第44期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 de-bu to-be 867
2 休日 鈴木 真理子 1000
3 発明品ナンバー21 笹帽子 1000
4 ドラム缶 あきのこ 624
5 かくしごと 清藤 美佐 608
6 ソレデハ、ミナサン… 八海宵一 622
7 ほくろ りうめい 822
8 そこにあるもの 公文力 793
9 辛苦 ARI 279
10 『定員オーバー』 橘内 潤 976
11 何もない舞台 三浦 999
12 池袋ブルース 朝野十字 1000
13 西直 1000
14 一度はみんな考える あらかき いち子 984
15 バラ4輪 しなの 900
16 花霞 真央りりこ 940
17 蚊の飛翔 藤水木 1000
18 愛せない者は愛されない浜辺 qbc 1000
19 お裁縫 わら 1000
20 ナオキ君 海坂他人 1000
21 波紋 宇加谷 研一郎 1000
22 積み荷のない船 戸川皆既 1000
23 虚空 ぼんより 1000
24 恐怖 負け犬 955
25 パラボラアップル るるるぶ☆どっぐちゃん 1000
26 香辛料 壱倉 1000
27 バスケット・クソ度胸ボール ハンニャ 863
28 劇場 曠野反次郎 985
29 トーストとトマト 冬口漱流 561

#1

de-bu to-be

「頑張れー!」

 クラスのみんなの声援がどこか遠くから聞こえてくる。ほんの少ししか離れていないところからなのに、耳にフタがしてあるみたいに、壁の向こうから聞こえてくるみたいだった。

 体育の時間、走り高跳びの授業中。
 僕は体育が……運動が苦手だ。いや、大っ嫌いだ。
 気が付いたら僕は『デブ』になっていた。小学生になって友達が出来て、あだ名が『ブッちゃん』だとか『ぶーやん』て呼ばれるようになって初めて、周りにはそう見えるんだってことに気がついた。
 正直ショックだった。
 おかわりは大好きだし、おやつもいっぱい食べる。外で遊ぶよりも、家でおやつとコーラとそしてゲームをするのが大好きだ。
 デブだけど、友達には『力持ち』だとか『優しそう』だとか言われて、悪いことばかりじゃなかった。

 そう、体育の授業以外は……。

 他のみんながポンポンと軽々バーを飛び越えてゆく中、僕だけは隣でゴムひもを飛び越える練習をさせられていた。
「よーし、今からみんなの記録会をやるからな!」
 担任の先生は、みんなが一斉にあげた悲鳴と歓声を満足げな笑顔で受け止める。
 ゴムひも跳びをいきなりの卒業。そしてそのまま、最後の最後に一番低い高さの僕の番。
 みんなは体育座りで息をのんで見守っている。僕の足は緊張でガクガク。心臓はうるさいくらい耳のすぐそばでバックンバックン鳴っていた。赤と白のシマシマの棒が僕のゆく先を通せんぼしている。
「頑張れ! 大丈夫だって!」
 大丈夫じゃないってば! 勝手なこと言うな!
「ほら、思い切り飛んでみろ! 怖がるな」
 先生が背中を軽く押す。僕はみんなの自分勝手で無責任な声援から逃げ出すように走り出す。

 ドッドッドッ……。
 上下に激しく揺れながら赤と白のシマシマが目の前に迫ってくる!

 ……僕は、ふかふかのマットの上で大の字になって青空を見上げていた。
 おでこからこぼれた汗が鼻をムズムズとくすぐる。もう、どうでもいいや!
 僕はただ見上げた空の雲の隙間を、ひと筋の白い線を描きながらすり抜けてゆく飛行機の姿を、いつまでもいつまでも見つめていた。


#2

休日

全く、休みだからなんだってんだ…
 唇を開かず小さく舌打ちをした。ゆっくりコーヒーを口に運ぶ。カップの中には もういくらも残ってない。冷めた琥珀色のそいつがわずかに清の口を濡らしただけ。
 もう、そろそろ出なくちゃ行けないか?さっきからウェイトレスが何度も彼のグラスに水を注いでは忙しそうに脇をすり抜ける。
 ここを出たら どこに行こう。
 ポケットの中には くしゃくしゃの千円札が一枚、それをもう何度も確かめていた。いや すでに これから支払うコーヒー代の為にそいつは千円札であることをやめていた。
 せっかく 出てきたんだ、何か楽しみたい。
(家に帰るか?)
 すぐに、出てくる時の光子の掃除機をかける顔を思い出し、気が萎えた。面倒くさそうに、それでいて神経質な掃除機の使い方は光子の不機嫌を表していた。平日働く光子は掃除機を念入りにかけるのは休みの日だけなのだ。
 掃除機をかけられない平日への不満はそのまま、共稼ぎをさせる夫への不満なのだ。
 新聞でも、と思ったがやめた。
(だいたい喫茶店で、家の居間でやるべき事をわざわざやる奴の気がしれない……)
 
(本屋にでも行こうか)
 そう思ったのは 店のドアを開けてすぐに通りの向こう大きな本屋が視界に入ってきたからだ。
(ん?あぁ ここは あそこか)
 頭の中で カチっと 音がするように記憶がつながる。
 学生の時 よく通った本屋だった。ちょうどこの角度から見た景色に覚えがあった。滅多に出てこない町の通りに、古い記憶は錆び付いていたようだ。
 建物も 道路の様子も 様変わりして たった今まで 気がつかなかったらしい。
 本屋の記憶から 学生時代の記憶が 堰を切った。
 新しい建物に 昔の建物が重なって見えてくる。店の前に赤いセーターの女の子が人待ち顔で立っている。
 光子だ。
 清の視界の中で赤いセーターの女の子は若い光子の顔になってみせた。
 ちょうどその時”光子”に若い男近づいた。どのくらい待ったのだろう。長い時間待ったから 待ち人がそんなに嬉しいのか、その場に立ったとたんに来たから 男の誠実さが嬉しいのか。実にいい顔で男を迎えた。
 貧しい学生だった清は 光子との 待ち合わせは いつも本屋だった事を思い出した。
 そうだよな…あいつは いつだってちょうどあんな顔で 俺を待ってたんだ。

 3月はまだ寒い。暖房の利いた店から出た清は 身震いを一つした。
 家に帰るか・・・


#3

発明品ナンバー21


「さあ、実際に試そうではないか」と博士。
「ええ、はやく試してみましょう」と助手。

 博士と助手は苦心の末、一年をかけてこの発明品を作りあげた。『何でも見える眼鏡』である。

「しかしせっかくだから、かけたとき何が見えるか先に考えてみようじゃないか」と博士が言った。
「それも面白そうですね。早くかけてみたい気持ちもありますが、考えましょう」と助手が言った。

 博士と助手は考えた。『何でも見える』のだから、どこまでも遠くや、逆に目の前の空気中の微小な塵も見えるのではないだろうか。この研究所の外の様子を壁を透かして見る事や、さらには地球の裏側までみる事ができるのではないだろうか。後ろにある物や、自分自身や、遠くからみた状態も見えるのではないだろうか。物の価値や、人が嘘をついているかどうかや、未来まで見えるのではないだろうか。二人の議論はしばらく続き、やがて二人とも黙りこんだ。

「もう我慢ができません。早くかけてみましょう」と助手。
「お前の言う通りだ。かければ全てわかることだ」と博士。

 しかし、いよいよ完成した試作品の『何でも見える眼鏡』を前にして、問題が起きた。

「試作品は一つしかない。悪いが私に先にかけさせてくれ」と博士。
「そんな。私だってこの研究に貢献しました。どうか私に」と助手。

 二人は自分こそが眼鏡を先にかけるのにふさわしいと主張しあったが、二人の話し合いはまとまらない。ついに博士がある提案をした。それは試作品の元になったただの何でもない普通の眼鏡と『何でも見える眼鏡』とを混ぜ、二人で一つずつ選んで同時にかける、というものだ。

