# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 砂糖 | 奥村 修二 | 896 |
2 | 動物愛護団体 | sagitta | 1000 |
3 | 国際電話 | 黒木りえ | 200 |
4 | 偽りの愛 | 沙羅 | 626 |
5 | 酷い口臭 | Aeria=von=Oberstein | 991 |
6 | 王様のプリン | 熊の子 | 1000 |
7 | うさぎしゃんと私 | キゼる | 747 |
8 | 静夜 | ぼんより | 1000 |
9 | 久しぶり | 笹帽子 | 1000 |
10 | なぜだがわからない、だから、いまから考える | 八海宵一 | 1000 |
11 | 「あたし昔あんたの奥さんだった気がしますわ」 | 神藤ナオ | 80 |
12 | 成功を祈って | ken | 429 |
13 | 1/155 | 素飯 | 701 |
14 | タクシーに乗って | 三浦 | 1000 |
15 | 物語のディスクール | 戸川皆既 | 1000 |
16 | 海を泳ぐ | 真央りりこ | 807 |
17 | 痛いほど近づいて | 負け犬 | 809 |
18 | バラ3輪―ちょっと休憩 | しなの | 1000 |
19 | 約束 | 朝野十字 | 1000 |
20 | 白い紐 | 加藤秀一 | 994 |
21 | チキンレース | 桑袋弾次 | 1000 |
22 | 百万飛んで一回目のプロポーズ | 掛石念治 | 1000 |
23 | カーヴ | qbc | 997 |
24 | 裸夜 | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
25 | ポッキー | 壱倉 | 829 |
26 | 君のスプーン | テフ | 674 |
27 | スリッピングビューティ | くわず | 1000 |
28 | 古鍵と旅する男 | とむOK | 999 |
29 | 冬の海に二匹 | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
30 | 恋のアックスボンバー | 紺詠志 | 1000 |
31 | 夕陽 | 曠野反次郎 | 563 |
32 | 土曜日、朝六時 | 川島ケイ | 1000 |
一
目を覚ますと、ちょうど母が玄関のドアを閉めた所だった。
あるいはドアを閉めた音で目を覚ましたのかもしれなかったが、しかしそんな事はどうでもよい、と思い、体を起こすことにした。窓の外はすでに薄暗かった。
茶の間に出ると、姉が今日の祝宴の為のケーキの準備をしていた。
テーブルの上のラジオから流れる彼女のお気に入りの歌が、ぼくにはひどく耳障りだった。
何をするわけでもなくぼうっと蛍光灯から垂れ下がった紐のあたりを眺めていると、姉が砂糖をきらしたので買ってくるように言った。
ぼくは気が進まなかったが全く準備に参加しないわけにもいくまい、と思い、引き受けることにした。
宴は参加者が作るものだ。
玄関のドアを開け、
二
彼は廊下に出た。それから暗い階段を下り、オートロックの自動ドアをくぐった。
彼は、この地下室があまり好きではない。
この部屋は広すぎて、余白ばかりで、そのくせ圧倒的な数の他人は彼の居場所を奪ってしまう。
彼は急に心細くなり、昼食の後、一緒に買い物に行こうと母に誘われた事を思い出した。
こんな日に母と二人で出掛けている所を友人にでも見られたら、と思うと、とても頷くわけにはいかなかった。
が、やはり一緒に出掛けるべきだったのではないか。母は広い部屋のどこかで迷っているのではないか。
そんな事を思いながら彼は、建物の前の道路まで出ていた。
それから、彼の地上がある10メートルほど上の窓を、じっと見つめ、心に焼き付けた。
これで、迷わない。
そう呟いて、彼は砂糖と母を捜して街に出た。
三
街は、活気に溢れていた。赤と緑と白のパノラマ。透明な無数の個人。
装飾が施された大樹の下で、徐々に鮮明になる一組の男女。はじめからそこにいたかのように突然浮かび上がる少年たちのグループ。
彼らは輪郭を得ると、確かな足取りで通りの向こうへと消えてゆく。
その木の下を、ストライプのネクタイが、毛皮のコートが、スーパーのビニール袋が、赤いハイヒールが通り過ぎる。
ビニール袋を持つ手と、チキンの箱を持った中年の女の姿が浮かび上がったのは、その大樹から100メートルほど離れた交差点であった。
オレは動物愛護を目的とするNPOに所属している。NPOといっても、会員はオレを入れてたったの五人しかいない。発足から十年、毎週日曜に街頭での新会員募集の呼びかけを欠かしていないというのに、わが街の人間の意識の低さにはあきれるばかりだ。人間の活動のかげでかけがえのない生物が死に瀕しているというのに、それに全く興味がないのだ。
オレたちのNPOが保護しようとしているのは、ある一種類の動物だ。本当はあらゆる種類の動物を対象としたいのだが、たった五人でそんなことができるはずもない。やむを得ず、オレたちにとって最も身近な存在である動物を一つ選び、その保護に全精力を傾けることにしている。
我々が最も憂慮しているのは、人間たちによるその動物への「駆除」という名の虐殺行為だった。人間の活動にとって「有害」であるとされたその動物は、様々な方法で「駆除」されている。現段階ではその動物は生息数も多く、すぐに絶滅が心配されるようなことはなかったが、家畜の天敵とみなされて徹底的に駆除され、短期間で著しく数を減らしてしまったニホンオオカミやリカオンなどの例を見れば、楽観はできない。何よりも、公然と虐殺が行なわれているという事実を放っておくわけにはいかない。かけがえのない、尊い命を平気で奪う、その蛮行を止めなければならない。
オレたちは再三再四、保健所やその他の行政機関に動物愛護の観点からその動物に対する虐殺行為を取り締まるよう要求したが、そのたびに門前払いを食わされている。行政の担当者たちは、命の尊さを力説するオレたちを冷たい眼で見るばかりだった。
今日もある商店街で、有毒ガスの散布によるその動物の一斉駆除が行なわれるという。オレたちはその実施を妨害するために、横断幕とプラカードを作成してその商店街でデモ行進を行なうことにした。たった五人では心許ないが、かけがえのない命を守るため、オレたちにできることをやるしかない。
問題の商店街に到着した。プラカードと横断幕を掲げ、胸を張って行進を始めると、住人たちの冷ややかな視線がオレたちを出迎えた。彼らの、明らかに狂人を見るような表情に、オレたちはわずかにひるんだものの、ここで引くわけにはいかない、と思い直し、毅然とした態度で進む。オレは、持ってきた拡声器を口に当て、大きく息を吸い込んでから叫んだ。
「かけがえのない命を守れ! ゴキブリ虐殺、絶対反対!」
「もう、気をつけて頂戴よ。うっかりじゃ済まないんだから」
受話器の向こうの溜息まじりの声を、あたしは桜色に盛り上がった手首の傷を眺めながら聞いている。
「聞いてるの? すぐに駆けつけられる距離じゃないのよ」
「肝に銘じます」
声だけはしおらしく。傷跡の上から、包丁の先をまた当てて。少しずつ力を込めながら答える。すぐに駆けつけられる距離じゃないから。あたしが何をしていても、母さんには見えないから。
一室で、女と男性が他愛もない会話をしていた。ふと思い出したかのように男は女に話しかけた。「煙草を…買ってきてはくれないか?」「わかったわ。」女はすっと立ち上がると男から小銭をもらい、自販機へと足を運ばせた。
少し高めの煙草を1箱買うと、さっさと部屋に戻った。
男は「ありがとう」と一言礼を言うとさっそく煙草をすい始めた。女はその姿をずっと見ていた。前々から女は、この愛する男が煙草を吸う仕草が大好きだった。仕草だけじゃない。この男の全てが好きだった。
男は、吸い終わった一本の煙草を灰皿に押し付けると重苦しく口を開いた。「…本当にあれでいいのかね?」女は少し戸惑ったが、すぐにいつもの笑顔を浮かばせ「えぇ。大丈夫。」と告げた。「…すまないな。」「ううん。貴方は、あの人と幸せになって。」
好きだった男がみすみす他の女に取られていくのを黙ってみることしかできない自分…そんな自分を歯痒く思う。
けれど、愛する男が幸せならそれでいいと思った。男は女のことを良い部下としか思ってないのだから。女は、さよならと男に嘆くと茶色のコートを身にまといドアノブに手をかけた。
「…本当に、いいんだな。」君を、好きになることぐらい簡単だと男は付け加えた。けれど、女は「好きになるくらいだれだってできるわ。私が求めてるのは愛。偽りの愛はいらない。私は本物の愛を見つけるから。」と冷たく言い放った。部屋から出ると、女の瞳からは涙があふれ出ていた。
これでいい…これでよかったと嘆きながら。
学校に登校してみると、何かがおかしい。周りの対応が冷たい。
いぶかしく思い、数人に挨拶をしたが、結果は思わしい物ではない。無視しようとする者、俺の顔を凝視して逃げ出す者、叫んで腰を抜かす者。
確かに……今日の俺もどこか少しおかしいと、自分で分かっている。
口が臭いのだ、半端じゃなく。おかしい、別に変な物を食べてきたわけではないのだが。
俺は学校から外へ出ようとした。すると……廊下を歩く深雪と目が合った。深雪――俺が幼稚園に居た頃からずっと仲良しだった子だ。彼女に聞いてみよう。俺は、歩みを止めてたたずんでいる深雪の方へ向かった。
深雪は、なんというか、呆然とした。見てしまった、という顔をしている。いや、悲しい顔?
