# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 厄年 | qbc | 1000 |
2 | 黒い骨 | バズ | 402 |
3 | 野花に寄す | サカヅキイヅミ | 1000 |
4 | 駅 | わたなべ かおる | 924 |
5 | ミミズ | 54notall | 894 |
6 | 拭えやしない | 八神 花生 | 848 |
7 | とりあえず | らいおん◎ | 999 |
8 | 前兆 | 笹帽子 | 1000 |
9 | 破裂防止 | りうめい | 996 |
10 | 足跡・オン・ザ・ライン | ものか | 994 |
11 | 今際の際で | 振子時計 | 1000 |
12 | 白い箱 | しなの | 799 |
13 | happy monday | 公文力 | 955 |
14 | 見えない舞台 | 三浦 | 987 |
15 | 菜の花摘んで | とむOK | 1000 |
16 | KARE | 心水 遼 | 965 |
17 | 君の知らない、君の肖像 | 神倉 彼方 | 405 |
18 | 小学生 | Gabb-- | 583 |
19 | なあ、われピッツァくいたないか | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
20 | 生霊たちの会話 | 藤舟 | 979 |
21 | マジック | 西直 | 774 |
22 | 夜路 | ぼんより | 1000 |
23 | 痴呆蓄音機 | 八海宵一 | 1000 |
24 | ツールドフランス | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
25 | ペペロンチーノ・スパゲティ | 曠野反次郎 | 1000 |
26 | ねずみ | 壱倉 | 998 |
27 | あこがれ | ハンニャ | 990 |
母が死に、父も死んだ。泣き言は言わない。それが僕らしいから。だけど、見た目だけで子供だとか大人だとか、そんな勝手に散らばっている記号で僕にレッテルを貼るのはやめて頂きたい次第である。 燃え逝く人間に残されるのは、骨と灰になった肉片だけ。あまりにも虚しくて、今にも嗚咽(おえつ)しそうだよ。残された骨は何を思う?平和とか幸せっていう意味知ってる?知らないよね、それが幸せだもん。父の骨と母の骨は形が似ている。互いに歪(いびつ)な形はしているものの、固定概念が同一物と認識してしまう。不可解な話しだまったく。でもこうやって眺めると、骨のくせに随分と自由に見える。かなり生意気。とかなんとか言ってみても、所詮骨に過ぎない。後(いずれ)僕も死んで骨になる。その時は僕の骨も自由に見えるのだろうか?いや、きっと無理だ。僕の骨には、あまりにも哀しみが染みこみすぎた。僕の骨はこの責任を一生背負っていく、黒い骨なのだ。
植物に興味が持てるようになったのは最近の事である。
以前は草花を好む感性と言うものはどうも大人し過ぎて自分には合わないと思っていたが、胡乱な風景の中から目当ての草花を見つけ出して愛でると言うのは非常に能動的な美感だと今は思う。都会に育った人間と、ブナとナラを見分けられる田園の人間が同時に森に入ったとして、見える風景はまるで違うと書いたのはソシュールだったか。哲学に傾倒していたのは昔の事なので良く思い出せないが、兎角植物の名前を覚えてそれを探していくのは、世界を切り分けているような面白みがある。
そういう私であるから薔薇やダリアと言った派手な作りの花よりも、気を留めなければ風景に没して仕舞いそうな小さな花が好きだ。本命はカンパニュラだが、福寿草等も面白い。菊は花よりも葉が好きで、霜が降りた様にくすんだ色合いの白妙菊は特に――おや、こんな所に水仙の花が咲いている、危うく踏み潰す所だった。思案にばかり耽っていると外界の把握が疎かになる事もある。まこと植物の観察とは教訓に満ちている。さて気を取り直して歩き出す。些か気取った歩調で線路沿いの道を行く。フェンスに沿って菜の花の列が並ぶ。陽光を受けて明るく匂うそれらは、漣のような風から接吻を受ける度、空気に仄かな香りを与え、歩き続ける、沢山の黄色い花の群れ、時折その中に別の色が混じり、増えていく花の数、増えていく色彩、世界から零れ落ちるように。あたしは花の事とか良く知らないから、それらの名前なんか判らないけど。
歩き続け、辺りを見回す。自転車を呑んだ花、アスファルトを破る草、塀を越えて枝垂れる木々は鮮やかな白を散らして。人っ子一人いやしない、等間隔に地面に突き刺さった電柱は人類の墓標だ。ゴミ捨て場に放置された時計の上を、気紛れな時間が通り過ぎてく。
やがて線路沿いに歩き続けたあたしは、星の降る廃駅へと辿り付く。この先の風景は花々の中に沈んでいて、このホームだけが世界で最後の浮島みたい。いきなりの呼び声、向かいのホームに目をやれば、綺麗な身なりの初老の男が立っていた。気づかなかったけど、今まで向かいの道をずっと一緒に歩いてきたのだろうか。
その人は気取った風に肩を竦めて、一言。
「――いや、ひっそり咲いているのが好きだったのだが」
星空を渡る風が不意に歩みを止め、二人の間に花弁の雨を降らせる。
あたしはどう答えればいいか判らない。
この駅で私は、帰ることのできぬ故郷と、まだ見ぬ都会を何度も思った。突然に奪われた故郷に対する望郷の念は深く、新しく与えられた社交の場を行き過ぎて、どこまでもどこまでも真っ直ぐに歩いてゆくことで、私だけでも帰るのだと思っていた。いや、違う。私だけでも、などという、他者を考慮した思いではない。ただ私は身勝手に、あの丘を越えてどこまでもどこまでも歩いて行けば、かの地に帰れるのだと思うことで寂しさをまぎらせていた。
また、見知らぬ都会への恐怖と好奇心もまた、私を駆り立てた。その頃私は、都会の地図を、小さな小さな地図を買った。何に対しても購買意欲が皆無に等しい私にとって、必要に迫られたわけでもない地図の購入は、気の迷いとしか言いようがなかった。私はその、手のひらに収まる地図を眺めては、都会の雑踏を想像し、それを目にする日を思い描いた。
この駅は私にとって二つの側面があった。
丘を越えるのではなく、この駅からかの地へ向かうことができるのだと知る頃には、私だけが帰ったところでどうにもならないのだということさえもわかっていた。それでも私は、目的地へ向かうのとは反対の列車に乗り込んで、まるで密航者のように身をすくめて故郷へ帰りたい衝動にかられた。だが、それは許されなかった。
かと思えば目的地はいつだって、都会へ向かう途中でしかなく、周りの景色もさほど変わらないうちに私は下車するしかなかった。故郷へ帰ることはできずとも、このまま行けば未知の世界へ辿り着けると知りながら、その地を見ることは不可能だった。
どこへでも行けるはずの線路が、どこにも続いていなかった。限られたピストン運動は、私を過去へも未来へも連れて行ってはくれなかった。まるでブランコのように。
私が初めて都会に行ったのは、別の路線を使ってだった。
長年憧れを抱いてホームに立ち、想像をふくらませていたその駅からではなかった。
そして懐かしい故郷に思い出など求めても無駄なのだと思いつつ訪れたのは、車によってだった。
かくして、この駅は今でも、あの頃の郷愁と憧れをそのままに保っている。
どこへも行けなかった私。
どこへも戻れなかった私。
その幻覚が、この駅のホームに染み付いている。
私は学校の中を逃げていた。何から逃げているのかはわからないが、とてつもなく恐ろしいもの。私は階段を「全飛ばし」で下りていった。飛んで回って飛んで回って飛んで回って。一番下まで降りて走り出そうとしたとき、私の前に「それ」はいた。全身を黒い布で覆い、大きな鎌を構えた、「死神」。ハッとした瞬間、死神は鎌を振り抜いていた。私の首は簡単に持っていかれてしまった。
