第30期予選時の、#18夢の終わりに(サカヅキイヅミ)への投票です(2票)。
千文字という比較的短い文章では、起承転結の濃度を書き手の感覚で自在に変えられる裕度が高いところが、面白みの一つだと思います。
この作品は起承転結の濃度が薄い方のものかな、と。作品自体が大きな起(プロローグ)のようにも感じられます。
面白みは個々のフレーズに感じました。もっとも、少し、詰め込みすぎの印象も受けました。けれども、それらをゴタマゼにしても、変に理に落ちていないところが、作者の美意識だと受け取ったので、1票を入れます。
参照用リンク: #date20050207-064240
作者は、ただ幻想的な風景を描くことに執心していたのだろうか。
そうではないと仮定して、私なりに解釈してみるに、この作品の底には「老い」や「過ぎ去ること」への怖れとでも言うようなものが流れているような気がするのである。
「イノセントな風景」「幼く優しい時代」とは、現実的な時空間から隔絶された僻地である。つまり、時間的な意味では、“圧倒的な現在性”だけが在る場所。そしてその場所を創り上げているのが、砂浜に詩を綴り続ける老人である。またも勝手な想像であるが、老人の詩は、呪詛のように同じ言葉を何度も何度も繰り返して書かれているのではないか。そして、何度も書かれた同じ詩を、同じリズムで波が攫って行く。老人は、現在性と戯れているのである。何故か。
老人は、老いたくないのではないか。例えば「この波」「この風景」「この浜辺」と彼が言う時、そこに、自らの創り上げた素晴らしい風景に対する強い執着が垣間見られるのである。つまり、ナルシシズムである。しかし、老人は老いていく。指が減るのである。
これも推測であるが、「生まれた時から毎日綴っています」という謂いに、何か幼児回帰のようなものを感じる。老人は浜辺で詩を綴り、やがて赤ん坊に生まれ変わり、再び成長して老人へ。螺旋のような成長を、僻地で反復しているのである。更に乱暴な解釈であるが、痴呆から来る幼児帰りのようにも思える。
では、本来老人しか侵入を許さないような空間に、主人公は立ち入ったのか。残念ながらわかりかねた。が、粉微塵になった歩道橋に向けて「無理もない、あんなに錆びていたんだ」と言ってのけるならば、主人公は若く、過ぎ去ることに何の怖れも抱かない人間であると思われる。彼が来たからこそ、嵐が来るのである。夢を終わらせたのは、彼である。
参照用リンク: #date20050203-214620