# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 過去 | 逢澤透明 | 999 |
2 | 夏の昼下がり | 刻黯 | 770 |
3 | 遺書 | 千葉マキ | 617 |
4 | 幻のデート | 朝野十字 | 1000 |
5 | Deep Forest | Nana.S | 553 |
6 | インタビュー | わら | 1000 |
7 | 紺碧の釣鐘 | サカヅキイヅミ | 995 |
8 | 頭上、注意 | とむOK | 1000 |
9 | ペンギン枕 | sand | 966 |
10 | Egg | 時雨 | 770 |
11 | そしてとても温かかった | 真央りりこ | 826 |
12 | 右往左往 | アイソトープ | 772 |
13 | どっぺるげんちゃん | 愛留 | 999 |
14 | 風船ジャック | 瀬川潮 | 738 |
15 | 15分だけ | ヒロ | 995 |
16 | トーフ地獄 | ヒモロギ | 1000 |
17 | よめさらなめゆ | しなの | 981 |
18 | 航送 | 川野直己 | 444 |
19 | 自慰 | qbc | 992 |
20 | クレーの夜 | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
21 | 孤独な直方体 | エルグザード | 581 |
22 | 恋は死んだ、だからユーリも死んだ | 三浦 | 467 |
23 | そぞろあるき | 朽木花織 | 1000 |
24 | 部屋 | 曠野反次郎 | 996 |
25 | Black and White | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
小さく折りたたんでポケットにしまう。思い出にしてしまえばいい。どこかの誰かが、きっと何度も繰り返した他愛のない出来事。夜空の向こうには、目に見えない数えきれないほどの星が輝いている。その星のひとつだと思えばいい。目を凝らしてもみることのできない星。誰も思い出すことがなくても、いつか僕はそのことを思い出す。
小さく折りたたんだ紙切れに書いた言葉を、何度も小さくつぶやいてみる。暗闇を引き裂いて、列車がやってくる。深夜の列車には乗客はまばらにしか乗っていない。こんな夜だけど。君に、伝えたいことがあるんだ。
夢のように過ぎていくこの人生を、いかにも大切であるかのようにあつかうことなんかできない。手のひらからこぼれ落ちる砂のように、僕たちの時間もどこかへ落ちてしまってもとに戻ることはない。混ざりあった砂をもとに戻すことができないのなら、僕たちが出会った偶然を運命だと勘違いして、なにが悪い。
今しかないんだ。そうだろう。過去もなく、未来もない。いまここで、僕が踏みしめるアスファルトの道、車輪を軋ませて通り過ぎていく列車、ポケットの中の小さな紙切れに書かれた言葉たち。
どうしてこんなにもくるしいのか。どうしてこんなにもせつないのか。どうしてこんなにもさびしいのか。
この世界で、こんなにも小さな人間が、こんなにも臆病な人間が。
こんなにも孤独を。
僕は立ち止まり、吹きつけてくるあたたかい風の音を聞く。
このまま引き返すほうが、おそらく簡単で、安全で、正解なんだろう。でも、それでは。
それでは僕が僕ではない誰かでもかまわない、君が君ではない誰かでもかまわない、今が今ではない時間でもかまわない、そういうことになってしまう。
初めて出会ったときのことを今でも思い出すことができる。
初めてかわした言葉を。
初めて僕に向かってなげかけた君の笑顔を。
僕は今でも思い出すことができる。
小さく折りたたんだ紙切れに書いた言葉を、もう一度小さくつぶやいてみる。暗闇を引き裂いて、また列車がやってくる。
一億二千万分の一と一億二千万分の一の。
汗を握り、胸の鼓動を打ち消すように息を吸い込む。僕がこうして歩いていること。君に向かって歩いているということ。
誰も見ることのない無数の星が夜空には輝いている。
そう語って空を見上げた君の頬を。
誰も思い出すことがなくても、いつかまた僕は
思い出すことだろう。
蝉が鳴きしぐれ、陽光が全てを黒く焦がす夏。
その中で夏休みの子供達が、元気よく遊んでる声が聞こえる。
その楽しそうな声と裏腹に、僕は苦痛の声を発していた。
そう、僕は今トイレで頑張ってるのだ。
一人暮らしの身としては、賞味期限など関係ないと、備え付けの冷蔵庫にあった二日前のサンドイッチを、食ったのが間違いだった。
僕は腹を擦りつつ、痛みにひたすら耐えるのだ。
夏のトイレはサウナと化し、額を大粒の汗が伝っていく。
熱いから汗を掻くのか、痛いから汗を掻くのか、解らない汗を掻き痛みの波が通り過ぎるのを待つ。
その時、玄関で物音がしたと思うと、そのまま誰かが入ってくる気配がした。
玄関脇のトイレを通り過ぎていく土足の足が、ドアの風穴から見えた。
まさかこんな状況の中に、泥棒がくるとは……最悪だ!
泥棒は、まさか住人がトイレにいるとは知らずに、奥のワンルームを物色して行っているんだろう。
今、出て行ったとしてもこの腹の痛みの前に、何も出来ずに終わるだけだ。このまま立てこもるのが最善だ。
そう考えてる僕の目の前のドアノブが回る。
いや駄目だろ!使用中だぞ!いや違う!ここに金は隠さないだろ!他を探してくれよ!
数秒の間に、様々な事が頭を駆け巡る。
願いをよそにドアは開き、僕は泥棒と見合ってしまった。
なんとも言いがたい時が流れる。
一人はトイレに座り大汗を掻き、一人はこの暑い中、黒いマスクをかぶり手袋をつけ、まさに泥棒の格好だ。
二人が見合ってる中を、申し訳なさそうな音を出しながら、おならが通り過ぎていく。
泥棒はゆっくりとドアを閉めていった。
「鍵は、ちゃんと閉めておけよ」
ドア越しに、泥棒の声が響いた。
返す言葉が呻きとなり、僕は再びぶり返した痛みの中で苦悶していた。
外では高らかな子供の笑い声が聞こえ、蝉の鳴き声が痛みの周波に同調するように、けたたましく鳴きだしていた。
10月、暑い夏がやっと終わり、涼しい秋が私を包む。
半年前の2月も今頃のように心が冷えていた。
私の心は凍えています。
現実はなんて厳しい世界なのだろう。
私を包む、この冷たさが今を表している。
貴方の心が空っぽだとします。
どうしますか?
冷たくて寒くて凍えてます。
今にも死にそうです。
誰かに頼りますか?
それとも、そのまま放置しますか?
