第26期 #17

 ぱんと乾いた音がして、液体が両手を滑り降りていった。周囲の人の視線が一斉に自分に向けられたのを感じながらも、私は体を動かせずにいた。
 視界の端、足下に水たまりができているのに気付き、ようやく半歩後ずさった。
 まずいことになった。口の中が急速に乾いていくのがわかった。水を飲みたいと思ったが、飲んでいいものかどうか、他にするべきことがあるのではないか、判断が下せずにいた。
 ただ突っ立ったまま十秒ほどが経過したように思われた。長い十秒だったから、実は二十秒だったのかもしれない。五秒を長く感じて十秒だと思ったのかもしれない。しかし三十秒は経っていないはずだった。
 中年女性が駆け寄ってきて、私にポケットティッシュを差し出した。受け取ろうと右手を差し出すと、無言のまま押し付けられた。
「どうも」
 と礼を言ってみると、女性は既に身を翻して私から離れていた。素早かった。
 負けじと素早く周囲を窺うと、もう私に興味を示している人はいないようだった。よく見ると半分以上使用済みのポケットティッシュを二組取り出して、手を拭いた。それから炭酸水のボトルを拭いた。
 程なく電車が到着し、ホームに列を成していた人々が座席を分け合った。そこでようやく炭酸水を一口飲んで、喉を潤した。
 目を閉じた。考えた。新鮮な、茫然自失の感覚を、あのままもう少し味わっていたかった。この年になって炭酸飲料を溢れさせるとは思わなかったが、不思議と恥ずかしくはなかった。
 振ったら中身が飛び出した。階段を上り下りしている間に、随分振ってしまったのだろう。何食わぬ顔をしていた人たちも、少なからず驚きを持って再確認したのではないだろうか。振ったら飛び出す、と。
 電車に揺られてまどろみながらも、小さな不安が胸に巣食って離れなかった。次に炭酸水を飲むときに、またやってしまうのではないだろうか。またやってしまったときに、すぐに誰かがティッシュを持ってきてしまうのではないだろうか。
 家で飲めば済むだけの話だが、それでは話が上手く落ちないので、私はその日以来、未だに炭酸水を飲めずにいる。貴方がこの話を読み終えてくれれば、安心して飲めることになっている。



Copyright © 2004 戦場ガ原蛇足ノ助 / 編集: 短編