# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 強くなるから。 | 沙羅 | 621 |
2 | レシピ | するめ | 589 |
3 | ほおづえついて | 規子 | 999 |
4 | 魔法の矢 | 神崎 隼 | 999 |
5 | 定例閣議 | 笹帽子 | 1000 |
6 | TOZ | 朝野十字 | 1000 |
7 | 失敗による私個人の手記 | 戸川皆既 | 1000 |
8 | 美しい花の咲いたこの庭のどこかに妹が埋まっている | サカヅキイヅミ | 995 |
9 | 光 | asmy | 899 |
10 | 思春期スタート | わら | 1000 |
11 | トカゲ | 藤水木 | 941 |
12 | 港町では | 三浦 | 999 |
13 | 閻魔様のビザ | 熊の子 | 999 |
14 | 二億五千万年のバースディ | とむOK | 1000 |
15 | 雪の庭 | 真央りりこ | 986 |
16 | 風の子 | 冬口漱流 | 505 |
17 | 休題──むかしむかし | しなの | 1000 |
18 | 慎重な男 | 負け犬 | 980 |
19 | ながめせしまに | qbc | 999 |
20 | 南風 | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
21 | 上空 | 川野直己 | 700 |
22 | 洗物 | ぼんより | 1000 |
23 | 小鳥電車 | 紺詠志 | 1000 |
24 | 天国と地獄 | テフ | 1000 |
25 | ワラジムシのワラジ | 壱倉 | 1000 |
26 | ニューオールダー | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
27 | 目玉 | 曠野反次郎 | 1000 |
28 | どこへだって飛べるような気がしてる | ハンニャ | 818 |
「ねぇ。ママ。」
「ん?なあに?」
「あのね、パパは何処へ行ったの?」
「パパはね、遠くのほうへいっちゃってね。もう戻ってこれないんだよ。」
「なんで?お仕事?」
「…にたようなものかな。」
「ママは寂しくないの?」
「…寂しくないよ。優斗がいるから」
「嘘だ。」
「…なんで?」
「僕は、パパがいなくなったら寂しいよ。ママがいても寂しいよ。ママは…寂しくないの?」
「本当はね…寂しいな。ママも。」
「じゃぁ、言えばいいのに…。いつも、ママは我慢するんだもん。」
「……!!」
「ママは、いつも泣きたいとき泣いてないでしょう?僕は泣くのに…。」
「…」
「ママは強いね。僕は寂しいのに。泣いちゃうのに。」
「…ママは弱いよ。優斗よりも…ずっと弱いよ。」
「なんで?ママは強いでしょ?泣かないし。」
「泣かないのが強いことじゃないのよ。」
「ふーん。でもね、ママ。泣きたかったら泣いてもいいってパパが言ってたよ。パパよりも強いのかな…?パパはママがいなくなったら寂しいって言ってた。悲しいって言ってた。」
「…優…斗。」
「ママは…違うの?寂しくないの?悲しくないの?」
「…そうだね。泣いてもいいんだよね。すごく悲しいよ。すごく寂しいよ。」
「じゃぁ、強くなくてもいいんじゃん。そのかわり」
『僕が強くなるから』
子供はどれだけ大人の心を除けるのだろう。
どれだけわかるのだろう。
この子に希望を持とう。
そう。守ってくれるのでしょう?
私も守るから
貴方も守って…。
生きることは1人じゃできないから。
まず土地がいる。文字通り土である必要はないが、鉄にしろ岩にしろ足場がなくては始まらない。
人は多いほうがいい。一人もいなくなればお仕舞いなのだから、当然増やすべきであるし守るべきである。ただ、遊びを忘れるほど打ち込む必要もない。
特に盲点なのが暗闇の存在である。彼らが失われてもまた終わりなのだ。
つまりその二つが柱となる。一本では全部を支えきらないので、やはり二本とも立っていなければならない。
約束事は以上である。破られれば命に関わる。慣れれば効率化が図れる。
千年続くことも万年続くこともある。もっとも外から見ればの話で、内側にとっては時間すら無意味となる。
一年は百年に匹敵し、百年を一年で終わらせることもできる。約束が違わぬ限り内で不可能はない。
よく自己が増大する。他者は主観としていなくなる。もちろん同等の者に対しては例外である。それほど出会うことがないのも事実だが、連絡は時折取るようにするのが望ましい。
ちなみに、億年続いた例はひとつもない。要領が悪かったり偶々運が悪くしくじる者もいるのだが、何より大きな終わりの原因は自殺に他ならない。
統計的に多いのが、人と暗闇の潰し合いである。多くの死に巻き込まれて自身を殺す。
そうなると、土地はなくなり海となる。新たな土地が生まれるにはしばらくかかる。なり手にはことかかない。
つまり、以上が神様についての大まかな成り立ちと終わりである。
私がまず頭に浮かんだのは、秀ちゃんが泳いでいるところだ。
私は海の深くにもぐっていて、下から秀ちゃんの泳ぐ姿を見上げている。
すい、すい、と泳ぐのは平泳ぎ。
ぷくぷく、と私の口から空気がもれるけど、苦しくはならない。
濃い青の中にいる私。
まぶしい光の中にいる秀ちゃん。
パッと目をあけると、いつもの風景。つまり教室。
カツカツ、とチョークが黒板を叩き鳴らす。
粉が舞う。
窓に目をうつすと、今日が雨だったことを思い出す。
プールの授業が中止になり、今は保健のつまらない授業をうける。
もう一度、目をつぶり思い描く。
私は海の深くにただもぐっていて、秀ちゃんは海面に顔を出して平泳ぎをする。
違う世界にいるようね。
ふと、秀ちゃんの方に目をやると、ほおづえをつきながら眠っていた。
どんな夢を見てるんだろう。
「 なぁ、みどり 」
保健の授業が終わり、昼休みになると、秀ちゃんが私のほうに駆けてきた。
まだ夢の世界から覚めきってない私は、机にうつぶせになりながら話をきいた。
「 俺さ、さっき夢みたんだよ 」
へぇ、どんな?
「 あのな、俺とみどりで海に行くんだけど、泳いでたら
急にみどりがもぐってくんだよ。海の底にむかってさ 」
それで?
「 でな、俺も海にもぐろうとするんだけど、なんでかもぐれないんだよ。
顔もつけられなくてさ、ただ平泳ぎして溺れないようにしてんの。
すごいバカみたいで 」
ふーん
「 しかも、みどり全然あがってこないし、水面にぷくぷくって泡だけ
あがってくるし、俺もう焦っちゃって、必死で平泳ぎをすんだ 」
結局どうなったの?オチは?
「 すごい不安になったんだよ。すごい遠くにいっちゃったみたいで 」
私はやっと体を起こし、秀ちゃんを見る。
秀ちゃんも、私の顔を真剣に見返す。
ふっと私は笑った。自然と沸き起こる笑み。
秀ちゃんが意味が分からない、という顔をしてるのを見ながら
私はまた机の上にうつぶせになり、思い描く。
海にいる2人じゃなくて、教室にいる40人の中の2人。
私はうつぶせになって、遠くにいる秀ちゃんを想う。
秀ちゃんはほおづえをついて、遠くにいった私を想う。
「 なぁ、みどり。きゅうにどうした? 」
頭の上から、秀ちゃんの声がきこえる。
私は、ほおづえをついた秀ちゃんの後ろ姿が好きだ。
私を想う心が好きだ。
私を探す、泳ぐ姿が好きだ。
ついでに、ほおづえをついて残った赤い跡なんかが、
思わず笑っちゃいそうなくらい、好き。
男が森を彷徨っていた。時折、周囲を見回しており、男は何かを探しているようだった。
「誰か、お探しかな?」と、耳元で声がした。それは老人のような、若者のような、不思議な声だった。
「おまえが悪魔か? 外れる事の無い、魔法の矢を持つと言う」男が用心深く辺りを見回しながら、問いかける。
男の周囲には、誰もいなかった。が、再び、男の耳元で何者かの声が響く。
「なるほど、探し物は矢か」
「……、そうだ」男は唾を飲み込むと、ゆっくりと頷いた。
「良かろう。だが、条件がある。矢の代償として、半年以内におまえが死んだ時、その魂を貰い受ける」
「半年以内?」
「そうだ。半年生き延びる事ができれば、おまえの勝ちだ。悪い条件ではあるまい?」その声は、男を挑発するかのように響いた。
「わかった。その条件、受けた」
魔法の矢を手に入れた男は、その後、英雄として祭り上げられる。当然であろう。男の放つ矢は決して外れる事は無く、多くの敵国の英雄や将を射抜いたのだから。
しかも、男は射手にも拘わらず、前線にその姿を晒していた。敵国にとってその姿は、悪魔のようであった。
だが、運命の日は訪れる。それは、男が矢を手に入れた、ちょうど、半年後の事だった。
「今日も、雑魚ばかりか」男は不満げにそう呟くと、目の前の敵将を射抜いた。
(この俺の獲物に相応しい者は、どこだ?)