この質問に答える人は間違いなく、誰かに助けを求めるでしょう。
助けを求めてください。
私のようになってはいけません。
命の電話に助けを求めてもいいでしょう。
家族に相談してもいいでしょう。
そして貴方の心を暖めてもらってください。
冷たいままで放置しておくと、私のようになってしまいます。
でも私は自ら、死を選んだ。
自由を選んだのです。
芥川龍之介も太宰治も自由を選びました。
暗い話で申し訳ありません。
最近、暗いニュースばかりでしたね。
そんな時代になってしまったのです。
こんな時代に私は生きることを選択できなかった。
この作品を読んで貴方はどう思うでしょうか。
気持ち悪い、最悪だ、なんで死を選んだんだと思うでしょう。
いろいろ思って下さい。
私の他にも苦しんでる統合失調症(精神分裂病)の方がいます。
私の病状は軽い、重いなんてもの関係ありません。
どの精神病も重いのです。
私は今思う、これまで頑張って生きてきたなぁと。
偉かったよ、良く頑張ったね、まき。
私は自分のために死にます。
千葉マキという作者はもう居ません。
どうかお許しください。
妹のエリカは顔をしかめて言う。
「あの女はだめだよ」
満夫が付き合っている恋人は、満夫より年上で、雪のように白い肌と腰まで届く長い黒髪をした物静かな女性だった。満夫は十八歳、今は車の免許を取ることに熱中していた。
「私、わかる。あの女は普通じゃない」
二人の出会いは偶然で、突然の驟雨に軒先で雨宿りしていると、彼女が親切にも家の中に招いてくれたのだった。満夫は彼女の美しさに一瞬にして胸を射抜かれてしまった。彼女の家は町外れの雑木林の近くにぽつんと立つ一軒家だった。満夫は足繁く彼女の家に通うようになり、彼女のほうも少しも嫌がらず彼を家に上げてやった。
満夫は自分の家に彼女を招待し、父母に紹介した。満夫の両親は、清楚で礼儀正しい女性の様子を見て安心した。彼女は一人暮らしで身よりもないが、それなりに財産があって、静かに暮らしているとのことだった。なにしろ二人のひたむきに愛し合っている様子を見ると、そう遠くないうちに結婚することになるだろうし、両親ともそのことに異存はなかった。
だが、妹のエリカだけが、反対だった。
「私、あの女の家に行ってみたんだ。誰もいなかった」
「彼女は一人暮らしなんだよ」
「そうじゃない、あの家には誰も住んでないんだ」
「わからないな」
「彼女は、人間じゃない。悪霊だよ」
「アクリョウ?」
「あの廃屋に取り付いている、幽霊」
満夫は妹の話を一笑に付した。やがて無事に車の免許を取り、恋人を海へのドライブに誘った。エリカが、また反対した。
「お兄ちゃん、行かないで、お願い」
「大丈夫だよ、エリカ。おまえのことをとても大事に思ってる。決しておまえを忘れたりしない」
悲報はその日のうちに満夫の両親に伝えられた。満夫の車が猛スピードで岸壁を飛び出し海に転落してしまったのだ。引き上げられた車からは、満夫の遺体だけが発見された。同乗していたと思われる女性は海に投げ出されたらしい、と警察は判断した。
悲しみにくれる両親は、満夫の遺品を整理した。満夫の日記には、恋人との幸せな日々が綴られていた。ただひとつ、わからなかったのは、日記中の、「妹のエリカが交際に反対している」というくだりだった。満夫は一人息子だった。なるほど、満夫の母は、満夫を出産した後に再び妊娠して、検査してもらって、女の子であることがわかって、エリカという名前までつけたことがあったが、残念ながら、エリカは死産だったのである。
湿った風が吹く森の中、街も学校も知らない私がいる。
ここは、閉ざされた世界。鍵のかかった、無限の緑。
この小さな村を出て行った兄弟たちは、皆すっかり変わってしまった。もう私達のことは忘れたのか、滅多にここへは帰って来ない。
「街は、村での記憶を奪っていくんだよ。」村の婆たちは悲しい顔で言う。
「大丈夫、私はずっとここにいるよ。」婆たちの手を握って微笑んだ後、私、決まって胸が痛い。
うそ。だって本当は私も、街へ行ってみたい。
私は一人嘘を抱えて、うつむいて歩き出す。
もう見飽きた森の奥へ。それは、全てを包み込む森の奥。
突然耳のそばで、何かが囁く。恐ろしく優しいその声に、身震いした。
「ここにある、空気も、風も、水も、宝物。両手を広げて、さぁ、解き放って。」
慌てて見渡す辺りには、鳥たちの声と、実った果実。ただ無限に広がるこの空間。
私の中で、するすると絡まった糸はほどけていく。それが怖くて眼を閉じた。
さぁ、解き放って。
息を吸い込み、走り出す。木々を掻き分けながら、身体中が感じるもの。
この森の息吹、街には決して吹かない風、美しく香る緑。頬が冷たいのは、自慢の亜麻色の瞳から溢れた涙を、風が撫でるから。
ここが好き。解き放てば、心からそう思える。
遠くから漂ってきた、夕飯のまろやかな匂い。もうすぐ日が暮れる、村に帰ろう。
ここに来たのは二年ぶりです。アイツ、まだ動かないんですか?そう。
立派な台座に乗って、もうオブジェですね。見に来る人も多いそうで。
ええ、あの頃の仲間のことですね。調べたんだ。いや、いいですよ。
ああ、あの子。中学出た後引っ越したらしいです。行き先は知らないな。中学の時は野球部のエースと付き合ってましたね。
僕?いや、僕は弓道部でした。高校でも。そうですね、あの頃は野球してたけど、みんなしてたし。
ええ、彼女好きでしたよ。アイツも結婚できるとか言ってましたし。でも中学入る時には冷めてました。そんな一途じゃないです。
うん、あいつね。いや、中学じゃ虐められませんでしたね。野球部に入ったけど、辞めて番長やってました。悪い奴がいてね、そいつが唆して。
いや、違う奴です。そっちは真面目に勉強してましたよ。
あいつは中学出たらまた唆されて、ヤクザに入ったって話です。それから見てないな。生きてるんですかね。
さっき出た彼ね。彼も中学じゃ不良だったけど、三年になると突然勉強始めましてね。高校も一緒だったけど僕は部活に燃えててね、疎遠でした。
うん、全国大会出ましたよ。もともと射的とか得意でね。楽しかったです、彼女もできたし。そう、同じ部の。ありきたりだけど青春て感じですね。
それであいつ東大に合格して、マンション買ってもらったんですよ。親が社長だったからね。それからすぐ失踪して。高校の時かな、親の跡継ぐのは嫌だとか言ってたし。御曹子ってそんなもんなんですかね。
これで終わりですね。あ、いいですよ。どうぞ。