「見かけではどちらがどちらかわからない。いい考えだろう」と博士。
「なるほど、それなら公平にもなりますし、いい考えですね」と助手。

「ではかけよう。いいか、私が合図をしたらだぞ」と博士。
「わかりました。博士こそ抜け駆けはだめですよ」と助手。

 二人は同時にそれぞれの眼鏡をかけた。
 とたんに二人とも素頓狂な声を上げ、すぐに眼鏡を外した。目を見合わせ、もう一度自分の持っている眼鏡をまじまじと見た後、素早く互いの持っている眼鏡を交換し、かけた。
 するととたんに二人ともさらに素頓狂な声を上げ、すぐに眼鏡を外した。目を見合わせ、さらにもう一度自分の持っている眼鏡をまじまじと見た後、素早く互いの持っている眼鏡をまた交換し、かけた。
 とたんに二人とももっと素頓狂な声を上げ……


#4

ドラム缶


「これ、入ってみようか」
 テツがドラム缶を蹴った。中学校の通学路。林道脇に赤錆びた空のドラム缶が転がっている。ドラム缶の一方が土に埋もれていた。
「きったねぇ」
 ジュンも蹴る。鈍い音がする。
「こういうのを見ると入ってみたくなるね」
 テツはカバンを放り投げた。ドラム缶に頭から入って行く。ジュンもカバンを置き、ドラム缶に頭を突っ込んだ。
 テツが叫んだ。
「あれっ、な、なんだ」
「うわっ。これ、トンネルの入口?」
「わかんない。とにかく行ってみよう」
「奥は狭いけど、立てないことないね」
「暗い。こんな時はライターを。センコウに見つかると、『タバコを吸っているのか』って。親もこっぴどく意見されるんだよな」
 二人はカビ臭い、湿った中を進んだ。
「あ、明かりが見える」
 外に出ると草原だ。見たことのない場所。
 子供達が缶蹴りをしていた。男の子は全員坊主頭で女の子はおかっぱ。みんな汚れた継ぎ接ぎだらけの服を着ている。五、六歳から十二、三歳で九人いた。その中の年長らしい男の子が、枯れ枝を掴むと身構えて聞いた。
「おめぇたち、どっからきた」
 それに応えようとしたと時、サイレンが鳴った。一斉に子供達が近くの林に逃げ込んだ。
「おめえたち、敵国にやられるぞ」
 男の子が怒鳴った。テツがトンネルに突進する。ジュンも続く。低空で飛行機のエンジン音が追いかけてくる。二人は壁にぶち当たりながら先を争って走る。
 ドラム缶の外に出ると、もとの林道脇に戻っていた。……夕陽が真っ赤だ。


#5

かくしごと

「私、ずっと強くて何でもうまく出来る人になりたかったの。」
突然ともだちが言ったから我に返りました。
「だから頑張って仕事もやって、辛くても周りに悟られるのが格好悪いから澄ました顔して我慢してたの。ずっと。泣きたくてもぐっとして。家に帰るともうこらえすぎて泣けないの。そしてまた朝が来て我慢して。でも一番嫌なのが自分なの。うまく謝れないし、いらいらするとあなたにもきつい言葉で返してしまう自分が。」
煙草の煙を吐き出すように一直線に言葉を押し出してともだちは、黙った。
・・・なにを言ったらいいのだろう。と顔を見てもともだちは向こうの信号待ちの車を見ています。さっきの言葉は私の空耳で、ともだちはずっと前から黙っていた様な気がしてきました。
「なんか嫌だ。何が嫌って自分が嫌。」
さっきとは打って変わって激しく言い放ってまた黙ってしまいました。また顔をみると静かに涙を流していました。
きっと私は励ましたり慰めたりするべきなのでしょう。でもわたしは何もしませんでした。自分の厭らしい部分や認めたくない部分を代わりに吐き出してこの車の中で蒸発させてくれた気がして心地よい安堵感がありました。ともだちの顔を見ると涙は続いていたけれど穏やかな顔をしていました。明日になれば私もともだちもまた我慢して澄まして傷ついていくのでしょう。すぐに素直なにんげんになれるはずもないから。みんな弱いところを隠している事がわかったからそれだけで、いい。


#6

ソレデハ、ミナサン…

 ダダ、ダン。ダダ、ダン。ダダダダダン。はっ!
 ダダ、ダン。ダダ、ダン。ダダダダダン。あっ!
 ダダダ、ダン。ダ、ダダン。ダダダダダン。わっ!
 ダ…ダ、ダン。ダダダ、ダンダ。ダダダダダダダダ……ダン、ボン。ぎゃ〜!!

 ゼッケン402番は煙をふきだし、とうとう腕が動かなくなった。
 スタッフたちが駆け寄り、あれこれ方法を試みたが、やがて、全員が肩をすくめ、首をふった。
 3人の審判も競技の続行は不可能と判断し、判定を下した。
 一呼吸空けて、司会の男が大きな声で宣言する。
「優勝はゼッケン210番、W大学のスキュータ3世に決定ですー!」
 フレキシブル・アームを持つロボット――スキュータ3世は、三三七拍子をしたまま、きれいにお辞儀をしてみせた。
 リズム、音量、力加減、どのロボットよりも完璧にできていた。
 司会者が競技場にあがり、スキュータ3世の横に立った。
「会場の皆さん、では、優勝したスキュータ3世の音頭で三三七拍子をしたいと思いますー! 用意はいいかな? スキュータ3世くん」
 司会者のフリに、スキュータ3世は手の動きをリセットし、頷いた。
「ソレデハ、ミナサン、オテヲ、ハイシャク…」

 ダダ、ダン。ダダ、ダン。ダダダダダン。
 ダダ、ダン。ダダ、ダン。ダダダダダン。

「モウ、イッチョ…」

 ダダ、ダン。ダダ、ダン。ダダダダダン。

 こうして、会場の全員がスキュータ3世にあわせて手拍子をし、第512回ロボコンは、異様なテンションのうちに、幕を閉じた。


#7

ほくろ

隣で心地よく眠っていた彼女が、僕の手を持つとまじまじと見つめた。

「人差し指の指先にほくろがあるんだね。」

「ああ、これ?テントウムシのせい。」

「え?噛まれたの?怪我したのが残っちゃったの?」

そうじゃなくて、と僕はこの前あったことを話し始めた。


この前の日曜日、夕方にさ、窓を開けっぱなしにしてタバコを吸ってたんだ。
一匹のテントウムシが入ってきて。ナナホシの。
畳に着地するとソロソロと這い始めた。
片方の羽はしまい忘れたままね。
それが本当にかわいくて、別に殺すもんでもないしってそのままにしておいた。

次の日会社から戻ってきて部屋の電気をつけると、まだなんとなく気配を感じる。
そのナナホシテントウまだいたんだ。踏み潰さないようにちょっと気をつけて、冷蔵庫からビール缶出して飲みながら観察。

本当に点が七つあるのか数えたくて近づいた。
エナメルみたいにあんまり背中がツルツルしてるから触りたくなって、人差し指をそっと置いたんだ。そしたら点がぎゅうっと集まりはじめて指先に吸い込まれて、ただの真っ赤な虫になっちゃった。
点はどこに行っちゃったんだ?
指先をゆっくりとこちらに向けたよ、したらポツって黒い点があって。

僕はただ指先にできたほくろを見てた。
この点は持ち主に返したほうがいいかも、だって点がなくなったらテントウムシはテントウムシじゃなくなっちゃうじゃんか。
ただの赤い虫になっちゃうじゃんか。
でも、ちゃんと7つに散るのかな・・・・
と思ったときにはもうヤツはいなくなっていた。
とりあえず窓の網戸は開けっ放しにしておいた。

「じゃあ、このほくろはテントウムシの点なの?」
信じられないといった表情で僕を見つめる彼女。
僕の手をつかむと自分の左の乳房の上に指先を置いた。
指先をそっと離すと、そこにはぽつりとほくろができていた。
七つの点がぎゅっとつまった濃いほくろ。
僕は彼女の乳房にそっとキスをし、そして彼女を抱いた。
今のところ、そのほくろは彼女の唇に小さくのっかっている。


