第3期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 ポタージュの女 野郎海松 1000
2 ノッチン えむいとう 989
3 (削除されました) - 999
4 あの夜、あの赤い木枠 さかな 1000
5 記憶 ハチミツボーイ 654
6 吹けども飛ばぬ電子の駒に 佑次@大発生 1000
7 日本語動詞も人称変化することについて 海坂他人 1000
8 サイ 坂口与四郎 1000
9 ある港町での出来事 曠野反次郎 961
10 すないぱあ ラリッパ 1000
11 あなたへ 黒木りえ 1000
12 うちまわり線 川島ケイ 1000
13 彼女はおしゃべり 紺詠志 1000
14 奈々魚掘 るるるぶ☆どっぐちゃん 1000

#1

ポタージュの女

 僕はとろとろのポタージュになっていた。
 ポタージュでいることは何と心地よく、そして甘美なのだろう。僕の形は完全に失われていた。体の一部にはまったく力が入らず、また別の一部にはこれ以上ないほど力がみなぎっていた。彼女の指はとても直視していられないほどのなまめかしさで、僕を絡めとり、ばらばらにほどいた。
「私は、手だけで男をいかせられるわよ」
 そもそもは、彼女がそう言い出したからであった。しかも彼女が言うのは、相手の手をマニピュレートするだけで、という意味らしかった。僕は興味を覚え、じゃあ試させてよ、と左隣の彼女に、近い方の手を差し出した。つまり左手だ。手の平は上? それとも下?
「ご自由に」
 彼女は微笑んだ。
 友人の結婚式の二次会で、僕は彼女と出会った。髪の長いなかなかの美人で、スタンド・カラーの黒ジャケットがおそろしく決まっていた。スリットの入った白いタイト・スカートからのぞく太ももは、流麗な曲線を描きつつ、カウンターの下へと消えていた。
 彼女の手は滑らかで、しっとりと温かく、造詣も見事だった。細い指は、コレクション・ボックスにずらっと並べて飾っておきたいくらい美しかった。
「じゃあ、始めるわよ。力を抜いて。自分の手じゃないみたいにね。ここから先は」
 と言って彼女は、僕の手首にそっと人差し指で線を引いた。
「もうあなたのものじゃない。私のものよ」
 そうして彼女は、僕をポタージュにしてしまったのだ。始まっていくらも経たないうちに、僕はうまく息ができなくなった。ポタージュは息なんかしない。やがて、体の中心をまっすぐに降りてきた快感は、過たず僕の男性自身を直撃した。あっという間にそれは凝固して、さらに成長しようともがいた。彼女の指は、僕の指と指の間に入りこみ、優しく擦り、そして手の平にもぐりこんで、奔放な旅を続けた。その足跡は僕をひどく狼狽させた。さっき彼女が引いた手首の線より先は、彼女が言ったとおり、僕のものではなくなっていた。
「ポタージュになったみたいだ」
 僕は自分のものとも思えない掠れた声で言った。彼女はまた微笑んだ。
「彼もそう言ったわ」
「彼って?」
「今日の新郎」
 僕は言葉を失った。快感がさらに強く僕を突き動かした。僕は解放を願った。
「いきそう?」
 彼女が耳元で囁いた。僕の理性はいくなと言っていた。でも……。
「ご自由に」
 その瞬間、熱いポタージュが僕の下着の中に注がれた。