アイツのこと?ええ、ショックでしたよ。小六の時でした。政府の人たちが突然ね。アイツ窓から屋根に逃げて、滑って電線に。有無を言わさず持っていかれちゃいました。そう、ここに。
ポケットの中身?僕が処分しました。
ポケットね、もう一つあるんですよ。そう、繋がってるの。中身は机の引き出しに全部入れました。それが入るんですよ。それから机も捨てました。
だって今の人間には不相応ですよ。アイツはいい奴でした。アイツを作った人たちもきっといい人だからでしょう。でもアイツの道具、今の人間に持たせたら世の中滅茶苦茶になっちゃいますよ。あの頃は僕も自分の為にしか使おうとしなかったですけどね。
うん、ロボットなんてまだできないし、アイツもきっと直らない。あと百年はかかるでしょうね。その頃には人間もちょっとはマシになってるんでしょうね。
拳銃を頭に充てがいたくなる夜には、曹達水の底に沈む街の夢を見る。
その日もそんな夜だった。棘のある鬱屈をハルシオンで中和して、あるかないかの意識の中でベッドに入った。気がつけば「街」の中にいた――輪郭のはっきりしない水増しした自意識を抱えて、最初からその街に住んでいたかの様な気安さでもって。
歩き出す。大抵の夢がそうであるように理由は知れない。
硝子の歩道、角砂糖のように白い家々、足を踏み出すたびに湧き上がる気泡――それを追って視線を上げ、仰ぐ空にはゆらゆらと揺れる不定形の月。あれは多分水面に映った照明なのだと思う。きっとこの街はソフトドリンクで満たされたグラスの底に建っていて、その外にはフランクなレストランの安い現実が広がっているのだ。
どうでも良いと思う。痛いほど白い蛍光灯の光だって、曹達水に濾過されれば銀の胡粉に化ける。
今はとても気分が良い。浮力で自重が減殺されているから体が軽い。
現実の煩雑さと重力の拘束は良く似ているな、と呟いた。体は枷だ。もしも体が無くなれば、毎日こんな気分が味わえるのか。
やがて路地裏を抜け、町の広場めいた所に出た。
辺りを見回せばおとぎ話のような可愛らしいデザインの建物。その中でも最も目を引く大きな屋敷の長く伸びた尖塔の天辺に、白い服を着た少女がしがみついていた。
少女は曹達水よりも比重が軽いらしく、空中に倒立して尖塔にしがみついている。もしもここで手を離せば、遥かな高みにある真っ青な水面へと「落ちて」行くのだろう。
「水面の向こうには何があるの?」
彼女は僕にそう尋ねた。
返答はしない。
「ねえ答えてよ、水面の向こうには、一体何があるのかしらね」
少し考える――夢の外にあるべくはやはり現実だろう。しかし僕よりも重力の戒めから遠い彼女が、僕以上に現実に近い存在であるとは考えにくい。ついに片腕を尖塔から離した彼女は必死な表情をしているはずだが、光の加減か笑っているようにも見えた。
僕はジャケットの中から当たり前のように拳銃を抜いて、残った彼女の左腕を狙う。
狙いは外れた。心臓を打ち抜かれた少女は空中に赤い線を引きながら、無数の気泡を道連れに天へと召された。
やれやれと呟いて僕は拳銃を捨てる。九百六十五グラムの鉄の塊を捨て去る事で、僕の比重は曹達水よりも軽くなった。僕はライトブルーの空を、少女の後を追ってどこまでも上っていく。
いい加減にしろと怒鳴って頭のてっぺんをこつんとやった。自由にさせてきた割には素直に育ったと思う我が娘が、思いのほか強く反発してきたので驚いたせいもある。週末のお出かけが流れたのは初めてではないのに、今夜はやけにしつこかった。ここでがつんといかねば、十を過ぎたらもっと難しくなるだろうと、久しぶりに父の権威を発揮した。学校に上がってからは拳骨などしたこともなく、娘も驚きと寂しさの混じった涙目で私を見上げ、無言で部屋に戻っていった。
その翌朝のことだった。お父さんこぶができたと半泣きで突進してきた娘の頭を、そんなばかなと触ってみると、何と、鶉の卵くらいの白い突起がちょこんと生えている。
痛みもないのですぐ直るだろうと高を括って、今日は寝てなさいと言い残し、休日の職場へ一人向かった。帰ってみると玄関で、妻と娘が涙顔。こぶは二倍に伸びていた。
近所の病院をまわったが、どの医者も頭をひねるばかり。あたしが悪い子だから鬼になっちゃうのね、お父さんゴメンナサイと診察室で泣く娘に、薬にしても効きすぎだと大変後悔した。
学校を休ませ様子を見ること一週間、こぶは順調に伸び続けた。先端が蕾のように膨らんだ翌朝、その全貌がやっとわかった。
道路標識だった。
二十センチばかりの白い棒に、黄色い四角なプレートが打たれ、その真ん中に大きく一つ黒々と「!」。意味するところは「その他の危険」だ。
娘は涙も枯れんばかりに泣いた。こんな謎の危険人物みたいなのは嫌、まだ角の方が格好良かった、と。どうにも慰めようがない。
無力なままに迎えた月曜日。何やら達観したような表情で「学校へ行く」という娘に任せ、黙って送り出したが気が気ではなく、会社を休んで娘の帰りを待った。
すると意外や、「ただいま!」と元気な声で帰ってきた。
「みんな前より私のお話聞いてくれるようになったよ」
自由に育ててきたせいか、娘は人と意見が違っても隠すということをしない。クラスでも少し浮いていたのだが、標識を見て先生も級友も娘の意見に注意を払うようになったらしい。
話を聞いてもらえれば、自然と娘も話を聞く。娘は標識の立つ前よりずっと楽しそうに学校に通うようになった。
「ためたお小遣いで、お父さんにミッキーのハンカチ買ってあげたかったの。次のお休みに連れてってね」
目頭をこっそり押さえて撫でた愛娘の小さな頭の上で、黄色い標識がぴょこんと揺れた。
彼らは生きていく為に枕になる事を選んだ。
彼らとはペンギンの事だ。
ペンギン枕は、一年の大部分をペンギンとして暮らす。
彼らがペンギンである以上それは至極当然の事だ。
彼ら(ペンギン)は家庭に設置された専用冷凍庫の中で気ままな暮らしを楽しむ。
餌は使用主から彼らが買い取る。
その費用を捻出するのが彼らの枕としての仕事だ。
ペンギン枕は、蒸し暑く寝苦しい夜に冷凍庫から取り出され、人の枕として使用される。
動物愛護団体は、ペンギン枕が動物虐待だと声高に主張するが、彼ら(ペンギン)にとっては、それは単純に仕事なのだ。彼らは自分の身体を張って、自分の力で生きようとしているだけなのだ。
彼ら(ペンギン)には<飼育>という恩着せがましい拘束手段こそ虐待に思えた。
冬はペンギン枕にとっては長い休暇だった。彼らは冷凍庫の中でのんびりと気楽な日々を過ごす。
使用主の子供が不意に発熱した夜などに、ペンギン枕は冷凍庫から取り出される。
