# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 藍紅 | カンタカナ | 997 |
2 | 奇才アナウンサー「松本」の過去 | 水島陸 | 882 |
3 | 通り抜ける道路の端で | fengshuang | 482 |
4 | 結合 | 戸川皆既 | 1000 |
5 | ひじき藻 | 桑袋弾次 | 1000 |
6 | 丼の縁 | あきのこ | 629 |
7 | 4代目、4台目 | 笹帽子 | 1000 |
8 | 部屋が猥雑な私 | 戦場ガ原蛇足ノ助 | 953 |
9 | 楽器を使い切れ | Revin | 829 |
10 | Recipe#3 | xxx | 404 |
11 | 例えばあるものをないとして | 森栖流鐘 | 987 |
12 | リンゴを選ぶとき | わたなべ かおる | 994 |
13 | ユメの終わりに | 振子時計 | 1000 |
14 | 擬装☆少女 千字一時物語1 | 黒田皐月 | 1000 |
15 | バラ5輪 | しなの | 973 |
16 | にっき | 公文力 | 652 |
17 | 使命 | 青いブリンク | 965 |
18 | 幸福の条件 | qbc | 1000 |
19 | 『blue uprising』 | 安倍基宏 | 946 |
20 | 猫転がったり、寝ころがったり | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
21 | 髑髏島兄弟のスカルコンビネーション | ハンニャ | 1000 |
22 | カタリさん | 三浦 | 1000 |
23 | 多分、青春の窓辺 | とむOK | 1000 |
24 | キャプチャウェブ キャプチャネット | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
25 | うんこの話 | 曠野反次郎 | 999 |
『紅の一』
もし、あのおばあちゃんの話が本当だとしたら・・。私は孝夫に恩返しをするしかない。もしも今、彼が目の前にいたら言ってあげるのに・・・『待ってたよ。ずっとずっと待ってたよ』・・・。その瞬間、「ぎゃー」という声が、突風のようにヘッドフォンのピアノの音をかき消した。(えっ?)突然、美幸の乗っていた車両の奥のドアがたたきつけられるように開いた。そして人々が波のようになだれ込んできた。次から次へと折り重なるように何十人もの人が、地獄の獄卒からでも逃れるかのように恐怖の表情でこちらにやってくる!『助けてくれー!』
『藍の一』
孝夫が座るのと同時に電車は動き出した。孝夫は、美幸との先週のできごとを考えていた。なぜもっと素直にありのままでいられないんだろう。美幸とは最初に出会った時から妙な安心感を感じていた。(あぁ、戻りたいなぁ。)一瞬、間をおいてから急激に心臓がドクンと鳴った。(なんだ?)そして、胸が締め付けられるような圧迫感が一気に襲ってきた。苦し・・。そのとき、背中の奥で低く強く、みしりと鳴った。恐怖が襲ってきた。みしっ!バキッ! 孝夫は、意識が急速に遠のいていくのを感じた。周りの人々の無数の叫び声が皮膚を振動させている。そして、意識の回路が中断される直前に、なつかしい声が聞こえたような・・・(待ってたよ・・ずっとずっと待ってたよ・・)気がした。
その車両に乗っていた人間は、今まで生きてきた中で最大の恐怖に見舞われていた。地下鉄の車内にこつぜんと姿を現した、孝夫と呼ばれていたそいつは、もはやこの世のものではなかった。みるみるうちに丸くふくれあがった青紫色の背中は、Tシャツをびりびりに引き裂きながら天井の蛍光灯を破裂させた。耳まで裂けた口から、無数の牙が二重三重に重なりながら伸び、牛のようにだ液を垂らしている。そして、こぶのように盛り上がった眉間の皮膚を突き破り、黄色がかった鋭利な物体が飛び出した。その物体は、血しぶきを上げながらみるみるうちに竹のごとく伸び出した。それは、まぎれもなく角だった。
『紅の二』
美幸は、人として生きてきた二十四年間の最後の記憶となる、彼の雄叫びを聞いて、微笑んだ。美幸の心臓が、誰かに握られたように上下に強く波打った。そして、身体の奥で何かが回転するようにねじれていった。みしっ!バキッ!やっと恩返しの時がきた。でも村人はいなかった。
松本は入社試験当時ボーダーライン上の学生だった.
ここは一発逆転しなければ俺は受からない。そう思った松本は面接官の
「何か特技は?」
という質問に好機を見いだす。
「俺にしかできないこと」
松本はおもむろに鞄からたますだれを取り出そうとした。しかし次の瞬間隣の受験生が
「あ、さて、あ、さて、さては南京たますだれ」
と唄いだしたのだ。狼狽える松本。自分の特技を奪われて平常心でいられる訳が無い。
狼狽しつつ松本は最早これしか無いと最後の切り札を出す。それは当時付き合っていた女性になぜ自分のような眼鏡達磨と付き合ってくれているのか?と聞いた時に彼女が教えてくれた、「自覚していなかった自分の特技」だった。
汗ばんだ掌をネクタイで拭い、タックル気味のダッシュで女性面接官をマットに倒し、彼女のおパンティーを確認した。
「湿度0%」
きらりと光る眼鏡達磨。しかし、ここからは彼を眼鏡達磨と呼ぶ事はできない。
彼は変身するのだ。そう、「彼女が彼を見初めた唯一の長所」が牙を剥く。
驚きのあまり声が出ない女性面接官。唖然とする男性面接官。他の受験者も口がぽかんだ。
松本は高速で口舐めずりをして、そのまま女性面接官の恥部にダイブした.あまりの衝撃に悲鳴を上げる女性面接官。だがその悲鳴が沈静するのに時間はかからなかった。小指をくわえ、必死に声を殺す女性面接官。助けを呼ぶのであれば声を上げるべきなのに、なぜだろうか?その答えは松本の口元を見ていただければご理解いただけると思う。
7分後。女性面接官が「はふぅ!」と鶴のような一声をあげたかと思うと、松本は恥部から顔を離した。松本の顔には絡めとられた陰毛と唾液ではない無色の液体が引っ付いて一瞬松本なのか確認ができない状態であった。その後ゆっくりと顔を上げた女性面接官は一言
「合格、です・・・」
と言い、恥ずかしそうにトイレに駆け込んだという.
この一件以来社内では松本の事を「舐め達磨」と呼ぶようになる.