#8

そこにあるもの

「お父さんがね、何か飼ってるのよ、家の地下室で。」
「飼ってるって何を?」
「だから何かを!」
「でも君ん家の地下室ってお父さんのワインセラーじゃなかったっけ?」
「お父さんはもうお酒をずっと断ってるわ。それにワインのコレクションは友達やら親戚やらに破格の安値で譲ったみたい。お母さん、ワインなんて全然興味なかったのに相場を誰某のお茶友達から聞いてそりゃあ愚図ってたもの。」
「それじゃあ君の生まれ年のワインはどうなったの?」
「そんなの知らないわ。あなたって論点が少しずれてるんじゃない?私はワインセラーのことを話したいんじゃなくて今そこにある何かについてあなたに相談しているの。」
「そのお父さんが飼っている何かについてね?」
「そういうこと。」
「で、一体何を飼っているんだろう、君のお父さんは。」
「きっともの凄くおぞましい何かよ、きっと。」
「どうしてそう思うの?」
「最近行動がおかしいもの。」
「どんな風に?」
「夜中にね、大きくて真っ黒なゴミ袋を車に載せていくの。しばらくしたら帰って来るけどきっとどこか近くの山にでもそれを捨てに行ってるのよ。」
「ふうん。で、君はその地下室を覗いたの?今のその異変を感じてから。」
「お父さんの留守中に行ってみたわ。でも鍵がかかっていて入れなかったの。でもね、」
「でも?」
「そこから臭いがしたの。何て言ったら一番しっくりくるか考えてみたけれど適当な言葉が・・・」
「おぞましい臭い」
「そう!《おぞましい》。それよ!」
「さっき君がそう言ったよ。」
「あれ、そうだっけ。」
「ところで論点を変えてみよう。最近君のお母さんはどうしてる?」
「えっ、お母さんって?」
「傷跡を見るのはまだ怖い?もうすっかり完治しているんだよ。」
「先生!だからっ!!」
「先生じゃなくて《あなた》と呼ぶようにね。」
「・・・・・・」
「それにしても君の生まれ年のワインは一体どこに行ってしまったのだろうね。」


#9

辛苦

其処に只二人が居て、深紅のソファがあって、世界は満ち足りていた。

三年後の十八歳だけを夢に見る二人は、煙草を吸って、酒を飲んでいた。

笑う、泣く、寝る、縋る、耐える、そして死を思う。

崖の上に立つ足が踏み出す事を怖れ、いや、怖れたわけではなく、希望を見ようとしたが為に永遠は去る。

崖から宙への道ではなく、死を傍に置いて尚現在を歩く事。

生きとし生ける者が踊り狂う世界で、二つの幕が同時に引かれる寸劇。
主演の重荷から逃避した人間に、次の役は回ってこない。

桜色の花弁が無数に舞う中で、腕は、幾許もの白を交ぜる事ない深紅だった。

セヴンスターの香りは、今も未来を謳っている。


#10

『定員オーバー』

 退社時間になったぼくたち社員六人は連れ立ってエレベーターに乗り込んだ。
 おんぼろビルに相応しいおんぼろエレベーターは、すし詰めの乗客に不満を言うこともなく、軽い浮遊感を感じさせながら下降を始めた。
 ぼくたちの会社はビルの三階で、二階は今どのテナントも入っていない。外につながる出入口は当然一階だから、三階でぼくらを乗せたエレベーターは一階まで直行のはずだった。ところが、だれかが間違ってボタンに触りでもしたのだろう、エレベーターは二階で止まって扉を開いたのである。ドアの真正面に立っていた南波さんは、回数表示が二階であることに気付かないままエレベーターを降りてしまった。しかし、だれも自分の後につづかないことに気がついて間違えたのだと悟ると、閉まりかけのドアの内側に慌てて取って返したのだった。
 ブー、ブー、ブー。
 重量制限のブザーがなった。
 ぼくたち六人は互いに目を見合わせた。六人乗っていたエレベーターから南波さん一人が降りて、南波さん一人がまた乗り込んだ。人数も重量も変わっていないはずなのに、どうしてブザーが鳴っているんだ?
 そのとき、一番奥に立っていた戸辺さんが陰気な声を発した。
「駄目ですよ、南波さん。そんな人を連れてきちゃ」
 その言葉に全員が南波さんの方を見たのだけれど、そこには南波さん以外、誰の人影もない。さっきもいなかったのだから、誰もいなくて当然だ。けれど、戸辺さんが「しっ、しっ」と手を振って追い払う仕草をすると、ブザーが止んで、エレベーターは何事もなかったかのようにまた下降を開始したのだった。
「南波さんはもう二階で降りちゃ駄目ですよ。二度目はきっと帰ってくれませんから……」
 く、く、と戸辺さんが陰気な声で笑った。
 一階に到着すると、ぼくたちは足早にエレベーターから降りて外へ出た。一人暮らしの南波さんは自宅に帰るのが恐かったのか、今晩は飲み明かそう、としきりにぼくらを誘ってきたが、ぼくを含めた全員、今夜は予定があるからと断って帰りを急いだ。
 その夜以降、南波さんの姿を見たものは誰もいない――などということもなく、戸辺さんが無断欠勤をつづけているだけで何ひとつ変わらない毎日のままだ。ただひとつ変わったことといえば、南波さんがエレベーターに乗るときに回数表示をじっと見上げて目を離さないようになったことくらいだろうか。


#11

何もない舞台

 明かりが点くと、何もない舞台に、向かって右手から、暗い色合いの厚手の服を着けた男が、風に飛ばされるのを警戒するように頭にかぶった帽子を右手で強く押さえ、全速力で走って来た後の緩やかな走りといった具合に歩いて来る。舞台中央で自然な感じで足を止めると、大きくゆっくり辺りを見回す。帽子の上の右手はそのままである。覗き込むように体を傾け舞台の端々を睨み、やがて上体を起こすと、男は口を薄っすらと開けたまま、茫然の体で立ち尽くす。帽子の上の右手が、この時ようやく、力がまったく抜けた感じで、体の表面を這うようにして、ゆっくり、ゆっくり、下ろされていく。両手がだらりと床に向かって垂れ、表情も垂れる。男は、足取り重く、しかし、確固たる目標があるような素直さで歩き出す。が、ある地点まで行くと、不自然にバランスを欠き、突然方向を変える。それが四度続き、男の彷徨はパターン化され、やがて綺麗な円運動へ移行する。舞台目一杯に広がる大きな左回りの円である。
 男が舞台中央奥に差しかかった時に、向かって左手から、明るい色合いの薄手の服を着けた女が、火の点いていない煙草を口に咥え、誰かに押されるのでようやく前に進んでいるといった具合に歩いて来る。裸足である。女は、男よりも遅く、舞台の右手の方へ向かって真っ直ぐ歩き続け、右端に到達した時に丁度男の進路を塞ぐ。始め、男が驚いたふうに顔を上げて立ち止まり、その気配を察したふうに女も顔を上げると立ち止まる。だが、互いに顔を合わせようという様子はなく、寧ろ、相手の存在に気がついていないような体である。ここで、長く、長い沈黙。そして、そこに唐突に、舞台左手から右手に向かって、黒い小型犬が全速力で駆け抜けて行き瞬く間に舞台から消える。それが巻き起こしていった風に押されたという具合に女は再び歩き出し、そのまま舞台右手に姿を消す。男はまた、女が現れる以前とまったく同じに、円運動を開始する。
 と、舞台右手から全速力で走って来た先程の女が、舞台中央でくずおれる。女の胸から先程の黒い小型犬が飛び出し、舞台左端に差しかかっていた男の帽子を高い跳躍で奪い取り、そのまま舞台左手に消える。男はその場で立ち止まり、女は声を噛み殺して泣く。ふと聞き覚えのある音を聞いたような気がしてそれの正体を突き止めようというふうに、男は一点の虚空を見つめ、瞬きひとつしないが、明かりはそこで消える。


