# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 食らう猫 | miwa | 793 |
2 | いのち | 千葉マキ | 617 |
3 | 第二次世界大戦 | 軍艦ポコポン | 978 |
4 | 本の番 | 八海宵一 | 883 |
5 | 冷たい世界 | 夏至 | 558 |
6 | 未来 | 逢澤透明 | 1000 |
7 | 紅の祝福 | メグ | 996 |
8 | 幸村と佐助 | わら | 1000 |
9 | 三つの願い | 朝霧 彰吾 | 980 |
10 | 胡乱妖精 | 神藤ナオ | 346 |
11 | 空飛ぶ犬を見た | キゼる | 835 |
12 | 観察者 | 屍 | 818 |
13 | こだから | 瀬川潮 | 690 |
14 | 薔薇 | 壱倉 | 731 |
15 | けずりたガールヤスリちゃん | カズマ | 654 |
16 | 正義の殺し屋 | 齊藤壮馬 | 994 |
17 | バラ2輪 | しなの | 999 |
18 | 星空のコーヒー | 桜月樹里 | 1000 |
19 | 忍者と小太刀と回転式弾倉 | ヒモロギ | 997 |
20 | 死んでも死なない薬 | 朝野十字 | 1000 |
21 | 森を抜ける、朗読する | 三浦 | 998 |
22 | 父 | 川島ケイ | 1000 |
23 | 初雪 | 佐倉 潮 | 626 |
24 | ユグドラシルの鍵 | とむOK | 1000 |
25 | 割る | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
26 | 99 | qbc | 999 |
27 | イブの夜 | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
28 | 歌唄いの詩 | 折原 愁 | 909 |
29 | あの時、僕は | エルグザード | 871 |
30 | 雨天橋 | 愛留 | 903 |
31 | 全身散霊 | くわず | 1000 |
32 | 消しゴム | 曠野反次郎 | 985 |
33 | 菌類 | 朽木花織 | 997 |
34 | 風の男 | P | 1000 |
私は主人の側らにいつも居て、たいていは寝ているけれど、彼女の匂い立つ様な吐息に敏感だった。それは不規則で、突然始まる。
主人の横を片時も離れず、そっと実が熟すのを楽しみにしている。
そのうち、実は熱を持ち、生臭い匂いが辺りに漂い、重そうに頭を垂れ始める。
私はすかさず、むしゃぶりつき、食らう。喉で味わい、幸福の頂点に向かうのだ。
主人は、私が食らう姿を驚いた様子で、私の手の中にある実を無理に奪おうとしたものだから、私は彼女の手まで食べてしまいそうになった。
少し間、血の匂いが主人と私の間を行ったり来たりしていた。
主人は、私が食らったものが、愛と言う形を成さない物だと知り、おおいに落胆し、私を汚い言葉で罵った。
しかし、木々の葉が色づく頃になると、主人は又、不規則に吐息を放ち、私を喜ばせた。
私が食らうことで、一つの愛物語が終わり、以前と同じ様に主人は落胆したが、やがて、狂った様に幾度も吐息を放つ様になり、
その度に味わい喜び震えた食らうと言う行為が毎日の習慣になった。
たちまち私の腹はどんどん膨れ、苦痛に歪んだ顔になる。主人は私の醜い腹を見て、顔を綻ばせた。
私は、その内、醜いただの塊となりつつあることを悟り、食らうと言う、私の生きる証さえ、不可能になった。
それでも主人は甘い吐息を部屋中に撒き散らし、私に食べることを強要した。
やがて、吐息と言う埃を浮遊させ、ベッドや、椅子や、それらに高く積もった。
ある日、上を向いて動かない私を蔑む様に見下した。そして主人は右手に持ったナイフを振り下ろした。
血しぶきが主人の体に覆い被されたが、主人はおかまいなしに私の腹に手を入れ、咀嚼し、味わい尽くした実を全て取り出すと、
1つ残らず、食らい尽くし、私を残し部屋を出た。
腹の中には主人の匂いさえ残らず、それどころか私は心地よい眠りに引きづられながら、腹の隅にあった実を手に取って眺め、
最後の実を食らった。
死ぬはずだったのに、生き生きとしてる。
数日前に計画していたことが今では消えている。
そんなに死にたかったのかと思う自分に、
死ねば良かったのよ、と指示する自分、
決して二重人格ではない。
クラシックを聴きながら沢山のことを思い出す。
過去も今もこれから先の自分のことを。
誰でも思い出すのだろうか、それがわからない。
こんな危険な私でも小さな幸せを感じる。
今日をどのようにして過ごすか、いろいろ考える。
仕事でもしていれば、することは沢山あるだろう。
金があれば幾らでも物は買えるだろう。
そんな充実した幸せが、
あと何年経ったら私にも出来るのか、と考える。
生きるって難しい、死ぬってのは苦労する。
結局、なんだかんだ言って行きるを選んだ。
私は皆さんのように健常者ではありません。
精神障害者です。
この世の中、世間は冷たく、理解不能です。
なんだか小説らしい内容じゃなくてすみません、
私って才能ないんです、ある方が感想書いてくれたとき、
日本語がオカシイと言われました。
確かに日本語オカシイです。
私は脳の病気なので訓練しないとダメですね、
もっと沢山、作品を提出しないとって思うのですが、
上手くいきません。
もっと本を読まなくちゃと思うのですが、
同じ行を繰り返し読んでしまいます、馬鹿ですよね。
頭に内容が入っていかないんです。
こんなこと話しても無駄ですよね、
だって小説じゃないもの。
日記みたい、小説書けなくなってきて、困ってます。
でも少しずつ書いていこうと思ってます。
豪勢な高層ビルの群れを通りすぎた、スラム街に額に無残にも大きな傷を負った体格のいい男が鬼の形相で足を進めていた。
「リーファンの家を知ってるか?」
男は声を荒げて通りすがりの人に言い放った。
「あんただれだい?」
「俺の訊いてることだけ答えろ」
「し、しらねぇ」
その傲慢な態度には、誰もが苛立ちを覚えたに違いない。また、別の人が通ると、男は唐突にぶしつけに話しかける。
「リーファンの家を知ってるか?」
「リーファンは死んだ。日本軍の一員として、戦場でな」
「黙れ、訊いてることだけ答えろ」
男の勢いはものすごかった。なにかに追われているかのように、なにかにつき動かされているかのように。
「あの信号を左に曲がって、三件目のアパートの二階だよ、あとは、自分で調べろ」
ヒビがあちこちに入っているコンクリートのアパートだった。男は、周りの奇異な視線を気にせずというより、気にしてる余裕すらないのか、リーの家へと足を進めた。後ろの方では、数人の男たちが殺気だたせていた。
男は呼び鈴を鳴らさず、勢いよく玄関のドアを開けて、中を見ると、そこに、ベットの上で苦しそうに寝ている老人がいた。
「通達を出せ。」
男はまくし立てた。老人は、一瞬驚いたが、なにかを悟ったように、静かに口を開いた。
「お前さん、向井隊長だね。話はファンから聞いてるよ。お前さんが同じ日本陸軍兵なのに、朝鮮人というだけで軽蔑してたこととか。おそらく、ファンの最期のきっと」
「第二部隊突撃!おい、お前ら朝鮮の豚どもは俺たち日本人のかわりに死ぬために戦地にきてるんだ、なにを怯えている。いけ、突撃だ!ファン、お前は、俺の前で弾よけになれ、さ、いく……」
その時、空からなにかが落ちてきた。
「手術は成功した。」
「あぁ〜、あなたの、いや、ファンのものを見せて、死ぬ前に一目だけでもいいから、ファンのペニスを見せて。」
「うるさい。黙れ、貴様さえ黙らせれば、誰もこの事実を公表するものは消える。なんで、この俺が、この俺様が、朝鮮人なんかのものを……しかも、俺より立派なものを……う」
話はこれで終わりです。彼の家は伝統的な貴族であり、朝鮮人の奴隷を何人も雇っていたらしい。彼の手術をしたのは、噂じゃ、ブラックチャックらしい。彼の子孫は、噂じゃ、チョコットボール向井らしい。はい、ちゃんちゃん。
あのさ、「本の番」って知ってる?
簡単にいうと、深夜、図書館の見回りをする仕事なんだけど、べつに侵入者が入ってこないように警備をしたりとかじゃないんだ。どっちかっていうと逆で、「脱獄囚」が出て行かないように見張るのが仕事で……。
え? 図書館に「脱獄囚」なんていない?
そっか、これも説明がいるかな。「脱獄囚」ってのは、本に印刷された活字のことなんだ。コイツら昼間は大人しくしてるんだけど、夜になると活動しはじめるやっかいなヤツで、とくに古かったり、堅苦しい本の活字ほど、ジッとしててくれないんだ。『失われた時を求めて』の「を」や、『罪と罰』の「ラ」と「ド」、『教養講座6 言霊信仰とシャーマニズム』の「故」(とくに192ページ3行目のヤツ!)は常習犯で目を離すと、すぐその本から抜け出そうとするから、気をつけて見張らないと大変なんだ。
油虫みたいにカサカサ動くし、ほとんどのヤツらが黒いから一度本から逃げ出すと、見つけて元に戻すのに、悪いときだと明け方ちかくまでかかったりして。
え? うん、見つからずに、そのまま、開館するケースだってあるよ。
どうしても『日本書紀』の「雷」が見つからないから、先輩に相談したら、
「探しても見つからないんなら、“脱字”ってことにしておけば?」
といわれて、妙に納得したり……。
あの様子じゃ、絶対、どっかに紛れこんだ“誤字”もあると思うけど……、これは内緒にしといてね。
まめに燻蒸や、虫干ししてるんだけど、あまり効果がないから、いまだに「本の番」たちが一冊一冊、悪さをしないように活字たちを見張ってるんだ。
深夜の図書館を、懐中電灯片手に。
時給は…720円だけどね…。
よかったら、君もやってみない?