(若い社員でこの話を神格化している者は尊敬の念を込め「舐め鬼神」と呼んでいる)
また電車が到着したのだろう。大勢の人が、足早にやって行き通り過ぎてゆく。僕らは彼らより低い視線から声をかける。
「お疲れ様でした〜」
「お帰りなさい〜」
歩く人は、ちらりとこちらを見、通り過ぎて行く。足元をゆるめることもせずに。
ある人は携帯の画面から目を離すことなく、またある人は敢えて見ないようにして。時々行ったり来たりを繰り返す人がいる。その大半の人も、やがては通り過ぎてゆくのだけれど。
いわゆる地べたにすわり、そこから道行く人を見るのは、僕らに、また違った視線を考えさせてくれた。
「もし良かったら、話を聞きますよ?」
ほとんどの人が通り過ぎて行く中、意外と聞いてもらいたがっている人が、いることも知る。だから僕らはいるんじゃないかと思う。嬉しい話は一緒に喜び、哀しい話はときには一緒に泣き、哀しみ、愚痴には適度に相槌を打つ。僕らは一人一人の人生というものを、多少なりとも実感する。
毎週金曜日。時間は夕方6時30分くらいから開始。早いときには8時におひらき。聞いて欲しい方がいれば、最長は翌朝5時まで。僕らは駅前の道にすわっている。あなたの話を聞くために。
「もういかせてくれよ」
「いやよ」
「いやっつったってどうしようもないじゃないか」
「いやったらいやなの、わかって」
「わからんよ」
「少しくらいわかってくれてもいいじゃない」
「いいや、わからない」
「どうして」
「わかりたくないからだ。もう一度言う、いかせてくれ」
「いや、いかないで」
「まあ落ち着け、ってちょっと待て、痛い痛い。こいつめ」
「あの、もしもし、お邪魔の所を」
「ややっ、これはいい所に。どうか僕を助けて下さい」
「私は離れませんからね」
「やあ、ははは」
「何がおかしいんです」
「だって、おかしいじゃないですか、こんな形」
「私だってこんなの初めてですよ」
「それにしても、珍しい。ちょっと失礼しますよ」
「痛い」
「ああ、すいません。慣れてないもので」
「いたい痛い」
「失礼失礼。はあ、こことここが。なるほど。しかし、大変ですなあ旦那も」
「なんとかならないものですかね」
「すみませんが、こりゃあどだい私には無理です」
「困ったなあ」
「今から何したって無駄よ。もう手遅れよ」
「物騒なこというなよ」
「だって本当よ」
「と、とりあえず私は人を呼んできます」
「お願いします。命がかかってるんです」
「やめてよ、あんた。さっきから黙ってたら勝手ばかりして」
「あ、いえ、あのう、すみません」
「もう許さないわ。この人と同じ目に遭わせてやる、えい」
「ぎい」
「わわっ、ちょっと、他人を巻き込むのは良くない。穏便に、穏便に」
「ぐぐぐ、苦しい」
「だってこの人勝手に私の体に触ったんですもの。これくらい当然だわ、えい」
「ああ、ひどいことに」
「ぐぐぐ、身動きが」
「なんてこった」
「吐きそうだ」
「いい気味ね。ずっとその姿勢のままでいなさい」
「予想以上ですなこれは。なってみて初めてわかる壮絶さだ」
「でしょう」
「生きてる心地がしない」
「でしょう」
「ええ。たまりません」
「ようやく寒さも和らいできたというのに、かないませんな」
「本当です。まさかこんな」
「それにしても、なんとも名残惜しい」
「さっきから煩いわよあんた達。そんなに、地獄を見たいのね」
「違います違います。止めて下さい。止めて下さい。わ、わ、ぎゃあ」
「あああ見て下さい、私の体。ひい、ひい」
「ややっ、早くもそんなに」
「いやだ、いやだ」
「ゲホッ、ゲホゲホおえ」
「ひい、ひい、焼けるようだ」
「ああ、僕も、どうやら、おえっ」
「ちくしょう、ちくしょう」
「ぐわっ、ああ、おえっ」
「ちくしょう、ちくしょう」
ボウコウエンの所長にかわって、ジャッカルが中学校を訪れた。
「10年後を見すえた営業」が所長の口ぐせだった。バレンタインデーは、10日後にせまっていた。
「ちゃんと手、あらってください」
と、保健の教師が言った。
閉鎖している学級以外は、授業中だった。校長は、インフルエンザで休んでいた。教頭は、校長のぶんまで忙しかった。保健の教師は、立場上、インフルエンザで休むわけにはいかなかった。責任感がつよいのだった。いちばんさいしょに感染し、学校じゅうに広めたのが、彼女だった。
「思いを寄せる相手に、ひじきを贈ったことはありますか」
ジャッカルは、営業活動を開始した。
思いあらば むぐらの宿に 寝もしなむ
ひじきものには 袖をしつつも
「その気があれば、おんぼろ宿でもいいんです。布団がなければ、脱いだ衣服のそのうえで、やりましょう」
そういう歌を添えて、むかしの人は、ひじきを贈った。
布団=引敷物(ひじきもの)=ひじき、とジャッカルは板書した。
「そんなひわいな歌は教えられません」
若い、おんなの教師は席を立った。ジャッカルは食い下がった。白衣のすそにしがみついて、じたばたした。ようよう、試作品を食べてもらった。
「まずい」とおんなは言った。「どうしてチョコレートの中にひじきが入ってるの、しかもこんなにたくさん」
白衣の教師は、構想10年の労作をティッシュに吐き出した。
「お産がね」とおんなは言った。「かるくなるって言うじゃない、トイレをねっしんに掃除すると」
ほんの少しの洗剤をスポンジにつけ、おんなは便器を洗うのだった。素手で、ふん尿の流れおちる奥のほうまで、背筋をのばして。
「なにか産む予定でもあるんですか」
事務所の便所は磨き上げられた。おんなのおかげでいつも美しかった。ためらって所長は、よそで用を足した。近くのストアーなどで。
「高子さん、いい奥さんになりますよ」
「政治家の奥さんなんて、たいくつだわ」
しかしおんなは子どもを産むだろう。三代つづく、県議会の議席を死守しなくてはならなかった。
「ちょくちょく来てよ、ロイヤルミルクティーつくって待ってるわ」
「ちょくちょく行きますよ。12種類のゲームのできるゲーム盤もって」
いちおう断っておくけど、これは高子がけっこんする前のはなしです。父親が理事長を務める「ひじき振興組合」で、一般階級の人たちといっしょに働いていたのである。
会社の存続を賭けたCM撮影の日。
俺の靴底から、ミミズが這うような感覚が心臓めがけてきた。寒気がする。足の指に力が入った。僅か二十センチ幅の丼の縁。
「方向はどっちでもいい。歩いてみてくれ」
上司の声。
右の利き足を踏み出すには、多少、筋力の劣る左足に体重を載せなければならない。
俺は左右をみた。右側は照明が暗くてよく見えない。左はプールのような丼の中。ウナギの蒲焼きが、真っ白な飯の上に行儀良く並んでいる。湯気と匂いが充満していた。
「ひぃ〜」
俺は、丼の縁にクレーンで下ろされた時からの、たまりに溜まった悲鳴を上げた。
