第275期 #3

「野球帽」

上野駅。
京浜東北線から地下鉄浅草線へと乗り換えるあの通路の途中。
ガード下のガードレール際に、小さなホームレスのおばあさんが、いつからか座っていた。

小柄で、野球帽をかぶっていた。
その帽子が妙に似合っていて、どこか愛嬌のある顔立ちが、記憶に残っている。

通勤のたびに彼女の前を通り過ぎる。
気づけば私は、彼女の姿を目で探すようになっていた。

「何かしてあげたい」と思いながらも、私はなかなか動き出せなかった。
一度だけ何かを渡して、それで終わってしまうなら、それはただの自己満足ではないか。
継続的に助けることができないのなら、中途半端な善意は迷惑になるのではないか。
そんなふうに考えては、何もせずに通り過ぎる日々が続いた。

そして、あの冬いちばんの寒さがやってきた日——。

地下道には、段ボールと毛布にくるまった多くの人たちが、肩を寄せ合って寒さをしのいでいた。
その光景に胸を突かれた私は、ようやく動いた。
コンビニで温かい飲み物と使い捨てカイロを、できるだけたくさん買い込んだ。

地下道を歩きながら、ひとりずつに手渡して回った。

野球帽のおばあさんは、眠っていた。
私はそっと声をかけ、起こして、飲み物とカイロを差し出した。

そのとき——
おばあさんは、ふっと笑った。
ほんの一瞬、雪が舞うような、小さな笑顔だった。

それが、私が彼女を見た最後だった。
その後、どれだけ上野を通っても、もうあの場所に野球帽の姿はなかった。

あの笑顔が、ほんの少しでも温かさや安心につながっていたのなら——
それで十分だと思えるようになった。

誰かを思う気持ちが生まれること。
それはきっと、年齢に関係なく、自分の中にある“生きている実感”を確かめる行為なのだろう。

「何かできるかもしれない」と思えたあの日の気持ちは、
今も私の中に、そっと残っている。

それは、あの野球帽の下で微笑んだ、ひとりの小さなおばあさんが、
私の人生にそっと残していった、忘れられない贈りものだった。



Copyright © 2025 飯島和男 / 編集: 短編