泣き出した。その場に泣き崩れて嗚咽を漏らしている。
「深雪! どうして、なぜ。なんで……」
もはや何も聞こえていないのだろうか。俺の名前を幾度も、幾何度も叫びながら涙している。もう駄目だ。彼女の嗚咽を後ろに、俺は学校の玄関を後にした。
外にでても様子は同じだった。道行く奴はギョッとして立ち止まる。車は俺の周りでスピードを極端に上げるか、下げるか。道を聞こうと近づいてきたおばちゃんは腰を抜かす。
終に警官が出てきた。
俺の行く手を塞ぐ。しかしどうした? 幾人もの警官隊でさえ、俺を直視する事叶わず、意味不明なことを絶叫するや否や倒れこむ者もいる。
俺は警官隊に群れへ直進した。警官隊は二つに分かれ、俺は楽々とそこを通った。暫くすると、遠い後ろからやっと「止まれ」と言う声が聞こえてきた。
俺は無視する。銃声。身体に振動が鳴る。痛みは感じない。血も思った程勢いよく流れない。どす黒い血が出てくる。真っ黒だ。赤みという物が全く無い。俺は近くにあった公衆トイレへ入った。その周りを幾人もの機動隊が取り囲む。
トイレには鏡が在った。それが不意に目に映りこむ。
「アハ、あは、ひゃ」
瞬間、笑いがこみ上げてきた。どうして俺はこんな目に遭わなくてはいけないのか、鏡を見てやっと分かった。
ただれた皮膚、生気を失った眼球、艶を失った髪、全体的に青白い顔。全身に出ている赤い斑点。
――あぁ――
涙がこぼれてきた。しかし、一体どうして、何故こんなことになったんだ。悪魔? 神?
もう欠片ほどしか残っていない俺の理性の中で、俺は幾度も反芻する。
俺は朝からずっと死んでいたのだと。
昔、西欧のある小さな国にプリン職人がいました。毎日王様にプリンを届けるのが仕事で99種類のプリンはどれもおいしく、王様はいつも3時になるのを心待ちにしています。
ある日プリンを作り始めてちょうど100種類目に、大変やわらかくトロけるようにおいしい最高のプリンを作りました。
「王様、こちらは私めがプリンを作り始めてちょうど100種類目になるプリンでございます」
王様はプリンにスプーンを滑り込ませ、プリンはその一角を持ち上げてなめらかに口に溶け込んでいきます。
「うむ、すばらしいプリンだ! よくやった職人。これを『なめらかプリン』と名付けることにしよう」
王様はもっともっと作ってくるよう言いました。もうなめらかプリンの虜です。そのプリン以外何も口に入らなくなってしまいました。他のお菓子が出ても王様の表情はうわの空、仕事も手に付きません。
しかしそんな生活が続いていると王様の体調がだんだんと悪くなり、ある日倒れてしまいました。大臣は原因をなめらかプリンだとして、職人を牢屋に閉じ込めてしまいました。王様はベッドの上で安静にし、食事もいろんなものを取るようにしました。その甲斐あって体の調子も回復しつつあります。しかしテーブルにあのプリンが出ることはなく、王様は寂しく思いました。
それを察した大臣は国中から名だたるプリン職人を集め、プリンを作らせました。しかし王様が満足するものはどれ1つありません。ひと口、それらのプリンを口にするとまた顔はうわの空。だんだんとまた仕事に手が付かなくなってしまいました。
「あぁ、またあのプリンが食べたい……」
見かねた大臣はついにあのプリン職人を牢屋から出しました。王様もそれを聞くと夜も寝られず明日の3時を心待ち。そしてついに3時、プリン職人が王様のもとに現れました。プリンを見るや否や、王様はさっそく口に滑り込ませます。
「うまい! やはりこのプリンが最高だ。余はもう1つ食べたいぞ」
しかし職人はプリンを出そうとはしません。
「どうしたのだ、もうないのか?」
「はい、その1つしか持ってきておりません。王様、その1つのプリンを一日の特別な楽しみとしていただけると大変うれしゅうございます」
王様は少し考えましたが、
「うむ、なるほど。お前の言うことも一理ある。これからは一日の楽しみとして、プリンを1つ食べることにしよう」
その国では3時にプリンを食べるのが今も習慣となっております。
「うさぎしゃん!」
私の姉と私の義兄の間から生まれてきた子供、つまり可愛い姪が自分と同じぐらいの大きさの兎の人形を抱きながら舌足らずに叫ぶ。私が買ってきたお土産の人形だ。
「そうですよ〜、うさぎさんですよ〜。」
ミッ○ィーという名前があるのだが、気にしない。姪は可愛いから。
「うさぎしゃん!」
さっきから叫んでばかりであるが、そこがまた可愛い。
「ほらほら、オバさんとも遊んであげなさい?」
姉である。
「誰がオバサンなのよ。」
「あら?私間違った事言ってる?ねー、正しいよねー。」
くっ、姉の娘の叔母には違いないが姉に言われたくは無いっ、私よりも年上でオバさんなクセにっ。ちなみに私はまだ20代だ!姉もであるが。
そういえば、「女は20代で蕾、30代で開き、40代で満開」という言葉を聞いたことがある。私は学生時代、生物が得意ではなかったが、確か花が開かないと花粉が飛んで来ず種子は出来ないはずである。それだと、少なくとも16かそこらで開いてないといけなくて、50でもまだ開いていている人もいる。とすると開いているのは約30年程である。そんなに花は枯れないものなのか。まるでドライフラワーである。切花でもそんなにはもたないだろう。枯れた後を考えるととても悲しくなったので考えるのをやめた。
「ほ〜ら〜、おいで〜。」
私は姪を人形から引き剥がし抱き上げほお擦りをする。
「や〜、うさぎしゃん!」
姪は暴れ、兎の所に行こうとする。仕方ないので下ろすと満面の笑顔で兎に突撃していく。
「あらあら、もうすっかりお気に入りね。」
姪に捨てられ、思う。
そうか、姪よ。私は兎以下か。叔母は悲しいぞ・・・
「ありがとうね、きっとずっと抱えてるわよ。」
すると私はずっと兎との差を見せ付けられるわけか。
「どういたしましてっ。」
「なに怒ってんの?」
両手がとても冷たいです。
こんなに寒い日は、どうしても仕様がありません。わたしは、だからホットチョコレートを、生クリーム付きでいただくことにします。それから、おなかが減るのでドーナツもいただきます。
組み立て式の木製タンスの上には、ダスティーミラーが陶器の痩せたシンプルな植木鉢の中で、たおやかに佇んでいます。いそぎんちゃくのような葉っぱは、銀白の色がとてもきれいで、わたしはすぐに気に入りました。
外は、もう限りなく黒に近い色に染まっています。窓から見えるネオンの光は、人工的な美しさを悪びれもなく主張しています。あの光が、ぜんぶ線香花火だったらよかったのに。それか林間学校の時みたいに、ひっそりとしたキャンドルファイヤーでも。
部屋の中は、まあるく明るいです。わたしの部屋にはあまり多くのものは置いていません。ですから、部屋全体にしみじみと明かりが行き渡るのです。
しん、しん、しん、しん――。
きっとこんな音色を奏でながら、わたしの頭上にそれが注がれているのでしょう。
寒さがどんどん厳しくなってきました。これは部屋の中にいても、仕事で屋内にいてもわかることなのです。なんというか、感覚としか言いようがないです。そして、それは子供のころから一度として、間違えたことはありません。でもわたしがわかるのは、寒さだけなのです。――寒いということが、大好きだからかもしれませんね。
目をつぶると、ホットチョコレートがわたしのからだの隅々まで行き渡ります。おおきなしゃぼん玉がはじけたように、正座でしびれた両足に触れた時のように。わたしは祈るように、目をつぶったまま、ほんの少し上を見つめました。やさしい生き物が、すぐ側にいるような気がしてほっとします。
ことん。
わたしの頭が左前に傾きました。
ことん……ことん……ことん……。
今度は右前に、また左前に、右前に。
室内にいながら、わたしは船を漕ぎ始めてしまいました。昨日はほとんど寝ていませんでしたから、その反動が今きているようです。わたしは普段長い時間寝ることが多いので、徹夜をするのはけっこう勇気と根気がいります。
明日はというと、休みです。とてもうれしいです。そんなふわりとした気持ちのまま寝ることができるのは、もっとうれしいです。