#12

池袋ブルース

 午後八時半。外回りの営業が予想外に長引いた。今日は社に戻らず直帰しよう。そう思った途端携帯が鳴って、経理の洗井君からだった。
「今どこですか?」
「驚くなよ。こちら惑星オルドン」
「A社が見積額を今日中にコールバックしてくれって」
「先程パラレルワールドに移行してしまったのだ。ここのぼくはそっちのぼくじゃない」
「じゃあなんで地球のぼくと電話で話してるんですか?」
「うむ。電話だけ元いた世界と接続している。確かに不思議だが、おそらく時空連続体の微妙なねじれが……」
「今どこですか? 戻れるならすぐ戻ってA社に返事してください」
「いや、だから。戻れないから」
「今横浜とかだったらA社にそう説明しますから。でもホワイトボードによると今池袋あたりでしょ」
「わかんないやつだな。ここは地球じゃない」
「じゃあ周りの景色を説明してください」
「うむ。荒涼たる砂漠だな。むこうにジャバ・ザ・ハットの岩屋みたいなのが見え、鉄のシャッターが下りている。シャッターには『ISP』と大書されている」
「どういう意味ですか?」
「インターネット・サービス・プロバイダー?」
「んなわけないだろ」
「洞窟を進むと……あっ! 砂漠と思えたのは巨大地底世界であった。今地上に出たぞ。向こうに建物があり人の気配がする」
「じゃあそこがどこか聞いてみてください」
「そこは竜宮城であった。美しい乙姫たちにもてなされ、たちまち三千年の月日が流れた」
「もしもし?」
「はいはい」
「三千年も電話がつながりっぱなしかよ」
「時空のねじれが時間軸を寸断しているのだ。竜宮城を後にして幾多の冒険をしたぼくが見えるぞ。星間戦争が勃発し残虐雷帝が銀河を支配、ジェダイの騎士となったぼくは、お姫様を人質に取る雷帝に捕まってしまう。絶体絶命! しかし強欲な雷帝はぼくが持っていた思い出の玉手箱を開けてよぼよぼの老人になってしまった。銀河に再び平和が訪れた。ぼくはお姫様と結婚し、ジェダイ・アカデミーを再建した。アカデミーの中心には傑出したジェダイ・マスターであるぼくの銅像が建てられた。その前に立ち、万感の思いが込み上げるのであった……」
「わかりました。とにかく今日は社に戻れないんですね?」
「うん」
「A社には明日にしてくれと言っておきます。だから最後にひとつだけ教えてください。『ISP』ってなんですか?」
「うむ。池袋ショッピングパークの略だよ」
「やっぱり先輩、今池袋なんだ」


#13

 息が熱い。スチームヒーターが湯気を立てている。額の濡れタオルは少しぬるくなっていた。暑いのに寒気がした。天井が揺れていて、しばらくぼんやりと眺めた。お姉ちゃんが心配して、あたしの顔を覗き込んだ。あたしは安心させるように少し笑った。汗をかこうと思い、口のところまで布団を被った。


 休み時間で、教室の中はざわざわしていた。隣の席に今里さんが座っている。同じクラスだけど、あまり話したことのない子だ。でも何故か親しげにあたしに話しかけた。仲良くないはずのあたしも、にこやかに、「何?」と応えていた。いくらか言葉を交わして、それから今里さんは鞄を広げた。覗き込むと黒いものと肌色のものが見えた。切り取られた頭と腕だった。
「へえ」
 あたしは思わず声をもらしていた。綺麗な切り口だった。首のところも腕の付け根のところも、ちゃんと真っ直ぐすらりと切り取られていた。
「どう?」
 今里さんが自慢するみたいに言う。
「うん」
 あたしは少し興奮気味に頷いた。
「触っていい?」
「いいよ」
 どきどきしながら鞄に手を入れる。指先が腕に触れた。撫でると産毛の微かな抵抗があった。うっすらと塗られた薬品でかためられた産毛。なめらかな皮膚。その奥にあるかたい骨の感触。
「自分でやったの?」
「ううん、やってもらった。お姉ちゃんに」
「そうなんだ」
 髪に触る。さらさらで少し羨ましい。耳はほんのりと柔らかかった。その心地良さについ笑みがもれた。顔を触ろうと鞄の奥にまで自分の腕を埋めた。指先が丸い瞼に触れた。


 額の冷たさに薄く目を開けた。スチームヒーターのゴーッという音が聞こえてくる。
「あ、起きた?」
「……うん」
 お姉ちゃんが心配そうに目を細める。あたしは布団から顔を出し、ほおっと息をはいた。まだ少し熱かったけれど、大分ましになった気はする。手を出して額のタオルを触る。取りかえたばかりの冷たいタオル。……ありがと。
「大丈夫?」
 覗き込んできたお姉ちゃんに、あたしはそっと手を伸ばした。「えっ、何?」とお姉ちゃんは戸惑うけれど、顔を寄せてきてくれた。
 瞼の上に指をすべらせると、お姉ちゃんはくすぐったそうに笑った。髪を撫でて、耳をなぞり、首筋を触った。なめらかで、すべすべで、切れ目はなくて、あたしはほっと息をついた。
「なあに?」
 お姉ちゃんはささやくように言って、あたしの手を握った。少し濡れた冷たい手。あたしはにっこり笑ってみせた。


#14

一度はみんな考える

春。私は高校を卒業した。
さて。これから自殺しようと思う。

四月から進学する大学は決まっている。
一人暮らしをするアパートも決まっている。
アパートの鍵は手元にある。
実家の鍵置き場には、一応ダミーを置いてきた。
合鍵は親が持っているが、このアパートにいるとは多分思わない。
もし気付いても、かまわない。
アパートの存在を思い付き、鍵が無いことを確認する頃。
きっと私は死んでいる。

自殺しようとする人間にとって、自殺を止めようとする人間は、邪魔でしかない。
どれだけ正論を述べられても、何の意味も持たない。
ただただ、うるさいのである。
そんなことは、言われなくてもわかっている。
痛いほどわかっているが、どうしようもないのだ。
「いいや、お前はわかっていない。」
という人もいるだろうか。
しかし、本人にとっては、どうでもいい。
他人の正しさは、本人にとって必要ない。
自分の中で考え、結論を出した行動が第一である。
それこそが、本人にとっての正しさ。
たとえ、他人にとっては誤りであっても、決して後悔はない。

なるべく普段通り、をモットーに。
自動車教習所に行く振りをして(私の地元は田舎のため、高校卒業時には皆免許を取る)、
空港へ向かい、キャンセル待ちの飛行機に乗った(やはり田舎のため、座席はがらがら)。
無事、先月入居手続きを済ませたアパートに着く。
食事はこの三日水のみ。
睡眠薬はそこらの薬局で買った。
こんなものでは到底死ねそうに無いが、
空腹時に酒で一気に流し込めば、いけるのではないか。
近くのスーパーで、酒と懐中電灯と雑誌を買った。
アパートには電気がまだ通っていないので、寒いし暗い。
暇つぶしに買った雑誌は、主婦向け料理本だ。美味しい料理の夢でも見ながら、死ねるだろうか。
さて。準備が整った。整ってしまった。
なんだか怖いな。
正直、ここにきて怖気づいている。
もっと言うと、準備段階で、自殺願望が達成されてしまった。
第一、こんなやり方で本当に死ねるのだろうか。
中途半端に、死に損ねるのだけは嫌だ。
お守り代わりにこの薬を持ち歩こうか。
これが手元にある内は、いつでも死ねる。
そう思うと、これからの人生もあまり怖くない、気がする。
錯覚でも何でも、自殺を試してそう思ったんだから。
他人から見たら「人騒がせな」「意気地なし」と言われるだろうか。
まあ、他人の見方は関係ない。
これが、私にとっての正しい自殺ということだ。


#15

バラ4輪

「お腹痛い」と由紀が言った。それで、母は幼稚園を休ませた。
 ひどく寒い日だったので、日差しが出て、少し暖かくなるのを待ってから、母親は街中の診療所へ由紀を連れて行った。
 防寒着で丸々となった由紀は、自転車の後ろに乗せられ、晴れた空の下、冷たい風の中を、母親と一緒に疾走して行った。
 診療所は混んでいた。暖かい待合室にはたくさんのお年寄りがいて、何事か熱心に話し込んでいた。由紀は老婆たちの注目を集めたが、咳をしている人もいたので、母親はひざの上に由紀を乗せて、放さなかった。
 診察室に呼び込まれた。やはりたくさんの人が、壁際に並べられた長いすに掛けて順番を待っていた。医師たちと順番まちの患者たちの間には、白いカーテンがあったが、ほとんど閉じられることはなかった。
 順番が回ってきて、母親は由紀を医師の前に連れて行き、由紀を抱いて回転椅子に座った。
「どうしたかな?」と男性の医師は禿げ頭を傾げて、由紀に聞いた。
 母親が代わりに答えた。「お腹痛いんだそうです」
「そうですか」医師は言って、由紀にあーんをさせて舌を出させた。それから母は医者の指示どおり、そばのベッドに由紀を仰向けに寝かせ、看護婦と二人で由紀のお腹を露出させた。医師がベッドの横に立ち、由紀の下腹部に触れて軽く押した。すると、由紀は大声で叫んだ。
「あんた、何すんのよ!」
 医師も看護婦も「グッ」と言うような変な声を出した。診察室のささやきがぴたりと止まった。そして、一瞬置いて、人々はどっと笑い出した。それは、診療所を揺り動かすほどの笑い声で、医師は上半身をベッドにうつ伏してしまったし、看護婦は大口を開けて笑っていた。母親はしゃがみこんでしまって、苦しそうにしていた。順番待ちの人々は椅子の上で笑い転げていた。
 由紀は不思議そうにあたりを見回した。母親が苦しそうなのを見て心配になった。
 その日の夕食の食卓で、母親は言った。
「今日、由紀ねえ……」
 父親も姉たちも、爆笑した。由紀はひとりふくれていた。母親はふくれた由紀を、口許に微笑を含んで見た。そして、ふと思った。
「この子、もしかしたら……」
 憶測が怯えに転化して、母の心をよぎった。


