第30期 #18
手すりの錆を眺めながら歩道橋を降りると、見知らぬ浜辺だった。
空と一続きの海の青。長い時に骨抜きにされた砂の白。
半分埋まった車椅子と二人分の煙草の吸殻。
太陽は遥か高い位置にあって、簡単そうに世界を照らしている。
生まれたての数式のようにイノセントな風景。
踵を返して歩道橋の階段に足を掛ける。
その瞬間、錆びた鉄の塊はさらさらと崩れ落ちた。
無理もない、あんなに錆びていたんだ。
砂鉄は風に慣らされて、さらさらと砂に混じっていく。
歩道橋だった頃の記憶もやがて失われる。
浜辺を歩いていくと老人に出会った。
彼は屈み込んで、波打ち際に文字を綴っている。
何を綴っているのか見ようとして、彼の手元を覗き込んだ。
「そんなに覗いたって、たいした事は書いていません」
老人は振り返り、屈託のない笑みを浮かべる。
丁度、僕がシェットランド・シープドックを眺める時の表情に似ていた。
「詩を綴っているのです。生まれた時から毎日綴っています」
老人の指の長さは、僕のそれと全くバランスが異なっていた。
きっと砂に字を綴るたびに磨り減って、少しずつ短くなっていったのだろう。
話しているうちに、波が老人の綴った詩を攫って行った。
良いのですかと思わず尋ねる。
良いのですよと老人は応えた。
「けれど消えてしまったじゃないですか。折角書いたのに」
「紙に綴った詩はやがては消えます。この波に攫われた詩は消えません」
「それは、心の中に残った、という意味ですか?」
「いいえ、違います。人の心は移ろう物です。心に残してもやがては消えます」
「すると、詩はどこに」
「海と空の間に隠したのですよ」
判らなかった。老人は続けた。
「波に攫われた私の詩は空に染みて、この風景の一部になります。私の感傷も、剥げた爪も擦れた血肉も。もうこの浜辺は半分以上私の詩で出来ています」
彼は再び詩を綴り始めた。
「やがて海の彼方に私の詩は届きます。それまで私は詩を綴り続けるのです――ああ、丁度今、貴方の立っている辺りにドラセナを植えているのです。良いでしょう。貴方にも見えるでしょう。綺麗でしょう」
ドラセナなど見えなかった。
海の彼方に視線を転じる。
眺めは違っていた。雨雲が顔を覗かせ、風は不気味に凪ぎ、波は目に見える早さで不吉な色へと変じていく。老人が詩作に淫する間に、幼く優しい時代は終焉を迎えようとしている。
嵐が来る。