「どうした」
声は苛立ちから戸惑いに変わった。
「ウナギは苦手なんです」
爬虫類を連想して、どうしても嫌なんだ。
「なんだよ。それを早く言えよ。そうすりゃあ別の者にこの役を振ったのに。我慢してやれ。今更苦手もなにもない」
息を止めて丼の縁を歩き出した。
ライトがついた。体が揺らぐ。ウナギの蒲焼きの中には落ちたくはない。両腕を広げバランスを取った。
会社のみんなが見上げている。丼を取り囲んだ人々の中に上司の顔が見えた。
「おいしそう」という、誰かの一言が引き金となって、次第にざわめきに変わっていった。
どこから入ったのか、みんながウナギの蒲焼きに食らいついている。全身タレまみれだ。仕舞には最後の一切れまでも取り合っている。
こめかみや目頭から流れたしょっぱい滴が、俺の口に入り込んできた。拭くことも出来ず、丼の縁をひたすら歩き続けた。
僕の体はぶっ飛んでくるくると回る。漫画のように回転し叩き付けられ、ずうんと重いものが体の中でガラガラいって、白いワンボックスが走り去る。当て逃げ、という言葉が浮かび、いや、ひき逃げだ。
左足からとくとくと流れる温かい血で、ズボンが台無しで、僕の血はどこからか湧き出てくる泉みたいで、いや、温かいから温泉で、僕はその中で割れてしまった温泉卵みたいになる。
目の前に男の人の足があって、後は僕が引き継ぐ、と上からその人。僕は君に万が一があったときのための予備で、君が死んだらその後は、僕が代わりを務める、って。彼はテレパシーみたいなもので、いや、僕らは意識を共有してるんだ。彼の意識が僕の意識の中でさらさら回る。僕らは同じ人格だよ、兄弟なんかよりもっと絆が強いんだ。だから言葉なんていらない、と彼は悲しげに微笑んで、僕も微笑んで。なら安心してこの温泉に体を浮かべてられるってわけで、なんだか温泉寒くなってきたなぁ。
僕は息絶えた僕を眺めるのをやめて、携帯を取り出す。時刻は11時47分。まだ半日もたってないなんて。何しろこの半日の間に僕は27年の記憶を取り込んだ。一気に27年分ってのは、それはもう、ヘビーだった。まっさらのベビーから始めるにしても。
「もしもし、彼は死んだよ」妙な電話の始まり方だ。
「よし、死体の処理はこっちでやる。正午で君が起動してからの12時間の記憶は消え、本来の君の27年間の記憶が適応される」機械的な真っ白い声が言う。
「何度も聞いたよ」
「幸運を祈る」
電話は切れる。足と頭から血を流して、けれど安らかな顔をしている僕を再び見下ろして、これは何回目なんだろうと思う。奴は僕が初めてのような話し方をしたけど、倒れているこの僕も、僕と同じようにしてあてがわれた使い捨ての予備かもしれない。この変な境遇も、もう何回目なんだろう。これは、子供の頃幾度となく抱いた、懐かしくて苦しいものだ。おじいさんの家で。けど考えてみれば、僕は子供時代など本当に経験してはいない。これは全く嫌になる。誰の記憶? 誰の人生?
いつか僕も死んで、別のが来るだろうか。そのとき僕は安心して死ぬだろうか。そうだろうな、どうせ。そして僕全体としての人生は続行だ。今日見た27年間からすれば、僕という男はそんなところだろう。悲しい。
時間が容赦なくやって来て、12時間が、27年間が、くるくると回って、僕は僕になる。
出かけようと思って鍵を探していると、どこからともなく封筒に入ったガス料金の請求書が現れた。どうしたわけか未開封だった。
そういえば先月はガスに限って払っていなかったのではないかと俄に胸騒ぎがしつついやあ今月はなんだか余裕だなあなどと喜んでいた自らの浅はかさには驚き、それよりも銀行口座からの自動引き落としにしようしようと思っている内に一年以上経ってしまったのには何か人知の及ばない強大な悪意のようなものが影響しているのではないかと気掛かりで、複雑な胸中と相成った。書き上げたまま放ってある申込書が明らかに部屋のどこかにあるが、それを探す前に銀行に行ってくるべきだろうと思われた。合併によって名前が変わってしまったので、新しい用紙に書き直すよう言われるはずだった。
銀行といえばもう長い間記帳していなかったので、いずれ印字音に耳を傾けながら一、二分立ち尽くしに行かなければならなかったが、通帳が目につくところにあればとっくに記帳しているのだから、ついでに探しておきたかった。
ただ、曖昧な記憶の告げるところによれば鍵の在りかと通帳のそれとは大分離れていたので、差し当たっては鍵を優先することにした。
勿論記憶が常に定かならこのような状態に陥るはずもないことは承知しているが、かといって人は自分を疑ってばかりでは生きていかれないのではないかと私は声を大にはしづらい物件の中心で呟いた。しかし呟いたと思い込んでいるだけで実際は全くの無言であったかもわからない。いずれにせよ、床に散らばった紙やビニールやプラスチックはその間擦れ合っては喜んでいるような怒っているような物音をたて続けていたから、私はその部屋の住人として優良であったとはいえない。
テレビの天気予報を見ながら一休みした。お天気お姉さんにもういつも大荒れですっきりとしないんだからと部屋を片付けつつ叱られたり大型で強いかと思ったら随分速いスピードで私の上を通過して行ったのねと二人あてもなくさまよいながらたどり着いた星の綺麗な丘で抱き合ったまま甘く包み込むように叱られたりする妄想に束の間浸っていると著しい虚脱感や無力感がなんかこうアレで、いつものように探しものが手の中に転がりこんできた。
そして私は労働に赴き、月水金と三度続けてゴミを出し忘れた。
「しらーないーーうちーにーー」
文化会館で音楽発表会など、誰が考えたのだろう。映画館級の広さを誇る立派な施設を借り切ってまで催すほど、彼ら中学生の合唱は尊いだろうか。
「じかんはーながーれるー」
恣意的に決められた学年代表に意味などあるものか。
聞け、この一年坊の拙きハーモニーを。声量のみを追求する付け焼刃の練習を重ねただけの、未熟さ溢れる歌声を。
彼らの親達以外に、果たしてこれを芸術として受け止めることが出来るのだろうか。
――ああ、聞いているだけで苛々するわい。
そんな生徒らの御守りをするようにタクトを振るしがない雇われ指揮者は、先月に妻と離婚したばかりだった。苦笑いしながら母親を選んだ息子もちょうど中学一年生だった。
「ないーてもーーわらーってもーー」
もっと、もっと歌えばいい。そんなに歌いたいのなら。
「ああーーああーーー」
全力で腕を振る。愚直にボルテージが上がる一年生。更に振るう。尚も付いてくる生徒。真っ赤な顔。掠れる声。絶叫に近い。もっと。もっと。倒れる生徒。慌てて舞台に上ってくる教師。弾き飛ばす私の豪腕。その程度で私の指揮を止められると思うな。
「じかんはーーーながーーーれるーーー」