#2

ノッチン

 6年2組の同窓会はありふれたものだった。子供時代を共有した連中との再会は楽しかった。昔話は尽きることがない。
「ノッチン? あいつ中学のとき死んだぞ。新聞にも載ったらしいしな」
 誰かが放った言葉に俺は打ちのめされた。宴会場の楽しげなざわめきはもう聞えない。郷愁に酔いしれた心地が四散する。
 ノッチン。隣に住んでいた幼なじみだ。落ち着きが無く、ドモリがひどくて、いつもニコニコと笑顔ばかり浮かべていた。
 彼はいつも分解をしていた。粗大ゴミの収集日にテレビやラジカセなんかを拾ってきて、ドライバーで器用に解体する。ネジは大きさ別に、部品は取り外した順番に並べ、小さいな歯車やバネも余すことなくバラしていく。
 分解が終わると格好いい部品を2つだけ取り除き、ノッチンの両手がまるで別の生き物のように動いて驚く早さで組み立てる。そして、部品を一つ僕にくれるんだ。精密に巻かれたコイル。都市が縮小されたような基板。複雑に絡んだ歯車。どれも、素敵な宝物だった。
 俺は二次会を断った。今夜はとことん飲むつもりだった。有給を取ってまで、参加した同窓会だったが、もう無意味だ。
「先生それでは。お元気で」
 挨拶してきびすを返すと、担任は俺の肩に手をかけた。
「少し、野口君の事で話しがあるんだが。いいかね?」
 担任はノッチンと俺が仲が良かったことを覚えていたようだ。
「野口君は… ノッチンはどうなったんですか」
 僕は小学校を卒業すると引っ越した。ちゃんとお別れを言ったのに、ノッチンはニコニコしながら電気カミソリをバラしていた。それが最後に覚えているノッチンの姿だ。
 担任は俺を最寄りの駅に連れて行った。その道すがら、彼は進学した中学に馴染めずに登校拒否になったことを教えてくれた。担任は出過ぎた真似と知りながら卒業後もノッチンの面倒をみていたようだ。
「野口君は、ゴミ集積場の崩落事故に巻き込まれてね…」
 担任は、駅構内のコインロッカーから取り出した紙袋を俺にくれた。
「野口君の机に大事にしまってあった。これは君の物だ…」
 ズシリと重い紙袋の中身は、古びたクッキー缶だった。フタを開けると、いろんな部品がギッシリと詰まっていた。
「この、丸くて光っているのがあるだろ。野口君が最期に握っていた部品だ」
 何か特殊なメッキが施されているのだろう。とてもキレイな部品だ。
 僕はクッキー缶を抱きしめて泣き崩れた。


#3

(削除されました)

 蔵を片付けていると『今ナポレオン』と呼ばれた祖父の、若い頃の日記を見つけた。祖父はほとんど睡眠をとらずに財をなしたという。母屋に戻る途中、ナタと古びた龕灯を持って歩いている男を見かけた。「今時、龕灯とは」と苦笑したが、新入りの庭師だろう。
 夕食を終えると、私は寝室で日記を読み始めた。

――という拠ん所ない事情で新橋に出かけた。用事を済ませた後に酒を飲み別れた。
 将来駅は新橋までつながるというが今は品川までであった。不便と思ったが考えれば満足すべきことであろう。人とは足るを知らぬ生き物である。
 人力車を求め歩いていると浮浪者溜まりに奇妙な人影が見えた。短躯で腿が太く膝から下は異様に細く長い。私は塀の影に添うようにして隠れた。
 新政府の職にある叔父が話してくれた幻灯機男そっくりであった。
 洋行帰りの叔父が幻灯機を持って遊びに来た時のことである。初めて見る幻灯機に興奮した私は叔父に五月蠅く質問をした。真面目に答えていた叔父は辟易したのであろう。終いには「幻灯機男に夢を喰われるぞ」と笑い出した。幻灯機男は竈馬に似て馬面。手には頭蓋骨を割る鉈と夢を映す強盗提灯のような幻灯機を持つ。夢を見せるが腹が減れば夢を喰らうと脅された。
 男の姿はまさに叔父の話通りであった。遠目で詳細は分からぬが浮浪者どもの間を歩いては時折屈み込んでいる。誰も起きる気配はない。
 幸い人力車が来たので私は呼び止めた。走り出すと目の端に男の笑う様が見えた。暗がりに不気味な白い歯が浮かんでいた。
 駅に着くと上等の切符を買って乗り込んだ。汽車の振動と酔いで私は眠りかけたが前の方でにたにた笑う顔が覗き見ていることに気づいた。他人の空似かと思い再びうとうとし出すとそやつはこちらを見る。あの歯は余人にあらざるものである。なるほどあの歯であれば魂も砕けるに違いない。
 叔父は「夢を喰われた者は二度と目覚めぬよ」と言わなかったか――

 そこで日記は途切れていた。私は落ち着かないまま眠ろうとした。ベッドの中からリモコンで補助灯をつけ、照明を消す。壁際に異形の影が見えた。私は慌てて明かりを元に戻した。
 誰もいない。
 こわごわ照明を消すと、薄暗がりに再び影が現れた。白い歯を見せ、飛び跳ねるような足取りで近づいてくる。私は必死に指先を動かして、再び部屋を明るくした。
 悪夢であれば醒めて欲しいと祈りつつ、私は身じろぎもできないでいた。


