『殺人鬼』として追われている。しかし、一般人の間では『英雄』である。名も知らぬ少女の為に自分を犠牲にした、英雄だと。



 彼は今、「そんな過去もあったな」と、本当に懐かしい顔をする。
私はとっさに言う。「過去の記憶は自分が消えるまで残るんですよ。」


 彼の白銀の髪が赤に支配されていくのを、彼の過去が昇天していくのを私は今、無念ながらも眺めている。彼の思い、彼の力は、私の銀色の金属発射機によって、林檎を潰すよりも容易く、本物の風と同化していった。


#4

 熱海市の中心、熱海駅前で目にするのは、鄙びた商店街と、やたら急な坂道と、静かに歩くお年寄りたちだ。ここは年々人口が減り続けているという。僕は東京から車を転がし熱海駅前を通り過ぎ海岸沿いの国道を進んだ。狭い道路がさらに狭いトンネルによって遮られる。ぱっと視界が開けて左手に青い海が広がった。
 僕はここへある姉妹に会うためにきた。二人は対照的で、三十路間近の姉の美潮はぽっちゃりして小柄、妹の里慈はすらり長身の美人だった。
「日本国憲法の理念は、人類の長い哲学史の美しい結晶であり、現代思想の本流です。何一つ手を加える必要のないものです」
 海岸をそぞろ歩きつつ静かに語る里慈は例えようもなく美しかった。今しがた浜辺に降り立ったアフロディーテのようだった。
「現実と折り合うべきところもあるだろう」
 里慈は立ち止まり、僕を睨みつけた。
「あなたは変わったわね」
 僕もまたこの辺りの生まれで、ここを地盤とする、ある保守系代議士の秘書を勤めている。数年前の与党大勝以来、憲法改正の機運が盛り上がっていた。一方で護憲の根強い動きもあった。里慈はそのような政治活動をしていて、その美貌もあって、地元では注目されていた。もしも彼女が選挙に出馬するようなことになれば、間違いなく僕の主人は苦戦するだろう。この大事な時期に、それはどうしても避けなければならない。
 姉妹の死んだ父は広い屋敷と資産を残していた。里慈には知性と美貌だけでなく、豊富な政治資金もあるわけだ。僕は里慈の留守の間にその家を訪れた。出迎えてくれた美潮は昔と変わらず優しかった。
「東京裁判はまったくの茶番なんだよ。そして今の憲法は占領軍に押し付けられたものだ」
「そう……私、難しいことはわかりません」
 僕は夜になっても帰らず、餅のように白くて丸い美潮を舌先で転がした。美潮は時々苦痛であるかのような声を上げた。
「僕たち、一緒に暮らそう」
「妹に相談してみないと……」
 僕は東京に仕事があり、一週間後に戻るのでそのとき返事をしてくれと頼んだ。
 一週間後、再び姉妹の家を訪れると、美潮はいなかった。
「姉は引越しました。遠いところで司書の求人があって採用されたんです。あなたの話は聞きました。なるほど、この家も財産も、姉の名義ですものねえ。姉は心の優しい人です。それに付け入ろうとしたあなたを許しません」
 僕は黙って立ち去った。――美潮、君を本当に愛していたのに。


#5

所有者

 僕は風呂から上がると、上半身裸のまま、冷蔵庫で冷やしておいた缶ビールを飲みだした。缶ビールなんてものは僕にとっては冷たければそれでいい。その代わり僕は野菜についてはこだわるほうで、そのときかじっていたキュウリも、信頼している産地直送だった。有機栽培や無農薬だからというより、味がいいからだ。本当に新鮮な生野菜というのは、冷たいビールによくあう。

 この部屋も、僕なりにこだわっている。小さなマンションの一部屋だが、広すぎず狭すぎない。隣人たちは親切ではないが、静かな人たちだ。雑然と散らばった本や服は、片付いているとはとてもいえないが、僕は特に気にしていない。その代わり、物が散らばっていようとその上や下にほこりをたまらせることはない。整理されていなくても、清潔なのだ。

 三口飲んで二口かじったところで、ノックの音がした。

 玄関の扉を開けると目をぎょろつかせた小柄な男がいて、平然と部屋に入ってきた。
「なんだい、君は」と僕は言った。すると男は
「ここは私の部屋だ。入って何が悪い」と言って、冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出し、ごくごく飲み始めた。
「お前は私の部屋を勝手にのっとった。私が山に出ている間に」とさらに男は言って、冷蔵庫からキュウリを取り出して、パキッと、音を立ててかじった。
「お前は私が朝出かけて行った後、この部屋に入り込んで、勝手に自分の家にしてしまった。それにしてもずいぶん散らかしてくれたな」

 そう言って男は床の文庫本を一冊拾い上げ、「ほら、この本。作者は宮田修一だ。さあ題名は何だ。」と早口に言って、またごくり、パキッとやった。この男は何を言っているんだ。酔ってでもいるのか。
「僕だって全部の本を覚えているわけじゃない。お前は何だ。早く出てってくれ」と僕は、幾分弱々しい声で言った。

 それでも男は出て行く気配を見せないので、僕はさすがに腹が立ってきた。
「出て行かないなら警察を呼ぶ」と僕は声の震えをはっきりと感じながら言った。
「警察?どうやって呼ぶつもりだ」ごくり、パキッ。
「こんな山奥の小屋に、電話線を引いてくれるほどNTTは暇じゃない。携帯電話も圏外だ。山を降りて一番近い駐在所までは2時間かかる。ああ、この家は不便なんだよ」
 ごくり、パキッ。
 ごくり、パキッ。
「さあ、早く出て行け。ここは私の家なんだ」
 僕はもう、それに従っていた。さっきのビールみたいに冷たい森が広がっていた。