ということなので、少し早いですが、疲れているし心がねむたいので寝ることにします。
おやすみなさい、また明日。
夢の中で、僕は少年だった。正確には少年に戻っていた。12歳位で、分厚くて固い茶色のコートを着て、毛糸の手袋をして毛糸の帽子をかぶっていた。つまり季節は冬だった。たぶん僕の夢の中だからだろう、冬は僕の考える冬らしい冬だった。それは、簡単にいってしまえば、静かという事だった。
森にいた。冬の森はまだ雪こそ降っていないものの、ひんやりと静かで、それはまるで音が出ていない映画みたいだった。僕もその映画に組み込まれていた。僕は12歳だった時のことを思い出し、筋書き通りに歩き始めた。僕が落ち葉をゆっくりと踏みしめる、さくりさくりという乾いた音だけが波紋のようにあたりに広がり、森に飲み込まれ、消えた。
しばらくすると、やはりリスが現れた。僕をみるなり、
「やあやあユウト君、久しぶりじゃないか」と言って、駆け寄ってきた。
「君が、長いこと姿を見せなかったものだから、気になっていたんだ。一瞬、誰だかわからなかったくらいだよ。本当に久しぶりだ」
「やあタツミ君。そうだね、久しぶりだね。でも、ここに来る人間は僕だけなんだろう?」
「まあ、言われてみればそうなんだね。けどここでは、そういうのあまり関係ないじゃないか。人間か、リスかなんて」
「そうだね。確かに人間かリスかなんてあまり関係ない」
リスのタツミ君と僕は、話をしながら歩いた。やがて木々が少し開けたところに出て、僕らは切り株に腰掛けた。周りが静かなので、僕らの声は変に響いたが、すぐ空に吸い込まれていった。
「ところでユウト君、どうしてこのごろはここにこなかったんだい? みんな心配していたよ」
「いろいろ、あったんだよ。それで正直僕は、外で大人になってからだけど、ここのことを忘れかけていたんだ」
「ふうん、そうだったのか」
タツミ君は体を起こして、鼻の辺りをカリカリとかいていた。人間の社会について何も知らないようだったが、彼は尋ねなかったから、僕が自分から近況を語ることはなかった。僕らは無言だった。
やがてタツミ君はいなくなり、僕はひとりになった。僕の冬の森は僕の考えるように静かで、僕に時間をくれた。
夢から覚める。何とも言えない気持ち。言葉でいうなら、切ないとかやりきれないとかそういう気持ちだろう。余韻に浸ってしばらく動けない。
僕は起き上がって、「ばかばかしい」と声に出して言った。消えたはずだったのに再び出てきた森は、今度こそ消えてなくなった。
俊介は1Kのアパートをとび出した。
ツギハギのアスファルトを、ボロボロのスニーカーで全力疾走する。目指すは駅前のフラワーショップ。開かずの踏み切りで地団太し、アーケードをくぐりぬけ、間接照明のやわらかな光に包まれた店内に突っ立つ。それから息を切らしたまま、ジーンズに突っこんだヴィトンの財布を、店員に突き出した。
店員は慣れた様子で、にこやかに財布から有り金を引き抜くと、「いつもので、よろしいですね?」と確認した。
俊介は頷く。
たちまち、バラの花束が目の前に現れた。
一瞬、屈託のない笑顔が浮かぶ。だが、それも束の間、花束を受け取ると、俊介はまた駆け出した。人の間をすり抜け、買い物帰りの自転車を追い抜く。ひたすら走り、恵里のアパートまでノンストップで駆け抜ける。
「どうしたの?」
インターホンから恵里の声。
「会いたいんだ……いま、すぐ、お願い」
俊介は息を切らしながら応えた。体中から汗がふきだし、顔は真っ赤に紅潮している。
「待ってて」
言葉とはうらはらに、すぐドアの開く音。化粧気のないショートヘアーの恵里が顔を覗かせた。俊介は無理矢理、息を整え、引きつった笑顔で花束を差し出す。
「……どうしたの?」
少し怪訝な表情を浮かべ、恵里がたずねた。俊介は困惑した様子で、顔を俯ける。
「その、わからないんだけど、なんだかプレゼントしたくなったから……」
「それでバラの花束もって、走ってきたの?」
俊介は素直に頷いた。その屈託のない姿に、恵里の表情が少しゆるむ。
「なにやってるのよ、俊介」
「いや、理由なら、あるよ。ほら、ふたりが出会ってから、ちょうど、1年と4ヶ月目……ダメ? じゃあ、先週、ホラー映画でキミを怖がらせたお詫びに……そんなに怖くなかった? だったら、えーと、だったら……」
懸命な俊介の姿に、恵里は思わず笑い出した。
「わかった、わかった。とりあえず部屋に入ろうよ、いまタオルかしてあげるから。理由は、あとでゆっくり考えよう、あたしも手伝ってあげるから」
恵里が部屋に招きいれ、ソファーに座らせると、俊介は照れくさそうに口を尖らせた。
突飛な行動だけど、俊介にされるとなぜだか違和感を感じない。むしろ妙にストレートな感情が心地よい。
俊介と恵里は、2時間ほど話し合い、今日の理由を決めた。
2時間経ったら忘れてしまうような、些細な内容だった。
昨日の缶ジュースのお礼。
これでオーケー。
ガラス越しに僕の目をジッと見つめて彼女は言いました。
こんなに困ったのは人生で二度目だけれども 何しろ相手はちょうちょだから きっとそんなこと覚えてやしない。
テーブルの上にはロックのウイスキーが三杯。出席者は三人。
中から鍵のかかった部屋に三人だけ。天井から吊り下がる裸電球が唯一の照明。鍵のかかった窓が一つ。外は日が落ち、暗い。
闇。廃屋。三人。影。テーブル。グラス。ウイスキー。
その光景はさながら、ハードボイルド映画に出てくるシーンのようだった。
仕事の成功を祈るためか、最後の宴のつもりか、よくクライマックスに入る直前にこんなシーンが出てくる。古臭い演出だが、それには命をかけた決意が感じられる。
今の状況は、そんな映画ほどかっこよくはないが、皆それぞれ相当の強い意志がありここに集まっている。
誰も何もしゃべらない。沈黙。
向かいの男が最初にグラスに手を伸ばす。
「成功を祈って・・・・・。」
そう言ってグラスに口をつけた。
「成功を祈って・・・・・。」
隣の女もグラスを持ち、そう返した。一気に飲み干す。
そして、私も覚悟を決め、青酸カリの入ったウイスキーに手を伸ばす。
「成功を祈って・・・・・。」
バルコニーから俯瞰する風景には沢山の営みがあった。
地上の星。蠢く光の一筋。中には赤い一筋もあった。
そのなかの一つを指でつまんで潰した。
もちろんそんな事が出来るわけは無い、でも今日くらいはその光が消えてくれれば、と思った。
「雄治、いよいよ明日だな。」
俺は心底静かにして欲しいと思った。
親父の為にも自分の為にもそう思った。
少し寒くなってきたので、自室に戻ることにした。
自分は蛍光灯をつけないまま、テレビをつけた。
テレビから流れる情報はどれも無益で、どうしようもなく腹立たしく思えた。
「離陸の際にはシートベルトをお閉めください。」
至極当たり前のことを言ったのだろう。しかし自分は聞いていなかった。
前触れも無く、勝手にテレビが消えた。電源ボタンを押してもつく気配は無い。
もしやと思ってバルコニーに出てみると、俯瞰風景には星がなくなっていた。
この停電は自分と親父への贈り物に思えた。
「どうしたんだ!?」
そんなことは明白なことだった。
自分はそのままバルコニーにいることにした。
先ほどまでとはうってかわってしまった風景は、見慣れた町でも新鮮な物だった。
「大丈夫だ。」
もう理解していた。大丈夫なことなんて何一つ無かったこと。
自分でも気がつかない間に暗い、顔になっていた。
暗い顔と裏腹に、地上に星が帰ってきだした。
「生存者一名!」
室内ではテレビが勝手についている。
そして、柱時計がボーンボーンと鳴った。
00時00分
親父と乗客154名の命日がきた。
飛行機の中から見えた俯瞰風景を思い出さずにはいられない日。
自分は地上から目を離し空を見上げた。
そこにはもう一つの俯瞰風景が広がっていた。
もうどこにも逃げ場は無かった。
ここへ行きたいのですがと手元の地図を指差すと、顔の半分はある鼈甲縁のサングラスをかけた運転手は顎をしゃくって運転席に乗り込んだ。私はドアが開くのを待っていたが、自分で開けて乗らなければならなかった。