子供達の頭の下に轢かれ、頭部の熱を優しく取り除く。
フワフワした羽毛で安らぎを与え、愛くるしい笑顔で不安を和らげる。
ペンギン枕が人々から愛され必要とされている理由は、そこにあった。
膨大な維持費を差し引いても余りある価値をペンギン枕は有していた。
彼ら(ペンギン)はプロなのだ。
どんなに無理な体勢を強要されても、彼ら(ペンギン)は決して根を上げなかった。
どんなに邪険に扱われても、彼ら(ペンギン)は人懐っこい愉快なペンギンであり続けた。
彼らは筋金入りのプロだった。鋼鉄のように強い意志を有した。
彼ら(ペンギン)は自分自身の力だけで、この地に踏み止まっていたかったのだ。
夏こそが、ペンギン枕のシーズンだ。
ペンギン枕は毎晩のように冷凍庫から取り出され、お父さんやお母さんの頭の下で夜を明かす。
もしくは子供達に抱きつかれ、幼い寝息を聞きながら朝を迎える。
明くる朝、彼ら(ペンギン)はクタクタになって冷凍庫に戻され、彼ら自身の夜をようやく迎える事になる。
日曜日は寝る暇がない。お昼からビールを飲んで酔っ払ったお父さんの枕となる。
夜は夜で誰かの胸に抱かれる。
ペンギン枕は誰からも愛された。誰もが彼ら(ペンギン)を必要としている。
彼ら(ペンギン)にとっては、それが喜びだった。
ペンギン枕は自分の仕事に誇りを持っている。自分の人生に誇りを持っている。
母が死んだ。実家へと向かう電車の中。隣の席では、夫が静かに瞼を閉じている。窓外の流れ行く景色を見つめ、ただぼんやりと母の事を思い出す。
私が4〜5歳の頃、(既に父を亡くしており)母と姉と初めての旅行だった。母は大きなバッグに三人分の着替えを詰め、私達は宝物を小さな鞄に詰め、母に手を引かれた。電車が動き始めると母は、ゆで卵を取り出した。いつも食べる卵と同じ筈なのに、格別に美味しいと感じたものだった。
その後、私が中学生になった頃、広島の祖父が亡くなり三人で広島に向かった事があった。電車が動き出すと母は昔のように、ゆで卵を私に差し出した。丁度、母の存在を疎ましく思っていた時期でもあり、「いらん!」と撥ねつけ、ふて腐れて窓外を眺めていたが、何だか急に罪悪感を覚え、ガラスに映る母の表情(カオ)を盗み見た。母は、ひょうひょうと卵にかぶりついていた。その母を見て、なんだかモヤモヤした事を思い出した。
最後に母と電車に乗ったのは、2年前の春。結婚が決まり、母子で温泉にでも・・・と東北に向かった。私達が子供だった頃の母の荷物は、とても重く大きなバッグだった。今や母の荷物は小さなバッグとハンドバッグのみ。電車が動き出すと母は、何かを私に差し出した。まだ、ほんのりと温かいゆで卵だ。朝早くキッチンに立ち、卵を茹でる母の背中が目に浮かんだ。
「お母ちゃん、ゆで卵好きやね。何でなん?」
「別に好き違うわ〜。旅行に行ってる間に腐ってもうたら、もったいないやん」
母は早くも2個目にかぶりついた。その姿を見て、何だかホッとしたものだ。
流れ行く時の中で、殆どのものが姿を変える。しかし、変わらないものもある。白髪が目立ち皴が深く刻まれた母。旅行に出る時は必ず卵を茹でる母。どちらも母の姿。生卵が、ゆで卵に姿を変えても卵である事は変わらない。そういう事実。
水曜の夕暮れ、曲がり角で、硝子の小瓶が倒れます。それだけです。ただそれだけです。占い師は言い終わると、口をつぐんだ。長い黒髪が顔を覆い、さっきまで穴が開くほど見つめていたのに、輪郭さえも思い出せない。
占い師に見てもらったのは、取りたててなにか悩んでいるというのではない。仕事からの帰り道を一筋手前で路地に入っただけだった。いつもとはほんの少し違う何かを期待してしまう。水曜日というのはそんな気分になる。
生まれてこのかたこの町から出たことがなかったので、まさか知らない道があるとも思えなかったが、目の前に広がる景色に見覚えはない。こじんまりした間口の店屋が数軒並んでいる。洋服店、お茶屋、玩具店、団子屋、染め物屋、雑貨屋。店先に置かれた籐かごに、手に取りやすいよう品物が積んであり、風が吹くとそれらが一斉にふるえた。それぞれに趣向を凝らした看板が、軒にぶら下がっているもの、立てかけてあるもの、足元に敷物のように置いてあるもの、様々だった。それくらいのことなら、どこかの町のどこかの路地にもありそうなものだ。しかし、どこにもないと思うのは、その色合いからだった。路地に一歩踏み入れたとたん、がくんと膝が抜けたような気がして、なにもかもが一瞬に色褪せてしまったのだ。何事もないように、お店の人は忙しく立ち働き、お客さんは積み上げられた商品を物色したり紙袋を手に提げて歩いている。意を決して一軒の雑貨屋に立ち寄った。そして丸テーブルにぽつんと置かれている硝子瓶を買ったのだ。何も入っていない瓶は軽く、硝子を通して見る景色はとても懐かしい感じがした。
惜しむように路地の出口に差し掛かる。見慣れた横断歩道とその先に、橋へ続く坂道が見えた。ここを曲がれば家まで5分とかからない。夕日が山沿いに沈み始め、まぶしさに目がくらむ。倒れないように目を閉じ、ふたたび目を開ける。路地の出口で椅子に座っていた占い師はもう店をたたんだようだ。路地も町も薄闇に沈んでいた。
昼休みの後の授業 太陽の日差しが窓から差込み 教室の半分を照らしている。マイクを持って 自分の著書を見ながら喋っている教授。決して学生の方を見ない。たまに後ろの黒板にチョークを走らせているとき 横のドアから1人2人と教室から出て行く。 出席の確認が終われば 後はいなくても出席になる。出て行かなくても 昼寝していたり メールしていたり 化粧していたり授業を聞いているのは 前の方に座っている人だけ 窓側の一番後ろに座っている世理子は 黒板に書かれたことを書いてはいる(このノートはテスト前友達によって何枚もコピーされる)が 話は聞かず 窓の外をぼんやり見て考え事をしている。
私は何のために大学に入ったんだろう。コレが私の勉強したかったことなんだろうか。考えれば考えるほど ここにいる意味が無いような気がする。友達は「適当にやって卒業できればいいじゃない」て言うけど それでいいのかなあ。私のやりたかったことてなに?答えが出ない・・・
お母さんに「学校辞めていい?」て聞いたら 「何言ってるのあんなに頑張って勉強して入ったのに お母さんもアンタの為に働きに行ってるのよ」てすごい顔して怒られた。確かに高校のときは この大学に入りたかったけど 思い描いていたのとは違うような気がする。何とか単位取って卒業して後どうするんだろう?