#6

白い日記

目が覚めると何もかもが真っ白だった。

天井。
壁。
ベッド。
床。
服。
扉。

自分の記憶。

名前も。
故郷も。
ここがどこなのかも。
何も。
何もわからない。

パニックになりそうになった瞬間扉が開いた。

看護婦だ。

看護婦は驚いた顔をして
「人を呼んできます」
と言い出て行った。


「あなたは、事故に遭いました」
記憶が無い旨を伝えると、看護婦の連れてきた医者は言った。
「そしておそらく事故のショックで記憶を失っている」

記憶を無くした。
ここには白いものしか無いのに。
私にも何も無い。
真っ白だ。
嫌だ。
怖い。
嫌だ。
嫌だ。

「泣かないで下さい」
いつの間にか泣いていた。喉が痛い。大声で泣いていたようだ。
腕も痛い。看護婦と医者が腕を押さえつけていた。暴れていたようだ。

「何も無い。みんな真っ白」

今度ははっきり自分の意志で声を出した。
絶望という単語を思い出した。

「そうかもしれません。でもこれを見て下さい」

医者の指差した所は赤かった。ベッドの一部が赤い。

「あなたが元気に暴れくれたおかげで、指を切ってしまった」

医者の血だ。爪の先ほどの赤。
白いベッドに映えて鮮やかだった。

この人は白くない。
この人は居る。
私も居る。私にも赤い血が流れている。

「ずいぶん長い間寝ていたけど、これだけ元気なら大丈夫だ。すぐに記憶も戻るでしょう」

看護婦が持っていたノートを差し出す。

「日記を書きましょう。今日から」
看護婦が笑顔で言う。

今日から、日記を書く。
看護婦がくれたボールペンで白い部分を埋める。

今は何もないがこれからがある。

窓の外は真っ青だった。


●12月24日 晴れ

明日はクリスマスだ。
これから毎日日記を書く。

明日ツリーを持ってきてもらおう。
来年、この日を思い出す為に。


●12月25日 晴れ

今日はクリスマスだったらしい。
医者の先生と看護婦さんとお祝いをした。
これから毎日日記を書く。

後でツリーを持ってきてもらえるか頼んでみよう。
来年、この日を思い出す為に。


●12月26日 晴れ

昨日はクリスマスだったらしい。
祝えなくて残念だ。
これから毎日日記を書く。

少し遅いけど、ツリーを持ってきてもらえるか頼んでみよう。
来年、この日を思い出す為に。


#7

ポケット

 あたしのぽっけのなかを見せてあげるわね。いい、ちゃんと息をして、足は伸ばしてくつろいで。

 これはね、幼稚園のときに壊したブランコの鎖。もう切れそうだったのよ。それで使用禁止の紙が貼ってあったのを、こっそりほどいて乗ったのね。左に傾いてブランコは揺れたわ。左に少しずつ自分が流れていくような気がした、って、そのときはね思わないわよ、あんまり小さかったから、ごっそり流れちゃったのかもしれない。そのときにね、あたしなんてちっぽけな女の子のからだで、もう流れちゃってたかもしれない。とにかく気持ちよかったの。飛ぶのってあんな感じなのかな。でも、そう長くは飛べなかった。すぐに地面とご対面したわ。痛っと思った時には左手から血が流れてた。そっとひらくと、切れた鎖を握っていた。錆びなんだか自分の血なんだか、黒くて赤いもので、今思えばさ、あれは生きている色なんだと思うわけ。生きてかなきゃならない色。そういうものを人に見せちゃいけない気がして、砂場の横の水道で洗った。手の皮が剥がれそうなくらいに何かを洗ったのは、はじめてだった。それで、飛ぶことはあきらめたの。正確に言えばあきらめたのではなくて、あたしはぽっけのなかで今も飛んでるんだけど。ごめんごめん。ぽっけの中身話してたんだったわね。くだらないものよ。くだらないもののために時間はあるのよ、知ってる? 石、でしょ、押し花でしょ、鳥の羽。それからオルゴールの鍵。これはね、どこに行ったかわからないのオルゴールの鍵。鍵だけ持っててもって思うでしょ。でもね、どこかで蓋が開いて鳴ってるはずなの。鍵を持っていれば自然と足が向かうのじゃないかしら。ふふ。それにしても、やっぱりくだらないことだわね。あと、はじめて作ったペーパーナイフ。これ、ぽっけに入れてて自分の横腹切ったことあるのよ。ちょっと切ってみる? 手、貸しなさいよ。ほら、十年前のペーパーナイフで切ったって、意味なんてないんだから。あら、意気地なしね。あとは、ぶたの指人形とママの口紅。そうなのよ、あたしったら大好きなママをぽっけに入れるの忘れてて。ママはあたしの自慢だった。妖しい唇がとても素敵で。ああ、だいぶ入ったわね。なかの居心地はどう?あなたを入れると何が残るのかしら。楽しみだわ。


#8

絵にかいたような

 昔むかしあるところに、まるで絵にかいたような、それは幸福な一家が住んでおりました。

 お父さんは絵にかいたようなりっぱな口ひげとお腹の持ち主で、お母さんは絵にかいたようにやさしくきれいで、つやつやとしたほっぺをした絵にかいたようにかわいらしい娘が一人おりました。絵にかいたような庭には絵にかいたような鳥の巣をつけた立派な木が生えており、芝は絵にかいたように青々として絵にかいたような犬が元気にはねまわっておりました。

 ある朝のことです。絵にかいたような家族が絵にかいたようななごやかな朝食をとっていると、パンにつけるバターがどこにもありませんでした。バターがないとせっかくの朝ごはんがだいなしです。しかし絵にかいたようなお父さんは絵にかいたように悠然と立ち上がり、大きな声で落ち着きはらってどなりました。

「バターがないじゃないか!!」

 すると画家がちいさなテーブルの上に、白い陶器のつぼに入った新鮮なバターを描き足しました。

 そして一家はせっせとパンにバターをつけて食べに食べ、絵にかいたような楽しい朝食になりました。しばらくすると「満腹だ!!」とお父さんがでっぷりとしたおなかをさすってもう一度叫びました。絵にかいたような犬も、わんと鳴きました。

 このようにして絵にかいたような家族が絵にかいたように仲良く暮らしておりますと、ある日、家のどこにも娘の姿が見あたりませんでした。都会からやって来た絵にかいたようなちゃらちゃらした若者と、絵にかいたように駆け落ちをしたのです。

 娘のいない家の中は絵にかいたようにさびしく、お母さんは絵にかいたように青ざめておろおろと歩きまわり、犬は絵にかいたように所在なげにくうんと鼻を鳴らしました。しかしお父さんは落ち着きはらってしっかりと足をふみしめると、絵にかいたように威厳たっぷりにどなりました。

「娘がおらんじゃないか!!」

 すると画家が玄関わきのマットの上に、新しい娘を描き足しました。

 娘はぴょこんととびあがって両親に駆け寄ると、二人の首にいきおいよく両腕を投げかけて、両方の頬に音高くキスをしました。お父さんとお母さんは喜びの声をあげ、新しい娘を抱きしめキスをしかえしました。犬は嬉しそうに鳴きながらそのまわりをぐるぐると走りまわりました。

 そうしていつまでも、絵にかいたようにしあわせに、暮らしましたとさ。


#9

戦場

 確かに、途中まではうまくいっていた。指令通り作戦をこなしていたと断言できるのに……この惨状はなんなのよ!
 世界は地獄の業火に包まれていた。そして私は無力だった。
 目の前の炎の海は勢力を拡大し、熱気と肉の焼ける臭いはこちらにまで伝わる。
 とっさに顔を覆い鼻をつまみ……しかしそんなことをしてもなにも変わらない。現実逃避にさえならないのである。
「こんな、こんな……」
 灼熱の赤が膨れ上がる。
 どうやら、油にも火が移ったようだ。
 いよいよ爆発的に炎は広がり、緑は燃える端から黒く染まりゆく。事態の収集は、不可能。導き出される結論は、唯一。全てを放棄することしか……
「……こんなこと、私は認めないわよ!」
 心は抗ってみるも、その意思を現実に変える手段はない。それどころかこのまま踏みとどまれば、私まで炎の舌に巻かれてしまうだろう。それだけは、避けねばならなかった。
 役に立たなかった作戦指令書を破り捨て、私は叫ぶ、捨て台詞を。魂に誓う、復讐を。
「次こそは、必ず……」






「で、この悲惨な光景をどう申し開きするのかな? 我が妹よ」
 手には紙屑となった作戦指令書──もとい“料理本”を抱え、私の兄は笑みを浮かべる。
 背後の台所は大洪水、申し訳なさそうに食卓に並んだ肉と野菜も真っ黒くろすけ。いい意味でないのは、確実。
 顔を俯かせて、上目遣いに兄を見上げた。
「その……たまにはお兄ちゃんの代わりにご飯を作ってあげようと思って……」
 沈黙を挟み、付け加えてみる。
「……ちょびっと失敗しちゃった、てへ」
 笑ってごまかすしかなかった。
「てへ、じゃないだろう」
 兄の笑みが消えると同時、とっさに逃げ出そうとするが一瞬遅い。
「あてっ!」
 料理本にはたかれ、痛む頭を私は抱えた。


#10

暖かい部屋

 身を切る寒さは、自分が生きているということを思い出させてくれるから好き、と彼女が言ったのは、街がクリスマス色に染まった、去年の十二月のある日のことだった。あの時僕は、何言ってるんだよ、寒くなくったってちゃんと生きているって感じられるだろ、と言って笑い飛ばしたけれど、今なら彼女の気持ちが良くわかる。