敵将の最後も見届けず、男は遠くを眺めた。今や多少の兵を率いる将では、満足できなかった。と、男の視線がある一点で止まった。
「獲物だ」男はほくそ笑むと、矢を構えた。その矢の先には、多くの兵に守られた、敵国の王がいた。
(動くな。いや、動いても結果は同じだがな)
男が矢を放とうとする。と、男は胸に鈍い衝撃を感じた。
「なんだ?」男が下を向くと、一本の矢が見えた。
(矢? なぜ、矢が刺さっている?)
男には、何が起きたのか理解できなかった。そして、理解する前に、次の矢が男の額を貫いていた。
「愚かな。おまえに矢が当たらないなどとは、誰も言ってはいなかったと言うのに」男の耳元で、あの声がした。
「あ……」男が何かを言おうとして口を動かすが、声にならない。
「約束どおり、おまえの魂を頂く。過信のあまり、自らを不死身と思い込んだ、愚かな男の魂をな」それが、男の聞いた最後の言葉だった。
男を射抜いた敵国の射手は、一躍、英雄となった。が、半年ほど後、その新たな英雄も戦場に散ったと言う。
食糧大臣は、早めに首相官邸閣議室に入っていた。壁の時計では、定例閣議まで十五分。
閣議室の大臣たちは、資料を見直している者、メモを書いている者、くしで身だしなみを整えている者、氷結肉をかんでいる者など様々。氷結肉というのは、アザラシの肉を小さく凍らせたものだ。食べている科学大臣は、食糧大臣が嫌いな男の一人。彼が嫌いな男は多いのだ。
やがて残りの大臣が到着し、着席。
「これより6月12日定例閣議を始める」
首相が宣言し、大臣たちが礼。食糧大臣も礼。
まず、気候調整施設の不具合問題について。科学大臣が立ち上がって話し始める。
「今朝、アジア地方で大規模な気候調整施設の不具合が発生しました」
科学大臣は状況を説明。責任を感じている様子はない。むしろやりがいのある仕事ができてうれしそうでさえある。続いて保健大臣。
「現在アジア地方では、気温の上昇で熱中症患者が続出しています。州知事は外出の自粛を勧告しました」
おそらく混血、少し茶色っぽい女性大臣。極夜開けの太陽のように輝く笑顔が、今日はかくれてしまっている。
食糧大臣は思うのだ。
大変な問題だ。今やこの暑すぎる星で、気候調整施設がなければ我々は生きていけないだろう。だが、本来は、そのまま住めるところに住むべきではないか、と。
やがて首相が閣議終了を宣言。その後は数少ない雑談の時間。あまり気は進まないが、食糧大臣もその場に残る。
「ところで聞いただろう、ニンゲンの話」と首相。
「ええ聞きましたよ」
「何ですか、それ」
身長2メートルに満たない小柄な国防大臣は、ニンゲン絶滅を知らない。首相が待ってましたとばかりに説明。今朝、火星の飼育施設の最後のニンゲンが死に、ニンゲンは絶滅したのだ。彼らとの戦争からもう二百年。
「まあこれもしかたない事なのだよな。我々とニンゲン、どちらかが消えねばならない運命だった。今や我々の時代だ。それにニンゲンが地球を支配していたときの事を考えてみろ、我々の同胞、例えばツキノワたちは彼らに滅ぼされたのだぞ」
首相の持論。その手の歴史小説を読んでから、いつも言っている。
それを聞くたびに、憎々しげに食糧大臣は思うのだ。
それはシロクマという、この太陽系の支配生物としてのおごりではないだろうか、と。
ニンゲンがかつて地球を支配していた頃、彼らもそう思っていたのではないか、と。
やがて閣議室からシロクマたちはいなくなる。
つまらない。昨夜の友人との馬鹿騒ぎも、今朝の寝坊も、大学の授業に遅刻して単位を落とすと確定したことも、パチスロで稼ぐつもりが今月の食費を丸々摩ってしまったことも、この国の政治家も経済犯も、車の渋滞も、酷い二日酔いも、なにもかも糞食らえ。
最低の気分で街を歩いていると、交差点で若い女に呼び止められた。
「あなたは夢を見たことがある? 朝それを思い出そうとしてなぜか思い出せなくて、でもとても大切な何かだったような気がしたこと、ある?」
俺の目は0.1秒で女の頭から爪先までスキャンしてボディラインを解析した。悪くない。顔は少し幼く見えるが、いや、とてもいい。
「夢はあの世界の記憶よ。それをこの世界で思い出せないのは、敵が邪魔してるからよ」
「敵って?」
「青のダイヤと白の紋章の燭台に心当たりは?」
「…………」
「来て」
女に手を引かれ大通りから逸れて路地を何度も曲がるうち、アパートの建て込んだ狭い袋小路に出た。小学生の男の子、太った中年女、杖をついた老人がいた。
「連れてきたわ」
小学生が携帯を俺に差し出した。そこにはお馴染みの政治家の顔が映っていた。
「敵よ」
「おいおい、おまえら、テロリストか?」
「まだ思い出さないの?」
「何を?」
「昨日見た夢よ」
ヘリコプターの音が近づいてきた。
「しまった。付けられてた」
真上にとまったヘリからロープが垂れて、防弾服を着込んだ男たちが降りてきた。
「散開!」
小学生は左の塀を猫のように乗り越え、中年女はアパートの裏口から中に駆け込んだ。老人は杖に仕込んだ銃を男たちに向けて撃ち始めた。袋小路のゴミ箱をどけるとその先に穴が開いていて、女が俺を連れてその中に潜り込んだ。マンホールを開け、下水道に入る。女は地理を熟知しているらしく、まったく迷わず何度も道を曲がった。やがて立ち止まり、壁を指でさすり始めた。
「おい、説明してくれ。敵ってなんだ?」
「この世界では敵は隠されてるの」
「この国の政治家は全員敵さ」
「違うわ」
女は哀れむように俺を振り返って見た。それから壁を懐中電灯で照らした。そこには青い菱形の模様が描かれてあった。
「合言葉は? 今すぐ思い出して!」
走ってる途中で口を切ったらしく、ひりひりと痛んだ。汚れた掌で唇を拭うと、赤い血が付いた。
「なぜニヤニヤ笑ってるの?」
それは、ようやく面白くなってきたからだった。俺は昨夜見た夢を真面目に思い出そうとし始めた。
私は、彼女に対して失敗したのだと考えました。
目を覚ましてすぐに私がやったことと言えば、彼女のいるベッドに飛び移ることでした。いったい何が、これよりも普遍的な行動でありえますか。私は目を覚ました時にいた場所よりも、確実に暖かい場所を知っていたのです。
私は陽が昇りきるまで、彼女によって形作られた狭くうねった山道を歩き回り続けました。そうしているうちに、彼女はもじもじすることをやめて、ついに起きあがりました。しかし私が、ほんとうに彼女にふるまってほしかったこと。それは彼女が少女であり続けること以外にありませんでした。
彼女が誰かの恋人でなければならない朝早くから深夜まで、すなわち彼女のいない真っ白な暗闇が私を包む間、私は決して何もしませんでした。何もしないことが、果たして彼女に何かを伝えうる結果を導くかどうかについては、私にはわかりません。ただ言えるのは、私は彼女を待ち続けるだけの生活を長い間保ってきた、ということでした。そしてその生活が何も私に与えてこなかったということ、それだけを、私はよく理解していました。
だから、彼女が黒いストッキングを履ききってしまうのを見た時、彼女がこの部屋からいなくなるのを止めたいという気持ちが不意に溢れ出てしまったのだと思います。私はベッドから飛び降りると、彼女の膝にしがみついて離すまいと、声をあげながら思いきり彼女の脚に爪を立てました。(それは、人間が世界で最も美しい創造物に対してどのように反応するのか、確認するための手段でもあったのです。)私は、その野蛮なふるまいをまったく好まないのです。