死屍累々と横たわるお前たちに私は同情しない。積極的に生徒を薙ぎ倒す指揮棒。チアノーゼを起こした所が勝負の始まりだ。そのO脚の女子生徒はなかなかどうしてしぶといが、実力の差は明確だ。女子生徒は目を限界まで見開いたまま、悔しそうに頽れる。
それで歌声は耐えたが、場内は熱狂的な興奮に包まれて、歓声と怒号が渦巻く。やがて始まる指揮者コール。
指揮者。指揮者。指揮者。
タクトを最大に伸ばして、血を払うように鋭く袈裟懸け一閃。正装の上着を脱ぎ捨て、挑発するように息をついてみせる。
そうだ。彼の戦いはまだ終わっていない。
それに応えるようにして、ギイと椅子を引きながらゆっくりとピアノ伴奏者が立ち上がる。そして不敵な笑みを浮かべながら、指揮者の前に対峙した。
私はまた死に損ねた。 バスタブに浸かった身体の温度とそれを包むお湯は、ぬるい。ルールという綱から落ちたのに、また引き上げられていく。どうして、私は上手く死ねないのだろう。 彼女は私に、死は最大の完成よ、と言って笑った。それ以上手に入れることも、これ以上失うこともない、完全な結末だと思わない?彼女が指で弄ぶライターを私は見たことがあるのだけれど、果たしていつ見たのかを思い出そうとしていた。あたしが死ねば、彼はあたしを忘れることはないし、愛さなくなることもないの。あたしはそこに居なくなるから。やっぱり笑ったまま彼女は言った。私は怪訝な顔をしたけれど、彼女は確実に私を追いつめた。 バスタブに浮かぶ黒い髪は、私の象徴だった。それを見ながら溜め息をつく、私はどうして上手く死ねないのだろう。私は水色のバスタブに沈みながら、そればかりを考えた。私は彼の中で、完成しなければならないのに。 だけど、先に死んだのは彼だった。
例えばだ。君が選ばれたものだけの乗る箱舟に乗っていたとして、その中の猿だったする。猿は当然木から垂れ下がる。だが、箱舟の中には木はないとするから君はノアを探す、やつがいれば何とかなると君は思っているからだ。だがそれはトリックであると思う、君はだって君でそれ以外のものじゃないということを考えると、君以外に生き物はいない。というかこの箱舟自体空っぽかもしれないじゃないか。君は独りだ。とするとどうするだろう、移動。とてもそれはできるような体じゃなくなっていたんだ、君の体にはすでに蛆虫がたかっていた。蛆虫はすごく邪魔で君はあくびをするだろう、走ることを再び考えるかもしれない。だがそれは走るという妄想だけで、結局何もしないんだ。君は箱舟の窓から外を眺める。外は青い、海だ。それを歩くのだ。君は海面に毛だらけの足を置くとする。だがその毛だらけの脚が沈んでしまう。君の体は沈んでいく。珊瑚だ。君の眼球は珊瑚を映し出して光った。君は珊瑚を食べたいんだ。そして珊瑚に手を伸ばしそれをもぎ取る、だがそこで、海中を泳ぐ魚と目があった君は少し立ちどまって自分が何なのか考えている。そして困る。君は君じゃなくなる。君は視界をそっと海中に分散させていく。海に流れる全てのものが君の目に入ってくる、だがそれは目じゃない。君の存在はすでに焼失してしまっている。何をするのも厄介になる。君は泣いてみる。だがん不思議と涙はこぼれない。だって君は君じゃないからだ。
君は魚になって海を泳ぐ、そして海草をしゃぶりあげる。君はもうどうすることもできず、ただ固まった海草を見てあざ笑う。だが思う。俺もそれは同じなんじゃないだろうか、と。それもそうだ。君は実は泣いている。君の中の不気味なものが鎌首をもたげそうなんだろう、それは船を破壊して俺以外の生き物を全て焼却してしまうという世間一般では独り善がりだと考えられている概念だ。だがそれを進めることにより君の中に奇妙な温かみというか、心地よさが流れる。それは体を包んで黄身は流されていく。大洋を君は否定した。ので、君はどこかへ連れ去られて置いてきぼりにされるのが落ちだろう。だが君は気持ちいい。層に決まっている、気持ちいい。 やしのみが君の頭にあたったとしても君は何も感じなかった。
そして君は笑っていた。
椰子の汁が君の体に付着する。君はそれをふき取った。
リンゴという果実は、キリスト教において、非常に重要なアイテムらしい。いや、非常に、というのは私の思い違いかもしれない。だが、神学など学んでいなくても、イブが蛇に騙されて食べた「知恵の実」は、どうやらリンゴらしい、という物語を読めば、最も重要な果実だと憶測しても、あながち無茶ではないだろう。
私はリンゴが好きだった。今でも、リンゴを見ると自分の執着を思い出させられる。何かを好きだったということを思い出させられるのは、人間であったことを思い出させられるに等しい。
「どっちがいい?」
あのとき、母は私を試したのだろうか。
「おかあさんが、さきにとって」
半分に切られたリンゴの、やや大きいほうを見ながらも、私はそう言った。
私は母が好きだった。
崇拝していたと言っていい。
「欲しいほうを取っていいのよ」
そう言われても、私はまだ迷った。十歳に満たない子供の想像力で、それでも必死に思考を巡らせた。
大好きなリンゴ。たくさん食べたい。だが、大きいほうを取れば、母は自分勝手だと責めるだろうか。こんなことで母の機嫌を損ねたくはない。
母をちらっと見ると、みかんを剥き始めていた。母はリンゴより、みかんが好きなのかもしれない。訊いてみたいと思ったが、いじきたない気持ちが母にわかってしまうと思うと訊けなかった。
「早く選びなさい」
母が少し不機嫌になった。
相変わらず、母はリンゴを見ていない。この程度の大きさの差など、気付いていないかもしれない。
私は名案を思いついた。
小さい方を剥いて、母にあげてしまえばいい。
真っ直ぐに手を伸ばし、迷わず小さいリンゴを取る。
「お前は本当に遠慮深いね」
母の言葉に、私は凍りついた。
母がリンゴを好きかどうかなどということは、まったく問題ではなかったのだと気付いたときには遅かった。私の手には、小さい方のリンゴが握られている。
それは母を裏切った証。
恐る恐る見た母の顔は、優しく満足そうな笑顔だった。
「両方とも、半分にしましょうね。そうしたら、同じ大きさになるわ」
母は私を疑っていない。
そのことが、ますます私の罪を深めた。
果物ナイフが、リンゴを切り、皮を剥いてゆく。
知恵の実。
豊かな楽園においてさえ、特別な果実。
楽園を追われることになろうとも、欲してしまった。
神に背いた、人類最初の罪。
そのときのリンゴの味を、私は、どうしても思い出せない。
透明なユメを見ている。ある日突然、世界中が淡く透明に薄れていくのだ。見えているものが見ている端から白ばんで消えていく。その光景が余りにも悲し過ぎて、僕は瞼を閉じることにした。
目覚めれば世界は今もそこに在って、ユメなんて儚いものなんだ。