そのとき私は自分の身体の奇妙を見てしまった。私の首から伸びているのは、巨大なミミズのようなものだった。飛んでいく首に引っ張られて、私の身体からズルズルとミミズが出てくる様子が見えた。外から見たらそれは首がどんどん伸びていくようにも見えただろう。身体から切り離された私は今や、人間の頭を持ったミミズのようだった。
私は自分の存在をかき消されたような気になった。記憶喪失になったような。記憶はあるのだが、記憶と現実が完全にズレてしまったような感じ。私は人間だったかミミズだったか。今この思考をしている私は人間なのかミミズなのか。この脳は人間のもの?ミミズのもの?脳にミミズが寄生したのか、人間の脳とミミズの脳が溶け合ってひとつになってしまったものなのか。それともミミズが人間の身体を身に纏っていただけだったのか。ならば私はもともと人間ではなくミミズではないか。私という存在の記憶はまったくの嘘で、本当はミミズの私が真実なのだとしたら。私は私でないような、いやむしろ本当の私に出会ったような。今の私は私が誰なのかあいまいな私であった。
死神はこう言った。「私は『お前』を殺した。」と。
目を覚ました私は奇妙な気分だった。脳からミミズの体が伸びているような、首から身体へ伸びる脊椎がなんだかミミズのような感触がするような気がした。私は自分が人間の身体を着たミミズなのではないかという気になっていた。
何もやる気がしなかった。私は本当はミミズなのだとしたら、ミミズらしく生きることが自然なのではないか。もう人間みたいに振舞うのはやめよう、これからはミミズとして生きよう。そんな気になっていた。
死神が言ったように、昨日までの『私』は完全に殺されていた。。
「涙ってね」
七月の夜、君は言ったっけ。近所の公園のブランコに、二人で並んで腰掛けて。
「血と似てるんだってさ」
それは単純に成分的観点から発した言葉であって、メタファーなんかじゃなかったってことを、僕は察してあげるべきだったんだよね。
錆びた鎖の擦れる音に、馬鹿みたいな僕の嗚咽が混じった。
月の明るい夜だった。恒星みたいに輝いて、夜の帳がオブラートみたいに薄く透き通って見えた。その月を眺めながら、君は慣れた手付きで目薬を点した。君は特別な目薬を常備していた。自分の血液の血清だけを抽出して作った代物。涙に一番近い液体。
「惨めでしょ? こんなことしなきゃ涙出ないなんて」
そんなことはない。そう言ったつもりだが、潤み声が虚しく耳に残るだけだった。どうして君はいつも体質の所為にするんだ。涙が出ないからって、何故泣こうとしない。
「血ならいくらでも出るのにね」
ほら、そう言ってまた僕を困らせる。右手首の真新しい切り傷を、十字を描くように引っ掻いて、流れ出る赤信号を見せようとする。
ポタリ、ポタリ、ポツリ。滴る君の血に釣られて雨が降ってきた。僕の好きな天気雨。
君の血、僕の涙。似たもの同士が雨に混じって砂場に消えた。
ギィコ、ギィコ、ギィコ。強まる雨に合わせて君が立ちながらブランコを漕いだ。月にも届きそうなくらい、力強く。君も僕もびしょ濡れになるのを厭わなかった。
僕達は、互いの沈澱した汚い部分を許すことができなかった。君の目薬みたいに、上澄みを掬い上げただけの存在になれるならと何度願ったことか。
「ちっちゃな頃にね、こうやってたら月に行けるって、本気で信じてたんだ」
撃ち下ろす銃弾のような雨を浴びて、君の声がどんどん離れて行く気がした。小さな頃の君は、ブランコに乗って月へと旅立つウサギの童話を、濁り無く信じていたんだな。今の君の上澄みよりも、白く。
雨は止んで、君は去った。もう君の傷口も、この想いも、拭えやしない。
錆びた鎖の擦れる音に、馬鹿みたいな僕の嗚咽が混じった。
月の明るい夜だった。
伝染病の世界的権威であるF博士が全人類に‘踊らないと死んじゃう病’が二十四時間以内に蔓延するとの警告を発してからちょうど一日が経過した。
町中の至る所で人々が一心不乱に踊っている。
サンバ、タップ、ジャズダンスと事情を知らない人が見たらお祭りか何かのイベントに映るかもしれない。もちろん僕も死にたくないので腰を振っている。
体全体を動かすこと自体、本当に久しぶりだ。高校の体育での持久走以来だろうか。
いつまで続くのだろうと泣きたくなりながら走ったことを思い出す。
文化系男子の僕にとってあの日ほど憂鬱な時はなく、毎回肥満気味の奴と最下位争いの死闘を繰り広げていた。
どうして苦しいときほどどうでもいい事ばかり思い出すのだろう。今は生死を掛けたダンスを踊っているのだ。
「・・・やあ」
すぐ隣で声がする。僕に言っているのだろうか。
「・・・・久しぶり」
やはり僕に話しかけているようだ。誰だ、こんな時に。殺す気か。
思いっきり血走った目で振り向いてみると高校時代の同級生、高松君が踊っていた。彼が死闘を繰り広げた戦友だ。
鏡餅のような胸と腹は以前にも増して膨らんでいる。汗でレンズの曇った銀縁メガネのフレームが虹色に光っている。
「おお・・・久しぶり。元気?」
口を開くと喉に唾が溜まり、むせ返りそうになる。
「やっぱり、みんな、踊ってるね。F博士の警告、しっかり、守ってるね」
おいおい、息上がりきってるぞ。もう何も話すな。
「でも、最後まで話、聞いてたのかな」
そういえば僕もショックで途中からテレビのチャンネルを変えたな。
「博士、あの警告は、夢に出てきた、死んだお母さんが教えてくれた、って言ってた」
そういえば目の焦点が合ってなかったような。
「じゃあ、なんで高松君は踊ってるの」
高松君は天まで上がりきった顎を少し落とし、向かいのパン屋の看板に視線を向けながら
「今世界は‘死なないために踊る’っていう一つの行動をとってるでしょ。文化とか言葉とか、全部ぶっ飛んじゃってさ。究極の共通意識だよ。きっと今日は誰も死なないし、殺されない」
時が止まったかのように高松君は饒舌になった。
「だから、その一体感を感じたくて踊ってるんだ」
言い終えるとすぐにまた、元の高松君に戻った。
「・・・高松君」
「・・・・何」
「とりあえず、踊ろうか」
僕の心臓は体を突き破りそうなくらい上気している。
雄一は晴れた朝の静かなあぜ道が好きだ。澄んだ空気の中でそこに立っていると体がふっと軽くなるような感じがする。だから朝は学校に早く行く。でも今朝はそれでも一番乗りではなく、教室には綾子がいた。とにかく誰かがいればよかった。綾子は自分の席でうつむき加減に長い髪を垂らし、分厚い本を読んでいた。
いつもなら綾子に話しかける事なんてない。綾子は皆に言わせれば「変なやつ」で、その子と話したら自分も「変なやつ」だ。小学校5年生というのはそんなものだ。それだけの理由で雄一は、綾子に一度も話しかけた事がなかった。でも今朝は教室には他に誰もいないし大丈夫だろう。そして何より雄一はともかく誰でもいいから、今朝庭の池のふちに座って見たものを話したくて仕方なかった。
「なあ、俺すごい雲見たんだ。地震雲だと思う」
勇気を出して唐突に雄一が言うと、綾子は顔を上げて大きな目で彼を見た。覗き込まれてどきりとした。
「どっちの方角に?」
綾子はゆっくりと言った。なんだかすごい会話をしてしまっているような気がして、雄一は少しまごついた。しかも話を続けてくれるにしても最初は「本当?」とか言うと思っていたから、いきなり方角を聞かれて余計に戸惑った。目が泳ぐのがわかる。
「えーっと、家の反対側の、太陽の出てくる方だから」
「東ね。光ってた?」
「うん。ぐわーって竜巻みたいのがオレンジ色で、すげえってしばらく見てたらすうって消えて、それって地震雲だってテレビで」
「それは地震雲じゃなくて、竜の子供」
今朝雄一は赤く輝く奇妙な雲を見た。だが雲はすぐ消えてしまい、大変なものを見たんだという興奮と、すっきりしない気持ちが残った。その後しばらくして地震雲というのを思い出したのだ。そしてやっと話したい事が話せると思って一気にしゃべりだしたのに、雄一は綾子の言葉にまた混乱した。竜の子供?