すると彼女は叫び声をあげた後に、私の身体をけだるく手ではねのけました。それは彼女にとって、単純で、当たり前かのような手軽さでした。私はカーペットのない固い地面にそのまま叩きつけられて、少しぼうっとしたまま彼女を見つめました。彼女は、嬉しそうな顔をして近づいてきました。私は近くにあった植木鉢に飛び移ろうとしましたが、彼女は私の右足を上手に捕まえて、宙づりにしました。そして私が気絶してしまうぐらいに何度か強く叩きました。
ぼんやりとした意識のままで、私は彼女に体をこすりつけようと足元へ近づきました。なぜなら私は、彼女の脚の暖かさがとても好きだったのです。でも、おそらく彼女は、私が彼女をつまずかせようとしていると考えていました。
おそらく、そうです。
目覚めると暮れ時でした。
迫出した軒に切り取られた西の空は斑な桃色に焼けていて、庭ではシャベルを抱えた女中達が忙しない動きで穴を掘っています。逆光で顔貌は知れませんが、彼女達は庭のかなりの面積を掘り返したらしく、闇の中にも薄高く盛られた赤土や千切れた花弁を認めることが出来ました。そして私は中庭に面した部屋の胡桃木で出来た椅子に掛けて、それらの光景を漫ろに眺めています。
「どこなの、どこなの、怜亜」
時ならぬ呼び声に眼を凝らせば、庭の女の一人は女中ではなく御姉様でした。女中の服まで着て何をなさっているのでしょう――御姉様御姉様、怜亜は此処です。
喉の調子が悪いのでしょうか、声が出ません。
「リコリスの脇、花崗石の裏、庭でいっとう大きな棠梨の木の根元。思い当たる場所は全て探して、薇も螺子も見つけたのに」
リコリスの脇、花崗石の裏、庭でいっとう大きな棠梨の木の根元。それらは八つの時に私が盗んで、御姉様と一緒に宝物を隠した場所です。けれどあの日隠したのは、薇だ螺子だと言った下らない物だったでしょうか、そもそもが誰から盗んだ物だったでしょうか。不思議と思い出せません。
「貴女が幾つにも分かれてしまいそうで怖かったの。手足が抜けても貴女は喋って、螺子が無くても貴女は動いて、じゃあ貴女は何処にいるの? 切った分だけ貴女が増えるなんておかしいじゃない。怖いじゃない」
御姉様は何を仰っているのでしょう。手足が無くなれば手足が無くなった分の私が残るだけです。螺子を抜いたくらいでは私は壊れません。そんな事を怖がるだなんて。
「ばらばらにしても組み上げれば少しは動くわ。でも、電池が無いと怜亜はすぐに止まってしまうの。薇を引いても、螺子を引いても、怜亜はきちんと動いていたわ。肝心なのは電池なのよ。電池が怜亜なの。ああ、何処なの怜亜」
そこの椅子に掛けている瓦落多は如何でも良いの、御姉様はそう仰いました。成る程だから私は八つの時からずっと眠っていたのかと妙に納得しつつも、心中には一つだけ蟠りがありました。ああ御姉様、電池はそんな処を探しても見つかりっこ有りませんの。あの日、動きが止まるその前に、私が戯れに御姉様の中に隠してしまったのですから。声にならぬ呟きを喉の奥で震わせ、瞳を閉じ、永遠に向かって凝固していく時間を耳の裏に感じながら、気の早い事に私はもう、夢を見ている振りを始めています。
赤いワインを飲みながら、彼女とふたり延々音楽の話をする。
目が悪いと光がぼやけて綺麗に見えるから得した気分と彼女が言う。僕は1.5の右目を閉じて0.7の左目だけで彼女を見る。彼女の瞳に映った光が小さな点で見える。テレビの上のアロマキャンドルが黄色く揺れる。彼女の口元で煙草の先が一瞬赤くなる。
小さなキャンドルと小さな白熱灯の光だけの彼女の夜は薄い茶色の空間になる。蛍光灯のデスクライトに慣れた僕の目には大層少女趣味に思えたが、0.7の左目の世界は淡く心地よかった。チャっと軽快な音を立てて僕の周りが明るくなって赤い黄色の光がキャメルを赤く燃やす。
コーネリアスの水の音が一番綺麗に聴こえるという黒いスピーカからは僕の知らない女の子の歌声が流れている。
そのまま茶色の空間を無言でぼうっと過ごす。右手に微かな熱を感じ、両目で灰皿を探す。赤い光が見えなくなるまで念入りに煙草を揉み消し、少し残ったグラスに手を伸ばす。
tommy february、すき?彼女が言う。この音楽はtommy februaryだったのかなと思う。ううん、あんまり。僕は言う。彼女が少し僕に近づく。鼻が僕の首に少し触れる。少し彼女は顔を離し、そのまま僕にキスをする。僕は両目を閉じる。
唇が少し触れたり離れたりを繰り返す。唇を少し離すと、彼女が近づき、まだこうしていていいのだなと変な安堵を感じる。唇以外はどこも触れない。左目を少し開けると彼女の右目と目が合った。今度は僕から近づき唇が触れる。部屋は茶色いのに彼女の頬は白い。唇を離した隙にtommy februaryが好きなの?と訊ねる。すぐにまた触れ、離れる。ううん、あんまりと僕と同じ答え。これtommy feruary?違う。その後は無言でまた触れたり離れたりを繰り返す。それはちっとも官能的ではなくセックスのような快感もない中学生のようなキスで、淡い気持ちが淡く脳に広がってゆく。また少し目を開けて、黒い彼女の目を見る。少し長い間、唇が離れた後、軽く触れ合い、何もなかったかのように彼女は離れ、赤いワインを一口飲んだ。キャンドルがグラスに映り強い光を放っていた。
「こんな家出ていってやる!お母さんのバカぁぁぁ!」
崇は叫びながら驚くべき早業で着替え顔を洗いランドセルを背負い、外に飛び出した。
家出しちゃった!すごい、俺は不良だぞ!
崇は自分に酔いながら走った。家出しても学校に行くのだ。席に着くと崇は腕を組み、足も組んでみた。
俺不良。夜露死苦!
と心で叫んでみたが、重大なミスに気づいた。
歯を磨いてない!息が臭いかもしれない!
崇は青くなった。と、崇の前に可憐な少女が立った。
「おはよう崇くん」
「ヴー」
崇は顔を赤くしたり青くしたりしながら、口を開かず答えた。
マズイ、実香ちゃんに口臭がばれたら嫌われる!
「あのね崇くん…」
毎朝実香と話すのは至福の時だが、今日は様々なタイプの「ヴー」を連発するだけだ。先生がきて、実香は不審気な眼差しを崇に投げて席に着いた。
一時間目。こんなに長い授業はなかった。
足が痛い…
不良だから腕と足を組んでいなければならないのだ。
「おい崇、腕組んでないで問題解け」
「ヴー」
みんな笑いだし、先生は呆れ顔だ。崇は渋々鉛筆を握った。さりげなく足も下ろしたが、見られたところで誰も咎めない。
二時間目も終わった。
「朝からヴーしか言わないし、私のこと嫌いなんでしょ」
実香が言った。
そんなことない、大好きだよ!でも今日は…
「ヴーヴーヴー!」
それが崇の答えだった。実香は行ってしまった。
歯さえ磨いていれば…
と、向こうで実香が男子と話している。
雅俊の奴、モテるからって!
三時間目の間中、雅俊は困惑していた。崇がずっと鬼のような形相で自分を睨んでいる。
四時間目は憂鬱だった。
家出はやっぱり無理だ。でもお母さん、晩ご飯までには帰ってくるって甘く見てるに違いない。思う壷は悔しいな。どうしよう。
雅俊のことなど忘れて悩んだ。
そうだ、昼ご飯までに帰ればいい!でもそれだと学校を抜け出さなきゃ。どうしよう。諦めたらお母さんの思う壷だぞ!
