第30期 #23
雨上がりの西陣京極の小さな通りを、黒い喪服の女が五六人連れだって歩いていた。何か落ち着かない気持ちがして顔を伏せると、路地の反対に、一体何がいたら面白いだろうかとそんなことを考えた。黒い猫がいて、ではあまりにありきたりだし、市松人形を抱えた車椅子の老婆がいた、ではあまりに奇抜すぎだ。京都駅から北野まで路面電車が通り、西陣織の活況と共に栄えた西陣京極も今も昔の話となり、千本座を中心に日本映画の発祥地と言われた名残も、ポルノ映画館千本日活と男色専門映画館であるシネフレンズ西陣を僅かに残すのみとなった。そのシネフレンズ西陣の前までくると、相変らず出演者募集中の張り紙がしてあって、喰うに困れば一つ出演してみるかなどと思うも、あまりぞっとしない。この場合、「ぞっとする」と書いても意味合いは異なるとはいえ文意はちゃんと通るのが面白いところで、とはいっても「ぞっとしない」とした方がより倦怠的で、今の気分にはあっている。ところで市松人形を抱えた車椅子の老婆というのはただの思いつきでなく、実際にぼくが見た光景で、あまりにぞっとしたので、いずれどこかで使ってやろうと思っているのだけれど、あまりにイメージが鮮烈で未だに使う機会がない。この場合は「ぞっとする」でないと意味が通らない。喪服の女が五六人連れだって歩いていたというこちらの方はただの思いつきで、実際に歩いていたのは喪服姿の家族連れだった。ふたりいる子どもの少しふっくらとした男の子の方がなにやら機嫌を損ねてしまっているようで、母親が歩きながらずっと宥めていた。父親に手を引かれた幼い妹の方がよほど大人しく、まだ人の死などよく解らない歳だろうに、妙に神妙な顔つきをしていた。いや、しかし人の死が解るなんてことは一体どういうことなのだろう。母親の葬儀に立ち会う自分を想像してみたが、さしたる感慨は湧かなかった。寧ろ自分が棺桶にはいっている姿の方がよほど自然だった。数少ないだろう列席者が、棺桶を覗き込む旅に目ン球を引ん剥いてあっかんべをしてやるのだ。そんなことを下らないことを考えながら西陣京極の小さな通りを抜けると、目の前をいやに大きな黒い猫がひょいとばかりに横切った。ああ、なんてありきたりなんだと思うも、ほんとうのことなのだからしかたがない。