「竜は百年に一回子供を産むの。その前に子供の魂が天のお母さんのところにのぼって行くの」
意味が分からない。雄一がきょとんとしていると、弘樹が教室に入ってきた。綾子と話しているところなど弘樹には絶対見られたくない。雄一は「そっか」とだけ小さく言って、綾子の机から離れた。
その夜、雄一は綾子と一緒に竜の子供の背中にしがみついて朝焼けの空を飛び回る夢を見た。澄んだ朝の空気を上空で吸うのは気持ちがよくて、大好きだ。体がふっと軽くなる。やがて太陽が上り始めた。
破裂防止
男の朝は目玉焼きを作ることから始まる。
耐熱ガラスの器にたまごを割り入れる。
ゼリー状の白身がつるりとすべり落ち、オレンジ色の黄身がかすかに揺れてやがて止まる。
白身の盛り上がり、黄身の張り。
男は満足気に眺めると、持っていた竹串をそっと黄身に刺しては抜くことを繰り返す。
独身時代に電子レンジで作る目玉焼きレシピを見て以来、男はずっとこうやって目玉焼きを作っている。
膜が破れてとろとろと流れ出る黄身を想像しながら、膜を竹串で刺したり抜いたりする時の緊張感。男は軽いめまいを覚え、いつまでも黄身を刺していたいと願う。
「早くしてよ。電子レンジ使いたいんだから」
お弁当の準備を忙しそうにしていた男の妻が、いらだった声で男に言った。
「こうやって黄身に穴をあけないとレンジの中で爆発しちゃうんだよ、たまごは」
「わかってるわよ。でもあたしも忙しいのよ。卵つっついてないで・・シャツにアイロンかけたら?」
突然のボーナスカットで家計が厳しくなり、専業主婦だった男の妻は先月からパートに出ている。慣れない弁当作りも始めて2週間ほどになる。
家事を手伝わない夫に不満なのか、男の妻は常に不機嫌だ。
男は妻に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、残業代を稼ぐために毎日夜帰るのが遅い。
それに長年まかせっきりだったものをいきなりこなすのは無理だった。
お互いの理解が必要だとこれまでも何回かけんかをしたが、そのたびに妻は、自分は被害者だと涙を流して男を無能と罵った。
男は目玉焼きを電子レンジから取り出し食パンにのせ、
マヨネーズをかけて食べ始めた。
「もみじたまご、取り寄せもうやめてもいいかしら」
男は妻の後姿を無言で見つめた。
「もうそんなぜいたくできないの、わかってるでしょ」
無能という言葉が男の頭の中をぐるぐると回り始めた。
「30個で1600円もするのよ。」
男の妻が振り返った。冷たい瞳が男を刺すように見つめている。
『いつもあたしがごはんを用意してる』
『いつもあたしが掃除してる』
『あなたは本当何にもしないのね』
『あたしだって働いてるのよ』
「そんなにお前が働くのが偉いのか!」
男はテーブルの上にあった竹串をとっさにつかみ、妻の目の上から力いっぱい振り下ろした。
「ぎゃあああ」
妻の悲鳴がキッチンに響いた。妻の目からとろとろと血があふれ出る。
転げまわる妻の横で男はテーブルにつくと、食べかけのトーストに震える手をのばした。
急にできた暇を持て余し、俺は気まぐれで近所の海岸まで来た。泳ぐには早い季節だし、空は曇っている。人の姿は見当たらない。俺は波打ち際まで歩いた。引き潮だ。海の様子からしてもう干潮が近い。海水と砂の境目、波打ち際には延々と、濡れた砂のラインができている。俺はラインに沿って歩き出した。
砂浜に流れ着いたごみは多い。足跡はたくさんあるが、波打ち際から十メートルくらいはほとんどついていない。ついている足跡は、潮が引き始めてから、ここへ俺が来る前にやってきた誰かのものだ。後ろを振り返ってみる。俺の足跡は何とかラインの上に残っていた。少しふらふらしている、24センチのスニーカーの足跡が続く。
また足跡を見つけた。しかし、その足跡はおかしい。足跡の主は海から出てきたのか、波打ち際の濡れた砂のライン上に足跡の始まりがある。そしてそのままそのライン上に続く。波打ち際を延々と続くいていた。俺は、その足跡を追うようにして、またふらふらと歩き出す。
足跡はずっと波打ち際を歩いている。潮はまだ引き続けている。もうずいぶん歩いてきた。それでもまだ、足跡はある。波打ち際のずっと向こうまで目を凝らしても、そんな人影はない。どう考えてもおかしい。濡れた砂の上に、波に消されることもなく、足跡がある。本当はもっと早くにおかしいと思ってもよかった。それでも特に疑わずにこうして歩いていたのは。――気まぐれとしか言いようがなかった。
そのうち波打ち際の、ライン上に白いものが置いてあった。白い帽子と、その下から、砂浜を歩くには相応しくないヒールのあるサンダルが顔を見せていた。足跡は終わっている。端が波に濡れている帽子を見下ろす。
俺はため息をついて、ぼんやりと海を見た。何も浮いていない海はどうしようもなく殺風景だ。強くない風が小さな波ばかりを浜辺に寄越す。
そのとき、さく、と音がした。何の音なのか分からなかった。最初はただの、自然発生した音だと思った。しかしすぐに、それが砂を踏みしめる音だと気付いた。辺りを見回す。誰もいなかった。ただ、俺のまだ歩いていない向こう側から、裸足の足跡がこちらに向かって連なっていた。濡れた砂だから、裸足なのが何となく分かった。
しばらくその足跡を見つめた後、俺はもと来た方向を振り返る。俺の足跡も、謎の足跡も、まるで一緒に歩いたみたいに点々と続いていた。
海は干潮を迎えた。
私は両親に授かった自分の名前をひどく気に入っていた。中性的でそれでいて目立たない。人に見つかることを怖れる私には丁度いい名前だった。祖母からは「アンタはどちらへ傾いても駄目な子だから。人の振りを見て真ん中を歩きなさい」と言われてきた。言わずもがなその通りに生きている。
私は生まれながらにして他人と違っていた。道徳で容認できるような違いではなく、もはや生き物としての間違いと言っていいほど、私は人間と違っていた。だから私は名前を愛する代わりに、この身体を虐待している。
「また、キズが増えたね……」
そんな私を心配する友が居る。日に隠れ生きていても、隠せない日常がある。彼女とは高校で知り合った。眼鏡をかけて、まるで聖母のような目で私を見るのだ。そんな眼差しで「保健室はどこかしら?」なんて聞くものだから、私は彼女を保健室へと連行せざるを得なくなり、妙な縁が生まれてしまった。魔が差したとしか思えない。