先輩に口きいてあげるよ。
あ、それから、市立中央図書館で“誤字脱字”があっても、あまり騒がないでね、こっそり、戻って来るヤツもいるから。
うわ、そろそろ戻んなきゃ。
コンビニのバイトも大変でしょ? これで、缶コーヒーでも買いなよ。
いいって、いいって、深夜バイトの辛さはわかるから。
ま、お互い頑張ろうよ。
じゃ、またね。
暗い部屋の中で少女はテレビを見ている。砂嵐しか映っていないテレビが発する光が、少女の周りを白く染めている。テレビと少女しか存在しないこの部屋は、現実から隔絶された一つの世界とも言える。
この世界に篭ってどれほどの月日が経ったのか、今現実では何が起こっているのか、少女はそんなことを考えたことは無かった。
少女は現実を否定した。
少女は他人を拒絶した。
現実は下らない。最後は決まって悪が得をするから。
他人は信用ならない。人前では綺麗事ばかり並べ立て、裏では自分だけが得をすれば良いと思っているから。
少女は善と悪について考える。
少女は生と死について考える。
相反する言葉、どちらかが欠ければもう一方も消える。私が善いことをしても、誰かが悪いことをしなければ、誰も私が善だとは気づかない。誰かが死ぬから、私は生きていることを実感できる。
誰もが知ってて当たり前、そんなことを少女はこの暗い部屋で確認する。まるで自分は正しいと自分自身に言い聞かせるように。
少女は知っている、右側の壁にある飾り気の無いドアを開けると、明るい世界が待っていることを。
少女は知っている、ドアを開けて明るい世界に行こうが、この世界に篭っていようが、自分に明るい未来は無いと。
暗い部屋の中で、今日も少女は自分を肯定する作業に勤しんでいる。
少女に未来は訪れない。
そこにあるのは、私の小説だった。
白いディスプレイの画面に引用された文章は、私が彼のために書いた言葉だった。彼は私の小説を引用し、そして、こんなことを主張していた。
「小説には読者が必要だ。言葉は一種の暗号である。発信するものと受信するものがいて、はじめて言葉は意味を持つ。たとえ作者が意思をもたない自動機械であるとしても、小説は読者の想像と創造の力によって生命を持つ。読者である私はこの小説に意思を持った作者を見る。この小説の作者は読者である私に恋を語っている。私はそれに感動し、涙を流した」
おそらくボルヘスから発想したのだろう、ジャックと名のる人物が、babel2k.jpというサイトを発表した。
そこには、千文字で表現されうるあらゆる文章がおさめられていた。コンピュータを使いあらゆる文字の組み合わせを作り出したのだ。
「作者は死んだ。バルトが宣言し、俺が殺した。これから千文字の文章を書くものは、作者ではなく発見者となる。文学はbabel2k.jpに眠る文章を掘り起こし、土をはらうだけの考古学に変わった。過去も未来もここにあるのだ」
ジャックの言葉は激しい論争を起こした。その中でジャックへの反論の先陣に立ったのが、批評家として活躍し始めていた、彼だった。
「たとえ作者が意思をもたない自動機械であるとしても、小説は読者の想像と創造の力によって生命を持つ」
機械が盲目的に作り出した千文字で表現されうるあらゆる文章のなかから、彼が探し出したのは、私の小説だった。
私が彼のためだけに書いた小説だった。
私はときどき考える。小説とはなんだろうか、と。
それは本当のことではない。けれども、それは本当のことでなくてはならない。
大学生の時に、はじめて小説を書いた。
それはちょうど千文字の小説だった。
ある小説サイトに投稿することが、大学の文芸サークルで流行していて、その規定が千文字だったのだ。
サークルの先輩に彼がいた。当時から博学な知識と鋭い眼力で、書かれた文章のその奥にある意味を端正な文章で描いてみせる彼に、皆、小説を読んでもらいたがった。
「いいね。とてもいいね」
あのとき彼はただ、そういっただけだった。
「この小説の作者は読者である私に恋を語っている。私はそれに感動し、涙を流した」
おぼろげに浮かぶディスプレイの文字をなぞりながら、かなわなかった恋と彼の言葉を、私は小説にしていた。
私は千沙、中三。私が良平に告白して、つきあいはじめたのは今年の夏。恋人になっても、うまくいくと思った…。
秋になった。
私なんか、良平とはつりあわないのかもしれない。
良平、私のこと好きなのかな?
いつものようにデートに誘ったら、ドタキャンされた。
ケータイへ電話してくれればいいのに、私の家に断りの電話をかけてきたのだ。
べつに待ち合わせの場所は電波の悪いところじゃないからつながらなかった訳はない。
待ち合わせの公園で心を弾ませながら、良平を待っていた。
何時間待っても良平は来なかった。
私だけ、好きなだけなのかな。こんな気持ちが続くのはイヤ。
「ねぇ、今週の土曜日、ヒマ?」
二人きりになったとき誘った。
「いつもの待ちあわせの公園で、話したいことがあるの。良平がハッキリしてくれればいいだけの話だし」
「え?」
「じゃ、時間は午後の三時。バイバイ」
呆然とする良平を置いて立ち去った。
私は三十分くらいしか眠れなかった。
待ちあわせの公園に着いた。
良平はまだいない。
私はベンチに座って、待った。
待ち合わせの時間から五分過ぎても来ない。
「お待たせ」
良平だった。
着ている肩当てと肘当てのついたグリーンのセーターに、ブラックのジーンズ。
私はベンチから立ち上がった。
「ごめんな。遅れて」
私は首を振った。
沈黙。
「えっと、とりあえず座ろ?」
隣り合わせに座って、再び沈黙。
聞きたいことは決まっているが…
「あの、話って?」
良平から切り出してきた。
「良平さ、私のこと、好きじゃないのかな?」
「そんなことない。俺は、千沙のことが好きだよ」
うれしかった。でも、なんだか、まだ気分は晴れない。
私の顔が曇っていたのか、私の顔をしっかりと見ていた。
「友達のときは、気軽だった。だけど緊張しちゃって…」
良平は私から目をそむけて、うつむく。
「ごめん。こんなの、いいわけだな」
良平も、苦しんでたんだ。
そうだよね。ずっと友達でいたのに、急に恋人になるなんて、私のわがままだよね。
私は涙がこぼれた。
「千沙!?」
心配する良平に、私は首を振ってみせた。
「ごめんね。私、自分のことばっかり考えてて、良平の気持ちなんか、ぜんぜん考えてなくて…」
「もう逃げない。まっすぐ、千沙を受け止める」
「ありがとう」
涙に声が震えた。公園の木々が葉音を立てる。
それは、拍手のようだ。
今日から私たちは、本当の恋人。
俺、真田左衛門佐信繁。秀頼公に請われ大坂の陣に参戦し獅子奮迅の活躍。だが徳川の兵力を前に窮地に陥った豊臣方は、いよいよ最後の勝負をかけることになった。
らしい。
「いや、知らないんだけどそんなの」
目が覚めたら大坂城なので驚いた。やっと部下の高梨君から話を聞いたところだ。
「でも俺そんな事してた気もする」
「一年も夢遊病だったのですか?」
「バカな。でも俺入城断ったよね?それは覚えてるよ」
「ええ。でも気が変わったと使者を呼び戻したじゃないですか」
「そうだっけ?」
ん、何か引っかかる。
「使者を帰した後誰か来たよね?」
「そういえば。はて、誰でしたか…」
確かに誰か来た。誰だ?
「高梨様、望月様がお呼びです」
と、小姓が呼びに来て高梨君は出て行った。俺は布団に転がった。この異常事態に関係ある気がするが、誰なのか思い出せない。
「寝てんじゃねぇよ」
天から声が降ってきた。聴き慣れた声だ。
「佐助か!」
「久しぶりだな源二郎」
天井板が外れ、あの日訪ねて来た顔が出てきた。幼なじみの忍者、佐助だ。
「お前か!俺に術かけてただろ」
「気づいてももう遅いわ」
「何のつもりだ、一年も俺を操って。嫌がらせか?」
「否、復讐さ」
佐助は笑みを浮かべた。
「やはり覚えてないか。凜ちゃんの事だ」
若い頃の遊び友達の名だ。
「あー、一緒によく遊んだな」
「遊んだじゃないわ!」
佐助は怒鳴った。
「お前は俺が彼女を好きだと知りながら、領主の息子の権限で彼女を奪ったんだ!」
「何を言う。お前その前に振られてただろう。」
「振られとらん!」
「振られた」
「こいつ。まあよいわ、お前は徳川に呑まれて死ぬんだからな」
そんな理由で…
「殺すだけなら容易いがそれではつまらん。この戦でお前が生き延びれば許してやる」
佐助は得意そうだ。
「お前、頭悪いだろ」
「今のうちにほざいておけ」
と、佐助は消えた。
城内では諸将や他家の足軽までも俺の武運を頼っていて逃げ場もなかった。まあ良い。俺も乱世を戦った武将だ。腹を括ろう。
俺、猿飛佐助幸吉。真田十勇士の筆頭として真田幸村の手足となり、変幻自在の活躍をした忍者だ。
俺が奴の手足だと?