#4

あの夜、あの赤い木枠

例えばあの夜、あの赤い木枠の上に腰かけてあなたと話をしたこと。あなたも私も多少酔っていて、モスクワ帰りのあなたは少しやつれて髪を思い切り短くして、なおかつ何かよく分からない押しの強さを秘めて目をギラギラと輝かせていた。私はそれを私に対する執念か何か、愛情ではないにしろ少なくとも性欲の現れだととりたかった。だけど結局のところはよく分からない。私は最近出来た4つ年下の恋人のことをあなたに釈明しなくてはならなくて、どうして釈明する義理があるのか私にもあなたにも実ははっきりと言えなくて、というより多分あなたがそれをわざと見えないような具合にしていて、私はそれをあなたの頭の良さと同時に狡さのせいにしたかったのだけれど、果たして何が真実だったのやら。あれから3年が過ぎた今、あの時のことを今更どんな風にあなたに尋ねるべきかさえ私は知らない。
それとも結局のところ、私が物事をありのままに正しく見なかったという、ただそれだけのことだったのでしょうか。それは私において有り得ることです。単純なことを時に非常に曲解してとってしまう。自分ではこの上なく正しい判断をしているつもりであったりするのですが。
それともそんなことは誰にでもよくあることでしょうか。

久々に大学に行って退学の手続きをとって、あの赤い木枠の横を通って懐かしい場所を未来永劫に後にした。その後振り返ってまたあの赤い木枠を見たのかどうかはよく覚えていないのだけれど、後になって大学を辞めてきたのだということを思い出す度、心に浮かぶのはあの時あなたと一緒にあの場所に座っていたということ。あなたにいくつか大事な話をしてこなかったということ。そのことばかりで。
あなたに話さなかったのは文学部2号館の書庫のエレベーターのことです。それから明治時代の建築を模した奇妙な作りのおかげで、便座に座るとガラスの外から丸見えになってしまう新館の馬鹿げたトイレのこと。それから。
モスクワからあなたが送ってくれた辞書の中に挟まれていた一輪の青い押し花のこと。
あなたと私の関係に何があったのか、何が足りなかったのか私には分からないままです。

ネットの文芸サイトであなたに似た人を見付けました。実は名前の一字が共通するという、ただそれだけの「相似」ですが。
彼にこれを読んでもらえさえすれば私は満足なような気がします。
あなたもどこかで書いていることでしょう。


#5

記憶

「男は思い出だけで生きられるんだ。」
モンクはコンビニの雑誌コーナーでエロ本の立ち読みを注意されるとそう叫んだ。彼の充血した顔は彼の海綿体も相当充血していることを示していた。モンクはエロ本を破り捨て店長に投げつけた。危険を感じた店長は護身用のナイフとロープでモンクに襲いかかり亀甲縛りにした。どちらかといえばMなモンクは店長に暴言を吐きながらも縛られやすいように手を貸していた。
「くそ!変態店長め。俺をどうする気だい?」
「どうするもこうするもないよ!このメス豚がぁ!」
店長の蹴りはモンクの内臓を夏の日の少年のスイカのように、赤い部分を全然残さないほど深くえぐった。モンクの口には酸っぱいものがこみ上げてきた。初恋の友恵ちゃんである。
「さて、汚いお前を私の聖水で清めてあげよう。二度とエロ本を立ち読みするなんて行為はできなくしてやる!」
店長の社会の窓からひきこもり5年は経過しているポコチーナが久々のシャバの空気を浴びていた。モンクは思った。相手のことを愛しく思うことが大事だが、それ以上に伝えることのほうが大事であるということを。
「プリンセステンコー!」
モンクの叫びと共に眩い光がさした。一瞬にしてモンクと店長の立場が入れ替わった。店長は亀甲縛りにされ、モンクの充血した海綿体を見上げている。
「待て!それは聖水じゃない。黄金水じゃないぞ。エロ本ならくれてやる。止めてくれ!」
モンクはデニーロばりに不敵に笑った。
「男はなぁ、思い出だけで生きられるんだ。」
モンクの海綿体から賑々しくも厳かに僕らの勇気は飛び出した。


#6

吹けども飛ばぬ電子の駒に

さる某日大規模なオンライン将棋大会が開かれ、その決勝戦の対局はすでに中盤にさしかかっていた。

小紫隆弘は薄暗い部屋でモニタに向かい不敵な笑みを浮かべつつ、
「そう来たか…」と呟いた。
序盤、隆弘はいつも通り得意とする四間飛車の駒組みを選択していた。対局相手のHN夏枯草(うるき)は隆弘の予想に反し、振り飛車の美濃囲いという定跡に入る。
夏枯草は本来居飛車党のはず、そう恐らくお互い手の内を知っている。しかし夏枯草はそれをあえて外してきた。
――罠か。
「いや、好都合。飛車に追われる夢を見な!」
思わずそう叫んだ隆弘の背後から誰かが彼を呼ぶ。