おかげで、生まれて始めて、学校の授業をサボってしまった。
やがて、出会って二年の月日が過ぎる。あの日生まれた縁は彼女の死を以って終わりを告げる。今日が彼女の命日。生涯の絶壁。この眼には人の寿命が見えるのだ。
校門のところで忘れ物が有ると言い、彼女は学校へと戻った。これが今生の別れ。大切なものを失くして、私はまた、隠れながら生きていく。
「……大切な、者?」
それはおよそ私などが持ちえる筈の無いものだ。ヒトの価値を見出せない私にそんな美徳は見合わない。では何故か。
その不安が気になって、私は彼女の後を追うことにした。
―――屋上まで探索してやっと、彼女の姿を見つけた。彼女は手に持った封筒を足元の、揃えられた上履きの上に載せるところだった。徐に彼女は落下防止の柵を越え、建物の絶壁へと足をかける。何をするかなんて明白だ。
ああ、また死ぬのか。
扉を開けて、最後にその死に様を見届けようと思った。
「私はね、ヒトを助けられたら、と思ったの」風の中に。
「ねぇ神様、どうして私たちはこんなに惨めなの?」懺悔を。
「さっき毒を飲みました。だけどもう、わたしは、……」告げて。
十字架のような姿勢で、空の方へ、彼女は飛んだ。
それを、悪魔が捕まえた。
「私も、アナタを、助けたいと思った!」
そうか。何故もなにも無い。君と出会った時点で、私は既に傾いていたのだ。
そのあと、彼女と日が沈むまで語り合った。
程なくして彼女は死んだ。私は泣いた。
叙述の約束事の中に、前に書いたことは後に書いたことより、時間的に早いということがある。特に断らない限りそういうことになる。このことは、単に起こった順に書いているのであって、時間を意識している訳ではないのだが、時間の流れが文章の中に入り込んでいる例なのである。あるいは時間が明示的になった、一つの事例だった。今物語っているこの物語は、この前提が崩れていて、起こった順に書くと、時間の流れが逆転してしまうのだった。
今回のみ、常識的な約束事によってこの話を書くのは、つまり起こった順に書くのは、この物語では前提が異なっていることを、理解して欲しいためである。ただし意識は無時間であるから、私のこの独白には、この前提が無視されるのだった。ここで私が語りたいのは、一つの謎めいた記憶だった。闇の虚空のような記憶の中に、一つの白い箱が置かれていて、私はその箱を思い出すと、深い悲しみを感じた。私はその悲しみの意味が、分かる「時」に到ったのだった。
私は母とともにその場から立ち去った。婦人はうなずくと涙をぬぐった。私は「泣いちゃだめ」と婦人に言ったのだった。婦人は涙を流し、私を強く抱きしめた。その婦人は私に「おいで」と、優しく言った。私たちの近くに座った婦人がだれか、私にはわかっているのだった。私は両手を合わせた。母は私に手を合わせなさいと、仕草で示したから。私は母の横に座り、私は母とともに進み出た。部屋の中には喪服を着た、たくさんの人が座っていた。記憶の中の白い箱は、花や写真や提灯などに飾られていたが、ただ箱だけを覚えていたのだった。開け放たれたふすま障子の向こう、床の間の前に、白い箱を認めた。私は母に手を引かれて玄関から入り口の間に上がった。
あの白い箱の中に横たわっていたであろう人と、また会えるという喜びに、私の心は満たされていた。私は再び、あの人にお会いできるのだ。あの方に、再び。
彼女にとって僕は三人目の男。どうして僕が三人目なんだ?、僕が聞くと三人目がちょうど良いのよ、と彼女は言う。僕が大体彼女と会えるのは月曜日の夜から火曜日の朝にかけて。ブルー・マンデーの夜には貴方が良い、彼女は言う。金曜日の夜から土曜日の朝への時間と土曜日の夜から日曜日一杯の時間は一人目の男と二人目の男が彼女と過ごす。週末は彼女は誰かのもの。僕は月曜日の夜を特別なものにするように週末はしっぽりと計画を練る。いかにブルーなマンデーをハッピーに過ごすか。僕の週末は月曜日のために失われる。僕が厳選し尽した末のバーなりパブなりカフェなりは月曜日には無頓着、月曜日にはあんまり気合が入りませんね、だってブルー・マンデーなのだもの。おまけに営業していない店が殆んどだ。月曜日は人々の娯楽のためには用意されていないらしい。僕は彼女と付き合うようになっていかに月曜日が人々から疎まれ損なわれているのかを痛感したものだ。月曜日は倦怠と溜息と煙草の煙に包まれている。僕だけが月曜日に唯一生き残った戦士のようだ。戦いの火は日曜の午後に凡そ鎮火されたようだった。骨から灰へ、灰から塵へ。月曜日の映画館は僕と彼女だけ。週末に封切された映画群は大体が月曜日には既に終息への残り香をほのかに匂わせるだけ。週末に散々美味しいものを食べた彼女は月曜日には食傷気味、あっさりしたものがいい。そういう彼女を僕は家に呼んで雑炊を作る。ホントはパエリアだったりパスタだったり得意の料理を作ってあげたいのは山々だけれど僕はただ月曜日の夜に食傷気味の彼女のために雑炊を作る。沁みるゥ、彼女は言う。やっぱりこれだわ、月曜日の夜の雑炊。僕と彼女は映画の感想を話す。週末に見る映画より断然月曜日に見る映画が良いと彼女は言う。そういえば来週の月曜日は振替休日で休みだね、と僕が言う。ごめん、来週貴方と会うのは火曜日の夜にしない?。どうやら彼女は一人目の男と土曜日の夜から月曜日一杯まで過ごすらしい。僕は今週末は心置きなく自分のために過ごそうと思う。そして来週の月曜日は一人目の男といる彼女のことを考えながらブルーになるどころか自分のためにパエリアを作ろうと思う。僕は雑炊などさらさら作りたくはないのだ。そして火曜日の夜には僕の四人目の女が僕を待っているのだ。
幕が上がり、客席の明かりが消えると、何も見えない舞台に、舞台に向かって右手から左手へ向かって、コツ、コツ、という規則正しい音が移動する。それは舞台左端まで来ると、コツ、コツ、と奏で続けたまま、そこで止まる。そしてそれは、舞台手前から奥へ、奥から手前へと往復を始め、それを続ける。
舞台右端で、カッ、カカッ、という規則正しい音が鳴り始める。それは、コツ、コツ、という音が舞台中央(縦)を経て手前に向かって動き出す時に、舞台奥に向かって動きを開始する。舞台の左端と右端で、ある時は手前と奥に、ある時は奥と手前に、そしてある時は中央で一緒に、コツ、コツ、カッ、カカッ、という規則正しい音が鳴る。