 僕は、暖かい部屋に座っている。
 部屋の中の暖かさは、生きている自覚を僕から奪っていく。優しいようでいて本当は意地悪なその温もりは、僕の存在を周りの空気の中に溶かしていって、個と全との境界を曖昧にしていく。
 ゆらゆらと頼りなく揺らいでいく僕の存在が、部屋の中でただなんとなく流れているテレビの画面を、やはりなんとなく眺める。画面の中で映し出されているのは、悲惨な交通事故のニュース。またどこかで誰かが無残に死んでいったということを、淡々と伝えている。テレビの中で亡くなった少年の親が、声を上げて泣いている。少年の、まだ幼い顔を写した写真がテレビに大写しになった。
 僕はそれを見て思う。この広い世界の中で、彼は死んでいて、僕は生きている。彼にも、人生があったはずだ。普通の日常や普通の生活があって、明日は何をしようとか、どんな服を着ようとか、今日は楽しみにしていたテレビ番組の日だ、とか、そういうのがあったはずだ。それが、もう永遠に失われてしまった。こうして僕が部屋の中で、ただ悶々と、時間を浪費しているというのに、少年にはもはやたったの一秒だって、時間は残されていない。彼は死んでいて、僕は生きている。これは厳然と存在する事実で、変わりようがない。
 もっと生きていてほしかったと、テレビ画面の中で少年の親が呟く。痛ましい事故でした、とニュースキャスターが締めくくる。ありふれた事故。一週間後には、もう誰もこの事故のことを口にしないだろう。彼の人生に触れた人たち以外は。

 相変わらず僕は、暖かい部屋に座っている。
 意地悪な暖かさは、僕の存在を揺らがせる。時間は、止まることなく流れていく。
 それでも僕は生きている。
 それでも僕は、生きているんだ。


#11

なまはげ

 父さんを死なせたのは僕だ。

 ナマハゲは嫌いだった。正月過ぎた頃家に来て暴れ、その上僕のお年玉を取り上げるのだ。それなのに母さんは酒やご馳走を奴に振る舞うのだ。なんて厚かましい奴だろうと思った。
 岡山から来たスグルはそんなものくだらないと言った。所詮よそ者にはわかりっこないのだ。でもスグルもくだらないことを言った。だけど僕はスグルの言う通り、おやつの蕨餅を食べずに庭の隅に置いて、祈ったのだ。

 翌朝、ナマハゲの死体が見つかった。刃物で腹を切られていた。足には何か獣に噛まれた痕があって、面は散々に掻きむしられて塗料が禿げており、現場は鳥の羽で散らかっていた。もっと細かく聞いたが、まだ7歳だったし覚えていない。
 町の人は口々に父さんは素晴らしいナマハゲだったと言った。郷土の伝統を守るため、子供の健全な成長のため、かなり熱心にナマハゲをやってたそうだ。殺された日も門踏みの練習をしていたらしい。それに僕のお年玉は僕名義の口座に貯金してあった。中学生になったら渡すつもりだったという。僕は父さんみたいなナマハゲになろうと思った。それが僕の唯一の罪滅ぼしに思えた。

 少し早く来すぎた。他の人を待たねば。やはり自分の家だと気合いが入ってしまう。僕も家庭を持ち、上の子は7歳になる。
 と、左足に鋭い痛みを感じ、僕は転倒した。面のせいで見づらいが、犬が噛みついている。追い払おうともがくが、衣装のせいで動きづらい。ふと視界に、見慣れぬ和装の男が近づいて来るのが見えた。派手な羽織を着て、長い髪を後ろで束ね、鉢巻をしている。若く精悍な顔立ちで、コンビニで売っているようなパックのみたらし団子を頬張っていた。町内会で呼んだ役者だろうか。
 「ちっと、助けてけろ!」
 僕は叫んだが、男は黙って僕を見下ろしている。突然、視界を何かが塞ぎ、面の中にガリガリと音が響いた。キャッっと短い叫びを上げてそれは男の肩に乗った。猿だ。
 僕は、悟った。
 「この家ん子に団子もろーたよ。ほんまは吉備団子がええけど、子供が困っとるんは見過ごせん。」
 男はゆっくり僕に近づきながら刀を抜いた。僕は死にもの狂いで犬を蹴飛ばし、立ち上がろうとした。だが上空から鳥が、雉が僕の顔に体当たりして、僕はまた倒れた。
 「わりー鬼め、覚悟!」
 刀を振り上げた男は、無垢な瞳に正義の炎をともしていた。息子にも、いつまでもこんな瞳をしていてほしいと思った。


#12

(削除されました)

(この作品は削除されました)


#13

真夜中のざわめき

・・カリッカリリッ・・・カリッコツン・・・ピシッ・・・
ふと目が覚める。枕元の携帯を取る。目を刺すような光に思わず目を細めながら、時刻を見る。
―1:48―
変な時間に目が覚めたな。携帯を元の場所に戻そうと布団から出した手が、たちまち冷気によって温度を奪われる。昼間とは正反対の時間。総ての物が息を潜め、やがて訪れる朝を待っている完全なる『静』の空間。
眠りに落ちそうになる脳とは反対に耳が音を捉える。何の音だろう?
カリッカリリッカリッコツン
耳を欹てると音の正体が掴めた。愛猫が食事をしている。フードに夢中になる余り、鼻先で皿を押してしまい壁に当たるコツン!という音まで聞こえる。起きていれば耳では捉えない音まで、明確に捉える。不思議なもので、音から日常的に視覚で捉える姿を容易に思い浮かべる事ができる。まもなくウトウトしかけた瞬間。
ピシッ!
天井の方から鋭い音がする。意識が覚醒し、暗闇の中を見つめる。耳ではなく目で音の正体を捉えようとする。
ピシッ
先ほどより幾分、柔らかな音がする。
あぁ何だ。家鳴りか。気温・室温の変化で柱や天井の木材が、ほんの僅かではあるが伸縮するのだという。
隣では4歳になる娘が穏やかな寝息を立てている。
スー ピスー スー ピスー
どうやら鼻が詰り気味のようだ。
ぴちゃぴちゃぴちゃ・・・
食事を終えた愛猫が軽やかなリズムを刻みながら、喉を潤している。
真夜中は意外と音に溢れている。耳を澄ませば上空を渡る風の音も聞こえる。娘の布団を掛けなおそうと上体を起こす。おかしい。はっきりと見えている訳ではないが、妻の寝息が聞こえない。気配そのもがない。目をこらしてその空間を見る。トイレにでも起きたのか?寒い中、布団から出たくない思いから耳で、妻の姿を捉えようとする。
「うん。大丈夫。旦那は寝てる。うん。」
愛猫の為に細く開けたドアの隙間から、妻の押し殺した声が聞こえる。どうやら電話をしているらしい。こんな時間に?更に耳を澄ませ、妻の表情や電話の相手を捉えようとする。
「うん。私も楽しみにしてる。・・・うん・・・大好きよ。じゃぁ・・・おやすみ」
流石に電話の相手までは判らなかったが・・・まさか!!妻が浮気?妻が戻ってくる気配に慌てて布団に潜り込む。もう何も聞こえなかった。早鐘のように脈打つ心臓の音以外は・・・


#14

回転鏡

 結局の所 彼はツマビラカな自分を発見できなかったので失意のあまり自分の殻に閉じこもってしまったのです。今では彼は日がな一日飽くことなく 部屋の隅の三面鏡を覗きながら、鏡の中の何十人もにその日の妄想を語ってきかせます。時に熱狂して立ち上がり拳を振り上げ 時に肩を落としうつむきながら涙を流し、けれども一秒たりとも口を休めることがありません。
 何時間も何時間もしゃべり続ける内、彼はようやく思い出したように 一人の少女の話を始めます。一言一句違わず、テープレコーダーを再生するように、いつも決まって同じ描写で同じ少女を語ります。


 嗚呼 あの少女の可憐さに比べれば花や太陽など値打ちのない石ころも同じだ。木漏れ日が柔らかなスポットライトとなってそよ風になびく少女の髪を照らす、その胸のときめくような輝きといったら! 小さな足で池のそばを駆ける、あのウサギが跳ね踊るような可愛らしいさまといったら! もぎたての水蜜桃のような瑞々しいうなじといったら! 千や万の言葉を並べても、彼女の美の恐ろしいきらめきを明らかにすることは出来ない。
 意気地のない僕は池の木陰から少女をジッと眺めていた。毎日毎日、ヒッソリと彼女を見つめていた。僕は是非とも彼女と話をしたかったのだけれども、彼女は僕の話なぞ聞きやしないのだ。聞くことなど出来やしないのだ。

