第30期 #19
雪がちらついてきたけど、寒くはなかった。酎ハイ2杯と熱燗で温まった体には丁度いい。職場のみんなはまともに冬空の下に立ち、カラオケ行くぞと腕を組んだ。私は酔ったふりして身体を少し揺らし、かえりまーすと元気よく右手を上げた。言い切ってさっさと帰ることだ。後ろは振り向かない。
信号が青になるたびタクシーが通り過ぎていく。色彩に雪が映えるのか、赤信号の横断歩道に雪が降りしきる。渡りきってしまうと、身体が急に冷えてきた。コンビニの明かりが見える。何かあったかいものでも買って帰ろう。
店内をぐるりと回ってみたが、これという食べ物に行き着かない。雑誌をぱらぱらめくる。雪は止みそうにない。何も買わずに店を出ようと思った。ケトルでお湯を沸かして千年茶でも飲もう。漬け物があったらいいかな。辛目の、漬け物。というので、小さなプラスチックの容器に入ったキムチをひとつ買った。
帰る途中に、真理子のアパートがある。おどかしてやろうと電話をかける。やっと出たと思ったら声が沈んでいた。
「なんかあった」
「なんも」
「そ、いま近くなんだ、寄っていい」
「いいよ」
真理子の部屋のカーテンが開いて、とっくりセーターの姿が見えた。
部屋のリビング、ベット兼用のソファーにもたれて、真理子は顔を上げた。
「なによぉ、もっと早くに来てくんないから……」
夕方、真理子からメール入ってたんだった。すっかり忘れていた。
「ごめんよ、真理子。なんか話があったんだよね」
酔いがすっかり醒めた。数少ないこの町での友達だから笑っていてほしい。
「イカロスのさぁ」
豹のように身軽に、真理子はソファーに跳んだ。
「イカロスの翼があったんだよねぇ、ここに」
ここにだよぉ。真理子は何度もソファーを叩いて見せる。そうでもしないと収まりつかないみたいだ。イカロスがなんなんだか、イカロスの翼に何の意味があるのか、私にはちんぷんかんぷんだったけど、真理子の悔しさの半分くらいはわかった。私に知らせたかったんだ、見せたかったんだ。真理子が心を躍らせるもの。
私が適当な相づちをうって日本酒を時間つぶしに舐めてたあいだ、イカロスの翼がどれくらいしなやかに戦っていたかということを真理子は話した。聞きながら私はプラスティックの蓋を開けて、容器の中のびのびと広がっているキムチを指でつまんで食べた。