手始めに三十万円を受け取った。交通費として二万円を渡された。この金で人を一人、片付けて来いと言うのだ。持たされた金束を後ろポッケに詰め込んで外へ出た。
歩いていると早速に三人組の男に拉致られる。理由はなんとなくだが、一応聞いてみることにした。
「暇じゃないんだよ。しね」
殴られた。どうやら、ポッケの金束が彼らを惹きつけた原因らしい。
面倒だから少し分けてあげてもいいかな、と思って交渉したら全部欲しいと言う。
仕方ないのでこっそり貰っておいた拳銃で、撃ち抜いた。
ここで目的の場所までは電車で三十七分、バスで十二分もかかるから、これらを隠しているヒマが無い。だから―――捨て置いて逃げることにした。
駅から乗り物に揺られて、―――その果てに、ついに古びたアパートへと辿り着いた。
長かった。途方もなく長かった。そんな万感の気持ちを込めて一〇一号室のドアノブを引いた。この先に、全ての元凶にして原点である、一人の男が待って
「うー」
いたけど、首を吊っていた。
あわや大惨事か。などと慌てている場合では無い。とにかく吊り縄を狙い、撃つ。だが切れない。本当に役に立たないエアガンだな。仕方なく普通にナイフで切った。
フローリングの床に落ちた男はまだ生きていて、呼吸が落ち着いた途端にくず折れて泣きだした。さて仕事だ。
「初めまして、私はこういう者です」
差し出した名刺を男の手に強引に握らせる。
「す……、スーサイドキラー?」
「はい、日本語で自殺殺し。意訳して命の恩人です」
「はぁ。は?」
「我々、特命機関シンメトリでは彼方のような自殺志願者を特定し、救済することを任務としています」姿勢を正す。「つきましては――」
透明なユメが唐突に終わる。眼を開けるとそこには一人の女性が立っていた。なんて神々しいのだろう。眩しさと情けなさで独りでに涙が出た。
「初めまして」
話を聞くと、彼女は何か良く分からない仕事で何故か自殺を潰して回っているという。
「つきましては、この先のサポート。つまりはあなたを幸せにするお手伝いをさせていただきたいのですが?」
いかがでしょう、と彼女は言った。
「……よろこんで」
僕は言った。
『お前ってさ、どこか可愛いじゃん。結構モテるんじゃないの?』
何かの話の折に奴に言われた一言は、嬉しくなんかなかった。奴は俺のことを知り合いの一人くらいにしか思っていないということを思い知らされたからである。俺の方は奴に気に入られたくて必死になっているというのに。
いつでも奴の傍に居たい。奴から醸し出される安らぐ感じがもっと欲しい。
今日も俺は奴に張りついて、奴の好みを探り出そうと画策している。安らぐ感じが欲しくてあくせくしているのはどこか矛盾しているが、それでも俺は求めずにはいられない。それなのに、奴は俺のことを何とも思ってくれていない。俺なんか奴の言葉を反芻するくらいに奴のことを気にしているのに。
『お前ってさ、どこか可愛いじゃん。結構モテるんじゃないの?』
モテてもモテなくてもどうでも良い。俺は奴だけに気に入られればそれだけで良いのだから。
可愛くても可愛くなくても…、あれ?
俺のこと、可愛いと思ってくれているのか?
急に嬉しくなってきた。たった一言でも奴が俺のことをポジティブなイメージで言ってくれたことが、俺を舞い上がらせた。
もっと可愛くなれば、奴も俺のことを気に入ってくれるかな。
ならば…。
丈の短いデニムジャケットとピンクのタンクトップに、ちょっとフレアなデニムスカートとボーダーのスパッツの組み合わせ。全体的にはアクティブだけど、ところどころでアピールしている。
奴が俺のことを見てくれるのならば、俺は何でもする。いや、その保証がなくても可能性があるのであれば、やはり俺は何でもする。例えそれが世間一般には認められないことであっても。
俺の行動は素早かった。早くしなければいつか奴を他の誰かに取られてしまう。迷っている時間も、後ろめたさを感じている時間も俺にはない。そんな時間は、すべてより可愛く見えるようにするために費やされた。
そして俺は奴の前に出る。緊張に胸が高鳴る。しかしそれを表に出してはすべてが台無しになる。ゆっくりと小股に歩いて、表情が強張らないように微笑を浮かべて、俺はそれを覆い隠した。
「お前…」
奴は絶句した。
「どう?」
俺は小首を傾げて笑って見せた。この一瞬が勝負どころ。奴の次の一言が勝負の分かれ目。今になって、俺は奴が笑ってくれるのかと怖くなってきた。奴の僅かな表情の変化が見えるほどに、一瞬が長い。
「お前、面白いよ」
そして奴は苦笑いをした。
由紀の母の実家は、先の大戦で没落した地主の家で、遺産を継いだ母は、その屋敷を守ることに血眼になった。わずかに残っていた田畑を売り、そっくり残っていた広大な山を売り、それでも足りずに借金をし、それが原因で夫と別れてまで、江戸時代に建てられた屋敷を守った。自分が育った家だったからという理由だけで、母は無理をして相続税を工面した。由紀にはその情熱が理解できないから、心理的な負担を減らしておこうと、自分が相続しても、「私には守れないわよ」と言ってあった。それに対する母の答えは、往生際が悪かった。「大丈夫よ。あなたの旦那さんが守ってくれるわよ」「恋人もいないのに!」と当時、由紀はふくれた。彼、なんて言うかしら。
確かに屋敷も、庭も、敷地内のうっそうたる林も、現在の母子には過分なものだった。それは、堂々とした門であり、広壮な屋敷であり、美しい庭だった。ところが、由紀も、母が背負ったこの家の命を感じ始めた。と言うのも、まるで屋敷自らの力ででもあるかのように、祖父が昔、道楽でやっていた蘭の栽培から新品種が生まれて、この家を金銭的に支え始めたのだ。蘭栽培の温室の横には、荒れた敷地があって、由紀と母は、そこを花園に変えた。一年中花が咲き乱れるようになった。由紀はその花々でジャムを作った。母は相続問題がおさまって緊張が抜けたのか、最近体調を崩して入院してしまった。せっかく守り通した家に居られない不幸を嘆いた。
由紀は愛犬のニュートンと、大きな古い屋敷で寂しく過ごした。夕食のデザートは、清らかな白い花ジャムだった。紅茶とともに食べた。今朝摘んだ青白いバラで、不思議な形とかぐわしい香りに魅せられて摘み取ったのだったが、何と妖しく甘い匂いだったろう。食後、由紀は少し気分が悪くなって、畳の上に横になった。そして、そのまま目の前で世界が暗転した。
闇の中だった。男が由紀の下半身を裸にして、床に寝かせた。
「嬢ちゃん、股を開くんだよ」
男は言った。
由紀は男の顔を見ていた。その顔は闇の中に没していた。
由紀はニュートンに顔をなめられて気が付いた。由紀はニュートンを抱いて、そのままじっと横になっていた。遠い遠い昔の失われていた記憶の世界が、扉を開いて由紀を招き入れたのだ。天井がゆっくり回転していた。この家が自分をしっかりといだいているように感じられた。