チャイムが鳴った。
不良は辛い。負けることもある。でも次は絶対負けない。なぜなら俺はワルだから!
崇は声高に叫んだ。心の中で。
口を開くわけにいかないから、腹もヴーヴー鳴っているのに給食には手をつけず、足を組んで午後の授業を受け、帰宅し母親が怒っていないことを確かめると歯を磨いた。
夏休みも不良なので宿題が遅れて怒られ、感想文も工作も参加賞すら貰えなかったが、歯科検診の後、崇はきれいな歯コンテストで優勝した。
博嗣君がまた狩野をいじめている。
博嗣君はなぜ狩野をいじめるのだろうか
.
(「ねえねえねえトカゲの尻尾を切ってみたんだけど、いっこうに尻尾が生えてこないんだけど何でかな」「トカゲは君がいじめるから死んでしまったんだよ」
「そんなことないよおなかを突っつくとまぶたをぴくっとさせるんだよ」「死んでしまったんだよトカゲにまぶたはないよ」
「そんなことないよそんなことないよ」)
狩野はなぜいじめられているのだろう。なぜ反撃しないのだろう。
馬鹿にされても、かばんを皆で回されても机に落書きされても狩野はおとなしいままだ。
時々狩野はすこしわらっている
トイレで腹を殴られて蹴られて大便器の水を飲まされた次の日になぜ笑っていられるのか分らない。
狩野の机を博嗣君たちが囲んでいる。博嗣くんが過激だから皆は違う方を向いている。
狩野はズボンのポッケからハンカチを出すみたいに折りたたみナイフを取り出して、滑り込ませるように博嗣君ののどに突き刺す。博嗣君は「あ」と間抜けに言って、いきなり血だまり製造機に変身する。
そんなにスムーズでなくてもいい、不器用でもいい、手が震えていてもいい「君はそれ位していい」と思う。しかしナイフを持っているのは狩野ではなく僕なのだ。
このナイフを狩野に渡しても狩野は何もしないだろうか。
昼休みに博嗣君がなぜか僕の所にやってきて、さっきなにじっと見てたんだよなんて言う。
先生にチクったりしたら、分ってるだろな。というので僕はやっと理解してなぜか「えああ」とか訳の分らないことを言ってしまった。博嗣君はいきなりニヤニヤして、は?なにいってんの?と言った。
そこで四時間目のチャイムが鳴った。
(「トカゲは生きてるんだよしっぽを切っただけで死ぬはずないよ」「いいやトカゲはもう腐ってしまったんだよ。ほら君にも臭いがするだろう?」)
机で一人。僕はナイフを触ってみる。博嗣君がこっちをちらちら見る。
嫌な感じだ。嫌な感じだな。狩野みたいになりたくないな。
心臓が変にドキドキし始めて、呼吸が苦しい。
絶対に嫌だ。嫌だ。
気が付くと狩野がこっちをじっと見ていて目が合う。
彼の目から僕は何も読み取れない。僕を見ているのではないのかもしれない。
博嗣君に僕がナイフを持ってるってわかればいいのに。
僕はナイフを握る。
行ったり来たりする波に洗われる脚でここに立って、波の引いた後のぴちゃぴちゃになった砂の表面を撫ぜる。表面張力というのか吸いついて来るのが何とも言えず好い。……ここは大地と海の境界だろう。波の往復運動は大地と海のセックスか。なるほど、だから波打ち際は心地良いのだろうか。波を萎えさせる月はママかな。
青くくすんではいるがまだ昼間だ。海に面した床屋の回転看板を目指す。浜辺の町並みは目一杯水を湛えたコップみたいに輪郭が崩れてしまいそうだ。一艘だけ残って繋留された漁船が海とこの町との関係を繋いでいるのか。私も今床屋と何かとの関係を繋ぐためにドアを引く。寒いですね、明日の明け方は雪になるそうですよ、海も冷たかったでしょう、ご旅行ですか、お一人で、頭ですか顔ですか。クリームをもこもこと載せられ、両腕は覆いの下にあり、首をがら空きにして、剃刀を手にした男に自分を託す。顔を滑って行くつやつやとした輪郭の崩れる気色のない銀色は、操る者が操ると刃物である事を奪われるのだなあ。黒く細かな針(ひげ)を呑み込んだクリームは掬われ、湯気を噴くタオルで今度ばかりは跡形もなく消え、倒れていた背凭れが戻り、目を開いて鏡に映る自分とその周りを一遍に見やると、ここは砂漠のど真ん中かも知れず、その気分にしばらく浸っていたくてぼうっとするが、そんな事は長続きしない。私は未だに裸足で、空っぽの靴がその近くに揃えて置いてあり、顔はぽかぽかとしているが、丸みを帯びた日差しはガラスを抜ける力もなく、外気はドアの下を潜れるくらいには冷たい。ここは浜辺の理髪店なのだ。
電車内に一組の男女が、がら空きなのだから座ればいいのに立ったまま二人して右に流れて行く景色を眺めている。学生服姿の二人は互いに見るともなく見つめたり、話しかけるともなく言葉を発したり、黙るともなく動いたりしている。吊革を持ち替える腕。揺れるスカート。交差される脚。電車の揺れに負ける時の踏ん張り……。二人の学生が生み出すあらゆるものが強く意味を放っている事に私は惹かれる。この二人だけで綺麗に閉じている。
女が赤い傘を差して立っている。この雨が雪に変わるのだな。出迎えた妻に……とでも書き出せばこの話は閉じて行くのだろうが、あの二人には遠く及ばないし、私に妻があった例もない。この話がここで終わってしまうにしても、私は今駅前のロータリーで雨に打たれているのだ。
ハクチョウ座の館の閻魔様といえば寛大な御方と有名だ。
この館には前世を終えた人が時代を超えて集まる。
閻魔様は眼鏡を掛けて書類を書き込んでいる。
コンコン、しつれーします。
「オオクマの都から参りました、執事として働かせていただきますチュンセと申します」
鐘が3つ鳴り響いた。
コンコン
ジーンズにTシャツ。丸い眼鏡を高い鼻の上におさめた男が入ってきた。白人である。
男は左手の紙をチュンセに手渡した。指先が角張っているように見える。
「私の人生はよきものだったと思っています。自分の信念をまっとうしたものでした。私のつくってきた曲たちもそうです。私の命の音を止めたものも、わかっていると思います」
閻魔様は紙に菊の印を押し、男に渡した。天国行きである。
男は感謝を言って出ていった。
「入るッ」
違う男が入ってくる。
紙に「ローマ時代王帝」とある。顔にはどこか幼さが見えた。
「私は国の民のためにこの身をそそいできた。私は正義をまっとうしたと思っている」
ふむ。閻魔様が鼻を鳴らす。
「父親を殺したことはどう思っているのかね」
目が右、左へと動いたが、
「悲しい事故であった。父にとっても、私にとってもである」
閻魔様は菊の印を押して男に返した。チュンセは驚いている。
「これは天国行きということか」
男は喜んだ。
チュンセは閻魔様の顔を見るが何も言わない。
こんこん、失礼する。
落ち着いた声がドアから聞えてくる。
「これを」
『佐幕組副長』の文字がチュンセの目に入った。男の軍服の腰には2本、刀がぶち込まれている。じっと黙っていた。
「私は地獄に行くのかな。多くの官軍を切ったから。それはそれで仕方ないと思っている」
多くは語らない。二重から机の足元辺りを見つめている。
「お前は自分が正しいと思うことをまっとうできたか」
「尽くしはした」
ふむ、と菊の印が押された。
「天国に行けるのかね。そうか、うれしいよ。見守っていたい女がいたんだ。地獄ではかなわなかったからね」
男は一礼しドアを出ていった。
鐘がまた3つ鳴った。休憩の合図だ。
閻魔様はタバコに火を付けた。白紫色の煙を天井に吐いている。
「閻魔様、どういうものが地獄に行くのですか」
閻魔様はまたひとつ煙を吐いて、
「何も言わず、その道の善し悪しを聞く者だ。また次の人生でも自分の道を考えていくことができない」
と言った。
「考えるものは過去を洗えばまた正しい道へと進もうとする」
チュンセは、あぁなるほどと思った。
アンモナイト【ammonite】アンモナイト目の軟体動物の総称。殻は直径数センチから約二メートル。内部は多くの隔壁で仕切られ、オウムガイに似る。古生代デボン紀に出現、中生代の海中で大繁栄し、中生代末に絶滅。(『大辞泉』より)
「で、それが何でここにあるんだ?」
悟は分厚い辞書を抱えた恵に尋ねる。向かい合う二人の間の小さな卓袱台に、直径五十センチほどの巨大な巻貝が乗っていた。ご丁寧に海草まで添えられて。
「魚八のおばあちゃんがおまけしてくれたの」
「因業婆の店はやめろって言ったろ?」
「子どもの頃から優しかったじゃない」
悪ガキだった悟と違って、大人しかった恵は魚八の隠居婆に何かと構われていた。だがこの数年少し雲行きが怪しい。恵はしきりに鰻やらすっぽんやら貰わされて、隣同士だった家を出て一人暮らしの悟のアパートまで、わざわざそれを届けに来るのだ。婆もこいつも何考えてんだか。