コツ、コツ、カッ、カカッ、が舞台中央(縦)で揃う何度目かの時に、舞台中央(横)奥で、オッオッオ、オッオッオ、という音が規則正しく鳴り始める。コツ、コツ、カッ、カカッ、が舞台中央(縦)で揃う時をそれから何度か経過した後のその時、今度は舞台中央(横)手前で、アーアーアー、という音が規則正しく鳴り始める。
と、舞台中央(横)の中央(縦)で、一度だけ音が木霊する。すると舞台から、暗闇が張り詰めさせていた空気の中に、濃く濁った筋が幾本かやって来る。それはじわじわと客席の中を進み、やがて場内を満たしてしまう。その頃には、客席の至る所で、ンッ、という音が不規則に鳴っている。
コツ、カッ、オッオッオ、ンッ、アーアーアー、ンッ、コツ、カカッ、オッオッオ、アーアーアー、
カッ、オッオッオ、アーアーアー、コツ、ンッ、カカッ、オッオッオ、アーアーアー、コツ、ンッ、
オッオッオ、アーアーアー、コツ、カカッ、ンッ、オッオッオ、ンッ、アーアーアー、コツ、カッ、
アーアーアー、ンッ、コツ、カカッ、オッオッオ、アーアーアー、コツ、カッ、ンッ、オッオッオ、
濁りが引き、不規則な音が引いた頃、突然、同じ時に、すべての音源が停止し、残響も一瞬で融け、静寂が、忽然とそこに出現する。
しじま。
舞台に明かりが点る。装置も何もない舞台に立つ、たった一人の老人が露わになる。老人は満面の笑みで舞台手前へ進み出ると、仰々しく頭を垂れる。習いとして拍手が起こる。老人が去り、幕が下りる。
客席の明かりが点り、各々席を離れて行く。残ってアンケート用紙に感想を書き込む者もいる。最早観客ではない彼らの日常は始まっている。
いつのことだったか、しつこく馴れ初めを聞くので「幼馴染だ」と答えたら鼻で嗤いやがった息子が今日、家族ぐるみの付き合いをしていた隣の娘を挨拶につれて来た。少し憮然とした息子の表情に、俺は笑いをこらえるのに必死だったが、いつも息子の後ろを歩いていた涙顔の幼な子が、穏やかさと芯の強さを笑顔の奥に感じる、どことなく妻に似た娘に成長していたのは素直に嬉しかった。ままならぬもまた人生の味。そのうち息子もわかるだろう。
二人の去った居間はどこかよそよそしく、気分を換えて街歩きでもしようと、つっかけを履いて河川敷へ足を向けてみた。
すっかり色づいた新緑が、長く延びた午後の日を浴びてゆるやかにそよいでいる。思ったより強い日差しに汗がにじむ。そう言えば退職するまで近所の散歩などしたことがなかった。
一歩後ろを黙ってついて来ていた妻の依子が、ふと俺の手を握った。年甲斐のない、と思ったが振り払うのも大人気ない。
「昔よくこうして手を繋いで歩きましたわね」
「嘘つけ。そんなのしたことないぞ」
俺は思わず依子の手を振り払った。
高卒で地元の会社に入り、脇目も振らず働いてきた。アンポだのヒッピーだのと騒がしいのは遠い都会の話で、ジユウレンアイの意味を知ったのも地方新聞の社説だった。
「あなたが初めて私に気持ちを打ち明けてくれたのは確か…」
「おい、話を作るなよ」
同じ野山に遊んだ仲でも、結婚話は親戚筋の見合いでまとまったのだ。甘酸っぱい恋の思い出などあるわけがない。
家にいる時間が長くなって以来、虚実混淆したこんな思い出話を依子に聞かされるようになった。仕事人間だった俺への不満かとはじめ訝しんだが、曇りのない笑顔は心底そう信じているらしい。よくわからないが仕方ない。思いながらも時折質してみるが、依子はいつもふふ、と笑って「私は覚えていますよ」という。
土手を登ると急に景色が開け、細雲のたなびく淡い空の下、川岸を菜の花の黄色が埋め尽くしていた。何十年ぶりだろうか。田畑は小奇麗な住宅に変わっても、ここは全く変わらない。
依子は鮮やかな黄の一房を手折って俺にさし出した。
「あなたがここで、こうして花をくださったのよ」
俺は思い出していた。依子はいつもこんな風に、俺が置き忘れた小さなかけらを、拾いながらついて来てくれたのだ。
「私は覚えていますよ」
俺の手を握って依子は笑う。あの日から少しも変わらない笑顔だった。
今、一人のオトコが私のベッドに横たわっている。名前も、年齢も、住んでいるところもわからない。会社から帰ってきたら、すでにベッドの上にいたのだ。思い当たる節……? なくはない。
二日前のショートメール? たぶん番号を間違えたか適当に打った番号が、たまたま私の携帯の番号にヒットしたのだと思う。
『助けて! 助けて! 助けて! 行くところがないんです。空気みたいに、水みたいに置いてくれるだけでいいんです。どうか助けてください』
これを読んだ私は放ってはおけなかった。住所と電気メーターの上に合鍵があることを書き、村瀬カズミ 25歳でしめくくり、送信。
今更後悔しても遅いが、女性の一人暮らしにはあるまじき行為だった。
目の前にいるオトコは、三十はこえているようにみえる。無邪気な顔で寝息をたてている。
あの時は嫌なことが重なりすぎて、とにかく無性に淋しくて誰かと話がしたい…それだけだった。
仕方なく目の前のオトコを注意深か気に眺めてみる。起きている!?
オトコの目からは涙が流れ落ちていた。
擦り切れたジーパンにTシャツ、髪はロン毛で、どこか雰囲気を持っている。
私は東京に出てきてから、恋愛をしたことがなく、友達も極端に少ない。毎日、会社と自宅の往復だけ。休みの日は、お昼過ぎに起きて、テレビをつけてぼーっとしている。
淋しさには慣れたと、自分では思っていた。けれど変な話だが、こいつを見ていると段々と愛しく思えてくる。
おそるおそるオトコの髪を撫でてみる。
私の心は揺れ動く。なぜだろう。まったく知らない人なのに。
私自身、信じられない行動にでた。
下着姿になった私は、オトコの体に密着するように滑り込み、添い寝の格好になっていた。
素肌にオトコの体温が伝わるのが、はっきりとわかった。この安心感はなんだろう。
そして、ゆっくりと眠りに落ちていくのが、自分でもわかった。
私は、部屋の暑さで目をさました。オトコはいなくなっていて、テーブルには手紙が置いてある。
『すごく癒されました。
もう大丈夫です。
ありがとう。
さよなら』
私は泣いた。彼氏と別れた時より泣いたと思う。
会いたい、もう一度会いたい。
私は、先日きたショートメールの番号に電話をしたが…『お客さまのおかけになった・・・』
本当のさよならだ。
けだるい日曜日の朝、私は目を閉じて昨夜の出来事を回想していた。
僕は知っている。
誰も知らない君を。
だって、こんなにも君を愛しているから。
全てを知りたいと思うのは自然だろう?