#16

花霞

 曇り空だった。朝、傘を持たずに家を出た。一日中灰色の空は夕方になっても一滴の雨も落とさなかった。傘を持たなかったのは自分の判断が正しかったという思いにかられたが、胴体から切り離された蜥蜴のしっぽがうねりながら巨大化している空を見上げると、自分の判断というものさえ何か作りごとのように思えた。夕暮れになっても雨粒ひとつ降らない灰色の空は、朝から何一つ変わっていない。灰色は証明の色彩なのかもしれない。
 時計の針がかろうじて時の経過を守ってはいるが、今日という一日などどこにもなかったのではないか、と男は思った。私の一日など、動かない灰色の空に吸い込まれてしまえばそれでおしまい。そのほうが、自分の判断というものよりも現実味があるような気がした。

 次第に暮れていく道の端を歩いていると、後ろで傘をさす音が聞こえた。いよいよ雨が降り出したのかと思ったが、空はまだ蜥蜴のしっぽで、動いている気配さえない。足元でアスファルトがどんよりと地面に埋まっていく。ウォータークラウンが、沈みゆくアスファルトの表面をはじきだしたように見えたのは、男のまばたきのせいだった。立ち止まった男の背後で、靴音が止った。
「花はいりませんか」
 振り返ると傘の下に、白やピンクの花が束ねられてあった。
「あいにくだが、間にあっている」
 顔を隠すくらいの大きな花束ではない。外側に束ねられた白いかすみ草が相手の顔をぼんやりと滲ませていた。そうですか、と花はかすかに揺れ、男の視界にまばらに散った。記念日、ということを思った。男の誕生日、妻との結婚記念日、娘の卒業式。しかし、どれも目の前の花束にかすんで見えた。

 マンションに帰り着き、ドアを閉めるとき、振り向きがちに花束を探した。建物に面した路上で、花束が勢いよく虚空に投げられるところだった。上昇する花束の途中で男はドアを閉め、ただいまと声に出して言った。返事をするものはなかった。閉められたままのカーテンを開けて、ベランダに出てみる。強い風に桜の花びらが舞っていた。自分が何か大事な記念日のことを忘れてしまっている、と男は思った。もしそうだとしても、花は束ねられ、街のどこかで運ばれているのだろう。
 いつ咲いたのかもわからない。川岸へと続く道は、満開の桜だった。


#17

蚊の飛翔

大きな蚊が飛んでいた。きっと半分あいた教室の前のドアから入って来たに違いない。蚊は教室の中を飛び回り始め僕は見失いながらそれを目で追った。
蚊に気付いているのは僕だけだった。皆一心不乱に問題集をやっていたしぼんやり外を眺めているようなのは僕しかいなかったからだ。教師はというと教卓で熱心にネイルを塗っていた。蚊は僕の近くに飛んできて隣の及川君の首に止まった。及川君は気付いていない。
及川君にはこの学校に入学して初めて会った。皆の彼への第一印象はその不潔感だった。彼は必要以上に太っていて不自然に皮膚が白くていつもフケを飛ばしていた。花粉症だったのか鼻水がたれるたびに新しい制服の袖で拭いた。彼の鼻水は大量だったので制服はウェットティッシュの様に湿って粘液のにおいがした。それからその粘液の臭いは彼の周りにいつもまとわり付いた。
外見的な短所に反し、彼は最初皆に一目置かれた。
この進学校では偏差値が物を言う。たとえ外見がどうであれ成績さえ良ければその生徒は周りから重んじられるのだ。及川君の成績がすごく良かったといいたいわけではない。ただその極端な風采でこの進学校に入って来たのならばもしかして、とみんなが勘違いしたというだけのことだった。実際彼の成績は外見と同様ぱっとしなかった。結局誤解が解けても皆は及川君に距離をとった。距離をとっただけだったといった方が正確だろう。
皆及川君に生理的嫌悪感を持っている。僕も持っている。

首に止まった蚊を僕は黙って観察していた。やはり普通の蚊よりも一回り大きいようだ。よく見ると腹に何か黄色い模様があるようにも見えた。及川君がペンを持っていないほうの手で蚊を払った。蚊がこちらに飛んできて見えなくなり耳の周りで羽音が近づいたり遠ざかったりした。蚊は今度は僕に標的を変えたようだった。及川君に止まった蚊に血を吸われるなんてぞっとする。
僕は席を立って半分開いたドアからそのまま出て行った。振り返って教室を見た。誰にも気付かれなかったことで僕は突然陽気な気分になった。
ふと気付くとあの蚊が右手の甲に止まっていて左手で蚊を叩こうとすると、逃れて教室の中に飛んでいって見失ってしまった。
僕は冷気のもれるドアを閉め手洗い場に向かった。さっきの蚊が今朝ニュースで聞いた東南アジアから北上してきた伝染病を媒介する蚊と似ていたような気がしたので、僕は鏡に向かって「まさか」と独り言を言う。


#18

愛せない者は愛されない浜辺

(この作品は削除されました)


#19

お裁縫

 窓の外はよく晴れている。
 五日分の気怠さと週末へのささやかな期待が入り交じった、金曜日の午後だ。

 六限目は家庭科。
 徹が玲の隣に座っているのは、彼の努力の賜物である。玲はパーカーを縫っていた。徹は何を縫っているのか自分でもわかっていなかった。
 徹は後悔していた。皆俯いて裁縫に勤しんでいる。この姿勢では隣の玲の顔が見えない。

「町田君さ、昨日見た?ナイナイの」

 右からの声に徹は耳を疑った。首は動かさず目だけで様子を伺うと、玲は俯いて器用に針を動かしていた。
「見たよ」
 顔が熱くなったが、徹は平静を装って言った。
「すごいよね、チャリで鹿児島まで行くなんて」
「そりゃ足の腱痛めるよね」
「だよね」
 徹は俯いたまま喜びを噛みしめた。つまらない番組だったが見てよかった。
「あの、どっかの海で出てたフグすっごいおいしそうだったんだけど」
 玲は手を止めることなく続けた。
「あー、あそこ行ったことあるよ」
 幸運に感動しながら、徹は気のない様子を装って言った。
「ほんとに!?フグ食べたの?」
 玲が声を上げた。徹は思わず右を向いた。
 玲と目が合った。
「う、うん。うまかったよ。一人で旅行するの好きでさ」
 徹は慌てて俯いた。
「へー、そうなんだ。いいな、私も行きたい」
 玲は楽しそうに言った。徹の鼓動が早くなった。
「今度、行こうよ」
 徹は目を伏せたまま声を潜めて言った。
「え?」
 徹の視界の右端で、玲の手が止まった。
「みんなでさ、行きたくない?」
 徹はそう付け加えた。
「あ、うん、そうだね」
 玲の手は再び動き出した。徹の掌は汗ばんでいた。
「でもね、こないだ道頓堀は行ったんだよ」
 玲は何もなかったように明るく言った。
「へー、俺行ったことないや」
 徹はほっとしていた。
「大阪とか人多いじゃん、私人混み苦手なのね」
 玲は続けた。玲の声は綺麗だと、徹は思った。
「だから行きたくなかったんだけどさ」
 徹は相づちを打ちながら聞いていた。
「彼氏がどうしても行きたいって言うから」