「隆弘兄ちゃん」それは弟の正春だった。
「鼻血が止まらん、どうしよ…」
「えー! もう!」隆弘は立ち上がってドタドタと床を踏み鳴らし、
「和明! 亨! 紗江子! 真美! えーと、信一!」と家中を叫んでまわった。
隆弘の兄弟は十二人居る。なんと小紫家は総勢十四人の大家族なのだ。
「なにー? 呼んだ?」返事をしたのは八番目の亨だった。
「正春が鼻血出したから、お前が面倒見れ」
「えー、なんで俺が」
「うるせえ」
そう言って隆弘は急いで決勝戦の場に戻る。
しかしそこには、阿鼻叫喚、赤ん坊の妹あかねがキーボードをおもちゃにしている姿が。
そしてモニタのチャット欄には意味不明な文字が並ぶ。
『gjびあsj』
隆弘は目の前が真っ白になる。
対戦者の夏枯草は困惑の記号、
『?』
『す、すすいません』
素早くキーを打ち謝る隆弘。

モニタの時計が示す隆弘の残り時間は五分。半ばヤケクソになった隆弘による怒涛の攻めが始まる。それを深読みして長考に入る夏枯草。一転勝負は混迷を極めた展開へと。
「あー! 兄ちゃんまた健二兄ちゃんのパソコン使ってるー」
「うるせえ和明、今あいつ居ないんだからいいんだよ」
「あーん、誰が居ないんだあ、オイ!」
「あ」
「俺のMACに汚い手で触んじゃねえよ隆弘!」
「ご、ごめん兄ちゃん! 今だけ、今だけ使わせてえ」

兄弟喧嘩の行方に決勝戦の勝敗が分かつ、果たしてその結果は。
「勝ったあ…」
なんと隆弘は残り考慮時間の一分を利用した電光石火の早指しと、天性の勘による詰めろでみごと夏枯草から勝利を奪っていた。しかしてその代償として隆弘が負った悪魔のごとき契約は、賞金のうち半額を兄健二に上納するというなんとも悲しき定めであった。


同じ頃、病室から一人の少女が窓の夕日を眺めている。
「なんか翻弄されちゃった…」


#7

日本語動詞も人称変化することについて

 音韻論に山をかけて言語学概論の試験に臨んだところが、実際に出たのは時枝文法であった。
 書くには書いたが、なんとなく落ち着かない気もちで帰途につき、交差点で信号を待っていたら、
「ちょトいいですカ?」
と、上の方から声を掛けられた。
 いや、あまり良くないですと反射的に答えたのは、これが白いヘルメット帽でスポーツ用自転車にまたがった西洋人の青年だったからである。きちんとネクタイを締めたYシャツの胸ポケットは何やら冊子で膨らみ、長老なにがしというバッジも付いている。後ろにはもう一人連れが控えている。
 泰西映画にも出て来そうな端正な美貌だが、私たち主エス・キリストの、とってもとってもありがたい、大切なお話を伝えています。などと曰う青年で、その上こちらはもう一時半近いというのに未だ昼飯を食っていない。人はパンのみにて生くるに非ず、我が与える水を飲む者は永遠に渇くことなし、とは言うけれど、やっぱりパンと水も必要であって、それよりこんな理屈をこねたら逃げるどころか取り込まれそうであり、いや今ちょっと急いでいるのでなどと辻褄の合わぬ陳弁をして、だから日本人は不正直であるなぞと謗られるのかと思うと一層情けなくなる。
 それでもどうやら諦めてくれて、時間あるトキ、ここへ電話するト良いです、と紙片を取り出しながら言う。仕方なく受け取ると、さらに押し返して、
「あなたハ電話すると思いますカ?」
と尋ねて来た。
 は? 私ですか? と思わず聞き返してしまったが、それはこの問いの文が変だからだ。
 この疑問文を受け取った現代日本人は、普通、「電話スル」主体として「あなた(自分)」を結びつけない。むしろこれは、誰かが電話するかどうか、あなたはどう思うか、という意味になる。
 ではどう言い直せば日本語らしくなるか。敬語を入れて、ついでに主語を取っ払って、
――本当に電話して下さいますか、
とでも言えば、確かに相手に念を押す構文になる。このような敬語はもはや殆ど敬意を含まず、人称の違いを表す役目をしている。
 日本語は文法のない未開な言語であると思っているのかも知れないけれど、決してそんな適当なものではないので、これが自分の動作なら
――ええ、電話いたします、
となって、ちゃんと一・二・三人称に対応する。
(わかった?)
 いま別れたばかりの異国の青年の幻像に語りかけながら、帰って来た。宗教だって、そういうものじゃないのかな。