 嗚呼 アナタは今 ワタシの話をしていらっしゃるのね。アナタのお話は楽しいのかしら。悲しいのかしら。けれどもワタシはアナタの話を聞くことが出来ませんの。一度でいいからお聞きしたい。両の耳でしっかりと、一度でいいからお聞きしたい。アナタのお話はさぞ楽しいのでしょうね。

 ああ なんてこと。君が僕の話を聞けないというのなら、僕に僕の話をするというのはドウだろうか。ネエ、アナタは僕の中にいるのでしょう。アナタの生肉はとっくにワタシが飲み込んでしまっているのだもの だから ネエ アナタは僕の中にいるのだ ソレならばこの鏡の中に コレ以上ないほどツマビラカに細分されたワタシの姿をみつけられる ハズ デス。


 ヤア それで 彼は完全に発狂してしまったのですね。そう、発狂してしまったのです。アラアラ何て可哀想なお人なのでしょう ワタシ涙が止まらない。けれども僕も似たようなものです。鏡の中をどれほど捜せど ツマビラカな自分が見つからナイ。


#15

蝉の空

 除夜の鐘が聞こえてきた。
 普段はほとんど聞こえないのに、この時ばかりは街中に響き渡る鐘の音。その控えめで不思議な音色は、人々に大きな節目をそっと知らせる。それが今年は甘い香りを漂わせた。
 ジーマは年を越せなかった。

 香りを追うように、母が階段を上がってきた。
「線香ぐらいあげて下さいな」
 母は扉に語りかけた。ジーマが倒れ私が閉ざして以来、母は扉を開けなくなった。
「お守り効かなかったわね。ここに置いとくから」
 お守りはジーマがくれたものだった。

 小学生の頃、ジーマはよく散歩に連れて行ってくれた。
 夏休みは毎朝叩き起こされ、カブトムシを採ってやると言っては薄暗いうちから近所の寺へ向かった。だが何度行ってもカブトムシは手に入らなかった。帰りに手にしていたのは、いつも蝉の抜け殻だった。
 中学に入り私の好奇心が色づくと、ジーマとの会話が徐々に鬱陶しくなっていった。ある日私は手の届きそうもない抜け殻を取るようジーマにせがんだ。ジーマはその晩倒れ、翌日から散歩に行かなくなった。
 子供ながらもばつが悪く寝たきりの八畳間に入れなくなった。麻痺という言葉を確かめるのも怖かった。
 卒業証書が届いた日、私は初めて部屋に入りジーマに嘘をついた。

「蝉の命は短い。たった七日の儚さを嘆いて泣きまくるとも言われているが、土の中でだって七年も生きているしその七年を無駄に過ごすわけではない。閉ざされた中で人知れず何かを準備するんだ。本人さえそれが何かも知らずにな」
 その日どうしてそんな話をされたのか判らなかった。だがそれが最後の言葉だった。ジーマがくれた蝉の抜け殻はその日枕元に置いてきた。
「人の一生なんてもしかしたら蝉の七年かも知れん。その時間が本人にとってどれだけの長さかなんてそんなことは誰にも判らんよ」
 祖父の言葉を思い出しながら私は耳を澄した。こんな真冬に蝉の声など聞こえない。
 窓を開け埃だらけの雨戸を掴んだ。長年の埃と湿気で雨戸は動かない。力ずくで開けると雨戸はがたんと外れがらがらと音を立てて庭に落ちていった。冬の空に鳴いているのは、あの寺の鐘だけだった。

 音に驚いた母が階段を駆け上がり部屋の扉を開けた。その瞬間冷たい風にのった鐘の音が一気に部屋を通り抜ける。蝉のお守りを手に母は泣き腫らした目で笑っている。
「ジーマに……」
「いい加減ジーマはよせよ」
「…でもね。とりあえずはあけましておめでとう」


#16

糸蒟蒻とNHK

「ヤスオ、肉がない。お前全部食ったな」
「何? ふざけんなヨシキ。…こら、箸で鍋をかきまわすな」
「俺が自慢の四十インチプラズマテレビをうっとり見てた隙に、よくも」
「どれが? 先月ゴミ捨て場から拾ってきたオンボロ十四インチじゃないか。じゅうよんインチ。それも音しか出ないし」
「NHKに受信料払ったら映るかな」
「捨てろ。手回しチャンネルのテレビなんて、家電リサイクル法も時効だろう」
「そうかなあ」
「そもそも始めっから肉なんて入ってなかったじゃないか。『材料はある、土鍋持って来い』なんて言って、お前のアパート来てみりゃ糸蒟蒻と野菜の切れっ端だけしかねえし」
「材料があるとは言ったけど、全部揃ってるとは言わなかったぞ。そこで気を利かせて持ってくるのが友達だろ?」
「どこにも気の利かせようがないだろ? どうするヨシキ。この悲哀に満ちた糸蒟蒻鍋を」
「命名、しょんぼりラーメン」
「命名しても事態はちっとも変わらないよ」
「訪問販売で糸蒟蒻なんて珍しくて、つい」
「なま物の訪問販売なんて随分放埓だなあ。普通、訪問販売って、やけに高い健康食品とか壺とか売ってるものなんじゃないの」
「その考え方もどうかと思うけど…そうそう、ラッパ吹いたりして、じいさんがふらふら自転車で。なんだか懐かしくてさあ」
「今時豆腐屋の行商か! 豆腐屋が糸蒟蒻も売るのか! それに何で豆腐を買わない! あーもうどこにツッこみゃいいんだ!」
「集金とか行商とか、最近何か気になるんだよね」
「もう気にするなよ」
「優しいなあ。もっと甘えさせてくれよ」
「気色悪い…うわ、寄るな、やめろ。すまん、俺が悪かった。ごめんなさい。あー、吸わないで〜〜」
「ヤスオも早く彼女作れよ」
「お前にだけは、絶、対、言われたくない」
「仕事もちゃんと探してさ」
「お前もな」
「あれ? 何と、こんなところにフカヒレが」
「さっきから一体誰に見栄張ってんだよ。それはお前が『味の賑わいに』って放り込んだキンピラゴボウじゃないか」
「似てないか」
「かすりもしない。もう我慢できん。俺は行くぞ」
「きれいに使ってくれよ。うちのは最新型のウォッシュレットで」
「詰まって水も流れない。肉を買いに行くんだよ」
「心の友よ。出かける前に地下のワインセラーからワインを…」
「酒も買えってか! 発泡酒で我慢しろよ。それと糸蒟蒻残とけ」
「待てないかも」
「食っちまったら俺は帰る。後はNHKの集金人と茶でも飲んでろ」


#17

逆行

 人はなぜ死後世界を知りたいと願うのか。すべてを諦念の中に解消しさっても、まだ死後の安寧を願うのか。それとも、我らの意識が必ず対象と二分されるための便法に過ぎないのか。
 今はの際で、不信心な私も死後世界に手を合わせる。私の死後世界は二つの道を持っていた。一つは、私が過去に迷い込んだそのままに、時間が逆行を続けること、もう一つは、再び時間が反転して順行すること。
 タイムスリップして、高校時代の自己と重なるなら、私は自己を失って高校時代の自己に戻ると考えた。それは、私の死に他ならなかった。しかし、考えてみれば、その死とはわたし自身への投入であって、そのことが自身を失うことになるのだろうか。
 もし、これが時間の逆行によって生じることではなくて、未来の自己に投入されるのならどうであろうか。その場合も私は自身を失うことになるのだろうか。もしそうなら、私は不断に死に続けなければ、自己を保ち得ないことになる。それならば、死とは自己実現そのものではなかろうか。
 すると……と私は思った。私は過去の自己に投入され続けたとしても、はやり自己を失うことにはならないのではないか。これを自己喪失と呼ぶのだろうか。いやむしろ、自己純化と言う方が正しいように思われた。
 私は、『意識に時間は無い』と言う言葉の意味をはっきり理解した。
 私はその瞬間、高校生の自己に投入され、その先へ、つまり更なる過去へ時空が展開したのを感じた。わたしは自身の時間の方向が逆行であると悟った。
 私の意識は時間を超越していた。悪夢の中で、「覚めよ!」と叫ぶ自己のように、私は過去世界の自己の中にいた。私は確かに時間の順方向の主体ではなかった。しかし、私は逆意志する自己だった。
 私が何かを欲する、あるいは何かを意志するの逆とは、欲する以前を欲することであり、意志する以前を意志することだった。私は逆行する時間を生きる自己となって、時間の波をさかのぼって行った。
 そこは、世界のすべてが逆様になっていて、逆様なりに意味が通る、逆の因果律が支配する、完全な世界だった。
 私は未来の記憶を持っていた。私は未来の(過去の?)自己の何たるかを知っていた。私は時間が逆転していることも、私が谷底に転落したことが時空転換のきっかけであることも、知っていたのである。……夢なら覚めよ!