タクシー乗場を出るとすぐに上り坂が始まって、緑色の細長い葉の草原に唐突な感じで一本通っている道路を走るこのタクシーの中で、私は窓枠に肘を固定させて首にかけたデジタルカメラを構え、緑と白くくすんだ青い山の連なりとそれよりもさらに白くくすんだ空とのバランスを見ながら慎重にシャッターを切る。幾枚か撮ったら撮った写真をデジタルカメラの画面に出して確認して、ぶれているものが二枚ほど交じっている事を知る。舗装されているはずなのに道は波打つようにうねっていて、優しいロデオマシーンに乗っているような軽い揺れがしばらく続いている事を意識する。
目の前の山が大きくなって行き、山の輪郭が視界をはみ出してしまい山道を登り始めると、あっという間に道は細くなり、蛇のように右に左に鋭く曲がり始める。薄暗く黒く見える脇の木々が像を残して視界から消えて行くので写真を撮る気も起こらない。するとエンジンを吹かす音が直線とカーブで明らかに変わる事や、タイヤがアスファルトを噛んで立てる音や、車体の傾きに注意が行くようになる。でも、それが長い事続くと、それもやはり単調な繰り返しに思えて来る。
右に大きく曲がり終えると急に左側の視界が開けて、木々が姿を消し、薄茶色の石ころで出来た山が現れた。黒い森ばかり見慣れた目にはその白さが眩しくって、私はカメラを構えると闇雲にシャッターを切り続ける。
突然、上り坂が終わり平坦になった。道の終わり。白い裸の地面はぽつぽつと草を生やして遠くへ続いている。道路は緑が始まる手前で切れている。運転手が車から降りたので私も降りると、視界がほとんど空だった。運転手が緑の向こうを指差して「記念写真撮るんでしょ」と当然の事のように言う。何となく二人で映ってから、再び車に乗り込んだ。運転手は車を発進させながらダッシュボードから白いカセットテープを取り出してセットした。車内のあちこちで一斉に音楽が始まる。南半球の音楽だろうか。運転手は白い歯を見せて振り返りながら「今日で定年なんです」と言うと、ここを走る時には必ずかけるのだと付け加えた。
霧が不意に湧いて辺りが真っ白になる。けれど、車は進んでいる。
うちっぱなしの四階建てビルの三階、階段を上がってすぐ左手にあるドアを入る。このドアを叩く生徒の数は合わせて二十に満たない。中は四畳半の事務室が一つ、教室が二つに分かれており、それぞれ初級コース、上級コースと一応名は付いているが、実際は年功序列で能力の差はまちまちだった。
この学校に勤め始めてどれぐらい経つだろうか。最初は自分の肌をルリルするだけだった生徒達が、次第にムチョルを率先してこなすようになり、講師である私よりも上手にかつ丁寧にパッキュンワ取りを連続成功させるようになっていくのを見るのは、講師冥利に尽きると言えるし、何より見世物として楽しかった。
ひとり事務室で水を飲んでいると、時折自習中の教室を抜け出してくる生徒がいた。本来なら咎める所だが、まあ学校とはいえ道楽なんだから、とやかく言う必要もない。とはいえ雑談や餅付き程度の応対でやめておいたが、それもいつのまにかまた数少ない私の楽しみの一つになっていた。
そんな不真面目な生徒ほど、私をよいしょする言葉を多く投げかける傾向にあった。後ろめたさもあったのだろう。古参の望月さんは、
「Tさん、あなたの懇切丁寧なご指導のおかげです。じっさい祖母も嬉しく思っていると言ってました」
とにこやかに語りかけるし、自分に実務の才能がないと知るや、事務室にばかり顔を出すようになった田中さんは、
「最近祖母にまた怠けてることがばれたんすよ。わたしは真面目にやってると言ってんですが、口臭や腋臭が全然きつくないからすぐわかるって言われて」
などと言う。最近印象に残っているのは、めきめき頭角を現している地元の漁師、平田さんの一言だ。
「餅は餅屋だって、祖母が言うものですから、私も頑張らなくちゃって」
なんて言うもんだから、私もつい拳に力がこもって平田さんを激励してしまったのを、今でも鮮明に覚えている。
今日もこの学校に新入生がやってきた。まだ二十歳を過ぎた辺りで、肉付きも良好で、既にルリルやパムは経験済みだという。女性ということもあってか、教室内の活気も心なしか上がる。
「祖母の紹介でここを知りました。これからは皆さんと一緒に切磋琢磨していきたいと考えています。まずは自己紹介の代わりに、私の祖母との出会いについてお話しします」
暖かい拍手と生暖かく保たれた室温に包まれながら私は、祖母が生前私の足の臭いに顔を歪めて立ち尽くす姿を思い出していた。
俺はこの町が嫌いだ。小さな石や貝殻ばかりが砂浜に打ち寄せる、この町が嫌いだ。中学を卒業したら家を出る。まだ親には言っていない。
二年前、兄貴が出ていったとき母親が泣いているのを見てしまった。朝早く台所でお米を洗っている時、米のきしみ合う音に混じって細くうなる声が聞こえた。蛇口から勢いよく流れてくる水の音ですぐにかき消されてしまったけど、やっぱり泣いていたんだと思う。
パンの仕込みで朝が早いから、俺の朝食はテーブルに置いてある。
「和樹、おかわりいるかい」
土間続きの工場から、母親の明るい声がする。
「自分でやるからいいよ」
時間があいたときは、一緒に食事をする。が、その日は顔を合わせたくなかった。母親もきっとそう思っていたのだろう。
「そうか、じゃあ頼むね」
と言ったきり、俺が学校へ行くまで姿を現さなかった。家の角を曲がる直前に、走ってくる足音が聞こえた。
「気をつけて行くんだよ」
おうと返事してふり返ると、大きく手を振っている。遠すぎて表情まではわからない。もし母親の目が泣きはらして赤くても、俺にはただ海を泳いでいる赤い小さな魚くらいにしか見えなかっただろう。
兄貴からの手紙はいつもとても簡単なもので、大抵は絵か写真付きの葉書だから、文字を書くところが異様に少ない。
『今パリにいます。天気はいいです。みんな元気ですか』
『今日はチュイルリー公園に来ました。初めて見る凱旋門はでかかった』
とか、そんなところ。調理師になりたくてフランスに行くっていう、志はでかいけど態度もでかい。日本にいたって免許とれるぜ、と言いたいところを我慢してやった。兄貴だってこの町を抜け出したいことにかわりはなかったんだ。内ポケットに忍ばせた葉書を、制服の上からなぞる。
海の外の空気はうまいですか。
彼女はできましたか。
フランスに兄貴の夢はありましたか。
ちくしょう。どこだよフランス。
兄貴、俺は毎日魚とたわむれています。
毎日、この時間になると私の前を通るあの人。
今日も私に視線を投げかけ、微笑んでくれる。
人々が自分以外の全てに無関心。
道ゆく者達は目的の方向だけを見て、せわしなく足を動かす。
この窓から見えるのは、無機質なビルや車ばかり。
通り過ぎる人たちすらも、ロボットの様。
そんな風景を眺めていると、自分まで人工物なのではないかと疑わしくなる。
死んだような街で、あの人だけは私を見てくれた。
何がきっかけだったのか、そんなことは私にはわからない。
ある日、あの人がガラス越しに私を見つけ、足を止めた。
おもむろに私を凝視し、口の端を柔らかく上げた。
次の瞬間には、また何事もなかったかの様に歩いていってしまったけれど。
確かにあの人は、私を見て、何かを感じていた。
あの人が私を見てくれる。
それは、確かに私がここに居ると言うことの証明。
視線の一つがこんなにも自分の存在を意識させてくれるなんて知らなかった。
生きているのか、いないのか。ここにいるのか、いないのか。
あやふやになっていた私の境界を、あの人は視線と笑顔だけではっきりさせてくれたのだ。
今の私は、あの人に微笑んで貰うためにこの窓辺に立つ。
そして、あの人が来るのをじっと待つのだ。
名前も素性も知らず、声を交わしたこともない。
私が知るのはあの人の姿と優しい微笑み。
それなのに、こんなにも愛おしい。
私に微笑んでください。
この手を取ってください。
口づけてください。
抱きしめてください。
ただ、愛してください。
あなたを思うにたびに吹き出す願い。
けれど、決して叶えられることの無い願い。
あなたが私に近づけば、私はきっとあなたを傷つけてしまうから。
あなたは私を抱く痛みに耐えてくれますか?