#8

サイ

「手を傾けるだけだ。」
 目の前の男が言う。部屋が暗くてよく顔が見えない。私の左手にサイコロが二つ。硝子でできている。色は赤い。やや軽いような気がする。もしかしたら高価な物かもしれない。熱伝導は悪い。

「傾けるだけだぞ。」
 男の声は笑っている。手に乗ったサイコロを軽く握る。手を開く。また握る。そんなことを繰り返す。相変わらずサイコロは冷たいまま。もしかしたら、手が冷たいのかもしれない。ふと、そんなことを思う。

「振らないのか。」
 姿勢を崩すために男が身を乗り出す。一瞬だけ、いやにうすい唇とその中にある歯、そしてその奥にある舌が見えた。
「俺が振ろうか。」
 あの口が上下に動いているのだ。サイコロを握る。がちっと音がした。なんとなく男が微笑んでいるような気がする。顔は見えないがそう思った。

「いや、お前が振れ。」
 諦めたのか呆れたのか。不思議な音だ。どう解釈すればいいのか判らない。
「時間はある。」
 時間なんて忘れていた。
 男の真意が読めない。忘れさせておきながら、存在を確認させる。

「何がでるか、予想できるか。」
 わからない。

「俺が予想してもいいが、当たりっこない。」
「振らない限り、何が出るのかわからない。」
「お前は気にならないのか。」
「どうでるのか気にならないか。」
 椅子が軋む音がする。男が背もたれによりかかったのだろう。私は猫背でサイコロを見る。

「俺が振ってやろうか。」
「なあに、誰が振っても同じだ。」
「同じなんだ。」
「お前じゃなくてもいいんだ。」
 サイコロをかち、かち、と鳴らす。左手で二つのサイコロを玩びながら、目の前の男を見る。部屋が暗くて顔が見えない。しかし、あの口を見てからなぜか表情が判るようになった。手許だけを照らすライトにサイコロの赤が反射し、あの唇と舌の赤だけが頭の中で徐々に濃くなっていく。この二つのサイコロを放らせるために。

「決めろよ。」
 サイコロがぎりりと鳴った。


「俺にはわかっていた。」
「サイの目なんか本当はどうでもいいんだ。」
「どうやら、お前は随分ともろいのだな。」
「だが、鮮やかだ。」
「美しい。」
「予想外だ。」

 サイは音をたてて粉々になった。砕けたサイから赤が広がる。見えない感嘆の気配が遠くなっていく。そう、お前の言うとおりだ。

 そしてこの暗い部屋で私を染めながら広がっていく赤も、ああ、お前が言うとおりサイに閉じ込められ僅かに輝いているままよりもずっと美しい。


#9

ある港町での出来事

 これは私がほんの短い間滞在した港町での出来事です。
 港町といっても小さな港でしたので、宿泊したホテルも小さくオンボロなものでした。部屋の中にいると霧笛の音が聞こえてきます。
 そんなホテルでの滞在が一週間も過ぎたころでしょうか。夕方、ふらっと散歩にいきますと、埠頭で釣り糸を垂らしている少女を見かけました。私はしばらく少女を眺めていましたが、釣果は全くないようでした。白い大きな帽子のため少女の表情を窺い知ることは出来ません。
 その日だけでなく、次の日の夕方も、またその次の夕方も少女はじっと釣り糸を垂らしていました。相変わらず釣果はないようでした。そうやって陽が完全に沈んでしまうまで何かに耐えるように糸を垂らす少女の姿はひどく印象的でした。
 そして、四日目の夕方のことです。ついに私は少女に声をかけたのです。
「やぁ、こんにちわ。今日もいい天気だったね」
「こんにちわ。そう、今日もいい天気だったわ」
 振り返りもせず少女は答えました。
「君は毎日ここにいるようだけど一体何を釣ろうとしているんだい?」
 しばらくの沈黙の後、白い帽子の隙間から毅然とした表情を覗かして、少女は夕陽を指差すと、言いました。
「あれよ。あたしは夕陽を釣ろうとしているのだわ」
 そう言われて私は海に沈んでいく夕陽を眺めました。
「でも、夕陽なんか釣れるのかい?」
「釣れるわ。この竿と糸はお爺様が残してくれたものだもの。あたしはきっと夕陽を釣るわ。そして沈めないでそこに留めておくの」
「沈まない夕陽?」
「そう、沈まない夕陽。終らない夕焼け。始まらない夜」
 その言葉は何故だかとても力強くて私は何も言えなくなってしまったのです。
私はただ黙って頷くと少女に軽く会釈してその場を立ち去ったのでした。
 次の日、私は逃げさるように町を離れました。
 