意外と奮闘した源二郎は死後英雄扱いされ、そのまま四百年経っても英雄のまま。悔しい。俺はこんな思いをするために修行を積んで仙人にまでなったわけじゃない。
バカだ、俺は。だから凜ちゃんも奴を選んだのか。四百年経ってやっと気づいた。
どことなく薄汚れた病室のベッド、まさしく虫の息といった風体で横たわっている男……それが、俺。
不治の病にかかり、残る命はあとわずか。身体中の皮膚という皮膚には、始終針で引っかきまわされているかのような不快な痛みがつきまとい。
死に際に瀕しても、見舞いに来てくれる家族や友人もいない。当の昔に金を持って逃げ出しやがったのだ。
「くそったれ……このまま死んでたまるかよ」
毒づく。悲しみを、怒りを、憎しみを。思いつく限りのありとあらゆる負の感情を込めて。
気づく。寂しさに、虚しさに……愛や優しさに飢えていることに。
……死にたくない。
思い出したように浮かび上がってくる感情を前にして、ふと気づくと涙があふれてきた。
「お困りのようですね」
不意に、声。その存在は、空から降ってきたように突然現れた。
動かぬ手でどうにか涙を拭い、俺は眼前に浮かぶそれを見据える。
妖精……なのだろうか? 体長三十センチくらい。正体不明の樹脂で作られた衣服に肢体を包み、背中には光の粉を散りばめたようにきらめく羽。俺のイメージとは少し違うが、まあ一般的な妖精。
理解する。
「ちっ、死の縁の幻覚というやつか……」
だが、俺にしてはメルヘンチックすぎないか?
幻覚か本物か、とにかく奴は俺に話しかけてきた。
「あなたの叶えたい願いを、三つ言ってください」
うざったい……
「俺の前の幻覚妖精を、ひっつんで、放り捨てて、最後の時を静かに迎えたい」
「私は本物ですよ……真面目に答えてください」
妖精は不機嫌そうに頬を膨らませた。まるで子供だ。……いよいよヤキが回ったらしい。
「なら証拠を見せてみろ、あんたが幻覚じゃない証拠を」
一瞬のきょとん顔、すぐさま小さな胸を張る。
「いいでしょう」
おもむろに空中で踊り出す妖精。その軌跡にそって光の粒が広がり、宙に浮かぶ一つの絵を、七色に光る花吹雪を描き出した。
よくわからないが、普通に考えれば幻覚も夢と同じように見る者の深層意識の現れなのだろう。
しかし、俺にこんな神々しいとさえ思える光景を思い描ける想像力があるとは思えず。
これは……本物? ……だとしたら願いは決まっている! 神は俺を見捨てていなかった!
「命と、友と、金をくれ!」
妖精は、聖女のごとく、美しい、見る者を安心させる笑みを浮かべた。
「アンケートにご協力、ありがとうございました〜」
洗面所で汚れた靴下を洗っていたら排水口から妖精が出てきて「何かひとつ願い事を叶えてあげます」というものだから、靴下をきれいにしてほしいと言ったらひどく悲しい顔をされました。
「なんか他のないっすか」
他の と言われてもあいにくと願い事など思いつきません。けれどもいかにも悲しげな妖精を少々可哀想に思った僕は、何か楽器を奏でられるようになるといいなあ と言いました。僕のその言葉を聞くなりものの一秒で元気を取り戻した妖精は、晴れやかな顔で胸を叩きました。
「わかりました。要するに、何かひとつ楽器の才能を伸ばせばいい訳でしょう」
「といっても、法螺を吹くのが上手くなるだとかはやめてくださいよ」
「承知の上です」
「口三味線が達者になるだとかもやめてくださいよ」
妖精は、再びひどく悲しい顔をしました。
「空飛ぶ犬を見たんです。」
まっさらな日の入る白い部屋。
「灰色の空にまるでそこが地面であるかの様に足をつけて歩いていたんです。不思議だなと思ってみていたら知らない人が『何をしているんだ?!』って。だから私は『空を見てるんです。』って答えたんですよ。視界を遮る物が無くって上を見上げていたんだから空を見上げていたに決まっているのにね。おかしいですよ。だから笑っていたら『とにかく動くな!』って言うんです。私は空を見ていただけなのにどうして彼がそんな変な事を言ってくるのか分からなかったんです。私をいじめに来たのかな?とか考えていたんです。そしたら答えを思いつきました。彼も空を飛びたかったんですよ。私も空を見上げていて飛びたいって思っていましたから。だからね、私はその願いを叶えてあげようと思ったんです。空が飛べるようにそっと近づいてきた彼を空に向かって押してあげたんです。」
「父は飛べましたか?」
「あら、あなたのお父様だったんですか。はい、一瞬で空へ飛んでいきましたよ。彼に空を飛ぶのはどんな風だったか聞きたかったのですが、その後すぐに違う知らない人に捕まえられてしまって。それに、沢山人が集まってきてこの部屋に閉じ込められてしまったんです。こんな事になるんだったら私も先に飛んでおけばよかったと思っています。彼はどうしてるんでしょう?彼と話が出来ますか?」
「いえ、もう無理でしょう。」
同じ白く日の入る部屋、テレビからニュースが聞こえる。
「昨日某デパートの屋上から男性従業員が女に突き落とされるという事件がありました。容疑者とみられる女は精神鑑定を受け責任能力無しとされ警察病院に収容―」
「まぁ、怖い世の中になりましたね。犯人の女の人は一体何を思ってやったんでしょうね?」
「さぁ、私には全く分かりませんよ。」
「ですよね。ところで、私はいつここから出られるのでしょうか?彼と空はどうだったか話ができないのなら私も空を飛びたいんです。」
「分かりました、屋上へ案内しますよ。」
観察は素晴らしい。観察は面白い。観察は楽しい。観察は辛い。観察は厳しい。観察は悲しい。
私は観察者だ。今日も街を徘徊し、観察を続ける。何を観察するかは重要ではない。観察しているという私の視点、並びにその最中の私の精神の状態こそが目的で、観察対象は二の次だ。さらにそれが面白ければ尚良い。
愛してる、と言葉の端々に込める男女がいる。彼らはそれを口に出す事で自分は相手を愛していると錯覚し、本当は愛していない事に対して見てみぬふりをする。彼らは欲情の気配を漂わせながら、場末のホテル街へと消えていった。
居酒屋でそこにいない上司に対してくだを巻く若い会社員。悪態を吐き、殴る仕草をし、隣にいる同じくらい泥酔した同僚と肩を組みながら辞めてやると連呼する。彼の上司が本当に彼に対して酷い扱いをしている、という可能性が無いでも無いが、実際の所彼の上司は彼以上に気苦労が絶えないのではなかろうか。彼の精神性の低さには目を覆わんばかりだ。
ハシシュの煙や酒気に塗れながら踊る男女。熱狂と興奮が場と同時に彼ら自身をも支配し、目の前に快楽のブラインドをかける。このような場にはとんと縁が無かったが、一度くらいは体験しておくべきだったかもしれない。ここまで刹那的な空気が漂う場所も珍しいからだ。
観察は本当に心躍る行為だが、その代償は決して安くは無かった。絶対的な観察者であり続けるという事は観察者以外にはなれないという事。つまり誰からも観察されず、あらゆる行為に対して影響を及ぼせないという事。私は世界の中にいながら世界から外れ続けなければならない。何故このような素敵な境遇になったかは、全く思い出せないが。
私は観察者。誰からも観察されない観察者。神の視点の代償に、全てを放棄した観察者だ。私は全てを見続ける。私は全てを見通せる。私は全てに関わらぬ。私は誰にも関われぬ。
今日もまた、心の裡で『見ているぞ!』と痛烈に叫びながら、私はあなたを観察する。
もののけなんかは怖くない。だってそうでしょ? 例えば抜け首なんかはおとなしいものじゃない。人の血を吸うって言われているけど、これは間違いだってぼくは知っているし。
でも、ウチのオニババは別。何かにつけおとなしいぼくを叱りつけ、暴力を振るってくる。「お前なんかウチの子じゃない」ってね。怖いのはオニババ。それ以外は怖くない。
だから、村人が「近寄っちゃなんね」って言ってる村外れにある神社の巨石に来たんだ。巨石の下には、恐ろしいもののけが封印されてるらしい。封印しているのは、巨石周りの7つの木球。子どもの頭くらいの大きさがあるケヤキの球は、一つ一つはつながっては無いけど大きな数珠みたい。
その一つを、どっこいしょと抱えて持ち去った。恐ろしいもののけが蘇って、村をウチの鬼ババごと滅ぼしちゃえばいい。ぼくは、木球を持っているから襲われないと思う。もし襲われても森に逃げ込めば大丈夫。子どもだから隠れる隙間はたくさんある。きっと、ぼくだけは大丈夫。
その晩、赤い大きな鬼がウチに来た。
「オラの宝物、盗るでね」
巨石の下のもののけが木球を取り返しに来たんだ。なんてこった、こいつも鬼じゃないか。どうやら7つの木球は封印してたんじゃなくて、鎮魂していたらしい。
大鬼の手が「返せ」の言葉とともに伸びてきたかと思うと、むんずと掴んで来た道を帰り始めた。
ぼくは殺されなかったことにほっとしたけど、ちょっとだけ困っちゃった。
何せ、木球と間違えてぼくの頭だけを大事そうに抱えているんだよ。
ふと耳をすますと、はるか後方からぼくの名前を呼ぶオニババの声――いや、お母さんの声が近付いていた。
私の通っている女子校は大規模であり、そして純近代風でもある。それ故にいわゆる「浮いた存在」が一人二人出てくるわけで、中にはこんな奴もいた。