8がつ16にちにちようび。はれ。きょうはうちのとてもおおきなおにわでひとりであそんでいるとおおきなあなをみつけました。うちのおにわであそぶのはとてもひさしぶりなのでいつこんなにおおきなあなができていたのかびつくりしました。あなのなかをのぞいてみたけどそこのほうはみえません。ちかくにおちていたちいさないしをおとしてみました。おちるおとはきこえませんでした。すごくふかいあななのだとわかってぼくはとてもこわくなりました。もしもぼくがきずかづにあなのなかにおちるとどうなるのだろうとおもいます。おとうさんもおかあさんもぼくをみつけれません。そしたらぼくはひとりです。ぼくはおおきなうちにいっかいいつてめろんぱんをもってまたおおきなあなにいきました。おおきなあなをみてめろんぱんをたべました。めろんぱんはおいしいです。めろんぱんをはんぶんこあなのなかにおとしてみてみました。おちるおとはきこえません。ぼくはすこしざんねんでした。おとすまえにはんぶんこたべていたらよかつたです。でもいいです。ぼくはおなかがいっぱいです。
〈3月未明××市××区の閑静な住宅地の敷地内からおそらく二人だと思われる頭骨が発見される。死後数年は経ていると思われるが県警は更なる鑑識を進めている模様。〉
良くんは好奇心が旺盛ですね。穴の中に色んなものを落として深さを確かめようとする良くんのやり方は先生凄く良いと思います。だけど食べ物を粗末にするのはあまり良くないな。今度からはおなかが一杯だったら残りは大事に取っておきましょうね。先生より
そのとき僕はいつものように車を走らせていた。隣にはいつものように健太が座り、いつものようにバッティングセンターの帰りだった。フリーバッティングでの王監督のバッティング指導のものまねもだいぶ上達し、気分よくハンドルを握っていた。ステレオから流れる『CHA-LA HEAD-CHA-LA』が二番に突入しようとしたとき、突然の眩しい光に視界を奪われた。あ、これアウトだわと覚悟を決めた。やはり運転中の影山はまずかった。しかし来るはずの衝撃がなかなか来ない。対向車よけてくれたのかなと思い目を開くと、僕らは見たこともない土地を走っていた。そこは紅葉した木々が繁った山道で、景色が全体的に古めかしい。それでも僕らはそれほど取り乱さなかった。前にも同じような経験がある。僕らは二人で車に乗っているとき、ときどきなぜだか過去へタイムスリップしてしまうのだ。はっきりとは覚えていないのだが、二人で何回か過去にきた。
しばらく走ると、そこはまるっきり見覚えのない土地ではないことがわかった。おばあちゃんの家に続く道だということに気づいたのだ。だだ辿り着いて愕然とした。おばあちゃんの家があるはずの場所に、いくつもの砲台を備えた要塞がこぢんまりと建っていたのだ。要塞に備え付けられた駐車場に車を止め、少し様子を伺っていると中から中年の女性がでてきた。鉢植えにせっせと米のとぎ水をまいている。間違いない、おばあちゃんだ。その時点で今回のタイムスリップの目的を理解した。この限られたスペースにすっぽりと収まった要塞を破壊し、僕の知っているおばあちゃんの家に戻すことが今回の使命だ。僕らは過去で起きてしまったちょっとしたミスを修正し、もとの現在にもどすために過去にくるのだ。すかさず健太が車を降りて車体の右側を確認する。『E2304L502』炭でアルファベットと数字の羅列が書かれている。これが過去を修正するにあたってのキーワードになるのだ。前回は『A315H123』でオマリーの通算打率と本塁打数だった。
健太を見ると前回同様さっそくキーワードの解読にとりかかっている。彼にはこの作業が向いているらしい。僕は車に残してあった缶コーヒーを飲み干した。やらなければならないことは山ほどある。ゆっくりと深呼吸をし、王監督のバッティング指導のおさらいを始める。
トムとジェリーの物語からあの穴だらけに欠けたチーズが切り離せないように、ハツミを思い出す時、いつもはじめに蘇るのはピンぼけした古い一枚の写真だ。そこには、白い壁をバックにしてブルーのビートルが写っている。ほかには樹木も標識も猫も案山子もジミィ・ヘンドリックスさえも写っていない。 壁の白と車体のブルー、そして地面の黒色だけの写真だ。おそろしくずれたピントのせいで、色は本来あるべき境界を失い、切り取られてしまった空の欠片、という印象を僕に与えた。
―昔父が乗っていた車なの―
そう言ってハツミは見えないハンドルを切った。ステアリングリミットを存分に無視したそのイメージに、僕は机に腰掛けたまま、あっけにとられて僕らの他に誰もいない教室を見渡した。夕暮れ時の罪も無い通行人や、哀れな野良犬、埃にまみれたカーネル・サンダースがつぎつぎに跳ね飛ばされていく姿が眼に浮かんでは消えていった。
まわりの恋人たちが親たちの目を盗んで箱根だか熱海だかにせっせと旅行へ行ったり、校舎の裏で唇をかさねあうのと同じ理由で、あの頃僕らは、手に届くものすべてにブルーをくわえた。
緑に映えるボンバックスの鉢をベビーブルーに塗り、履きつぶしたコンバースをネイビーブルーに、グラウンドの錆びたバスケットゴールをミッドナイトに染めた。くたくたになって作業を終えると、僕らはよく冷えたペプシを手に、できあがった風景をいつまでも眺めた。笑ったり怒ったり、時々には泣いたりもしながら。
僕らのブルー蜂起はその後、町に設置されたバスストップのベンチを正確に十八脚ぶん青く塗りかえたところで終焉を迎えた。澄んだ冬の星空の下ハツミは、空になったラッカー缶を冷たい地面に置いた。僕が持つペンライトの光が神秘的に彼女を包んでいた。「さよならの向こう側」は聴こえて来なかったが、それは僕にとって忘れられない風景となった。
僕とハツミは恋人同士という関係ではなかったけれど、往く年月を経ても、あの十八歳という季節を巡った恋の想い出は、昇華も消滅もせずに僕の胸にある。僕は二十三歳で中古のビートルを買った。青く暮れる街並みを走れば、今でも時々ハツミのことを思い出す。そんな時僕は、古い愛の歌をくちずさみながら、静かにステアリングを意識する。
「ねこがね、ころんだんだよ」
これおもしろくないかい? そうかつまらないか。でも、ほんとにつまらないかい? もしあなたがお酒を飲める人だったら、いつかどこかでこの文句を思い出してみてほしいな。あのネ、猫がなんとかって文章があってネ、なんて横の誰かとぐびぐび飲んでいるときにぴったりだと思うんだけどどうかな。もう一度、言おう。
「ねこが、ねころんだんだよ」
どう? さっきと同じなんだけど、少しちがうだろ? 転んだ猫と寝ころがった猫。だから何? なんて聞かないでくれよ。実はね、この文句は俺がつくったんじゃないんだ。それについて話をしてもいいかい?