 私が町を離れて三日後のことです。
 その日の夕陽はどれだけ経っても沈むことがなかったのです。時計の針が午前〇時を回っても街は夕焼けに包まれたままでした。
 私はあくる日の早朝、沈まぬ夕陽の中、始発列車に乗り込むと港町へと急ぎました。
 私が港町にたどり着く寸前のことです。夕陽は海の中へと沈んでいってしまいました。
 あの埠頭に行くと少女が被っていた白い帽子がポツンと残されていました。
 そして、霧笛がブオーと鳴るのでした。


#10

すないぱあ

 午前五時二分。
 誤差二分ならまずまずだ。
 狙撃手たるもの目覚しなどに頼っていたのでは完璧な仕事はできない。
 俺はすばやく跳ね起きスーツに着替えた。銃を手にする時は、上着とネクタイ、貴金属はつけない。
 窓を開け放すと冷えた外気がなだれ込む。
 ライフルを取りだし、バッテリーをストックに捩じ込むと、マガジンキャッチを外し弾倉装てんした。
 事前に風による着弾位置のずれを修正しておかねばならない。
 俺は立膝の姿勢で窓枠に銃身をのせ、グリップを引きストックを肩に押しあてた。リア、フロントサイト、ターゲットを重ねトリガーを引く。二階から打ち下ろした弾道は伸び、目標から十五センチほど左奥のアスファルトを叩いた。

 けはいはするがやつらは姿を現さない。

 バサバサッ。
 突然頭上で羽音がし向こう側の歩道に着地した。うちの屋根にいたのだ。
 暫くはキョロキョロしていたが、青いポリ袋に近づくとつつきはじめた。見る間に穴があき、水入り風船のように、骨付きの肉隗が大量に転がり出て、それを合図に仲間が次々に舞い降りる。十数羽はいるだろうか。ほどなく宴がはじまった。
 太いくちばしでふり回すと残飯が飛び散り、すばやく雀がくわえ去る。三羽が厚手の袋を小突き回している。その中に片羽が短いのがいた。あの日俺の頭をかすめて飛び去ったやつだ。まちがいない。
 はやる気持ちを鎮め、やつの動きが止まるのを待った。
 執拗な攻撃に力尽きた袋は、小さな穴からくちばしを捩じ込まれ中身を引きずり出された。連中は嵩にかかって穴を広げる。飛び出した肉の中で一番大きな塊にターゲットは喰らいついた。
 いまだ!
 やつは今食事に夢中だ。
 俺は照準を修正し、息を止めトリガーを引いた。
 弾はやつの肥った腹にめり込み、突然の激痛に動揺し、闇雲に羽をばたつかせている。仲間は驚き四散した。
 ざまあみろ。天誅が加えられたのだ。
 やつが飛び去るのを確認すると、俺は銃をかたづけ階段を降りた。ちょうど妻がトイレに起きてきたところだった。
「どてっ腹にBB弾を叩き込んでやったよ」
 妻はぼんやりと俺の顔を見ていたが、やがて意味を理解し底意地の悪い笑みを浮かべた。
「秘密をばらされた報復ね。で、新しいのを買うの?」
 そう言うと俺のはげ頭をしげしげと覗きこんだ。
「……」
 怒りで言葉を失った。
 だが許そう。妻は知らないのだ。狙撃手は決して私怨のためには仕事をしないことを。


#11

あなたへ

 枯らせてしまった鉢植と、死なせてしまったハムスターと、腐りつつある冷蔵庫の中身をかえりみることもせず、あなたは、泣くこともせず、ただここにいる。
 あなたはたったいま、家に戻ってきた。家というのは、ふたりで暮していたマンションだ。ひとりで帰ってきて、ドアをあけて、こもっていた空気を抜こうと窓を全開にしても、風がないため臭いはなかなか出てゆかない。水に落とされた透明なゼリーかなにかのように、区切られた空間のなかにわだかまっている。
 あなたは二週間、帰ってこなかった。それとも半月。あなたがいないあいだ、この家はゆっくりと古びて、なかにあるものや、なかで息をしていたものは死んでゆき、そしてゆっくりと腐っていった。あなたはそのことを知らなかった。いや知っていたかもしれない。けれどあなたは帰ってこなかった。
 あなたは二週間、病院にいた。病気だったわけではない。怪我をしたのでもない。病人の世話をしていたのだ。完全介護が建前で、泊まり込みはできなかったから、近くの安いホテルに寝に帰るふりをして、実際には病室の片隅に敷いた毛布にくるまって寝ていた。院長の旧い知り合いだったから多少のことは多めにみてもらえた。あなたは離れたくなかった。いっときでも一緒にいないことに耐えられなかった。
 その二年前にあなたの母親が倒れたとき、あなたはやはり病院に通いつめた。けれど仕事に行っているあいだに容態が急変した。あなたは間にあわなかった。
 あなたは病人を助けることができないのを知っていた。だからせめて、病人が死人になるそのときを見届けたいと思ったのだ。
 そうしてたしかに、あなたは病人の最期のときを見届けた。最後の呼吸を聞いた。握っていた手もそのまま、あなたはしばらくのあいだ、そのままでいた。
 家に帰りついて家のなかを見わたしたとき、あなたは病人の死を見届けるために多くのものを殺したことを知った。食べられるものだった食品や、まっすぐ上に伸びてふくらんで葉をひろげていた緑や、ちいさな籠のなかで生きて動いていた動物が、一様に死んでいた。
 そうしてあなたは、わたしを見つけた。わたしは書斎にいた。書斎の机の、ひきだしのなかにいた。あなたが帰ってくるのを待っていた。
 あなたに宛てた、わたしは彼が書いた手紙だ。
 けれどあなたは、わたしの封を切ることはせず、ただわたしに手をおいて、表書きの字を、ただ、なぞっていた。