あれは確か5日前だったと記憶しているが、ある女生徒が私に相談をしてきた。彼女はどうやら私と同じクラスらしいが、その存在を確認するのは初めてだった。だが、彼女から出る「黒い雰囲気」を、その時私は確かに感じ取った。彼女はいわゆる「浮いた存在」なのであろう。彼女の話自体は興味が無かったので、ろくに聞いていなかったが、どうやら自殺志願者であるらしい。私にとってはコイツが死のうが生きようがどうでも良かったのだが、まあ適当に話を聞いてやることにした。が、これがいけなかったらしい。彼女は私のその態度に対して、唐突に癇癪を起こし、泣き喚き、突然走り去った。私はその一連の行動に僅かながら興味を抱き、彼女の後を追うことにした。校舎の脇にひっそりとある螺旋階段をカン、カン、と昇っていく。行き先は屋上だ。今時屋上から飛び降りるバカもいるのかと私は思ったが、どうやら彼女は本気らしい。際の格子にしがみつき、なにやら泣き叫んでいる。私が一歩近づくと、彼女は格子に足をかけた。そのまま一歩一歩彼女に近づいていったところ、彼女は何故か急に怯え始め、バカみたいに格子から滑り落ちた。私は何故かとっさに腕を掴んでしまった。私の腕にぶらさがった彼女は何とも醜い顔で涙ながらに助けを訴えているようだったが、私はこの女が自殺したかったということを思い出し、段々腕もだるくなってきたので、手をすっと離した。彼女は絶叫し、直後生々しい殴打の音が響いた。そのため私は幾分不愉快だったが、ふっと下を見やると美しい真紅の薔薇が咲いていたので、まあ良しとしようか。
「ねえねえ真一君、明日、数学で抜き打ちテストやるらしいよ」
「えっ、マジですか」
「うん、ホント。千秋が職員室で見たって。数学が、小テストらしきものを嬉しそうに作ってたんだって」
数学というのは、うちのクラスの数学担当教師のあだ名だ。千秋というのは、この子の親友の名前だ。なんでも幼稚園からの付き合いらしい。で、この子は秋田さん。いまどき珍しく、おでこ丸出しのひっつめ三つ編みの女の子。でも、僕みたいな三つ編みフェチぐらいしか、そんなところには注目していない。彼女には、もっと目立つ要素がある。
「ヤスリ、その話ホント?」
クラスの女子が僕たちの会話に割り込んできた。
「うん、千秋が言ってたんだから、間違いないと思うよ」
答える秋田さん。女子は「ふーん。そりゃマズイっすなあ」と言い、黒板と教壇の間にたむろしている女子集団にそのことを伝えに行く。
「あした、数学が小テストやるってさ。ヤスリが千秋から聞いたって」
その瞬間、「えー、マジか」「数学の野郎、なんかやけに上機嫌だと思ったんだよなあ」「ちっ、数学マニアが」など、率直な感想が飛び交っていた。
その様子を眺めながら、秋田さんはニカッと僕に笑いかける。とても上機嫌だ。女子達の反応がよほど楽しかったらしく、右手の棒ヤスリの動きも一層激しくなる。ごりごり削れていく僕の机。削れた白い粉が、紺色の僕のズボンと彼女のスカートにどんどん降りかかっていく。
彼女の名前は、秋田さん。でも、誰もその名前では呼ばない。右手に常に握られているその金属棒が、彼女のあだ名なのだ。
「最後に何か言いたいことは?」
俺はターゲットにそう告げる。いつも最後にはこういうことに決めているのだ。俺としてもばっさりと殺したのでは後味が悪い。
ターゲットは怯えた小動物のような目で、俺を睨む。
「き、君はっ、何でこんなことを、す、するんだね! わ、私を殺したら、どうなるかは分かっているんだろうな!」
「さあ? 興味ないね。そんなことでいいのかい?」
「ま、待ってくれ! 何が欲しいんだ! 金か? それならいくらでも」
「そんなもんいらないよ。強いて上げるならアンタの命だ」
「そ、そんな」
「ちょっとまったぁあああ!」
バン、と勢いよくドアを蹴破って、男が一人部屋の中に入ってきた。ああ、そういえば、鍵を閉め忘れていたような。まぁいいか、今更遅い。
男は上下共に真っ白なスーツを着込み、深紅のネクタイをしている。何か重大な勘違いをした服装だ。
「何なのアンタ」
「君のような粗野で低俗で下等で粗野な者に名乗る必要はないッ! 私は彼を助けにきたのだ!」
「粗野が二回あったけどな」
なんだこいつは。自分が正義の味方だとでも思っているのか。
「私は正義そのものだ!」
思ってた。しかもそのものかよ。
「で、その正義が何しに来たわけ?」
「決まっているだろう。殺し屋を殺しに来たのだよ」
「おいおい、それじゃあアンタも殺し屋になっちまうだろうが」
「何を言っている! 私を殺し屋などという愚かな奴らと一緒にするな!」
話の分からん奴だ。
「正義とか何とか言ってるけど、多分このオッサンにとってはどっちも変わりないと思うぜ? ってあれ?」
俺が指さした先には誰もいなかった。騒ぎに乗じて逃走したのだろう。畜生、邪魔しやがって。
「はっはっは! これでいい! 私の勝ちだ」
「何でだよ」
「うるさい! まったく意味のないことをべらべらと喋りよって……黙りたまえ!」
「それはアンタだろ」
「何を言う! 私は……おっと、もうこんな時間だ。さらばだ愚民!」
「っておい! 待て!」
男は俺の追撃をものともせず素早く走り去った。殺すんじゃないのか?
しばらくしてから落ち着いて考えてみる。
まったく、あの阿呆のせいで仕事が台無しだ。その上逃げ足だけは速いし。
しかしそこで、俺は一つのことに気付く。俺の中にさっきまであった、ターゲットに対する殺意が消えているのだ。言い合っているうちに、殺意が殺されたというのか。
恐るべし、正義の殺し屋。
結婚、申し込まれて幸福なはずなのにって、由紀・・思う。鏡の中の由紀は、由紀を見詰める。その眼差しは揺れていて、定まらない。
由紀、男の人って怖い。理由は思いつかないのに由紀は男性を恐れる。
男が女と違うって、自明のことで、筋力も骨格も肌合いも違うから・・・だから、惹かれる。違うという前提があって、はじめて性的忌避感は除かれて、あの性的遮蔽は開かれる。亘君の目を見て、その唇に触れることができる。同性の間では閉ざされている、あのベールが開く。
由紀、なぜ小さい女の子に戻ってしまうの。小鳥のような心臓は喜びに震えているはずなのに、同時に恐怖に震えている。亘君を信頼しているのに、その筋力の強さや、意志の強固さに触れると、由紀・・なぜ亘君の目を覗き込むの。
瞳の奥に由紀・・何を見るの。
男性はつらい? 男性は何を求めているの。女は何も持っていないのに。由紀何も持っていない。
由紀、幸福ね、本当に・・・。
鏡の前から離れると、由紀、愛犬のニュートンと早朝の散歩に出た。最近はいつも、線路脇に茂ったバラの株の所まで行く。
だれも知らないけれど、このバラって・・実は、月下氷人のバラ・・。でも、このバラちゃん花付きが悪くて、葉っぱばっかし茂るから、心配なの。このバラにはたくさんの花を付けてもらって、独身同盟の面々にブーケを贈らなくちゃならないの。
みんな美人なのに結婚しなくて、由紀、今、裏切り者って呼ばれているの。亘君だって知られちゃって大荒れ。だから、バラの精さま、どうかお花をお恵みください。由紀にお与えくださいましたように、独身同盟のすべてに愛を・・・。
「キャー、ニュートン」由紀は叫んでいたわ。「バラちゃんに何てことするの。おまえはもう・・」
・・そうね、ニュートン、おまえのおしっこじゃなくて、ちゃんとした肥料を上げましょう。そして、結婚式の時には、たくさん花をつけてもらわなくちゃ。
由紀、あなた幸福ね・・・由紀、目を上げて、その言葉に答える・・・ええ幸福よ、たぶん・・・。
由紀は小さい女の子で、同時にもう中年の女性で、そしてとても年老いた女で、みんな勝手なことを言っている。だからもう、百パーセントの幸福はない代わりに、百パーセントの不幸もない。
朝日か夕日かわからないような輝きの中へ、水平に差す赤い光の中へ、由紀は尻尾を振るニュートンと一緒に、線路沿いの道を歩いて行く。・・
「みて、きらきらして綺麗だねぇ。」
うれしそうな顔をして星空を指さす雪乃。
「白くて、いっぱいあって、雪みたい。」
「ほんと、綺麗だね。」
僕がそういうとにっこりと笑顔を向けてきた。
僕も精一杯笑顔で返す。
「ふふ、聖夜くん可愛いよ。」
なんだか恥ずかしくなって空を見上げた。
僕はいつでも雪乃にはかなわない。
雪乃はおかしそうに笑ったあと、ほぅ、とため息をついた。
「こうしてると恋人みたい。」
「僕はそれでもいいんだけどな。」
「あたしね、お人形さんになりたいって、ずっと思ってた。」
目線を雪乃に戻す。
「お人形さんとじゃ、恋人になれないよ、ね?」
かすかな星の光に照らされる雪乃の横顔は、思わず息を呑んでしまうほど美しかった。
「―僕は、それでもいいんだけどな。」
同じ言葉を繰り返す。
「―」
きょとんとした顔でこっちを見る雪乃。
「雪乃が、―…お人形さんでも、きっと好きになったよ。」
にんぎょう、と言いかけてそのニュアンスの違いに驚く。
『お人形さん』と『人形』、普段気にもならないことばがどうして、こうも冷たく感じるのだろう。
「あはは、変なの。」
そういって雪乃はまた、笑った。
「あたしね、聖夜くんにはかなわないな、って思うよ。」
星空に目を移した雪乃の顔は、なぜか哀しそうに見えた。
「そうだ。待っててね、コーヒー入れてくるから。」
しばらく無言で星空を眺めたあと、雪乃は家の中へ入っていった。
今夜は夜空に白い雪が降る。