今と変わらぬ微笑みを、私に与えてくれますか?
希望と諦観、まぜこぜになった気持ちで、今日も窓の外を見つめ続ける。
そう、私はサボテン。報われぬ恋。
頭上の帽子の花びらが、ひらりと揺れた。
「それじゃ、はじめますよ」
由紀は子供たちを見回して言いました。
子供たちは目をきらめかせています。
「なんてかわいいのかしら」と由紀は思います。
「……むかしむかし」
子供たちは大声で言いました。
「むかしむかし」
由紀は喜びを感じます。
「むかしむかしあるところに、それは美しい金色の毛並みの狐さんがいました。この狐さんには一つの変な癖があって」
子供たちはいいました。
「一つの変な癖があって」
由紀は笑顔で続けました。
「一つの癖があって、他の狐をいろいろ言うのです」
子供たちは言いました。
「いろいろ言うのです」
「白狐に言いました。君は白だから×。白狐が言いました。どうして白だと×なの。金色狐は言いました。白だからだ! 白狐は言いました。それじゃなんだかわからない」
子供たちは一斉に言いました。
「それじゃなんだかわからない!」
「銀狐に言いました。君は銀だから△。銀狐が言いました。どうして銀だと△なの。金色狐は言いました。銀だからだ! 銀狐は言いました。それじゃなんだかわからない」
子供たちは一斉に言いました。
「それじゃなんだかわからない!」
「金狐に言いました。君は金だから○。金狐が言いました。どうして金だと○なの。金色狐は言いました。金だからだ! 金狐は言いました。それじゃなんだかわからない」
子供たちは一斉に言いました。
「それじゃなんだかわからない!」
「狐たちも声を合わせて言いました。
『それじゃなんだかわからない!』
狐たちは皆向こうへ行ってしまいました。金色狐は手持ち無沙汰になりました。そこへ黒ひげの男がやって来ましたので金色狐は言いました。
『君は×だね』
ひげの男は言いました。
『どうして?』
『君の顔はとがってない。蛙のように平べったい。耳は丸くて立ってない。二本の足で立っている。醜いお腹を見せている』
ひげの男は言いました。
『それじゃ批評になってない。わかるように説明しなきゃ』
金色狐は言いました。
『人がそんなことを言うのか。人が。しゃれとか何とかじゃなくて、そんなことを人が、他人が言うのか』そう言ってから、ちょっとおあにいさん風にいなせに直ってこう付け加えました。
『いやね、人ってのは切れるって聞いていたからさ』」
由紀は言いました。
「ああ、時間が来ちゃたわね」
すると子供たちは口々に言いました。
「そんなのやだあ」
そして声を合わせて言いました。
「お話してくれなきゃやだああ」
姉妹の家の客間には炎の形の蛍光灯がちらちら光る滑稽な暖炉の模型があった。けれどその赤い光は格式ばった和室よりもなぜか僕を和ませ、懐かしいような気持ちにすらさせた。
「……なのに松井石根は絞首刑になったんですよ。東京裁判史観からの脱却なしに僕たちの独立はないし、自主憲法なしに国を守ることはできませんよ」
姉妹は行儀よく座って僕の湯飲みが空になるとすぐにお代わりを注いでくれた。
「里慈さん、あなたには興味のない話だったね」
「そんなことありませんよ」
里慈の頬がやや赤らんでさらに美しく見えた。彼女は腹を立てている様子だったがその理由はわからなかった。
「九条問題と改憲護憲は本来別なのに、あなたはあえてごっちゃにするのね。そうやってなし崩しに憲法の全面改定に持って行きたいのでしょう。国民主権、人権尊重、平和主義、どれをとっても変える必要がないのに。国民の過半は今の憲法を支持しているのに」
「さあね。いずれにせよ、僕ら一国民には大したことはできないですよ」
「私は次の選挙で立候補します」
予想外の直球が飛んできて、僕は動揺してしまった。
「それはどうでしょう。この区の有力者はみんな僕の雇い主を支持しています。お父さんがやっていた会社――あなたは役員ですね――にも影響があるでしょう」
「私を脅すのね」
笑みを浮かべ白い歯を剥いた里慈はますます女神のように輝いて見えた。
「あなた、前線に派遣された二等兵さん、自主憲法の自主って誰のことなの? 歴史を見れば、あなたの純朴な自己犠牲こそ権力者の最良の食料だとわかるでしょう? あなたは使い捨てられるわよ。あなたは必ず起こる次の疑獄事件で自殺を装って殺される側の人間よ。目を覚ましなさい」
「僕はただ……」
「そちら側にいたいならどうぞ。憲法はあなた方から私たちを守るためにあるのよ。あなた方は私たちを再び支配し古い考えに縛り付けたいと本気で願ってる。でもね、私たちのほうが強いし数も多い。私の味方は、日本にいる、欧米にもアジアにもたくさんいる、民主主義を信じる極普通の人たちです!」
里慈は憤然として部屋を出て行った。気まずくなった僕を美潮が家の外まで見送ってくれた。すでに日が落ちていた。僕は優しい美潮を愛していることに急に気付いて抱き寄せた。
「あなたを守ります。約束します」
美潮が立ち去った後も僕はまだ佇んでいた。やがて傍らの門灯が消え、全てが闇に閉ざされた。
ドアを開けると、白い紐があった。
周りを見ると誰もいない。白い紐に顔を向けた。ひどく気になる。もう一度周りを見る。やはり誰もいない。そっと白い紐に近付く。足音を忍ばせながら、ゆるりと。当たり前のことだが、近付くたびに白い紐は大きくなる。なぜかそれが恐ろしい。
「はは。紐のくせに、大きくなってやがる」
顔が引きつった。その場にしゃがみ、恐る恐る、白い紐を手に取る。そして感触を確かめる。ざらついていて、紐にしては大きく、ちょっと硬い。その不思議さに首を傾げた。白い紐から手を放し、立ち上がる。腕を組み、奇妙な白い紐のことを考えようとした。どうしても冷静になれず、その時間、白い紐を引っ張ってみたいという衝動を押さえ付けているだけだった。結局好奇心に勝てずにしゃがんだ。白い紐をもつ。さらに、慎重に、白い紐を引く。
カラン、コロン。
小さな音が室内に響いた。その音に驚く。白い紐を引くのを止め、静かに立った。部屋の外に出て誰かいないか確かめる。しかし誰もいない。少しの間、外の様子を警戒していた。が、何の気配も感じない。釈然としないまま、白い紐と向き合う。部屋の中で白い紐の存在が大きくなっていた。向き合ったのはわずかな時間だ。すぐに背後の気配を探り、誰もいないことをまた確かめる。誰もいないことに恐怖する。それでも白い紐と対峙した。先程引いただけ、白い紐は伸びていた。
「紐のくせに」
泣きそうになりながら白い紐を触る。一度の深呼吸。そして、引いた。
カラン、コロン。
室内がその音で満たされる。どうやら白い紐を引くとき、音が出るようだ。恐怖は歓喜へと移り変わった。
「紐は紐だ。たかが紐なんだ」
引く力を強める。その力に応じて白い紐は伸びる速度を早めた。音もリズムを早めた。リズムに部屋が、支配される。楽しくてしかたがない。頬を緩めた。しばらくすると、部屋は白い紐でいっぱいになった。かまわず白い紐を引き続ける。突然、紐が切れた。充実感が体を襲う。その快感に身をまかせる。立ち上がろうとしたが、ふらついた。白い紐に足を取られ、足が宙に浮いた。頭を強く打ち、そのまま意識は無くなった。
ドアは開かれ、フラッシュが焚かれている。
「死因は?」
「打ち所が悪かったらしく…。どうやら泥酔状態だったようです」
説明を受けた大柄な男は部屋に入るなり、ため息を吐いた。
「トイレットペーパーだらけじゃねえか」
「ここまできたらもうあれだな、どこまでアクセルを踏み続けられるかという、あれだ」
「そう、崖っぷちまで突き進むという、あれだ」
度胸だめしだな、と誰かが呟いた。そうだ度胸だ、と誰かが応えた。誰もが疲れていた。採決前夜であった。
「ローソクを30本」
ホテルには、いつでも大抵のものは揃えてある。ましてや国会近くのホテルだ。国会近くのホテルに、代議士が詰めている。最上階で、情勢分析を続けている。幹事長が反対派の公認取り消しを示唆し、中間派のケータイはつながらない。