 玲のことを意識し出したのは二週間前だった。彼女について徹は多くは知らない。
「そうなんだ」
 徹はそっけなく言った。

 チャイムが鳴った。
「おーわった!」
 教室中に伸びやため息が溢れ、玲は未完成のパーカーを手に勢いよく立ち上がった。
 徹のパーカーらしき布の塊は、フードの顔を出す部分まで塞がれていた。彼はこれを被って帰りたいと思った。

 窓の外はよく晴れている。


#20

ナオキ君

 小学校五年か六年のころ、クラスの日課の一つに、三分間スピーチというのがあった。毎日「帰りの会」の時に、一人ずつ自由に話をするのである。
 ナオキ君は、一言でいえば、明朗活発、という男の子であった。マラソンが得意で、気も強かった。でも乱暴ものではなくて、情があったから、みんなに広く好かれていた。
 彼がその日どんなことを話したのだったか、細部はすっかり忘れてしまった。たしか、自分の幼い妹についてだったようにおもう。具体的な内容よりも印象ぶかいのは、その話に途中から、明らかに虚構が混じってきたことだ。
 語られている事柄が事実かどうかという判定は、改めて考えてみればむつかしい。どうもこれは嘘じゃないか、という感覚が、しだいに水位を増してくる。ナオキ君の話でいえば、妹と遊んでいたら、彼女が庭のバケツにおしっこをした、というあたりで、それが決定的になったような気がする。
 それまでつくり話をする子供などいなかっただけに、聴衆の間には、ホントかよ、というざわめきが高まってきた。
 普通の子供には、公的な場面で嘘を言うなんてとんでもない、という思いこみがある。具体的に追い込まれもしない時に、まるで無かった話をつくるような頭がはたらくものではない。
 ナオキ君も、最初はふとした思いつきで、現実をちょっとゆがめてみただけだったろう。しかしひとたび現実という地上を離れてみれば、どこへ飛翔しても自由である。聴衆の面白がる気配も、揚力として働くことになる。
 ところがこの奇妙な息詰まるような時間は、長くはつづかなかった。
 担任のH先生は、大学を出たての若い女性だった。潔癖で、常日頃から口やかましかった。ナオキ君が一生懸命話している最中に、
──もっとちゃんと、本当のことを話しなさい。そんな変に作ったりしないで。
 たまりかねたように遮ったのは、即興の危うさに堪えられなかったのであろう。
 彼が素直にはいと答えて、まじめな「本当の話」に切り替えると、とたんに座の温度が冷えた。ほっとする一方、一抹のつまらなさが漂った。彼の話が終わると、先生は、
――そう、それでいいの。
と満足そうにうなずいた。
 あれから二十年経って、自分の才に余るうそ話をひねり出そうと四苦八苦しながら、
(あの時のナオキ君は、本当に楽しそうだったな)
とおもい出す。当時の私は、書物の中の物語に、誰か作者がいるものだということさえ意識していなかった。


#21

波紋

ドラキュラは血を好むらしいが、本当にこんなものが旨いのだろうか? 甘木は舌の血を呑みこみながら吸血鬼の味覚を疑った。(ポイントは前歯にベロをあてたまま話すことです)と先生は言っている。もう何百回もきいた。(じゃあ甘木さん、やってみて。はい、猫の人形。設定は、そうねぇ、名前はにゃん太郎で。おなかがすいてご飯が食べたい。お願いしまーす)甘木はにゃん太郎ときいてびくっとした。

舞台に立ち、猫の人形を抱いて話はじめるその男、三十歳。ニャンニャンと猫なで声で「ボク、おなかすいちゃったっ」と言っている甘木竹男の姿を生徒4名と講師は真剣にみつめている。(甘木さーん、いいわよ。うまいじゃない。もう大丈夫よ、あなた。今までベロいっぱい噛んできたもんね。奥さんも驚くわよ)

甘木の妻である須恵子が(こどもがほしい、ほしいったらほしいの)と泣き出した日から半年たっていた。須恵子の身体に子供ができないことは須恵子が痛いほど知っている。甘木は悩んだ。養子はどうだと提案したが(あなたのこどもがほしいの)といってきかない。甘木は泣き寝入った須恵子の顔を眺めていたが、不意に兎のぬいぐるみのことを思い出した。二人とも学生だったころ、まだ結婚や夫婦生活が水平線の先の先にあったころに、須恵子はぬいぐるみを買ってきて(これあたしたちのこどもよ、なまえはあなたがつけるのよ)と言ったのだった。甘木がその兎ににゃん太郎とつけると須恵子は喜び、デートに持っていったりしたが、甘木がどこかで落としてしまった。それからずっと須恵子と連絡がとれなくなって、二人は一度別れることになる。数年後、街で再会したことがきっかけでよりを戻して今に至る二人だったが、ぬいぐるみのことは二人とも話題にしたことはなかった。

それから半年間、甘木は腹話術を習ってついに合格を言われた今日、駆け足でデパートに行き、あの兎、ミッフィーを求めた。昔二人がもっていたより数段大きい一番大きいのを(そのままで。包装はいらないから、そのままで)と言って、抱いて持ち帰った。

ベルを鳴らし、甘木は初夜以上に心臓が高鳴っている自分を押し殺し、まだ血のにじむ舌を前歯の前にあてて呼吸を整えた。ボク、ニャンタロウ! イママデタビニデテタゴメンネ、シンパイシタ? ユウシテクレル?

ところが誰もでてこない。鍵を回して入るとテーブルに「ごめんなさい、さようなら」と書置きがあるのみだった。


#22

積み荷のない船

 港には一隻がぽつんと浮かんでおり、それが敏幸の乗る船に違いなかった。それは余りに小さく、今にも沈んでしまいそうなぐらいだった。待合室に入ると、敏幸は俺に近づいてきて、握手を求めてきた。敏幸はあまりに平然としていて、手荷物さえ持っていなかった。その姿は、これから港を出る男のようには全く見えなかった。
「久しぶり」
 敏幸は数年前に見せてくれたのと同じように、目尻に皺を作りながら俺に笑いかけた。俺はどうして返してよいかわからなくて、ずっと手に握っていた茶封筒を敏幸に見せた。数年ぶりの俺宛の手紙には、強い決心と、戸惑いが書かれていた。
「結局見送りに来てくれたのは、お前だけだったみたいだな」
 一年に一回だけ、この港から出る小船がある。本土と島を結ぶ連絡船はこの港より少し東に造られた浜辺から出るようになっていて、この港に船はほとんど訪れない。長らく町の唯一の産業だった漁業も廃れ、この島にしがみついて生きることしかできなかった港は、ゆっくりと静寂に浸かったかと思うと、瞬く間に沈んでいった。
「手紙は、俺以外にも出したの」
「いや、お前だけ。たぶん、出しても同じだったと思う」
 そう言うと敏幸はまた笑い始めた。俺も笑おうとしたが、顔がこわばってしまい笑えなかった。
 船では、船頭が一人なにか作業をしていた。どうやら錨を外そうとしているようで、それが出港を意味していることは、敏幸も気付いているらしかった。敏幸は待合室に備えられた椅子に座ると、たどたどしく語り始めた。
「どちらにしても、俺がやんなきゃいけなかったんだと思う。島のみんなには迷惑かけてきたし、お前も本土に行ってる間俺の話よく聞いてただろ。どうしようもなかった。禊ぎみたいなもんかな。だから勝手に行ってこようと決めたんだ。だけどやっぱりなんか物足りなかったんで、お前に手紙を書いたんだ」
 俺は本土で生活を初めて以来、敏幸の話はおろか、島の話すら聞かされていなかった。この島が本土にとってどれだけ希薄な存在であるか、敏幸は知らなかった。そして本土がこの島にとってどれだけ重要な存在であるか、俺は知らなかったのだ。俺は何度か義務的に頷いた後に、一言、こう尋ねてしまった。
「また会えるんだよな」
 船は、波の流れに従順になって、ゆらりゆらりと動いていた。疑うこともなく揺れていた。敏幸は何も言わず、ただ俺の目をじっと見つめていた。表情さえも変えなかった。