いつもは雲に隠れて見えない星達が、今夜だけは一斉に瞬いている。
「お待たせ。はい、こっちは聖夜くんのだよ。」
「ありがと。」
漆黒のコーヒーにぐるぐると渦巻くクリームが、まるでこの夜空のようだ。
ふと、雪乃のカップをのぞいてみる。
「…あれ、真っ白だ。」
「これはね、あたしだけのコーヒー。雪のコーヒーだよ。」
雪乃はそう言うが、どう見てもミルクだ。
「へぇ、コーヒーってこんなに白くなるんだね。」
「うん。みんながね、星にお願いをするたびに白くなるの。これはね、あたしの願いで真っ白になったんだよ。」
「お人形さんになりたいって?」
「うん。叶うかな。」
哀しそうな笑顔を見せる雪乃。その表情は雪のように儚い。
「ん、―…。」
僕は、何も言わず雪乃にそっとキスをした。
雪乃は顔を少し赤らめ、
「なれるといいなぁ。」
とつぶやいた。
次の夜空に白い雪が降る夜、雪乃はきっとお人形さんになれるのだろう。
雪のように儚かったこの夜を、僕はずっと忘れない。
世界に散らばった希望と絶望それぞれを精確な比率で抽出し、鋳型に入れて鋳造すると、五発の弾丸が詰めこまれた六連装リボルバーとなる。装填弾数に一発分だけ余裕のあるコルトは世界の象徴だ。そんな世界の象徴が今まさに忍者の目の前に置かれ、ゴトリと冷たい音を立てた。
「ほらよ、ルーレットだ。生き残れば、その悪運を見込んで俺のところで雇ってやらないこともない」
四方をヤクザに囲まれ、背中には銃を突きつけられている。この下劣な遊びに従う他に忍者の活路はない。忍者は回転式の弾倉をシャララと回す。
「ようく回しとけ。六分の五だからなあ」
シャララ、シャララ、忍者は執拗に弾倉を回す。早く撃てよ、びびってんじゃないのか、そんな野次に耳を貸すこともなく、忍者は黙々と弾倉を回し続ける。シャラララ、シャララララ、弾倉の回転は次第にその速度を増し、シリンダーがギャギャンと悲鳴をあげる。喉の奥で真言を唱える忍者。そして更に回転速度が速まっていく。
「おい、変な真似はよせ!」
異変を感じた組長が怒鳴る。一方で、忍者は勝ち誇ったように笑い出す。
「ははは、これぞ忍法・逆干支の術! 物体に神速の回転を与えることによって時空を歪め、敵に捕らえられる前まで刻を遡る風魔忍者の奥の手よ!」
周囲の景色がくにゃりと歪み、その歪みの渦の中に忍者が溶け込んでゆく。あとには間抜けな顔で立ち尽くすヤクザだけが残された。
ところてんを食いたい、忍者はふと思った。里の爺の作るところてん、あれは絶品だ。もう一度食いたいものだ。しかし、なぜこんな時にところてんのことなど頭に浮かぶのだろう。忍者が我に返った瞬間、彼のこめかみには弾丸がめりこんでいた。反対側のこめかみからところてん方式に脳漿が押し出されてはじけ飛ぶ。今際の幻覚を道連れに、忍者は死んだ。犬死にだった。
忍者の死骸は埋葬もされず燃えるゴミの日に捨てられた。愛用の小太刀は裏ルートを巡り巡ってウラジオストクのマフィアの私物となった。そのマフィアは裏切り者の手にかかり殺された。裏切り者が逃亡する際、小太刀を行きがけの駄賃として持ち出した。その裏切り者もツンドラの奥地に追い詰められて蜂の巣にされた。誰もが六分の五で、誰もが刻を越えられないように見える。しかし、ツンドラにうち捨てられた小太刀の上には永久凍土が堆積し、密やかに刻を越えようとしている。六分の一は確かに存在しているのだ。
資産家のKは、まだ三十そこそこ、風采の上がらない小柄な男だった。彼の妻は非常な美女だった。二人が結婚したとき、周囲の者は驚いた。というのも、大変な資産家であったのは妻のほうで、大人しい区役所の受付のKを見初めたからだ。
妻が事故で急死して、Kは一夜にして眼が落ち窪み、頬がこけ、ものも言わないし食事も取らなくなった。葬式の手配を親類に頼んで本人は寝込んでしまった。
そこへある人物がKを訪ねてきた。
「わたくし、ハッピーライフ財団の斉藤と申します。ご承知の通り、K様の奥様のお父上が設立され、不老不死の研究を続けている団体でございます。財団設立直後にお父上がお亡くなりになり、今またお嬢様までが不慮の死を遂げられました。心からお悔やみ申し上げます」
「ぼくになんの用ですか」
Kは気弱な様子で迷惑そうに尋ねた。
「実は、不老不死の薬は未だ研究途上なのですが、これまでの研究成果から、死後数日以内のご遺体の細胞を活性化することにより、再び生き返らせることができる目処が立ったのです。すでに動物実験は成功しました」
「それで?」
「奥様を愛しておられたのでしょう?」
Kは辛そうに頷いた。
「わたくしどもも財団を援助し続けてくださったお嬢様に心から感謝しております。ぜひ蘇りの薬をお嬢様に試させてください」
斉藤氏の提案は、遺体を荼毘に付さず、一ヶ月間研究所で特殊な液体に浸すというものだった。
「それで、妻が生き返るのですか?」
「100%の確約はできません」
Kは心身ともに疲れきった様子で、けれども斉藤氏の申し出を最終的には承諾した。
それから一ヶ月というもの、先代から仕えている執事や、食事の世話する家政婦たちは、Kがどんどん回復していく様を目の当たりにした。Kは区役所をやめてしまい、毎日のようにあちこちのパーティに出掛けた。大資産家であるKは、どこへ行ってもちやほやされた。
一ヶ月が過ぎ、奇跡が起こった。斉藤氏が、蘇ったKの美しい妻を連れてきたのだ。Kはあんぐりと口を開け、言葉もないほど驚いていた。
実験成功に満足した斉藤氏は、けれども一週間後、意外な新聞記事を目にすることになった。Kが妻を殺害したのである。警察の尋問に、Kは妻から虐待されていたと陳述した。どうやら彼女はサドの性癖があって、Kを酷く苛め続けていたらしい。けれども、ひとたび自由な空気を知ってしまったKは、我慢できなくなったのだろう。
森が始まった。
月明かりを期待して耳を澄ますと、激しい静けさに私の感覚は行き場を失った。この森には森の気配がなかった。月は木々に阻まれていた。
遣る方ない静けさに気を取られなくなると、すぐ近くに椅子に腰掛けた二人連れを見つける事が出来た。テーブル中央のランタンに照らされ、男と少年が暗闇に浮かんでいる。見覚えがあった。二人共、私の家に泊まる宿代として一冊の本を置いて行った人達だ。内容も憶えている。男の本は王の姿で散った羊飼いの物語を紳士から聞かされる男の物語、少年の本は親しい友人に向けて自分の作品を朗読する少年の物語だ。私は話しかけるのを躊躇っていた。見るともなくランタンを見ている男に向けて、少年が小さな声で本を朗読しているのだ。
居心地悪くなって顔をめぐらすと、灯りがぽつぽつと筋を引いていた。同じようなのがいるのだ。それもたくさん。あの静けさが戻って来た。朗読していると思い込んでいたが、少年から声は聞こえなかった。口だけが動いていた。男は見るともなくランタンを見ていた。
灯りを頼りに先へ進む。次の灯りも、人は違うが、男はランタンを見、少年は朗読するように口を動かしていた。しばらく眺めていると、少年は始めのページに戻り再び口を動かし始めた。男は発条を巻いて貰えない人形みたいにじっとしていた。それからの灯りも、性別や年齢の違いはあったが、一方はぼんやりとした成人、一方は溌剌とした少年少女だった。本の題はどれも似通っていた。
どこまでも森の闇に呑み込まれて行くランタンの道。二人連れはもう静けさの一部だ。ここには何もない。吐く息の白さも、歩く感触さえも。
森が終わった。
子を寝かしつける母のように大地を覆った雪を月が照らしている。丘の頂上に我が家が見えた。森に入って行く時の足跡は消えていた。
扉を開けると見知らぬ人が迎えてくれた。持て成され、一息つく頃には空が白んで来た。
私の手には本が握られていた。知らない本だった。
『読書する、森に入る』
「よかったら読み聞かせてもらえませんか」
そう促されて、私は朗読を始めた。
「『Aは読書していた。ここにある本は、通り掛かる人から一晩泊めてあげる代わりに譲ってもらっていた。』……」
その人は私をじっと見つめていた。
それを心強く感じ、朗読を続ける。その人が物語を追うのを確かめながら。私の声がその人に届いているのを意識しながら。
父がネクタイを選んでいる。僕はそれを横で見ている。
二十八にもなって、いや、たとえどんな年齢であろうと、父のネクタイ探しに付き合うだなんてそう愉快なものではない。母が出かけているからと誘われて、はっきりいって面倒なのだけれど、予定も無いのにそれを無下に断るほど薄情な息子でもない。せっかく里帰りをしているのだ。
紺の地に白い細かな格子の入った、どこにでもあるようなネクタイを父は手に取る。そんなネクタイもっと安い店で買えばいいのに、と僕は思う。
すぐ近くにある山吹色のネクタイが目に付いた。ちょっと派手すぎるだろうか。けど決しておかしいということはない。似合わなければ僕がつけたっていい。
「どうね、これ」
という父の声に振り返る。父は鏡に向かいネクタイをあわせている。体を曲げ、鏡に映る父の顔を見たとき、ドキリとした。
そこに映っていたのは、ひとりの、どこにだっている、六十を過ぎたおじさんだった。それが父なのだということは分かる。僕はそれを知っている。けれど、まるで実感が湧かなかった。