お母さんは「ちゃんと就職してもらわないと困るわ」て言うけど就職出来るかどうか分からないし それが私の望んでいた仕事かどうかも分からない。仕事だったらバイトでも言いような気がするし・・・私はいったい何がしたいんだろう。
「それでは これで終わります。」そう言って教授は教室から出て行った。世理子の考え事もここで終わり ノートとペンをかばんに仕舞いパン屋のバイトに向かった。
完
左の胸ポケットから古びた写真と1枚の紙を取り出す。写真に写っているのは、親父、初美、初肇、元基、小3の俺、お袋。
ハツミとハジメは6つ年上の姉と兄、ゲンキは同い年の弟。俺は双子家系の家庭に生まれた。初美と初肇は二卵性、俺と元基は一卵性。俺と元基はそっくりだった。初美と初肇を見ていても、俺たちほどは似てなかった。これが一と二の差か。
俺はゲンキが嫌いだった。
ゲンキは何でも俺の真似をした。そんなゲンキは、俺のドッペルゲンガーだった。だから、俺はゲンキのことを「ドッペルゲンチャン」と名付けた。ゲンキは皆から「ゲンチャン」と呼ばれてたから、この命名は我ながら上出来だった。
ある日、俺は違う服が着たくて、わざわざ早く起きて一人で学校に行った。なのに、何を着ていったか知らないはずのドッペルゲンチャンは、同じ服を着てやってきた。呆然とする俺に「気分で選んだのにタツキとかぶっちゃったね」と笑って話すドッペル。完敗だった。俺が負けたのはこの時だけじゃない。文集「わたしとぼくの夢」の時もだ。別々に書いたのに、夢は同じだった。
小3の2学期の終業式はクリスマスで、俺は、終わると一人、家へと走った。朝見れなかったプレゼントを早く開けたかったのだ。そんな俺が、家のドアを開けた時だった。
ドンっ!!
俺は突然頭を殴られた。…?…いや、殴られたような衝撃に襲われた。でも、すぐに痛みは引いた。何だったんだ、と思いつつも、俺はプレゼントのある部屋に走った。
この日、俺は流行のゲームを手に入れて、嫌いだったゲンキを失った。酔っ払いの車にはねられたドッペルゲンチャンは、あっけなく俺の前から去った。
俺はゲンキが嫌いだった。
何でも真似したゲンキ。何でも似ていたゲンキ。この地球という星に一緒に生まれてきた、たった一人の存在。―…俺の大事な弟。
「何だ?写真か?」
先輩に話しかけられて、我に返った。
「写真と、その紙は?」
「これですか?」
俺は苦笑いをしながら、紙を渡した。
「懐かしいなぁ、こういうの。お、夢叶えたんじゃないか」
「えぇ、…なんか恥ずかしいっすね」
「…?何だ、隣の…ゲンキ?お前双子だったのか」
「…えぇ」
「このゲンキってやつは今何してるんだ?」
「…空の高いとこで夢を叶えた俺を羨んで見てると思いますよ」
「―…。そうか」
先輩はそう一言だけ言って、微笑んだ。
「今日も良いフライトにするぞ。竜基副操縦官。」
「例えるならまあ、この風船みたいなものです。我々は表面にいますが、内部は空洞で遠心力により……」
壇上の男性がそこまで言ったとき銃声が響き、彼が手にした風船が「ぱん!」と弾けた。
「おとなしくしろ! 我々は革命組織『世界の荒鷲』だ。この会場、乗っ取ったッ!」
突然、覆面をした一団がステージに出て来ると、その中の一人が手にした拡声器で吠えた。東京ドームのグラウンドで行われていたシンポジウムに衝撃が走る。
司会やパネリストたちは皆、銃口にナイフをくくり付けたライフルを突き付けられホールド・アップ。内外野席からは、悪漢どもの機関銃が聴衆二万五千人を狙っていた。
「我々は世界諸国に三つの要求をする!」
悪漢はそう言って、ナイフをどかっとテーブルに突き刺した。聴衆全員が「ひっ」と首をすくめる。
「ひとーつ、世界政府を早急に設立すること。ふたーつ、核兵器を廃絶すること。みーっつ、恒久的平和を実現し、地球を慈しむこと!」
要求の声が響くと、球場全体が静まった。
一瞬の後、ぱちぱちと散発的な拍手が上がったかと思うと、すぐに爆発的な歓声が沸き起こった。テレビカメラが会場を映し出す。
「待ってくれ」
ステージ下からの声に、再び会場はしーんと静まり返った。
「それならなぜ、この会場を狙う? こんな迷惑な手段をとらなくても、世論や多くの人々が君達に協力するだろう!」
運営側の責任者がマイクを手に主張した。
「なんだとぅ」
組織のリーダーが色めき立ってグラウンドに降りた。
「いいか、よく聞けぇ!」
そう言って彼は、ライフルの銃口を下に向けて振り上げた。銃口に付いたナイフをグラウンドに突き刺すつもりだ。
その時、「地球空洞説の信憑性を世に発信するシンポジウム」の参加者全員が、両手で耳を塞いだ。
15分だけ。私たちが恋人でいられる最大の時間だ。それが私と彼の約束。
彼と付き合い始めたのは十五夜の満月の下で前彼と別れた腹いせが発端だ。今の彼に逃げ込んだというのが正しいだろう。
彼は泣いてた私に、今だけだよ、と言って肩を貸してくれた。そのときに私が言った台詞が「15分だけ」。
以来、つらくなると彼に電話をしたり食事に誘ったり。その中で甘えていいのは15分だけ。これが私からの合図になり、そして制限になった。
彼からこの言葉を言われたことは一度もない。でも、これを言わないと彼が受け入れてくれない気がするのだ。気のせいかもしれない。飛び込んでしまえばいいのかもしれない。でも、たとえ電話の向こうでも何か違う。呼吸のリズムを私に合わせて貰えないような。もたれかかるときに、かすかに肩の高さを下げて貰えないような。そんなちょっとした違和感。でもこの違和感は私にとって乗り越えられない壁なのだ。
だから。いつまでも私は15分だけの彼女だ。
今日も私は電話をした。上司にこっぴどくやられたせいで私は限界まできていた。やってらんない。何とかしてよ。甘えさせてよ。
15分だけ。
急いで愚痴る。泣く。喚く。少しだけ気が晴れる。眠れそうな気がしてくる。あ、残り3分間。何話そうか。
部屋を見回すとカップラーメンが目に入った。何を思ったのか、私はカップラーメン、と呟いた。すると彼は、今まで聞いたことのないような溜息をついた。
「俺、カップラーメンかよ」
突然の苛立った呟きに私は戸惑った。彼は再び溜息をつく。
「15分のカップラーメン、そんなに美味いかよ」