「いい匂いね」
恵はうっとり目を閉じる。生息が確認されれば間違いなく世紀の一大発見となるだろう古代生物は、ところどころ焦げて潮の香りの湯気を噴いていた。立派な姿焼きだった。それも海草サラダつきだ。
「あたしたち、もう二十五よね」
今日が悟、明日が恵。何の因果か誕生日まで隣同士だ。
「四半世紀もずっと一緒にいるのよ。長いと思わない?」
悟は巻貝の渦を目で辿る。幼馴染、隣同士。今時そんな甘々の恋愛ドラマでいいのかよ。
「生きた化石だな」
つぶやいた悟の言葉が卓上の貝に固く反射した。悟は恵の顔を見られなかった。
「やっぱり驚いちゃったかな」
うつむく恵の瞼の上に二つの拳が小さな二つの渦巻を作った。
そらした悟の視線の先で壁時計の秒針がぐるり一回りする。それだけの時間だが、四半世紀を巻き戻すには十分だった。
お手上げだ。悟は諦めた。昔、こんな風に恵を泣かさないって誓っちまったのは自分だった。
「わかったよ。生きた化石でも何でもいいさ」
恵が顔を上げた。笑っていた。ウソ泣きだ。くそ、騙された。
「待って。誕生日らしくしなきゃ」
恵は卓袱台の下からいそいそと螺旋模様の蝋燭を取り出し、渦巻の殻に二十五本灯した。太古の海に繁栄した先祖たちは、まさか二億五千万年後の末裔がこんな目に逢うなんて思いもしなかっただろう。
「ねえ、切るの手伝ってよ」
悟はナイフを弾力のある身に当てた。恵はそっと手を添えて「では、入刀!」って満面の笑み。あのなあ。
ママがおみそ汁を作るのをやめて、トーストにクリームスープを作るようになってから、家の周りに虫の死骸が目につくようになった。
かげろうの無数の羽が、ドアを開けるとレースのカーテンみたいになびいた。生きてるように舞い、生きてるように着地した。死が積もっているとは思えなかった。背後からママの甲高い叫び声が聞こえてくる。
「早く、早く捨ててきて」
庭一面に咲いたブルームーンの花が、ママの声から漏れる波動に反応して真っ青なブルーに変わる。息が苦しくなる。こんなふうにママの感情はときどき津波のように押し寄せてくる。ママのあとに続いて家に入り、しっかりとドアの鍵をかける。
私たちはいつもそうやって降りかかってくる災いを押しやった。パパが家を出ていってしまったときも、パパの足音やおもかげなんかを全部庭に埋めた。
秋には、毎朝ゴミ袋いっぱいのかまきりやばった、こがねむし、かなぶんと色とりどりの蛾を混ぜ合わせるようにして抱えて歩いた。早朝を選んだのは誰にも見られないようにと思ったからだ。でも、ある朝、ひとりの少年と出会ってしまった。
「おはよう」
彼は立ち止まって私とゴミ袋を眺めた。立ち止まったことで彼が私よりも少し背が高いのだとわかった。
「きみも死を抱えてるの」
「今から捨てにいくところよ」
彼は捨てちゃうのとつぶやき、多すぎるとしょうがないよねとうなづいた。
「ママの庭に埋めきれなくなっちゃったの」
「きみは持っていないの? 僕は庭を持っていないんだ」
「私がもし持ってたとしても、秋には三日ともたないと思うわ」
くっくっと彼は笑い、軽く足踏みをはじめた。すぐにでも走り出してしまいそうだった。
「僕は毎朝抱いて走ってるんだよ」
秋も終わり頃になると、カブトムシとか蝉とかがわんさか積もった。私は夜更けからゴミ出しに行くようになり、彼と会うことはなかった。
冬には天井からパパがときどきぶら下がってくる。外が寒くて仕方がないのだろう。ママがいないときは両手で受け、あったかい暖炉のそばで歌を歌って過ごす。ママがやってきそうなときには、ぱちんと指を鳴らして知らせてあげると、パパはするするっと天井に上っていく。パパが張り付いたあとは、木目の滲みに見える。ママが木目の滲みは死骸だと思わなければいいと思う。今のところ心配なさそう。冬だから、私のゴミ出しも暇だし、庭は雪で覆われている。
さあやは風の子です。
五月のあさのさわやかな風がおいていったおくりものです。
としょかんのいりぐちのまんまえに、くすの大きな木がたっている、その木の下に、さあやは小さなほほえみをうかべて、ベンチにこしをかけていました。
いままでご本をよんでいたのでしょうか。
それともきのうのつづきをよむことをたのしみにしているのでしょうか。
それはだあれもしりません。ためしにきいてみました。
――もう、かえるの?
――うゥん。
かるく首をふります。
――ご本をよみにいくの?
――うゥん。
やっぱり首をふります。
でも、さあやがご本をすきなことは、だれがみてもわかります。くろくて大きなひとみのすみきった底に、すこしずつ考えてみがかれたものが、キラキラとひかっているからです。ほそくてそっとのびたゆびさきが、しずかにご本を一まい一まいめくっているようすを、だれにもおもいうかべさせるのです。
さあやは、ゆっくりとこしかけて、とおりのむこうのぼうぼうにのびたプラタナスの並木の、ずっとつづいている、ずっとずっとむこうのほうを、ときどきちらっとながめています。なにかをまっているのでしょうか。
風がまたさあっとふいてゆきました。
由紀は子供たちを見回しました。
「はじめますよ」
子供たちは目をきらめかせて由紀を見ます。
「なんてかわいいのかしら」と由紀は思います。
「むかしむかし……」
すると、子供たちは大声で言いました。
「むかしむかし」
由紀は喜びを感じます。
「むかしむかしあるところに、それは美しい金色の毛並みの狐さんがいました。この狐さんには一つの変な癖があって」
子供たちはいいました。
「一つの変な癖があって」
由紀は笑顔で続けました。
「一つの癖があって、他の狐をいろいろ言うのです」
すると、子供たちは言いました。
「いろいろ言うのです」
「狐さんたちが皆行ってしまいましたので、金色狐さんは、歌舞伎役者さんのようにこう言って見えを切ったのでしたね」
『いやねえ、人ってえのは切れるって、聞いていたからさあああ』
すると、ひげの男の人はわなわな体を震わせて言いました。
『すぐ切れるって!』
『そうじゃなくて、頭がいいって言ってるの』
狐さんはそう言って、ケツネケツネと笑うのです。
ひげの男は言いました。
『君は○だね』
『どうして?』
ひげの男はニコリニコリと笑って言いました。
『俺、猟師なんだ』
金色狐は議論に熱くなっていましたので、ついぬかりました。
『わかるように言え。わたしの耳のとんがり具合がいいとか、口のとんがり方が素敵だとか、具体的に言え』
ひげの男は言いました。
『いやね、冬が近いからさ。俺、えりまきが欲しいだけなんだ』
狐はハタとした顔になりました。そして一目散に逃げ出しました。狐さんは逃げながら、わかるって何かわかったような気がしました。でもね、遅かったの。狐さんの足は、鉄砲の玉より遅かったから。それで、かわいそうな狐さんは、きれいな、きれいな、金色のえりまきになりましたとさ」
子供たちは言いました。
「なりましたとさ」
由紀は言いました。
「これでお話はおしまいね」
すると、子供たちは口々に言いました。
「そんなのやだ」
由紀は言いました。
「お話は又にしましょうね」
「やだやだ」と子供たちは言いました。そして声を合わせて大声で言いました。
「お話してくれなくちゃやだあああ」
「それじゃ、あと一つだけよ。いいわね」
子供たちは目をきらめかせてうなずきました。
「なんてかわいいのかしら」と由紀は思います。
「むかしむかし」
子供たちは大声で言いました。
「むかしむかし」
由紀は喜びを感じます。
「むかしむかしあるところに……」
俺は慎重な男。
何事にも慎重に慎重を重ね熟考する。
俺の朝は新聞を広げるところから始まる。
物事を決定するのに情報は多ければ多いほどいい。
新聞はもちろん広告に至るまで隅から隅まで読む。
そうして得た情報から一日の指針を得られることは多い。
今日も有益な情報を見つけほくそ笑んだ。
『おいしい牛丼!! ○○屋 本日オープン!!』
……俺の家の近所だ。
日本全国誰でも知っているチェーン店……とうとう俺の街にもやってきたのか……
「……さて」
広告の前で腕組みをする。
新しくできたこの店に……俺は行くべきか、行かざるべきか……。
はっきり言って俺は新しい物好きだ。
この店には実に興味がある。
ならば一も二もなく行けばいいのだが……開店初日の店は混むだろう…それに開店当初の予期せぬトラブルと言うのもあるかもしれない。
様子を見るか…?それとも己の好奇心と腹を満たすか…?難しい…。
唸りながら改めて広告を見直す。
ドライブスルー…そうか…これだ!!お持ち帰り…!!