#18

路情

路情


 置き去りにして走り出す。彼女とはこれきりだろう。これきりにしよう。俺は結局停まれない。鉄の棺で走り続けるるしかない。彼女とは住む世界が違う。
 携帯が鳴った。アクセルを踏む。加速。電波の途切れる速度まで加速加速。
 パッシングでコンビニ車を呼ぶ。コーヒーと、年々まずくなるおにぎり。フィルムに書かれた文字はニイガタ。嘘八百もいいところ、新潟は海の底だ。やっぱり米だけは日本人が作らないと駄目だろう。
 農地でいい、日本人が土地を持つのを侵略と言わない国はないか。あの外交を取り返す機会はないか。携帯が歌い始める。手探りで電源を切った。
 ガムもいかがですか。ありがとう、でもいらない。サイドランプで言い捨てて加速する。給油車を追い抜く。路面、カーブ、先行併走対向車。加速。透明な瞬間の連続。メンテ車、エステ車、業務車両を次々に追い抜いた。
 眠らずに走り続けて国境を越える。
 子供たちのレースに混じって惨敗。うっかりヤクザの装甲車を追い抜いて半日追いかけ回され……山道に潜り込めたのは幸運だった。
 たまに友達と併走した。
 無茶してるらしいね。まあね。例の彼女、どうしたの? 別れた。だから日本人にしとけって言ったろ? ほっといてくれ。側灯は雄弁に語る。さまよう日本人は光で会話する。
 日本は沈んだ。俺達は走り続けるしかない。
 一ヶ月ばかり過ぎた。俺を追う車の噂を聞いた。ピンクのイタリア車。自動走行せず、とんでもないスピードで走り続けているという。ヤクザだろうか? それとも、ただの路上伝説。
 追いつかれ、ルームミラーで確認するまで信じられなかった。
 彼女だ。
 必死に運転しているのは彼女だった。
 暴れるハンドルをかぶさるようにして押さえ、併走しようとしている。俺はアクセルを緩めた。追いかけてきたのか。側灯で問う。彼女は飛び切りの笑顔。たどたどしく明滅するランプ。わたし、あなた、車。言葉がつながらない。
 更に速度を落としてウィンドウを下げた。彼女もウィンドウを下げる。左ハンドルの彼女は驚くほど近い。
 風に負けない声で、叫ぶ。


#19

はじまりはいつも鍋

 濡れ布巾越しに土鍋の熱が両手に伝わってくる。
手に熱が伝わって来る速度が思いの外速い。
コタツの上の卓上コンロに土鍋を無事着地させるべく、ゆっくり急いで。
台所と居間の扉を足で開け、ただ今、鍋の入場です。

「はーい。独身鍋の入場だよー。」

 この時を待ちわびた彼女の視線は土鍋に集中。
立ち上る湯気に眼鏡を曇らせ、鍋の匂いを楽しんでいる。

「ねえ。なんでいつも独身鍋なの?」

 意味なんて無い。
僕が独り身の頃からの習慣。

 簡単ながらも奥が深いこの料理は、数少ない僕の得意料理だ。
出汁の取り方、具材を煮込む時間・タイミング、灰汁の取り方。
全てにこだわりがある。
人は僕のことを『鍋奉行』と揶揄するけれども、それらを楽しむことも鍋料理の一つのファクターだと思うんだ。

 毎年、年末になると、友人を呼んで鍋を振る舞う。
学生時代から続く数少ない友達。
 彼女と知り合ったのは、そんな忘年会の席だった。
「年末に暇そうにしていたから」
と、友人が連れてきた。
 始めは遠慮がちにしていた彼女だったけど、お酒と鍋が進むに連れて、うち解けていった。
その時、僕の鍋を誉めてくれたあの笑顔は今でも忘れていない。

 次に彼女と鍋をつついた時には、二人ッきりだった。
つき合いだして8ヶ月。
二人で鍋の中身を取り合って、つい「このままいつまでも二人で鍋を食べたりしていたいね」と、つい口からポロリと本音をこぼしてしまった。
彼女は出会った時のあの笑顔で、何も言わずに僕に口づけて来たんだ。
 後から聞いた話だと「あれはプロポーズだと思った」だそうな。
僕にはそのつもりは無かったんだけど。
彼女の中では既に最初のプロポーズと言うことになっているみたいだし、僕自身もその気持ちは間違っていないから黙ったままでいる。

 そして、今や僕と彼女は一緒に暮らしている。
普段の食事は彼女が作るけど、週に一回は僕が鍋を運ぶ。
彼女はそれを『ごちそうの日』と呼んでくれている。

『ごちそうの日』には二人でおいしい幸せに浸り「いつまでも二人で」と言い合う。
それがいつもの習慣。
 でも、今日の彼女はいつもと違う反応を見せた。

「ううん。来年からは3人かな…。」

少し照れくさそうにお腹をさすりながら彼女は、そう僕に告げた。
 僕は台所から彼女の好きなゆで卵を取ってきて鍋に入れた。
鍋の中で3つの卵が仲良く揺れた。


#20

祖先は朝に招く

 トーテムポールはアメリカ先住民のこころのよりどころだ。たましいだ。私はアメリカ先住民ではないが、だからといって、彼らの偉大な祖先の物語を刻んだ塔に、犬のしょんべんがひっかけられつつあるのを見すごすわけにはゆかない。
「ちょっと奥さん」
 私は飼い主に注意する。
「なんですか」
「これ、トーテムポールですよ」
「あら本当だ。あたし電柱だとばっかり」
「いいえ、トーテムポールです」
「でも、いつもはここ電柱なんです。ラッキーちゃんお気に入りのトイレなのに」
 そのラッキーちゃんは用をすましてスッキリして、へらへら笑っているのである。私は腹が立ってきた。
「そんな言いわけはとおりません。仮に昨日まで電柱であったとしても、いまはトーテムポールだ。どんな事情にせよ、ワン公のしょんべんなんかで、みだりにけがしていいものじゃない」
 すると彼女は顔を真っ赤にして怒鳴りだしそうだったが、やはりだれがどう見ても非はラッキーちゃんにあり、その飼い主が責任を負わねばならない状況だから、抗弁の余地はなかった。だまって犬をひきずって去ってしまった。
 ところで、たしかに、ここにトーテムポールがあるのは妙だ。アメリカ先住民とは縁もゆかりもないだろう日本の平凡な住宅地である。ここに暮らして長いが、私とて気づいたのはこの朝のことで、昨日まで電柱だった可能性は否定できない。しかし前からずっとトーテムポールだった可能性もまた否定できない。
 そもそも人は、路傍に立つ細長い物体が電柱なのかトーテムポールなのか、いちいち確認しないものである。人でさえこうであるから、犬を責めるのは少しきびしすぎるかもしれない。
 とはいえ、ここにトーテムポールがあるという事実を知ってしまった以上、話は別である。そして事実を知る私には、このポールの尊厳を守る義務があるだろう。
 で、翌朝からトーテムポールのわきに立つことにした。やがて昨日の主従がやってきた。ラッキーちゃんは一目散にトーテムポールへと駆け寄るが、私がいるのに気づいた飼い主は綱をひっぱって制止する。
 犬は首がしまっても近寄ろうとする。あまりにも必死だ。
「だめよラッキーちゃん、そこトーテムポールなんだから!」
「いや、奥さん」私は言った。「きっとこれ、トーテムポール型の電柱ですよ。遠慮なくおやんなさい」
 ラッキーちゃんは満足げに用をたした。これも祖先のおみちびきなのだろうと私は観念したのだ。