君自身ですら知らない君を、僕だけが知っているんだ。
素晴らしいじゃないか。
君の仕草一つが、僕を魅せる。
君に見つめられるたびに、心が疼く。
笑顔を見ればほら、こんなにも僕は幸せになれるんだ。
「お父さん」
ああ、なんて愛らしい声なんだ。
きっと、この世の誰もが君の声に耳を傾けるだろう。
「お父さん」
そうだよ。
ああ、そうだよ。
僕が君のお父さんだ。
君さえいれば、僕は何も要らない。
それほど君が愛おしいんだ。
どこにも行かないでおくれ。
僕だけを見ていておくれ。
僕の愛おしい娘よ。
僕だけの君であっておくれ。
ずっと僕だけの──。
広い部屋の片隅に一枚の絵画が飾られている。
一人の画家が、死のその瞬間まで描き続けたとされる遺作。
生まれてくるはずだった娘を描いた、空想の肖像画。
額に収められた少女は、まるで天使のように微笑んでいた。
ともだちの田波くんには、とくしゅなのう力があります。
それは、タネをかむとタネからニョキニョキと「め」を生やせるっていうすごいものです。
カッコイイです。
ゲームのまほうつかいみたいだなあ、というと、田波くんは、そんなことないよっていいました。
でも、すごいです。
でも、田波くんは本とうにイヤみたいです。
どうしてかというと、ヤサイやフルーツを食べているとき、とてもふべんだからです。
モモやスイカを食べるとき、すこしでもタネに歯が当たるとニョキニョキと「め」が生えてきちゃうのです。
それは、本とうにイヤですよね。
しかもはやいスピードで、けっこう長くのびるので、とてもおどろくみたいです。
口のおくに入って、えずくこともあるみたいです。
おかげで田波くんは、タネのあるヤサイやフルーツを食べるのが、とてもニガテです。
とても気をつけるひつようがあります。
1ばんイヤなのは、トマトやキューリだといっていました。
サラダとかサンドイッチとか、いろんなものに入ってるので、ふいをうたれやすいみたいです。
キューリは、わかりにくいけど「わ」のまん中のほうがタネです。
とにかく田波くんは、いろいろなものが食べにくいのです。
かわいそうです。
それで、ぼくは田波くんにほんとなのってきくと、ぜんぶうそだよっていわれました。
田波くんはうそつきだなあ、とおもいました。
なあ、われピッツァくいたないか? え? 外いくんめんどくさいって? おまえ勘違いしてんのちゃうか。誰が食いに行くゆうてん。え? 注文すんのって? そなもん、わいがつくるに決まってるやんか。ほら、まかしてみんかい。ここにな、粉あるやろ。これは菌や。バイキンちゃうで。味方菌や。ほらボウルかしてや。油と水。ん。こねまっせー。さくっとつくっちゃるけえのおー。ええか。今から30分焼くで。わい、その間に服きてくるからな。おお、ええ天気やのおー。時間になったらタマがやけるからな、これにトマソーのせるんや。つっこまんでええで、トマトソースの略やからな。
「眠ってるワシの部屋をごんごん叩いて兄貴がやってきてワシを叩き起こしてはピザつくるゆうんで、ワシなくなく兄貴の手伝いさせられてん。兄貴、こんなもんどこでおぼえてきたんや、女か、ってきいたら兄貴だまっとるねん。なんやクッキングにでも目覚めたんかって聞いたらおまえ黙ってこねとれってな。ほんまようわからん人やったわ。けどなあ、そのピザがばりばりうまかったんやー。ウソや思うやろ? わしそのピザ今からつくろ思うねんけど、うちにピザ食いにこおへんか? おおマジか! すぐに来んねんな。わかったわ。部屋の鍵開けとくで入ってきいや。ほな、すぐタマこねなあかんからもう切るわ。またメールでもいれといてや」
兄貴、聞いてくれやー。玲ちゃんうちにきてくれるゆうたでー。これも兄貴のピザの、ピッツァのおかげやぁ。なあ、兄貴。兄貴今ごろ地獄におるんかのー。兄貴のことやから鬼しばきまくっとるやろ、なあ、兄貴。なあ、あの日な、ワシにピザつくってくれたあの日な、バスに乗り遅れるゆうてチャリで行ったやんか。もしワシにピザなんかつくらへんでそのまま乗っとったら、兄貴まだ生きとったんちゃうか……ま、兄貴、その言訳はあとでするわ。ワシまだ生きときたいねん。玲ちゃんにほれとんねん。気合いれまくってつくるわ。あ、あ、あれ? 兄貴ー、さっき店でこうたチーズとパパニカ、入ってへんわ、マジで?
「玲ちゃん、何度もすまんなーわしや。あんなーすまんけど、スーパーでチーズとな、あのパパなんとかこうてきてくれへん? パパなんとかって、あのなあピーマンの黄色とか赤のやつ。今どのへん? おう、もうちょいやなー」
兄貴ー、わし、ほんまにピッツァつくれるんか不安なってきたで。兄貴、地獄でわしのことみといてえや!
相互関係を証明しないとここからは出られない。
「自由の牢獄という話を知っている?」どこかにある分厚い本にあなたの権利は全て書かれています「最初に、男は神を冒涜し完全な自由を獲得した」つまりあなたの権利は全てなのですこれは実に喜ばしいことです。「しかしそのとき男は何も選べなくなっていることに気付いた」だから勿論あなたには何も喋らない権利があり、「無数の扉があり無限の可能性があって男は何も選ぶことが出来ない」ここから出て行く権利もあります。「そのまま男は老い、やがてそこが牢獄だったことに気付く」そして自由に飲み、食い、人生を楽しむ権利がある。「・・・・・・」実際の所あなたには全ての権利があり、自由を謳歌することが出来るのです。「実の所私には男がなぜ選べなくなったのかつい最近までわからなかった」
しかし当然のことだがあなたが何も喋らないのならここから出ることは出来ません。勿論あなたには権利があるから喋らないことも出て行くことも出来ますこれは実に素晴らしいことだと思います。しかし出て行きたければあなたは喋らなくてはいけません。「自由は必然ということだったのかもしれない」これはドアの向こうにいくことと残ることを同時に選べないのと同じことなのです。「私には扉を選べる気がしてたんだけど」
喋らなければ出て行けない、出て行けなければ何も飲めない何も食べられない。
何も食べられなければ生きていくことは出来ません。
タバコの臭いの染み付いた場末のせせこましい取調室で。警官と被疑者は相手が喋り終わるのを律儀に待って喋りだすのだが、待っているだけで聞いているわけではないのか、2人の話は全くかみ合っていない。警官は何時でもクリーニングしたてに見える青い制服を着、女はなぜか囚人服のようなものを身に着けていた。警官は彫の深い精悍な顔に少しだけ目立たない老いを背負っているようでもあり、しかし目はそれを感じさせずにぴったりと女を見ていた。うがった見方をするとどこか職業的義務的な感じは否めなかったのだが。それに対して女は確信犯的な放心に身を任せていて、目はまるで何も見ていないようでもあった。
彼らは肉体の中にありながら肉体から精神の離れてしまった中途半端な生霊たちだった。
しかしいらない世話を焼くのはやめておいた方がいい。誰だって話がかみ合っていない内が一番幸福なのだから。
午後の授業、窓際の席は直射日光が入り込んで、眩しくて、カーテンを閉める。風が強い日だと、そのカーテンが揺れて非常に鬱陶しかったりする。窓を閉めればいいのだけれど、春の夏日で蒸し暑いときなどそうできないこともあった。
そんなある日、風の強い夏日の午後、わたしは鬱陶しさと眩しさを秤にかけて、悩んだ末に眩しさを選んだ。ぺしぺしと腕や頬をはたく、その鬱陶しいカーテンを、えいやっと前のほうに投げ滑らした。勢いが足らず、途中で止まった。