これならば席が無くて待たされることもない。
店に居る時間が少ないからトラブルに巻き込まれる可能性も少ない!!
うぉおお…いいぞぉ…そうだ。よく考えるんだ…。
広告を裏返してメニューを見る。
店に入る前に注文するものを決めておいた方がいいだろう。
メニューをざっと見回す。
……なんで牛丼屋にカレーがあるんだよ?!
牛丼屋だろ?牛丼を売れよ!うまそうだろ!温玉カレーとかさぁ!!
牛丼か…カレーか……。
牛肉は今病気が怖いしな…ああ、でもここにオーストラリア産って書いてある。
カレーもうまそうだけど…先週3日続けて食べたし…
でも、店のカレーと自分で作るカレーは違うし…
あ!並盛り大盛り特盛りはどうするよ?
卵…つけようかな…。
最近野菜食べてないな…。
財布の中いくらあったかな…。
………俺は慎重な男。
何事にも慎重に慎重を重ね熟考する。
注文の品を決める頃には既に日は傾いていた。
昼飯の予定が晩飯に……いいさ、変な物を食べて後悔するよりはましだ。
赤丸をつけては消しを繰り返した広告を持って店に出向く。
予想通り店は混雑している。
入り口で待ちぼうけを喰らっている準備不足の奴らを後ろに、俺は意気揚々と店員に向かって注文を告げた。
「牛丼大盛りと卵とフレッシュサラダ!持ち帰りで!」
「はい、ドレッシングは和洋中どれになさいますか?」
俺はカウンターで頭を抱え込んだ。
唇が薄かったら俺の好みなんだけど。
初恋の男からそう言われて、万里は人前で唇を口の中に隠してチャックするようになった。学校でも職場でもそれを指摘した人はいないけれど、万里は数年たった今も、早口で話すとき以外にチャックを開くことはない。誰かを好きだという感情もそのときからわからなくなってしまって、誰とも付き合ったこともない。仕事一筋、というわけでもなかったがお金は貯まって、ある日会社をやめて沖縄に出かけることにした。
那覇でのモノレール。万里の隣の席に座った男は祐介といって、もちろんこのとき二人は知り合いではなかったが、二人ともリモアのスーツケースを持っていて、お互い目があった。祐介の眉毛がぴくぴくっと震えたのを万里は見逃さなかった。
祐介の眉毛がひきつるようになったのは祐介が旅行代理店の職について3年目のことで、もちろん祐介本人は自分の顔の異変に気がついた。人前で何か考えごとをすると祐介の眉は動きはじめ、不況でイライラしていた上司から「お前の眉は夏の毛虫か」と言われて以来、ますます悪化して数ヶ月たつ。自主退職願いをだして沖縄へ飛ぶことにしたのだった。
なぜ沖縄か? 二人は知り合ってのち、この点について話し合うことになる。どうしてだろ沖縄って何かあるのよね、と万里。青い海がみたかった、と祐介。
那覇のモノレールに時間を戻せば、彼らは一瞬お互いをみつめあって、祐介も万里が唇を隠していることにすぐ気がついた。
「リモアの」と祐介。
「スーツケース」と万里。
「あ、同時」
「だね」
そのとき電車は停車して、駅から数人の高校生が乗り込んできたが、どうやら彼らは聾唖学校の生徒らしく、みんな一斉に手話で会話をはじめ、祐介も万里も呆然とみとれてしまった。
「手話だ」
「なんだか楽しそう」
「言葉なんかいらねーって思うよ」
修学旅行だったのか、彼らは車窓に飛び込む景色が珍しいのか、さかんに手を叩いて窓に顔をべったりくっつけて興奮している。
「旅行中?」
「まあね」
「俺も」
「そうなの」
「どこにいくの?」
「決まってない」
「俺も」
祐介の眉は相変わらず動いていたし、万里のチャックは閉じたままだったけど、二人の距離は確実に近づいていて、万里の方からお茶に誘った。それから仕事を活かした祐介が万里を首里城に案内していつのまにか恋人同士のように手をつなぎ、万里は勇気をだして唇を祐介につきだして、二人はキスをした。
北東の冷湿風を堰きとめる陣馬の山体から雲が涌き上り、白い雪を武蔵野陵に積らせる。雪のなかで昭和天皇は昏々と眠る。現人神だった彼が崩御した後に火葬されたなら骨が遺されたはずで或いはまた土葬であったとして白い骨は遺されている。その上空は常に青いのだが、青色が映りこみ、骨は仄かに青白いように思われる。
御陵の所在地が多摩南西部の八王子市長房町であると知ったのは偶々僕が宅配寿司の仕事についていた為で、休憩中に賄いの赤身を醤油に浸し頬張りながら、眺めていた市域の住宅地図から探しあて、何故だかふと烈しい罪悪感に苛まれたのだった。御陵は参拝者が制限されていることもなく所在地は秘匿に扱われてなどいないが、何か不可侵であるものを遠い上空から偵察衛星によって不意に覗き込んでしまい狼狽したかのような、不可解な錯覚に囚われていた。
四畳半に引き籠る日々とオートバイで寿司を運び続ける循環に追われて眼の端を疲労に歪め、赤い眼で眺める住宅地図はあまりに白く、配達先の老人が天皇のような神々しい笑みを湛えていたことに平伏したくなる気持で充たされて蒲団に潜り、蒲団の中で考えを巡らせたことといえば、御陵周辺の山々には新旧入り交じった複数の霊園が散在し多数の墓があり、各々が無数の骨を内包しているが許容量を溢れた分についてはその場所を離れ、白い骨から雲へ、また雪へと還流しているのではあるまいかと、そのような他愛もないことだった。雪が降り、無数の人が降り注いでは乾いていることになる。その乾いた土地にこれもまた白く乾いた皮膚の老人が天皇のような表情で平然と歩いている。僕は青白い顔と赤眼のままで白い蒲団に潜り、昏々と眠る。
洗い物一つであれこれ言うつもりはないのだけれど、少しは手伝って欲しいと思う。からからにひび割れた指先が悲鳴をあげている気がして、私はぐちぐちと不満を漏らしてしまうのだった。
いつの頃だったか、まだ私が随分若い頃に二十余人分の大小様々な食事皿や箸、スプーン、フォーク、鍋などを洗い尽くした夜があった。大変、そんな一言で片付けられてはたまらないほど大変な量と苦労だった。一心不乱にスポンジに洗い物を押し当て、こすってはお湯ですすぎ、すすいではそれを逆さに向け、丁寧にカゴに収めていく。何度も同じ単純作業を繰り返していると不思議なもので、無の境地なんて格好いいものではないが、次第に顔から何からすうっと血の気が引いていくのがわかった。
至極冷静な私がそこにいる。水と洗剤の境界線や、すすいだ洗い物に反射する蛍光灯の光が、顕微鏡でズームアップしたみたいに瞳に映る。一畳ほどの世界で繰り広げられる流れ作業。ああ、私はこんな地味なことで得難いものを得られたのかな、と思うと奇妙な不平等を感じてしまう。誰も抗うことの出来ない奇妙な世界の不平等。一生費やしたって到達できないイタダキが、確かにそこにはあるのだ。
足元に擦り寄ってくる猫がノドをごろごろ鳴らしている。私は手を止めて、エプロンで拭った湿り気のある掌で猫の頬を撫でた。まじまじと私を見つめてくる猫の顔を見て、この子は受け入れていると思った。禍々しいバケモノのような世界。猫にもあるの、猫だって苦労するの、爪のひとつくらい立てたくなるわよ。
受け入れて、尚且つ敗者の様相を呈している茶と黒の斑な猫。痛々しい目脂。鋭い爪。