#21

あの男は死んだが、我々は生きている(私も生きている)。驚異的である。

 信号機の三色を赤、青、黄色に決めたのはバックミンスター・フラー博士であったが、それではパンクの創始者は誰だっただろうか。ラモーンズで良いのか? と男は気になりだして、本棚に向かった。
 男は一人で暮らしていた。娘が一人いるが一緒には暮らしていない。娘は片目だった。片目部隊の一員なのだった。あまねく総ての片目の人は、片目部隊に入らなければならない。数年前に世界中で身体が腐って溶けてしまう奇病が流行したあの時、娘は片目を失った。
 その娘が今日休暇で帰ってくる。夕飯を共に食べようと思い、男はキッチンに向かっていたのだが、パンクのことが気になりだしてしまった。男は本棚に向かう。
 男の家の本棚は立派なものであった。本棚に住んでいると言っても良いくらいに立派であった。三階まで吹き抜けになっていて、その壁一面にずらりと本が並んでいる。男は螺旋階段を昇る。上から手をつけるつもりだ。
「どこかな、パンクの本は。見つからないな。これか? 違うな」
 手当たり次第に本を調べていく。


「ただいま」
 娘は暮れかけた明かりの中、螺旋階段に座って本を読む父を見上げた。
「ああ。おかえり」
「最近は信号の青色が綺麗なのね。街中できらきら光ってた」
「青色発光ダイオードなんて開発したらしいからね。信号の青で金儲けを企むなんて。博士が聞いたら泣くよ」
「良いじゃない。綺麗で」
「ああ、この本も違うな。最近の本は全部こんなのなのかい? 全然駄目だね。なっちゃあいないよ。タイトルと、途中までは良いんだがなあ。オチが無いんだよ。何を言いたいのか解らないよ。途中までは良いんだがなあ」
「良いのよ。オチだとかきちんとしたお話だとか主張だとか整合性だとか、そういうものを人類は遂に諦めたのだから。そういうものを金輪際拒否することに人類は決めたのだから。それこそが人類の究極的な進化であり、リニアな思考からノンリニアな思考へ解き放たれることによって、ええと、なんだっけ。教科書読めば載ってるんだけど。とにかくそういうことよ。人類は救われたのよ」
「つまらないな」
「そんなことを言うと身体が腐るわよ」
「そうだね。まあ掛けなさい。ご飯を作ってあげよう」
 男は階段を昇り、屋上へと出る。
 屋上には小さな菜園がある。
 昨日の風で、温室がめちゃめちゃに壊れていた。
 良くあることだ。男は気にしない。きらきら光るガラスを器用に踏み分け、男は野菜を摘み始める。


#22

どうかしていたのであった

(この作品は削除されました)


#23

死は見えずひたひたと

 夜中に急に小腹が空いたので自宅を抜け出してコンビニに行った。とても寒い深夜のことだ。
 先に漫画を立ち読みしたら夢中になってしまい、気付けばついに降り出した大粒のぼたん雪で外は真っ白。急いでピザまんを買ってかじりながら家路に就いた。
 と、歩道で足跡とすれ違った。
 歩道に並ぶ街灯のちょうど中間で、振り向くとその足跡だけが白い新雪の上、さくさく、さくさくと遠ざかる。もちろんその場には誰もいない。スポットライトのような街灯の下、歩幅も小さくさくさくと足跡だけが生まれている。
 ぶるっと寒気を覚えたのでさっさと帰ろうと視線を外したとたん、どさりと音がした。
 再び振り向くと足跡の先で人が倒れた跡があった。その中心の雪は白くない。同時に別の足跡が走って逃げる。姿は見えない。俺も怖くなってその場から逃げ出した。
 翌日、クラスでは地元で発生した殺人事件の話題で持ちきりだった。
 場所は昨晩の街灯の付近で、刺されたのは女性。時間もあのころだ。
 俺は犯行を見たことになるが、実際には何も見ていない。なぜ見えなかったのか考えていると、犯人らしき男が自室で首吊り自殺しているという情報を聞いた。確かあの時、姿は見えなかったが逃げる足跡は見えた。つまり、理屈はともかく死を間際にした人が見えなかったということだろう。
 数2の授業中そんなことを考えていると、教師が七原瑞穂に黒板の問題を解くようにと名指ししていた。内気で思い込みの激しい女子だがしかし、七原はきょう姿を見てないぞ。休みじゃないか。
 じっと七原の誰も座っていない席を見ていると、返事こそ聞こえなかったが確かに席はがたがたと後ろに動き、すたすたと足音が響いた。クラスの視線が黒板まで追うと、チョークが浮いてカツカツとひとりでに方程式を書きはじめる。
 これはまずいと休憩時間、七原は目の前にいるかと他のクラスメートに間抜けなことを聞きながらも、「きょう、もしかしたら死ぬぞ。気をつけろ」と忠告しておいた。

 翌日、七原が自宅で首を吊って自殺したことを知った。
「七原相手に真っ青な顔してあんなことをいうからいけないのよ!」
 気丈な女子がそう言って俺を責め立てる。親切で忠告してやったこの俺が悪いのか? 責める言葉が重くのしかかる。
 真っ青な顔なんかしてなかった、いーえしてました、一体どんな顔だよ、こんな顔よ。目の前に手鏡が差し出された。
 俺の顔は映ってなかった。


#24

ガラスのうた

娘がガラスを割りまくっている、と夜中に警察から電話があって行ってみれば娘は私をみることもなく、冬のコンクリートのように固まって座っている。

「さっきから一言も喋りませんのや」

警部が私にそう言って、私はうなづいてみたものの私もまた何も言えない。椅子に座って娘の掌に小さな切り傷をみつけた。時間をかけてゆっくりと血が滲み出ている。

「血、でてるよ」

娘は無言のまま袖でごしごし拭き取ったものの、締めきってない蛇口と同じで傷口から血は止まらない。

警部は私の父親としての貫禄のなさに呆れているようで、私を無視して動機を訊きだそうとしている。

「また連絡しますから、今日のところはこれでいいです」

警部は私を見ることなく言って、私は娘を連れて警察を出た。そのころにはすっかり夜も明けていて、バス停で始発を待つことにした。ガラスの十字架が落ちていて、私はそれを拾いあげて陽にかざしてみる。

「あれか、やっぱりピアノか」

娘は黙っているものの否定しない。妻の夢は「娘をピアニストにする」ことで、事実娘は3歳から妻の期待に見事に応え続けた。その妻が亡くなって娘は自分が本当にピアノが好きなのか迷っている、口にしないがわかる。

バスがきて、乗り込もうとする娘の腕をとると娘は不審な顔をした。私はタクシーを呼びとめ、近くの駅に向い、そのまま特急列車に乗り込んだ。娘とは一言も口を訊かなかったが、見えない手錠がかかってるかのように私についてきて、私たちは大阪についた。随分歩いて「名曲喫茶」と看板のある店に入った。

バッハのクリスマス・オラトリオが静かに流れている店は店主一人で、珈琲を注文すると「ああ、久しぶりだね、洋子さんは元気かい」とそっけなく尋ねてきた。「亡くなったよ、それでこっちは娘のかおり」