前の席にいた彼女がぴくんと反応して、一旦カーテンを見て、それから首を捻ってわたしを見て、わたしが「悪い」と軽く片手で謝ると、頷いてまた前を向いた。それでしばらくは気にせず授業を受けていたけれど、風がカーテンをはためかせ彼女にまとわりつかせるのが見えて、わたしは「うーん」と首を傾けた。カーテンは彼女を撫で、はたき、ときにそのちびっこい体を覆ってしまう。彼女は鬱陶しいほうを選んだようで、カーテンをそのままにしていた。ただ、その日の風はかなり自由だった。
カーテンは何度も彼女を覆い、彼女が授業を受けるのを邪魔する。彼女は特に抵抗せず、風がおさまるのを待って、カーテンの揺れが小さくなってから、黒板を見てノートに文字を記していく。
またカーテンが彼女の姿を隠す。わたしはマジシャンのハンカチを思う。マジックのコインのように、カーテンが彼女を消してしまうんじゃないかと、そんな想像をした。
何故だか妙に不安になり、わたしは机ごと少し前に移動して、左手でカーテンの端を押さえた。カーテンはわずかな抵抗を見せる。わたしは窓枠に肘を置いた。座る位置をずらして、楽な姿勢を取る。また風が吹く。カーテンが揺れる。何か遊びたがっているようにも思えたけれど、わたしは前の席の彼女が消えてしまわないようにと、カーテンの端を押さえ続けた。
枯れた夜空だと思う。
湿り気がある夜気を肌で感じていても、空は確かに枯れている。暗がりを歩いているとそんな気配をひしひしと感じてしまう。
もうどれだけ歩いただろう。靴底は随分擦り減ってしまっている。辺りは背の低い雑草や掃除道具が入ってるような小さな倉庫しか見えない。枯れた夜空の下なのだから、暗闇の中の倉庫はきっと錆付いているだろう。
ポケットの中から草鞋を取り出す。ボロボロの草鞋はくたびれきっている私の足に、しっくりとはまる。あまりにもしっくりとはまるので、少しだけ泣きそうになった。靴とはそこでバイバイ。地球に優しくなくても、そっとお礼を言った私は、多分靴には感謝されるかもしれない。白と黒のシンプルなスポーツシューズ。四九八〇円。そう思うと、靴との思い出でまた泣きそうになった。
夜気はますます湿り気を帯び、夜空との確執を強めている。
どこかで犬の遠吠えが聞こえてきた時、私はその場に座り込んだ。疲れていたのもそうだけど、小学校の先生に怒られている気がしたから、歩いていることに後ろめたくなった。寄りかかる場所も人も何もなく、仕方なく自分で自分を抱えて、おやますわりをしながら周りを見渡してみる。それで淋しいことに気が付くと、怖いことに気が付いた。そうして初めて夜が暗いことに気が付いた。
夜が暗いことは知っていたけど、淋しくて怖いからだとは、全然知らなかった。もっとマシュマロみたいにふわっとしていて、埋もれていくような、それが夜の暗さだと思って今まで生きてきたのに。
風がのろのろと吹いて、月明かりに浮かび上がる厚い雲はめんどくさそうに動いている。
私は、夜の暗さを知らなかった私を思い、また泣きそうになった。
再び立って歩き出す。お尻が痛くなって、だから地面も圧迫されていただろうから、ぱんぱんとお尻をはたいて歩き出した。地面の温もりが、ひんやりと私のお尻に余韻を残している。後ろめたさはもうない。
なんで歩かなきゃならないのかな。
ついに普通の疑問を抱いた。待ちくたびれた私と、できればその思いを避けたかった私が、奇妙な具合で意気投合している。
帰らなきゃ。でもどこへ? わからない、でも止まっていてもしょうがないもの。そうね。たしかにそうね。
歩くと淋しくも怖くもなかった。ただ濃紺の世界が広がっているだけだった。安堵した私は少しだけ泣いて、いつまでもこの三千世界を歩きたくなった。
2ヶ月ほど前、ナオミにせがまれフリマで買った蓄音機。2000円払ったあとで置く場所がないとかなんとか言うから…仕方なくオレの部屋に置くことにした。
アンティークといえば聞こえはいいが、コイツに関して言えば、ガラクタと呼ぶほうがふさわしい。
あなろぐ。
ニスの剥げたケヤキの筐体、錆びた真鍮の金具。そんなものを眺めにナオミは毎週、水曜の夜にやって来た。眺めてうっとりする彼女の姿に、オレは首を傾げた。
なにがいいのか、わからない。
わからないけど火曜の夜は掃除のついでに、“あなろぐ”を乾拭きしてやった。
あなろぐ、えんばんくるくるかいてんき。
錆ついたラッパから、調子はずれの歌謡曲が流れ出す。
昭和30年代に流行ったらしい、あまり馴染みない曲。立てかけてあるエレキベースが泣いている。せめて8ビートにならないかな…。
「そんな古くさい曲やめろ、あなろぐ」
すまないねぇ。
歌謡曲のかわりに、志ん生の声が鳴り響いた。
なにがどう壊れたらそうなるのかわからないが“あなろぐ”は、いままでに鳴らしたことのある音を、時おり思い出し、唐突に再生し始めた。大抵は調子はずれの歌謡曲だが、ときどき落語や浪曲、クラシックやジャズが鳴り響いた。前の持ち主は、ずいぶんと多趣味だったらしい……いや、何人もの主人に仕えてきたのか。
痴呆蓄音機は、レコードがないことを忘れて、音楽を奏でる。
真鍮のラッパから、静かなピアノ曲が流れてきた。
懐かしい、どこかで聞いた曲。誰の、なんの曲だったか思い出せない。映画に使われたんだっけ?
「なあ、あなろぐ。その曲のタイトルなんだったっけ?」
あなろぐは応えない。ただピアノ曲を思い出し、身勝手に再生を続ける。
「モノクロだったっけ? …なー、なんとか言えよ」
あなろぐト短調……。
曲が終わり、部屋に静寂がもどった。
結局、タイトルは出てこなかった。
あなろぐは、磨り減ったダイヤ針がついたアームを静かに、ゆっくりと上下に動かした。新しいレコードをねだっているようだった。
なー、あなろぐ。
いくらねだってみても、このアパートに、レコードなんてどこにもないんだ。
なー、あなろぐ。
レコードを持ってるナオミは、もう来ないんだ。
第一、今日は土曜の夜で火曜の夜じゃない。
そんな哀しいバイオリンの小品はかけるな。
せめて、8ビートにしてくれよ。
すまないねぇ。
志ん生の声が鳴り響いた。
美術をやっている友人のインスタレーションの取材に行く。崖の上に立った一軒家で好きなことをやって好き放題で金になるのだからなんとも羨ましい。
私自身も若い自分は随分とそういうことをやったものだ。随分とそういうことをやったが何一つものにならなかった。小説。音楽。舞台。絵画。全てが駄目であった。全く金にならなかった。ならなかったばかりかそれで貧乏になった。今も貧乏している。つきあった女全員にヒモと呼ばれ、女房にも逃げられた。実に惨憺たる有様である。今も三文美術ライターの傍ら趣味で小説なぞも書いているが全く駄目である。自分では随分うまく書けているなあ、とても斬新で、私は才能があるなあ、と思うのであるが、が、駄目。全く金にならぬのである。常に貧乏している。
道は一本道で、どこまでもまっすぐ続いている。とても良い天気、頗る快晴でとにかく順調である。アクセルは踏みっぱなしで、実にすいすいである。それもそのはず今は車なぞ流行らない、皆が自家用ジェットの時代であるからな。上空を皆が音も無く飛びまわっておるよ。新々々三種の神器という奴か。私は買えない。皆は買う。インターネットでショッピングでありますよ。
インターネットといえば、全世界のコンピュータが止まったらどうであろうか。実際問題、人間の情報処理能力ではネット上に展開される情報を処理することは最早適わぬのではないのだろうか。無限に存在する選択肢の前に右往左往するだけでは無いだろうか。という感じに実にクラシカルなあんばいのSF小説を考えて、自分はこの手のものが非常に好きなので、非常に良い気分に浸り、さあクライマックス、人類への警鐘、というところで車が止まった。
突然ボンネットから煙を吹いて、車が止まった。
車を降りて歩き出す。さようなら、メルセデス・ボルボの青い車。