「突き当たりの部屋のテーブルに、ローソクを30本。電灯はすべて消して」
20年前その部屋で、小派閥の領袖が首をくくった。遺書には女性関係のトラブルが記されていた。だが実際は、汚職にからむしくじりで、右翼に追及されていた。遺書をしたためる男のこめかみには、冷たいものがあてがわれていた。
30人の代議士がひとりずつ、その部屋からローソクを持ちかえってくる。反対派の結束は堅い、とされていたが、本当は誰もが疑心暗鬼だった。風もないのに炎は揺れ、あるはずのない影を映し出した。
30人目の代議士が、青い顔をして戻ってきた。
「ない、ローソクがない。ドアを開けたら真っ暗だった」
肝だめしであった。ちょっとちがうんじゃないかと思いつつ、その「ちょっと」にこだわる自分がいとおしい。
「たきたてのご飯とケチャップを」
フロントはすぐに調えた。30人の代議士は、ご飯にケチャップをかけ、スプーンで口に運んだ。ご飯の温もりとケチャップの酸味が、おセンチな気分を慰めてくれるのだった。
「ちょっとちがうんじゃないか」
幹事長から電話が入った。
「それはケチャップライスであって、チキンライスではない」
反対派の動きは完璧に、執行部に把捉されていた。
環境相は狡賢な笑みを浮かべて脚を組み直した。幹事長は電話を置きながら、そのうすぐらい谷間を凝視した。
「あんた、本当に総理とあれなのか」
「そんなことどうだっていいじゃない」
幹事長はソファーの前に跪き、スカートの中に顔をうずめた。環境相は下着をつけていなかった。
「クールビズ、か」
しかし、汗ばんでいた。いろんな体液がまじりあったような匂いが満ちていた。そこから先へ進むのは、どうですか、肝だめしですか。
「おそれず、ひるまず、とらわれず」
耳の底で、甲高い声が絶叫していた。幹事長は、もはや後もどりを許されなかった。
「結婚しよう」
「やだ」
これが俺と彼女のおはようの挨拶であり、おやすみの挨拶だ。
俺と彼女の出会いは俺が三つのガキの頃まで遡る。彼女を初めて見た時、俺の背中に電撃が、横文字で言ったらエレクトリックサンダーが駆け抜けるのを感じた。
その瞬間、俺は彼女を生涯の伴侶にすることを決めたのだ。だから俺はまだ口を利いたこともない彼女の元に走り寄ってこう言った。
「結婚しよう」
「やだ」
即答だった。だがそんなたった一度の拒絶で諦めるようなオスがどうして自分の望むメスを獲得することなど出来ようか。いや出来ない。
だから俺はその後も諦めずにしつこく彼女に求婚を繰り返し、そしてその度に速攻でフラれ続けた。ある日余りにも彼女が頑ななので、どうして自分を拒むのかと質問してみたところ彼女の言い分は要約すればこうだった。
彼女曰く、
「あなたが私を真に愛しているという証拠が欲しい」
俺は困った。愛というのは無形のものだ。証拠を見せろと言われても、おいそれと示すことなど出来ようはずもない。俺はどうすればいいか悩んだ。悩みに悩んで悩みぬいた。
そして懊悩の果てに俺は一つの天啓を得てそれを彼女に伝えた。それは彼女に百万回もの回数のプロポーズをするというものだった。実現不可能性を考慮しないガキの浅知恵だったが驚くなかれ。その提案は三十年経った今をもってして継続中である。
そして明日、いよいよ俺は彼女に百万回目のプロポーズをする。彼女は俺の求婚に頷いてくれるのだろうか。それとも首を横に振るのだろうか。不安で堪らない。
俺は生まれて初めて神に祈った。なあ神様。どうか俺の百万回目の求婚を成功させてくれよ。これでダメだったら俺は二度と彼女に近づかない。それをあんたとあんたのお袋と俺自身の魂に誓うから。だからどうか。どうか。
翌日。俺は悲壮な決意を胸に、だがいつもと変わらない様子で彼女の前に立った。
「結婚しよう」
「いいよ」
そして結婚してからしばらく経ったある日に妻が言った。
「あなたが百万飛んで一回目のプロポーズをしてくれた時は本当に嬉しかった。だって百万回もフラれ続けて、その約束の百万回目すら裏切られたのに、それでも変わらずあなたは私を求めてくれた。求め続けてくれた。これってあなたが私を本当に愛してくれている証拠に違いないもの」
彼女はそう言って俺に寄り添い、そっと倖せそうな笑みを浮かべていた。
俺は離婚を決めた。
裸で眠れば健康にいいらしいのよ、と女はパジャマも下着も脱いで言った。ほら、あなたも。俺もか。おれもよ。そうか。そう。男はやや首をひねりながらも、素直に従った。男はステレオのリモコンを手にとって、クリスマスも終ったというのにビング・グロスビーの「ホワイトクリスマス」のディスクをかけた。それから電灯のスイッチとなっている紐を引っ張って灯りを落とした。
目が覚めたのは男が先で、それは女が布団を両脚に挟んで横を向く癖があるせいで、男の右半身が見事に外気に触れたからで、思わず深い眠りも覚めたのだった。男は布団をひっぱって正し、自分の身体を左むけにして、外気で冷えた自分の右半身を女に押しつけると、女が男の方を向いて念仏のような寝言を言った。
一度熟睡してしまったので、男は当分眠れそうになく、それで半ば好奇心もあって女の身体を触ることにした。欲情しているときの愛撫とは違って、男の手は広く浅く動いて、鎖骨、心臓、肝臓、小腸と辿りながら男はいつかの生物の教科書を思いだしていて、あの頃は図面でしか知らないことがたくさんあった、と思った。冷えていた箇所が次第にぬくぬくとしてくるのがわかる。湯たんぽのように温かい女の身体から離れ、また元のように真っ直ぐな格好に戻ったが、今度は腹がへってきた。
せっかく温まった体をもう一度外気にさらすのが嫌ではあったが起き上がり、また裸になるわけだから、下着をつけずにパジャマだけ着て、台所に行った。手馴れた動きで電子レンジにジャガイモをいれ、タマネギをみじん切りにして、ミルクパンに湯を沸かし、コンソメのブイヨンを溶かし、茹で上がったジャガイモを潰してバターとタマネギを加えて煮た。
出来上がったスープを飲むと、いつもと同じ味がして、男の体は再びぽかぽかとしてきた。そうすると一杯飲みたくなって、飲み残しの赤ワインを注いで、テーブルの上に置いてある福原信三の写真集を手に取って、ぼんやり眺めながら飲んでいた。いつまでもこの時間が続くような気がした。
男はそれから後は覚えておらず、おそらくはテーブルでうとうと寝入って、無意識にベッドに入ったにちがいない。気づくと明るくて女が軽くではあるが男の首を締めていた。どうしてパジャマ着てるのよ裏切りよ、と男に言った。ああ、しまった。男はそう呟いて笑った。なんだか体が軽いの、やっぱり健康にいいのね、と女はベッドの上で飛び跳ねた。
ポッキーは私の好きなものの1つである。中でもイチゴチョコレートのついたポッキーはお気に入りだ。しかし、もう久しく食べていない。最後に食べたのは高校の頃だろうか。
イノウエ先輩は強かった。見た目は坊主頭で眼鏡をかけた真面目少年風なのに、私達後輩が数人束になっても敵わないくらい強かった。そしてイノウエ先輩もイチゴポッキーが好きだった。
それを知ったのは、ある日昼休みに校舎裏で一人イチゴポッキーを食べているイノウエ先輩を見つけた時だ。そのアンバランスさに私がぷっと吹き出してしまうと、次の瞬間イノウエ先輩のミドルキックが私の横腹をとらえた。しばらく大げさに床をのたうちまわっていると、イノウエ先輩がぽいっと私に向かって何かを投げた。食べかけのイチゴポッキーの箱だった。
「それ、やる」
それだけ言い残し、イノウエ先輩は頭をぼりぼり掻きながら去っていった。私は何故こんなものをいきなりくれたのか一瞬分からなかったが、恐らく(大げさに)苦しんでいる私を見て、悪いと思ったのだろう。イノウエ先輩は強かったが、単純で、不器用で、イチゴポッキーが好きな先輩だった。そんな先輩を、さんざ痛めつけられてきたのに「結構いい人だ」と思ってしまった私もやはり単純でイチゴポッキーが好きな少年だった。