雨の降る夜だったよ、むしむししててね、女がやってきたんだ。俺、飲み屋で働いててね。カウンターの隅に座った。太ってたな。椅子に座るのも苦しそうだったよ。
「ライムワラ」
ライムワラ。なんのことかわかるかい? どうやら英語の発音らしいんだ。ライムウォーターって意味で、もしかしてジントニックのことかな、と思ったんだけど彼女は本当にただのライム入りの水をたのんだんだ。もちろん作ったさ。客だもん。
ライムワラをちびりちびり飲みながら、彼女は文庫本を読み始めた。表紙はなかったよ。でも村上春樹って書いてあるのは見えた。俺も彼の本好きだし、客商売だし、もし彼女が本を横においたらその本のことで何か話ができればなあと思ってたんだ。ライムワラも気になるしさ。でも彼女はずっと本に夢中で、俺は目の前でグラス拭いてたよ。バカラ、ぴっかぴかさ。
とうとう店を閉める時間になって声をかけたんだ。そしたら、彼女、本を置いて俺をじいっと見つめて、あ、どうかしました? と言わずにいられなかった。なんだ、俺に何かついてるのか、とも思ったよ。
「ねこがねころんだのよ」
は? 猫が? 寝込む? 俺は唖然として固まったよ。彼女は一万円札をカウンターに置いてちょぼちょぼと階段を下りていく。はっきり言えば美人じゃなかったし、俺の2倍くらい横長だった。そしてわけがわからないことを呟いた。変な女だった。
ご拝聴ありがとう。その後? 彼女は一回も来ずさ。俺も仕事を変わったし、かわいい奥さんだって貰ったんだぜ。ねこが、なんて言わない常識的な、ね。なあ、「もしも」について考えることあるかい?
俺はあるよ。猫が転んだり寝転んだりに意味なんてなかったかもしれない。でも、あったかもしれない。ときどき俺、考えちまうのさ。
おしゃれダーツバーの店内。ダーツプレイヤー・かずとしは動揺を隠そうと、いつものロマンティックなかずとしのままでいようと意識してグラスを口につけたが、手に持っていたマイダーツを床に落としたことに気づかなかった。かずとしのわきの下から流れ出る汗は、小さい鍋で大量のパスタをゆでようとしてしまったときの鍋のふきこぼれか、と思ってしまうくらい大量だった。
中部地方出身のかずとしが、バイトではリーダーを務めるかずとしがダーツで負けた。それも相手は目隠しをした若い女。女は、びっくりしているときの目のイラストが描かれた目隠しを外しながら近づいてきて、かずとしは今思い出したかのように3万円支払った。東京とはこんなにも危険な街だったのか。かずとしの脳裏におばあちゃんの顔が浮かぶ。そのとき少し離れたテーブルから拍手が聞こえてきた。
「すごい賭けダーツだったよ。長野でTBSラジオの受信に成功するくらいすごいよ。」
「ふふ。インテリだね、兄さんは。」
拍手と声の主は、かずとしと女の勝負を見ていた坊主頭の兄弟だった。髑髏島兄弟である。そういえばかずとしは、さっきからこの兄弟のするどい視線が気になってプレーに対する集中力がそがれていたことを思い出した。あの兄弟の、ただならぬスケールの不敵な笑いを見て動揺してしまったのだ。あの兄弟、数々の修羅場をくぐり抜けてきた血塗られた勝負師に違いない。髑髏島兄弟が近づいてきた。そして、髑髏島(兄)が女の前で立ち止まる。今にも鼻と鼻が触れそうな距離。髑髏島(兄)の足は不自然なまでに大きく開かれたスタンスをとっている。なんだこのあやしげな緊迫感は。近い。エロティックなまでに距離が近すぎる。はじまるぜ。俺の第六感がやさしくささやいている。こいつらただものじゃない。本物だ。本物の勝負がはじまる!
「こんにちは」
髑髏島(兄)が女に話しかける。するとどうだろう。突如後方から走りこんできた弟が兄の股の下から、不自然なまでに大きく開かれた兄の股の下から突如顔をのぞかせた。弟は親指を立てながら叫ぶ。
「O型でしょ?」
兄が女の子に声をかけると、弟が兄の股の下からヘッドスライディング気味にあらわれ血液型の話で盛り上げる。食らえっ! これが必殺の、髑髏島兄弟のスカルコンビネーションだ!
髑髏島兄弟はさっきからナンパのことばかり考えていたのだ。女は這いつくばっている弟の額にダーツを刺した。
風呂場からのそのそやって来た父は、わたしが作った夕食を眺めて居心地悪そうだった。洋食主体だという事もあったろうが、たぶん、こうやって誰かに夕食を作ってもらう事から離れ過ぎていたからだろう。そういうわたしも誰かに作ってあげる事から離れていたから、父の目には居心地悪そうに映ったかも知れない。
二十年振りに実家に帰って来たのは、新作の小説のためで、この山奥に出る生き物について取材しに来たのだ。
それを初めて見た時は四歳だったろうか。猟から帰って来た父を出迎えた四歳の子供には、それは人間に見えた。体毛がなく、ほぼ肌色で、体長一メートル半ほど、枯れ枝のように細い事を除けば四肢と体のバランスは人間と同じ、手足の指の数も五本と同じで、頭は小さくて丸く、白い毛が薄っすら乗っかっていて、顔の正面についた大きな両の目は飛び出すように突き出ていた。一番不気味に感じたのは、驚くほど小さな口で、アリクイのように長い舌を出して小さな虫を食べているそうだが、あれではきちんと喋れないではないか、と四歳のわたしは言い、父に笑われたのを憶えている。
それは地元で『カタリ』或いは『カタリさん』と呼ばれている。これは『騙り』の事で、人間の姿に似ている事からついた名だ。蔑称なのは、カタリの奇妙な習性に由来する。カタリは、まったく捕食のためではなく、生き物の目玉を刳り抜くのだ。わたしが子供の頃よく遊びに行っていた家のおじさんも、右目を抜かれていた。四十年昔には、そういう人たちがこの村にはまだ少なからずいた。今はどうなのかと父に尋ねると、今年九十二歳になった田鍋さんがいるだけだと教えられた。
翌日田鍋さん宅を訪ね、中村の娘ですと挨拶すると、相手は憶えているよと微笑んで歓迎してくれた。両目とも瞑られていた。
田鍋さんはカタリについてこう語った。「あいつらは、見ることにとり憑かれておる。喋ることを知らん。考えることを知らん。人間のなり損ないじゃ」
人間のなり損ない。
田鍋さんのその言葉に、わたしは子供の頃からのつかえが取れた気がした。そして、そう言った田鍋さんに対して、はっきりと恐怖を覚えた。
カタリは、日本名を『ヒトアリクイ』という。身も蓋もないけれど、その名前は人というよりはアリクイという感じで、『カタリ』よりもずっと親しみ易い。
そのヒトアリクイは、集めた目玉で何をしているのだろう。
何を見ているのだろう。
今日は。良い雨ですね。
やあ、窓からなめくじに声をかけられるとは。
今日は貴方にお願いがあって参りました。
ふうん。何だい?
来月、全国なめくじ選手権があるんですが。
全国なめくじ選手権…って、何すんの?
まあ、ぶっちゃけ我慢大会です。塩サウナで。
…もう少しひねりとかないの?
ええ、私ら質実剛健で売ってますから。この試練を超えてようやく一人前なんです。
で、何を手伝ったらいいの?
鍛えて欲しいんです。私を。
それは難問だなあ。何で俺に頼むの?