胸が詰まった。僕はあいまいにうなずくことしかできなかった。どこにでもあるような紺のネクタイをあわせている、皺の多い、白髪混じりの、肌に張りのないおじさんはまぎれもなく僕の父で、けれどそれは、どこかの見知らぬ他人のように思えた。
僕は父の顔を本当に見てきたのだろうか。よく分かっているつもりで、まともに見ようとしなかったのではないか。
父は確実に年をとっているのだ。僕がそれに気付かなかっただけだ。いくら自分の父であろうと、父である前に一人の男で、そのへんのおじさんとなんら変わりはない。そんなのは当たり前だけど、僕にとって父は父でしかなかった。
「あんたもなんか選ばんね。買ってやるよ」
どこにでもあるようなネクタイを手にした父が言う。どこにでもいるおじさんのように。
「いらん。別に」
そう答えつつ僕は、バリエーション豊かに並ぶネクタイを見ていた。父はもう六十を過ぎているのだ。もうすぐ定年を迎えるような年齢だ。父に残された時間はそう長くない。あと何年生きられるだろうか。せめて十年、できれば二十年くらい生きてくれるといい。
あらためて振り返って見る父の顔は、やはりどこか他人のようだった。だけど、それこそがまぎれもない僕の父なのだ。それを胸にかみしめる。そしてちょっと派手な山吹色のネクタイを、僕は手に取る。
年の瀬も押し詰まった一日の終わり、僕は故郷のある地方都市で、レイトショーのチケットを買った。ビロード張りの椅子の上で二時間余りを過ごした後、映画館から外へ出てみれば、夜空からみぞれ混じりの雪がこぼれ落ちていた。傘を持たず来た僕は、首をすくめ、早足で家路を急いだ。風は吹いておらず、それでも寒さはひとしおだったけれど、初雪が薄化粧を町に施したおかげで、夜が、すこし明るくなった。
気づけば僕が行く道はすでに、誰かの足跡と自転車の轍とで、導かれていた。振り返ると、僕が歩いてきた道もまた、人々の痕跡と一体となって、生活のしるしを刻んでいた。ずっと向こうから遠く先までへと、続いてゆく道があり、自らが永遠に旅の途中だったと知る。歩みを止めて、しばし茫然と前後を見渡した。この三十年近く、自分が何をして、何をしようとしているのか、そんな事々が頭をよぎった。描きたかった感情も、感情に昇華されなかった風景も、いまや僕を通り過ぎ、過去の轍の中へと消えてしまった。それらの後に残されたのは、それでも生きているという、うすぼんやりとした苦い感覚だった。
「家へ帰るんだ」主人公がそう語ったラストシーンを、僕は思い出した。再び歩き始める。みぞれ混じりの雪が、いつしか粉雪へと変わっていた。彼は約束を果たした。エンドロールが流れる十分前に。僕は、あんなにうまくやれないよ。でも今夜、帰るだろう。つつましやかな歴史の道からも外れてひとり、僕だけの足跡をふむ場所へ。
あたしは乾き、求めていた。空は背の低い街に青黒くのしかかり、あたしが色の悪いニセモノだということを思い出させる。それでも求めてさえいれば、生きていける。
「その鍵は私のよ」
あたしの手の中に古ぼけた鍵があった。小さな廃ビルの隙間から、あたしと同じくらい小柄な少女が手を伸ばしている。ゴシック調のフリルに縁取られた微笑みは作り物のように白かった。
彼女はあたしの手を取った。
安っぽいラブホテルのチェス盤のような絨毯を踏んで、並んだ茶色い扉の一つを開ける。
「あなた少年みたい」と、彼女。
「君こそ少女みたい」
あたしは乾いていた。あたしは彼女を求めた。硬く細い体に接吻を贈るたび、陶器のような肌が淡い桃色に染まってゆく。海色のシーツに包まれた広い円形ベッドの上で、泳ぐようにあっちこっちと体位を変えた。その度に、何か軋む音がする。きい、きい。スプリングが、悪く、なってるのかな。きい、きい。
最後まで達することなく、あたしたちはゆっくりと行為を終える。水槽のように青く透き通った円形ベッドの中で、頼りなく寄り添い浮かぶニセモノたち。それでも絡み合う吐息は甘やかで心地よかった。
あたしは彼女の薄い胸の間や、わずかに火照った股の奥に鍵をあててみた。彼女は身をよじり、違うわ、と笑った。
彼女はまたあたしの手を取った。
世界は乾き、黄昏ていた。
夕映えの迫る荒野で、低く墜ちかかる空を支えた大樹が黒く立ち枯れようとしていた。彼女は水気のない幹を慈しむように撫で、根元で干上がった小さな泉を指す。
あたしは跪いて掘りはじめる。すぐに汚れたガラス箱を見つけた。赤茶けた土を払うと、オレンジ色にはぜる大気に、胎児のように眠る白いアンティークドールが透けた。少年のような細い手足を丸めて、少女のような薄紅の頬には古い涙がいくつも弧を描いていた。
「これは私よ」
これはあたしだ。彼女の顔をしたあたしだ。あたしが埋めたあたしだ。幼い過ちを全部捨ててしまえば、幸せになれると思ったのに。今のあたしは乾いたニセモノでしかない。
「私を信じて」
同じく人形の姿をした未来の私が言う。
錆びた鍵穴から古い空気が漏れて、あたしは涙の匂いを思い出しそうになる。
「この子を許してあげて」
怖い。小刻みに震える腕で、あたしは未来の私の胸にすがり、接吻した。何度も、何度も。きい、きい。乾き、朽ちかけたあたしたちの関節が軋み、鳴りやまない。
ガラスを割るように頼まれる。
お洒落をし、弟から取り上げたバットを持って家を出た。街を貫く大通りを歩き続ける。スカーフを巻いた白人女性とすれ違う。
「ありがとうな」
恋人が言う。手にはあたしが報酬を見越して買ってやった沢山の書物を持っている。
「こんなに沢山、ありがとうな。でも良いのか? こんなに貰ってしまって。まだ報酬が出る前からこんなに貰ってしまって」
「良いのよ」
「そうか。しかし本当にありがとう。いやあ、凄いなあ。本当に凄いよ。読み切れないくらいの量だよ」
恋人は本を読みながら呟く。
「本当に読み切れないくらいの量だ」
それにしてもとても寒い道だ。皆が色とりどりの電気ストーブを持ち寄って暖めようとしているけれど全く思うようにいかない。
昔世話になった社長の部屋のガラスを尋ねて割らせて貰い、幼なじみの家のガラスを割らせて貰い、駅長に頼み込んで駅のガラスを割らせて貰う。道の先には朝日が昇っていく。そして朝日が昇るよりも速く、風が強く吹いている。風は凄まじく、全てを吹き飛ばしていく。電信柱が折れ、花園が燃え上がり、ガラス張りの建物が目の前でバラバラに砕け、崩れ落ちていく。目の前に先程の女性のスカーフがふわりと舞い降りて来た。あたしは振り返る。風はいよいよ強く吹く。女の子達のスカートが舞い上がり、白いパンツが眩しいほど露わになっていた。女の子達はスカート片手で押さえ、笑いながら向こうへ歩き去っていく。
あたし達は道の終わり、街の外れに辿り着いた。そこにはガラスの壁が立っている。街で一番大きな建物は駅舎の三階建てであるが、このガラスの壁はそれよりも遙かに高い。何処までも呆れるほど高く伸びて居ていて、見上げても見上げても切りがない。あたしはバットを持ち上げ、叩きつける。がしゃあん、と音を立てて、ガラスはあっけなく砕け散った。あたしは空を見上げる。
きらきらとしたガラスの破片が、際限なくいつまでもいつまでも振ってくる。
「綺麗なもんだな」
「うん」
「本当に、綺麗なもんだ」
ガラスの向こうは草原になっていた。あたし達は歩き続ける。小川のほとりには大きなイーゼルがあり、描きかけのキャンバスが架かっていた。
「お前達は何処へ行くんだ」
絵を描いていたのは老人だった。彼は大きな天使の絵を描きながらあたし達に尋ねる。
「ガラスを割りに」
「そうか」
老人は再び天使を描き始める。あたし達は歩き続ける。
ツネコは寒がりだった。外へ出るときは手袋にマフラー、コートに帽子。全身をくるんだうえに、カイロを背中に貼り付ける。家の中でもオイルヒーターにホットカーペット、タートルネックに綿入りの羽織にウールのスリッパをはく。
ところがどれだけ厚着をしても温もらないところがある。それは目だった。誰にも信じてもらえない。夫は「目が寒い? 俺はフトコロがサムイ」とつまらない冗談を言う。医者からは精神科を勧められた。が、ツネコは自分の網膜周辺が凍りかけているのを知っている。朝、目があかない。必死にまばたきをするとシャーベットのようにジャリジャリ鳴る。半分凍ってるのだ。夫はその音が聞こえないと言うし、これ以上訴えたらおかしくなったと思われる。
クリスマスイブの朝だった。夫は土曜日なのに仕事だという。見送るふりをしてこっそりつけていった。予想はしていたがマネキンのような女が夫の手をとった。夫は女を抱き寄せ、髪に鼻を近づけたかと思うと手品師のように小さな箱をだして、マネキンのトウフのように白い手の上にのせた。
それ以上見なかった。ツネコは網膜がゆっくり凍っていくのを感じていた。くだらない火遊びなんだ。花火といっしょですぐ燃え尽きるだろう――にもかかわらず腹がたつ。こういうとき男だったらどうするのだろうとツネコは思った。目が凍っていって、まばたきも辛くなってきた。
気づいたらブックバー「デニス」という店にいる。どこでもよかったのだ。カウンターに座ったもののツネコは酒が飲めない。「あたし飲めないんですけど」半分自棄になって言った。「ここ、なんですか」
「お客様、失礼ですが目が凍ってらっしゃいますよ。今日は冷えますからね」
「え、わかるの?」
「はい。私もよく冷えますもんで。よかったらどうです」