#23

虚空

 くだらない映画を見た。
 二流作家が書いた原作に二流脚本家が二流の戯曲を書いて、二流演出家は三流監督だった。愛だ勇気だ希望だ夢だなんて、そんな不確かなモノはバブル期が生んだ亡霊だよ。だからもっとゲンジツ見なさいよって。これ見よがしにわかりきってることを押し付けるけど、自称銀幕スターなんてアンタの方がよっぽどヒゲンジツだ。あたしは憤慨した。スクリーンを燃やしてきた。銀幕スターの顔が歪んで、グラサンマッチョの黒人たちがあたしを取り押さえに来た。真後ろでポップコーンを食べてるちょんまげ野郎の頭を土台にひとっ飛び。あたしは逃げた。
「マチナサーイ、マチナサーイ」
 あたしは犬じゃないので。

 脈拍が正常に治まった頃、遠くでウ〜ウ〜鳴るサイレンのけたたましい音が聴こえてきた。消防車も救急車も入り混じって、わんわんにゃあにゃあやかましい。
「そこのアナタ、神を信じますか?」
 マスクをした修道女があたしに声を掛けてきた。マスクに隠れきらないほど裂けた口がピクピク震えている。どこぞの動物霊にとり憑かれた女が身なりを正している姿は健気で神々しい。でもあたしは神を信じてない。
「信じるならば青い壷を、信じぬならば白い壷を」
「随分簡潔な霊感商法だね」
「はい、そうです」
 くだらない映画の中で自称銀幕スターが呟いていた言葉を思い出す。この世は悪鬼の巣食う今地獄。俺は悪鬼の餌食になって、そこかしこの魑魅魍魎に残り滓まで吸い取られちまった。だから俺だって悪鬼になってもかまやしないだろうよ。
「いいよ、白いの買ったげる」
「どうもどうも。助かります」
「いくら?」
「え〜っとですね、税込みで三千飛んで二十九円になりますね」
「え? じゃ何、定価はニーキュッパなんだ」
「まぁそれぐらいが妥当ですから」
 よく見ると、白い下地に色絵の付いた小清水の立派な陶器に見える。ホントにその値段でいいのと念を押したが、修道女はありがとうありがとうと言いながら、ただただひたすら頭を下げてその場から立ち去った。
 あのくだらない映画を見たおかげだ。モノクロームだった風景が色付き始め、目に映るモノ全部が優雅で美しく感じるようになった。いつかまた見たい。どんな強烈なウォッカや老酒よりも、このくだらない映画の方があたしは酔える。あの自称ナントカの一言一句の方が酔える。酔える。酔える。

 あたしは間もなく捕縛され、放火の現行犯で火焙りの刑に処せられた。


#24

恐怖

怪談話にも色々パターンがあるよな。
例えば、何かが追いかけてくるとか。
例えば、一定の行動をすると死ぬとか。
今言ったようなのも恐ろしいんだけど、一番地味に恐ろしいものって『未知の存在を自覚した時』なのではないかって思うんだ。

怖いよな。
考えて見ろよ、真っ暗な部屋の中に閉じこめられて、明らかに『何か』の気配がする。
そんなことになったら、俺なら速攻で取り乱す。
『何か』に気取られないように、物音を立てないように、ひたすら部屋の隅でガタガタ震えている様な気がするよ。

昔から人は『何か』が怖くて、それに対抗するために『名前』をつけてきたんだ。
森の奥で黄と黒の縞々な物に襲われた。
これは怖い。
でも、昔の人はそれに『虎』と名前をつけたんだ。
『虎』は凶暴で襲われたら危ない。
それは身の危険と言う意味で怖いけど、黄と黒の縞々はもう『恐怖』の対象じゃなくなるんだ。

動物だけじゃない。
人は現象にまで『名前』をつけた。
大きな雷に『雷獣』
夜道の良くわからない音に『小豆洗い』
自分の母ちゃんに『寝太り女』
…すまん、最後のは不適切だった。
でもさ、そうやって『名前』をつけることによって、『知らない物』を『知っている物』として扱い、恐怖を克服してきたんだ。

ここまで、ぐだぐだ喋って、俺が何を言いたいかって言うとだな。
つまり、『未知なる物は恐怖である』と言うことなんだ。
わかるだろう?


…なら、本題に行くぜ…ありのまま起こった事を話すぜ!

『数ヶ月は客のいない俺の部屋のトイレのペーパーが三角に折られていた』

何を言ってるのか わからないと思うが俺も何を起きたのかわからなかった…
頭がどうにかなりそうだった…
単純な恐怖の 片鱗を味わったぜ…

なんだよ…反応鈍いな…
は?!『女を口説くのならもっと手短に』?!
あ?何言ってんだよ?!
口説いてんじゃねえよ?!
『怖がった振りして部屋に転がり込もうとしても無駄』?!
そんなんじゃねえよ!
なんだよ。それ。冷たいな! マグナムドライだな!!

あ、待て、切るな! 冗談だから!!
切らないで下さい!!


あーあ…ほんとに切りやがったよ……
人の話を聞けってんだよな…
ちくしょう……さすがに今は一人になるとゾクゾクするぜ…

それにしても…誰がトイレットペーパーなんていじったんだ……ん?なんか声が…?



『モウ オデンワハ オワッタノ?』


#25

パラボラアップル

 人は食物を摂取するが、その中には必ず毒が含まれているのだそうだ。
 それは量の大小はあるがどんな食べ物にも必ず存在していて、少しずつ体内に蓄積されていく。どんな酵素もそれを分解することは出来ないし、というよりもそもそもその毒というものは栄養素(主にたんぱく質)を分解・消化する際に身体が「生産」するものらしい。そのように人体は設計されているのだ。
 その毒は微量ではあるが致死性のものであり、それは体内に蓄積され続け、様々な症状を引き起こし、やがてその生物を確実に死に至らしめる。
 人間は毎日、毒を食むことにより生きていくのだ(もちろん毒を体内に入れないことも出来る。それによりその個体はもっと確実で速やかな死を迎えることになる)。
 この毒は地球上の全ての生物が同じようなプロセスで生産する。原始的な生き物に近ければ近いほど、その生産量は少ないらしい。人間はというと、そのサイズから信じられないほどの毒を生産する。全体の生産量に、とても大きな貢献をしているのだ。(そしてその寿命はかなり長いのだった)。
「ねえ、死ぬのは怖くないのかい」
「あたしは怖くないわ」
 女はそう答えた。
 女は良く食べた。女には珍しく甘いものよりも肉を好んだ。ステーキをぎしぎしと切り分けて、次々に口へ運んでいく。
 女は母を殺したのだと語るのだった。語るたび、その殺し方は変わった。
 私は女の母に会ったことがある。女がオーバードーズで病院に運ばれた時だった。
「娘がご迷惑をおかけしまして」
 そう言って深々と頭を下げた。
「助けてやってください。娘を、娘をよろしくお願いいたします」
 女は、ママ、と言った。そしてその場に私が居たことに気づき、とてもばつが悪そうであった。女のその表情は今でも覚えている。(その後も、女は母を殺したことを様々な語り方で語った。女は今も、輝くように美しい)
「りんごが宜しいでしょうね」
 医師は書き物をしながら言った。
「もう食べられるものもあまりありませんし。それでも何か、と言うならやはり果物、それもりんごなら良いでしょうね」
 りんごを持って母の病院へと歩く。
 病室の窓辺は明るく暖かだった。
 母は寝ている。
 私はりんごを切る。
 病院は草原の真ん中にある。誰かに置き忘れられてしまったかのように、緑の中、白く、静かに佇んでいるのだ。
「甘くておいしいね」
 母が言う。
「そうだね。甘くておいしいね」
 私は答える。


#26

香辛料

 中学時代、実家がカレー店を経営していることもあって、カレーにとてもうるさい少年がいた。その少年は遠足や社会化見学ともなれば必ずと言っていいほどカレーを持ってきて、彼の鞄から漂ってくる独特の匂いを私は今でも覚えている。
 中学三年生の宿泊学習で山に行った時も、彼は当然のようにカレーを持ってきた。そして登山中に突如吹き荒れた暴風雨の中、彼は斜面を滑り落ち、カレーと泥にまみれて死んでいった。
 実を言うと、私が殺したのだ。もちろん殺意はなく、悪戯に彼の脇腹をとん、と押しただけである。まあその事実は私以外誰も(恐らくあの少年も)知らないのだが。