道は一本道。どこまでも真っ直ぐ。どこまでも快晴。私は叫ぶ。誰かいないのかい。
誰か居ないのかい。誰か、いないのかい。
丘を登り、振り返る。ジェット機の群れがびゅんびゅんと忙しく、その銀色の軌跡でまるで青空を切り裂くかのように飛び回っている。それは非常な高速で、非常に美しく、昔見たビデオを思い出した。電子顕微鏡でどこまでもどこまで物を拡大していく、ただそれだけのビデオである。
詳しくは説明しないが、まあ機会があれば見てみると良い。
あれはなかなかに、興味深いものであるよ。
「井上靖と井上ひさしはどこがちゃうのん?」
ペペロンチーノ・スパゲティを小器用にフォークに巻きつけながら恋人はそう云った。その唐突さに思わず「なんやて?」と聞き返すと、まったく同じことを繰り返してからスパゲティを口に運ぶ。石川淳といしかわじゅんが別人であり、金子光晴と井上光晴が別人であるように、井上靖と井上ひさしは別人だった。
「井上靖はほら、『敦煌』とか『氷壁』で、井上ひさしは『ひょっこりひょうたん島』やんか。ドン・ガバチョや、トラヒゲや、ダンディさんや、ハカセくんや。ハカセくんは中山千夏やったね」
「中山千夏?」
「中山千夏は『じゃりン子チエ』のチエちゃんやん。若いころはきれかったんやで。テツは西川のりおや。劇場版は豪華やったなぁ。マサルと腰ぎんちゃくが紳助竜介で、ジュニアと小鉄がやすきよやったんやから」
恋人は「ふぅん」と云ってから、スパゲティを口に運び、不味そうに咀嚼した。店が気にいらなかったのか。いや、そもそもこの店を選んだのは彼女だったのだし、味の方もまったく問題がない。ぼくが頼んだミートソース・スパゲティは、隠し味の細かく刻んだセロリが効いた美味いもので、そこらのファミレスではこうはいかない。もぐもぐと動き続ける閉ざされた唇を見やりながら、彼女が食べているのが、ニンニクの効いたペペロンチーノであるのがおそろしかった。
動きが止まって口を開けたと思うと、「井上靖と井上ひさしはどこがちゃうのん?」と、また同じことを云った。名前が似ているというだけで、どこもかしも別人ではないか、と思うも、そういえば、井上靖は幼年時、父母と離れ血の繋がらない祖母に育てられ、井上ひさしも、義父に虐待され家の金を持ち逃げされたあげく、孤児院に預けられたのでなかったか。
俯きミートソース・スパゲティを眺めながら、ミートソースの「ミート」は「meat」であって、「meet」ではないと思い、「boy meat garlic」という言葉が思い浮かぶも別になんの洒落にもなっていない。
黙って俯いているぼくに、またも恋人は「井上靖と井上ひさしはどこがちゃうのん?」と云う。じっと考えているうちに、井上靖と井上ひさしが手を繋ぎぐるぐる頭のなかで廻りはじめ、いつしかそれに横山やすしと西川きよしも加わって、ぼくはいつまでもミートソースを見つめ続けた。井上ひさしと横山やすしが肩を組んでニタニタと笑っていた。
夜の8時を回った頃だろうか、僕はキッチンのテーブルでもそもそと冷凍食品のチャーハンなんかをつついていた。僕の家は町外れにあって、テレビもつけていないものだから、不気味な程静かである。チャーハンを食べる音とスプーンのぶつかる音しか聞こえない。そのはずなのだが、先程からどうも変な音が混じっている。最初は気のせいかと思って無視していたが、こつこつ、もそもそ、かりかり、こつこつ、かりかり、もそもそ、かりかり……やはり気になってきた。
耳を澄まして音源を探ってみると、どうやら隅に置いてあるガスコンロの方から音が聞こえてくる。席を立ちコンロの下を覗き込んで見ると、奥の方でのそのそと動く物体を発見した。小汚いねずみである。
ねずみを生で見るのは初めてだったので、僕はきゃっと短く声を上げてしまったが、ねずみが悠然と僕の方に睨みを利かせていたので、負けじとすぐに睨み返した。
そうしてしばらく対峙していたが、僕は少し感心した。ねずみというのはこれ程にも意思的で、力強い目をしているのかと。僕とねずみの間にぴんと張り詰めた空気が流れている。ねずみは依然として僕に強く訴えかけるような視線をぶつけている。
「お前、殺すんだろ」
ねずみが本当に話しかけてきた。僕は何事かと吃驚して一瞬頭が真っ白になったが、ねずみの声が渋くて良い声だったのは今でも鮮明に覚えている。
「殺すって……さあどうだろうなあ」
声は若干上ずっていたが、とりあえず言葉を返してみた。
「ちゃんとわかってるんだぜ。お前ら俺達に対して酷い接し方するからな。俺の後輩なんか、一昨日この近所のババアに溺死させられたぜ。籠に入れられて、水の入ったドラム缶に沈められんの。ありゃ死の拷問だぞ。なにがそんなに気にいらないんだよ」
「そんなことやってんのか! いや……でもお前達柱とか齧るし、それにホラ、変な病気とか運んできて迷惑かけてるじゃん」
「そんなこと言ってるけどな、俺から見ればお前ら人間に一番迷惑をかけてんのはお前ら人間自身だぞ。そう考えれば俺達なんか可愛いもんだろ」
「うーん……」
僕はそれ以上言い返せなかった。
僕はそんなことをキッチンをうろうろしながら、時ににやにや、時にうんうん唸りながら考えていたらしい。不意にハッと我に返ってバッとコンロの下を覗き込むと、ねずみの姿はもう無かった。
ねずみが僕を惑わしたのか、単に僕が変なのかは、わからない。
高度2000メートル、学はパラシュートなしで、飛行機から飛び降りようとしていた。
「学、死ぬかもしれないぞ。一体何のために、そこまでやるんだ。」
学が、そのはちきれんばかりの筋肉の上に身につけた、SサイズのTシャツの“一撃”という文字に横じわを出しながら答えた。
「男が、永遠のあこがれの男を超えるためには、死ぬ覚悟は当然だ。」
学のあこがれの対象とはそう、ボクシング漫画『がんばれ元気』に登場したあの男、関拳児である。関拳児は、作中で何日も山にこもり、最終的にクマを一撃で倒すコークスクリューパンチをみにつけている。男としてこの関拳児に並ぶには、クマを一撃で倒すしかない。これは当たり前のことである。
学はこれまで、トレーニングにトレーニングを重ね、血を吐くどころか鼻からうどんすら出し、相当なパンチ力を身につけていたが、前回クマと闘ってみたところ、パンチ3発でクマをノックアウトした。3発もかかるなんて人間のクズである。これでは弱すぎる。
苦汁を飲んだ学は、考えた末、ひとつの結論を出した。今、学の着地予定地点には、クマがスタンバイされている。
重力の力でぶっ殺す。それしかない。
「学、そろそろカウントダウンを開始するぞ!」
「ちょっと待ってくれ、5分時間をくれ。」
ここで学は瞑想にはいった。「おいおいビビったか」と、パイロットが言いかけたが、それ以上言葉を続けることができなかった。学のその表情は、劇画風だった。
「学が、学がついに少年漫画の域を超えやがった。やるぜ。今日のこいつはクマを一撃でやるぜ!」
飛行機は降下ポイント周辺を旋回し、そして5分が経過した。
「2匹だ! クマを2匹用意してくれ!」
瞑想を終えた学が急に叫んだ。
「なんだって! 一撃で2匹殺すつもりか!学!」
「クマを重ねて2段にしてくれ!」
「それは無理だ! 生き物だから!」
「ならいいや! 並べろ! 横に並べろ! 両腕で同時にぶっ殺す!」
「オーライ、学!」
さらに5分が経過する。学は燃えている。
「学、クマのスタンバイの方だが、『そんなにクマはいねーよ』との連絡が入った。今日中に2匹用意するのは無理だ。今日のところは一匹でトライしてくれ。」
「ならいいや! 今日は帰る!」
学は、ここまで来てチャレンジを止めた。いつも言うだけ言って、周りを巻きこんだ時点で満足してしまう学なのであった。