第275期 #2
ドサッ
棚の上のものが落ちた。ここ数日、地震が続いている。
今日は不気味なほど静かだ。平日の昼過ぎの時間、閑静な住宅街では人気がない。空は澄みきっている。私はゴーストタウンになった小高い丘を歩く。
右側に急勾配の坂がある。垂直に近い。周囲を確認する。誰もいない。よし!息を整える。全速力で下る。身体のバランスを保つ、スリル。新記録樹立である。ほくそ笑む。
降りた先に小さな中華屋がある。以前から興味があった。赤いのれんが目を引く。躊躇していたが、記念に入ろう。
散歩で汚れた足を玄関マットでふく。店内は簡素でカウンターと椅子が数席。この時間帯は客はおらず、ガランとしている。床が油まみれであまり清潔とは言えない。
だが、厨房から食欲をそそる強烈な匂いがする。何を頼もうか。気持ちが抑えきれない。
ラーメンは醤油もいいが味噌もいい、コーンやもやしひき肉たっぷりにバターをのせて。シンプルな醤油にチャーシューもいい、その場合は肉汁あふれる餃子か、えびと卵のチャーハンを頼みたい。
カウンターにも厨房にも誰もいない。
「すみませーん」
大声で呼ぶが応答がない。
準備中だったのか? しかし、営業中と看板にあった。店主は何か買いに行ったのかもしれない。先ほどの挑戦で空腹は極限に達している。ひどく腹立たしかったが、次回の楽しみとしよう。店を出ようと踵を返す。
ん? 動かない。先ほどの疲労のせいか、足が重くおぼつかない。ぬかるみのようだ。――いや、油だ。
床に広がるそれが、足元を絡めとっていた。強粘着の、溶けた飴のようなもの。ふくらはぎまでべっとりと纏わりつき、もがけばもがくほどに、深みに嵌り、完全に動きを封じられた。何たることだ。
外から子供の悲鳴と甲高い叫び声がきこえる。
「お母さん、一匹かかってる」
巨大な眼球達が窓をギョロリと取り囲む。
そうだ、私はゴキブリだった…。
台所に垂直に仕掛けられたゴキブリホイホイにかかった一匹。幼児と母親はしばらくの間、それを覗きこんだ。怖い、気持ち悪い、パパにも見せたいなど、会話をしながら。
カーテンがゆらぐ。親子の部屋の窓から巨大な目が覗き込んでいるとも知らないで。
上空から声がする。
「イツマデ、ミテル。カンサツ、オワリ」
「モウスコシ」
透明な手がぬっと現れ、親子の入った箱を揺らす。何度も。地面が震えた。
「ママ、また地震。怖い」
ア、コガナイタ。