第282期 #2

星の記憶

 ハンディカメラのレンズ越しに、祝福の情景が映る。白いドレスに身を包んだ新婦、緊張した面持ちの新郎。スクリーンには、いま、撮影されている世界がそのまま映っている。披露宴会場の円卓では、笑顔の観客たちがグラスを傾け、思い思いに話している。時折、冗談を投げて、新婚の二人は照れたように笑う。カメラを持つ人物が問いかける。
「三つの大切なことは何ですか?」
 若い花嫁はお腹に手をそえる。膨らんだお腹を撫でながら、言葉を探る。音声は聞き取れず、 口元だけが動いている。

 ノイズが入り画面が乱れる。光が戻り、カメラがズームした先にいたのは、大人になった娘だ。彼女もまた純白のドレスに身を包み、同じ場所で結婚式を迎えている。会場のライトが花嫁の横顔を照らす。母と似た仕草でお腹に手を置く。映像の中の母が語った「三つの言葉」が、記憶から浮かび上がる。彼女はそっと目を閉じる。あの声が、残響となって胸に響いている。

 やわらかな風がそよぐ。小春日和の空の下、娘と子どもたちが遊んでいるのは、かつて母と娘が通った古い教会だ。木造の廊下が軋み、埃をかぶったパイプオルガンが放置されている。壁のひび割れからは、湿った黴の匂いが漂う。小さな影と無垢な笑い声が、こだまのように廊下を抜けていく。

 この建物は、母が若い頃に熱心に通い、仲間と歌い、夕暮れの赤い残光の中で何度も泣き笑った場所だった。老朽化のため、まもなく取り壊されることが決まっている。

 娘は窓辺に立ち、走り回る姿を見つめながら、静かにつぶやく。
「ここで、ママも遊んだのよ」
 子どもたちが一斉に振り返り、微笑む。娘は何か言いかけたが、喉がつまって声にならなかった。表情が次第に虚ろに変わっていく。

 風景が揺らぐ。教会の壁や、廊下を駆ける影、窓辺に立つ娘、かつての仲間たちの笑い声、賛美歌、牧師の祈りの言葉、幼い声が混ざり合い、砂のように崩れ落ちてゆく。

 それは、母の記憶の断片だった。

 病室のベッドで、老婆は目を閉じている。娘は節の浮いた指でその手を包む。若者たちが不安そうに、二人を覗きこんでいる。痩せた胸が大きく上下し、最後に止まる。掌の中で、母の手は急速に温もりを失い、固くなってゆく。

 その瞬間、夜空に一つの星が瞬く。宇宙の深淵で、記憶の粒がたゆたい、やがてブラックホールに吸い込まれていく。その微光は、誰かの中で今も輝いている。



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