言葉が出ない。携帯を閉じようと思う。でも指は全く動かなかった。彼は言葉を続ける。
「15分だけしか必要ないんだもんな」
そんなことない。私が15分間だけにしたのは私のためなんかじゃなくあなたの。
言おうと思ったけど、咄嗟に思い直した。私は怖がっていただけではないのか。でもそれは、私がむしろ彼を受け入れていなかっただけで。
時計を見上げた。電話を始めて30分をとうに超えている。彼も気づいたらしく慌てた声で、切るぞ、今日はごめんな、と言った。でも私は、待って、と止めた。
彼の呼吸だけがかすかに電話口から聞こえる。私の呼吸を合わせる。次第に何かが重なっていく。私はゆっくりと告げた。
「これから、ずっと甘えてもいい?」
彼の静かな吐息が私を包んだ。
今度の閻魔大王は、地獄始まって以来の女閻魔だった。
ヒラ獄卒である僕にとっては月一の企画会議が憧れの閻魔に会える唯一の機会である。今回の議題は「豆腐地獄の具体的内容について」。豆腐を粗末にする人間が増えたため豆腐地獄の建設が急務らしい。地上というのはわけのわからない所だ。
「鉄塊を仕込んだ豆腐の角を亡者にぶつける」という極めて退屈な牛頭のプレゼンがようやく終わった。さすが脳みそが牛なだけある。材料費も鬼件費も馬鹿にならないだろうに。地獄の財政事情まで考えなくては企画は通らず、彼女の目にも留まるまい。
僕は実際に亡者を使って実演を行なった。
「まず、彼に冷奴を食べさせます。無論生姜も鰹節も、醤油の一滴すらかけてあげません。そう、地獄の責め苦は既に始まっているのです」
お歴々が固唾を呑んで亡者の嚥下を見守る。やがて彼は喉元を掻き毟り、割箸でざくざくと首を突き刺し、絶命した。
「地蔵大豆か」
「はい。地蔵大豆を食べると喉が灼けます。咽喉内で甲蟲が暴れ回るような激痛に耐え切れず自殺を図るというわけです。勿論彼らは蘇生し、恒久的にこれを繰り返します」
反応は上々。ちらと閻魔のほうを見ると、上気した顔で血糊のついた豆腐に見惚れていた。
「うん。白い豆腐が鮮血で赤く染まる、というビジュアルコンセプトにも適合していますし、コスト面でも問題ないようです。これでいきましょう」
かくて豆腐地獄が落成し、僕は現場主任となった。しかし亡者は一向に送り込まれず、代わりに閻魔が通って来るようになった。彼女にはもはや他に居場所がなかったのだ。豆腐を粗末にする人が増えたというのは誤報で、彼女を快く思わない連中が故意に流したものらしかった。
二人で木綿山の上に座り、無辺に広がる豆腐色の景色を飽かず眺めた。どこを見渡しても人影はなく、鮮血の滴りなどただの一点も認められなかった。
「辞めるんだって?」
既に敬語を使う間柄ではなくなっていた。
「うん、コキュートスに海外留学。逃げるみたいで癪だけど」
そこは西洋地獄の最下層、氷地獄。生きて帰れる保障はない。僕は泣いた。彼女も少しだけ泣いた。
そして三年。僕はこの間の抜けた地獄で彼女の無事と、地上の人間どもが豆腐を粗末に扱ってくれることだけを願って暮らしてきた。年明けには彼女も戻ってくる筈だ。来年のことを考えれば自然と笑みがこぼれる。乾いた牙を乳白色の風がとろりと撫でた。
物理現象の観測者は、その現象を記述する法則内に取り込まれる。時空を移動すると観測者もまた時空から変容を受ける。だからタイムトラベルは可能だが、意味はない。
もし、宇宙が膨張の果てに収縮を始めるなら、時間もまた逆転して、人は墓穴から生まれて子宮に葬られる。逆回しの映画を見るように。
わたしは窓ガラスに映った自身の顔に見入っている。わたしが時空を超えて過去に移動してきたことは、わたしの顔にはっきりした変容を起こした。わたしは高校生に戻っているのだ。しか
し、わたしの脳はまだ変容に抗していて、未来の姿を残している。わたしはやがて完全な変容を受けるに違いない。わたしは本当の意味でもとの高校生に戻る。
わたしはふたつの可能性について考える。一つはこのまま時間の逆転は止まらないで、さらに過去へ突き進んでいくこと。わたしはやがて幼児期にさらには、母の胎内へと戻るだろう。しかし、それは実際のところ墓穴に入るのと変わらない。あたたかく湿っていて、水が流れている、山裾の古い墓場と変わらなかった。
もう一つは、時間がここで再び逆転して、前へ、少なくとも以前は前と呼んでいた方向に進みはじめること。わたしは再び高校を卒業して、人生をやり直すだろう。しかし、そのことに何の意味があるだろう。わたしには将来を生きた記憶は何も残っていないのだから、同じことをただ繰り返すだけだった。
墓穴も子宮も実際には等価だった。そこは有無が転じる場所だった。言い換えると、時間が転じる場所だった。時間が転じて、わたしが存在しない時間になる。あるいはわたしが存在する時間になる。わたしが存在しないところには、わたしの時間は存在しないが、時間が存在しない訳ではなかった。
わたしは、高校の古い木造校舎の窓ガラスを見詰めている。時間の方向を知る術はなかった。それでは以前は、時間の方向を知っていたのだろうか。・・わたしには、ゆっくり考えている時間が残されていなかった。もうじきわたしは、高校生の自身に重なる。もうこの記憶と意識は閉ざされる。一体、時間はどちらに向かうのか。知る術はないのか。いや、知ったからと言ってなんと言うこともないではないか。しかし、今はこれ以外、何の関心も残っていない。悲しみも、恐れも、感傷も、他者への愛も、自身へのそれも、何も感じない。何か聞こえる。「!よめさらなめゆ」
埠頭に敷かれた線路の末端から転がり墜ちた貨車は、コンテナを甲板にばらまいて幾つかの照明を砕いた後、自らも横転して停まった。それらの雑多な貨物を載せた船はディーゼル機関を喘がせて舫い綱を引き千切り、西進を始める。残されていた照明もまた鈍い警笛が鳴り響くと共にはじけて飛散した。