ある日、イノウエ先輩がいなくなった。昔からよくフラフラ出歩いてはフラフラ戻ってくる人だったが、以来戻ってくることはなかった。イノウエ先輩がくれたポッキーの箱はまだ私の手元にあった。
イノウエ先輩が失踪してから1ヶ月後の下校途中、私はそれを橋の上からぽいっと川へ投げ、そして走り去った。どこぞの爺さんの怒鳴り声が後ろから聞こえてきた。
私は今久しぶりにイチゴポッキーを食べている。やはり昔と変わらず素朴な味で、子供を狙ったお菓子なのだが、素直にうまいと思って食べている私も昔と変わらず単純でイチゴポッキーが好きな、オヤジなのだ。
私はポッキーを半分だけ食べ、残りは棚へしまった。
君と食事をしていると、君はいつもぽろぽろと、絶え間なく何かをこぼしては服や床を汚していたから、だから僕は三年もの月日をかけて、ついに『何があっても絶対にこぼさないスプーン』を発明した。
それはたとえ食事中にどんなに何かをこぼしたとしても、そのスプーンにくみこまれた装置がただちに作動しすみやかに落下物をすいとってくれ、決してあたりを汚さないという、まさに画期的な発明だった。これを君にプレゼントしよう。そしてプロポーズするんだ。
金色のなめらかなスプーン握りしめ、君の喜ぶ顔をいっぱいに思い浮かべながら昔二人が通ったカフェへ走ると、君は赤いレンガ枠の窓ぎわのいつもの席に腰かけて、見たことのない男といっしょにパフェを食べていた。
三年ぶりに見る君の手におさまっている、何の変哲もない普通のスプーンは、君がころころと笑い転げるたびに、あぶなっかしくぐらぐら揺れて、やっぱりいろんなものをぽろぽろとこぼしていたけれど、そのつどいっしょにいる男がしょうがないなあという顔をしながら、ハンケチでブラウスの衿やスカートのフリルなんかをまめまめしくふいてやっていた。
照れたような拗ねたような表情で、それでもおとなしく子供のように口をぬぐわれている君は、なんだかとっても幸せそうで、その笑顔はあいかわらずかわいくて、僕はスプーンを手にしたまま二人に気づかれないようにそっとその場をあとにした。
帰り道にどうしようもなく泣けてきて、涙がぽろぽろとこぼれたけれど、その水滴はあとからあとから僕のスプーンへとすいこまれ、けっして地面には跡ひとつ、残らないのだった。
昭和63年の初夏、当時大好きだった郷ひろみが結婚したとの報を聞き、私はショックのあまりタイムスリップしたのであった。サイケ斑のトンネルをチョーのつく速度で抜けると、そこは夕暮れの……
「ケケッ、何あんたヒロミゴのファンなワケ!?」
蒲子のバカ笑いが、ファストフード2階にいる油臭い人々の視線を呼ぶ。ともかく蒲子よ、食いつくポイントが違うだろうよ。それともTsは妄想であると即滅却抹消したというのかい。私はタイムスリップを思わずTsなどと略してしまうほど慣れ親しんでいるというのにさ。いや、ヤったのその1回だけどもさ。
「侘美、最近何してんの?」
「花嫁修業」
「それってぇ、つまんねぇエロマンガ描いて投稿して落とされて丸々デブってまた描いて、を繰り返すことですかぁ?」
メロンサワーをストローでブクブクやりながら、蒲子は身悶える。肉厚で真っ赤なその唇から漏れた「エロ」という言葉に、男子中学生4人がすかさず反応する。
「エロマンガは漫画家の登竜門だぜっ」
真夏の太陽を浴びながら、公園の芝生に座る私を見下ろしてそう言ったのは痩彦だった。5年前、「ボリビアが呼んでる」と呟いて私を捨てた、ヴェルディ平野似の男であった。当時はグランパスだったが。私は痩彦の残したその教えを何故か忠実に守り、せっせとエロマンガを描いている。
2年前に突如一流企業のOL職を辞し、「米国でダンスの勉強する」などとほざいた蒲子だったが、その直後噛岡というヒモにその資金ン百万を持ち逃げされた。蒲子曰く「Hの時、嵐の断崖絶壁でお経を絶叫するボゥズの顔をする」男だそうな。生クることコレ苦行なリ、か。
私は夕暮れに染まる故郷の町にスリップしたのだった。小学生の頃よく遊んだ公園には、幼い蒲子の姿があった。近づいて頭を撫でてやると、上目遣いで「ケ」と苦笑しやがったので、思い切りグーで殴ってやった。
「エロエロエッ」と笑う際にちらつく前歯二本は、そん時私がへし折ってやった物だ。町一番の吝嗇家として名を馳せていた蒲子の両親は、技術は二の次安さで勝負の剥腹歯科に駆け込み、バナナ色の差し歯を装填したのだった。
「その歯、どうしたんだっけ?」
蒲子はフライドポテトを弄びながら、「二段ベッドから落ちた」と言った。そしてさして愉快でもない風に鼻歌を歌った。
それは私が、泣き止まない蒲子をあやすために歌った、郷の「どこまでアバンチュール」であった。
高く昇った日を隠すように雲が沸いて、雨粒が地面を打ち始めた。僕は街の方角を地図で確かめながら、草のまばらな山道を足早に進んだ。
「君ときたらいつも何処か抜けているんだ」
痩せた半裸を晒した僕の胸元で不機嫌な声を上げているのは、革紐に吊られた小さな鍵だった。
「ここ数日の空模様なら、今日も夕立が来ると予想して然るべきだと思うがね」
泉で洗った服が荷物を縛った棒の先で灰色に湿ってくる。赤錆の浮いた鍵は汗ばんだ肌の上で嫌そうに揺れながら、飽きることなく不平を鳴らしていた。
故郷の村を離れて十月は経つ。自分の鍵に合う扉を探すのが村の成人の儀式だった。鍵が言うには完全に一致する扉に出会うのは真に至福の一瞬であり、その時こそ呪いが解け、封印された魂が大空に解放されるのだという。
街に辿り着いたのは夜中だった。僕は宿のベッドに裸のまま横になる。空腹、そして不安。うすら寒い毛布の中で僕は鍵を握りしめ、今夜も泣いた。
「言いたかないが君の寝涎は何とかならないものかね。臭うやらべたつくやら。もう少し大人になって呉れ給えよ」
起き抜けから不満たらたらの鍵を無視して僕は仕事にかかる。家々の扉一つひとつに鍵を合わせ確かめるのだ。勿論多くは穴にささりもしないが、何かの拍子にするりと入り、かちんと廻ることがある。これだ、と喜ぶ僕の手元で鍵が一頻り感想を述べる。ところが褒めたためしがない。やれ先っちょが届かないの、やれ締め付けが緩いのと実に煩いのだ。
鍵の薀蓄は日に日に磨きがかかる。穴の具合から色合いから肌触り、ついには臭いにまで注文をつけた。呆れた僕はとうとう叫んだ。
「いい加減にしろよ。完全に合うなんて無理だ。少しくらい合わなくてもいいじゃないか」
驚いたことに澄んだ空が胸に飛び込んだようだった。僕は鍵を見つめた。
「それが君の答えかい」
鍵は穏やかに言った。それが僕の扉だった。手の上で鍵がすうっと重さを失い、霞を纏って膨らんだその姿が、小さく痩せた鳥の姿になった。錆色の斑が浮いた羽を撫でると、指先にわずかな温もりが伝わった。
その錆も温もりも確かに僕のものだった。
鍵は僕の掌でひとつ羽ばたいて空へ飛び上がろうとした。だが、鍵の頸に結ばれたままの革紐を僕は引いた。すぐに頭上で、ぐえ、と声がした。
「一緒に村へ帰らないか」
鍵は照れ臭そうに笑い、僕の頭にとまって啼いた。生まれて初めて聴く綺麗な聲だった。
偽宝石屋は行為の最中良く喋った。今年はいろいろ起こったな。人類史上初の核の打ち合いが起こったり、全自動作曲ソフトで作られた曲がようやくヒットチャートで一位にもなった。
「半導体チップの最適設計なんかだともうずっと前から人間では出来なくて、コンピュータにやらせていたけれど、作曲ソフトの方が難しかったんだな。音階なんてたった12個しかないんだが」
ネ子は黙って聞いていた。気持ち良くてそれどころでは無いのだった。セックスが大好きだった。下半身がびくびくと波打っていた。おまんこがとろとろになっていた。
「ネ子は良い子だね。ほら、これで足りるかい」