ほどなくして音楽はモーツァルトのトルコ行進曲に変わった。「演奏はバックハウス」娘が呟く。「初めて話すけど、この店で母さんがこの曲を弾いて、それで父さんは母さんに惚れたんだ」

娘はしばらくしてから「ごめんなさい」と言った。店主が珈琲を持ってきて曲はシューベルトのピアノ即興曲に変わった。「この曲いいね」と娘が言った。

ぼんやりと聴きながら「私もガラスを割りたい」と思った。ちょうど年末のこんな日に私は荒れていて迷い込んだこの店で洋子の初めての演奏会をぶち壊したのだ。まさか娘と一緒にガラスを割り始めたなんて洋子にいえない。私はもう父親なのだ。



#25

原っぱの決斗 キツネ対メカダヌキ

 睨み合う五匹の狐と五匹の狸。空は漆黒。新月の夜。十匹の禽獣をかすかに照らすは空にきらめく北斗七星。古来より狐の守護星である。狸の守護星は特にない。
 狐勢の五傑はいずれも名の知れた古豪。対峙する狸たちは若く非力だ。しかし妖力で劣る若狸は、代わりに愛嬌という名の武器を持つ。親しんだ人間たちから提供された科学技術を頼みとし、遂に誕生、機動畜獣メカダヌキ。五対五の壮絶な化け比べに勝ち残った側が日本の野原の覇権を握る。風雲。畜生関ヶ原。

 一陣の風がススキを揺らす。先に仕掛けたのは狸勢。全身に銀色のパネルをまとった媚助狸が飛び上がる。発光したパネルから炎が噴き出し、一瞬にして火の玉へと変じる。火球は首領の小夜衣狐めがけて轟々と飛びかかるも、小夜衣の切れ長眼は火の玉を一顧だにしない。代わりに隣の一目狐が濛々とした不定形の暗黒物質に変化する。彼は宇宙に化けたのである。古来より狸が有形的・即物的なものに化けたがるのに対し、狐は無形的・観念的存在への変化を志向する。
 酸素なき宇宙に包まれた媚助火球は燃え尽き、そして力尽きた。

 宇宙はそのまま狸陣営を攻め立て、四匹を大回りに取り囲んだ。狸という生物は宇宙活動に耐えうる生体機構を備えていない。故にこれは一大危機である。しかし狸たちに慌てた様子はない。彼らには金七狸と金八狸がついている。金七・金八の手足といわず尾といわず、あらゆる箇所からシャフトが飛び出し、互いに連結し、そしてアポロ11号月着陸船へと変じるその早業。変化というより、もはや合体・変形である。残る二匹は素早くアポロへと乗り込み、まんまと宇宙をやりすごした。調子者の豆蔵などはアームストロング船長に変化して、窓越しに狐に向かって手まで振っている。
妖力が絶えて正体を現した一目狐を、着陸船は昆虫のような脚でカサカサと追い回して踏み潰した。これで四対四。振り出しである。

 少し離れた丘の上では、この大一番を観戦しようと人間たちが黒山の人だかり。ネットに書き込まれた荒唐無稽な情報を頼りに集まった若者ばかりである。有志が用意した五台の赤外線望遠鏡を少しでも長く覗こうと、あちこちで諍いが起きている。

「すげえ。仮装大賞よりすげえ」

 新月の夜。丘の上には馬が五頭。尻を並べて立っている。人間たちはしきりに感心しながら馬の肛門を覗きこんでいる。そしてその横では、狐と狸が腹を抱えて、声を殺して笑っていた。


#26

葦の夜

 人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦に過ぎない。しかしそれは考える葦である。
 私は特別記憶力がいいほうではない、だけれどもあの言葉を先生に教えてもらったことだけは妙に鮮明に覚えているのだ。
 何故、葦なのだろうかと悩んだからだと推測できる。
 そんなどうでもいいことを考えながら、私は呼吸を整えた。
 私は自分の家にもかかわらず、非常に緊張していた、先ほどの深呼吸もその緊張を少しでも抑えるためだった。言ったとおり私は記憶力が特別いいほうではない。だからいつからこんな気持ちになっていたのかを思い出すことはできなかった。
 自分も入れて集まった六人、男子が三人。女子が三人というなんともバランスのいい構図。そしてそのヘキサゴンの中で、小学校からの幼馴染に私は恋をしているらしかった。 
 時刻は午前二時過ぎ、はじめたのは九時ぐらいからだったけれど、だらだらとやっていて結局ほとんど勉強なんてしていなかった。そんな中で彼が風に当たってくるといって、外に出たので私もそれに便乗する感じで出てきてしまった。
「空……星が綺麗だよ」
 言葉を選んでいる余裕なんてなかった。だから思いついた言葉を滅茶苦茶に言っただけだったのだ。
 それでも、空気が気持ちいいぐらいに冷たくて、月の光が庭を青く染め上げていて、雰囲気としては最高だった。
「ほら、オリオン座、綺麗じゃん」
 混乱しながらも私は言葉を続けていく。
「星座って星同士がすぐ近くにあるわけじゃあないんだよね、星の間はそんな風に離れているのに、ここから見るとああいう風に見える、すごいよね」
 がんばって、自分でもがんばっているとわかるぐらいがんばって、言葉を選んで喋った、でも彼は黙ったままで私を不安にさせて。
「星の数は人の数より沢山多いから、確かに確立としては星座になってもおかしくはないんだけどね、人だと簡単にはいかないよね、わ、私たちもさ。ずいぶん長い間友達だけど、それもすごいことじゃあない?」
「で?」
 なぜか不機嫌な風に彼が言う、体が硬直する。
「俺は長い間友達なことはわるくないとおもう」
 何もいえないまま、涙がほほを伝った。
「でも、俺はお前が好きだ」
 耳がおかしくなったのかと思った。
 ドアを見ると、四つのお団子がこちらを見ていた。
 あぁ……彼も葦だったのだと私は考えた


#27

カメレオン

 朝、目が覚めると瓶を抱いていた。
 寝床から起き上がり、その瓶を寝惚け眼で見てみると、それは一見普通のワインボトルのようだった。しかし透明のガラスではなく、真っ黒で不透明の瓶である。名前も少し変で、瓶の側面に筆記体で「カメレオン」と書かれていた。
 徐々に頭が醒めてきて、一体何故こんなものを持っているんだろうと疑問に思い、僕は昨日のことを反芻したが、どうもうまく思い出せない。恋人と喧嘩をした僕は、一人どこかの店で深酒をしていた。そんな記憶しかなく、どうやって家へ辿り着いたかも分からない。
 僕はそれ以上思い出すのをやめ、何気なしに「カメレオン」の封を切った。ぷんと葡萄の饐えた臭いが鼻をつく。グラスに注ぐと、普通の赤ワインのようだった。そっと口をつけてみると、やはりワインの味がする。なぁんだと思いつつ3杯程たいらげて、瓶を棚にしまおうとしたところ……何かがおかしい。先程までの「カメレオン」とは何かが違う。しばらく見ていると、その違いが判明した。真っ黒だった瓶が、青白く変色してきたのだ。僕は中身を出したのが悪かったのかと思い、市販の安い赤ワインを注ぎ足した。カメレオンはいきなりの異物混入に一瞬まだら模様と化したが、しょうがねえなといった感じで元の黒に戻った。僕はすっかり面白くなって今度は白ワインを混ぜてみた。するとカメレオンは怒髪天を衝いたように真っ赤になった。そして今度は少し高いワインを注いでやると、黄色や緑といった色鮮やかな変化を見せ、僕を楽しませてくれた。
 しばらくして、僕は恋人と仲直りをした。家に来た恋人に僕はカメレオンを見せた。すると彼女は開口一番「気持ち悪い」と言い放った。僕はどう反応していいか分からなかったが、彼女がひいているのを見て、「そうだよな」と言葉を合わせてしまった。その後、僕にとってカメレオンは特別な存在ではなく、ただの邪魔な瓶となった。
 ある日、彼女が旅行に行きたいと言い出した。資金が無かった僕は、この際カメレオンを売ろうと考えた。珍しいものだから、その手の店なら高く買い取ってもらえると思ったのだ。早速僕はカメレオンを棚から引っぱり出した。その瞬間カメレオンは僕の手から逃げるようにするりと抜け、落下し、割れた。赤い液体が溢れ出て、カーペットにじわじわと広がる。布でそれらを拭き取ると、布は赤紫に染まり、僕の手を濡らした。
 温度も色もひどく冷たかった。