西方の空に朧月が浮んでいるだけの闇へ、僕はコンテナから漸く這い出て息をついた。積み載せられた人々は僕を含めたすべて皆が月を仰いでいた。果してこの航海が旅行であるか或いは流刑だったのかと記憶は何故か明瞭でなく、けれど貨物船は月までの巡礼船と化したように月が傾いた方へ針路をとり、積み載せられた人々を宥めた。実際のところは航路の涯てにある行き止り、終端を目指す片道燃料の船だったのかも判らない。僕はただ、いつか転生したあかつきには空輸を希いたいものだと思い、御神体のような月が鎮座する水平線を拝み、月までの航送はいずれにしても苦行に相違ないと考えていた。船はやがて月の後を追って緩やかに沈み、荒み切った僕を鎮める。
女はクレーの画集を肴に、一杯呑むことにした。
まず飛ばし読むようにめくっていくと、様々な色が目に飛び込んできて、頭の中がからっぽになって、女の体を大きな目玉にかえた。最後まで終わると女は本を抱いて、もう一度同じことを繰り返した。今度は大きな目玉の女の前に、音のないリズムが立ち上がって、楽譜が勝手に踊りはじめた。
色とひとくちに言っても同じ色はひとつもないなあ、と女は思った。赤っぽいのを赤、黄色っぽいのを黄とひとくくりに判断しても、赤は隣の黄色と混じりあって、赤っぽい黄色となり、そのまた隣の緑とあわさって、赤っぽい黄緑となり、その交わり方に無理も無駄もなく、全体がつながって一枚の絵として調和している。女はクレーに感心した。二杯目をグラスに注いだ。
だんだん女はクレーの絵のさわやかさが憎らしくなってきた。本当に、そうなの? 女は今度は画集をめくるのをやめ、適当にページを開いた。題は「森の奥」といって緑一色の一枚だったがもちろんクレーの緑である。その眺めは、写真集で見た屋久島やアマゾンのジャングルといった壮大な森林ではなく、むしろ女が小学生のころに住んでいた四国の、ある村の、裏山の茂みを連想させた。その裏山には溜め池があって、ブラックバスやブルーギルを釣りにいった。
さきほどのさわやかさとはうってかわって、泥道や虫やねっとりふきだす汗、何か悪いことをしているような淫靡な遊び場としての森がそこにたちあがって、女はこのまま絵とともに、もっと山の奥へ入っていけるような気がした。が、やめておいた。また本を抱きかかえ全体をぺらぺら繰っていったら、そうやって眺めるぶんにその絵は優しくて優雅で艶のあるクレーの森であった。
女は三杯目を飲みおわると、画集を本棚に戻し、それからトウフのようにぼんやりしていた。やがて立ち上がってカーテンを開け、ベランダからみえる夜の明かりを眺めていたら、クレーの画集のように、光のひとつひとつが踊りだすのをみた。高松に帰ろう、と女は思った。
ベルが鳴って男が入ってきた。男も酔っぱらっていて、獣の匂いがした。あたし四国に帰る、と女が言うと、男は携帯電話をトイレに落としたような顔をした。嘘よ、嘘だよ。女はそう言ってベッドに倒れこんだけれど、それから女の頭の中には森が広がっていって、男の抱きしめる両腕では包み込めないくらいの闇が深まっていって、まもなくすとんと眠りにおちた。
音を立てて文庫本ページがめくられた。少なくともそう認識した。実際にはしなりが重力を伴って、その現象に従っただけなのだろうが。いつに無く哲学的になっている自分をおもい、自嘲する。
閉鎖的空間におかれると、人の精神にはこのような変化が現れるのだろうか。四方を壁に囲まれ出口と呼べるドアは一つのみ。現在はそのドアにも鍵が掛かっている。部屋というには狭いそこは、内部から観察する限り直方体の形状をかたくなに守り続けている。ある意味の機能美といえるのかもしれない。
一瞬、箱に閉じ込められている。そのような錯覚に陥る。
いや、これは錯覚ではないだろう。いつもいつでも、俺は閉じ込められているというヴィジョンを感じ続けていた。窮屈な箱に無理矢理詰められるイメージ。
しかも、時には自分でそれを選んでいるという皮肉な矛盾に自嘲の笑みを漏らしてしまう。体に染み付いたそのシステムは他人による強制を無しにしても俺をここへ閉じ込めるのだろう。
箱は何も言わず、俺を閉じ込め続ける。時間が確実に動いている中、俺はその中でゆっくりとページをめくるのみなのだ。
さて、ゆっくりと思考しよう、時間はたっぷりある。
余りにも孤独で、余りにも清閑なこの瞬間をしっかりと心に刻んでいこう。そのように一大決心を決めたところに。他人の声が響いた。
「いつまでトイレ籠ってるの!? 次つまってるよ!!」
私の作品の一読者である友人に、私は仕上げた作品を朗読した。
恋に魔法をかけられて、僕の従弟は醜い姿になった。
当の恋は、愛と決着をつけるのだと言って僕の姉を連れて行ってしまった。
ユーリは、既に恋に奪われていた僕の唇を舐めると、「うん、確かに、レモンの味だ」と言った。
まだ恋のものではなかった深い関係に僕とユーリは突入すると(ああっ! 突入!)、そこに醜く変わり果てた姉を連れた愛がやって来て、「恋の奴は自ら命を絶ったよ。まあ、そういう事をしそうな奴ではあったけれどね」と言って、姉にくちづけすると、見る見る姉はもとの姿に、以前よりも美しくなっていった。
ユーリは恋の死に涙を流していた。ユーリは醜く変わっていた。ユーリは僕の顔をしげしげ見つめると、「君は今、どんどん美しくなっていくね」と言って、息絶えた。
従弟はもとの姿に戻った。恋はもういない。
私が顔を上げると、友人は「愛は勝つ、か。面白くないな」と冷たかった。
私は友人がカップを置くのを見計らってこう言った。「そうだろうね。何て言ったってこれは、事実だからね、ユーリ」
八丁堀から中央大橋へ抜けると、ブロンズ像が白色の明光を浴びていた。橋を渡りスカイライトタワー側から川沿いの遊歩道まで階段を降りる。
「白い橋の下から青い橋が覗いてる」
コトコはそう口にして、中央大橋の向こうのライトアップされた永代橋を指差した。緩い風が隅田川の波を立て、闇に侵食されたそれを生き物のように動かす。
左手から屋形船が来た。サラリーマンが酒を飲み笑い風に当たり涼しそうにしている。
「粋だねえ」
「そうかしら。ただの道楽じゃないの」
女の言い草にタカアキは笑う。
「日々の疲れを癒すささやかな場だよ」
コトコは肩をすくめる。そして船からの歓声が響く最中、ふと空を見上げた。
「見て、タカアキ。銀鮫よ」
その声を合図にするかのように、暗い闇を裂く銀の光が永代橋の向こうから一つやってきた。夜空を悠々と泳ぐ鮫は、微かに鳴きながら船より速く移動する。
「本当だ」