行為が終わると偽宝石屋は金と、そして古いギターを渡す。ネ子は何か楽器が欲しいと言っていた。そんなことを忘れていたネ子は、裸のままぼんやりとギターを受け取る。
「ネ子はかわいいね。あとはネ子に男性器さえあれば完璧なのにね」
「ねえ、これどうやって弾くの」
「好きに弾けば良いんだよ」
「ねえ、これどうやって弾くの」
「好きに弾けば良いのよ」
「ふうん」
砂浜に、ネ子とコーギーは並んで座った。冬の海はまだ凍っていて、風は冷たかった。皆楽しそうに海の上を歩いたり、走り回ったりしていた。
「どう、格好良い?」
コーギーは立ち上がってギターを構えた。
「格好良い、格好良い」
コーギーは元ダンサーで、王子様のように美しかった。それで女装して客を取るものだから、とても人気があった。今は男の方が好き者の間では流行っていて、女よりもずっと儲かる。
コーギーはよろよろと踊った。数年前に事故で足を痛めていた。コーギーはくるくると回った。何度も転んだ。転びながら、コーギーは踊った。踊る。踊る。
「格好良いよ、とても」
「足の怪我は、事故じゃ無いんだよ」
立ち上がりながら、唐突にコーギーは言った。
「事故じゃないんだ。自分で切った。ナイフで切った。何度も切った」
遠くから音楽が聞こえる。拙い生バンドの演奏を、皆楽しそうに聴いている。
「でももうすぐ治る。僕の足は、もうすぐ治る。どうしようね」
「コーギー」
「僕はまだ27だからね。あと30年は生きる。ねえ、ギターは、どうやって、弾くんだい。どうやって、弾くんだい」
「好きに弾けば良いのだって。好きに弾いてよコーギー」
コーギーはギターを弾く。ばちんと音を立てて弦が切れる。二人は笑い転げた。遠くでは音楽。皆が歌っている。楽しそうに歌っている。
校門を出た次の瞬間、テツの体はあお向けに寝そべっていた。視界にちらつく白いものの正体をさとるまでに数秒かかった。
「な、なんなんだ!」
ユミはテツを見おろして得意げだ。
「バレンタインラリアットだよ。義理だけど」
「バ……ってバカか? パンツ見えてるし」
ユミの恋心は、甘ったるいチョコなんかで伝えきれるものでは断じてない。恋なんてそんな甘いもんじゃない、との持論により考案したのがバレンタインラリアットなのだという。それでまずは実験がてら、テツに「義理ラリ」をプレゼントしたのだった。
幼馴染の趣味をよく知るテツも、この説明にはあきれた。
「おまえ絶対きらわれる。地面に頭を打ったら死ぬぜ?」
「あんた生きてんじゃん」
「おれは受身が取れた」
昔からプロレスごっこに付き合わされてきた彼だ。さすがに中学に入ると彼女の実験台になることはなかったが、二年の冬になって再び餌食になろうとは……しかし長年の経験は彼に的確な受身を取らせたのだった。
門柱の影から校内をうかがいつつ、ユミは言った。
「ハンセンと長州、どっちが強いと思う?」
「知らねえよ」
「でもね、わたしが選んだのはハルク・ホーガン」
「おまえまさか……」
「あんたは義理だから普通のラリアットだけど」
「ア、アックスボンバーか?」
返事がない。無言のイエスだ。
テツは戦慄した。アックスボンバーの場合、腕を曲げて肘のあたりで相手の顔面を打つ。ほとんどラリアット風エルボーだ。
「で、だれに?」
「ヒント、先生」
「それ校内暴力だぞ!」
「プロレスは暴力じゃない。そんなのもわかんないの?」
と軽蔑の眼差し。
「知らね。おれ帰る」
「じゃね。来月のお返し楽しみにしてる」
やがて日が暮れて、ユミは職員用玄関を出る本命を発見した。
「先生!」
叫んで門の中へと駆け出す。充分すぎる助走のうちに、ユミは右腕を横に突き出し、肘を上に折った。そして恋する少女は、相手の背丈に合わせるべく、軽やかに跳躍した。
「大好き!」
愛をこめた渾身の一発が直撃したのは、テツの頭だった。
彼に突き飛ばされた先生は、うずくまる二人に「見なかったことにする」とだけ言い残して帰った。
肘のしびれと痛みに悶えつつ、ユミはテツを睨んだ。
「バカ! 死ね!」
彼の頭も死ぬほど痛いが、こみあげるものがある。
「なに笑ってんの? ホワイトデイ、二発分だかんね!」
「いいぜ。覚悟しとけよ!」
ユミも声をあげて笑った。
西へとまっすぐ伸びたレールの上をひた走る列車は、まるで夕陽に溶け込んでいくかのように見える。
薄く引き伸ばされた影を落とすホームの上ではおそらくはつがいだろう二羽の鳩が、列車が通り過ぎていくのもそ知らぬ様子で人目はばかることなく睦ましく戯れていて、春には生まれるだろう雛の囀りさえ聴こえて来るようだった。
線路の両側に立ち並んだビルや家々は内に思惑を秘めながら、列車を見送るように頭を垂れ、列車が通り過ぎてしまうと、何ごともなかったかのように素っ気無い普段の顔に戻り、あとはただ夜が訪れるのを待つ。
架線にパンタグラフをこすりつけ、車輪が力強くレールを蹴り、列車は西へ、西へと急くように走っていく。その性急さは、どこか滑稽ですらあったのだけれど、その懸命さを笑うわけにはいかない。
市街を脱し、夕映えのする田園を抜け、西のいや果ての淵まで来た列車を、輪郭を失い大きく広がった夕陽が迎えた。昼の猛々しさを失ってはいても未だ列車を圧する夕陽は、地平に沈む前のほんのひと吹きの吐息で、ようやくたどり着いた列車をすっかり溶かしてしまった。
ドロドロとだらしないように溶けた列車は、夕陽の沈んでしまったあとの夜の冷気で冷まされ、西へと伸びるまっすぐなレールとなる。
夜があければ、日の出ともに新たな列車が、夕陽を目指しまた走りだす。
思い過ごしで夜が明けた。安堵と疲れの入り混じったため息がもれる。私はキッチンに向かった。鍋にひとつまみの煮干を入れ、水を加えて火にかける。
実家の母から電話があったのは昨日の夜、十時頃のことだった。妹がいなくなったという。夕食のあとコンビニに行くといって出かけたきり、二時間もたつのに帰ってこない。コンビニなんて歩いて五分もあれば着く。携帯に電話してもつながらない。
友達と遊んでるんじゃないかな、と母をなだめて電話を切った。妹ももう大学生なのだから、気の向くままに遊びたいときもあるだろうし、そんなに心配してあげる必要もない。といいつつもやっぱりちょっと気がかりで、いちおうメールは出してみた。電話は出ないまま留守録に変わってしまう。
十二時を過ぎた頃から、だんだんと不安になってきた。お風呂に入り、歯を磨いて、布団にくるまったけれど寝付けない。何も考えないで心を落ち着かせようとしてみても、不意に心臓が高鳴る。どうしようもないからまた明かりをつけて本を読んでみることにしたけど、いっこうに眠くならない。
そうやって時間は過ぎていき、妹からのメールがようやく届いたとき、もう空は白み始めていた。コンビニでたまたま友達に会い、家に遊びに行って飲んでいたら眠ってしまったらしい。分かってみればなんでもないことだ。けどほっとするよりも先に腹が立ってしまう。酔いつぶれてしまう前に、家に連絡を入れる余裕くらいいくらでもあっただろうに。
お湯がぐつぐつと沸いて、煮干が踊る。あくを取り、火を弱める。煮干はなすがままにだしを取られる。
冷蔵庫をのぞくと、豆腐が余っていた。小さく切って、一緒に鍋に入れてしまう。だしが出るまでじっくり待つような気分ではない。それに少し眠くなってきた。
火を止めて、煮干を取り出す。米味噌と麦味噌をあわせて溶かしまた火にかける。煮立たせないように慎重に様子を見て、火を止める。
妹はお味噌汁が好きだ。朝から幸せそうな顔で食べるのを見ていると、こちらまで嬉しくなった。作り方を教えてあげたけれど、自分で作ってもおいしくないらしい。だから一人暮らしはできないのだと言う。
お椀に注いで万能ねぎを散らす。味噌とねぎのあわさった香りにほっとする。水滴で曇ったガラス窓を越えて、日の光が差し込んでくる。母もちょうど三人分の朝ごはんを用意している頃だろうか。お味噌汁を食べたら、少し眠ろう。