マスターはそう言って「風にのってきたメアリーポピンズ」を差し出した。よく聞いた題名だけどツネコは読んだことがない。子供の好む砂糖菓子のようなお話なら勘弁だった。マスターは他の客と話をしている。仕方なくページを開いた。メアリーポピンズって結構意地悪なんだな、でも優しいな――こんな麩まんじゅうみたいな味わい、子供にわかるんだろうか。
マスターが生姜湯をつくってくれて、その甘辛い味とメアリーの魔法が、凍った網膜をゆっくり溶かしていった。目から涙が溢れでたけれど、それが溶けた氷水なのか泣いているのか自分でもよくわからなくて困った。
その街角に行けば彼に会える。時間はきっかり、午前10時から午後7時まで。雨の日も雪の日も、飽きることなく彼はそこに立っている。
持っている楽器は日によって違う。そこに法則性はなく、彼が歌いたい曲に合わせて用意しているようだ。弦楽器、吹奏楽器、鍵盤楽器、打楽器、どんな物でも上手に演奏する彼を見ると、この世に存在する楽器ならば、全て演奏できるのではないかと錯覚してしまう。あながち、錯覚ではないのかもしれないが―――直接話したことはないから判らない。
もう3年になるだろうか。この街に越してきてから今日までの間、私はずっと彼の演奏を聴いている。なぜなら、私が臥せっているこの家の真下が、彼の舞台だからだ。私がこの街に来た理由は、腕利きの医者が近くに住んでいるから。幼い頃から病弱だった私を憂いて、両親が探してきた名医らしい。もっとも、そんな医者よりも毎日音楽を聴かせてくれる歌唄いのほうが、よっぽど体に良い気がするんだけど。
最初のうち、父は歌唄いの音楽が煩かったらしく、何かと文句をつけていた。家の前で歌わせることを止めさせようとしている、と女中から聞いた私は、彼の音楽を大いに気に入ってるのだと父に話し、歌唄いに干渉するのは止めて欲しいと懇願した。父は私を可愛がってるから、それだけで充分だった。それどころか、態度をコロッと変えて、彼を褒めちぎり、あまつさえ金を払って歌唄いを私の部屋に連れて来させようとしたこともあった。まぁ、その話は結局、私がひどく嫌がったせいで無しになったのだけど。
彼には、あの場所でないと駄目なのだ。なぜだか、私にはそういう考えがあった。だから父に願ったときも「干渉しないで」と言ったのだ。街の喧騒の中、彼だけは独り磁石のように毎日同じ場所に張り付いて演奏している。ベッドの上から動けない私と、彼。どこか似てはいないだろうか。勝手な仲間意識を、私は彼に持っているようだった。
ああ、時間はもうすぐ午後7時。彼は何処とも知れぬ彼の家に帰って、私はお医者の注射を待つだけ。せめて、あと少しの時間、彼の音楽に浸っていよう。つかの間の幸せとはこういうことを言うのかもしれない、そう思った。
最短距離の思考で考えると。たった一つの答えに行き着いた。
殺してしまった――。事実をそのままのみこむとそれ以外に答えが出てこない、目の前に転がっている死体は明らかに僕が手を下したものだ。
……こういう時にこんな気持ちになるのだろうか、殺すつもりはなかったと。いつかそんな戯言を言って……と軽蔑と憐憫が半分ぐらい混じった目でニュースを見た自分を思い出す。
今度は、誰が僕をその目で見つめるのだろう?
そんなことを考えていると、いきなり恐怖に駆られるようになってきた。あんな目で見られるのは御免なのに、多分見られたことはないのに、僕はその目がどれだけいやな目か知っていて、そんなことにならないように、また思考をめぐらせた。
この死体はどうしよう? という問題、見つからないほうがいいに決まっているのでできれば隠すのが常套手段なのだろう。
だがしかしいったいどこに? 問答する時間すら惜しいという感覚で思考を高速回転させる、そんなことで簡単に答えが出てくることはないのだが。
僕は一生懸命に考えた、多分人生で一番大きい問題だったと思う。罪悪感は感じなかった、ただ自分があの目で見られるのが怖くて、僕は全力で思考していた。
その研ぎ澄まされた思考の中に突然、物音が聞こえてきた。
誰かが来た!! 確実に近づいてくる気配、草むらに隠れて様子を伺うと、中年の男がこちらに向かってきているのが見えた、死体が見られる……。
明らかな危機を感じつつも思考を冷やして、対処法を考える。
そうだ、この男も殺してしまえばいい……!! 時間にして数瞬、覚悟を決めて、手頃な岩を両手で拾い上げる。
幸いなことに、男は死体に気づくこともなく(今考えると彼は緑に溶け込んでいた)立小便をしている様子だった。
息を潜め、確実に届く位置に移動して、岩を振り下ろす。いやな音と感触が伝わった次の瞬間には、醜く血を流しながら、男が地面に伏していた
ため息をつきながら、僕は増えた死体の隠し場所を考えていた今度はちょっと大きい……。
バッタと男を見比べながら、僕は再度ため息をついた
薄暗い雲の下で、気付いたら僕は橋の上にいて。ビルとか山とか川まで見えて。自分がすごく高い位置にいるということだけ分かった。
その橋は、こんなに高い位置にあるのに手すりはなくて、長く長く、遠くまで続いてて、終りが見えなかった。戻ろうにもどこから来たか分からなくて、振り返ってみても、やっぱり遠くまで続いてて。僕はなんだかこわくなった。
自分の足元には自分の住み慣れた街が広がってるのに。降りたくても高すぎて。進もうにも長すぎて。周りには誰もいなくて。
でも。街に降りたところで、誰かがいるわけでもないことに気付いた。今僕がいなくなったとして誰か気付くだろうか。
この長い長い橋を渡りきったとき、その先に何があるだろう。何かあるのだろうか。あったところで、それは僕にとって何の意味があるだろう。そう思うと、僕はこのままここにいてもいい気がして。
僕は橋の上に座りこんで、街を眺めた。普段の自分の目線から見る街よりもずっと綺麗に輝いているその街は、僕の知らない街に見えて。僕はなんだかさみしくなった。
気付いたら僕の頬には涙が伝っていて。僕はそれをぬぐう事なく、ますます知らない街に見えるきらきらしたゆれる街を、ずっと見つめていた。
どれくらい時間が経ったか。感覚も意識も自分のものでなくなったかのように感じて。相変わらず街はきらきらゆれていて。そんな時、僕の頭に、僕の耳に、聞こえるはずのない声が届いた。知らない街のように思えた街で、僕の名前が呼ばれた。僕の名前が―。
からだに力が入る。
僕は涙をぬぐって、立ち上がった。僕を必要としてくれている人のために。そして僕自身のために。
僕には名前があって。呼んでくれるひとがいて。僕は確かに生きていた。
もうこわくない。さみしくない。
空が明るくなって、街はさらに輝きを増した。でも。それはちゃんと僕の知っている街で。確かに僕の生きている街で。僕はなんだかうれしくなった。
どこから来たのか。どこへ行くのか。まったく分からない僕だけど、僕は確かに生きている。感覚も意識も自分のもので。輝く街は足元に広がっている。
そして僕は、自分の意志で、七色に光る終りの見えない橋を一歩一歩、進んでいく―。
橙色に透き通ったアイスティが、白いミルクを抱きながら淡い飴色へと衣替えしていく。恵美がその細い指で黒いストローを静かに差し込み、躊躇いがちにかき混ぜている。ちらと俺の方を見ては、左手をスウェットの前ポケットに入れたまま、すぐ逃げるように視線を窓外へと逸らす。そして健やかに膨らんだ頬を照れたように撫でながら、桃色に咲いた唇で緩やかな弧を描く。
そうなんだぁ……そっかぁ、アタシ真に受けちゃうから、すごい期待してんだよねぇ……え? つまんなそうって言ってたじゃん……主演の人誰だっけ? あの人結構好き……あの人の出てる映画って、大体感動するんだよねぇ……でも今週土曜はバレーの試合あるしなぁ、日曜は塾あるしさぁ……でも来週空いてるかも……でも来週までやってるかなぁ……
先程から、濃厚なコーヒーの臭いが俺の内側を撫でて行く。そのざらついた脂が俺の中で執拗に旋回する。俺の体内は全くそれに満たされるが、返って俺の感覚は鋭敏に研ぎ澄まされていく。その靄の向こうに揺らぐ、仄かな紅茶と、それを底から押し上げるような濃厚なミルクの香気。その向こう側、柔らかい甘味の中に幾許かの恥じらいの酸味が差し挟まれ、弾み出さんばかりの清涼感を漂わせている。これは紛れも無い、恵美の匂いだ。若々しい、恵美という生き物の醸し出す、躍動する生の匂いだ。
まじまじ、絶対つまんねぇよ、なんかアリキタリって感じでさ、CMでさ「感動しました!」とか言ってんじゃん、ああいうのって信じらんねぇよな……そうなの? 実は俺もちょっと観たいなぁとか思ってたんだよねぇ……最初はさ、そう思ってたけどさ、でもちょっと行ってみてもいいかなぁって……あー誰だっけ、顔わかる……うんうん、泣けるよな、絶対……あ、土日、土日俺もダメ……俺も、俺も来週日曜なら空いてるわ、たまたま……だよねぇ……
やめろ! すべてお前らの下らぬ妄想だ! でなければ、道端の土塊を一握りし、世界を知り得たと逆上せ上がっているだけに過ぎぬ。お前らが見、聞き、嗅ぎ、話すことなどできぬ、お前ら自身の意思で、などと! お前らの供する欠片を綜合し結実させ得る俺こそが、あらゆる美を愛撫し、あらゆる奇跡を飽食することを許された者、唯一恵美に相応しい存在なのだ! お前らの乞い崇める恵美は、俺の小部屋でのみあの愛らしい姿で現出し、お前らの恋焦がれる恵美は、お前たちの裏側にしか微笑みかけぬのだ!