工場の手前の川へ進む屋形船の客人は、立ち上がり口々に何かを叫びながら、相生橋の方角へ駆け抜けていく小型の鮫を見つめていた。
「銀鮫って鳩を食べるんだよね」
しばらくしてタカアキが口を開く。
「そうよ。烏も食べるわ。害鳥対策に、数を制限して放たれているのよ」
そして、ふふ、とコトコは笑う。
「銀鮫って、実は銀座で作られてるって話、聞いたことあるわ」
「……それってギャグ?」
「マジよマジ。プラダやティファニーのちょっと薄暗い店の奥に秘密鋳造所があって、そこで銀鯨の素を加工してるんだって」
疑いの眼差しをタカアキが向ける。コトコは肩をすくめた。
「やーね、あたしも人づてに聞いただけよ。でも銀鮫がみんな、夜の明ける頃に銀座へ帰っていくのは確かだもの。そんな噂があってもいいじゃない」
「帰る……」
タカアキは足を止めた。コトコは首を傾げる。
「どうしたの」
「コトコ。ずいぶん歩いてきたけど、ホテルの場所覚えてる?」
そこで無言になった女を前にして、男は溜息を吐く。
「あの銀鮫の上に乗っていけたらいいのにね。そうすれば楽だよ」
手を繋ぎながら、元来た道を歩く二人のうち、背の高い方が声を出した。それに対し、コトコは頬っぺたを膨らます。
「いやよ」
「どうして」
「だって。銀鮫が眩しすぎて、街の明かりがよく見えなくなるわ。それってつまんないじゃない」
二人の頭上を、輝く鮫がまた通り過ぎる。タカアキはそれに目をやりながら、ならあいつは可哀相なやつだね、と呟いた。
うっすらとした明りがいったいどこから差し込んでいるのかわからない。まるで部屋全体が、仄かに光を発しているかのような、薄暗いというにはやや明るい不思議な明るさだ。部屋に二つある窓には緞帳のように分厚いカーテンがかかっていて、外の様子は窺い知れない。あるいは、カーテンとカーテンリールがあるだけで、窓などはなからないのかもしれず、どうもそれが本当のところのように思える。カーテンのかかっていない壁の片方には、大きな机が、もう一方にはこれも大きな本棚があって、本棚にはトレーン百科辞典が整然と並べられていたのだけれど、抜き取られた所々に、なぜだか熊のぬいぐるみが置かれていて、色も大きさも不揃いながら、みな一様にヘの字に口を結び、向かいの壁にかかったカーテンを虚ろな作り物の目で見詰めるようにして納まっていた。
抜き取られた百科事典のいくつかは机の周りに雑然と散らばっていて、机の上にはすっかり黄ばんだ古い地図が広げられていた。誰かが何か調べ物でもしていたのか、地図にはつい先程付けられたかのような鮮やかな緑のインクでいくつかしるしが付けてあった。しかし、インク瓶も、ペンも、ペン立てさえ机のどこにも見当たらず、代わりに空になったグラスが置いてあって、おそらくそれは、部屋の中央のテーブルに置かれていたものらしく、うすく埃を被ったテーブルの水差しの横に、水に濡れたグラスが置かれていたであろう輪状のあとがわずかに残っているのだから、多分そうなのだろう。テーブルには水差しの他に、すっかり飲み干されたスープの深皿と、見たところまだ固くなっていないひと齧りされたパン、そして錆びついたタイプライターが置かれていた。タイプライターはとうに壊れているらしく、AとHのキーがなかった。そのようなものがなぜそこに置かれているのか知る術は当然のように何もなく、ただそこにあるのだと思うよりほかになかった。
部屋には人がいた痕跡が、確かにいくつも残されているのに、それがつい先程なのか、何年も前なのか、定かでなく、まるで何もかもがずっと以前からそのままであったかのようで、そういえば、この部屋にはどこにも扉がなかった。這入ることの出来ぬ部屋に、人がいた道理はなく、たとえ、テーブルの下に置かれたトランジスタラジオが、場違いなロックをがなりだしたとしても、ひと一人いないこの部屋では、聴く者など誰もいはしないのだ。
せっかくさあ、一生懸命やって、これは最高にクール、超かっこいいじゃん自分、とか思えてもさあ、安っぽいポスターの貼ってある路地裏のコンクリート壁に叩き付けた酒ビンが割れてさあ、ぱりーん、って割れて、それでわずかに差し込んでくる光にガラスがきらきらと光ってさあ、それだけでめちゃめちゃ綺麗でさ、なんだ自分、全然駄目ジャン、良くねえジャン、って思ってしまうよ。ガラスだったら子供のころから好きだったから良く割ってたけど親に見つかると怒られたからピアノばかり弾いていた。ピアノを弾くと親は怒らなかったけれど、あたしは怒るね。なんだよピアノなんかじゃなくてガラス割ってた方がやっぱり綺麗で楽しいじゃんって。そういうわけで昨日からぱりんこぱりんこやっていたわけだけれど、さすがに疲れた。数十本もお酒飲んだから流石に疲れた。疲れたっていうかもう金が無い。
歩き出す。もう朝だ。ふふふ、ふらふらと朝の五時の街を歩く。ブティックのウインドーに、タキシードのままのあたしが写っているのが見える。今度のコンサートは何を着ていこうかな。花束なんていっぱいに抱えて。この店のテンガロンハットはどうかな。タキシードにテンガロン。良いね。この店のガラスケースぱりんこして持って行ってしまおうか。ぱりんこしたら綺麗なんだろうな。とても綺麗なんだろうね。まったくなあ、ああまったく。ピアノなんて、馬鹿みたいだねえ。
石でも落ちてないかと思ってしゃがんだら、砕けた十字架に手が触れた。
アスファルトに白い十字架がばらばらに砕けて落ちている。
ああ、そうか、昨日の雷で壊れてしまったのか。
壊れてしまったものには何か意味があるのだろうか。
壊れることに意味があるのか。
壊れてしまったものはいったい何なのだろうか。何になるのだろうか。
壊れていなければ、壊さなければ、意味があるのだろうか。
あたしは手を伸ばしがさがさと十字架を拾い集める。
これを持って何処へ行こうか。何処へ行こうね。あたしは何処へ行こう。何処に行けば良いだろう。何処に行きたいのだろう。ピアノがうまく弾けない。ピアノをうまく弾きたい。ピアノがうまく弾けない。
壊れた十字架を抱えてあたしは坂を降り始める。
坂の途中で女の子とすれ違う。彼女は壊れた鍵盤をたくさん抱えていた。
まだ朝の五時だ。まだ今日は始まったばかりだ。割れた鍵盤の音が遠くからかちゃかちゃと聞こえる。