 あれから早五年経った。私は一人キッチンに立っている。彼への追悼の意からなのかは定かではないが、カレーを作ってみようと思いたったのだ。
 カレーを作ろうと「試みた」のは初めてではない。五年前にも私はカレーを作ろうとした。その時は隣にあの少年がいて、料理を始めると彼はあれこれ私に文句を付け始め、それが面白くなかった私は料理をやめ、少年を家から追い出して、それきりである。直後彼は死んでしまったのだから。
 私はスーパーの袋から妖しい香辛料を三つ取り出した。あの少年は、この三つの調味料を混ぜて使うと全体的にコクがでる、と自慢げに話していたのだ。とりあえず適当に混ぜてみると、ふっと香辛料独特の臭いが鼻をついて、徐々に私はあの少年のカレーを思い出していった。
 次に私は冷蔵庫から母親がくれた使いかけのカレールーを取り出し、野菜を用意して、カレーを作り始めた。ろくにカレーの作り方を知っている訳でもないのに、きわめて順調に作業は進んだ。まるであの少年が隣に立ってアドバイスをくれているようだ。次はこうしろ、もう少し待て、などと私の手をとりながら指示をしてくれている。私はキッチンを一度も離れることなくカレーを作り上げた。少年は私に微笑みかけた。よくできた、と言ってくれた。私は色々な意味でホッとした。
 少し勿体無い気がしたが、ぱくりと一口食べてみる。すると香辛料の味が口に広がり、それだけだった。辛くもなんともない。キッチンに戻り材料を確かると、カレーのルーだと思っていたそれはビーフシチューのルーであり、いつの間にか少年の姿は消えていた。キッチンには滑稽な料理と私だけが残った。

 それからしばらくの間、私は一人、静かに、笑っていたろうか。それとも、泣いていたろうか。


#27

バスケット・クソ度胸ボール

試合開始直前、両チームが整列すると、体育館の天井が、なんらかのマシーン的な力によってぐんぐんせまってきた。せまってきた天井はコートの部分だけで、観客席は安全なのだが、すっかり気をぬいて観戦していた僕は、びっくりして血眼で、
「逃げろ! はやく逃げろ〜!」
と、叫んでいた。実はこのとき、僕はもうバスケット・クソ度胸ボールの魅力にとりつかれていたのだが、そんなことに気づかないほど、熱中してしまっていた。
試合なんて放りだしてすぐに逃げれば、まだ今なら選手たちは天井にはさまれることなく脱出することができる。僕は叫び続けたが、まわりの観客が、全く落ち着きはらってコートをじっとみつめていていることに気づいた。さらに、よくよく注意して観察すると、選手たちのようすが、立ち振る舞いが尋常ではないほど毅然としていることを発見した。あの選手達の瞳は、あの瞳は、逃げる気なんてさらさらないときの瞳だ。そんな自分に酔っているときの瞳だ。

「はさまれるのが怖くてバスケがやれるかよ!」
「一歩間違えればはさまれるけど、バスケしようぜ!」
「はさまれるのが速いか、ゴールへ攻めあがるのが速いか、勝負だぜ!」
僕は、そんな選手達のクソ度胸に心をうたれ、涙を流し、そして試合は始まった。
「危ない! バスケなんかやってる場合じゃない、このままじゃ天井に挟まれるぞピィ―――――!! 試合開始〜」
避難をうながすと同時に試合進行に積極的な審判の、見事なジャッジに拍手が贈られた。

体があたたまっていくのと同時に、中腰になっていく選手たちは、まさに野生の狼だ。
「ばかやろう! おまえら命が惜しくないのかピィ―――! トラベリング」
みんなの命を気遣いながらも、ジャッジにぬかりはない審判に、拍手がおくられた。
ぼくはもう感無量だったが、さらに試合終盤、夢の荒業をみることができた。
「俺が身体で天井を止めておくから、今のうちにはやく!」
選手の一人の、感動的な自己犠牲である。ここで「ディーフェンス! ディーフェンス!」の大合唱である。僕も叫んでいた。少し八百長くさかった。


#28

劇場

 まったきのその暗闇がいつから続いていたのかわからない。しかし、物語が書き始められるからにはその暗闇が破られるところから話は始まらねばならず、読者にはとっては私が感じた途方もないような時間の長さはまるで問題にならぬことだろう。だから、「唐突に間の抜けた音楽が聞こえ出したかと思うと、パッとあかりが燈った」とでも書き始めておけばよい。
 私は劇場の真ん中らへんの椅子に腰掛けていたようで、先ほどまで微塵も気配を感じさせなかったというのに劇場は観客により埋め尽くされていた。目にはしっかりと観客の姿が映し出されているが、あいかわらず人の気配というものはなく、しかし人形のような、というには少し違っていて、本物と寸分変わらぬ映像のような具合だ。
 舞台の上では十数頭のピンクの仔豚が輪になってただぐるぐると回っていた。一糸乱れぬその様子は一見機械のようであるが、こちらは漠とした観客と違って、変なまでに生々しく、吐く息、垂らす涎まで目に見えるようだった。その仔豚の様子に観客たちは私にはまるで解らぬ感興を覚えるらしく、時折歓声をあげ、一斉に拍手した。何十度目かの喝采のあと、音楽の調子が急に変わると、仔豚たちはいっぺんに飛ぶようにしてくるっと回り逆向きに走り出し、そのあまりの見事さに私はぎょっとなってしまうほど驚いてしまったのだが、他の観客はまるで知らぬふうで、相変らず私には解らぬ頃合いで歓呼した。私はその頃合いを解そうとして、懸命になって仔豚たちを見詰めてみるのだが、皆目見当が尽かず、何か一頭指標になるような仔豚がいて、その様子に興を覚えるのだろうかと一頭一頭順に目で追っていくが際立って他と異なるようなものはおらず、それぞれ微妙な差異をみせてはいるものの動き自体は一様に同じで、機械のようなという最初の印象は変わらない。
 印象? 待て、待て、ああ、そうか。私の蒙昧な脳髄に突如光が差し込み、真実本当のところを察するに到ったのだが、まるでそれを悟られたかのように、音楽が途切れ、燈も消えた。まったきの暗闇の中で、あかりが消えたと共に劇場を埋め尽くしていた観客もまた消えたのだということを私は確信していたが、それが一体どうしたというのだ。私は依然何もわかっていないのと同然で、何ひとつ変わらぬまま、この暗闇がいつ果てると知れぬからには、この先を書き続けることも出来ないのだ。


#29

トーストとトマト

 トコのトーストは朝の儀式だ。
 電子レンジのトースター機能で九分半、屈伸十回分の余熱で取り出したトーストに、上部2cmを残してジャムとマーガリンをきっかり半分ずつ塗る。はじめはまっさらなパンを口にすべきなのだと彼女は言う。左側のジャム区域から右側へのマーガリン区域へと、彼女の口はリズムよくパンを切り取ってゆく。最後の一切を慎ましく口に差し込むと、スカートのくずをはたいて、するりとドアを抜けて出かける。
 トコのトマトは夜の儀式だ。僕が仕事の帰りに買ってきた大ぶりのトマト2つを、ベッドの上から長い腕を差し伸べて掴み取る。スプリングをしならせて流し台に飛び掛ると、左手で流しのふちを握って、腕を蜘蛛のように折り曲げて、赤い果肉に齧り付く。薄赤い肉片と小さな種が、ステンレスの空間にぼとぼとと音を籠らせる。
 トコはベッドで観察している僕に、トマトの汁で汚れた腕を伸ばす。僕をどんどん巻き取ってゆく。胸にぴったり顔をつけ、トシオトシオと呼ぶ声は、初めのトで僕を穿ち、シオで僕を浸食する。トコトコと呼ぶ僕の声は、彼女の頭頂部を転がるばかりで、ちっとも彼女に入り込まない。
 トコは時々いなくなる。彼女のねぐらは一つではない。昨夜もトコはいなかった。朝のまぶしさに目を覚ますと、流しの上にトマトが2つ、ぼんやりと赤い光を放っている。


編集: 短編