#28

灯台

 その灯台は、男の生まれ育った港町から遠くに窺えた。港町は活気に溢れていて、地方都市としては華やか過ぎるくらいだった。
 男は屋敷へ寄ると、本日この町の灯台に赴任する事を改めて両親に報告した。海運業で財を成した父はそれは名誉な事だと感想を述べ、男を誇りに思うと締め括った。男がこの町の灯台について尋ねると、両親はどうして自分達に尋ねるのか理解出来ないという顔をしていた。
 バス停留所で灯台への行き方を聞いて回る。誰も何も知らなかったが、隣町へ行く途中の深い森にある停留所で降りるのが恐らく一番近いんじゃないかという事だった。
 隣町へ向かうバスに乗り込み、しばらく経ったが、男以外の客は一向に乗って来なかった。車掌に尋ねると、この道は三百年以上も前から走る旧道で、地元の人間は灯台が出来た頃に通じたもう一つの道しか利用しないのだという。
 確かに停留所はあった。男は車掌に礼を言って降りると、辺りを見回した。鬱蒼と茂る草木に覆われて、バス一台分の幅の未舗装の道があるばかりである。まだ昼前だというのに、まして今日は雲一つない快晴だというのに、ここは夕暮時のように暗かった。右往左往して、ようやく叢に埋もれた小道を見つけた。森へ入るその道が灯台の方角に向かっている事を確認して、男はその道へ分け入った。
 少し入ったところで荒家が群れていた。どれも草木と一体化している。男は急に息苦しくなって来た。物音がして、草臥れた老婆が現れた。男と目が合う。男は灯台守の制服を着ていた。老婆は突然活気づくと、甲高い声を吐き出した。すると、荒家から老爺と老婆が溢れ出て来た。彼らもまた男を見て活気づいた。男は現れた老人達に不意に神輿のように担ぎ上げられると、軽々と森の奥へと運ばれて行った。
 森が開け、荒涼とした岬に聳える灯台が姿を現した。老人達は森と灯台との中間に男を降ろすと、一目散に森のあるところまで引き返した。
 そんなはずはないのに、夜になった。男の背後で老人達が一斉に息を凝らす。灯台が明滅を始めた。しかしぼんやりと薄暗く、闇が深くて灯台そのものが見えない。男は港町の方を見た。空が赤く燃えている。雲が渦を巻いている。
 灯台の方から誰かがやって来た。灯台守だという。男は自分が新しく赴任する灯台守である事を告げると、古い灯台守に導かれるまま灯台に消えた。
 礫が二人を追うが、闇に溶けた。


#29

せむしの理髪師

 散髪に行くと、いつもの丸顔の理髪師はおらず、背の低い白髪頭の男がぼぞぼぞと聞き取り難い声で出迎えてくれ、やけに猫背な風だなと見てみれば右肩のあたりがぼこりと膨れていて、ははんこういうのを傴僂というのだろう初めてお目にかかったと思い席についた。ぼぞぼぞと声は聞き取り難いものの対応はいつもの理髪師同様丁寧なもので、カットはすみやかに進み、直に顔剃りの段となった。目を閉じて肌にあてがわれる冷たい剃刀の刃を感じると、いつもは、志賀直哉の『剃刀』という短編や、『アンダルシアの犬』という短編映画のことを思い出し、冗談まじりの戦慄を、殆ど意図して感じてみたりするのだけれど、今日は、相手が傴僂男だからといって、そのようなことを思うのは失礼ではないかという気持ちがして、自然にそのような道徳観念が浮き上がってきたことに驚いたりした。ややあって、いやいやなんてことはない。それはつまり差別意識の裏返しに他ならないのだと気がつき、そんな卑小な自分に何故か安心したりした。傴僂男に頬をあたってもらいながら、何故そんなことで安心するのか。と、今度は無性に腹が立ち、どうにも忙しくてしかたがない。そんな無用の葛藤を行ないながらぎゅっと目を閉じてしているうちに顔剃りも終わり、最後の仕上げに軽く頭髪料などつけてもらって、店を出た。あの傴僂男が志賀直哉の『剃刀』を読んでいたりしたら、毎日大変ではなかろうかと、これも普段ならまるで気にしないことを思うも、また忙しくなるのでそれ以上の詮索はしないでおいた。
 家に帰ってから、傴僂を調べてみたら、傴僂とは背中が弓状に歪曲したのをいうのであって、今日の理髪師のような背の突隆は、脊椎後湾いわゆる傴僂ではなく、亀背というのだそうだ。つまりあの理髪師は、傴僂の理髪師ではなくて、亀背の理髪師だったということで、成る程と、髪を切って軽くなった頭を大きく頷かせた。
 何が成る程なものか。


#30

ユグドラシルの錠

 手遅れだ…。
 ノルンは下唇を噛み、薄い眉を顰めた。
 三姉妹の目を盗み、森の奥深くに忍びこんだ銀髪の幼い神は、目の前にある純銀の錠を見つめ、ため息を漏らした。
 それは世界樹ユグドラシルにかけられた錠で、かつて主神オーディンが創り出した錠。
 錠は世界樹にめりこみ、錆びた表面だけが見える。
 ノルンは目を閉じ、なにか方法がないか現在、過去、未来の記憶を手繰りはじめた…。
 そもそも世界樹ユグドラシルは、神界、地上界、冥界を支えるために植えられたトネリコの樹だった。小指ほどの苗だった樹は、三界を支え安定を希望する神々の祈りを生命に変換し、生長し続けた。わずか七日で神界、地上界、冥界に枝葉を伸ばし、世界はしっかりと絡みつき、望みどおりの安定が訪れた。
 しかし、ユグドラシルの生長はとまらなかった。
 神々は更なる安定を祈り、ユグドラシルは祈りを貪った。幹はますます育ち、根は山脈のように脈々と大地にうねり始めた。2200世紀経ったときには、支えであったはずのユグドラシルが世界を圧迫し始めた。枝葉は空の半分を塞ぎ、幹は世界のどこにいようと見ることができた。
 神々は世界の崩壊をおそれ、祈ることをやめたが、ユグドラシルは生長し続けた。もはや、誰にも止めることはできなかった。
 唯一、主神オーディンをのぞいては。
 オーディンは、持てる叡智の限りをつくし、純銀の錠と鍵を創り出した。オーディンはその錠をユグドラシルの幹に埋めこみ、鍵をかけ、時間の流れからユグドラシルを締め出した。生長を阻まれたユグドラシルは枝を振り、洞窟のような“うろ”から、断末魔をあげ、オーディンを呪った。
 オーディンはユグドラシルをおそれ、封印が解けることのないよう鍵を呑みこみ、ユグドラシルの根に三姉妹を住ませ、監視するよう命じた。
 それから、4400世紀…。
 ノルンは静かに目を開き、錆びた錠を見た。
 めりこんだ錠の鍵穴から、幹のなかに漂う水が一滴一滴、滴り落ちている。
 その一滴が錠の表面を撫で、少しずつ純銀の錠を錆びつかせ、風化させている。
 ノルンは口元を手で覆い、息がかからないように近づいた。
 錠はすっかり朽ちていた。
 根元の泉に膝まで浸かったノルンは、目の前の一本の樹を睨みつけた。
 樹は、風になびき枝を揺らし、葉ずれの音をさせていた。
 その樹は生きている。
 6600世紀経った今も、神々の目を盗み、生長しようとしている…。


編集: 短編