第30期 #17

ヴェスプッチ

 瓦礫で遊ぶ子らは影であった。ヴェスプッチは影踏みが出来ないと嘆く子供達にせがまれ、自分の影を解いた。たららと逃げ出したヴェスプッチの影を追って、子らはけらけらと高音響かせ駆けてゆく。輪になって話し込んでいる親達の近くからヴェスプッチはその姿を見守った。親たちも影であった。飽きもせず同じように駆けっこを続ける子供から目を外すと、そうとは気づかずに足先で弄っていた掌大の瓦礫を今度は意識的に弄びながら、何故ここにいるのか説明出来ない事に気がついたヴェスプッチは、致命的な失敗を犯したような寒気に襲われ思わず少しばかり浮かび上がると、自身の持つ耐久度を超えるかのような力で踏み出された一歩目からその先が出ないままに動きを止めてしまった。意識出来るのは呼吸のみで、一切の動機が消し飛んでいた。不意に現われた危機感が本物である事を未だ強烈に身体が記憶していながら、それを裏づける何物もヴェスプッチの意識の淵になかった。そこへ、ある「情」が脚を伝って入り込んで来た。それは先程の危機感に始まり、重心が地球に引かれるような悔恨、がらっと変わって天が肩を引く怒り、吐く物のない吐き気を思わせる哀しみ、そしてそれだけは意識出来ていたはずの呼吸すら覚束ない無意識に至り、宇宙の果てから果てへの道程を体感したと錯覚する程の時間感覚の後に、ある瞬間から唐突に世界の終わりを告げる直下型地震的に突き上げて来るうめきに変わった。汲めども汲めども枯れぬ「人類史の血」がヴェスプッチの両の目を捌け口に同量同速の涙となって吹き出して来る。目で足らない分はすべて噎びになり身体の端々に及ぶ痙攣となって現われた。前後天地の区別を失ったヴェスプッチの元へ、遊び疲れた子らが彼の影と共にやって来たかと思うとけたけた声を弾ませて真上を一斉に指し示した。ブゥゥゥーンンン……。プロペラ音。「これからの展望を考えれば止むを得ない決断だ」「尊い犠牲に祈ろうじゃないか」思い出した。今まさに空に躍り出たであろう物体が発動すれば、彼もまた影と永遠に引き離されるのだ。同化していた「情」をかなぐり捨ててヴェスプッチは一ミリでも遠くへ逃げるために飛び出したが、見えた物の衝撃に打ちのめされた。花弁のように皮が垂れ下がった無数の腕が地面から生えている。そこへ、影達の声が木霊する。「だいじょうぶ、影は残るんだからさ。それにほら、止むを得ない決断なんだろ?」


Copyright © 2005 三浦 / 編集: 短編