今の私はその時の私とは違う。量の違いはあれど、あんなふうに無我夢中に目の前の洗い物に集中できなくなった。向かいの居間では、息子と主人が人気バラエティを見ながら大笑いしている。その様子を背中で感じて、私に覆い被さろうとしている、価値を持たない黒ずんだ紫色のもやもや。あざ笑うオレンジ色の貧弱な換気扇。猫はもういない。
観念してそれを受け入れようと覚悟したが、ふいに気配が消えた。後ろを振り向くとそこに息子が立っている。
「母さん、あとは俺が片付けるからいいよ」
息子が大きな体で不器用に水に触れ、側で硬直する私。
「母さんどうしたの? もういいよ?」
無意識にひび割れた指先をエプロンのポケットにしまった私の顔は、きっと真っ赤だったと思う。
決まった時間の決まった車両の決まったドアから乗り、入ってすぐ左手のポールに右腕をからませて絶対に動かない。二駅その地点にがんばってとどまれば、彼女に会うことができるからだ。
その日も彼女はそのドアから乗ってきて、私の胸に寄り添うかたちでうつむいた。さわやかなコロンの香りが、この陰鬱な朝の満員電車における一服の清涼剤だ。なにもいやらしい気もちではなくて、ただその芳香だけが毎日の楽しみなのだ。
しかし、この日はひとつ変わっていた。彼女のスーツの肩に、妙なもの――というか、どう見てもセキセイインコがとまっているのだった。
黄色い頭に緑色の体、そして羽根に黒いウロコのような模様のあるインコだ。それがキュルキュルとノドを鳴らしながら、彼女の耳にかかった髪をくちばしでもてあそんでいる。風切羽を切ってあるから飛べず、鼻が青いからオスだ。むかし飼っていたので、そのくらいのインコ知識はある。
よく聞いてみると、キュルキュルといううなり声のなかに、人間の言葉らしきものが混じっている。
「オイ、オイ、イイダロウ、キョウワカエラナイゼ、ニョウボウワジッカダ」
周囲から奇異の視線を感じる。かたや私の視線はインコのつぶらな目と合った。
「アイツトワカレルカラ、オイ、イイダロウ――」
そんなことを言いながら、小鳥は私のスーツのエリを伝って、肩によじのぼってきた。
「あの、これ」
と私が言うと、彼女は顔をあげた。
「あ、すみません」
「いえ。かわいい鳥ですね」
かわいい鳥は耳元で私を必死にくどいている。
「それ、わたしのじゃないんです」
「え?」
それっきりになってしまった。彼女はうつむき、電車はとまり、彼女はえしゃくして降りた。
「イイダロウ、オイ、キョウワカエラナイゼ――」
次の駅で私も降りた。インコの首から背中を、つつむようにやさしくつかむと、彼はようやく鳥らしい叫び声をあげた。とりあえず駅のロッカーにほうりこんでおく。
肩を見ると、ひとつフンがしてあった。黒っぽい部分が大便で、白っぽい部分が小便だ。そんなインコ知識を思い出しながら、帰りに鳥カゴを買おうと決めた。
翌朝、彼女はいつものように電車に乗ってきた。私を見て、えしゃくした。
「すみません……」
「いえ。あの鳥、飼うことにしましたよ」
「そうですか、すみません」
「名前は、『悪い上司』にしました」
「いいと思います」
「はい」
けっきょく、それっきりではある。
長時間液晶の画面を見続けていた為に疲れて痛み出した目に男は顔をしかめ、眼鏡をはずすと、ゆっくりとした手つきで、丹念に目頭を揉みほぐした。先日取引先に納品したばかりのシステムに早くもトラブルが生じ、こうして深夜にまで会社に残って対応に追われているのだ。その上プログラム修正にかこつけて、先方が一度通った仕様書に今さらになって難癖をつけ出してきた。よくある事といえばよくある事だが、嫌にならないと言えば嘘になる。
疲労の色濃いため息をつき、冷えきったブラックコーヒーに口をつけると、再び作業に入る前のしばしの休憩として男はデスクトップのアイコンをクリックし、ブラウザの画面を開いた。軽やかな音をたてながらマウスとキーボードをあやつり、様々なニュースやコラムが次々に液晶に現れるのを見るともなしに眺めていく。こうして休憩時間中にも眼を酷使したりしているから、視力が下がる一方なのだなと男が思考の片隅でぼんやりと思っていると、ふとその手が止まった。
男の目を惹いたものは、地名をキーワードとして入力すると、その地域の地図と衛星写真をウェブ上で閲覧することのできる新しいサービスだった。入力したキーワードが正確でありさえあれば、ほぼ世界中のどこでも瞬時に俯瞰図で映し出し、各地を旅行気分で移動することができる。最近ではこんな技術もあるのかと内心で舌を巻きつつも、試しに様々な都市名を次々に入力してディスプレイに表示させていく。パリ、ニューヨーク、ロンドン、バンコク、ブエノスアイレス、カイロ……。知る限りの地名をひとしきり入力して、感心しながらブラウザを閉じる前に、男はふと思いついて冗談まじりにとある言葉を入力してみた。
『 ──H・E・A・V・E・N・・・ 』
画面が切り替わり、液晶には無表情に"not understand"の文字が吐き出される。苦笑しながら首をふり、仕事に戻ろうとして、思い出したように男は最後にもう一度だけキーボードを叩き、Enterキーを押した。
『 ──H・E・L・L・・・ 』
今度も何も起こらなかった。
やれやれとのびをして、コーヒーをいれ直すために立ち上がる。その背後で、唐突にデスクの画面が真っ暗になった。と同時に液晶から凄まじい勢いで黒い火柱が噴き出し、かぎ爪の生えた巨大な毛むくじゃらの腕の形をとると、男の背広の襟をひっつかみ、あっという間に男を中へ引きずりこんだ。
青木は全く仕事ができなかったため社内では役立たずと言われたが、彼はその上出来もしない株やギャンブル等に手を出しては失敗するので、何足ものワラジを履くことから今ではワラジムシという呼び名が定着している。せめてダンゴムシならまだ可愛いのになあ、と彼は常々思っていた。
しかし、そんなワラジムシの青木にも人には決して譲れないものがある。それは通勤の完璧さだ。彼の在籍していた中学校、高校、そして今いる会社は同じ町内の同じ区内にあり、彼の住居も昔から変わっていないため、せめて何年も通っている道くらいは誰よりも完璧に、かっこよく行動しよう、というのが彼の唯一の信念であった。
今日も青木はいつものように八時五分前にバス停にやって来た。ここで文庫本をかっこよく読むというのが彼のスタイルである。そして五分後にバスがやってきて、青木は整理券を後ろ手でかっこよく取り、バスに乗り込んだ。
座席に座って落ち着いていたところ、ふと青木は財布を忘れたような気がした。慌ててバッグの中を見てみると、きちんと財布はあったので彼はほっとしたが、財布の中身を確認して愕然とした。彼の会社までの運賃は三百五十円なのだが、生憎彼は壱万円札と三百四十円しか持っていなかったのだ。このままではお釣りを貰うのに手間取ってしまって、後ろの人に舌打ちをされるかもしれない。しかも彼の隣に座っていたのは金髪の不良っぽい男だったので彼の不安は一層高まった。
しかし、さっきからその男は隣でぜいぜいと荒い息をしていて、時折呻き声さえ上げている。どうやら酔ってしまったようだ。青木は一瞬ぎょっとしたが、その男があまりにも苦しそうなので思わず声をかけた。しかし男はただ呻くだけである。周りの席は全て満員だったので仕方なく青木は席を立ち、その席を男に譲った。男は微かに「すみません」と答え、横になった。