だって、暇そうに見えたので。
暇でもないんだけどな。ま、いいか。とりあえず、ここにお清めの塩があるけど。
ああ、やめてください縁起でもない。
塩は塩だよ。これ使っちゃいたいんだけどな。
そうは言っても気分の問題ですから。
わかったよ。じゃあ、一応好みを聞くけど?
蒙古産の天然岩塩とか。肌にもよさそうですし。あと赤穂の塩とか、伯方の塩くらいで。
うーん、そりゃあ注文が厳しいなあ。
プロフェッショナルの拘りですよ。
我が家は拘らないんだ。食卓塩で我慢してよ。
仕方ないですね。
じゃあ、いくよ。
あ、だめですいきなりそんなにふりかけないで。もっと、尻尾の先っちょの方に小さなやつを二、三粒くらいから…。
…君、本当にやる気あるの?
勿論です。勿論ですとも。でも、何事にも初めてってあるでしょう?
まあ、そうだけど。じゃあ、中蓋を取って…意外と固いなあ。暫く使ってないから。
料理くらい、こまめにしましょうよ。
人の食生活にけちつけないで欲しいな。…それにしても、やけに固いなあ、これ。
あまり焦らさないでくださいよ。こっちはもうさっきからどきどきしっぱなしで…
あ、ごめんこぼしちゃった。
………!!!!!
やばいやばい、大丈夫だった? ああ随分小さくなっちゃって。
ひどいことしますね。
ごめんごめん。本当に悪かったよ。
でも、良く分りました。こういうものは死ぬ気でやってみれば何とかなるものだって。
そうかなあ。君の場合は、死ぬ気でやったら確実に死ぬって気がするんだけど。
本当にありがとう。それじゃあ、私はこれで。
あ、君。実は僕、明日手術なんだ。応援してくれるかな。
へええ、それは大変な事ですねえ。勿論ですとも。で、何の手術ですか。
包茎手術だよ。…君、今笑ったよね。
いえ滅相も。ああ塩を構えないで。ね、お互いがんばりましょう。明るい将来のために。
ありがとう。君は絶対無理しないでね。
ええ、あなたのことは忘れません。では。
<前回までのあらすじ>
崖の上に立つ一軒家へ男は遂にアザラシを追い詰めた。炎上するボルボ。男はあらかじめミス・ミントが考案してくれた作戦(巨大な捕獲用の網の取っ手部分を持って頭上に掲げ腰をくねらせて踊り、つまり取っ手部分を踊りの一部にすることにより(バーダンス)アザラシに捕獲用の網を気取られず近づく)により、見事捕獲に成功。しかしここからアザラシは脅威の粘りを見せる。持久戦である。アザラシはノートパソコンを持ち出し、負けじと男はポテトチップスとコカコーラを準備。
持久戦である。
「コロニーは結局助からないみたいですね」
「ああ」
「あれだけ期待されて。けど駄目ですね。皆燃えてしまう。皆助からない」
「ああ」
「燃えていく。燃えていきますね」
アザラシはモニターに宇宙コロニーを映し出す。ネット中継されている宇宙コロニーの映像である。南の空に赤々と光る宇宙コロニーの、その拡大映像だ。コロニーは全世界の人々が見守る中、ゆっくりと燃え尽きていく。
「コロニーはそんなに人々の憧れの的じゃなかった。お前は知らないだろうけどな。裏で色々汚いことも行われた。技術競争。それから技術の盗みあい。宗教上の理由で非難する団体も多かった。本格的な宇宙生活の為の、初めてのコロニーだったから」
「人間は大変だったんですね。でも今は全世界の人が彼らについて悲しんでます」
「そうだな」
「人は死にますから」
「そうだ。しかし、あれだ。こういう話がある」
「はい」
「俺の親戚のおじさんは行方不明なんだがそのおじさんは不老不死の薬を開発したんだ。それを飲んでおじさんは俺達の前から消えた」
「へえ。で、彼は今どうしているのでしょうね」
「思うんだが」
「はい」
「何ていうか。落ち続けているのじゃないかと思う」
「それはこういうことですか?」
アザラシは動画編集ソフトで映像を作り上げた。
永遠に落ち続ける男がモニターに映し出される。
「わからん」
「そうですか。ところで私達がこうしている間に500年が経ったようですよ。私はずっと私達をビデオに撮っておきました。見ますか?」
「ああ」
「早送りで見ましょう。なにせ500年ですから。ふふ、早いですね。500年なんてあっという間だ。すぐに追いつかれ、そして追い抜かれるのでしょうね」
燃え尽きていく宇宙コロニー。落ち続ける男。早送りされていく男とアザラシの500年。
それらがモニターに並んで表示されている。
一週間の外出を終え、トイレットのドアを開けると、便器のたまり水のなかに、巨大なうんこが鎮座していた。
まるでモスラの幼虫のようなそのあまりの迫力に、目をしばたかせて、しばし見入ってしまったが、それはやはりモスラの幼虫なのではなくて、吸水口を完全に塞ぎ水面から半ば突き出るほど巨大であることを除けば、色艶といいうんこ以外の何物でもなかった。水を流そうという考えも思い浮かばず、いや仮に流したところで、すでに吸水口を塞いでしまっているのだから、溢れ出てしまうのがオチで、咄嗟に思ったこといえば、これは俺のうんこではない、ということだった。
普段は「ぼく」という一人称しか使わぬから「俺」などという言葉が出てきたのは妙な話で、いや、そんなことはともかくとして、家人など居らぬ一人暮らしの身で、確信を持って自分のうんこではないと云えるのは、常日頃から腹のゆるいほうであり、日に三度以上必ず排便するためこうまで多量なうんこを腸内に溜めておくことがなく、しかも多分に下痢便気味で、そうでない時もぶちぶちとした細切れの、鹿の糞のごとくであり、長々ととぐろを巻くということがなく、こうも巨大な、いかにもうんこ然とした、うんこ以外の何物でもないような、立派なうんこは四半世紀を越える人生のなかで、ついぞひり出せた記憶がない。さらに云うならば、排便と同時に排尿もするのが常のことで、おそらくは悪癖というべきことなのだろうが、少しひり出してはけつを拭き、またひり出してはけつを拭くのが習慣になっているので、ぼくがし終えたあとの便器のなかは、うす黄色く染まったたまり水のなかに、下痢便うんこを吹いたトイレットペーパーが、ところどころにその白さを無残に残し、浮んでいるという実に惨憺たる有様になっていて、つまるところ、自分の排便では、こうも純粋にうんこだけが白磁の便器のなか鎮座するということはありえないことなのだ。
もう一度目をぱちくりとさせてみるが、勿論モスラの幼虫でない確固たるうんこであるそれが、もぞもぞと動き出すということはなく、忘れかけていた便意に身震いするのだが、このうんこであることを主張して止まない純粋なまでにうんこであるそれの上に、自分のちんけな下痢便うんこをひり出すことが憚られるように思え、ひくつく肛門をぎゅっと締上げると、いつの間にか浮かべていた脂汗が、ぴしゃんとうんこの上に垂れ落ちるのだった。