「何でお前の名前、竜馬やねん。坂木竜馬やなんて、まるきり坂本竜馬のウソモンやんけ」
三年のクラスがえで一緒になった級友にそう言われて、はじめて竜馬は坂本竜馬のことを知った。何も知らなかったほかの級友たちも、そのうちに竜馬のことを「ウソモン竜馬」と呼びはじめ、しかも坂木と坂本で、一本線が足りないだけだったから、ちょっとした失敗をする度に「坂木竜馬は一本足りん」と囃し立てた。
「何でオレの名前竜馬やねん」
「あんたのお父さんがそう付けましたんや。あんたがちっこい頃、あんた膝の上に乗っけて、何であんたが竜馬なんか言ってきかせてましたんやで」
ある時、母親に訊ねてみたが、そう言われるだけで、肝心の理由は教えて貰えず、竜馬は「坂本竜馬がえらなったんがいかんのや」と悪態をついた。
竜馬が、四年生になる頃には、級友たちもさすがに飽きてきたのか、以前のように囃し立てることはなくなってきた。竜馬が万引きしたのはそんな四年の秋のことだった。
その日、宿題のノートを忘れ、久しぶりに「竜馬はやっぱりイチヌケや」と言われた竜馬は、坂本竜馬が偉い人やったんなら、坂木竜馬は悪いやつになってやろうと、学校帰りの文房具屋で、消しゴムを一つ盗んだ。
消しゴム一つでは全然悪いやつでもなんでもないと思いながらも、家が近づくにつれ、ポケットの中の小さな消しゴムがどんどん重くなっていくように思え、家に帰ると、ただいまも言わず、自分の部屋に飛びこみ、消しゴムを取り出し睨みつけた。真新しい消しゴムは、まだ角が四角いままで、それで酷く憎たらしく思えた。
机の上に出しっぱなしになったままのノートを見つけると、竜馬は、何も知らぬげな真っ白い消しゴムを自分と同じように汚してやろうと「坂木竜馬」と書かれた自分の名前から一番偉そうな「竜」という字を消した。一本足りん「木」という字は自分に似合いだと思い、次に「坂」という字を消した。すると消しゴムのカスが散らばるノートの上に、「木馬」という字が残った。竜馬は自分がウソモンで、消しゴム一つしか盗れんちっこい奴であるだけでなく、木馬に隠れてだまし討ちをしたという昔の卑怯モンでもある気がしてきて、なにもかにもが憎たらしくなり、「父ちゃん、何でオレに竜馬やなんて名前付けたんじゃ」と、言った。
竜馬に握られたままの、削れて角の取れた消しゴムだけがその言葉を聴いた。
彼とキスをすると髭が擦れた。あらかじめ俺も彼も髭を剃っておけばよかった、なんて考えている間に反応する。
次の日になると彼はいなくなっていたので、俺は島に行く船に乗った。湖に浮かんでいるそこには猫がたくさんいて、彼は猫が好きだから、写真が何枚もあれば喜ぶかと思って。iPod miniがズンタカとリズムを響かせる間にも、波はくだけて形を失っていく。
船着場のベンチで、竿を垂らす爺さんを見ながら持参のコンビニ弁当を食らい、島の中を歩き始めた。するとすぐにもお猫様と遭遇できたのでカメラを構える。黒猫の美人は、ま白い太陽の下で、俺から逃げつつもこちらを向いてニヤリと笑った。
ニヤリ。
人類皆平等≠サう俺に言ったのは母だったか。そんなこと毛ほども感じさせない世の中なのだけれど、全ての人に等しく愛情を与えよという教えはまんざら悪くない。だから彼の「お前のことが一番大事」なんていう台詞は存在ごとなくなるべきじゃないか、そんな考えが頭をかすめたのだ。
ズンタカ、ズンタカ。音楽に気を取られている内に美人はいなくなり、代わりの三毛猫様が軽やかな足取りで路地を駆けていく。俺もそれを追いかけたかったけれど、ほっかむりの婆さんが端で休憩しているだけでも道は一杯一杯だった。家と家との間で、大きな蜘蛛が陣地を広げている。
ズンタカ、ズンタカ、ズンズンズン。耳にこだまするリズム。それに乗じて思い出す、昨夜の野菜炒め、流し台の下にある彼のお手製ホウ酸団子。美味しそうな玉ねぎの匂いに惹かれてゴキブリはやってくるわけで、俺もやってきたわけで。
しばらく歩くと山の手に急な階段があり、そこを登るとこじんまりとした神社があった。境内の説明書きによると、戦いに敗れて漂着した落ち武者たちがこの島の人たちの祖先なのだという。武者の中に女っていたんかなあ、と俺は投げやりに考え、そしてうっすらと笑った。もと来た階段の方へ向き直り、高いところから町を見下ろす。息を大きく吸うと澄んだ空気を肺に感じた。青い空、イヤホンを外すとトンビの声、秋のさわやかで冷たい風、頭に巣食っていた黴がちらほら飛んでいく。
今日彼は、釣りに行くために朝早くから出かけたのだ。ああ野菜炒めの中のしめじはいい匂いだった、ホウ酸団子なんか目じゃないぐらい。今日の晩御飯は何だろうか、明日の晩御飯は何だろうか。そんなことを考えながらカメラを町に向ける。
夕日は早々と山並に差し掛かり、冷たい風が吹いていた。帽子を目深にかぶり、買物袋を提げて。家具職人、島は廃工場を独り歩く。投げ出された鉄骨と作りかけの椅子の線を比較している。
「島、明。三十五歳」
廃材の陰から呼ぶ声があった。逃げ道を探して振り返ると、紅い軍服が音もなく立ち並んでいる。向き直れば夕日より紅く、軍服が列を成す。
「独身。恋人なし。間違いないな」
廃材の陰から現れたのは将校だった。左胸に心臓を象った金章。恋愛相談室連隊だ。将校は革鞭を突きつけ、問う。
「君は今、好きな人がいるのか」
騙せなければ殺される。島は自分の緊張感を煽る。女優の名前を口にする。「彼女でないと駄目なんです」もう何年も使い古した手だった。
「軍曹」
島の左で、大型のカメラを構えた男が敬礼する。島の知らない機材だ。
「アドレナリンの分泌を確認しました」
「続けろ」
戦争が終わり、復興が終わり、安定期があった。勝利は移ろいやすく、成功は空虚。恋愛だけが確かな価値観として残った。誰もが熱中し、否定できず。恋の名のもとに全てが許され、愛の名で誰もが許される。そして恋さぬ者、恋に応えぬものに生存権はないと紅い軍服はうたう。
人間は動き回り、気分を変え、汚し、怖し、失敗し、止まらない。完成しない。
島に愛せたのは家具とその製作だけだった。
「ところで島君。ちょうど、たまたま、偶然、君の言う彼女を連れてきているんだが」
将校が招くと、廃材の陰から女優が立ち上がる。映画のまま、白いドレスを着けて。
「君の作る椅子が大変気に入ったそうだ」
うめく間もなく彼女は島の手を取っていた。甘いささやき。嫌悪感をこらえる。近づいてくる赤い唇。死にたくなければキスするしかない。
噛みつくように奪った。
「ドーパミンの分泌、ありません」
軍曹の報告。将校は島を蹴り倒した。手早く処刑を命じ、女優の肩を叩く。
「ご協力感謝します」
彼は殺されるのか。女優はたずねた。「私が心を開かせることができれば」「いえ、あなたの責任ではありません」将校はさりげなく女優の向きを変えさせる。
「言ってみれば、奴は人の形をした風穴です。我々とまともな交渉が出来るように生まれついていないのです。死んだ方が余程幸福な生き物です」
銃声。女優は目を伏せる。「どうでしょう、夕食をご一緒させていただけませんか」将校の差し出した手を取ると、その瞳は早くも恋の期待に輝いていた。