#12

うちまわり線

 どうぞ、という声を聞いて戸を引くと、彼はデパートの屋上で見かけるような小さい電車に乗って待っていたので、笑おうとした頬が固まってしまい、そのまま後ろ手に戸を閉めてからようやく「まだあったんだ」と口を開くと彼は「まあ乗れよ」と言った。
 彼の顔が真剣そのものだったからおとなしく従うことにして、おじゃまします、と言って靴を脱ぎ、五両編成のいちばん後ろにまたがった。電車はゆっくりと動き出し、僕は取っ手を軽くつかんだ。振動で耳がくすぐられるような感覚が、懐かしかった。
 廊下を通り茶の間に入ると、奥さんが頭を下げた。立ち上がろうとすると、いいんですよ、と僕を制した。
「いらっしゃい。ずいぶんごぶさたでしたね」
「ずっと九州のほうに赴任を」
 そうですか、という奥さんの声を背中で受けて次の部屋に移ると、まこと君が絵を描いていた。
「まこと、竹下さん」
「あ、メガネのおっちゃん」
「おひさしぶり」
「うん」
 手元の画用紙に目をやると、サッカーボールが描かれていた。サッカー好きなのか、と訊いたときにはもう部屋を出かかっていて、あんまり、と言うまこと君の姿は見えなくなっていた。
「ずいぶん大きくなったね」
「そりゃあ、子供にとっての二年間っていうのは、オレ達のとは、違うよ」
 二年経っても僕にとってまこと君はまこと君のままで、まこと君にとって僕はメガネのおっちゃんのままだけど、実際のところそのあいだには大きな隔たりがある。まこと君は背が伸びて、顔つきもいくぶんしっかりしてきた。僕にはきっと、分かりやすい変化はなにもない。
「こないだ、ふーちゃんの一周忌あったの」彼はポツリと言った。「やっぱねえ、そりゃあそうなんだけど、写真は同じなんだよ、一年前と」
 僕は黙って聞いていた。
「オレ昔さ、アイツ太ってるからって電車乗せなかったの。そしたらすごい泣いちゃってさ。オレ謝ったけど、もうアイツ乗ろうとはしなかった」
 反対側の廊下を通って玄関に戻ってきた。
「だから、電車を?」
「いや、ぜんぜん関係ないんだけど」
 また茶の間に入ると奥さんは腰をかがめ、僕にお茶を渡してくれた。ビール出しといて、と前を向いたまま彼は言った。
 次の部屋に入るとまこと君が駆け寄ってきて、電車のちょうど真ん中あたりにうまく腰をおろした。まこと君が体を揺らすと「動くな」という声が飛んできて、それでもまだ体を揺らすまこと君の小さな背中を見て、僕は笑った。