直後青木が降りる時間が来たが、男はまだ具合が悪そうで、他の人は全く関係ないという顔をしていた。青木は何だかこの男が可哀相になってきて、結局男の降りる場所まで付き添った。かくしてワラジムシはまた一足ワラジを履いたのだ。
男を公園のベンチに寝かせ、これからどうしようかと考えていたら、男はお礼のつもりなのか煙草を一箱青木に手渡した。
青木は煙草を吸わなかったし、完璧な通勤も崩れてしまったので彼はうなだれたが、でもまあいいかと踵を返して会社に向かった。
男は女を愛していた。男は女のために城を建てた。
その城の跡は今、草原だ。何もない草原だ。
その草原に、人々は続々と集まり始めていた。
やぐらが組まれ、椅子が並べられる。
オークションの始まりだ。
老人たちはみな一様にどこかを見つめていた。その供である少年少女たちもまた同じようにどこかを見つめている。
さて、会場に集まった者達の中に、他の客たちとは毛色のちがうのが二組いた。
片方は若い男女の二人組。派手な化粧。香水の匂い。けらけらと笑い、とても楽しそうだ。
もう片方は初老の男。貧乏そうな身なり。
男女はロックスターだ。破滅的な詩を、うっとりするような歌に乗せて歌うのだ。
競りにかけられた品々はその二人組みに次々と落札されていった。全ての物に、彼らは法外な値をつける。凄まじい価値をつける。
「それでは、次は皆様のお待ちかねの品物です」
司会の男が告げた。
「ご覧ください、天使の羽です」
人々は歓声をあげた。壇上にある曇った色の金属板を組み合わせたようなそれを見て、人々は歓喜した。
ロックスターの男女がすぐに値をつけた。その華奢な背中には、確かにあの天使の羽は似合うことだろう。
しかしロックスターの男女はすぐに抜かれた。
ずっと黙っていたあの初老の男が、狂ったように札束を振り回し、大声で法外な値段を叫んだのだ。
男は博物館の館長だった。彼は私財を投げ売り、博物館の貴重なコレクションも全て売り払い、このオークションに臨んだのだ。
あんなものたちに天使の羽を持っていかれてたまるか。全ての人々に、神の恵みはあるべきだ。
女はすぐに値をつり上げる。競りはこの二組の対決となり、激闘の末、結局は男が勝った。二人組はオークションに飽きてしまったのだった。けらけらと笑いながら、二人は車に品物を押し込んで帰っていった。
男は天使の羽を手に入れた。
全てと引き換えに、男は天使の羽を手に入れた。
あの二人組はその後、すぐに死んだ。ロックやセックスやドラッグを浴びるほどに楽しんだ後、悲劇的な最後を遂げたのだった。つまりはシドとナンシーのように。俺たちに明日は無いのように。安っぽい映画や小説にもなった。
男の博物館は閉鎖された。
それからも世界には色々なことが起こった。様々なことが行われ、そして忘れた。
しかしそれでも、男は未だに生きている。
ビルの真ん中で、天使の羽を抱いて、男は未だに生きている。
ブラウスの上からホックを外し、はだけさせた胸元に這わせていた右手で、そっとブラを引き抜いて露わになった乳房に顔を埋めようと、吸い続けていた唇から顔をあげると、そこに目玉があった。
大きくはないが、碗を伏せたような格好の良い乳房の、ちょうど乳輪にあたる場所に半ば埋め込まれた形で、ギョロリとせり出しているその目玉は、目蓋を持たず剥き出しのままで、確かにこちらを見ているようであったのだけれど、表情というものがまるでなく、しばらく見合わせているうちに、軽い眩暈を覚え、そういえば乳輪のことを乳暈というのだということを思い出す。
女に気取られぬよう左手で左の乳房を下から包みゆっくりと揉みしだきながら、右手を右乳房の目玉に近づけると、目玉は確かにそちらを見るようなのだけれど、やはり何の表情もなく、目は口ほどにものをいうなどというが、実際にものをいっていたのは実は目蓋ではないかと思い、確かに目蓋の動きは唇に似ていて、すると人の顔には口が三つあるではないか、とその考えに、思わずハッとしてしまい、左手を女のスカートの中へと滑り込ませると、おそるおそる下腹部に触れさせた。
案に違って、指の腹に感じるそれは他の女とかわることのないもので、少し指を沈ませてみたが、固い歯にあたるということもなく、顎を反らせ目を瞑ったままの女が、上の方の口で「ダメ」とかすかに洩らすだけだった。その様子に、少し乱暴に掌を下腹部に押しつけてから、反らせたままの顎に舌を這わせると、自然と女の胸が身体に触れ、少し冷たいような目玉の感触が伝わってきた。その感触に、子どもの頃、戯れに自分の目玉に触れ、その後何時間も鈍く痛かったことを思い出し、ハッと身体を離すも、女は薄く目を開け、潤んだ目でこちらを見るだけで、痛がっているようでもなく、つまりこの目玉は女の目ではないのだと思う。
だとすると、この目玉はいったい何であるのか。色欲と綯い交ぜなったような妙な好奇心が下腹部の熱さと共にもたげてきて、まるで無垢そのもののようなこの目玉を汚したいと思い、両乳房を鷲掴みにすると、少しせり上がった目玉をパクリとくわえ込んだ。嬲るように舐ると、目蓋を持たない目玉は抵抗する術もなく、女は喘ぎ声をあげた。その喘ぎ声に、ああ、そうか。この女は今、子を孕んでいるに違いないと思う。
万一、そうでないとしたら、それはつまりどういうことになるのだろうか。
都内某所に設けられた6畳のアパートの一室、十数羽のペンギンがひしめきあい、暑さで分泌されたペンギン独特のぬめり成分があやしく光を反射した。向かいのビルからは、この部屋のベランダに向かって次々とペンギンが滑り込んできている。故郷の南極を蝕むこの熱帯東京都に、あえて上京するよ。飛べない鳥類なのに、あえてエレベーターは使わねーよ。このパンクスピリッツである。
ペンギンがこうまで反骨精神をあらわにする意味は、誰にもわからない。意味はないからだ。これは社会への反抗ではない。人類への反抗ではない。「ペンギンはかわいい」って、それはおまえの意見だろの精神なのだ。
勢いよく部屋を飛び出し、街を大移動する。もちろん列にはならない。駅徒歩5分のアパートだったので、1羽も事故をおこさずに駅前まで辿り着いた。タクシーを止めると、事前に決められたチームに分かれそれぞれの持ち場へと急ぐ。途中ブックオフには寄らない。反抗とは常に冷静沈着なのだ。新宿で家具を見ていきたかってけど、あえてやめるという徹底振りだ。このときのペンギンたちは、20年生きていないにも関わらずまるで45歳かのような端正な顔つきだった。しかし、卵を温めるポジションの奥底に秘められた、沸き立つような何かへの怒り。これをもしもスピードであらわすとならばカーブを曲がりきれまい。
部屋に帰ってきた彼らの表情は、やり遂げた気持ちでいっぱいだったがあえて無表情だった。ペンギンたちは、都内の踏み切りをすべて曲げてはいけない方向に曲げることによって、壊しつくした。今頃都民たちは線路を渡るタイミングがつかめず、山手線の内側に閉じ込められるはずなのだ。
「俺たちペンギンの持つ独特のぬめり成分の前に、人間どもがひれふす日も近い。か」
さもモチベーションが右肩上がりのセリフをしゃべるペンギンたちだったが、本当はもうずいぶん前からわかっていた。山手線の内側に閉じ込めても私鉄に乗れば脱出できるということが。