#13

彼女はおしゃべり

 彼女はおしゃべりで、僕は無口だから、たとえばこんな調子だ。
「だからさ、カエルの話ね。自転車こいでたら、いきなりカエル。びっくりでしょ? それも、でっかいの。あれたぶんウシガエルってやつ。見たことあるもん、テレビかなんかで。本かもしんない。あ、本だ本。図書館だよ、駅前の。あそこのおばさん、すっごいヤなヤツなんだ。こないだミキがね、ほらミキ、会ったことあるよね? あのミキが本かえしに行って、たった二日おくれなのに、なんかすごい怒られたって。それでサチが、そのときいっしょにいたんだけど、あのコすっごい短気なんだ。それでキレちゃって、十冊くらい借りて、もうかえさないとか言ってた。意味なくない? そんなの」
「うん」と、僕。「でもサチってだれ?」
「あ、知らない? サチ。ほら、こないだ文化祭で、なんかやってたじゃん。なんだっけ、棒ふりまわすやつ。で、そう、サチって、すっごい短気だから、昨日、三組の林、って一年とき同じクラスだったでしょ? あいつ階段で下からサチのパンツ見てたんだ。それで、気づいたのはミキだったんだけど、サチに教えたわけ。そしたら、サチって短気だから、キレちゃって、ウワバキ脱いで、林に投げたら顔にあたって、あいつ今日、眼帯してたでしょ? あれたぶん、サチのせいだよ」
「ああ、バトン部の」
「そうそう、バトン部のサチ。で、それはいいんだけど、カエルの話ね。昨日の夕方、雨ふってたでしょ? ミキから電話かかってきて、すぐこいって。それで、雨んなか傘さして自転車こいでたら、ミキんちの近くで、カエルがいたわけ。でっかくてキショいの。いきなり道路にいて、びっくりしてハンドルきったら、むこうから歩ってきてた人にぶつかって、その男のコ、傘ささっちゃったみたいで顔おさえてしゃがんでんの。ヤバって思ってソッコでミキんち着いたんだ。そしたら、ついさっき林がきて、サチのパンツ見てたんじゃなくてミキのこと見てたんだって言われて、それでコクられたって。ミキが林に。で、どうしようって相談されたんだけど、けっきょくオッケーするみたい。でも、かわいそうだよね、林の眼帯。サチあやまんないと」
「林の眼帯って、おまえのせいなんじゃないの?」
「ハア? なんでそうなるわけ」
「いや、なんとなく」
「なにそれ。ちゃんと話きいてる? カエルの話だよ。で、カエルってさ――」
 こんな調子だから、僕はいっそう無口になるのだ。


#14

奈々魚掘

「あははは」
 画面が男のアップに変わり、その白い光が電気を落とした部屋にぱっと散ると、奈々は笑った。
 何が面白いのか、僕には解らない。
 奈々はこの頃良く笑う。僕が面白いものでも笑うし、僕がくだらないと思ったものでも笑うし、おはよう、そう言われても、おはよう、良い天気ね、そう笑う。
「うふふふ」
 奈々は胸に抱えていた袋からポテトチップスをその細い指でつまみ、口へと運んだ。
 部屋には映画の音と、奈々の笑い声と、ポテトチップスを噛み砕く音が混ざり合っていた。僕はもう映画のストーリーを追うのは諦めていた。奈々と画面を交互に眺めていた。奈々は画面に夢中だ。そして笑う。ポテトチップスを咀嚼する。
 奈々と初めて会った頃、奈々は映画をこんな風に観なかった。教科書でも見るように真剣で、観た後は何かメモを取ったりしていた。何かを食べながら観るなんてしなかった。笑うことなんて滅多に無かった。
「幸せ、って何だろうね。あたし解らないや」
 あの頃、奈々はそんな事ばかり言っていた。
 今の奈々はそんな事は言わない。そしてポテトチップスを食べ、笑う。
 ドラッグだろうか。だがそれらしい様子は見られない。
「ねえ」
 奈々が突然話しかけてきた。
「何?」
「ドラッグでも始めたかな、とか思ってるでしょ」
 部屋が暗くなった。映画が夜のシーンに入ったのだ。美しい空だった。作り物特有の美しさだった。
「うふふふふ」
 奈々は笑った。そして笑いながらポテトチップスを、大きな音で咀嚼する。
「そんな音で食べてて、映画、解るのかい?」
「解るわ。笑いながら、ポテトチップス食べながら観ると昔の見方では解らなかった事が凄く解るわ」
 はっきりした声だった。中毒患者には出せない声だった。僕は安心した。そして同時に、不安になった。
「良く聞こえるの。こうやって声だとか音楽だとか余計な音を聞こえないようにして観ると、良く聞こえるの」
「何がだい」
「皆が死にたい死にたい、って言ってるのが良く聞こえるの。皆あたしと同じなのね。だから嬉しくて」
 部屋が明るくなった。何のシーンかは良く解らなかった。奈々は笑った。
「映画はこう観るのが正しいのね。あたしずっと知らなかったわ」
 そう言って奈々は、ポテトチップスの粉にまみれた指を舐めた。


 奈々はその後作詞家になり、人気を得た。
 幸せ。彼女の作品にはその単語が、アンディ・ウォーホルの絵みたいに沢山張り付けられている。


編集: 短編